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2025-09-08 21:18

腹痛は “人間らしさ” の最後の砦か?

地獄のような腹痛こそが、人間とAIを分けるものになる?

今回は、トイレで神に祈った、過去の腹痛回とは視点を変え、昔の人が腹痛をどう表現したのかを調べてみました。


この番組は、西暦3000年の、未来を生きる人類に向けて、

現代人が日々感じることや、ワクワクする未来への想いを発信し、

今を生きる皆さんと一緒に、未来に音声を残そうとする番組です。


BGM素材:DOVA-SYNDOROME、効果音ラボ


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サマリー

腹痛の体験を通じて、古代から現代までの腹痛に関する表現や信仰を振り返ります。医学の進歩に伴い、腹痛への理解がどのように変化してきたのかを述べ、特に平安時代や江戸時代における文化的視点を探ります。このエピソードでは、腹痛が人間らしさの象徴とされ、AI社会における腹痛の表現の変化について考察されています。腹痛を通じて人間の身体性や文学的表現の重要性が語られ、未来の人々がこの体験を理解できることが願われています。

急性胃腸炎の体験
8月末のことになるんですけど、 急性胃腸炎で1週間ほどダウンをしておりまして、
本当に苦しい時間を過ごしておりました。 初日のみ高熱で倒れていたんですけども、
そこから約1週間にわたって 胃腸に
稲妻が落ちるような 突き刺すような痛みが
周期的に襲ってくるというような症状がありました。 そこからはですね、
本当に内側から引き裂かれるような 苦痛とトイレの往復を繰り返しておりまして、
こういった症状になったことがある方は 経験あるかもしれませんが、
布団被るとめっちゃ暑い、でも布団被らないと めっちゃ寒いみたいな、
なんかこう寒いところと暑いところを一気にする みたいな感じで、結局こう目覚めちゃうみたいな、
そんな地獄のような日々をしばらく過ごしておりました。 胃腸炎といえば3年前になりますけども、
ポッドキャストのシーズン1、 まだしゅんちゃんがいた頃をですね、
トイレで神に祈りたい人たちというエピソードを お話したことがあります。
こういった腹痛とか本当にヤバい時って皆さん トイレこもるかもしれないんですけど、
だいたいトイレこもってる時って祈るじゃないですか。 なんでこんなひどい病んだとか、
ほんと勘弁してくれよーとか、助けてくださいみたいな、 こうやれること全部やったんですけどもうトイレにこもるしかなくて、
最後祈るしかないみたいな。そういった時にですね、 まあ何かしら祈るということは祈り先がいるということですから、
そんな地獄の中で祈る神様っていうのは一体誰で、 じゃあ神様がいたとして、腹痛の神様っていうのはいるんでしょうか。
というのが気になりまして、当時調べてみたんですけど、 なんと腹痛の神様が祀られている神社が京都にあるということが当時わかりました。
そこから3年くらい経って久しぶりにこういう腹痛の地獄を味わったわけなんですけど、
今回はちょっと視点を変えまして、 昔の人は腹痛をどんな風に表現をして、
何という形で残してきたのか、というところを少し調べたお話になります。 まあ腹痛の要因というのは、
医学的には現代においてはほぼほぼ解明されているかなと思うんですけど、 昔に帰ってみるとそういうわけでもなく、
病的なものだけじゃなく精神的なもの、例えば妖怪とか、まあ幽霊はあるかわからないんですけど、 そういった鬼とか怪異みたいなものが悪さを知るんじゃないか、
というふうに信じられていることもあったような気がします。 そんな時代ごとに腹痛に関する表現っていうのがあると思うんですけど、
どんな風に残されているのかなと気になったので、 まずは平安時代から調べてみることにしました。
なぜ平安時代からにしたかと言いますと、 腹痛って表現するということは、ある程度文学的な素養と言いますか、
要素をはらんでいるような気がするので、 ある程度文学が確立したと言いますか、貴族の間だけかもしれないんですけど、
文学が発達しているような時代からじゃないと文字として残ってないんじゃないかなというふうに考えまして、
平安時代からちょっと調べてみました。 早速平安時代からなんですけど、
医療所の医診房というものがあるらしく、そこにはですね、病床というのは陰陽節、あの陰と陽、あの対極図ってあるじゃないですか、
あの陰陽節という形で説明がされているようです。 そこではですね、
内臓に陰陽の菌がたまって腫瘍となる、そして様々な病気が発現するみたいな形で書かれていました。
あとはですね、婚弱物語、聞いたことある方も多いかなと思うんですけど、その中の17巻の44話に、
美少年に化けて、僧に近づいた女の話というのがありまして、 その中では、僧はわらわに対して、僧ってのはお坊さんですね、で、わらわは子供ですけども、
わらわは腹痛を訴え始めました、という形で、平易に記載されているものがあります。 ただですね、この婚弱物語のこの17巻の44話、読んでみたんですけど、
お腹が痛い、まあそれが腹下しとかではなくて、 まあ妊娠の腎痛のことを指しているというようなものでした。
残念ながらこういった異常絵みたいなところではないんですけども、お話自体もすごく面白くてですね。
現代の腹痛表現
内容としては、僧侶と性の形を描いているようなものなんですけど、結構この時代ながらなかなか攻めてるなぁという印象でしたね。
昔からお坊さんというのはたくさんいらっしゃるんですけども、そういった方々がどういった形で性に対して向き合っていたのか、
もしくは楽しんでいたのか、みたいなところもこの時代からすでに残っているというところです。
続いて鎌倉時代に入りますが、鎌倉時代頃から、 化腹物っていうのは腺器というふうに呼ばれていたようです。
聞いたこともあるかもしれませんが、腺器の虫という言葉、今でも聞いたりしますけど、腹の中で虫が痛みを起こしてというふうに当時から考えられていました。
古典落語の演目にも腺器の虫という有名なものがあるんですけど、 YouTube とかでもですね、
ハルト飛行機の土岡さんですね、バキバキ童貞で有名なグンピーさんと一緒にされている土岡さんですけども、
腺器の虫を実際に落語として披露されている動画があったりします。 これ結構面白くてですね、僕も見たことあるんですけど、
虫という表現というのはですね、 現代のアニキサスの寄生虫の腹痛とですね、
痛ずる部分があるので、虫という表現も間違ってないんじゃないかなと思ったりしています。 自分はこういうアニキサスみたいな怪産物で当たったことはないんですけど、
それはもう地獄だといろんな方から聞いているので、当たりたくないなと思いつつ、その虫による苦しみというのもある程度メジャーなのかなと思ったりしています。
続いて南北朝から室町時代というところなんですけど、 引き続き腺器という言葉が使われておりまして、
病気を虫に例える表現というのが主流だったようです。 蘇我の物語の中にもですね、
虚偽が腺器を思い出られたり、 虚偽というのが腹痛を思い出したというような用例が残っているようです。
またですね、中国の処方手、処方というのは薬の処方ですね。 和剤極法というのが伝来してきたらしくて、
当時薬が安価に製造できるようになってきたということで、いろんな民間薬が出てきた時代だということです。
そのうちの一つに下痢とかも含めたですね、万病に効く 方針炭という薬があったというのが、調べた限りこの中外製薬のページとかにも載っていたりしました。
続いて戦国時代ですね。 1568年にですね、
ハリキキガキという書物があるんですけども、この中にですね、 お腹の中の虫の絵っていうのが書かれているものがあります。
そこに書かれている虫というのは結構変なものが多いですけども、 引き続き人の体内で悪さをして様々な病気の原因になるというふうに考えられていたようです。
そして江戸時代。 この江戸時代というのが、最も虫がいるというふうに言われておりまして、
面白い例で言うと、子供の夜泣きありますよね。 それですら虫のせいにされていたということです。
江戸時代になぜこんなに虫がいたというふうに言われていたかと言いますと、 これは結構時代背景の部分が大きくてですね。
江戸時代はですね、宗教のような信仰の力というのは結構弱まってきていたらしくて、 精神的なものであれば宗教家が家事祈祷とかでお祈りすることで治療していたんですけども、
そこから医学による治療に変わってきたということで、 実体のあるこの虫というものであれば医療でも対処とできるということから、
医者の方から病原が腹の虫であるというような説を唱えたというふうにも言われています。 またですね、
変わったもので言うと、 道教、これも宗教ですけど、道教に由来するユニークな虫を描いた
江戸時代の写本、五臓の守護、 これ何て読むのかわからないですけど、の虫図みたいなやつがあって、その中で五臓六腑を襲う虫というのも書かれていたりというようなものが現代でも残っています。
あとはですね、18世紀以降ですね、西洋から伝来してきたような顕微鏡とかの普及があって、
まあ実体のある寄生虫の研究というのも進展したというふうに言われています。 江戸時代の文学の中にも同様に腹痛というものが出てくるようになったんですけども、
浮世風呂という1810年のものでは腹痛でどうしようもないというようなところが書かれていたりとか、
知っている方も多いかもしれませんが、東海道中、日田栗家、これは1802年のものですけども、
留め座所は宿を戦記と知られたり、大金玉の名のある戸塚にということで、
宿に人を留めないというのは戸塚では戦記と呼ばれるというふうに訳されています。 この戦記ではですね、
まあ下腹部の腸から陰部というところにかけて痛むことから、金玉が大きくなってしまうというふうに言われていて、
金玉の大きい宝石が当時戸塚にいたというところから、こういった表現での発言がされていたということです。
なんで金玉が出てくるんだというふうに思ったんですけど、そういった当時の時代背景と言いますか、
その地に住んでいる人たちの様子も含めて言葉が読まれていたというような形です。 こういった形で江戸時代というところまで簡単に腹痛表現というところを調べてみたわけなんですけど、
当然僕は歴史学者でもなんでもない、単なる現代人ですので、調べが甘い部分もあったりとか、
インターネット上でデジタル化されている歴史書というところを調べた範囲では、こういった情報がありましたが、
ざっくり言うと虫に例えることっていうのが幅広く使われたんだなというところが分かったかなと思います。
そして現代に入りますと、9ツイッターですよね、お腹痛いというふうに検索してみたんですよ。
そしたらですね、ざっくり調べた限り、やっぱり1時間に100件以上ですね、何かしらお腹痛いというような言葉を含むようなポストが今でも並んでいます。
現代においても腹痛というものは誰でも起こってしまうような苦難と言いますか、地獄の一つかなというふうに思うんですけども、
表現の中にはですね、この世の終わりとか、腹を殴られ続けているみたいとか、これもちょっと流行ったもので言うとショットガンみたいな下痢をしたみたいな形で、
現代でも様々な表現がなされています。自分が当事者がなければこういった表現を見てくすりと笑えてしまうわけですし、
確かになと思うんですけども、本人はそれどころじゃねえんだよ、もう祈りのような形でポストしてるんだよみたいなところはあるんですけども、
こういったお腹痛いという表現の中にも言語表現の豊かさみたいなところを現代でも感じることができます。
腹痛と人間らしさ
そういった意味では、誰でも自由に発言できて記録ができる現代においては、SNSっていうのは腹痛表現の進化の最前線というふうになるのかもしれません。
そしてまあ未来の話もしたいんですよ。 今現状だと、皆さんもご存知の通り誰でもAIが触れるようになって便利になっている世の中ですけど、
仮に人間から社会の支配者がAIとかアンドロイドと言いますかロボットが支配するような社会になってしまった時に、こういった腹痛の表現というのはどうなってしまうんでしょうか。
AIとかアンドロイドって胃腸ないじゃないですか。 そういった人たちが胃腸表現って
おかしな話だと思うんですけど、 我々は痛みを数値化をして解析するみたいなことはいろんなところで
AIを使ったりとかでも研究はしているものの、あくまでも人間がしたいと言いますか、雷が落ちたようだとか
腸が燃え盛るようだとか、そういった火を生み出すことができるのは 実感を持って生み出せるという人間らしさだからだと思うんですよね。
そういった意味では腹痛っていうのは人間という有機体、有機物と言いますか、 生物を前提とした体験なので
機械にはなかなか理解不可能な領域のままであるのかもしれないなと思っているんですよね。 人間は痛みというものをいろんな皮膚の表現で置き換えていくことができる一方で
ロボットとかアンドロイドとか頭脳となるAIというところは そこがわからないというところだというところになりますので
未来において人間が生み出す文学 AIが生み出す文学というところに、もしかしたらその表現の断絶というところも発生するのかなと思ったりしています。
古来から連綿と続く腹痛の表現として虫の表現もありますが お腹を殴られているとか
未来における腹痛の表現
腸内に雷鳴が駆け巡っているみたいな表現をやりがちだというところですけども 腸のないAIたちは
単に システムのリソースに過剰負荷が発生しているとか
腹部ユニットに動作エラーが発生しているみたいな 同じ部分の異常発生に対して
比喩と言いますか事実というところで表現が噛み合わないというところがあると思うんですよね それはやっぱり腸がある有機物ができるという痛みを体験できる存在というところが
改良を生み出す要因だと思っています この他にも
胃腸炎とか胃の痛みとかいろんな数値化できない 表現例えば愛とか
恋愛もそうですけども人間とか生物しか感じられない実際の表現というところに対して AIが表現するとなるとやっぱり
差は生まれていきますよね なんでしょうねこの不安みたいな表現についても
人間はいろんな表現できると思うんですよ 人間は自然にあるものをベースに表現をしていくことが多いわけですけども
AIについては例えばメモリリークのように増殖する不安みたいなところとか サーバ障害のように届かない愛みたいなところで
ちょっと無機質なものを使った表現に変わっていくということになると まあありえるかわかんないですけども ai の文学というのは
読者も ai なのでその ai がわかる表現でないといけない一方で 人間の文学というのは
そういった有機的な体験というところをベースにした表現というところで 文学的な部分もそうだし言語の中で使われる表現みたいなところも
どんどん分かれていくのかなと思ったりしています あとはやっぱり腹痛っていうのは人間らしさってところに秘訣するのかなと思ったりしてる
んですよね われわれにとっては体験中はただの不幸であり地獄であり
この世の終わりでしかないものの 腹痛っていうものを感じられるということは
自分たち人間の身体性と言いますかそういったものを鮮やかに蘇らせる 鮮やかというのは何が鮮やかか人によるかなと思うんですけども
そういった瞬間かなと思ってますし 同時にですねその鮮やかな身体性の記憶というところをいろんな表現に置き換えるという
意味では文学とか火を生む大事な道場だったりするかなと思うんですよね 将来的にAIとかロボットが社会の大部分を担うようになったとしても
腹痛というものを時間にちゃんと理解できるかどうかというのは やっぱり人間と機械を分ける
境界線なのかなとも思ったりしています そんな腹痛に関しての未来というところ少しお話ししたんですけども
やっぱりお腹痛いものはお腹痛いですよね もう耐えるしかないし薬も飲んでも効くときは効くけど効かないときは効かないし
なんかもうトイレから出られないし 家からも出られないし好きなものも食べられないしみたいな
まあろくなことがない普通表現なんですけども まあそれはある種人間らしさというかそこが続く限りは
残念ながら追わなきゃいけない我々の業と言いますか 悩みというところだと思うんですけども
将来的な 西暦三年の人類も
この表現をですね理解できる存在だったほしいなと思います ということでエンディングです
今回は地獄を味わった旧世遺町園というところですね なんとしてもこう何かしらの
話に昇華したいなと思いまして古来からどういった普通表現がなされていたか そして現代未来における
普通の表現というのは何を表すのかというところをお話をしました 僕自身は二度とこんな辛い思いはしたくないんですけども
人間である以上また普通表現をすることがあると思います そういった時にですね未来の人にも理解ができるような内容
もしくは研究材料としてもらえるような表現として残していければいいなと思うので まあお腹が痛いだけじゃなくいろんな表現をしていきたいなと思います
番組では感想をお待ちしております x のハッシュタグ
エコー3点までお寄せください では今回はここまでです
現代人の皆さんも未来人の皆さんもまた次回お会いしましょう じゃねっ
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