00:01
はい、どうも、丸山です。 まずは、
おめでとうございます。 ということで今回は、
責任感、 というテーマで話をしていきます。
はい、責任感ですね。 捉え方ですかね。
これは、責任感を感じましょう、だとか、
全てあなたの責任なんです、だとか、 そうしたらですね、責任という言葉にかまけて、
表面上のことをつらつらと言うようなことではないです。 そんな話はね、街股に転がっているんで。
この責任感という部分で、この言葉は、 捉え方によっては、
恐ろしくもあり、そして頼もしいことでもある言葉ですね。 今のあなたの状況によりけり、
一つの言葉をとっても、この責任感という、 人によっては、
便利な言葉かもしれませんし、人によっては、
思考を強制させられる、そうしたような言葉でもあります。
それほどですね、この責任という言葉、責任感ということ、 こうした言葉についてですね、
これほど人の立ち位置だとか、見方、言い方、捉え方によって、
意味合いが変わってくるようなことというのは、 そう多くはないですね。
なので、あなた自身もこの言葉を使ったり、受けたり、見たり、聞いたり、そういう場面、
あると思うんですけれども、いずれの視点から見ても、 責任という言葉にフラットな考えをですね、思っておくと、
使いどころを見極めることができます。
こうした責任ということを前提としては、これもですね、 勘違いをしている人が多いんですけれども、
責任というものはですね、 誰かに
与えられるものではないんですよ。 言われたから責任があると感じるというものでもないですし、
責任的な立場、立ち位置が責任を感じさせるだとか、 そうした外部的な要因で責任感を感じるというようなことは、
本来ないんですね。 責任というものは、自らが背負うか否かを決めているものなんですよ。
03:02
責任をね、負いたいと思えば負えばいいし、 負いたくないと思えば負わなければいい。
あなたのこともですね、振り返ってみていただくと、 そうした経験がもしあるんだとすれば、もしくは未来のことでもいいです。
この先の展望がですね、想像できるのであれば、 そうしたことでも結構なんですけれども、
どういう場面で責任を感じますか。
よくイメージしやすいのは、人が親になった時、
親が子を授かって、その子供に対しての責任というもの、 育てる責任というものが生まれたり、
組織において誰かの親君になる、 誰かに何かを教えるような立場になって、
そうして責任を感じるだとか、 そういうのはですね、一般通念であると思うんですよ。
このいずれにおいても、 責任というものがですね、
何か外部の影響を受けて発生するもの、 そういうように考えていると、それは真の責任とは呼べないわけです。
どこかの誰かに与えられたものは、 それは責任ではないんですね。
それが、親になろうとも、どこかの組織に所属をしていようとも、 今あなたがもし何か責任感というものを感じているのであれば、
それは、内から湧いたものであれば、 本物の責任ですね。
ただその状況によって、そう感じざるを得ないから、 仕方なくということであれば、
それは責任ではなくて、惰性なわけです。
この責任感という部分で、最もですね、 恐ろしい使い方、もしくは頼もしい使い方、
立っている位置というか、捉え方にですね、 捉える側の感覚、立場によって違うんですけれども、
特に組織においては、共通のですね、認識を周知をして、 思考を矯正させるという、
そうしたですね、非常に強い言葉であり、感覚であるわけです。
わかりますか? 共通の認識を周知をして、思考を矯正させるんですよ。
他人の意見を、他人の考えを、 共通の認知によって、ねじ曲げさせることができるんですよ。
この責任感という言葉は。
こうしてですね、いわゆる世の中には、言葉をですね、濁さずに言うと、 使う側と使われる側というものがあります。
これはあるんですよ。
まあ、なんとなくわかると思うんですけれども。
別にどっちが偉いとか偉くないとか、 どっちが良いとか悪いじゃないですよ。
それはあなたが良いと思えばね、 あなたの意見もあれば、私の考えもあるんで、
それはどちらがどうということではないんですけれども、 使う側、使われる側という考え方、捉え方があって、
06:03
この責任感というものはですね、 使う側からすると、頼もしい言葉なんです。
便利な言葉ですよね。
こうして欲しいと思ったことを、仮にやらない、嫌がる、 そうした人がですね、いるのであれば、
そうした責任感というものがあるんだと。
責任という言葉に対して、フラットな考え方を持っていない、 大多数の人は、
ああ、そうかと、なるんですよ。
自分のですね、考え方が、なんていうんですか、
本来欲してもいないような考え方をですね、 先ほどの言葉ですね、
共通の認識を周知をされたわけですよ。
そうしたことがあるんだぞと、 それは責任感なんだぞと、
ということを、誰かに何かを言われたとして、
思考はですね、強制されてしまうんですよ。
この強制というのは、強制的に何かをやらせるというようなことではなくて、
強制手術ってあるじゃないですか、
なんていうんですか、強制の強って、 他に何て言うか知らないんですけど、
その強制の、正しいという字の方の、 強制っていうね、あるじゃないですか、
そっちの側の強制ですよ。
強制的にとか強いという言葉を使う方じゃなくて、 正しいという言葉を使う方の強制。
これはですね、いわゆる使う側からすると、 非常に便利な言葉。
使う側がですね、実は使われている側で、 本人も気づいていないことも大にしてあるんですけれども、
正しいことをですね、言っていると思い込んではいるんですけれども、
その本人も強制の過虫だとね、 気づいていない場合もですね、あるんですけれども、
これはですね、そうした場面を見かけると、 非常に面白いなとね、思うんですけれども、
捉え方によって、一方の方から見ると、 頼もしい言葉であると。
逆に、それを、このね、責任感ということに関して、 フラットな考えを持っていない方からすると、
ああ、なるほどな、と思うとすると、 これはですね、非常に恐ろしいことですよね。
なぜなら、そうはなろうと、 自分の意思で決めていないにもかかわらず、
外部の要因によって、自分の思考を自分で強制させているんですよ。
相手のね、その影響もあるんですけれども。
そこに偏っていくという、 強制されたその歪んだ思考に偏っていくんですよ。
こんなに恐ろしいことって、ないですよね。
ゾッとしませんか。 私だけですかね。
これはですね、人の思考を縛る言葉なんですよ。
劇薬にもなる、そうした言葉なんで、 責任感というものに関して、これは捉え方によって、
全く考えが変わってくるようなもの。
09:02
こうしたものにですね、 他にもいくつかあるんですけれども、
そのうちの一つで非常に強力なものが、 この責任感というもので、
そういう言葉に対して捉え方によって、 意味合いが全く変わるような、
使う人によっては全く違う意味になるようなことの、
中立なですね、こうした考え方を、 知っているのと知らないのだと、
その状況によっての考え方がまた変わりますから、
あなたはあなたの考えを持っていていいんですよ。 当然。
他のね、誰かに気づかぬうちに、 強制をされないように気をつけてください。
中立の考え方を持つためにも、この責任感というね、 こうしたものに関しての捉え方と、
いうものを知っておくとですね、 いいんじゃないでしょうか。
もしね、そうしたことを今まで考えたことがなければ、
改めてそういう考え方もあるんだなということをですね、 捉え方がね、あるんだなということを、
わかっていただけたら幸いです。 なので、責任というものはですね、
与えられるものではなくて、 自らですね、背負うか否かを決めるものなんです。
また、状況によっては、 あなたの思考を強制させるという、
頼もしくもあるんですけれども、 恐ろしくもあるという、そうした言葉ですね。
あとはですね、仮にあなた自身が、 そうした言葉を、特に今までそうした中立な、
フラットな考えを知らずに使っていたとすると、 それがですね、正しいことを言っているなと、
思い込んでいるんですけれども、 そのあなた自身も、どこかの誰かに強制をされた過虫だということに、
気づいていただけると、いいんじゃないでしょうか。 という感じですかね。
中立ということを、 常に意識をしておくといいですよ。
必ずね、 両極端というものがあって、その両極端を、
これが右と左だとしたら、 左右から徐々に真ん中の方を考えていけば、
この考え方が中立だなという部分に出会うことがあるので、 この責任感という部分に関してもそうなんですけど、
何でも両極を考えて、そして中立も理解しておく、 こういうことですね。
意識をすると、また、 人間の深みが増していくというようなことにもなりますから。
ということで、 今回は以上となります。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。