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こんにちは、あそびやさんのばばさくらです。
前回初めて、スタンドFMをやってみようと思いまして、
やり方も全然わからなかったので、手探りで一つ録音をして、
誰にもお知らせもせずに、こっそりと投稿したんですね。
なので、誰にも気づかれないと思っていたらですね、
いろんな方が、いいねしてくださったり、反応してくださって、
私はとってもびっくりしました。
いいねくださった方、ありがとうございました。
それで、前回は、自己紹介をしようと思っていたんですけれども、
私がやっている造形教室のあそびやさんのことを話して、
終わってしまったので、
今日は改めて自己紹介をしてみようかなと思います。
よろしくお願いします。
思い返してみると、私は小さい時から絵を描いたり、
図工を工作したりするのが大好きだったんですけれども、
それで中学に入った時は、迷わず美術部に入りました。
そこから高校に進む時に、馬術部って馬に乗る、
馬術部がある学校があってですね、
私はその馬術部にとっても憧れて、そこの学校に入りました。
だけど結局、最初の一週間の仮入部期間の時にですね、
馬に舐められて、おちょくられて、かじられてですね、
それで結局美術部に入りました。
そんな感じで6年間、美術部だったんですけれども、
そこから、やっぱり絵を描くのが楽しいなっていうので、
美大を目指すようになって、美術予備校に通ったりしてました。
中学高校の頃は、私は茨城県に住んでいて、
高校は千葉県にあったんですけれども、
朝学校に行って、そこから終わると都内の美術予備校に行って、
8時くらいまでやって、そこから家までは2時間くらいかかったので、
帰るともう遅くて、そんな忙しい毎日を過ごしていました。
そこから大学に入ったんですけれども、
私が入った大学は、愛知県立芸術大学というのがあるんですけれども、
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そこは美術学部と音楽学部があるすごく楽しい学校なんですけれども、
東京芸大も美術学部と音楽学部があるんですけれども、
東京芸大は道を挟んで敷地が分かれているんですよね、音楽と美術と。
愛知芸大は一つの山の中に美術と音楽が混在していて、
私は学生寮に入っていたんですけれども、
学生寮も2人部屋なんですけれども、
音楽の子と美術の子がペアになるような形になっていたりして、
私は1年生の時は打楽器専攻の先輩と同室で、
2年生の時はチェロを弾く先輩と同室でした。
その寮の中には、今はなくなっちゃった寮なんですけれども、
当時その寮には大きなアトリエがついていて、
そこで美術の子たちが集まって夜中までいろんなものを作っていたり、
あと音楽の子たちのためには防音の練習室というのがあって、
そこにはピアノが1台ずつ入っていて、
楽器の練習もできるようなところなんですけれども、
そういうものもあって、
自炊であったんですけれども、
音楽の子たちと一緒に料理したりとか、
一緒にご飯を食べたりとか、すごく楽しく過ごしていました。
文化祭なんですけれども、
文化祭になるとオペラをやったりするんですけれども、
それも音楽の子たちが歌って演奏して、
そして美術の人たちが舞台美術衣装とか、
そういうのをやって一緒にやったりしていました。
それで大学の話が長くなったんですけれど、
大学で舞台の写真を撮っていたんですけれども、
大学で舞台の写真を撮ったりしているうちに、
写真にはまって、もともとダンスを見たり、
バレエを見たり、演劇を見たりするのが大好きだったので、
よし、そういうのを撮るカメラマンになろうと思いました。
それで日本舞踊とか、
バレエを専門に撮っているカメラマンさんのところにお願いをして、
勉強したいので、と言って置いてもらうことになりました。
撮影に同行させてもらって撮らせてもらったりとか、
あとはその先生の撮ったものを、
当時はデジタルの時代じゃなかったので、
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フィルムで撮るんですけれども、
それを現像したものをベタ焼きって言って、
フィルムの原寸で因果紙に焼き付けていくんですけれども、
そういう作業をとにかく朝から晩までやっていました。
なので朝暗室に入って真っ暗い中で作業して、
夕方出てくるともう日が落ちているみたいなこともたくさんありました。
その時に一日太陽を見ないで、
こんなに寂しい気持ちになるんだなっていうのを初めて体験したんですけれども、
それでもその作業が面白くて面白くて楽しくて、
暗室の作業は大好きです。
撮影なんかについていくとですね、
当時はフィルムで撮るので、
一本のフィルムで36枚しか撮れないんですね。
なのでフィルムチェンジをしなきゃいけないんですけど、
フィルムが36枚目撮り終わって巻き戻している間が
撮影ができないと困るので、
先生たちはレンズを三脚に固定しておいて、
36枚目を撮り終わったらボディだけを外して、
巻き戻している間に次のボディをはめて撮り始めるんですけど、
それで曲の合間にちょっと時間があったりするときに、
まとめてフィルムチェンジをしていくんですけども、
その手際の鮮やかなところだったりとか、
あとはクラシックのバレエの演目だったりすると、
もう全部振付を覚えているので、
本当に無駄にシャッターを切らないというか、
例えばこの振付は右足で踏切ってジャンプをするから、
左足が前に来て顔が正面に来るとか、
そういう振付が全部頭に入っているから、
だから顔が正面に来ないときにはシャッターは切らないとか、
もう本当に多分36枚のフィルムの中で、
私が撮影したら使えるものが3枚ぐらいだったとすると、
先生たちはもう30枚以上のものが全部使える写真というか、
もうその辺が今のデジタルの撮り方とは全く違って、
あとは大きなジャンプが来るときには、
直前に三脚の高さをガーッと下げて、
高くジャンプしているように撮るとか、
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もうそれも本当にものすごいスピードでやるんですけど、
なので自分も撮影させてもらったりするときも、
シャッター音を聞きながらもう鳥肌ものというか、
自分のシャッター音とは全然違うリズムで切っていくので、
すごいなーって思ったりしてました。
そんなことをしながら、大学4年生になって、
そうすると卒業政策というのをやらなきゃいけないんですけども、
私は1回留年していて、卒業政策を2回やっているんですけども、
この1回目の最初の卒業政策のときには、
先ほどお話しした大学内の美術学部と音楽学部の学生が合同でやる
オペラのドキュメンタリーというか、
メイキングみたいなものを撮って形にしたんですね。
そのときは採点の段階で留年ということになって、
先生からの理由は、グラフィックデザインの専攻で写真はダメっていう理由だったので、
そんなさんざんずっと私がやっていることを見てきていたのに、
採点の段階でそれを言うなんて本当に信じられないって思って憤慨してたんですけど、
ただ自分として納得いくものだったかっていうと、
まだまだ考えなきゃいけない部分はあったっていうのも事実で。
何がかっていうと、舞台の写真っていうのは、
そこの舞台上にあるものを切り取って撮るっていう作業なので、
被写体である相手とのコミュニケーションっていうのはなくても撮れるんですよね。
もちろん瞬間に判断して、いいフレーミングで切り取るっていうのはものすごい技術で、
これは作品を知っていなきゃいけないし、スポーツのカメラマンなんかもそうですけども、
望遠の長いレンズで被写体を、たくさん人がいる中から何を狙う、どういうふうに狙うっていうことを
瞬時に判断していくのはものすごい技術なんですけれども。
ただ私が卒業制作で撮ったものは、同じ舞台といってもメイキングだったんですよね。
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メイキング、舞台裏、ドキュメンタリー的なものってなると、
全然撮影に必要な技術は違っていて、コミュニケーションなんですよね。
自分がだいぶ時間をかけて撮ったものだったけれども、
見返した時に自分の人見知りしている、尻込みしている、遠慮しているのがそのまま写真に現れていて、
全然思うようになっていなかったんですよね。
それで次の年になって、2回目の卒業制作になった時には、
人とコミュニケーションを取りながら撮る写真というものにものすごく憧れを持って、
その年はテーマを変えて、愛知県の千田半島の漁港の方に毎日出かけて行って、
その漁港の様子を撮っていました。
魚を撮ったり風景を撮ったりしながら、いろんな方がいらっしゃって、
あの方と話してみたいな写真を撮らせてほしいなと思うけど、なかなか一歩が踏み出せなかったり、
自分と向き合う時間という感じでした。
2回目の卒業制作で卒業することはできたんですけれども、
1年足らずでそんなに自分のコミュニケーションが上手になったわけではなくて、
ここが私の原点になったのかなと思っています。
人と深く関わりたいという思いがこの時に生まれて、
それは今も変わらずずっと私の中にあるなと思っています。
話が長くなるのでどんどん行きますけど、
大学卒業してその後に舞台写真の先生のところに置いてもらって、舞台の写真を撮っていました。
撮ってたんですけれども、やっぱり人と向き合って撮る写真というものへの憧れがどんどん強くなって、
都内の六本木にあったスタジオがあるんですけれども、そこに就職しました。
そこは歌詞スタジオなのでありとあらゆるジャンルの方が借りに来るんですね。
例えば出版社が芸能人のグラビア写真を撮りに来たりとか、
ホームセンターの商品撮影だったりとか、個人的な作品撮りもありますし、
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雑誌の表紙とかCDジャケットとか、いろんな撮影があったんですけれども、
そこで私たちアシスタントの仕事というのは、ライトを組んだりとか準備片付け、
当時はまだデジカメじゃない時だったらフィルムチェンジしたりとか、いろんな仕事があるんですけれども、
いろんな撮影に立ち会ったり、ロケに同行したりとか、そういうこともあるんですけれども、
そこは2年間でみんな卒業していくっていうスタイルだったので、私も2年いなかったですけど、
2年間でみんな卒業していくっていうスタイルだったので、私も2年いなかったですけど、
その後、週刊誌の方に就職しました。
この週刊誌っていうのがまた本当にいろんな撮影があって、
それこそドキュメンタリーから、おいしいお店の取材から、グラビア的なものもあるし、
商品撮影があったりとか、インタビューがあったりとか、いろんな撮影があるんですけども、
パパラッチみたいなこともありましたけども、そういう撮影をしてました。
ただこれは、本当に、
その後、フリーランスに。
そこの雑誌の専属のカメラマンが10人いたんですけども、
その中からしたら、
1人で撮影して、
1人で撮影して、
1人で撮影して、
1人で撮影して、
1人で撮影して、
10人いたんですけども、
その中からしたら、私はもう下っ端だったし、
先輩たちから比べたら、そんな大した仕事はしてなかったけど、
それでも私にとっては結構気が重い仕事が多くて、
もうすぐに無理だなって思ったんですけど、
お給料もめちゃくちゃ安かったんですよね。
めちゃくちゃ安かったんだけど、
でも、当時家を出ていた私としては、
フリーランスになってやっていけるかって言ったら、
自信がない。それでどうしよう、どうしようって悩んでた時に、
ある日、嵐の夜があって、
そこの編集部から外を見てた時に、
そうだ、当時はデジカメじゃなかったので、
フィルムで写真を撮ってたんですけども、
1枚で36枚撮れる。
その36枚の1本のフィルムで、
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今日の空の稲妻、ものすごい雷が鳴ってたんですけども、
稲妻がこの36枚の中で写ったら、
私はやめようって思ったんですね。
稲妻を撮るって、手持ちのカメラで稲妻を撮るって、
すごくタイミングが難しくて、不可能に近いようなものなんですけど、
でもちょっと自分の中で賭けをして、
ベランダに出て、撮ってたら、
撮って36枚撮り終わって、
それを、白黒フィルムだったんですけども、
現像に流してみたら、
36枚目だけにものすごい稲妻が写ってたんですね。
それで、そうだ、よし、やめようって思って、
そこをやめて、フリーランスになりました。
その時の稲妻の写真は、
しばらく大きくプリントして部屋に貼ってありました。
本来、稲妻の写真を撮るときって、
カメラを三脚につけて、スローシャッターって言って、
2秒とか3秒とか、ちょっと長めにシャッター開けとくと、
その間に稲妻が光れば写るっていう感じで、
写る確率を上げていくんですけども、
その時の私は手持ちで、
30分の1秒だったか60分の1秒だったか、
そういう短いシャッターで撮れるかなってやってたので、
それで撮れたっていうのは、結構レアな確率で、
これは神様に応援されてるに違いないって思って、やめました。
フリーランスになりました。
フリーランスになってからは、
来るものを拒まずいろんな撮影してたんですけども、
タウンニュースみたいな、
街中の情報のフリーペーパーみたいなものをやったりとか、
あとは書籍、本の写真みたいなものを頼まれたりとか、
雑誌関係の仕事もありましたけど、
あと学校写真みたいなものも結構やってました。
幼稚園の遠足について行ったりとか、
小学校の行事、運動会とか遠足を通ったりとか、
6年生の修学旅行で日光に泊まりがけで行ったこともありました。
思い返すと当時はですね、
夜に先生たちが宴会をしているような時代で、
今では考えられないですけどね、
そんな修学旅行でした。
そんなことをしながら、
同業の人と結婚をして、
そこからちょっと海外に行ってみようか、
2人で海外に行ってみようかなんていうことを思いついて、
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1年ぐらい準備をして、
スペインの方にちょっと出かけました。
2002年の春だったと思うんですけども、
それから5年ぐらい、
スペインのアンダルシアの南の方のですね、
グラナダっていう町に5年間いました。
アルハンブラー宮殿っていうね、
素敵なお城があるところなんですけども、
その話はちょっと長くなるので、また機会にするとして、
5年経った時に、息子が生まれて、向こうで生まれたので、
そろそろ日本に帰ろうかということで、
帰ってきました。
ちなみにスペインではですね、
2人でウェディングの撮影の仕事をやってました。
日本人がスペインに行って海外挙式するっていう、
そういうプランがあって、その撮影をしてました。
ウェディングの写真はね、とっても華やかで、
楽しい仕事でした。
2007年に帰ってきたのかな。
2007年に帰ってきて、
もうそこからはしばらく私は完全専業主婦というか、
子育てマッシグラでやってました。
スペインでのことも、子育てのことも、
本当に面白いことがいっぱいだったというか、
気づきの連続というか、話し出したらキリがないので、
また今度にしますけれども、
それで子供が、上の子が10歳ぐらいになって、
なった頃からまたポツポツと、
写真の仕事をしたりしなかったりしてました。
そんなことをしているうちに、
息子の出身だった幼稚園の方から、
プレーのクラスがあるんですけれども、
それを手伝ってみないといけないと言われて、
そこからプレーのクラスを手伝い、
幼稚園をちょこちょこ手伝い、
また関係の保育園を手伝いし、
そこから小学校でボランティアをしたり、
小学校で学習支援をやったり、
また中学校でボランティアをしたり、
気づけば、誘っていただくままにやっていたら、
保育園、幼稚園、小学校、中学校と、
全部の世界を見させていただいて、
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私はそういう子どもたちと話をするのが本当に好きなんだなって実感しました。
そんなことをしながら、
3年前の5月に遊び屋さんを始めました。
もともと2015年ぐらいのときに、
一回遊び屋さんを始めたことがあって、
それは完全に我が子ありきというか、
我が子がいて、近所のお友達がいて、
そういう輪の中で、
家でやればできるけど、なかなかめんどくさくてやらない遊び、
炉を溶かしてキャンドルを作ってみたりとか、
そういう工作系のことをやっていて、
子どもたちが大きくなるにつれて、
一回それは場所もなくなっちゃったりして消滅したんですけども、
そこからまたやってみたいなと思って、
3年前にこの遊び屋さんを第2期というかスタートさせました。
今も我が子たちは、
上の子は高校3年生になっていて、
下の子も中学2年生になっているので、
私がやっているこの遊び屋さんに加わることはないんですけれども、
この第2期の遊び屋さんを始めたきっかけというのは、
最初の配信のときにお話しした通り、
上の子は高校3年生になっていて、
最初の配信のときにお話しした通り、
上の子の中学校時代の不登校がきっかけになって、
上の子が教室に行かなくなったときに、
最初は勉強の遅れ、学習の遅れみたいなものを
私はすごく心配したんですけれども、
でも3年間通して本当に気づいたことがいろいろあって、
一番大事なことは授業に出られたとか出られなかったとか
そういうことではなくて、
その子自身が自分の将来を信じてワクワクして楽しみにする、
自分の未来を楽しみにできるか、
もうそれだけだなと思いました。
それさえあれば後のことはどうにでもついてくる。
でも子ども自身が失望してしまったりすると、
なかなか前に進めない。
それには何が大事かというと、
大人が子どもたちの未来を信じて楽しみにすること、
もうそれがとても大きいなと思いました。
大人たちがその子たちの将来をワクワクして学ばせてみるというか、
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そうすると子どもたちが、
自分の人生は自分のものだ、
自分の価値観で生きていいんだって言って動き出すんですよね。
なのでちょっと話がまわりくどくなったんですけども、
遊び屋さんで大事にしていることっていうのは、
子どもたちがいろんなものづくりを通して、
自分の探求に対してワクワクするっていうか、
自分の経験に自分がワクワクして、
そのワクワクがまた次の探求を呼んでくるというか、
次のワクワクを呼んでくるっていう、
ワクワクの連鎖みたいなものをとても大事にしているし、
それでいいんだよっていうか、
形になるとかならないとかじゃなくて、
自分の中で広がっていくこと、
それが楽しいよねっていうことを伝えたいし、
大事にして遊び屋さんをやっています。
そんな感じで、
今日は普段なかなかお話しできない、
私自身のことをお話しさせていただきました。
長い時間お付き合いいただきました。
また今度は学校のことについてもお話ししていきたいと思います。
またよろしくお願いします。
バイバイ。