みなさんこんにちは、あっちゃんです。
みなさんは、思い出の写真はありますか?
小学校や中学校の頃、楽しかった運動会や修学旅行の写真、
友達と出かけた写真に、パートナーとの楽しい時間、たくさんの写真があるんじゃないかなと思います。
今回は、写真にまつわるゲストをお招きし、お話をしていきます。
では、本編です。
ということで、今回はゲストにお越しいただいております。
ポッドキャスト番組あるスタジオ裏、あるさんです。よろしくお願いします。
お願いします。おいでよ、あるスタジオから来ました、あるです。
よろしくお願いします。
お願いします。
ということで、あるさんにようやくお越しいただくことができたんですけども、
最近よくいろんなところでご一緒することが多いかなと思っております。
はい。
超個校という、ソロポッドキャスターの集いに近いところなんですけども、
そういったところで一緒にイベントをやらせていただいたりとか、
それこそ直近ではポッドキャストウィークエンドとかですよね。
非常にお話しさせていただいてとか、させていただきましたけれども。
はい。
普段からよくいろんなところでおしゃべりさせていただいておりまして、
ようやくお越しいただく機会をいただくことができました。
ですね。番組は全然ね、なかなか呼んでいただけないで。
いや、呼んでいただけないとかではないですね。
シンプルにタイミングの問題かと思うんですけども。
いやいや、よかったですね。
はい。ありがとうございます。
でもですね、一応テーマ自体はずっとこれあるさんといつか話したいなっていうのを温めていてですね。
ちょうどこの前、そろそろ呼んでくださいよみたいな話をいただいたので、
よし、やっと今後書を入れて呼べるなと思いまして。
なるほど。
今日はテーマを持ってきました。
何でしょう。
今日のテーマは、写真アルバムですね。
あー、なるほどね。
はいはいはい。
僕が本業カメラマンなんで、それにも結構関連してって感じですかね。
はい、おっしゃる通りで。
僕らは写真のアルバムみたいなものを、小さい頃は何か親とか周りの方々が作っていて、持っていたような気がしてるんですけど、
そういえば最近写真アルバムって聞かなくなったなーみたいな気持ちが前々からあってですね。
ちょうどあるさんはお写真を、本当に人の写真を撮ることが多いと思っていて、写真を撮ってそれを保存をするといいますか、
ある人生の一番輝いている瞬間ですね。
そういった瞬間を聞い取られることも多いかなと思っていたので、この写真のアルバムについて今回お話したいなと思っておりました。
はいはいはい。ぜひ話しましょう。
はい、よろしくお願いいたします。
で、少しお話しさせていただいたんですけど、もしかしたら聞いている方の中にもいらっしゃるかなと思うんですけども、
僕ら世代が小さい時っていうのは、物理的な写真のアルバムっていうのを持っている方が多かったんじゃないかなって思ってるんですけど、
あるさんどうでした?持ってました?
それは個人の話です。
例えば、個人もそうですし、家族もそうですけど。
家族は当然のようにありますよね。
ただ、どうでしょうね。他の家庭と比べるとうちは少ない方かもしれません。
そうなんですね。
まあ、ほどほどと言いますか、アルバムはあるけれど、たくさんあるというわけではないと。
そうですね。たぶんうちの父親ももうすでに結構デジタル人間なんで、
移行が早かったんですよね。
なるほど。
もうスマートフォンが出始めても一番最初のあたりから使いこなしていた家庭なので、家族全員が。
早いですね、それは。
そうですね。
なるほど。
うちの家庭とか家計とかを思い返したときに、祖父母の家に昔行ったときに、母親だったかのアルバムが確かあった記憶があって、
そこの中では、いわゆるおじいちゃん、おばあちゃんと、その娘にあたる母親ですよね。
と、兄弟のアルバムみたいのがあるっていうのを見せてもらったなって、今思えば記憶になってですね。
確かに。そういうのはありますね。
ありますよね。
僕の母方のおじいちゃんはちょっと頭がツルツルしてるタイプなんですけど、
昔の写真を見ると、頭がフサフサだったみたいなところがギャップがあって、印象的だったなって今思いつきますけど。
なるほど。
そういう意味では、昔のアルバムみたいな残ってる家と、デジタル化進んでも20年くらい経ちますけども、もう完全にデジタルに移行したみたいな形で、
結構最近では、家によってはあるとこないとこがあるのかもしれないですね。
そうですね。
最近だと、赤ちゃんに関してで言うと、どの家庭でも写真をたくさん撮ってるような印象はあるんですけど、
子供は撮りますよね。ペット、子供はめちゃめちゃ撮りますね。
撮りますよね。
最近だったかちょっと前に知ったんですけど、最近だとそういった写真の共有を祖父母とか親族とできるみたいなアプリがあって、
そこにアップロードすると親族も見れるみたいなアプリがあったりとか、
それに付随してデジタル写真をフォトブックみたいにして送ってもらえるみたいなサービスも出てきてるっていうのを知ったんですけど、
この辺ってあるさんとかはよく目にされたりします?
知ってはいますね。ただ、利用はしたことないかな。
そういうものがあるのはもちろん存じ上げてます。
ありますよね。
すごく写真を撮ってアップロードして共有するっていうところまでかなりスピーディと言いますか、
そこの撮ってから昔だと現像をするみたいなステップがあって、
例えば今は写真屋さんってありますけど、昔は本当にフィルム写真の時代とかはその現像をするために持ってって、
例えばそこで現像された写真をもらってみたいなことをやってたような記憶があるんですけど、
そこの時間軸と言いますか、スピード感がめちゃくちゃ変わったなっていうのが最近すごく印象的ですね。
全然違いますよね。
良くも悪くもかな。
そうですね。良くも悪くもかなと思ってて、
それ以外にも写真の環境っていうのはすごく変わってきていると思いまして、
僕らが中高生くらいですか、もうちょっと前かもしれませんが、
誰でもデジタルカメラを持つような時代がやってきて、
そこからスマートフォンという形でどんどんと写真を自分自身で撮るとか、
それをアップロードするとか、
どんどん自分とかその周りの写真を点じゃなくて連続的なものとして撮れるようになってきたことで、
ライフログみたいな側面がかなり増えてきているなっていうのは最近感じますね。
特にもっとインスタントなもので言うと、
インスタグラムとかのストーリーとか、TikTokとかですね。
本当にもう日々の記録っていうものが連続的に撮れるようになってきたことで、
写真ってこれまではある時間であったりとかある記憶の中の一瞬を切り取るものだったのに、
最近はどちらかというとコンテンツに近くなってきているんじゃないかなっていうのを最近感じるようになってきているんですけど、
アルさんはどう考えます?
記録は記録なんじゃないですかね。
ただ、多すぎるっていうことかなと思います。
そうですね。
要は、需要と供給みたいな話。
あんまりにも多すぎると一個一個の価値が下がるわけで、基本的に。
結局、それで相対的に写真っていうものの重要さを忘れているみたいなところはあるんじゃないかな。
昔は撮れる枚数も限られてたから、一枚一枚を大切に撮ってたわけじゃないですか。
それはそれしかできなかったわけだけど。
同じ写真でも一枚の価値が違うっていうところが大きく違うのかなと思いますね、昔と今で。
確かにそうですね。昔はフィルム写真とか、今でもリバイバルでありますけど、手巻きで写真撮れるカメラあるじゃないですか。
フジフィルムとかが出してるやつでしたっけ、インスタントカメラ。
あれも10枚後半とか20枚弱ぐらいしか撮れない中で、撮りたいなと思った瞬間を切り取ってますけど、
今のiPhoneのカメラとかだと連続で撮れるじゃないですか。
それ一回やっただけでもうフィルムカメラ一個分みたいな形になってて、
一瞬一瞬を全部撮ろうとしてるというか、逃したくない瞬間すべてを撮ろうとしてるに対して、
昔のやつは本当にしっかりとどういうものを撮りたいのかなとか、
カメラとかカメラの枠を除いて選んでたなっていうところに結構今ギャップが出てきてるかなってすごい僕も感じてますね。
そりゃそうでしょうね。
僕も中学生か小学生ぐらいの時にフィルムカメラを使ったことがあるんですけど、
フィルムカメラというかインスタントカメラですね。
確かそれが中学旅行だったか、学校の旅行みたいなやつで遠方にある観光地に行った記憶があるんですけど、
その時はやっぱり撮れる枚数が限られていたので、ここで今写真撮るべきなのかなみたいな。
なるほど。
写真を撮る瞬間に自分に問いを立てるという行為があった気がするんですよね。
まあ確かにね。
それがあったことで、その問いも含めてですよ。
カメラを撮って現像されたものに対してなんか思い入れと言いますか、
一枚に対する思いみたいなものがすごく強かったんじゃないかなって今思えば感じますね。
まあそうでしょうね。
それはそうですよね。
今が軽すぎるわけで。
はい。すごい軽いなと思ってて、
カメラロールとかあるさんに見返すことって多分お写真撮られてるから多いと思うんですけど、
例えば3ヶ月前にどんな写真撮ったかっていうのがパッと思いつきますかって言われたときに、
たぶん今スマートフォンで写真を撮っている人たちはあんまり思い返せないんじゃないかなみたいな気がしちゃうんですよね。
どうなんですかね。でも逆に言うと、そういうインスタグラムとかでアップして、
自動的に撮ったものがスマートフォンの中でアルバム化してるわけじゃないですか。
そうですね。
本というか元々のアナログの写真に関してはアルバムを引っ張り出して見ないと思い出すことがないわけで、
そういう意味では撮った写真に改めてもう一度触れる機会は今の方がむしろ多いかもしれないですよね。
確かにアクセシビリティと言いますか、見たい写真というかね。
もちろん今あっちゃんが言ったような話って多分頭の中でそれを思い出す頻度の話だとは思うんですけど、
はい。
そういうのではなく物理的に実際に見る回数という意味で言うと、今の方がむしろ多かったりもするので。
はい、確かに。
そうですね。逆に見る機会が多いからこそわざわざ思い出そうともしないっていう感じなのかな。
今一瞬思ったのは、何度も見返しているからこそうっすらと全部記憶があって、
その中でどれが自分にとってピークであったり、一番印象深いかっていうのは今あんまりなくて、
全部まんべんなく見てるんでしょうね。
うーん。
まあそうですよね。
はい、アルバムの方は本当にいろんな写真がある中で時間をかけて撮られたものであったり、吟味されて撮られたものが残っているので、
ピントが合っていないのも、それはそれで、今だったら捨てちゃう写真だけど、
ピントが合っていないのも含めて思い出として昔は撮ってたと思うんですよ。
確かに。
そのピンの合っていなさがむしろエモいとか、
そうですね。
そういう効果を生むので、まあ面白いなとか思いますよね。
思いますね。
なんかそのあたりは、今振り返ると確かにあったなと思ってて、
なんかなんでもないミスった写真ってあるじゃないですか。
撮りたいタイミングで撮ろうと思ってたのに、間違えてシャッター切っちゃったみたいな。
のがあって、なんかたまたま空に向かって、
なんか青い空とちょっとだけ木が写ってるみたいな写真が混ざってたりすると、
なんかその宝石に出会ったというか、
偶然の中でたまたまなんかいい写真撮れてたなみたいなのがあって、
なんかそれはそれでよかったなって思ったんですよね。
そうですね。それはそれでよかったっていうことですよね。
そうですね。
なんかそういうのを今は、間違ったものは捨てるじゃないですけど、
そうですね。
なんか気に入らなかったから残さないとか、
カメラロールの中にあるけれど、
まあ要するに今だとお気に入りとかっていうのがあって、
選別みたいなことが起こるんですけど、
なんか昔は選別してなかったんだろうなっていうのを思っちゃいましたね。
そうですね。あとこれ結構意外な、なんか盲点というか、
僕が思っていることですけど、
今アナログかデジタルかのところで話をしてるじゃないですか。
アナログかデジタルかのところで話をしてるじゃないですか。
そうですね。
でも、実はスマホ以降、スマホ以前ではあると思ってて、
でもデジタルでも、シャメってあったじゃないですか、柄形時代に。
ありましたね。
シャメの時代は、デジタルを結構、
楽しんでませんでした?って思うんですよ。
あー、確かに。
うん。シャメのあの時の記憶をたどると、
そのデジタルに今乗っかってきているそういう、
まあネガティブな感情というか、なんかなくなっちゃった物悲しさとか、
そういう感じがあって、
まあネガティブな感情というか、なんかなくなっちゃった物悲しさとか、
それはシャメの時にはなかったと思うんですよね。
確かにそうですね。
うん。で、それ、なんでだろうって思った時に、
はい。
一つ明らかにおかしいのは、そのハードディスクの容量が、
あまりにもテラとか、
はい。
そういうのは昔想像できなかったわけですよ。
だから、柄系でも撮れる写真には限度があって、
はい。
みんな一人ね、一台パソコンを持ってるみたいな時代でもないですから、
そうですね。
結局その、持ってたハードの中で頑張るしかなかったわけですよね。
はい。
うん。だからその柄系のメモリーがもういっぱいになっちゃったらおしまいだから、
大切に一枚一枚やっぱり撮ってたと思うんですよ、デジタルだとしても。
うん。
うん。だからそこら辺が結構大事なのかなっていう、
要は制限された中でやってるかどうかっていう部分?
というところに行き着くのかなって、
僕は話して思いましたね。
そうですね。
これまだもう少し喋っても大丈夫ですね?
もっと喋りましょう。
あの、まあちょっと写真の話に戻して、
僕がよく言っていることでもあるし、思っていることなんですけど、
はい。
いい写真って何だと思います?
いい写真ですか?
うん。
まあ、何でしょうね。
まあ、僕個人の観点だと、
その写真から、
意図が伝わる写真と言いますか、
ちょっと言葉がぼやっとしたら良かったんですけど、
見て何かわかるっていう、
感じるものがあるっていうのが、
いい写真なのかなって今ふと思ったりしましたけどね。
まあでも、例えばアート写真とかで、
わけわかんないけどなんか、
そういうのもあるじゃないですか。
あります。
なんて言うんだろう。
まあ今要は質問が意地悪なわけですけど、
何が言いたいかって、
いい写真とは何かっていう問いに対する答えが、
これ僕無限だと思うんですよ。
そうですね。
だからさっきの自由のめまいじゃないですけど、
この質問は自由すぎて答えられないっていうのが答えだと思ってるんですね。
はい。
なんで、人によってはさっき話したような、
失敗写真、インスタントカメラで撮って、
顔がぼけてて、わけわかんない写真、
これが一番思い出のいい写真だっていうのも間違ってないと思うんですよ。
そうですね。
ただですよ。
はい。
僕が今仕事で、
メインでやってるのって結構ファッションが多いんですね。
はい。
クライアントから依頼を受けて、
服を売るための写真を撮ってくださいと言われて、
撮ってるわけです。
こうなるとですよ、
急にいい写真とは何かに答えが出てくるんですよ。
確かに。
もうズバリ、それを見たお客さんが、
服を買いたくなる写真がいい写真ですって言い切れちゃうんですよ。
言えますね。
そうなんです。
これがまあ面白いわけで、
さっきの制限を設けるっていうのがまさにそういう話なんですね。
つまり、制限がなかった場合じゃ、
何にも制限ないですよって時は、
自ら制限を作ることを考えない限り、
何も作れないなっていうのが最近思っていることです。
なるほど。
自分で制限を作ることを考えない限り、
なるほど。
自分で制限を作る。
確かにそれは大事ですね。
例えば、一例ですけど、
僕は自宅を撮影スペースで使えるように工夫して作ってるんですけど、
すごい狭いんですよ。
スペース的にね。
ただ、狭いからこそできることがあるわけです。
そうですよね。
逆に、ここではできないことを切り捨てられるんですよ、簡単に。
要は、これやりたいなと思っても、
ここ狭いからできないな、じゃあやめとこうって言って、
自然とどんどん制限がスペース的にかかってくるんですね。
そうですよね。
そうすると、
じゃあ今このスペースで一番最大限できることってなんだっけっていう方向に
頭が切り替わるわけですよ。
そうすると、いい作品ができるっていうところですね。
なるほど。
いい作品ができるっていうところですね。
確かに。
この部屋でできるいい写真を撮ろうという制約というか、
制限があるからこそ、そこで輝く写真が撮れる。
そうなんですよ。
あれ、ハンター×ハンターとかご存知ですか?
はい、一応。
ハンター×ハンターとかもまさに制約が力になるみたいなテーマがあったと思いますけど。
ありますね。
まさにあれですよね。
確かにあれはそうですね。
アナログのパワーっていうのは、そこにあるんだと思ってます。
めっちゃいい話ですね。
うん。
制限が物理的にあるからこそ選んだものの価値が出るといいますか、
選択肢を取ることに価値と意味が出るというのは思いました。
はい。
で、今話す中でちょっと頭の中で考えてたんですけど、
制限というものを物差しみたいなもので置き換えた時に、
今まではここからここまでっていう制限といいますか、
例えば本当に物差しの長さがあると思うんですけど、
その長さの中で工夫をするというのが以前のものだったと思ってて、
いわゆる実況者時代以後っていうのは、
他人が持っている物差しを見て相対的に自分の物差しを決めるみたいな形で、
変わったっていうところで解釈ができるのかなっていうのは少し考えてますね。
そうですね。
まさに。
そういう意味ではこれまでっていうのは、
物理的な制約というところにかなり目が行っていたものの、
今は他人の物差しというものがより見える形になったからこそ、
自分で選ぶときの相対的な選択というところに変わってきているのかもしれないですね。
そうですね。おっしゃる通りですね。
もし仮にですけども、
昔アナログだった時代に、
もっといろんな方のアルバムを見ている状態というのが存在していたとするのであれば、
それはまたアルバムというものが実は変わっていたのかもしれないですよね。
でしょうね。
冒頭もお話ししましたけども、僕が見たのは自分の家族であり、
両親だったりというところの範囲のアルバムというものを見ていましたが、
実はもっと広く誰のアルバムでも見れるような状態だったときには、
もしかしたら、そういったアルバムに載せる写真の選定方法であったりとか、
そもそもアルバム帳というものではなく、
壁に貼るとか、また違った発想というものが生まれて、
今もともと見ていたようなアルバムではなくて、
違うものも生まれていた時代があったかもしれないっていうのを少し思いました。
そうですね。
登場時を覚えていますかって言われると、
たぶんほとんどすべて覚えてないと思うんですよ、誰も。
そうですね。なんか日常の中で勝手に浸透してきたなーっていうのがありましたね。
気づいたらあったって感じじゃないですか。
はい。
それは要は、もちろん作った、スティーブ・ジョブズとか、
作った本人は分かってたのかもしれないけど、
ユーザー側は、これがまさかそんなすごいものだっていうのを気づいてなかったわけですよね。
そうですね。
みたいな感じで、おそらく今まだない何かが今後も出てくるんでしょうね。
出てくると思います。
だから、今写真アルバムっていうところで話をしてますけど、
1000年後、2000年後、3000年後と、その時写真はどうなってるんだろうかって考えるわけじゃないですか、僕らは。
そうですね。
でもそもそも写真なんてなくて、知らない何かが写真にとって変わってるというか。
そもそも切り取るという行為をしなくて済むのかもしれないですね。
そう、そういうぶっ飛んだところまで想像しないと、多分正解は出ないのかなーとか思いますよね。
そうですね。
今歩いている道の先にあるものを想像するんじゃなくて、道から外れたところにそもそも何かがあるかもっていう発想ですよね。
そう。ただ、ごめんなさいね、長くなっちゃって。
いえいえ。
それと同時にですね。
はい。
これ結構僕、実家帰るとしょっちゅうこの話するんですけど。
はい。
傘ってずーっと傘だよねっていう話してて。
はい。
なんかこれいつまで刺さなきゃいけないんだろうっていう。傘ぐらいは。
そう、わかりますね。
うん。なんか来年ぐらいなくなっててもいいんじゃないのとか思ったりするんですけど。
はい。
ずーっと変わらずみんな刺してたりするのが、変わらないところって変わらないんだねーとも思うんですよね。
それ僕も思うんですよ。傘もそうですし、あとは床屋ですよね。
うんうんうんうん。確かに。なんか自動化しててもおかしくないイメージはありますよね。
はい。なんかそういう変わらないものも結構あって、まさに傘もそうですけど、いつまで僕らは塗れなきゃいけないんだろうっていうところはありますよね。
うん。
あとは服とかもある意味ではずーっと着てるというか。
ねー、何がなくなると思いますか?
何がなくなるかと言われると難しいですけど、以前見たものの中で服っていうものとかも、皮膚を着るみたいな発想に変わるとかはあるかもねーみたいな。
うんうんうん。
話は見たことがあったりはしますけど、あとあれですね。そろそろなんか目覚まし時計とかってなくならないんですかねって思ったりとか。
あー。目覚まし機能みたいな話ですか?それは。
そうです。そうです。とか、なくなるんじゃないかなと僕思ったりするんですけどね。
うーん、確かにその辺はなくなってもおかしくなさそうだなー。
あとは何でしょうね。掃除をするっていうのも、ルンバが出てきて、多少なくなっているように見えますけど、掃除をするという行為自体はなくなってないとか。
うーん、そうですね。ルンバとかは、でも時間の問題な気もしてるんですよね、僕。えっと、価格帯とファッショナブルかどうかかなと思ってますね。やっぱ浸透するかどうかは。
確かに。
で、オシャレで安いっていうのが出たら一気にそれと置き換わる気もしてるんですよね。
まさにiPhoneとかもそうですよね、最初は。
うーん、そうだ。
まあ今ほど高級ではないですけど、その時は安かったですし、相対的にですけど。
僕は、親父が音楽をやってた関係で、
はい。
全部Apple製品だったんですよ、家の中のパソコンから何から。だから、だいぶ小さい頃からMacを触って育ちましたけど、
はい。
当時は誰も使ってなかったです。
で、まさか今こんなに普及するとはっていう感じなんで、結構時間かかってるんですよね、Appleですら。
我々が認知をしてからは早いけれど、実は認知されてないところを含めるとめちゃくちゃ長いという。
そう。で、YouTubeだってそうですよね。
そうですね、確かに。
できてから跳ねるまでに相当時間かかってるんですよ。
長いですもんね、あれも。
ポッドキャストも今後どこまで伸びるかわからないですけど、
はい。
急に来る可能性もあるんでね。
ありますね。
そういう破壊的なものっていうのは実は潜っている期間が長かったりするということだと思ってますけど、
例えば写真とか将来どうなるのかって話の観点で言うと、
極端な話、目で見てそれが視神経を通って脳に入るわけですけど、
その情報を得られればいいのであれば、
例えばですよ、食べられる写真があってもおかしくないなと思ったりするわけですよ。
ああ、面白い面白い。
また変な話になっちゃいますけど。
いやいやいやいや。
その通りだと思いますね。
今は視神経と言いますか、目の網膜で得られた像を見て、
写真というものが記憶の断片というものをアナログであったりデジタル化したものでしかないですけど、
脳みそに伝わる情報であればいいのであれば、別に手で感じる写真もあってもいいし、
鼻で感じる写真もあってもいいわけですよね。
単に今の技術だと目で見るのが一番手っ取り早いと言いますか。
一番情報量が多いから、目で見て残された映像というものが断片化した写真になっているわけですけど、
いやまさに。
記憶ってものを、まあ何でしょうね。
懐中みたいな、もぐもぐ噛めば噛むほど旨味が出るじゃないですけど、
噛めば噛むほど映像が浮かび上がってくるみたいなのがあってもおかしくないよなってふと思いました。
そう、あのー、まあ音声?
音声というか言葉か。
言葉の限界は感じてるんですよ。間違いなく。
なるほど。
それは日本語話者だからとかじゃなく、
多分全ての言葉を喋れたとしても、表現には限界がある。
そうですね。
なあと思っていて、そこはやっぱり映像の強さなわけですけど、
視覚、聴覚で我々はメインで情報を得ているわけだけど、
さっき言った味覚とか、嗅覚、触覚っていうところは未知の分野ですよね、やっぱり。