カレーうどんの限界を考える
カレーうどんの限界を決めつけている自分がいるんですよね。
以前、カレーうどんの専門店に行きまして、専門店っていうからには革新的なカレーうどんだのだろうと胸を躍らせて口にしたんですが、
やっぱね、それはあくまでもカレーうどんの息を出てこないんですよ。 期待値を超えないレベルでの美味しさで、私はねカレーうどんの美味しさに限界、
最大値があるんだって、その時に判断してしまったんですね。 これは当然僕の感受性の問題ですから、きっとこの世の中にはね、驚くほど美味しいカレーうどんが存在するんだとは思うんですけど、
今の私ではそんな素敵なカレーうどんを食べたとしても、やっぱりカレーうどんの美味しさには限界があるなって、ネガティブなフィルターを通してしまって素直に美味しさを感じ取れない気がしてるんです。
仮にね、そのフィルターみたいなものを上回る本当に美味しいものに出会ったとしても、いやこれはもはやカレーうどんではないって、違う名前で呼ぶべきだって、カレーうどんの味の最大値の方を守るために名前の方を追い出してやるっていう、そんな覚悟すらあるんですよ。
こんな感じで僕はいくつかの食べ物に、最高に美味しいものでもこれぐらいだろうっていう、いわば美味し最大値を決めつけてしまっているんですね。
最近流行っているっていうリンゴ飴専門店も同じで、僕の中のリンゴ飴はお祭りの屋台にある歯にくっついてベタベタして粗悪なリンゴが中から出てくるものだと決めつけているわけです。
リンゴ飴専門店だろうと、きっと感動するほどの美味しさはない。仮にとてつもなく完成度の高いリンゴ飴だったとしても、僕はそれをリンゴ飴と呼びません。
タルトタタンスティックとか、カンロベニカジツとか、別の名前を与えて認知の変化の方を拒んじゃう。
リンゴ飴の最大値を更新するぐらいなら、カテゴリーごと切り離しちゃおうみたいな。その方がね、自分を否定せずに済むからですよね。
こうやって僕は無意識のうちにレッテルを貼って、そのレッテルから逸脱したものを許さない節がある。
これはね、食べ物に限りません。 例えば英語の先生は性療で生徒を威圧するものだと決めつけていますし、
アンクレットをつけている男性は殴り合いの経験が一度はあるし、マルチーズの飼い主は助手席で犬を抱っこするものだと、
すべては偏見なんですけど、この短絡的な認知の仕方って、ちょっと恥ずかしいんですけど、心地いいじゃないですか。
世界を容易に分かった気にさせてくれるというか。 こうしてね、屋敷に流れて分かった気になった34歳腰痛持ち田山が見ている世界は、
認知の更新とレッテル
果たして豊かであると言えるのでしょうか。 ここに問題意識がやっぱあったんで、最近僕が行っている意識改革みたいなものがあって、
それがレッテルとレッテルを戦わせることなんですよ。 無印良品で日記帳を買う人って人を殴ったことがないじゃないですか。
この決めつけ、この決めつけを基準にしたときに、じゃあその無印良品で日記帳を買う人が足にアンクレットをつけていたら、
果たして人を殴っているのだろうか。 このレッテルの反証みたいなものをレッテルで作り出すわけです。
身長190センチを超えている人は声が小さいじゃないですか。 その人が英語の教師だったら、果たして声量で
生徒を威圧するのだろうか。 横を飼い上げている女性って犬を必ずゲージに入れるじゃないですか。
だったらその人がマルチーズを飼っていたら、助手席で犬を抱っこするのか。 偏見に別の偏見をぶつけると偏見が一つ減るわけですよ。
そしたら自分の判断がいかに乏しいものだったかっていうのを、そこで再確認できる。 本当だったらそのレッテルを取り払うっていうのが一番いいんですけど、
なかなかねそこまでね自分に厳しくなれないんで、だったらもう 今自分が使っているこの偏見を使って偏見を打ち破る。
この方がいくらか豊かになれるんじゃないかなって思うんですよ。 だからこれでね話を食べ物に戻すと、そもそも僕のカレーうどんに限界を見た原因って
専門店に対してレッテルを貼ってしまっていたからだと思うんです。 専門店だからカレーうどんの最大値が出るだろう。
そういうレッテルが僕の見識を狭くしてしまっていた。 ならば専門店というレッテル以上のレッテルをカレーうどんの方に貼ってやればいいわけです。
だからネパールカレーの賢者と言われる人物が杉田市60年で熟成させたルーに 北海道産の野菜をカリッカリに揚げてトッピングして香川生まれ香川育ち
元香川県知事の店主が毎朝2時から仕込みを行ううどんが合わさったカレーうどん。 これだったら僕の最大値を超えても異論はないわけです。
同じようにリンゴ飴の方も別のレッテルを貼ってやればいいわけです。 幼少期にリンゴ飴の可能性を見出した店主がね、農家と直接交渉しリンゴ飴に
ふさわしいリンゴを自分子供孫と3世代にわたって研究しつくして リンゴ飴だけに使われるリンゴ
カンロベニ果実を完成させてそれを使ってイタリアの飴剤コンテスト準優勝者 飴の作るさんと協力して仕上げたリンゴ飴
これはもうリンゴ飴ではありますけども一つの芸術作品であってそこにね 僕の
乏しい過去の経験で最大値を決めてしまうことそれ自体が部水だと思っちゃいますよね そうなると僕もリンゴ飴の最大値ってものを取り払うことができるわけです
レッテルって思考を楽にしてくれてその便利さから完全に逃れることは難しいじゃない ですか
でもレッテルにレッテルを戦わせて自分の認知の解像度を少しずつ更新していくことで 行動や感じ方を必要以上に縛らずに済むのではないかとそう思うんですね
味の最大値を決めてしまう自分も偏見だらけの自分も 否定するんじゃなくて疑い続けるまあそれぐらいの距離感で生きていきたいですよね
まあ以上今日も相変わらず変な話でしたが空いた時間は常に変なことを考えているという 生活を物心ついた時から続けている虹の乳田山でしたありがとうございました