無価値な説教の定義
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、無価値な説教という話をしていきます。
はい、無価値な説教をですね。
説教ですから、主には上役と下役、いわゆる上下の関係性において発生するようなことですね。
上司・部下、教師・生徒、親と子、する側とされる側に分かれて行われるようなことがありますよね。
あなたも経験があると思います。
いずれの立場にせよ、必要な場面もあれば必要でない場面もある。
説教の中でも、無価値というような、そういうですね、部類に入ることがあります。
さらには、そのようなことをしている人、なかなかにですね、多いわけです。
あなたはね、そういう人ではないと思います。無価値な説教をするような人ではないですから。
万が一思えたり不思議があれば、参考にしていただいてもいいんですけれども、
そういう場面に遭遇した時に、無価値な説教というものがあるんだなと。
そういうことをね、知っておけば、その場に適応することができるということですね。
無価値な説教があるということは、反対に価値のある説教というものもあるわけですよね。
ですから何をもって、その説教の価値というもの、その価値の有無が決まるのか。
感情による影響
まず先にこれを言うと、無価値なのは感情ですること、価値があるのは教育としてすることですね。
なぜか。考えてみればね、わかるようなことかと思うんですけれども。
説教というぐらいですから、何か事案が発生して、ですよね、
そのあなたが仮に説教をする側だとしたら、何かしらの報告、連絡相談というものを受けた時に、
そこに対して物申したいというような、言いたいことがあるから説教をするようになるわけです。
ここで感情で説教をする人が非常に多い。
世の中、人格者と言われる人の方が少ないですから、そうなることが必然と言えば必然なんですが、
この感情で説教をしてしまうと、受ける側も今後言うことを聞いてくれなくなる可能性もあるわけですよ。
例えば、感情での説教というものは、何かしらの組織活動において、
現場にいる人から何か報告を受けて、その場で怒る、指摘をする、説教をする。
これをしてしまうと、当然、現場の人は士気が下がりますよね。
褒められて嬉しい人はいいけれど、怒られて嬉しい人はいないわけですよ。
説教されて喜ぶ人はいないんですよ。
それに説教されて、よしやってやるぞという反骨精神からのやる気が上がるというようなことは、あれど嬉しくはないわけですよね。
となると、その現場に出ている状態の時には士気が下がるわけですよ。
説教する側のあなたというものは、立ち位置で言ったら上役でしょうから、
現場にいる組織全体に利益をもたらすような活動をしている状態の、いわば兵隊、兵士ですよね。
最前線の兵士に向けて、その兵士の士気を下げるような行いを、あえてすることはないじゃないですか。
そこでやってしまうということは、感情が上回っているわけです。
この感情で説教をしてしまうと、言った方もですね、後悔するようなことがありますね。
あの時、ついつい感情に任せて言ってしまったと。確かにそう思ったんだけれども、言い過ぎてしまったと。
そうした言いたいだけの感情は、しまっておくことが無難ですね。
言われる側も、頭が回る人であったなら、今後その説教した人の言うことを聞かなくなるわけですよ。
この人はそういうことを言う人なんだと。今言わなくてもいいんじゃないかというふうに思って、言うことを聞かなくなる。
これが感情で説教することの結果ですね。結果無価値ですよと。
それで、される側の感覚としてですね。その感情で無価値な説教をされる側の感覚。
この説教をされたらば、まずそのされた人はどのような言葉を行う、行動をとりますかといったら、
してきた人に対して、基本的には謝罪をしますよね。
言ってきた人に対して、すいませんとか、申し訳ございませんとか言いますよね。
これはですね、非常に良くない。
今、無価値な感情での説教の話をしていますからね。
価値がある教育の説教ではなくて、その感情で言ってきている人に対して謝罪をする。
当然その反応としては正解の反応、正解というか反射的にね。
言ってきた人に対して謝罪をするというのは、上役下役がありますから。
とりわけ下役の人でしょうから、謝罪を反射的にすると思うんですけれども、
これはですね、言った側が満足感を得るためだけの行為なんですよ。
言った方からして、謝罪をしてその後に意気が上がる、やる気が出る。
そういうことは起こり得ないじゃないですか。
ですから言う側はですね、相手に謝らせるような発言を誘発するようなこと。
特に組織や個人間であれ、全体に利益をもたらさない。
その利益をもたらす対象以外に謝罪をするように仕向ける。
ちょっと強い言い方ですけれども、自分に謝ってほしいと。
今は感情でイラッとして説教をして、そんな自分に謝ってほしいというような。
これはですね、良くないですね。
その説教される側が自己肯定感が下がってしまうだけです。
プラスかマイナスかといったらマイナスのことじゃないですか、謝罪というのは。
それは自己肯定感を下げるだけですから。
全く価値がないですね。
それでね、もう一方の価値がある説教は教育としての説教ですが、
今回のテーマは無価値な説教ですので、後日といずれということでね。
ですから、無価値な説教は感情でする説教ですよということですね。
つまり何が言いたいのかというと、無価値な説教。
今回何回も繰り返します。
無価値な説教は感情でする説教です。
説教というのは上下の関係性がある中で発生すること。
ですから、する側が上役、される側が下役というケースが多いと思います。
その説教をする上役の人から、感情で説教されたそのされる側、下役の人、
その感情で説教をされたことに対して、反省をすることはあれだ。
しなくてもいいんですけどね。
その感情で説教してきた人の話に対して、反省する必要などは全くないんですけれども、
ただ、してしまうこともあると思います。
本来しなくてもいいような心の下がり、意識の低下、やる気の低下。
される側としてはそうなってしまいますので、
メインの立ち位置として、無価値な説教をする上役の立場からの話がちょっと濃くなってしまいましたが、
とりわけね、される側の人の気持ちも考えてということですね。
そうして言えば、無価値な説教は感情でする説教であって、
それをすることによって何も得られない。
だからこそ無価値、意識が下がるだけ、やる気も下がるだけ、何の益もないと言うですね。
無価値な説教への対処
一つもいいことがありませんので。
あなたはそうではないと思いますが、
仮に無価値な説教、感情でする説教というものを見かけたら、
こういうこともあるんだなと、無価値だなと眺めていただけるといいんじゃないかなと思います。
これも人間関係コミュニケーションでよくあるシチュエーションですからね。
はい。ありがとうございました。