AIと随筆の関係
さて今回、私たちが掘り下げるのは、AIは随筆、まあエッセイですね、これを書けるのか、という問いです。
はい。
これ、文芸評論家の宮崎智之さんの、AIに小説は書けても随筆は書けない、身体が必要だから、っていう指摘がきっかけなんですよね。
ええ。
これについて、小嶋裕一さんの考察記事なんかも参考にしながら、AI時代の随筆ってどうなるのか、あなたと考えていきたいなと思ってます。
うーん、これはなかなか本質的な問いですよね。単に技術的にできるかできないかっていう話だけじゃなくて、
と言いますと?
つまり随筆ってそもそも何なのだろうとか、文章における体験ってどれだけ重みがあるんだろうとか、そういうかなりこう、人間そのものに関わるテーマにつながってくると思うんです。
なるほど。
お預かりした資料をもとに、この論点の面白さ、深さを探っていきましょうか。
お願いします。
まず、その宮崎さんの主張の根っこにある部分ですけど、食のエッセイは食べられないAIには書けない。これはなんかすごく直感的でわかりやすいですよね。
そうですね。五感とか身体の感覚がないAIにその微妙なニュアンスが書けるのかっていう。
でも一方で、資料にはAIにどら焼きの図筆を書かせたっていう例も紹介されてましたね。
ええ、ありましたね。文章自体はまあそれっぽく生成はできるわけです。
ふむふむ。
そうなると問題は技術的に書けるか書けないかっていうよりは、その出来上がったものを我々が随筆として認めるかどうか。そういう定義の問題になってくるんじゃないかと。
ああ、定義ですか。辞書を引くと随筆って自分が見聞きしたこと、体験したこと、感じたことを自由な形式で書いたものってありますね。
そうですね。
だとすると厳密に考えれば体験できないAIが書いたものは随筆じゃないってことになりますよね。
ええ、理屈上はそうなります。じゃあ小説はどうなんだっていう話ですけど。
小説。
こっちは作者の構想に基づくフィクション、虚構だと定義されることが多いですよね。
はい。
そうすると、AIに指示を出す人間の意図、構想だと考えれば、AIが書いたものでも小説とは言えるんじゃないかと、クダン・リエイさんの受賞作の話もありましたし。
ああ、ありましたね。
つまり宮崎さんの論点っていうのは技術がどうこうっていうより、体験っていうものをそのジャンルの定義の中心に置くかどうか、そこの違いを指摘してるんじゃないかなと。
なるほどなるほど。定義の問題が鍵になってくると。
ええ。
じゃあ実際に人間が書いた随筆とAIが書いた随筆っぽい文章、これって読んだときに違いはわかるもんなんでしょうかね。
そこ気になりますよね。
ええ。
筑波大学附属駒場中校で行われた岡野原大輔さんの研究がまさにそこを調べてるんですよね。
非常に興味深い実験でした。
生徒さんたちに3つのパターンでエッセイを書いてもらった。
3パターン?
1、AIだけで書く。2、AIのサポートを受けながら書く。3、AIを全く使わないで書く。この3つです。
で、誰がどうやって書いたかは伏せて、どれがいいエッセイか投票してもらったんですね。
結果はどうだったんですか?
結果はですね、3のAIを使わないで書いたエッセイが、もう圧倒的に評価が高かったんです。
へえ。圧倒的にですか。それは何なんでしょう?AIも結構自然な文章を書くって聞きますけど。
ええ。岡野原さんの分析によれば、AIっていうのは膨大なデータから学習するから、どうしても平均的で最大公約数的な体験を容赦しがちだということらしいんです。
平均的ですか?
はい。一方で、読者が面白いとか心に残るって感じるのは、共感できるんだけど、でもどこか自分とは違う、書き手ならではのその人と固有の生の体験。その絶妙なバランス感覚、さじ加減がAIにはまだ難しいんじゃないかと。
なるほどな。でも、平均的だからこそ、より多くの人にわかるわかるって共感される可能性もあるんじゃないですか?必ずしもユニークさだけが随筆の価値でもないような気もしますが。
ああ、それは鋭いですね。確かに共感の広さっていうのも大事な価値の一つです。
ええ。
ただ、少なくともこの実験の結果としては、面白いとか心に残るって評価されたのは、平均的じゃないその書き手の個性みたいなものが光る作品だったということなんでしょうね。
人間とAIの境界
ふむ。
とはいえ、AIが書いたものが良いと評価されたケースもゼロではなかったんですよね。
そうなんですね。ということは、これからAIの性能がもっと上がったり、指示の出し方が上手くなったりすれば、将来的には人間が書いたものとの区別がつかなくなるなんて可能性もあるわけですか?
うーん、その可能性は否定できないでしょうね。
さらに言えば、人間が書く随筆だって100%事実そのものかっていうと、そうとも限らないじゃないですか。
まあ、確かに。
ちょっと面白くするために話を持ったり、記憶違いがあったり、あるいは意図的に脚色したりすることだってあるかもしれませんよね。
ありますね、きっと。自分が書くときだって、ここはちょっと表現を工夫してなんてことはありますもんね。
ですよね。
そうなってくると、AIとの境界線ってますます曖昧になってきますね。
まさにそこがポイントだと思うんです。随筆の定義自体が、実は思っているほどガチガチに固まったものじゃないのかもしれない。
うーん。
そうなると、結局問われるのは、人間が自分の体験をもとにして書いたと、まあされていることそのものに私たち読み手がどれだけの価値を感じるのかっていうそういう話になってくる気がします。
なるほどな。AIがどんなにうまな食レポを書いたとしても、実際に味わったわけじゃない。その事実に私たちが価値を見出すかどうか。
もし人間が書いたこと自体に特別な価値を見出すのであれば、随筆っていうのはある意味人間が書く最後の砦みたいになるのかもしれない。
最後の砦。
ただ本当に人間が書いたのかどうかっていう判別は、これからますます難しくなっていくでしょうけどね。
そうですよね。結局AIは随筆を書けるのかという問い。技術的にはそれっぽい文章は書けると。
ええ。
でもそれが本当に体験を経た随筆と呼べるのかどうかは、まず随筆をどう定義するか、そして私たち読み手が何を大切にするか次第っていうことになりそうですね。
そうですね。AIの文章作成能力はきっとこれからもどんどん上がっていくでしょう。
ええ。
その時、私たちは文章の向こう側に何というか、人間の生き遣いみたいなものを探し続けるんでしょうか。
それとも、もう作者が人間かAIかなんて関係なく、純粋にテキストの質だけで評価するようになるんでしょうか。
あなたはどうでしょう。目の前にあるすごく心を打つ随筆が、もしかしたらAIによって作られたものかもしれない。そう知った上で読んだらどう感じますか。それでも感動は変わらないでしょうか。
うーん。
それとも、誰が書いたかなんてことは、もうこれからの時代重要じゃなくなっていくと思いますか。この問い、ぜひ少し立ち止まって考えてみると面白いかもしれませんね。