00:09
ここは、八ヶ岳三陸のアートカフェ・ブルーテラス。
今日も、マスター夫婦とゲストの皆さんが、アートと音楽に包まれ、何やらワイワイ楽しそうに盛り上がっていますよ。
この番組は、大きな暮らしができる小さな家。
小沢スタンダード、株式会社小沢建築工房の提供でお送りします。
皆さんこんにちは、ブルーテラスマスターの伊藤です。
今週も、ビーツとの話で一時を共にお過ごしください。
本日も常連のあやちゃん、松浦さん、ご来店ありがとうございます。
毎週も足を運んでいただきまして。
上野がコンティニューですからね。
いつも美味しいコーヒーありがとうございます。
今週もまだ上野やるの?
それはもう。
私は行ってますからね。
ただ、また聞かされるのか。
言わずにぜひ聞いてください。
広いですからね。
早く美味しいものの話にならないかなと思ってるんですけど。
今までの歴史的な話とかね。
ちょっとカタカタですね。
ちょっとカタカタですけどね。
今日はいよいよアートの話をしたいと思います。
まず最初に、どうして上野には美術館や博物館が多いのでしょうか。
ウィーン万博が日本国内にどのような影響を与えたのか。
そんなテーマで進んできましたが。
いよいよ美術の話で。
若干、華濃郊外の作品が展示されたということで触れました。
今日もそこの時に展示しました作品を見てます。
両部ですね。
両部ですね。
六極一層です。
松の絵と。
人物が描かれてますね。
ここでは縦に並べてますけど。
それが向き合っているわけなんですね。
中心の方が遠くになっていって。
そして少しぼやっとしてるような空気遠近法のような。
富士山もあるのかしら。
違うかな、お山は。
そうですね。
こういう山を見ると富士山を思い出してしまう日本人の習性があるかもしれない。
なんとか富士っていっぱいありますよね。
ありますね。
こんな作品なんですけども。
これが第一回の内国官業博覧会に出された作品です。
03:01
これがですね。
ちょっと見ると。
これはね。
虎。
虎の絵なんです。
猫じゃないですよ。
猫?虎?
違いますよね。
竹と虎。
そうです。
ちくり猛虎図。
明治15年の作品です。
猛虎っていうよりなんか可愛いですね。
可愛いですね。
なんかね、可愛いな。
猫に近い。
表情がそう見えます。
こんな虎だったらそばにいてもいいかなとかね。
水墨画って言うんですね。
黒と。
そうなんです。
で、博覧会があったのが、第一回があったのが1877年ですから、これはその5年後なんです。
ずいぶん業務の絵と雰囲気違うでしょ。
そうですね。
いろんな絵を描いたはいるんですけども、ずいぶんこういう絵が変わってきました。
やっぱり虎を見て描いてないからですか?
上野動物園に虎はいなかったんですか?
まだいないかな。
猫がいたから。
猫っぽい。
日本国内を虎を見せる工業とかね、そういう工業主がいていろんなとこ回ってたって言われてます。
あったんですか。
中国から連れてきたのかな。
中国から。
いや、もう船でいろいろ。
どこかの国からですけど。
そういうことは記述があったんで、実際にその虎の絵を描いて博覧会に出したっていう。
すみません、今ちょっと名前が出てこないんですけど、アメリカの博覧会で虎の絵が有名になった日本の絵師が、絵師とか画家がいるんですよ。
ですから、その人もやはり岐阜の方出身で、岐阜に虎を見せる見せ物があって、それで虎を見た。
絵を描いたっていうこともありますから。
何しろ江戸時代と違って明治に入ってくるといろんなものがどんどん入ってくる。
猫も虎の仲間ですから、きっとそういうことを聞いて猫の大きいのだよとかって書いてあるかもしれない。
かわいいもんね。
かわいいですね。
怖くないですよ。
今お腹いっぱいなんでしょう。
なるほど。
明治15年に描いた竹林猛虎図という、ラジオをお聴きの皆さん調べてみてください。
かのうほうがい、竹林猛虎図ということで出てくると思います。
本当にかわいい虎です。こんな虎になる、我が家に一匹。
大きさを考える。
目の上に毛虫が乗ってるみたいな。
非常にユームラスに描いてますよね。
かわいらしい。
これがですね、かのうほうがいです。
さっきの虎の方ですか。また違いますよね、このひぼかんのん。
06:01
ひぼかんのん。
これが、前回、最初の時ですよ、松浦さんが。
最初に出た言葉がひぼかんのんという言葉で、さすが松浦さん。
これはやっぱりいいと思いますよ。
かのうほうがいって写真ですよね。
村長さんみたいですね。
画家というか、田舎の校長先生みたいな。
そう思いました、私。うちのおじいちゃんの家みたいな。
ちょっとその辺にいそうな。
昔はね、こういうふうに描いてもらいましたよね。
この写真なんですけども、
ひぼかんのんを描き上げた4日後に、
1888年11月5日に死去したんですね。
実はその段階では、東京美術学校の教官に任命されていたんです。
ところが、教官になる前に亡くなってしまった。
講義はしないんですね。
で、今見ているひぼかんのんと、
ちょっと対象とするのがあるんだけど、この虎。
絵?みたいな。
それから、博覧会に出したこの絵。
画風が全然違いますよね。
違ってますね。
当然ひぼかんのんは色がついてますね。
顔料が。
縦長ですね。
縦長です。
もうちょっと拡大してみると、こんな風にね。
顔の表情まで細かく。
黒い縁取りはなくて、本当に面として。
若干縁取りがあるにしても、
非常に色の使い方が西洋画ですね。
西洋画ですね。
こういう絵を描く人いたよね、オーストリアの。
石粉とか描いた人。
クリムト?
色味はそんな感じですね。
クリムトっぽい色使いやん。
クリムトが逆にカノン派の、
ああいう金箔を貼ることに影響を受けてるっていうのは。
なるほど、じゃあこっちが先だね。
どっちかというと、お互いにそれぞれ影響し合ってるってことですよ。
すごいですね。
女性のような男性のカノン様で。
確かにそうですね。
普通はひげが入ってるんですよ。
ですよね。
だから性別不明というか、男でも女でもない。
ですから一つこの姿っていうのは、
何しろ人間、将来って言いますか、
こういう姿になりたいという理想の姿として、
カノン様があったりするわけですから、
神様としてではなくて、
そういうような理想の姿として現れると、
男女は関係なくなってくるという言葉なんですけどね。
09:03
赤ちゃんがへそのをまだつけたまま、
カノン様のところに。
何をくるまってる感じですね。
そうですよね。
この絵を描いた方外なんですけども、
出身は萩なんですよ。
萩?
萩藩。
山口県?
山口県。
となると明治維新では、
倒幕の戦闘を切ってましたよね。
ですから、
その萩藩のおかか絵師の息子として誕生します。
一応、カノン派なんですね。
ただ、江戸にいなくて、
萩藩のおかか絵師ですから、
結局、江戸だけでは、
どんどん出身も広がってくるんで、
食べていけないから、
いろいろな藩に広がっていって、
地方に広がっていって、
そして、そこでまた方外は江戸に来て、
そしてそこで、
カノン派の本流の手ほどきを受けるということで、
小壁町カノン派というところに入門して、
絵の手ほどきを受けるんです。
小壁町?
小壁町。
小壁町。
ちょうど、
銀座のあたり。
銀座のね。
そうね。
いろいろなね、
カノン派もいろいろな、
それぞれ分けてお城の中の屋敷の絵を描くところもあれば、
さまざまな分野を、
それぞれ住み分けていたようなんですけどね。
小壁町にはですね、
今、銀座でいうと有名な、
パブキ座。
パブキ座。
そうなんですね。
芝居なんかをするという、
一つの江戸の文化の象徴的な町でもあったんです。
その中に、
小壁町にあるカノン派の、
絵を描く人たちが集まっていたってことですか?
絵どころっていうね、
絵を描くところがあったんです。
そんなね。
そこで、
いろいろと学んでいくんだけども、
ちょうど、
カノン派、実は、
小壁町のカノン派は10代で終わっちゃうんです。
というのは何かと、
明治になると、
お抱えする大名もいないわけですよ。
パトロンがいなくなっちゃう。
だから政府直属だとか、
諸藩の御用だとか、
そして地方に行った。
地方に行ったのが、
法外のお父さんなんだけど、
そしてまた戻ってきたんだけど、
もう江戸幕府がなくなってしまったために、
そこで終わってしまうんですね。
ところが、
法外自身は、
その伝統を学んで、
それから今度は、
今まではパトロンがいるとか、
12:01
そういう関係ではなくて、
自分の絵を描き始めるっていうことが。
えー、どうやって収入を得るんだろう。
だから売れるっていうこともある。
買ってくれる人が。
その後は文化政策に、
もっと国が文化政策に力を入れていこうというような、
流れも生まれてきて。
それで国内、神業博覧会。
でも、当然実力があった。
そういう絵師として認められていたから、
そこに出したっていうことなんですけど。
この絵は、どこにあるんですか?
この秘墓観音の絵って。
秘墓観音の絵、どこですかね。
お寺かどこですかね。
切手にもなってますよ、昔。
そうなんですか。
縦長のね。
なんか日本画だから博物館。
博物館ですかね。
ちょっとごめんなさい。
今ね、ここだよっていうふうに言えなくて、
あれですけど、
多分これ東京の博物館にあるはずです。
本当にこれは大事な作品です。
でもこういうふうなものをね、描いたっていうことは、
依頼されて描いた。
描きたいものであったのかもしれないけれども、
依頼されて、
で、納めるべきところがあったっていうか。
いや、ちょっとそれは私今名言できないのは、
彼がこういう作品を描いたっていうことで、
今日は題に出したかったので、
実はどういう経緯でこれが生まれてきて、
誰が依頼したか、
今どこにあるかってことがはっきり言えない。
ちょっとこれまた調べて、
これはお話できればなと思います。
でもこれだけね、
これ最後の作品なんだけども、
作品がどんどん変わってきた。
そうですね。
ただこのひらびやかな雰囲気は、
可能派の非常に金箔の流れを組んではいるんだけども、
でも西洋絵画を。
西洋っぽい。
はい。
そうね。
宗教画っぽくもないですよね。
そうですね。
かといって、
やっぱりそういう、
鋼合しいものも感じるし。
そうなんです。
ですから今までの伝統を引き継ぎながら、
新しい姿に変えていくという、
一つの最後の試みとして、
このひぼ観音というのが存在するということなんですね。
衣というよりも、
ドレスという感じですもんね。
そうでしょうね。
さあ、そんな話をしてみましたが、
また後半はですね、
その崩壊に影響を与えた人について、
触れたいなと思います。
それではフロアさん、
今日の音楽をお願いします。
はい。本日の曲は、
三階さんのブルームンブルーボサノバです。
15:53
三階さんのブルームンブルーボサノバ
三階さんのブルームンブルーボサノバ
18:56
ただいまの曲は、三階さんのブルームンブルーボサノバでした。
はい。それではですね、
可能崩壊に影響を与えた人ということで、
これはね、
日本史、高校時代の日本史を思い出すとですね、
必ず出てくる。
そうですよ。
はい。
三階さんのブルームンブルーボサノバ
あったっけそんなの?忘れちゃった。
勉強してない。
いやいや、日本の美術をいろいろと。
結局、西洋化によってね、
日本のものをどんどん否定していく方向が強くなってます。
国内ではね。
国内ではね。
だから海外ではすごい。
だからそういう点では、
二足三門で海外に出ていってしまったっていうのは、
自分の持ってるものを評価しないからっていうことがあったんです。
で、改めてそこに評価をした人がいるんですね。
それが、フェノロサ。
フェノロサ。
アーネスト・フェノロサ。
フェノロサ。
外国人。
アメリカ人です。
アメリカ人。
それで、彼はですね、
1878年に頃にですね、来日して、
東京大学の哲学の講師になりました。
へー。
で、東京美術学校とかを作るとかね、
日本美術院の創設をするとかですね、
いろいろ、そういう助言を、
さまざまな助言。
ですから、日本政府が文化行政をもっともっとしなくちゃいけないというところに、
ある種招かれたというふうにも考えられます。
この時代ってちょうどバケバケの小泉役さんの頃ですね、東京大学。
そうそう。
そういうところですね。
で、弟子の中でもう一人重要な人がいる。
岡倉天心。
へー。
この人もね、だいたい日本史の中に出てくるんですよね。
覚えてる。
そうですよね。
フェノロサと岡倉天心という指定関係なんですけども、
この二人がですね、
邦介と出会います。
で、邦介が作品展に出した作品を見て、
21:02
すごい!と言って認めていく。
で、そこに西洋的な要素も加えながら、
日本の伝統をどう守るかっていうのをですね、進めていったみたいです。
トラ?
トラオぐらいの。
そうですね。
すごい!
その辺からもいろいろと。
へー。
で、フェノロサはね、ちょうど今このカフェのフェノロサの写真と横顔と。
ファンサムな方ですね。
ファンサムですね。
なんか政治家というか、そんな感じですね。
やっぱり哲学をしてる人なのかなっていうね。
なんかすごく、大学の先生というか。
生体の顔たち。
二人はこれ、みんなで絵を描いてる。
美術大学。
それは東京美術大学の。
本当だ着物着てますね、よく見ると。
着物着てます。
袴兄着物。
ですから、こういう美術教育の基礎。
そこまで言うと伝道のようなものを作ってきたということなんで。
なんかね、袴着てね。
そうだね。
いずれに向かってるっていう、なんとなく明治だなっていう。
時代を感じますね。
なんか門月の着物着てる人もいますね。
この手前に。
たぶん写真を撮るぞってことですよね。
ひょっとしたらいい服を着て。
写真撮影の日だね。
さあ、このフェノロさんがですね。
言ったのはですね。
日本の伝統絵画っていうのは精神的な真理を象徴する。
そういうものを表そうとする。
ただ単に表面的にリアルに描くのではなくて。
その中にある精神性を描こうとする。
これが日本の美術の素晴らしさなんだという。
そんなことをですね。
強く評価して。
日本国内で。
同時に世界にもそれを発信するわけなんですね。
やっぱり海外の先生ではなく、哲学という分野だったからこその今のマスターの言葉じゃないですかね。
精神性なんで。
そうか、美術だったら好き嫌いとかで言っちゃったかもしれないよね。
こんなこと言うとね、美術でやってる人って自分はこうやりたいんだってある意味自分の世界の中で言うんだけど。
それを客観的に見るとしたら、やっぱり哲学だと思うんですよ。
だからアートっていうのはもちろん哲学の方法でもありますから。
表現は哲学だ。
哲学。
なんか深い話になってきましたね。
私が絵を描いている時には哲学をしてるんだっていうふうに聞いていただけると思います。
これはもう今まで気づかずに申し訳ございません。
それは今後ともよろしくお願いします。
全然話をまた置いておきまして、別に行きますと。
そういうことでですね、そこに東京大学で教えている中で岡倉天心もいて、そして東京美術学校を設立を推進していくわけなんです。
24:14
その中に加納法外も講師として参加する予定だったということなんですね。
そうやって先ほどの秘墓観音の絵を描いて、4日後に亡くなってしまった。
ちょっと残念なことでしたね。
ちょうど準備を始めたのが1887年に東京美術学校を設立していこうという推進を始めたところなんですね。
で、亡くなったのが1888年ですから、すぐできるわけじゃありませんから、準備していく中で開講には間に合わなかったということなんです。
で、このですね、もう一つ岡倉天心、今写真を2つ出しました。
今もいそうな人。
なんかね、ちょっと、ちょっとなんかあれだね。
なんかこう、なんだかんだ。
ちょっとこう、ちょい悪おじさんみたいな。
こちらは新聞記事ですか?
そうなんです。で、今もう一つね、並べてあるのは、岡倉天心の周りにいるのが大学のですね、ガンを着た。
はい。卒業式か何かですかね。
なんかそういう。さあ、その下の方をちょっと見てもらうとですね、ボストンミュージアム、ファインアーツですね。
で、彼はボストン美術館の東洋部長に就任します。
そして中国と日本の美術品を鑑定して、ボストン美術館で保存するっていう。
だからボストン美術館には、東洋の日本の作品が。
日本館っていうのがありました。
それは彼が作ったってことなんですよ。
本当に仏像から竹の器、竹細工、それから本当にありとあらゆるものがあってびっくりしました。
え、こんなにどうして日本のものがたくさんあるんだって初めて行った時に思ったんですけど。
ですからその作品の収集の中心に岡倉天心がいたってことなんです。
ただ単に日本の中にいて、日本の作品がすごいんだすごいんだじゃなくて、
アメリカに招かれて、そしてそこに作品を集めるっていう。
ですから当時やはりまだ言っても、なかなか自分の日本で作ったものに対する評価っていうのは、ある意味自己評価が低かった。
でもそれをアメリカのここに持ってくることによって、それを収集して整理して、そして展示して保存するというね。
そうなんです。思った時、行った時に、なんで竹細工、なんでこんな籠があるのって。
27:00
しかもちゃんと飾られてるんですよね。びっくりしたんですけど、そういう意図があったのか。
そうだよね。さっきのファインアーツとクラフトっていう、クラフトも美術の一つなんだって。
民芸品にも力が入るというね。そういう点ではフェノロサという存在があって、
そしてそのフェノロサが提唱したことを日本人である岡倉天心が受けて、そしてフォストン美術館に日本館を作った。
左の方に手書きの文章がありますけど、ハーバード大学からマストオブアーツの称号を送られたって書いてありますね。
そうですよね。ですから、そういう意味で本当に、やっぱり一人では成すことはできない。
それをフェノロサのいろいろな考え方を受けて、そしてそれを具体的にアメリカの市で実現して、
今我々がフォストン美術館に行くと見ることができるし、またそれが世界中にまた紹介される。
そう、接種とかあったんですよ。
まあまあ、そんなね、この2人の存在ってのは、とても大きな存在として可能崩壊と関わっていたということです。
長きに渡りまして、上野についての話でした。何とか最後まで話ができました。
いやー、でもなんか上野にまた行きたくなりました。
ビアミルストの心の中にある、マスターの伊藤でした。
この番組は、大きな暮らしができる小さな家。
小沢スタンダード株式会社小沢建築工房の提供でお送りしました。