ウィーン万博が日本文化に与えた影響
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サマリー
このエピソードでは、1873年に開催されたウィーン万国博覧会が日本の文化、特に美術や工芸、そして行政システムに与えた影響について掘り下げています。当時の日本の政府関係者、特に大久保利通らはウィーン万博を視察し、そこで得た知識や情報を日本に持ち帰りました。彼らは単に日本の文化を発信するだけでなく、西洋の進んだ制度や概念を学び、日本の近代化の礎を築こうとしました。ウィーン万博で展示された日本の工芸品は西洋にジャポニスムという大きな影響を与えましたが、同時に日本側も西洋の文化や技術を積極的に吸収しました。 特に、町田久成は博物館学の基本を、九鬼隆一は「アート」や「工芸」といった概念を日本に導入し、美術というカテゴリーを確立する上で重要な役割を果たしました。これらの新しい概念や制度は、当時の日本社会においては理解されにくい側面もありましたが、大久保利道らは強い信念を持って近代化を推進しました。ウィーン万博での経験は、日本の国内における統一意識の醸成や、文化を国家的な政策として育成・管理していくという考え方にも繋がりました。結果として、上野での博覧会開催や博物館制度の設立など、現代に繋がる文化基盤の形成に大きく貢献したことが語られています。
ウィーン万博と日本の視察団
ここは、八ヶ岳三陸のアートカフェ・ブルーテラス。
今日も、マスター夫婦とゲストの皆さんが、アートと音楽に包まれ、何やらワイワイ楽しそうに盛り上がっていますよ。
この番組は、大きな暮らしができる小さな家。
小沢スタンダード株式会社小沢建築工房の提供でお送りします。
皆さんこんにちは、ブルーテラスマスターの伊藤です。今週も美術の話で一時を共にお過ごしください。
本日も常連のあやちゃん松浦さんご来店いただいています。ありがとうございます。
ありがとうございます。こんにちは。
さあ、先週はですね、どうして上野に美術館や博物館が多いのでしょうか、というテーマで進めてきましたが、今週もその続きです。
前回の理由としてはですね、第1回内国官業博覧会。あ、言えた。これ前回初期間違えてね。
官業だったんですね。
内国って言い方もね、ちょっと外国に対して、あ、内国だなっていうことなんですけどね。官業博覧会が開催されたということなんですね。
今週はですね、そのきっかけとなった1873年に開催されたウインバンパクについてですね、話を進めていきたいと思います。
世界に広がった。
そうなんですよ。だから世界から影響を受けて、1877年に上野でこの博覧会が行われたわけですよ。
じゃあそのきっかけとなったウインバンパクはっていうことなんですけど、これ以前にね、すでに取り上げてジャポニズムはここから始まったんだっていうか。
面白かったですね。
またその時の画像をですね、今カフェでも出してますけどもね。
オーストリアのですね、ウィーンですね。で行われた博覧会。万国博覧会ですね。いろんなとこでやるわけですけども、万国博覧会ということで。
これをですね、日本の政府の人たちが見に行ったんです。
ずいぶんね、日本の政府の首脳たちがね、どっとね、海外に行ってしまった時期があるんですよ。
え、そんなに行ってしまっていいの?っていうぐらい。
みんなで見に行った。
でもそのね、見に行ったことに対して、西郷隆盛とかその他の人たちが、なんだあいつらは海外に遊びに行って、この日本がこれからという時に行ったような若干批判的なものもあったりして。
まあそういう件もあったということですね。
そうなんですよ。
遊びに行ったんじゃないですか。
ないんだけども、常に情報がないし、いろいろなことが誤解されていたんですね。
大久保利道。
大久保利道。
これ、最もその時の内務卿として非常に重要な役割。
えっとね、日本のビスマルクなんていうふうにも世界的には言われてる人だそうです。
西郷隆盛のなんか幼馴染ですね。
そうですね。
2つぐらいしたですね。
同じ町で生まれて、下級武士としてね、お互いに支え合って。
ご近所同士だったんですよね、確か。
そうなんですよ。
ところが、彼自身は非常に冷静で、分析力がすごく優れていて、そういうことで海外に行ったと。
ところが、相当資材を投げ売ってね、芸品館みたいなものがあったんだけど、どのとも価値で開けてしまったんで、ないと困るからといって、
自分でお金を出して、家を建てて、そこを芸品館代わりに使ってた。
それを新聞社が見て、私服を肥やしてるっていうようなことを新聞に書き立てる。
そうそう、それが全国に広まる。
なんかこんな贅沢な建物を建てやがってって感じ。
そういうものを、例えば鹿児島にいる人たちが、特に鹿児島氏族たちが、なんだあいつはっていう。
というような誤解も相当あったようです。
もう少し今のようにいろんな情報が伝わっていれば、そういう誤解もなくて、西南清掃も避けられたんじゃないかなというふうには言われてるんですけども。
そんなようなことなんですけど、でもその時に大久保敏道も行ったわけなんですね。
ウィーン万博日本館の展示と誤解
行ったんですね。
ウィーン万博に行きました。
で、日本も相当力を入れましたよね。
ウィーン万博の日本館。
写真が残ってるのがすごいですね。
そうなんですよ。
神社みたいな建物と、その前に太鼓橋が架かってて、池もありますか?
日本体がね。
日本体みたいになってますよね。
すごいな、泳いでいるのかしら。
そうですよね。
なかなか後期が間に合わなくて、実際に開会されてからも作っていてね。
そこのところがまた魅力的なデモンストレーションになったというような。
動く展示みたいなの面白かったですよね。
そうですよね。
それからライブですよね。
すごい狛犬もいたりとかして。
本当だ。狛犬も。
でもお隣は多分トルコとか中東っぽい建物が。
イスラムの建物。
万博っぽい風景ですね。
そうですよね。まさしくいろいろな国の建物があって、そこに様々な人が見に来るという。
万博そのもののね、象徴的な場面ですよね。
この屋根って出雲大社の屋代ですよね。
こういう写真もあるんですけども、これも前回ちょっと見ましたけど。
これは実際に新聞で紹介されたイラストですよね。
実際職人さんがね、仕事してますよね。
そうですね。足を運んだりとかね。
鯉のぼりがね、うなぎみたいになってますね。
ちょっとね、すごいねこれね。
で、これを行うことで、ここで日本というものを発信するんですけど、
実際に行った日本の政府の高官たち。
大川としみじょう代表ですね。
行った人たちは何をしたか。
日本をどうですかどうですかと言って、セールスをしに行ったのではなくて、
情報を集めて行ったということなんです。
向こうの情報。
そうなんです。
視察?
視察ですよね。
いろんな人に会う。
それからこういう行政なんかはどんなふうに行われているんだろうかとか、
そういうことも視察を込めて、1年ぐらい国を留守にするんですよね。
言って帰るだけでも大変なことですけどね。
船ですもんね。
で、実際に見てきたもの。
それを日本の。
上野で。
上野でもやる。
再現したってことですよね。
同時にもっといろんなシステムとか制度。
それをですね、高めていこうというようなことをしていくわけなんです。
例えば教育であるとか、文化をどう国として育てていくかとか。
様々な行政のシステムなんかも学びに行ったということなんですね。
なんとなく最初のウィン万博では日本のジャポニズムでこういうことが広がってきたということなんだけど、
同時にそこに行った人たちはたくさんのものを吸収してきて、
そしてそれで上野の万博をしながら、
同時に行政のシステムなんかをどんどんと変えていったと。
ところがやはりこれがね、実際に見に行った人と全く今のように
情報がすぐ伝わるわけではないんで、
当然感覚のずれがあるわけですよね。
これがいいなと言っても、いやそんなの見たことないよ。
なんでそんなことするの?
想像できないですよね。
そうすると大久保がやることに関しては、
多くの人があいつは何勝手なことやってるんだというふうにも見られるわけです。
受け取られちゃって。
ですからその中でやるような圧力が生まれてくるっていう。
そう考えると大久保さん苦しかったでしょうね。
こんなにいいものなのに、なんで君たちは理解できないんだみたいな。
相当でも冷静にいろいろなものに向き合って、
ぶれなかったっていうことも言われてる。
でも一人じゃなかったってことですね。
その時に何人もの高官が一緒に行ってるってことはまた違いますよね。
それを一人だけで見てやると本当に孤立しちゃうんだけども。
何人もいるから、こうだったよな、当たったよなっていうことだね。
そういう点では外に情報を日本を理解してもらうための情報を発信するだけではなくて、
世界の情報を集めてくる。
そういうようなことがウィーン万博の会場で行われていた。
国内でそれやったんですね。
博覧会による国内統一意識の醸成
日本の国はこんなものがあるってことを日本の人に知っても
今まではそれぞれの藩の中での生活ですよね。
だから私の町は、私のふるさとはこうがある。
だからそれこそ江戸と鹿児島とか全く違うわけですよね。
それを一つの日本なんだという意識を持ってもらうために博覧会をしよう。
できるだけライブで、先週も言ったように機会を犯してこんなものができるんだとか。
というような。
それをですね。
じゃあ一つに統一する上ではやっぱりきっかけとしては必要だったってことですよね。
そうですよね。
なんかこうお祭りをやって人を集めて一つなんだよっていう意識。
そうですね。
それぞれの藩での階級とかいろんな芝居の中で生きてたものが実は日本国っていう。
ちょうどね大久保と清道を中心とした当時の官僚たちは、
その段階では例えば鹿児島の人たちとかをたくさん徴用するということではなくて、
福島の人であるとかいろいろ様々なところの人たちの能力を一つに結集し始めるという。
そんなようなこともしていて。
何しろ日本をいかにまとめなくちゃいけないかという。
そういう方法として分かりやすく行ったっていうのが博覧会という。
確かに分かりやすいかもしれないですね。
実際見ればね。
そうかって分かる。
本当に見たことがない。
ある種のテーマパークですね。今風に言えばね。
すごいものがあるわ。なかなかすごい。
日本も捨てたものじゃないじゃないか。
ですよね。
テーマパークね。
地図見て思ったけど、上野のあの辺って本当にテーマパークですね。考えてみたら。
上野楽しいですよね。
楽しいですよね。
しかもリアルなね。夢の国ではなくて。
そうそう。
大久保利道以外に、町田ひさなりとか、久喜隆一というような方たちがいて、
町田さんは何をしたかというとね、博物館の文化を調査してね。
収集するとか、分類するとか、展示するとか、保存するという博物学の基本を調べてきた。
久喜隆一さんは何をやったかというと、まだ日本ではアートという概念がないということを、
アートということ、それから工芸ということで、ファインアートとクラフトというその概念を日本に持ち込んで、
美術というカテゴリーを提案して作っていったという、そういう役割をしているんですね。
なんか今私たちが当たり前に思っているようなことが、実はこの明治のこの時期に一つ一つ、概念とかそういうものが作られていったということですよね。
だから知っているとはね、こんなことずっと以前からあるんじゃないかと思うんだけど、そうじゃなくて、
こういう時代の大きな変化の中で取り入れて、そのことが近代化をしていく、そういうしずえになってきている。
美術とか工芸って、新しい言葉なんですね。
そうですね。これはイギリスなんかでね、アーツ&クラフトという考え方が生まれてきましたから、それほど時代的に遅れているわけじゃないんですよ。
割と本当にリアルタイムで伝わってきているなという感じはするんですけどね。
これはどんどん生活の改善というか、世界的にもいろいろな権利だとか生き方とかということが変わってくる流れの中でこれが生まれてきたな、そんなふうに感じるんですけども。
ここら辺のところは、やはりもう一度名人というものを改めて見ていく必要があるなということを調べながらつくづく感じたところなんですけど。
そうですね。
同時に日本の文化というのはこんなふうにウィンで紹介されて、ジャポニスムが始まった。
これはウィンの博覧会の写真ですか。
そうですね。そんなことをいろいろ語ってきました。
後半はもう少しどんな管理、どんな仕組みを学んだかということに触れたいと思います。
ウィーン万博の成果と日本の近代化
それではフロアさん、今日の音楽をお願いします。
本日の曲は三階さんのさよならを止めてです。
一緒に歌ってください。
見せたい
あげる鼓動
二人さえ見つめて
わけもなく
瞳
探り合った
その心は何を
今
直せ
まだ決まってなどいないから
今二人は
見つめ合う瞳
動けない
風よ
雨よ船
嵐になれ
すべてよ
舞い上がれ
ただいまの曲は三階さんのさよならを止めてでした。
前半はウインバンパクに行った三人の方、
大久保敏道と町田ひさなり、九木隆一を紹介してきました。
大久保さんは国の維新とか産業育成、
食産工業とかいろんな産業を起こそうというようなこと、
これがいかに大事かということを、
国の方向性、どうあればいいかということを、
しっかりとある確信を持ってきた。
町田ひさなりさんは、
博物学の基本で収蔵すること、分類すること、展示すること、保存すること、
九木隆一さんはファインアートとクラフトという分類の概念を学んできて、
そして日本に定着させるきっかけを作った。
そのきっかけを作って、具体的に現れたのが、
上野で行われた第一回、来国食産…。
ごめんなさい、間違えた。
産業博覧会です。
この食産とかね、この辺からごちゃごちゃ言ってますよね。
そうね。
もう日頃にあんまり使い慣れない言葉ってくるとね。
今あんまり使わない言葉ですよね。
ぜひ皆さんもちょっと覚えてください。
試験で言うながらね。
はい、後で試験出します。
そんなことなんですけど、
でもね、これ先ほどもね、ごくごく当たり前の感覚を、
我々の中では当たり前の感覚っていうことだったんだけども、
当時はね…。
この写真は先ほど言ってたこのウインの…。
今写ってるのはそうです。
展示…。
すごいですね。
キンヒョッコ。
これ金ですよね。
金のキャッチヒョッコ。
そしてこっちさつま焼きかな。
そうですね。
何だ?イマリ?じゃない?
何だろうね、ちょっと色がついてないから。
綺麗な。
あと石道路があって、手前にあれ鎧ですね。
ですよね。
ここにね、菊の拷問の…。
何だろうね、かかって。
何しろね、こういうものを見せたい。
でも何しろ店に行ったんだけど、ちゃんといろんなものを持って帰ってきた。
で、その中で文化っていうことをね、国の政策の中に落とし込んでいく。
定着させていくっていうことを、強く必要であるってことを感じたっていうことなんですね。
だから国家が文化を管理していく。
なんか管理するって言ったんじゃなくて、育てていくっていうことね。
だからそれぞれが地域でやってたことを、今度は国全体がそれを育てていく。
同時に管理していくという。
国家による文化の育成と管理
で、博物館制度っていうのを作ります。
それから美術教育というのですね。
それから産業振興。
それはデザイン政策っていう。
へー。
デザイン政策。
デザインという言葉はね、まだこの時代は衣装とかね、そういう衣装という言葉で使ったものですね。
そして国民を啓蒙していこうと。
啓蒙する方法として博覧会を開いていくってことなんですけど。
これも6回計画されていたんだけども、5回までで、6回目がちょうど日露戦争のために中止になったけども、
今度は国外行うんじゃなくて、地方がいろいろな博覧会をそれぞれが行っていくという、広がっていくっていう。
へー。
でも自分たちが持ってるものをもう一度掘り起こして、そうやって見てもらうっていう、この行為って大事ですよね。
そうですね。
意外と自分のものは大したことないとか思ってる。
そうですよね。
他の人が見てすごいっていうところで再評価というか。
そういうことですね。
そうですよね。
そしてそこに気が付くことで、先ほどの啓蒙じゃないですけども、次に繋げていくっていうか。
ウィンのときも先生お話になった、マスター話してた、カンナの切りくずにオーストリアの王女様が感動して持って帰ってくる。
ああいう職人の技。
技ですね。
あのように薄いコキを切るっていうのって、日本人から見たら別に当たり前意味だけど、西洋人から見たらなんかすごいこれはっていうふうに。
それもその国の王女、女王になりますね。
エリザベートですからね。
それが大事に包んで持って帰ったっていう。
その行為がやっぱりすごいですよね。
何しろ本当に薄いね、昨日ね、削ったカンナ。
香りも良かった。
いい香りがしたんでしょうね。
日の木ですよね。
だから香りであるとか、多分ね、カンナを削るときの音とかね。
音ね。
そういうものに対しても非常に興味を持ったのではないかなって気がするんです。
でも何しろそういうような発信。
でも同時に色々と貪欲に持ち帰ったっていう。
その持ち帰った一つの、まず最初の成果としてこれは何と言ってるんだけど上野が選ばれた。
でも上野が選ばれたっていうのも、やけの肌だったとか、そういうようなことはあったとしても、
そこでやった意味っていうのはそういう意味では、
人が争った後に新しいものをそこに作って、
視点を変えていく、意識を変えていくということにおいては非常に適切な場所だったのかなっていう気がするね。
そうですよね。
今ある、それができることによって今までのものが一新されるっていうか、
人の記憶からまた違う意味で刷り込まれてきますよね。
そうですよね。だから確かに悲しみや苦しみ、あるいは憎しみもそこであった。
でもその世を礎にして、次の時代を作るんだというところにね、持っていくという。
ここのところはね、苗見郷だった大久保利道がものすごく強く願望というか、絶対するんだっていう。
ですから、西南戦争が始まった年なんで、一時は内閣の中では、やめよう、そんな場合じゃないだろうというような声もあったようなんですけども、
いや、あえてやるんだと。日本が一つ間違えたらバラバラになっちゃうから、一つまとめること。
戦争はいずれ終わるから、終わったらその次のことを考える必要があるということを、
それをね、大久保利道は常に声にして、実際に行動していたということなんですよね。
そうなんですね。
技術の蓄積と自信、そして未来への展望
ですから、そういう意味で本当に、ヨーロッパとかアメリカにしても国内のそれぞれの国の中での非常に不安定な要素もあって、
その中で日本が台頭してくる。
もう一つは日露戦争ですよね。
これもやはり、勝つことによって日本が国際舞台にいよいよ出ていくというきっかけにもなるわけですけど、
結果的にはね、いろんな歴史で見ると、さまざまなここで考えなくちゃいけない部分もあるんだけども、
少なくとも国際的な立場に立っていくという、そんなようなこともね。
つい最近まで鎖国してた国が、40年後にはみたいな。
そうなんですよ。
列強と台頭に肩を並べられたみたいな。
まだまだね、背伸びもあるかもしれないし。
でも同時に台頭してきたことにおいては、
欧米の国っていうのは、すごいというよりも一つの脅威としても見るところもあったんじゃないかな。
ただやっぱりこの工芸品を見ると、美しさと仕事の丁寧さってすごいですよね。
そうですよね。
江戸時代までのこういう技術の蓄積があったからでしょうね。
そうですよね。
西洋のものに触れて、それを自分のものとして受け取れたのは、江戸時代までのこの美術工芸の基礎があったから。
基礎があったから。
下地があったからこその。
そうですよね。
ですからやはりものを作ることに関しては、日本人は本当にコツコツと工夫をして改良を加えてきた。
ですから最初モデルにしたものよりも、もっと優秀なものを作るという。
これは今も言われますよね。
キラキラして、黄金の国ジパングって感じがしますね。
ちょっとこの展示なんか、骨董屋さんみたいな。
雑然としてる感じ。
並べてあるって感じ。
金のシャツを見ると、私は名古屋ですので、金シャツだとかね。
こんなに間近で見ると、こういう顔をなさってらっしゃるんですね。
そうですね。
いやいや、何しろそういう意味での文化的なものに対して、もっともっと自信を持っていいよ。
敷地率も日本は相当高かったということもありますね。
ですからそういう意味では、どんどん新しいものを吸収して、それを取り入れていく。
そういう力があったという。
そのためにも何しろ、大久保と清道が何しろ一つまとまらなくちゃいけないんだ。
バラバラになっていけないんだっていうようなね。
そんな思いでね、行ったという。
その背景なんかを見ると、それでもその源がウィンバンパクに行って、
もしあの時に、いやそれどころじゃないだろう、海外なんか行ってる場合じゃない。
日本のに手をもっと振っていったら、こういう視点はもっと遅くに生まれてくるっていうね。
私たちの大好きな美術館、博物館が。
いずれできたとしてもね、ただ上野にはそんな形じゃなかったかもしれないという感じだと思います。
なるほどね。
それでいろいろ話したんだけど、あまり今日は美術の話はしてませんので、
次回美術の話をもう少し掘り下げていきたいなと思います。
続く上野。
美は見る人の心の中にある。
次回もアートを巡るひと時をご一緒に。
マスターの伊藤でした。
この番組は大きな暮らしができる小さな家。
小沢スタンダード株式会社小沢建築工房の提供でお送りしました。
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