2025-05-19 07:18

誰かの代わり

代わりは嫌ですか?もしそうであるならばこのように考えてみてはどうでしょうかという話です。


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サマリー

このエピソードでは、「誰かの代わり」としての自分の役割の受け入れ方について語られます。リスナーには、自分自身を大切にし、主役としての自覚を持つことの重要性が強調されます。

誰かの代わりについて考える
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、誰かの代わりという話をしていきます。
はい、誰かの代わりですね。
これは、あなたがもし仮に、誰かの代わりに何かをすることが嫌なのであれば、というようなことですかね。
嫌とまでいかないにしても、あまり乗り気がしないというか、
元いた人がいたわけで、その人が何らかの理由によって、いなくなったりやらなくなったりしたから、代わりに自分に大役が回ってきたんだと。
このことに関して、何かわだかまりを感じるようなことがあれば、認識を変えてみるといいですよ、というようなことですね。
別に気にしないのであれば、特に聞くこともないかなとは思います。
それで、誰かの代わりというようなことなので、元々の人の大役ですよね。
つまり、2番手とか3番手。
自分でなくてもできること、あなたでなくてもできることを依頼をされたというような。
もしくは自分から進んで話に行って、結果として誰かの代わりであったというような。
そういうことがあると。
なんとなく分け役感があるというか、物のついでというか。
かやの卒であったけれども、無理矢理にねじ込んだみたいな。
確かに誰かの代わりですよと、直接言われる言われないあると思うんですけれども、
代わりですよと言われたら、なんとなくモヤッとする。
そういう感覚はね、誰しも持っていると思います。
ではなぜそうした感覚を覚えるのかというようなことで、
何らかの原因があって、別に悪いとかそういうことじゃないんですけど、
もっと自分を大切にして欲しい。優しくして欲しい。愛して欲しい。
そうした慈愛を求めているということもあれば、一番じゃないと嫌だ。
二番三番なんていうような、そんな順番で回ってくるような安い人間ではないと。
こういうプライドもあれば。それは人によって様々なんですかね。
いずれの場合においても、いわば大役であったとしても、誰かの代わりであったとしても、
あなたに白羽の矢が回ってきたということですよね。
誰かがあなたに白羽の矢を立てたわけです。
そうしてあなたに順番が回ってきたその時点で、もはや代わりではないということなんですね。
つい5秒前、10秒前までは代わりで云々というような結果から、
あなたという人が選ばれたのかもしれないですけれども、
あなたがそれを認識した時点で、それをじゃあやるのは自分だという風になった時点で、
あなたにとっては代わりではないわけですよね。
あなたがやることですから、誰かの代わりではもはや無くなるわけですよ。
かつ、そうしてあなたに番が回ってきたというのは、これは偶然でも何でもなくて、
それはあなたのためにもっといた人がやらなくなっただけというような、そういう風にも考えられるんですね。
主役としての自覚
今あなたがそれをすることは、必然だったと。
それは初めに声をかけられた、もしくは選ばれてなかったということがあれど、それも必然。
初めに何かそういうのがあったら、他の機会をもしかしたら逃していたかもしれないし、
何らかの不甲斐によってそれを実施しないことになったかもしれない。
あなたがその誰かになっていたかもしれない。
ですから、誰にとっても主役は自分というのこと。
もちろんあなたにとっても、その番が回ってきた時点で自分の番ですから、自分が主役ですよね。
あなたに白羽の家を建てた人が仮にいたとして、その人は選ぶという、選んだという、そういうことが相手は相手でそれが主役。
その誰かであった人、あなたの前にもしかしたら誰かがやるというようなことがあった場合には、その人もその人の人生では主役。
それぞれが主役であり、それぞれが脇役であるというようなこと。
よくある表現ですけれども、自分の人生の主役は自分で、その他の人はあなたにとっては脇役。
こうして私の話を聞いてくれているあなたから見たら、私はあなたの人生の脇役なわけです。
このような認識をしてみると、誰かの代わりということを前から知ったのか後々から知ったのか、いずれの場合においても嫌じゃなくなりますよね。
なぜなら必然であるから。
今このタイミングであなたに番が回ってきたということは、それは必然のタイミングである。
その他のタイミングではありえないことであった。
偶然ではないわけですから。
自分に起こることが必然であるというふうに認識できたときに、こうした誰かの代わりであるということが嫌だというような感覚もなくなると思います。
つまり何が言いたいのかというと、誰かの代わり。
これは元々の人がいて、その人の代わりになるということですよね。
つまり一番ではなくて、二番手、三番手。
これがもし嫌であると、なんだかちょっとモヤっとすると、受け入れがたい、乗り気ではないというようなことであれば、
様々な理由があるかと思いますが、認識を変えてみるといいですよということですね。
それはあなたに順番が来た時点で、あなたが選ばれた時点でそれが何番であろうとも、もはや代わりではないということ。
あなたのためにもといた人がいなくなった、やらなくなっただけ。
今このタイミングであなたにその役回りが回ってきたというのは、それは必然であるということ。
今以外のタイミングではありえなかったということですね。
かつ、誰にとっても人生の主役は自分ですから。
あなたは誰かの脇役ではないんですね。いつ、いかなるタイミング、状況であっても。
どんな場面においても、あなたが主役、誰かの代わりではないわけです。
こうしたことをですね、日々の生活の中に取り入れてみると、
ふと、これは誰かの代わりかなというふうに思った場合にあっても、いやいやこれは必然であって、
代わりというよりかは、今このタイミングで自分にお声がかかったのは、それはもうベストのタイミングであると。
代わりだとかなんだとか、そんなことはもうどうでもいいやと。
ですのでね、今後誰かの代わりかなと思った時には、この話を思い出してみていただけるといいんじゃないかなと思います。
はい。ありがとうございました。
07:18

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