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  2. #2-69 ヨソはヨソ!ウチはウチ..
2025-06-02 1:42:31

#2-69 ヨソはヨソ!ウチはウチ!こちとら専業主夫でぇい!!【ゲスト:一般社団法人ノースコミューンTOKYO 代表理事/専業主夫 佐久間修一】

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イクメンなんて言葉が生まれるより遥か昔。

新聞配達少年からIT業界の最先端に登り詰めた男がいた。


義父からの虐待、15歳での独り立ち、特待生での高校進学、大学中退、劇団立ち上げ、起業、IT業界への転身ーー


そして、まさかの難病発覚からの専業主夫へ。

修一さんの壮絶な人生をぜひ、お聴きください。


ゲスト:佐久間修一さん

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サマリー

今回のエピソードでは、佐久間修一さんが専業主夫としての経験や、サルコイドーシスという病気について話しています。家庭と仕事のバランスや性別による役割に関する多様な視点を提供しています。このエピソードでは、佐久間さんが専業主夫としての経験やSEエンジニアとしての職業生活について掘り下げ、特にシステム開発の過程や国との関わりについてお話しします。また、彼の独特なバックグラウンドや家庭環境から得た教訓も語られています。さらに、佐久間さんは自身の育ち方や家庭環境の影響についても触れています。家族の関係やシングルマザーと子どもに関する問題、演劇活動を通じた挫折から成功へ至る転機についてもお話しします。彼は自身の経験を通じて、収入の減少や就職活動の困難さについても語ります。結婚を機にフリーランスになった経緯や、病気を乗り越えた後の家庭生活についても触れています。エピソードでは、佐久間さんが自身の生活や家族との関係について話し、特に妻のグラフィックデザイナーとしての成功にも言及します。彼は「主婦」という概念とその中での役割の変化を通じて、男女の働き方や家庭のあり方についての思考を深めています。また、金髪にした理由や、パートナーとの関係がどのように変化したかについても話しています。そして、病気や妊娠出産のプロセスに関する理解を深めながら、家庭での育児に対する自身の取り組みについても触れています。佐久間さんは自身の育児の経験についても語り、父親としての役割やロールモデルの重要性について考察します。さらに、子育てにおける情報収集や無痛分娩の希望についても触れ、実際の出産体験や子どもの発達についての問題に言及します。ポッドキャストでは、息子との関係や子育てについてのエピソードもあり、特に怠け病と呼ばれる障害や家族内のルールについての意識を語り、理解を深めています。佐久間さんは専業主夫としての生活や夫婦関係の悩みについて、体験談を交えてお話ししています。

佐久間さんの紹介
こんにちは、夫婦関係学ラジオパーソナリティのアツです。このポッドキャストでは、様々な夫婦の家庭をサーバイブするためのナレッジをお伝えしております。
今回は佐久間修一さんにゲストにお越しいただいております。修一さん、よろしくお願いします。はい、よろしくお願いします。修一ちゃんです。
簡単な自己紹介を僕の方からさせていただくと、一般社団法人ノースコミューンTOKYO代表理事、秘密結社主婦の友総務部長、NPO法人ファザリングジャパン会員となります。よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。修一さんから修ちゃんと呼んでほしいと言われたんですけど、僕が目上の方にちゃんづけすることがどうしてもできなくて、修一さんと呼ばせていただきますので、修一さんか修さんかお願いします。
大丈夫です。慣れれば大丈夫です。
今回ちょっとお話聞きたいなと思ったのが、この間ジョージさんのお話をお聞きしたんですけど、杉山ジョージさんで聞いていただいたと思うんですけど、ジョージさん、県教主婦法曹作家という肩書きでやられていて、すごく珍しいなと思って、
しかも始めたのが、育免とかいう言葉が出る前の時代から。
うん、そうだね。
ですよね。
ですよね。
なんで、すごい先駆けだなと思って、なんか面白い方いますか?って聞いたら、いますよって。修ちゃんですって。誰?って思ったんですけど。
僕とジョージさんの関係だから、そういうのもあるんですけど、まあまあ面白いっていうふうに言われる、定義されるパターンなので。
それこそ他の、いわゆる僕がよく主婦っていう時には、大体主に夫だと思ってほしいんですね。
僕が主婦、女性の主婦の場合は女性の主婦っていうふうに言って、僕が主婦って言ってしまう時には大体夫の方の字を思い浮かべてほしいんですけど、
まあ、主婦のメンバー、仲間だとか知ってる人間たちも、基本面白い人っていう定義で持っていかれちゃうんで。
そういう幕府に入れられちゃうんですね。
まあ、珍獣。
見た目が、さっきもおっしゃってましたけど、YouTubeやんないのとか言われるファンキーなバンドバンじゃないのかって思ったんですけど。
そういうわけじゃないですか。
いや、バンドバンではないですね。
僕には、まあ昔、実はジョージさんと話が合うところの一つに、実は演劇があって。
ああ、そっか。そこで話し合ったんですね。
いや、知り合ったわけじゃなくて、彼とはもう年齢全然差があるから。
僕のが古い、古いっていうか。
僕は演劇が、いわゆる第三世代って言われた演劇をやっていた時代。
演劇、小演劇ブームってやつですね。
あったんですね。
今だったら、名前知ってる人は知ってるかもしれないけど、夢の有名者とか、スーパーエクセレントシアターとか。
何年頃ですか?
第三部隊とか。
80年代?
80年代ですね。80年代後半から90年代の頭くらい。
なるほど、なるほど。
じゃあ、ちょっとその辺の時代お二人からお話聞いていきたいんですけど。
そっか、聞くわ。
あれ、秀吉さんは今、いくつですか?
僕は今、58です。
58。
で、専業主婦にならえたのが、いつ頃?
えっと、1998年。
1998年。
それはどういったきっかけで専業主婦になったんですか?
えっと、30歳、1998年って30歳になった年なんですけど。
30歳、30歳を超えたあたりかな。
僕、1967年生まれなので、30歳になるということなんですけど。
結婚をするっていう、今のパートナーと結婚するっていうのにあたって。
その年の6月に結婚をしたんですね。
で、6月に結婚した時に、僕は実はシステムエンジニアという仕事をしていて。
最先端ですね、当時。
98年って、Windows 98出た?
95。
98はもうちょっと後になるかな。
僕は。
インターネット始まったっていうか、広まり始めるかなみたいな。
もっと言っちゃうと、富士通でニフティサーブっていうのが、
あれにもちょっと絡んでたりとかするぐらいの仕事をしていて。
最先端ですね。
最先端、そうですね。
要はまだパソコン通信、パソ通っていう時代から、
僕がシステムエンジニアで仕事してた時にはまだWindows 95が出る出ないの直期で、
まだDOSVとか。
聞いたことあるような。
そうそう、そのレベルでした。
たぶん中学生だったでしょうね。
そう、だから、言語もだからいろいろだったりとかする。
まあ、そういうわけに。
システムエンジニアとしてはまだ関係って。
仕事をしていた時に、結婚をするって言った時に、
その会社の方で、実は管理職に上がれって言われていて。
昇進ですね。
まあ昇進と言えば昇進かな。
ちょうど管理職から上がるから、
人間ドックに入ってくれと。
管理職になりにあたって、ちょっと身体。
体調とか見とれてくれって話になって、
会社側が人間ドックに行ってくれって言ったから、
人間ドックに入ったら、ちょっと血液が汚れてるって言われて。
気になる言葉ですね。
で、一緒に言わせると、お前は女遊びしてるのかって言われて、
は?とか思って。
要は性病を疑われた。
最初に本当に。
実際はそんなこと言うんですね。
いや、本当に。
で、遊んでるって言っても、彼女いるしみたいな。
付き合いも結婚する相手がいるし。
こっちこっちやってないぞと。
まあでもその昔はわからんけど、
ゴニョゴニョって感じになっちゃって。
でもそっかって言われてよかったんで。
で、それこそ紹介状出すからって言われて。
行ったのがもう整路化病院ってでかいところで。
いきなりそんなところに紹介されるんだ。
何の検査で行ったんですか?
だから血液の検査。
血液の精密検査みたいな。
そうですそうです。血液の検査っていう形で行ったんですけど。
その頃から実はあの、僕、肺が痛くてしょうがなかったんですね。
その当時は僕はヘビースモーカーというかチェーンスモーカーで、
1日1個箱くらい捨てたので、
つけちゃって消して、それつけながら仕事するとか。
今では考えられないんですけど、
会社で、それこそオフィスの中で、
肺皿が手元にあって、
タバコ捨てるっていう時代ですから。
でも肺痛いなーって思っていて、
肺なのか胸なのかみたいな感じ。
で、病院に検査しに行って、
検査入院で肺の一部を腕で取るっていう、
とんでもないことをやられたんですけど、痛くてしょうがなかったんですけど。
で、こういう検査をして行っている時に、
どうやら性病じゃなくて、
ちょっとわからないけど、少なくとも肺がやられてるって話。
で、そのあたりからですね。
で、そのあたりから急激に僕体調をグーッと悪くするんですね。
結果は何だったんですか?
それがですね、その時に出ないんですよ。
そうなんですね。時間が。
いわゆるどっちどっち言われるんですけど、
初見がないっていう状態ですね。
いろんな病気が確定するのに、
それこそいろんな検査をしなきゃいけなくて、
っていうところがあって、その中の一環で肺に行っただけなんです。
血液がどうやらよくない。
この数字だとこうだっていうので、調べて、
で、僕胸痛くて肺痛いんですって。
で、そしたら避難所検査なんか取った時に、
ちょっと肺真ん中、下の方がどう思うっていう感じだったらしくて、
で、それで検査して。
だから実際今も肺の一部はエシしてるんですけど、
っていう状態なんですけど。
で、それで病院行ってたるうちに、
病院行ってるからだと思ってたんですけどね、
だんだんだんだん自分の体調がーっと悪くなって悪化してっていって、
3ヶ月もしないうち、結婚して3ヶ月もしないうちに、
もう仕事ができなくなる。
というか、通勤ができない。
もう体が動かない。
っていうよりは、
先に言っちゃいましょう。
僕の病気自体は、
サルコイドーシスっていう病気。
サルコイドーシス。
サルコイドーシス。
カタカナで全部なんですけど、
僕は医者じゃないんで、
疾患の内容について詳しく説明できないんですけど、
人に説明するだけでは、
目と肺と皮膚と心臓と脊髄に、
何らかの障害が出る免疫の病気っていう風に伝えてます。
病気の体験とその影響
どっかしらに出るっていうことですか?
どこに出るかはわからない。
だから、目に出たら目サルコ、
肺に出たら肺サルコ、
皮膚に出たら皮膚サルコって言ったりするの。
先生方がそうおっしゃるくらいの。
症状ってどういう症状が出るんですか?
これもまた、その人によって症状はわからない。
出方がわからないんです。
心臓に出たら、ペースメーカーを入れなきゃいけないんじゃないかっていう話も聞くし、
脊髄に出たら、寝たきりになるというか。
かなり深刻な病気ですね。
そうです。だからそこまで深刻な病気にもなるんだけど、
これもまた不思議なもので、
疾患は10万人だか20万人に1人くらいになるらしいんですけど、
ほとんどの人は自覚症状なく治る。
治っちゃうんですか?
治るというよりは、消える。
へー、そんな何か世にも奇妙な病気ですね。
そうなんです。
だから結局、お医者さん側も、僕がだからサルコイドウイスだろうな、
結局、いろいろ調べるとサルコイドウイスにたどり着くんですけど、
たどり着くまでにすごい時間がかかる。
その間に出たのが目がまず、肺はそういう状態です。
次僕目が出て、目が夜とか特に車のライトが目に入ると痛いんです。
たまにそういう方いらっしゃるかもしれないですけど、
痛いっていうのは、もう針を刺すように痛いんです。
でも夜特に、だからライトとかはダメだったりして、
時々目も痛い。何にもなくてもですね。
今もだから、たまに朝とかいい天気の日に、
家から外に出ると、ああ、痛い。
今でもあるんですね。
痛いというか、こう、うーんってなるくらいですし、
あと、県庁に出て厳しかったのは皮膚ですね。
皮膚は、体が温まると全身に痛みが走る。
え、それめちゃくちゃ痛そうですね。
いや、もうなんだか分からない。もうすごく痛いんです。
だから、今先ほど言ったとおり、
9月くらいにもう症状が出始めていたっていうのは、
それが始まったんですけど、
僕、真冬の12月に家の中でパンツ一丁です。
服を着れないから、着たら痛くなるからですか?
お味噌汁飲んだとしても、
お風呂でシャワーを浴びたとしても、出るんです。
ちょっとでもあったかくしたらダメ?
ダメなんです。
じゃあ、パンツ一丁で体冷やしとかないとダメっていう。
でも出る。出るときは、敷きっぱなしにしていた布団の上でのた打ち回る。
体を冷やすっていうことをやるから。
とんでもなく辛いですね。
とんでもなかったですね。
それはずっと今の妻っていうか、前の妻ですけど。
離婚されてるんですか?
いやいや、離婚はしてないです。
前の奥さん?
いやいや、僕は今の妻。
当時の妻ですね。
びっくりした。
でも、それこそ妻のほうもそれをずっと見てるんで、
もうちょっとでもそういうことがあるとダメなんで。
仕事にならないですね、確かに。
通勤どころじゃないですね。
だから、通勤で電車に乗るともう一駅も乗れないんですよ。
当時亀井戸ってところに住んでたんですけど、総武線で吉祥寺まで通勤してたんですけど、
もう全部一駅ごと降りて。
よく行きましたね、会社までその状況で。
いや、だから僕らの世代って、男は仕事、女は家庭っていうのがまだこびりついてる時代ですから、
男が仕事をしないなんてありえないわけですよ。
専業主夫とSEの生活
でも体、ちょっとでも温かいと体痛くなるわけですよね。
そうです。でも僕らシステムエンジニアのSEの皆さんに、
今のSEの人たちに失礼かもしれないんですけど、
僕らの時代のSEは体壊してなんぼだったんで。
そういう世界線だったんですか。
それこそ異海洋とか自慢してましたからね。
ちょっと異海洋でさ、2ヶ月くらい入院してくるわみたいな。
自慢になっちゃうんですね。
すごい世界なんですね。
病気の一つや二つはそれもんだみたいな。おかしいですよね。
今考えるとおかしいです。
でも僕らはそういう世代で生きてきて。
秀吉さんでも実際その体中に痛みが走りながら電車に乗って、
死に損ないながら職場に行くじゃないですか。
俺、ハイサルコなんだよねとか言ってたんですか。
いや、だからなんか病気。
サルコ移動室っていう、死んだら食らってないから。
なんだかわかんないけどちょっとおかしいんだよね。
だからちょっとタバコ吸って吐いてからさ、
多分ああいう感じじゃねとか、けらけら笑いながらしてましたね。
自慢するじゃないですけど、
なんだろう、そんだけ俺体張ってんだよねっていうアピールというか、
っていうのがあったんですね、秀吉さんには。
だけど秘婦に出た時にもうこれはダメだと思って、
仕事を一旦給食に入るんですよ。
仕事行けないから。
職場でも9月、10月とかになってくると、
だんだん冷房じゃなくて暖房入れるようになるじゃないですか。
だからダメなんですよ。
だからもうそれでこれでちょっと通勤もできないし、
仕事もままならないんで、
今ならいわゆる在宅ができたかもしれないですね。
そういう仕事ですよ。
なかったんですか?
仕事の重要性と過去の経験
当然ないです。
ネットワークなんていうのはないです。
ネットワークというか正確には僕の仕事は特に、
今でも実は手払義務があって言えないですけど、
言えない仕事をしていたというか。
当時?
当時の仕事は、
結構じゃあ機密度の高い。
そっか、家に持ち帰れないってことですね。
ざっくり言ってしまうと、国の事業をやっていたので。
国の委託のオンライン業務っていうのを仕事をしていたので、
持ち帰れないですね。
持ち帰れないっていう状態だったし。
会社にいなきゃできないですね。
そうですね。
しかもそれがかなり重要度が高いじゃないですか。
SEの仕事の中でもかなりランクが上じゃないと思いますけど、
なんかすごい仕事やってるなっていう感じだったんじゃないですか。
当時って。
そんなことないですか。
僕すごいなと思って。
国の仕事ってすごいじゃないですか。
家庭環境と個人の成長
それはだから、
勤めた会社がそれを国から委託されてるって、
交流システムを作ってほしいって国から依頼されているのを、
我々、要は一臓評がですね。
いやいや。
一生懸命やってるって状態だったっていうのは。
受け取ってくる会社で働いてること自体すごいし、
それを手掛けてるってこと自体はすごいじゃないですか。
そっかね。
そんなふうに思ってはいなかったですよね。
仕事だなみたいな。
そんなのもあるし、
SEって仕事はすごく好きだったんで。
今でもそうですけど、
僕の性格的に言っちゃうと、
小さいことをコマコマとしたものを、
ちまちま、ちまちま、ちまちま、
ちまちまやっていくのが好きだったんですよ。
だからもう、いわゆるシステムの方向、
当時は、今でもそんなことないかもしれない。
全部プリントアウトした、
このくらいの束になっているものを、
全部字が打ってあるんですよ。
打ってあるのを、
いちいち一文字一文字こうやって、
どこにバグがあるかっていう、
バグっていうか、
バグって言うんですけど、
どこで引っかかるのかっていうのを全部調べる。
紙でチェックしたんですね。
そうです。
それでマーカーで引いて、
これがこっちで引っかかって、
こっちがこう引っかかるのか、
そうしたらこれを入れ替えるかとか、
こういうことをしているのか、
こっちが先に、
こっちのバッジを先に動かした後に、
こっちを動かすのかとか。
いわゆる考えながら、
でもそれがすごい好きだったんですね。
そうです。
僕自身は、ある意味ではちょっと、
言っていいか、
そういう風に言っていいかどうか分からないけど、
そういう仕事をしているうちが誇りだったというか。
そういったというのは、
自分の好きな、
SEがね。
SEという仕事がね。
その作業が好きだなっていうことですか。
それでも国の仕事っていうのは。
コンピューターを扱っていること自体。
そういうことですね。
確かに最先端。
最先端、そうですね。
実際パーソナルコンピューターっていうのが、
まだ概念的にはそんなになくて、
マッキントッシュのパフォーマーっていうのが、
一番最初に、
それこそパーソナルコンピューター、
パソコンとして出てくる。
その後Windowsが、
Windows 95っていうのが出てきて、
そういうOSができたんで、
各メーカーがパーソナルコンピューターを
発売するようになるっていうところの、
その辺りの微妙なとこにいたりしてるんで、
その前はマイコンといって、
コンピューターの、
電卓がちょっと大きくなったくらいのところで、
液晶画面が20行くらいしか出ないんですよ。
全然違う。
ここにキーボードが乗っかってる感じで、
電卓みたいに。
それで20行で、
全部システムを構築するっていう、
ベーシックって原稿で作っていくっていう。
そこがガラッと変わったタイミングだったんですね。
そうです。
それを知っている時代なんですよ。
そこから始まってる。
それが中学とかそのくらいのレベルなんですよ。
そこからマイコンっていうところから。
昔から好きだったんですか。
働く前から。
友人が、金持ちの友人がいて。
お金ないと買えないですもんね。
そう、金持ちの友人がそれ持ってて、
持ってるだけで偉そうだったんですよ。
その彼も工学部に、
それこそ、
七帝国大学の国立の工学部に行くくらいですから、
そういうのを知ってて、
こういうの知ってるって言って、
知らないって教えてって言って、
もう一人いたんですけど、
3人くらいでちまちまやって遊ぶっていう。
遊ぶっていうのをマイコンを使って遊ぶっていう。
遊びだったんですね。
それでいわゆるピコピコのゲームみたいなのを作る。
すごい。
テーブルテニス、棒と棒がこういったやつあるじゃないですか。
ああいうのを作るっていう。
あたりが出した、あれみたいなやつですか。
そうそう、ああいう感じですね。
ああいうのを、
どう作るとか、
自分たちが作るわけじゃなくて、
ああいうのはどうやってシステム化するのかっていうのを
遊びでやってて。
それをやっていて、
しばらく僕全然違う仕事をしてたり、
さっき持ち合った話なんですけど、
演劇にのめり込んだり。
言ってましたね。
演劇にのめり込んだりとして、
作演出なんかやったりとかして、
そこで借金背負ったりとかして。
ありますね。
で、そこで。
立で働かれる前に演劇系のことやってたんですか。
そうです、大学に。
学生の頃ですね。
大学2年で僕大学中退しているんですけど、
そうなんですね。
この後にもう一回大学行きなおそうとしてる時に、
演劇の方に傾いちゃったみたいな。
副学はしなかったんですか。
副学ですか。
大学して。
大学というか、自分で辞めて。
そうなんですね。
で、演劇の方もいろいろやって。
別に演劇の方やりたかったわけじゃなくて、
行きたい大学は早稲田だったんです。
早稲田大学に僕の憧れの、
第3部隊っていう劇団、
高上翔治っていう人が主催でやってるんですけど。
もう大好きで。
ずっと前から、前から見てたんですけど。
大好きで見てたんですけど。
で、大学が実はもう北海道の大学。
北大に行ってたもんですから。
で、ちょっと離れてて。
僕東京生まれですけど。
で、それでそこを辞めて。
で。
そうだね、ちょっと。
専業主婦の話までもうちょっと聞いてきますけど。
まだたどり着かないなって聞いてるかと思うかもしれないけど。
ちょっと気になってて。
なんで北大2年で辞めちゃったんですか?
お金がなくなったからです。
国立だからそんなに高くはない?
全部自力で。
生活費から何から全部自分でやってたからです。
なんでですか?
親が出してくれないからですよ。
北大に入ったのに?
北大に入る前から既に親からは援助をいただいてません。
それ言っちゃうともうとんでもないんですけど。
僕中3の時からもう親の被害から離れましたから。
中3の時に家を出たんですか?
はい。
どこで暮らしてたんですか?
その時は新聞配達をして。
今中学生は新聞配達はしてないんですね。
積み込みのやつ?
そうそう、積み込みのやつの新聞配達のところに転がり込んで。
それで中学はそこで卒業して。
で、高校は本当は行かせてもらえない予定だったんですけど。
それこそ学校の先生が、担任の先生が
もったいないから受けなさいと。
でももったいないから受けなさいって
合格したって行かせてもらえねえもんみたいな話。
だから特待生っていう枠がある。
その枠で行きなさいって言って。
ちょっとなんで親は中3の時に
育ててくれなかったんですか?
そっから話すると、僕5歳の時に
5歳の時に母が離婚していてシングルマザーになるんです。
弟と妹と3人の子持ちのシングルマザーという状態で。
弟と妹が周知さんにいらっしゃった。
シングルマザーの状態で。
3人の子供がいてシングルマザーになった。
しかも昭和40年代。
昭和40年とか昭和50年にならない頃かな。
僕42年生まれですから。
妹がいるので妹が昭和49年生まれだから
多分そのくらいだろう。
しかも記憶にはないんですけど。
その時から僕は弟と妹の面倒を見ながら
5歳で、子育園も幼稚園も行かないで
家のことをさせられているって状態には。
5歳の時から。
そうですそうです。
そういうのがあって。
母は、僕が言うのはあれかもしれないけど
とても美しい方だったので、モテたんです。
何人も旧婚者が来る度に僕が拒否ってたんです。
周知さんが。
嫌だと。当たり前ですよね。
母親を取られるから。
だけど小学4年生の時に
騙し討ちで結婚してしまいまして。
突然。
つまり義理の父が出てくるんです。
そうするとその義理の父との僕が相性が
すっごい悪いというか
はっきり言ってしまうと
5歳から家のことをやってたりとか
人の世話をしてたりとかしてたら
子供らしくはないわけです。
そうですよね。
子供らしくないっていう理由で
そこから中3の時まで
ずっと義理の父から虐待を受けると。
家庭環境の影響
肉体的な殴り切りみたいな。
そうです。
このまま死ぬんだなと思ったのは何度となかに。
そんなに激しかったんですね。
5歳から15歳まで。
5歳じゃないですね。
小学校4年生からですね。
10歳くらいから。
5年間くらい。
僕が殴られれば
実は弟と妹には行かなかったんです。
危害。
だから僕でせき止めるっていうのがあって。
盾になってたんですね。
そうです。
余談ですけど
僕が出てった後に
ターゲットが弟に移るんで
ああそういうもんだっていう文字になりましたけど。
中3で僕が完全にキレて
もう俺は家を出る。
こんなとこいられるかって祈りもあって。
お前の面倒なこと見ない。
っていう話をされたので。
それでだから僕。
お母さんはどうしてたんですか。
周一さんがそういったことやられてる間とか。
何か。
横でケラケラ笑ってましたね。
笑ってた。
いやだからそういうもんです。
そういうもんですって言ってもあれですけど。
要は保身。
自分を守られたら。
自分を。
お母さん。
来なければ。
でましてやその。
そうですね。
お母さんもやられることあったんですか。
ない。
それは見たことがない。
だからそれこそ僕が5歳の頃だから。
そっから5年くらいですよね。
5年間5年6年くらい。
3人の子供を持ってお育てしていて。
で働いていて。
で何の働きをしていたかも僕は実は分かってはいるんですが。
ただまあ働いていて。
でそれこそ僕らが夜中に弟と妹がお母さんが帰ってきていませんから。
泣いて窓際にいるのを僕が慰めるっていうのをずっとやったりしている状態ですけど。
それこそ子分3つも持っている女の人。
でそれこそその子分3つをまとめて自分も含めて面倒を見てくれる男が現れれば。
それはこっちに依存しますよ。
今でもそういうお話はよく聞くじゃないですか。
シングルマザーの人が彼氏ができて。
男が子供に対して虐待をして。
僕それ聞くたんびに腹渡りにゆっくりかかりますけど自分のことを思い出しますから。
だけどそのママさんは自分の方の保身の方が優先してしまう。
心が優先してしまう。
子供がそうされてたとしても。
でそれこそ男から命令されてお前もやれって言われたら。
もうせざるを得ないっていうところまで行く。
拘られないですね。
そういうのはありましたから。
それは僕が子供の頃からそういう人たちがたくさんいたってことです。
高校時代の経験
でそれがあって僕中3で切れて出てて。
でもまあぐれてもいいやって思ってたりしたんですけど。
まあその時に担任の先生が
もったいない。君はもったいない。
何がもったいないかそっぽりわかんないか見えたんでしょうね。
その時には僕大人に対する不信感ががっつり強いので。
タコっちゃねーみたいなノリがあったんですけど。
とりあえず受けなさい。
権利のすごくいいところの高校に受けに行くと。
受けても合格するわけないと思ったら合格しちゃうわけですよ。
しかも特大生で合格するわけです。
すごいですね。大変頑張られたんじゃないですか。
何も頑張ってません。
やんなわけないですよ。
何も頑張ってません。
どうするのって思って。
その先生が父と母の方を説得しに行って。
こっちは面倒は見ないから。
そっちで何とかしてくれ。
先生の方。
先生の方がじゃあっていうので走り回って。
僕の一時はずかりみたいなところを探してくれて。
それが実は小料理屋さん。
料理屋さんですか。
小料理屋さんを経営しているマスターさんで。
同時にいわゆる大学生とか高校生でも
そういう特大生みたいな人たちを面倒見る下宿も経営していて。
よかったですね。
そこを見つけてくれて。
小料理屋さんで働きなさい。
働いて。
働いたら賄いとかそういうのもできる。
学校は特大生だから
それなりの成績を出せば学費はいらない。
3年間いらなくて済むとかですね。
条件はあったんですけど、その先の条件がとてもきついんですけど。
そういうのが当時あったので
今あるのかどうかは知らないんですけど。
あったのでそういう状態で実は高校に入りました。
だから僕その3年間の間に
貯めたお金で大学に行くんです。
これを料理屋で働いてお金も出てたんですね給料が。
お給料も少しですぐ出てました。
そんなにいっぱいではないけど
でもそれでも14とか15くらいの子が働き出してもらうお金にしては
多分ちょっとすごかったと思います。
それはもう使う理由もないので。
だからもうこれはコツコツ貯めて大学に行く。
正確には大学に行かないと3年間の学費を払わなきゃいけないという条件なので。
高校としては実績を作ってほしいというのがあったんですね。
そうです。それも97帝国大学しか許されてなかったので。
それで北大というなんか高い大学に入ったわけですね。
それでも97帝国大学の中ではまだ下のホール北大しかいられなかったわけです。
すごいです。
でもそれこそそういったところに行ければ
一発で現役で合格すれば高校の従業員は免除という話があって。
だからもう勉強も必死だったし。
大学行ったらどんどんお金はかかるから働いて貯めておいて。
入学金とかそれから学費とかそういったものも。
大学入ったら今度アルバイトとかがっつりできるから
それこそその後生活はなんとかなるだろうと思ったら
演劇活動の挑戦
まあならない。
なんでですか。
北海道が安すぎるんです。
給料が。
それこそラーメン屋で働いても時給が425円とか。
そんな安かったんですか。
いや当時です当時。
物価も違う。
今からだから40年近く前の話です。
学費払えない生活できないみたいな。
一応家庭教師とかダブルワークみたいな感じになるじゃないですか。
ダブルワークトリプルワークみたいな感じで働いてたりすると
それは勉強はしてませんよ。
授業出れば交付費は受けられませんよ。
そうすると留年するしかなくなると
学費はさらに払わなきゃいけなくなるってことになると
これはダメだって思ったんです。
これはダメだなって思って
これを辞めるしかないって思ったところに
アルバイトの雑誌を見たときに一番後ろの方に
新聞小学生っていうのがあって
もう一度新聞小学生。
東京で新聞小学生として働きませんから
朝夕の20時をすれば
寝床と朝昼の朝と夜の食費と
給料も出ますという話があって
大学とかに行ったら学費も免除
新聞社が払う。
大学の学費払ってくる。
そんな生徒あったんですね。
今ないのかな。
当時あったんです。
その時にふっと思った。
これなら和世代行けるって思ったんですよ。
僕は和世代行きたかったから。
でも私立は絶対ダメだったから。
これなら和世代行けると思って
北海道の生活を辞めて
東京に戻って
東京で新聞小学生をしてたんですけど
そこでやっぱり自由があまりにもありすぎて
お金もあるし
呼び子はいてたけど
でも新聞の配達さえしておけば
あとはすごい自由時間になるんで
演劇に傾いちゃったみたいな話。
はまっちゃったですね。
結局和世代は行かず。
受験もしてません。
富士通はどうやって入られておりますか。
その後僕
その頃からが実はバブルなんです。
バブル期なんですかね。
結局演劇をするのにお金はいると。
演劇をするにはお金がいる。
劇団を運営するにはお金がいるから
でも劇団員は前にバイトしてるんだけど
演劇の稽古に入ると
1ヶ月とかこのくらい稽古に入るから
仕事は1回やめなきゃいけなくて
やめてしまうとまた次
公演が終わった後
またアルバイト探しに行くっていう
稽古が多かったんですね。
それでももう一回戻ってこれるっていうところも
実はあったり。
吉野屋みたいな牛丼屋さんって
シフト制なので
演劇の人が
演劇とかミュージシャンの人すごく多かったんですよ。
深夜台で働いてる人とか。
そうすると
2週間とかくらいの
スケジュールを出しておけば
この時期は休みますみたいな感じで
もう一回席があるから戻れる
っていうのがあったりしたんですよ。
それだとやっていけないだろうなって思ったんで
劇団員を
加わせるのに
自分が会社作ればいいんじゃね?
って思ったんです。
それこそ
人材派遣会社みたいな感じで作っておいて
常に派遣していて
好きな時に働くような状態。
劇団員たちを
職場に派遣してた。
それでできれば
いわゆるピンハネじゃないけど
しておいて
それをプール金にしておいて
彼らがチケットをさばかなきゃいけない
自分でノルマができるっていうのを
なくしたいと思ったんで
それをピンハネっていうよりは
そのプール金で
チケット代は
持たなくていいっていう感じ。
劇団員が自分で
30枚とか買ってたんですか?
今でも変わらないと思うんですよ。
だから劇団とか
ミュージシャンとか
小屋で自分たちで
何かをやるって時には
当然チケットを売らないと
小屋代払えませんから自腹になっちゃうから
最初自分が
30枚とか買って
売って取り返していくっていう
そうですね。
劇団によっては
1枚につき
売れば
少し入るみたいなことは
あるかもしれないけど
基本的にはこのくらいの枚数は
売っておかないと
そこから先は利益だっていう感じになるとか
バイトもあるわ、劇団もあるわ
ノルマもあるわ
確かに大変な状況でしたね。
だからそれが嫌だったんで
なんとかならないかなと思って
会社にしちまえって話をして
当時パブルだったんで
A4用紙1枚の
事業計画書っていうのがあるんですけど
今はありえない
ペラッと1枚で
銀行が
分かりましたって言って2000万貸してくれた
すごいですね
本当にバブルっておかしな時代で
何の実績もない
すごいですね
もちろんある建設会社の
ところに
バイトしてるところがあって
そういう話してるから
その建設会社の人が
バックアップに入るみたいな
感じにはしてくれた
君たちの活動に
例えば
スポンサードはできないけど
そこで君たちが
自分たちでやるんだったら
フォローはするよみたいな感じ
でもそれで銀行側にも
拙商するのにも
一緒に行ってくれたり
この子たち大丈夫だから
でも責任は取らないよみたいな
良かったですね
良かったですけど
借金そのまま自分が被りましたからね
その後2000万円
正確には
何とか残っていたのが
1300万くらいかな
その会社どうなっちゃったんですか
会社潰しましたけど
2000万円借りて
公開して返せなくなってきて
仕事がないので
そっか
派遣する先が無いんですね
無くなるんです
佐久間の就職経験
それこそ無くなるし
あったとしても
それこそ単価が
切られるという状態ですから
バブルで
自分たちが
例えば
ある工事現場で
お掃除だけの仕事
って言ったとしても
会社に入ってくる1人
8時間の
労働のやつで
それこそ会社に
その会社から
3万5000円くらい入るんですよ
3万5000円会社に入って
彼らに
1万5000円くらい渡しても
こっちに2万くらい残るわけ
極端に言いまして
分かりやすく
そういう感じになるわけだから
それが一気に
向こうから入ってくるのが
半分の1万5000円になる
そうすると1万5000円を渡していたものが
こっちにはゼロになる
でも立ち行かなくなっちゃったんですね
そうすると彼らの方の
収入を減らすしかない
1万2000円にしてくれって言うと
それは
今まで
辛い立場ですね
そういう状況になっていって
どんどん
お金のほうの
資金が回らなくなっていく
これだめだと思って
芝居もそんなに客が
入ってくるような状況もないし
ああ俺才能ねえな
って思い始めて
経営もありましたし
あと脚本とか演出とかも
そうですけど脚本は
本は書きたかったけど
本のほうも
ちょっとやっぱり
本当は小説書きたかったから
だから脚本書きたいわけじゃなかったので
そういう意味では
ちょっと
って思って
じゃあやめよう
会社でやめようと
じゃあ会社辞めて
俺どっか就職しようと思って
それこそあっちこっち
できることだったら
コンピューターか
そっかいつやってたんですか
中学生のとき高校生のとき
中学高校くらいのときで遊びでやってたくらいだから
とある大手の
ところの会社が
中途採用は絶対に入れないって言われる
大手の会社が
ある
特殊な言語の
システムの
仕事を
やらなきゃいけないと
そこに勤めてた人間が知り合いだったので
お前できるんじゃない
って言われたんで
あーはいはいはい
って言ってすーっと
でそれこそ
このくらいの厚さの
ファイルが
20冊くらい
あった
言語の
基礎のやつ
はいはいはい
言語って
いろいろあって
ベーシックとかフォートランとか
あと
CCとかC++とか
いろいろあるんですけど
特殊な言語ってのがあって
その特殊な言語ってのは
そのシステムでしか使ってはならない
って言語があるんですね
だから実は特に国関係の
銀行とか銀行の
オンライン関係ってのは
絶対流出してはいけないもので
だから言語自体も特殊なんです
なるほど
それを覚えなきゃいけない
だけどこれ覚えるのに
5年くらいかかるって言われていて
中学高校の時に
遊びで覚えてた言語がそれだったんですか
いえベーシックですよ
えじゃあその特殊言語はどこで
特殊言語を
覚えられれば
働けると
就職できるって言われて
でも多分その友人が
お前も覚えられると思うよって言うから
あそうって言って
試しにって言うんで
面接に行って
どのくらい3ヶ月でどのくらい覚えられるか
使用期間の間に
どのくらい覚えられるかちょっと試しましょう
っていう話になって
勧めもあったから絶対できる
って言われて
読んでったら
何が難しいんだろう
って僕の中で
天性のあれがあったんですよ
言語が得意
なんですよ
だから友人が
知り合いがそういう風に言うんですよ
だからお前ならできる
3ヶ月後には全部マスターしてる
すごいですね5年間かかるって
言ってたのが3ヶ月で
一般的に5年って言ってたみたいですけど
5年もかかるかこれって思って
基本ベース
英語ができてるなんとかなんじゃないの
っていうくらいのレベルだったんですよ
それで
できちゃったもんですから
大手が中途は
入れないけど
入れざるを得ないわけですよ
そんなちゃんとしたのすごい
人材見つけちゃったわけですか
なんかよくわからない
だからいきなり就職してすぐに
主任です
ちょっと前まで
劇団やってた人が
突然大手IT企業の
主任になって
借金返さなきゃいけないってのもあったから
給料入る分には全然問題なかったし
ましてや言ってはなんですけど
後から入ってきたから
当然社内でも
すっごい
嫌な顔で
見られてるんですけど
僕が性格が悪いので
悔しかったら覚えてみろって
それこそ
バグが出るたんびに
本当に申し訳なさそうに
申し訳ありません
なんでバグが出てるか
わかんないんです
バグじゃねえのお前って言って
パーッとピッて
ここここここ
そんな性格だったんですね
いや性格っていうか
その時は
言語ができちゃってて
なんでできないのかが
理解できなくて
しかも僕より
僕もただ当時21、22
だったんで若かったし
若かったのもあったけど
それこそ同じように
大学卒業して
大学の工学部とか卒業していて
入ってきてる人間たちは
優秀なはずですよね
僕なんかでも勉強してるはずなのに
お前ら何やってんの
同い年だけど
本当に
俺以外みんなバカ
っていう認識になっちゃって
そうすると
あんまり言いたくないけど
フリーランスへの転機
あいつちょっと癖はあるけど
仕事ができるよな
っていう評価に上がってくるんで
当時は
僕の20代から今
今50代まで
30何年前の話ですよね
30何年前だったりすると
仕事ができるやつが
ありますよね
それこそ
すぐにヘッドハンティングで
次のところに行くわけです
ヘッドハンティングで
どんどん収入上がっていく感じですか
もちろんです
成功物語ですね
成功物語っていうよりは
僕自身は
壊れてるから言ってるだけで
壊れてるっていうのは
求められてるってことですか
言ってるだけだし
もう一つ言っちゃうと
何ですか
それこそ
行った先の
やってることが面白い
もうそろそろ飽きてる
客観的に見ると
中学校3年生で
家を出て
新聞配達しながら高校に行って
条件付きで
北大に入って
辞めてまた新聞書店に戻って
劇団員を
加わすために会社を作って
2000万円借金して
バブルはじけて
背負ってといった人が
そんな
最先端のIT企業を
ヘッドハンティングされまくりながら
ぴょんぴょん飛んでいった
すごいですよ
ちょっとない物語ですよ
わけわかんない
それこそ
その頃の自分は半分もイケイケなので
それこそ
俺以外みんなバカ
っていうような感じになるし
肩で風切る感じ
っていうのはあって
それもあったんで
30の時に
病気して
せっかく結婚したのに
結婚した時にも妻は
妻は23歳で
僕は30歳だったんですけど
妻は23歳で
ちょうどその時にも妻は
僕が働いて収入があるから
そんなに無理に働く必要ない
そんなに無理に働く必要ないな
っていうのがあって
実は仕事が好きなので
グラフィックデザイナーで
仕事をしているので
グラフィックデザイナーの仕事の
スタイルで
結婚を機にフリーランスになっちゃうんです
個人でやってたんですね
それまで会社で勤めてたのに
いきなり辞めて
フリーランスで何のあてもなく
単純にフリーランスになっただけ
1つだけ小さい仕事
でもそれでも月に
その仕事をして
月に
1万2、3千円くらいの
1万2、3千円くらいの
辞めたのは周一さんがしっかり
稼いでるから
安心して好きなこと
ちょっとずつやればいいかな
そうです
実績は少しずつ作ればいいかな
僕自身も
働いてていいよ
全然問題ないし
病気と家庭生活
ところが
そういう状態で僕が病気で
働けなくなる
結婚すぐでしたよね
1998年6月に
結婚して
3ヶ月後
3ヶ月後には
病気が悪化して
7月か何かに
ニケ毒に出るんです
6月に病気が悪化して
悪化し始めて給食して
っていう状態ですね
12月に向かうんですけど
戻ってきましたね
ここからですね
その後が
どうなってたの
12月になると
真冬なのに
パンツ1枚
妻はサムガリさんだったので
暖房はつけたい
暖房はつけたい
僕は暖房つけたら死ぬ
っていう状態で
1つの部屋にが
暖房がついてない
専用の部屋
そういう状態で
僕も完全にうつうつな状態
ですし
なんでこれだけこんな病気しなきゃいけないんだ
っていう
マインドが悪い
わけですよ
これだけこんなのに合うんだ
っていうマインドになります
でも
うちの妻
パートナーは比較的
なんでも忘れた
って言ってくれるマインドの人なんで
その当時多分
当たったんだと思うんですね
でも
自分でもそれは分かっていたと思うんですよ
辛くて
ダメだなと思って12月の
ある日に
もうダメだと思って
僕は自殺しよう
って決めて
妻に
申し訳ありませんが離婚してください
って頭を下げる
で頭を下げた頭を
妻が
グーで殴る
いてーって言って
パッと目を開けた瞬間に
滝のように泣いている妻
僕も今聞いて泣いちゃいました
いやいやいや
殴られて
目の前で泣かれたら
女性に好きな
女の子に
女の子というか
人に
大泣きで泣かれたら
もう
何も言えない
でもう妻は分かっていません
あなた死ぬ気でしょ
絶対死なせない
で死なせない
結局話はするんですけど
話端折っちゃうと
いやいやいや
一晩中喋ってるんですよ
でその中で終わったと
あなたは家にいろと
家で体を治す方向を
考えなさいと
で家にいろと
料理はできるんだから
主夫としての覚悟
料理ができる時にやってくれと
で私が稼ぐ
かっこいい
かっこいいですね
いやいやいや
月に1万5千円くらいしか稼げない人が
私が稼ぐって
っていうのはあった
その覚悟すごいですよ
これほど根性が
いやいやいや後々いろいろ分かることは
いっぱいあるんですけど
そこは面白いんですけどね
杉山長寿さんの奥様と
ほぼ同じで
杉山長寿さんの奥様はもう服飾のデザイナーさん
でうちの妻も
グラフィックデザイナーさん
でましては
多分長寿さんの奥様は
とても優秀な方だって僕は知ってるんですけど
うちの妻も優秀で
恐ろしいんですよ
ていうのは
でまあ要はそこでやっと
専業主婦
っていう
ような立場になるわけです
そうですよね
やっと話は戻るんですけど
戻りましたね
まあでも僕の中でその時じゃ
主婦っていう概念はなくて
当時ないっすもんね
そういう考え方じゃないですよね
だから近所のおじさんに僕
買い物行ったりとかしてるときに
それこそ家の中出入りしてるときに
自営業でもなんでもない感じだから
何でお前って感じだわけです
だから近所の鉄工さんみたいな
おじさんに
お前何やってんだって言われて
で当然僕より年上の人だから
で僕なんかでも
男は仕事女は家
っていうイメージは概念が
強かったんででお前何やってんだ
って言われたときにあ仕事何やってんだ
って言われたんだって思ったから
どうしようって思って
で本当にとっさに
ああえっと主婦みたいなことやってます
って言っちゃったんですよ
で当時はだから女性の主婦のイメージです
ですよね
あるいは夫っていう感じは当時存在してなかったですね
存在してない
家族の役割と責任
25年くらい前ですか
えーと25年以上前
25年以上前
1990年代終わりくらい
そうです
そしたらその人から
ああなんだ極潰しか
極潰し
そんな表現あるんですね
極潰しエンド
人からそんなこと聞いたの初めてかもしれない
小説の中しか出てこない
そうそう
しかも時代小説に出てくる
ですよね
そんな人からの話ですか
そんな人いるんだ
極潰しか
紐みたいなイメージってこと
そうです
紐っていう言い方も極潰し
さすがに
母って笑いながら
くそって思って
でもそれを仕事から帰ってきた妻に
こうやって極潰しって言われたやつ
って言われた時に妻が
本当にピンポイントでうちの妻は
すごいことをサラッと言うんですけど
いいんだよ
だって責任取らないじゃんあの人たち
私たちの生活に
何か責任取ってくれる
責任取れやしないんだから
いいんだよ言わしとけ
私たちは私たちの
自分たちの責任を取ればいいだけ
他の人の
私たちも他の人の責任を取る必要もないし
自分たちの
責任を取ればいい
他いらない
かっこいい
また涙が出る
かっこいいんですけど
実は
昭和のお父さんなんですよ
かっこいいじゃないですか
いいじゃないですか
風呂飯寝るしか言わない人ですから
でえっと
シューちゃんあれって言って
はーいって言って
テレビの録画のハードディスクの
ドラマとか
アニメの頭出しを出して
あれで
よくわかりますね
はいどうぞ
そういう感じなんですね
そういう感じです
もう動きません
晩御飯の支度をしてても
それこそ
リビングで
テーブルの前にずっと
漫画か小説読んで
僕が全部
そっと用意して
ご飯できたよ
いただきますって食べる
もちろん出したもの
に対して文句は
一言も
27年くらい
一言も文句は出ませんけど
何が出てきても
美味しきって食べてくれる人ですけど
でも出るまでは
そこはちょっと昭和味ですね
昭和味ですね
そこは
でも素敵ですよ
子供が生まれてから
さすがに子供の目の前で
片付けとかそういうのしない
っていうのをまずいと思ったらしくて
片付けをするようになったんですけど
でも洗い物はしない
そこをやるんです
たまたま僕は夜早く寝ちゃって
朝起きて
妻が遅く帰ってきて
ご飯作ってても
しっかりと茶碗は
シンクの中に入っていて
洗ってくんないね
洗ってくんないのはわかっているけど
洗ってくんないねっていう感じで
物親父ですね
家事はやだ
昔から好きじゃなかったんですか
結婚した時か
それとも主婦さんが
専業主婦になられてからそうなったんですか
いやだから
彼女のご家庭がそうだったから
彼女のお父さんが
お父さんっていうか
彼女のご家庭がお母さんが専業主婦で
お父さんが大黒柱で
しかも
一部上場企業の
代取りの人で
それなりの
大きなお家に住んでいて
朝も昼も夜も
全部お母さんがご飯を
しっかり作ってくれて
っていうご家庭
僕が結婚したいって
頭下げに言った時のお母さんに
ダメだって言われたんですけど
その時に言われた言葉が
えっとね
この子はね
それこそお手伝いさんがいるところに
とつがせるつもりだから
めちゃくちゃ金持ちの家ですね
でも理由は
この子には何も教えてないから
ちなみに
お姉さんがいるんですけど
お姉さんの方はがっつり
教えてるんです
主婦業というか
いわゆるお嫁さん修行
妹の方にだけ
お姉さんに関しては超甘やかし
完全な白犬
もうあの
お姫様でした
僕それあんまり知らなくて
専業主婦の変遷
結婚して初めて
結婚で
お母さんに挨拶しに
お母さんに先に挨拶しよう
お母さん怖いからって話をして
それは分かってるんですけど
絶対反対されないからって言ったから
本当にって軽い気持ちで言ったら
ダメ絶対ダメ許さない
3年待てって言われて
なんで3年なんですか
その時20歳です彼女が
若いんで
どうせ若気の至りだと思って
余談ですけど結婚した後も
あの子はね
そのうち離婚して帰ってくるか
近所で言いふらわして
大好きだったんでしょうね
親戚一同も全部
キヨコさん
おキヨさん
おキヨさんなんですけど
もうみんなキヨちゃん
キヨちゃん
可愛がってて
そう本人は分かってない
本人は分かってないし
もっと言っちゃうと
当たり前の世界で生きてますから
逆に中一さんが
働けないってなった時に
養ってもらえないじゃんみたいな
自分が実家で
何不自由
暮らしてたのが
同じ生活の延長だと思ってたのに
あれみたいな何だったんですか
これがね
もう一つの側面がありまして
頑固ってのがあるんです
決めたら
ガンとして動かない人なんです
誰が
なんと言う
ここは夫婦揃って同じなんですけど
ガンとして決めたら動かない
私はこの人と結婚したんだから
一生そういう時
そういう頑固な気持ちがあったらしくて
根性がありますね
だとしたら
夫婦なんだから
私が働けばいいだけのことでしょ
支え合っていけばいいんだろう
なんのために
教会で辞める時も
健やかなる時も
宣言してるんだ
みたいな感じで
下町の人ですから
口も悪いですけど
一番最初に
さっき言ったお母さんとかお姉さんとか
妻がいるじゃないですか
3人の共通した言葉が
一番最初に
お母さんって言う人は
でっかい
お姉さんは
上流家庭じゃないんですか
下町ですから
お金持ちだけど下町
住みだく住みだ
超下町のところですから
僕は一応
生まれが世田谷区なんで
全然違うところに来ましたね
だから
怖くて
外国みたいですね
本当ですよ
でも
多分
お母さんもそうなんですけど
後々よく分かるんですけど
お母さんもそうですけど
それこそ
かつて大財門じゃないんですけど
一度
決めたら
歌を弾くなって
歌があったんですね
わかりました
それこそ本当に
一歩も引かない
決めたことだから
仕事もやるって決めたらやるんですよ
かっこいいですね
だから
そういう人なんで
さらに優秀だったりするんで
毎年
収入が上がるんです
すごいですね
恐ろしいんですよ
結婚して
数年も経たないうちに
僕がシステムエンジニアで
30歳で
年間150時間から200時間
残業していたくらいの
収入を超えるんです
かつては周一さんの年収を
超えちゃったんですね
しかも残業しまくってたときの
収入を
それこそ出版社とか
大手の出版社から
仕事の依頼が来て
嬉しそうに夜中に
仕事してるわけですよ
大きなパソコン
それこそマックの
とてもいいやつで
グラフィックのソフトウェア
使ってガーッてやってるんです
ガーッて
ものすごいな
それが大好きでしょうがない
っていう仕事が
本当に職人ですね
だからもう
それでガーンと収入が上がっていく状態を
もう目の当たりにしているので
はぁーって思って
それこそ結婚
5年くらいしてからだった
と思うなぁ
いや
5年もしないうちだな
日韓ワールドカップっていうのがありました
2002年にあったんですが
あのときに
僕サッカー好きなんで
フットボール大好きなんで
中田秀俊が金髪にするんです
わからない
当時その頃に同じ時期に
所上司さんも金髪にするんです
はいはいはいはい
だから金髪いいなと思って
つまり金髪にしていいって言ったら
いいよって言って
そのときまでセンター分けで
こういう髪型だったんです
長めだったんですね
金髪と主夫としての意識
長いの嫌だから切りなって言われてたのを
切るって言って
それに先立って
金髪にしますって言ったら
いいんじゃないって言って
金髪にしたら似合ったんですね
なのであって思って
やっぱり鏡見たりすると
金髪にしたっていう
自分の中で
これで僕はもう
妻のサポート役に徹する
サポートに徹する
金髪にするっていうことは
なんだろう
サラリーマンに戻んないみたいな
そうですそうです
当然戻れませんから
近所さんもそれまで遠巻きに
奥様方が
2人とか3人くらいが
俺の子を見て
喋るっていう
もう本当にいくらでもありました
あの人なんだったのみたいな
聞くと
奥様に働かせてみたいなこと
また聞こえるんですよ
そういう発音があるんですね
時代的に
でも金髪にするじゃないですか
さーっといなくなる
もう怖いかなってことですか
もう関わっちゃダメ
金髪って犯罪者だから
20年前ってそういう感じなんですね
そうです
金髪にしたっていうことは
いくらサッカー
サッカー選手が金髪にするんだったら
まあまあ
戸田さんっていう人が
著作家で頭ピンクに
赤にしたりしたんですけど
あれはサッカー選手だからね
一般の人間が金髪にするって
もう犯罪者だから
なんか不良みたいな
もうかかっちゃダメって
さーっといなくなりましたからね
だから心持ち的には
実はそっから急に軽くなるんですよ
いいんだもう
しかもサポートに
徹するって言うんだから僕主婦だ
うーん
自分で認識が持ってたんですか
自分で主婦だって言ってもいいと
主婦みたいなものをやってますとか
そういう曖昧な言い方しなくても主婦
で妻のバックアップ
に徹する人
だから妻の
体調管理とか
なんかこう
気分良く生活するとか
そういうことだけ考えればいいと
もうガラッと切り替わったんですね
切り替わってその段階で切り替わって
その象徴で金髪
なるほどなるほど
だからそれからも20何年
金髪ですけど
髪の毛が薄くなってきてちょっときついんですが
でも
それがあってからやっぱり
自分たちの
夫婦での中での
何て言うんですか
立ち位置というか切り替えもすごく変わったし
健康と病気の変化
不思議ですね
そうなってくると体調が良くなってくるんですよ
へーすごいですね病気どうなっちゃったんですか
そうなんですよ
金髪にしてしばらくしてから
それこそ
病院に通っていっても
だんだんだんだん
数値的に悪いものが減っていくんです
症状もなくなるんですよ
たまに肺が痛いとか目が痛いとかあるんですけど
皮膚の状態ってのは
ほぼなくなるんですよ
さっき言った通り
サルコイドシスって病気は
なった人が自覚症状なく
終わる
後から調べてあなたサルコイドシスだったんですね
って言われるくらいのレベルになっちゃう
くらいの状態なので
要は何かの症状が出てたとしても
亡くなってしまうことはあって
気が付かずに終わっちゃうみたいな
そうです
消えた感じがあったんですね
皮膚に関してはもうなんともなくなりました
だけどまだ
肺は痛いし
肺はもう時々ツッキンズキン痛くなる
今でもあるんですよね
今はたまに
体調がちょっと優れない時は
なるかなと
金髪にされて
2002年あたり
でも
意識がガラッと変わって
パザーディングジャパンに
入ったのは
その後ですか
パザーディングジャパンができたのが
20年前でした
20年前にできてたみたいですね
入ったのはその当時なんですか
全然
っていうのは
病院に通学
病院に通学してない
通院している時に
通院していた時に
ある時に
医者から
悪魔さんサルコイドシスってことなんですけど
って言って
お医者さんが変わっちゃったんです
サルコイドシスってことで
診断はあるんですけど
かれてもあるんですけど
どうやら消えちゃったんですけど
消えてるみたいなんですけど
どうします
って言われたんです
消えてるっていうのは
ガンでいうと
艱快みたいな感じで
亡くなっちゃう
治ったわけではなく
艱知はないんです
どっかで何かまた
何かの時に
その症状じゃないけど
出る可能性はあって
一概に先生としては
艱知とは言い切れない
だけど
艱ゆとか艱快とか
いう言い方をするんですけど
特にそうなんですけど
そういう状態になりました
妊娠出産の学び
平常な状態にはなっています
生活はできますよね
生活か
症状でつらいとか
クオリティオブライフが
落ちることはないですよね
っていう話になって
そうですね
一応平穏で生きてますね
って話
でどうしますって言われて
どうしますって言われて
どうしたらいいんだろう
病気が消えたから
どうしたらいいって
考えた時に
僕実はもう
弟と妹ですね
弟を
世話してたっていうのがある
小さい子を世話するの
好きだったんですよ
子供好きだったんですよ
なので
先生子供作っていいですか
って聞いたんです
ああ遺伝的なこととか
そういったものですよね
体力的なものはちょっと
不安はなくはないですけど
ただ免疫的なこととか
遺伝的なこと
遺伝的なことに関してだと
まあ問題はないと思うんです
って言われたので嬉しくて
家に帰って
妻に病気が消えたって
子供作っていいって
って言ったんです
そしたら妻が
作るわけないだろ
バカ野郎
親父が出てきましたね
すみません
申し訳ございませんでした
働けなくなるか
もちろん
その当時
15年くらい前ですかね
15年半くらいかな
前ですけど
もちろんまだ
世間的には
男が働いて女が家事
育児がまだ
若干残ってる
まだ全然残ってるし
もっと言っちゃうと
女性が妊娠出産で
キャリアロスキャリアダウンは
当然ある
いくら特にフリーランスだから
仕事を休んでしまえば
一気になくなる
途切れちゃうんですね
のもある
それが一つの側面
もう一つは妊娠出産がめんどくさい
面白いですね
めんどくさいって言いました
それと
子供は好きじゃない
なのでやだ
そっちじゃんって思ったんですけど
前の仕事の部分って
あんまり関係なく
絶対本人なんとかなりますよね
そんだけ優秀だったら
妊娠出産がやだ
あんななんか重たいのをお腹に入れてて
小犬になって歩いてるのやだって言って
そうですか
申し訳ございませんって言って
頭下げたんですけど
なんか
それは
僕の中で腑に落ちなかったんです
腑に落ちないってことは
何かあるんじゃないかなと思って
僕そっから
猛勉強始めるんです
女性の妊娠出産のプロセスから
生まれた後の産後うつ
それからその後の
子供の
子供の
育て方とか教育の仕方
離乳食幼児食も
あとは
その先の
中学高校までの
受験のところで
どこまで親が関わるか
だいぶ先まで勉強しました
ものすごくしました
その中にはもちろん女性の
妻が
妊娠出産がめんどくさいっていう状態なので
妊娠出産しても
どういう状態だったら
健康的に過ごせるかとか
出産後に
どのくらいで職場復帰させられるかとか
そういったものも
全部勉強しました
本も読んだし
いろんな
安心ですね
安心かどうかわからないですけど
そういうことを
お金のことも
経済的なことも
それこそ
かかるよとかこのくらいだよって言って
このくらい貯金があって
このくらいだからっていうのも
言って2年間くらい
プレゼンテーションしたんです
結構長い期間
もちろんいろんな方に
それこそ子どもさん
特に不妊治療をされた
お知り合いの方とか
結構いらっしゃったり
子どもを産んだ後に体調を崩されて
大変な思いをした
知り合いがいたりとかしたから
いろんな方にもお話聞いた時にも
やっぱり
何よりも
あなたたちが50になった時に
何にもやんなかったら
あの時
チャレンジすればよかったな
って後悔するようなことがあってはいけないよ
っていう
アドバイスがあったんです
もしチャレンジして
ダメだったら
50になった時にも
私たち子どもがいないのは仕方がないよね
ってつくけど
やらないで
その後に後悔するくらいだったら
やった方がいいし
その妊活に関しては
やった方がいいし
チャレンジはしてもいいんじゃないかなと
私たちは思って
いろんな人に言われたんですね
そういう方々に言われて
妻がやっぱり心が少し揺れたみたい
当時僕45歳で
彼女がもう
ギリギリですよね
もう高齢出産ですから
高齢出産ってやつですよね
だからギリギリなんですよ
どうしようかなって
話をしてるところだったんで
そういう話を聞いて
プレゼンテーション2年間した後に
妻の方から言われた言葉が
わかった
産むだけ産むから育てろ
なるほど
ありがとうございますよろしくお願いします
すいません
妊娠出産だけお願いします
妊娠出産はやるから
あとはよろしく
母乳もいらないって
僕言いましたからミルクで大丈夫
それこそ妊娠出産母乳以外は
全部男ができるっていう風に
プレゼンテーションしましたから
母乳の場合によっては
今ミルクは優秀だから大丈夫出さなくてもいい
無理に出さなくてもいい
少し削入して
3ヶ月くらいは
出してくれたんですけど
それを冷凍保存してキープして
育児と父親の役割
6ヶ月くらいまで飲ませたかな
だけど最初の
職場復帰したら2ヶ月
ちょっとで職場復帰しましたから
生まれて2ヶ月
早いですね
もちろんそれも予定通り
予定通りなんですね
その後は僕が全部やる
それこそ
だからその間に
出てくる母乳に関しては
全部あげるのとは別に
削入を少し取って全部冷凍して
全部キープしてっていうのもやるから
お願いしますって
完璧な育児だったんじゃないですか
完璧でもなんでもないですよ
もっと言っちゃうと
ロールモデルがいないので
父親でそういうことやる人いないですもんね
のもあるし
父親っていう存在が
分かんないので
だからもっと言っちゃうと母親って
存在も分かんないんですよ
シングルマザーで働いている人で
気がついたら
男の人と結婚している人で
っていう状態だから
母親も知らないんですよ
だからもうロールモデル知らないんですよ
ロールモデル知らないってことは
本とか読んでこういうもんだっていうのを
調べるしかない
そこで実は
マザーリングジャパンをその時に知る
知ってるかもしれないみたいな
かなーって思ったんですけど
全然役に立たない
役に立たないってのは
あれですよ
立場上
学校じゃないですもんね
そうですそれもありますけど
こういう立場の父親いないんですよ
その中でも珍しい立場だったんですね
そうです
全然参考資料にも何もならない
それこそ
マザーリングジャパンが
僕第9期
で参加したんですけど
それこそ一番最初の
基調講演みたいなので
それこそサラリーマンの方に向けて
サラリーマンのパパに向けて
全然当てはまらない
子育てに
参画するにはみたいなことを
言ってて
参画のレベルでもう違う
参画じゃなくて
がっつり当事者
そうですよね
当事者目線を教えてくれよっていうのに
があって
ここは役に立たない
役に立たないって言い方しちゃいけないけど
ターゲットが違いましたね
他にないんですよ
僕はもう自分で調べて
自分で積み上げて
自分で全部作っていくしかないんだ
って思ったんですね
無痛分娩の希望
調べながら育児をされていったわけですね
ママさんの
ママさんか
ママ向けの
本を読みながら
全部ママ向けですもんね
全部いわゆる女性向けなんですよ
女性主です
女性向けながら
なるほど
これはじゃあ
こういうことなんだなって
でもどうしても男でできないようなことが
あったりしたら
そこはどう転換しようかとか言って
そういうのを全部
最初の2年間のプレゼンテーションの勉強の段階で
それはやってたので
それこそ
私無痛分娩がしたいって言うから
ああそうですかって言って
無痛分娩ができる病院を探してきて
妊娠検査薬で
妊娠発覚
妊活2ヶ月からそこらで
実は妊娠するんですけど
僕はタイミング法だけで
結局
妊活っていう風に言うのが
全然あれなんですけど
普通に妊娠したわけです
そして病院に行って
無痛分娩がしたいんで
よろしくお願いしますって言ったら
ご主人ちょっと来てくださいって言われて
はいなんでしょう
うちでは無痛分娩ができませんって言われて
なんでですか奥様のお腹の中には
地球菌種があります
あれ
横向いたら
言ってなかった
知ってたんですね奥様
そうなったんだ
言ってみてよ
でも菌種を
取り除いてから
妊娠出産って考えると
菌種を取り除いてから2年くらいは
妊娠出産はしてはならないって言われているので
だから結局
そのタイミングでもあって
となると菌種を
体に入れたまんま
子供を育むのかっていうところは
勉強してねえなと思って
で妻の顔は
よろしくなんですよ
調べまくって
無痛分娩はしたいからね
今病院で断られたじゃん
と思って
それでも無痛分娩をしてくれるところを
探して
順天堂大学があって
結構有名な会員ですよね
順天堂大学は今はもう
順天堂に入る人たちはみんな
100%無痛分娩なんですけど
当時はまだ無痛分娩と
自然分娩が半分半分くらい
無痛分娩で
菌種がある
妻のお腹に菌種があって
その上で無痛分娩を希望しているんですけど
こちら出てきますでしょうか
っていうのを僕が言って
じゃあ奥様連れてきてください
連れてきてください
僕一人で行ってるんですからね
それこそ妻連れてって
妻も連れてかなかったら菌種の状況が分からない
本当にないですか
まあ大丈夫だと思います
もちろん経過は見えますけど
菌種と赤ちゃんが
同時に大きくなるというケースがあるので
それが一番怖いので
そうするともう途中で
未熟児の状態で
それこそお腹切って
おせっかいで取り出すしかなくなる
場合によってはその時は
菌種も取り出す可能性があって
そうすると出血多量の可能性がある
っていうのがあって
だからそういう経過を見なきゃいけない
っていうので
結局どうなったんですか
出産は
出産はですねこれが面白くて
生まれる時に
回帰血色があって
回帰血色
月が隠れちゃうやつ
回帰血色があって
それが40週くらいだったんですよ
38週くらいから
生まれないな生まれないなって感じになったんですけど
40週くらいに回帰血色があるから
これの前後で俺生まれる気がするって
僕思ってたんですよ
そしたらやっぱり回帰血色の次の日に
シュウちゃん破水したかも
言ってきたから
おー来た来た来た来たと思って
準備してて病院に連れて行って
そしたら破水でもなんでもなかったらしいんですけど
で病院の中で
10分に1回おきの
菌があるっていうのを
さすりながら
水が流れるように
気持ちでいいよねーって
言いながら背中をずっと一晩中
さすって
で無痛分娩ですから
麻酔医がいるんです
で麻酔医が
午前9時に来ますから
それまで頑張ってくださいって言われて
無痛分娩どうしてもしたかったら
って言うので頑張ったんですよ妻が
で頑張ったんですけど
8時半
過ぎかなお医者さんが来て
ちょっと見ますね
あれや頭がちょっとでかかってるね
いやもう文明大行きましょう
麻酔医の方
9時に来るから
麻酔打って
出産しちゃいましょうって言ってるから
よろしくお願いしますって言って
お父さん待っててくださいねって言われたから
で無痛分娩だったんで
当時はいわゆる
立ち会いはできなかったんです
医療行為が入るから
無痛分娩ね今でもそうかもしれません
多分ガッツリ
ことはできないかもしれないです
だからもう
立ち会いはできませんって言われたので
待ち合い室で待つしかなかったんです
で9時くらいに
病室に入りました
さあ何時間かかるかな
って思いながら
でそのままで一晩中寝てないわけですよ
家帰っても寝てもいいかな
って思いながら
遠くから赤声の泣き声が聞こえて
ミルクあげなきゃいけないんじゃないのかな
泣いてるよーって心の中で思ったら
看護師さんがパパパパッと来て
おめでとうございます男の子が産まれました
はっ
早いですね
9時7分です
訓練台に座って7分で産んじゃいました
早い
あれってこと
でもよかったですね
産んたのでしかも
マス打ってないんですよ
間に合わなかった
マス打つ以前にもう頭が出ちゃってるんで
引っ張って出しちゃいます
出しちゃったんですよ
マス打ってないんですよ
順調でよかったですね
子どもの成長と課題
本人もそれで産んじゃって
その後縁切解してしまったものを
マス打たないで
塗ったらしくて
そっちの方が痛いって言ってましたけど
そっちマス打てよ
看護師さんもここでマス打たないかがわからない
って言ってるくらいなんですけど
無人だから
それこそ産まれて
今いくつになられたんですか
中学1年生12歳です
6月に産まれたので
来月6月5日
もうすぐ
13になります
大きくなりました
大きくなって今大変ですね
大変です
今まさに
彼は起立性調節障害
っていう状態で
朝起きれませんので
何ですかそれは
起立性調節障害っていうのは
交換神経が
動かなくて
全然起きない
それこそ
本当に
揺すっても何しても起きないし
起こそうとすると
悪態はつくし
うるせえ
どうやったら起きるんですか
起立性調節障害の場合は
いたすると
起きるまで起きないので
起こせないっていう人も
そういう風にしてしまう人もいるし
それこそ
ゆっくり体を起こすところから
スタートして
目を開けさせて
日の光を当てて
お水飲んで
薬も出たりしてるんですけど
飲ませたりとか
塩分も必要になってくるので
要は
血圧が低い状態になるので
だから
血圧も上がって
普通朝起きたときに目を覚ましたときに
人間って
交換神経から
交換神経に切り替わって
セロトリンだったっけ
なんだっけ
セロトリンだかなんか
でそれで体が起きる
脳が起きている状態なんですけど
それが切り替えができていない
いつ頃からそうなんですか
先月からです
入学して
入学式が4月10日に
あったんですけど
月の週からそれです
今、塩池さんがケアをしてる感じなんですか
そうです
毎朝
2時間以上かけて
2時間以上ですね
場合によっては
実は今日はそうだったんですけど
11時くらいに
学校に行ったのかな
11時過ぎかな
その大変なのは朝の
時間ですか
これがまた
昔は
怠け病の理解
起立性調節障害
昔は自立神経失調症
っていう言葉を使ってたらしいんですけど
それこそ
怠け病って言われていて
原因がわかんないか
あまり理解がされていなかった
理解がないから
怠けている
朝起きないだけ
グズグズしている
実際体を起こしたりとか
目を開けたとしても
自宅が遅い
もう靴下一つ
履くのも何十分も
かかってるみたいな状態になる
っていうのは
典型的に
それが
4月に突然
息子がなっているので
それこそ
これも今回
ポッドキャストだから
言っておきたいのは
怠け病でも何でもないし
疾患なので
それこそいろんな
症状が出ているのを
それこそ
僕もだから
自分の自戒も込めて言いますけど
やっぱり
怒鳴ったりとか
布団をはがしたりとか
無理に起こすとか
そういったのはしてはならないし
これが実は
成長の爆発期と
絡んでいるっていうのがあって
思春期
思春期
それと絡んでいるので
思春期のところと
身体的な成長の爆発と
絡んでいるので
そこで追いついていかない
精神が
神経が
追いついていかないので
そういう状態になっているっていう
追いつくと治るんですか
実は治る
治るというよりは
ケロッとしてしまうらしいんです
でもただ
それが半年の人もいれば
2年3年の人もいるんです
さらに言っちゃうと
大人になってもそれがある人もいるんです
だから本当に
それでも
よく言われるのは
じゃあもう学校とか休ませちゃって
いいってなってしまうと
休むっていう状態が
状態化してしまうと
ずるずるずるっと
引きこもりという方向に
なりかねないんで
地味でも遅くてもいいから
学校に行くっていう
作業をしていって
社会との
つながりは
つなげなければいけなくて
そうしていかないと
その子自体が
社会とのつながりがなくなる
それでちゃんと生かせるんですね
実は
言わなかったと
本人は言わなかったから
友人たち
友人たちもやっぱり
息子さん娘さんが
規律性調整障害になっていたりしてるのを
僕聞いてたので
聞いてて
聞いてたけど
家族のルール
彼らは
僕と違ってすごく大らかな人たちだったりするので
すごくこう
まあしょうがないじゃんってなるんですけど
僕は神経細かい人間なので
クソ真面目なので
それこそも
そういうことで
神経を衰減らしてしまう傾向が
多いですね
だけど
それもまた
子育てをしている中の
一つ
体験というか
経験というか
というのもあるかな
というのもありますし
彼が成長していっているというのも
一つの証でもあるという風に
実際目の前で
起きない姿を見ていると
やるせなくて
もう
イライラもするし
ですけど
開き直ったり
場合によってはしょうがないか
という風に
ゆるく思ったりとか
そういうのもしなきゃいけないかな
というのはありますけど
なるほど
息子さんが
息子さんが生まれて
15年間
13年間
13年間
子育てされてきたと思うんですけど
どういうとこに
気をつけられてきたとかってあります?
13年間育児において
気をつけていたことは
多分
言葉にはしていなかったんですけど
予想は予想
うちはうち
うちにはうちのルールがある
そのルールは
予想には通用しない
うちのルールはうちで守りましょう
これが多分
基本ベースだったと思います
息子さんが言ってたことと似てますね
だからそこですよね
自分たちのことは自分たちで責任を取るんだ
っていう妻の発言は
そのままそっくり
うちの家庭の
家族の中のルールと一つになった
というのはあると思います
実際僕自身も
それこそ
他の人がこうだから
うちもこうしなければいけない
っていうのはない
っていうのはあるので
自分たちでルールは作っていい
だから僕
ちょっと言ってしまうと
あれかもしれないけど
家事シェアとかあんまり好きじゃないんですよ
シェアって言って
それこそ分担してしまってしまうと
分担した側が
仮に何かのトラブルでできなかったときに
なぜやらない
っていうふうに攻めるような状況になりかねない
だから
そうやって分けてしまうことが
あまりいいことではないと僕は思っていたりするんです
父子の絆
もちろん
どちらかに
偏りが強かったりするケース
うちなんかでも偏りが強くて
僕の方が多いんですけど
だからといって
相手がやらなかったことに対して
相手を
相手を攻めるようなことはしてはならない
というのがあって
だから息子には
お弁当も
僕はお弁当毎日作ってますけど
ご飯も当然作ってますけど
よそは
お母さんが作ってるかもしれないけど
うちはお前言ってるけど
かかさまはご飯作れない人だからね
諦めてねっていうのを小さい頃から言ってるんです
だから保育園の
園長さんが
遠足でじゃあ皆さん
ちょっとお弁当食べましょうって
言った瞬間にうちの息子は
うちは父ちゃんだけどね
園長先生に食ってかかるんですよ
そうすると園長先生が
ごめんなさいって
パパママが作ったご飯って言って
言い直すんです
息子が
いや俺じゃないですよ
息子さんにだって誇りなんでしょうね
だから
作ってくれたんだって
怖がってるのは
全部から倒れないでくれるの
倒れたらうちは朝昼は
全部カップラーメンになる
ご飯がない
ちなみに
うちはよそはよそ
っていうのを徹底させる
ために意識してることって
あるんですか
そうですね
徹底させるために
思ってることですか
息子さんが特に何か
ママがいいとか
そんなことがあったわけじゃないってことですかね
ないですね
じゃあ幼い頃から
うちはこれなんだっていうのを
感じていた
感じなんですかね
もちろんそれもあると思います
彼は実は
彼自身が新聞の取材に
受けたことがあるんですが
それは何かっていうと
味噌汁を作っているのは
彼が担当だった時代があったからです
3歳から5歳くらいまで
3歳から5歳の時に
味噌汁を息子さんが
晩ご飯の味噌汁は
彼が作るっていう
すごいですね
味が濃かろうが
薄かろうが
我慢して食べるっていう
自分で
父ちゃんごめん今日は濃い
ちょっと濃かった
味見しろって言ったでしょ
徹底してましたね
そうですね
だから家事に関しては
それこそ
今はできている部分は少ないんですけど
でもやっぱり
自分のことは自分でしましょう
っていう風に
言ってるんですけど
やっぱり育てて
わかったことは
マザコンってこうやってできていくんだな
っていうのがまざまざと感じますね
あれだけ
子供はめんどくさいとか
妊娠出産は
めんどくさい
子育て
産むだけ産むから育てろと言った妻が
3ヶ月くらいした時に
生まれて3ヶ月
6ヶ月くらいかな
楽しそうに子育てして
それこそ小さい子供を
スリングに入れてあちこち出かけて
みんなに
ファザリングジャパンのメンバー
みんなは
子育てしてるから
みんな知ってるわけだよ
ちっちゃいかわいいってやってくれる
息子も
13歳くらいの時に
みんな遊んでくれるから
可愛がってくれるから
本当に楽しそうにしてたんですけど
4ヶ月くらいかな
そのくらいにした時に
楽しそうにしてる僕を見て
しゅーちゃんはずるいよね
何が
こうやってさ
可愛い息子と
いつも楽しそうにしててさ
なんかずるくない?って言い出して
お前の言ってる
自分の言ってることに矛盾感じない?
って思って
はぁ?とか思って
自分が望まれた結果ですけどね
私もやらせてほしいんだけど
って言い出したんで
分かった
美味しいとこだけ持ってかせないよ
って言ったんですよ
美味しいとこだけ絶対持ってかせない
って気持ちがあって
美味しいとこは持ってかせないよ
やろって言ったら徹底的にやってね
言ったら分かった
実はそこから
小学校
4年生くらいまでかな
土日週末は
必ず妻と息子が
2人で出かけます
イベントごと
いろんなところとか
僕も参加する時もありましたけど
家族で行く時もありましたけど
基本的には2人で行って
父ちゃんを
土日休ませる
っていうのを
妻が徹底してくれました
面白い
妻は妻で
ちっちゃい息子を連れて
小学校1,2年生くらいになっちゃうと
あれですけど
それでもカカシャマーって
言ってくるんで
可愛くてしょうがなくて
そういうことやってたりしてるから
カカシャマーが甘いわけですよ
息子にすっげー甘いんですよ
それこそ
海外宿
それこそ味噌汁が熱いと
俺なんかからすると
自分でフーフーして
冷まして飲めよって思うんですけど
熱いね
飲めるかな
可愛いましたね
自分でやらせろよ
それこそ
サッカーのクラブに
電車で行かなきゃいけない
一応
小学校3年生くらいまでは
連れて行ったんですけど
4年生になったら
自分で行かせたいって僕言ったんです
行けますもんね
危ないでしょ
山手線で反対側に乗ったらどうするんだ
だからその時は
駅に行けばいいだけのことじゃない
反対側に乗ったって
山手線だからぐるーって1時間くらいかかったら
本当に戻るよって話をしたら
でも
専業主夫の生活
でも
100円玉と10円玉と
テレフォンカードを用意して
入れ物にして
こういうの用意したから
公衆電話
練習させなきゃとか
海外紙ですね
アホなの?
って思いながら
何年も通ってるところだから
どこで降りてどういう改札を通って
僕言ってるから分かってるから
分かってるよな
息子に言ったら
分かってるよな
じゃあ行けるよな
かかさまが
おいって言われました
すごいねお子さんもママ大好きになっちゃいましたね
クックーってなりましたね
本当にもう
こうやってまたここまで来ていくんだ
もうあの
お母さんがいなきゃダメなんだとか
本当にふざけんなと思って
ガーって思いながらやりましたね
分かりましたありがとうございます
ちょっとねずっと聞いてたいんだけど
あと6分でここを出なくちゃ
このスタジオ借りてるんで
今回はここまでとなります
いや
なんて言ったらいいか分かんないほど
さあ波乱万丈の
電話も長すぎたよ
いやいやいや質問の話でした
しゅいちさんありがとうございました
ということで
今回も最後までありがとうございました
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じゃあしゅいちさんありがとうございました
ありがとうございました
いやいやめっちゃ面白かった
01:42:31

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