00:14
こんにちは、あきです。今日もパリで学んだ「ブレない自分の作り方」の時間がやってまいりました。
今日もさやむさんどうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
すっかりご無沙汰しちゃってましたよね、考えたら。
久しぶりですよね、お会いするのがね。
ね、実は結構会ってないですよね。
もうほぼ1ヶ月に近いぐらいの感じですけど、
お互いね、偶然にも全然違うタイミングでドバイに行っていたということで、
ちょっとドバイの話をしようかなと思うんですが、
私が1月の終わりからドバイに行き、初めてで、
さやみさんは何回目?
私はね、3回目。
2月のちょうどバレンタインデーの日から行ってたんだ。
ちょうど2週間ぐらいのズレがあるんですよね。
多分、一緒にイベントをやったみほさんの話によると、
私がいた頃ってね、一番涼しかったっていうか寒いくらいだった。
そうなんですかね。
でもね、それでも24度ぐらいまでは上がってたと思うんですけども、
でもノースリープじゃなくても平気だったぐらい。
あの半袖にジレっていうかカーディガンを着てるとか、
なんか長袖でも十分やっていけるぐらいの感じで、
でも暑すぎもせず、でも朝はやっぱ寒かったかなっていう。
朝はちょっと冷えるんです。
でも日中は2月だいたい26、27度とか。
だからちょっと暖かくなってましたね。
私がいた頃よりは暑かったんじゃないかなと。
私がね、行ってた後半は30度近く行きましたよ。
だから上がってたんだね。
泳ぐにはぴったり。
あ、そうなんだね。
多分私の時は寒いと思う。
まだ泳ぐ、地元の人は泳ぐんだろうけど、
私にはちょっと水温的に無理。
まあ持ってってないですけど水着も。
多分普通のお家にあるプールとかって
ヒーって言ってるじゃないですか。
基本的に本当に水温の。
そうすると冷たい。
ホテルのプールとかは多少温める。
あ、そうなんです。楽しめた。
朝から夕方まで。
それは室内なの?外にある?
あ、じゃあ全然平気なんですね。
一応ちょっと暑いぐらい。
そうか。じゃあそういう意味では
過ごしやすい感じだったんですね。
いい感じでした。
今回ドバイでいくつかやっぱり
びっくりしたことがあって。
びっくりっていうか私初めてだからね。
ドバイのこと知らないで言ってるんで。
で、まずえっとね、
さゆみさんのところはどうかわからないけれども
ホテルとかじゃなくて
その外にいて出かけた時に
03:00
結構、まあホテルの後
例えば外で、バーでとか
外で何かお酒飲んだり食事したりとか
いるタイミングで
結構虫に刺された。
え?虫いた?
うん、いた。でね
で、それ一緒にいたお友達
現地に住んでるお友達とかも
刺されてたから
今のタイミングで刺されるのか
ちょっとわからないんだけど
それが蚊なのかはわからないんですが
蚊のはれ方とはちょっと若干違う。
え?なんの虫?
でね、とにかく蚊の刺され方
ぷくって膨らむ感じじゃなくて
もうちょっとちっちゃくって赤くって
とにかく痒いんですよ。
何とか?
だからそういう系の虫じゃないかっていうぐらい
でも外にいないと大丈夫なんですよ。
ホテルとかは大丈夫なんだけど
外にいる時に刺されて
で、私が個人的に感じたのは
裸足になっていると痒いんです。
足を刺されるって感じ?
足を刺されるんですね。
で、基本的に足を刺される
本当に、だから私の場合は
パンツと靴の間、だからくるぶしのあたり
空いてるんですね。
で、そこで刺されている
裸足になっているところ
で、例えばそこに靴下とかストッキングを履いて
押さえていると痒みって案外出てこないんですよ。
裸足になった途端に痒くなるの、突然。
不思議。
不思議なんですよ。
で、だからホテルに戻ってシャワー浴びて
で、靴下脱いだりとかすると
急に痒くなる。
空気にさらしていると
うん、痒くなる。
で、だからこのくるぶしから
ふくらはぎの下ぐらいまでの
このわずか5センチか10センチの間に
バババババッと刺されているの。
すごい。
やっぱね。
なんだろう。
だからね、あと年齢もあるけど治りが悪い。
夏の刈りされた跡がずっと残ってみたいな感じで
結構強力な虫。
そんな虫がいたんですね。
いたの。
で、それは私はあんまり気にしないでいた。
24度だし
そんな湿気があるっていう感じでもないから
また湿気とは違う。
湿気はないですよね。
ないですよね。
だからその、いわゆる蚊じゃないと思うんですよ。
なんかの虫。
それがドバイでそんな
でもね、ちょっとね、ドバイにこれから行く方でね
なんか外で歩いてる方が
虫対策は
私だからもちろん持ってなくて
で、帰ってきてから慌ててこう
かゆみ止めをやっぱつけないと
かゆいかったりするんで
で、一緒に行った友達も持ってなくて
慌てて買ったって言ってました薬局で。
それまで持ってなくて。
なので、たまたまそのタイミングだったのかわからないけど
なんか私の中では虫に刺されて帰ってきたみたいな
イメージはあるドバイ。
過去3回まだないんですけどね虫刺され
ホテルのプールとかぐらいだったら大丈夫だったのかな
06:02
私はなんかその
言ってる
だから多分暑さとか虫に強いのかもね
それはないと思う。
そんなことない。
私もともとほら蚊には刺されやすいし
私もすごい刺されるんですよ。
あ、ほんと?
だって目の上とか刺されておいませんから
あ、そうなんだ。
よくある人、うちの娘もそう
目の上
大岩さんのファミリーなので結構虫には好かれやすい
じゃあラッキーだったか
あるいは私たち、私がいた頃の
タイミングとかもね
暑さ的に多分さゆみさんの方が暑すぎたのかもしれない
虫にはもう
私のいた頃はちょうどいい温度だから
虫がすごい生息してたんじゃないかみたいな
聞いてみてください
私ガンガン刺されました、ほんとに
そうなんだ
あとね、ドバイで発見したのは
今回初めて行って
クーポンの街だってことをすごいわかったんですよ
クーポン?
なんかね、一緒にお友達とか行くと
例えばパレスホテルのような
ちゃんとしたホテルのバーとかもそうなんだけど
ドバイってとにかくクーポンなんですよ
で、例えばね、今回のイベントも
いろんな日本企業とか
ドバイの現地の企業とかに
協賛を得てやってたんですけど
その協賛のお土産っていうのが
だいたいクーポンなんですね
例えば、こういうこのクーポンを持ってきてくれれば
半額にしますとか
なんとかに関しては無料になりますとか
で、どうやらドバイはクーポン文化
知らなかった
ほんと
クーポンアプリがあるらしいんですよ
で、そのクーポンアプリで
そのお店のクーポンを見つけて
これを見せると
例えばランチの一食分が無料になったり
平日だと
とか、なんかそういういろんなのがあるから
知ってるか知らないかで全然違うんだよ
という話を聞き
それが、例えば普通のレストランだけではなく
そういうパレスホテルのバーとか
そういうところで聞く
知らなかった
でしょ
だから現地の人多分みんな知ってると思うんだけれども
で、それを活用しまくって
で、ランチが結構もっと安くなったね
みたいな話になるらしいんだけど
まあ多分プラスではありえないじゃないですか
そんなクーポンも
でもやっぱり多分ね
競争率が高くて
やっぱりお店もいっぱいあるし
その中でいかにお客さんに来てもらうかみたいな
それが強いからなんじゃないかなと思って
私クーポンではなかったんですけど
火曜日の夜に行って
行ってる!なりますよね
2つはしごしました
安くなるの?レディースデイだと
お食事半額
お酒飲み放題
これは、ノンベンには素晴らしくありがたいことですよね
09:01
ありがたいこと
で、なかなか予約とかも難しいですね
そうなんですね
狙うからね、確かに
で、たまたま滞在してたホテルの
1つのレストランが
レディースナイトをやるって言うんで
ホテルの保険所に行って
予約してもらう
行ったんですね、友達と
で、そこでレディースナイトを楽しめたんですけど
なんかこう
ナイトクラブ化するんですよ
うるさくて喋れないの
そうなんだ
もう1個別のとこに行こうって
ああ、なるほど
ワインバーにじゃ行こうって
そこがきっと落ち着いてて
飲めるよって言ったら
そこもなんとレディースナイトで
ワイン全部飲み放題
飲み放題なの?
半額とかじゃなくて飲み放題なの?
で、例えば60ディスクとか払うと
ルッフェも全部食べ放題
ワインも飲み放題
あっという間に元取れそうじゃないですか
60とかありえない
すごい安いの
安いですね
で、なぜだか分かんないけど
私たち2人なんだけど
1人分でいいよって言って
なんだかとってもめちゃめちゃ安くて
それ多分クーポンも入ってるからじゃないですか
プラスク
持ってない
持ってなくても?
持ってなかった
その友人またクーポンとか知らないと思う
そうなんだ
全然使ったことないもん
ほんと
なぜだか安くしてくれたの
彼女が綺麗だから
OKに預かるみたいな
1人分でいいよって言って
でも彼女にもしよかったらクーポンの話を
クーポン文化だと思う
どこでもくっついていって
みんな必ずクーポンあるかなってチェックして
あったみたいな
でも飲み放題って私すごいと思う
すごいですよね
めっちゃ安いんです
どう考えたってお店によっては
とっては全然割に合わないですよね
全く損してる
赤字ですよね
ですけど週1回だし
そこでプロモーションして
みんなに認知してもらって
お客を呼ぶみたいな感じ
それは多分男性が行っちゃったら
それはレディースデイに入らないってことですか?
男性行っちゃったら男性は普通に払う
そうなんですね
レディースナイトと言いつつ半分くらい男性来てるから
男性も払ってる
まあそうですよね
例えば女性の分だけ安くなってても
ポータルでは安くなるから
一緒に行こうっていう場合もあるから
お店によっては
男性か女性が区別がつかない人もいっぱい
それはレディースデイを楽しんでるんでしょうか
どっちなんだろうこの人たちは
っていう人もいっぱいいて
お店がどういう風に
対処してるのかなってちょっと興味を
なるほどね
楽しみました
なんかやっぱりフランスの感覚からいくと
ちょっと面白いなっていう
すごい面白い人たちが世界中から来ていて
12:00
私はね結構好きな街なんです
ドバイね
すごいぶっ飛んだ人にも会えるし
いろんな出会いがね
ありますよね
なんかパリにはいなさそうな人とかいますよね
なのでそういう意味ではちょっと
パリから見るとちょっと別世界っていうかね
世界が違う感じで面白いかなっていう感じがしますね
それでは本編スタートです
はい今回は月の頭で久しぶりにインタビューをさせていただいています
今回はドバイにいたということで
ドバイで一緒にイベントをしていただいた
マタニティブランドミテラのファウンダーの
島田陽子さんにインタビューさせていただきました
彼女はもともとアメリカベースというか
アメリカに早く留学されて
そこからドバイに行ってブランドを立ち上げたと
全く別世界のアパレルのブランドを立ち上げたということで
それまでの経緯を伺ってますので
ぜひ聞いてください
こんにちは秋です
今日も素敵なゲストの方に来ていただいています
ニューヨーク発マタニティブランドミテラの
ファウンダー島田陽子さんです
陽子さん今日はどうぞよろしくお願いいたします
よろしくお願いいたします
今日は島田陽子さんの素敵なご自宅に来させていただいて
水の音とか自然の音がある場所なんですが
実はこちらはドバイなんですよね
ドバイにどれくらいお住まいですか?
8年になります
今回は一緒にイベントをさせていただいて
ミテラさんのおかげでイベントができたというぐらい
大変お世話になったという感じなんですけど
イベントっていうのは
特に日本の女性向けのイベントっていうのは
何回ぐらいやってらっしゃるんですか?
今回で3回目になりますドバイで
やり始めたきっかけっていうのは?
ニューヨークではいろんなイベントをやってたんですけれども
それは日本人向けではなくてアメリカ人向け
ミテラの思いというかフィロソフィーとして見たら
ママが対象なんですけれども
How to 授乳するとか
そういう意気を超えて
母親になった後に自分のアイデンティティの
rediscovery みたいな感じのプロセスを
もうちょっと掘り下げるみたいな
そんなトピックでイベントをやってきて
それをここでやろうと思ったきっかけは
やってみないって言われたからかな
あとはやっぱり日本人コミュニティと関わることによって
ドバイに来られる日本人の女性って
旦那様のお仕事について来られて
15:02
やっぱりここに来られる方って
結構学歴が高いとかエリートとか
バリバリ結構仕事ができる方が多くて
そこについて来られる奥様の方は
やっぱりその方もすごいできる方が多くて
でもここに来たきっかけで
お仕事を辞めてしまったりっていう方が多くて
もったいないっていうのもあるし
その方たちのフラストレーションとか
これから何をしたらいいとか
自分が何をしたいかとか
あとやっぱりここに来たきっかけで
子供を産むとかそういう方も多くて
人生の起点というか
そういう岐路に立たれている方が多くて
そういう方の話をやっぱり聞くことが多くなったので
日本人相手にイベントをしようと思いました
今回で3回目なんですけど
陽子さんとしてはどうですか
イベントの皆さんの反応とか
あとやりがいみたいな
やりがいはすごくあります
っていうのは初めは
どんな方が来るのかとか
どういう反応かとか
すごい心配したんですけれども
1回目のトピックっていうのは
自分の夢とか
自分が今何をやりたいかとか
ドバイにいる駐在の方は
ドバイにいる間に何を成し遂げたいかとか
そういうお話をしたんですけれども
夢を人に話すとかシェアすることによって
それが具体化するっていうので
すごい良かったっていうフィードバックが来て
その後に2回目のイベントをした時に
じゃあ自分の今置かれている状況っていうのは
ドバイに来たということ
外国に住んでいるということ
家族が増えたとか
そういう自分の置かれた状況の中で
それをネガティブと見ないで
それをポジティブに見よう
じゃあ10年後の家族像とか自分像はどうなのか
っていうビジョンのワークショップをしました
それで旦那さんも読んだんですけど
その時のフィードバックもすごく良かったので
やっぱりやるたびに
次のイベントはいつですかとか
そういうようなコメントが多かったので
すごく私にとってやりがいもあって
今回秋さんが来てくださるということで
また3回目のイベントができたので
すごい嬉しく思っています
ちょうど終わったばっかりですよね
終わったばっかりのタイミングで
今回ミテラブランドの話と
陽子さんの話を伺いたいんですが
まず陽子さんが今に至るまでの
ちょっとこう体験を伺いたいんですけども
アメリカに生活を始めたのはいつなんですか
16歳の時です
16歳の時ってこれ高校生
高校生の真ん中ぐらいですね
高校1年生のそうです
そのアメリカに行こうと思ったきっかけは何だったんですか
きっかけは私はその時に長野ですね
大阪出身なんですけど長野に住んでたんですね
18:01
それで推薦で清泉女学院という高校に入りました
入った時点で英語科っていうところに卒して
未来は外交科とかいうそういう
日本で言ったらエレベーター式みたいな
線路を引かれた道を走り始めたと
でも性格的に私はそういうのが苦手で
日本の英語教育っていうのは文法があって
リーディングがあってリスニングがあって
生きた英語っていうのが学べないっていうのが
すごいフラストレーションを感じて
私はその時に留学するって決めたんです
高校入ってすぐ決めた
結構失望したんですよ
でも学校はすごい友達とかもまだ友人関係も続いてるし
いいんですけどなんか違うなと思って英語教育に
留学っていうのはあくまでツールで英語ができたからって
その仕事に就けるわけじゃないじゃないですか
だからその生きた英語を学びたいということで
留学を決意しました
大学とかではなくても高校の途中で
もう行っちゃおうっていう
決めちゃったわけですか
その時にやっぱり水泉で入ってるし
やっぱり日本で顔を潰すっていうんですか
メンツみたいな
それですごく悩んだんですけど
校長先生に話しに行きなさいって言われて
行った時に
あなたは頭がいいんだから
自分のタレントっていうか
それは清泉女学院だから
カソリックの学校だからそういうこと言われるのが分かってたんですけど
それを人を助けのために使いなさいっていう
私は休学という形で初め行かせていただいて
自信がついて
アメリカに残るって言った
1年後に退学しました
その時
準備はそれなりにしてたと思うんですけど
結局アメリカに一人で渡ったわけですよね
高校生で16ですよね
どうだったんですか最初アメリカでの生活
初めは楽しかったですね
でも3年後にガタってきましたね
それはどういう意味でガタって
多分やっぱり初めは興奮してて楽しいし
行きたいって自分が言って
すごい満喫
カイリフロニアだったんですけど
満喫してて
そこから自分で
寮生の学校にアプライし
いろんなところにアプライし
行った時に
3年目ですごいホームシックで
その時は携帯もないし
Eメールもないし
手紙とカチャンっていう
その途中でコーリングカードができた時代だったので
そうですね3年目でガタってきましたけど
初めは楽しかったです
今親になって
私たちの両親に行っておいでって言ってくれたのが
21:01
すごい親だったんだなと思います
自分じゃなかった
だからその時は
その時に帰るって選択肢は全く考えてなかった
ホームシックにはなったけど
その時はなかったですね
高校卒業しなくてはいけないっていうので
その後大学も
残ろうって決めたわけですよね
大学に行くために
高校から行きたい
最初から大学もアメリカで行くって決めて
渡ってたんだ
そこまではっきり考えてなかったような気がしますけど
でもそういう感じで
短期では行かないで長期で
初めからそういう風に行きましたね
ホームシックになった時どうやって結局乗り越えられたんですか
そうですね寮で公衆電話に並んで
その年はすっごいお金を使って
電話で泣いてたような
でも乗り切ったんだ
乗り切ったのはやっぱり親が
あなたならできるよとかそういう
あと友達とかね
それで乗り切ったと思います
結局そのまま大学もずっとアメリカで過ごされて
その後はどうされたんですか
大学アメリカで4年生の大学に行って
大学卒業の1ヶ月前に
父親が新潟関連で亡くなってるんですね
亡くなった
彼はやけどをして
日本で輸血の時に
受けた時に新潟関連に感染して
その時代ヒモフィリアとか
そういう裁判とかあると思うんですけど
その時代からの
その輸血の死はスクリーニングされてなかった時代なんですね
それで結局新潟関連の関係したがんで
亡くなってしまって
それで一応卒業したら
1ヶ月後で亡くなってしまうんですよ
卒業して1回やっぱり日本に帰るじゃないですか
それでやっぱり日本で就職活動とかしました
過半が1ヶ月戻られて日本で活動されてたんですね
ユニバーサルスタジオジャパンとかその時代ですよ
大阪ですから
でその後は日本で就職されたんですか
しなかったですね
向こうも取りたくないような
多分性格だったと思います
会社側も
なんかそうですね
それでなんかギャップがありましたね
やっぱりその外国から
英語を喋れる人は欲しいけど
外国からの態度はいらないみたいな
メンタリティ的なものが
日本人のメンタリティで
24:00
英語が喋れる人みたいな感じだったんですね
そうですね
で父親の最後の望みっていうような感じで母親に
私と弟はまだ
弟も大学でアメリカで大学行ってたんですけど
それは辞めさせて欲しくないっていうことで
母親は多分一人ですごい辛かったと思うんですけど
私はアメリカに帰したんですよその時に
私は帰ってニューヨークで就職しました
最初についたお仕事はどんなお仕事だったんですか?
その時私は
ヒューマンライツロイヤーとか
その方向に進みたくて
だから弁護事務所
大きなニューヨークの大きなローファームに就職しました
なるほどね
そちらでどれくらい結局いらっしゃったんですか?
そこは2年くらいですかね
その時にやっぱり父親を亡くしたっていう
自分の心のハンディキャップみたいなのがあって
それを仕事の後にポスピスケアの資格を取ったんですね
なるほど
父親が亡くなる前って病気長かったですから
その間に私の母もホームヘルパーみたいな資格を取って
家で長く面倒を見るつもりで
でもそれができなくなくなってしまったんですけど
最後の彼が亡くなる2週間って私たちが家で見とった感じで
家にいた2週間ってやっぱり自分の死んでいく過程
それでいろんな友達が来て
最後の挨拶とかそういう過程を私は見てきたから
そういう死に方のお手伝いをしたいというか
そういう生き方ですね
最後の生き方のお手伝いをしたいみたいな感じで
私はホスピスの資格を取って
週末とか仕事の後とかボランティアで働いてたんですね
その時にやっぱりこの道に進みたいと思って
メディカルスクールではなくあくまでパブリックヘルスっていう道に進もうと思って
その時に大学院の受験勉強を始めました
そちらの本堂専門の方で大学院に行かれたと
はい、多分2年だったと思うんですけど
ホームズ・ホップキンズ大学っていうところで
パブリックヘルスのマスターを取りに大学院に戻りました
その後、結果的にそっちの方向で仕事をするって決められたと思うので
どうされたんですか、大学院が終わったと
大学院でもまた私はすごいいい出会いをしてるんですね
っていうのは大学院に入るエッセイがあるじゃないですか
その時に私はエンドライフケアのことについて
自分が父親をこういうふうに亡くしましたっていう
Dying with Dignityっていうんですか
そういうトピックについて書いたんですけど
院の私のアドバイザーの人が
これはすごいわかるけれども
世界にはそこまで生きられなくて
27:01
1日でも生きられない子どもたちがいるんだよって
そういう人たちにフォーカスしてあげようねみたいな
アドバイスをいただいて
それで私はまたそこでフォーカスがシフトされて
結局大学院にまだいる時にインドに住みました
行ったんですね
インドでエイズのクリニックで働いたんですけれども
インドでドクタースネティ・ソロモンといって
今はもう亡くなってしまったんですけど
女性のお医者さんがいて
そのお医者さんはインドで一番初めのHIVのケースを見つけた人で
その人がやられて始めたクリニックで働かせてもらったんですけど
アメリカのNIHってありますね
National Institute of Healthのグラントを受けて
リサーチャーとして行き働いて
インドに住みそれで卒業しました
南大学院に
その後に世界現行で仕事を始めました
インドでの体験って
陽子さんの世界現行に行くにあたる
大きなきっかけっていうんですかね
経験ってやっぱりあったんですか
やっぱり貧富の差を身近で感じたということと
人口の多さとか
フィールドに行って働く大切さ
アメリカにいたら見えないこといっぱいありますもんね
インドだったらね
そうですね
体験できたっていうのはすごくラッキーだったと思います
インドはちなみにどれくらいいらっしゃったんですか
8ヶ月とか9ヶ月とかですね
じゃあ今度世界現行に入って
どんなことをしようっていうか
どんなお仕事をスタートしたんですか
世界現行では
その前にSave the ChildrenとかそういうNGOでも働いたんですけど
正式に世界現行に入った時に
HIVのユニットがあったんですね
グローバルHIVエイズプログラムっていうのがあって
それはその時代はやっぱり
エイズに対してのお金がすごい
ファンディングがすごいそこに集まってた
っていうことで
それがフォーカスになりつつあったんですよ
世界現行でも
そこに入って
私は若いし
一番初めの仕事だし
とにかくフィールドに行きたい
フィールドに行きたいということで
そこで歪んだとか
いろんなところに行かせていただいて
アフリカとか結構あっちの方にもいらっしゃってたんですね
それでエイズのケアとプレベンションっていう
そういう方面でしばらく働きました
なるほどね
でそれから
世界現行その部門を
3年とかそれくらいですかね
2年3年
それでそこから
30:01
コンソル会社
デベロープメントのコンソル会社に移って
その時も
ワールドバンクは
モーティラタルといって
いろんな国から出資ができますよね
でバイラタルといって
アメリカがそういうプログラムとかに出資してるの
PEPFAっていうプログラムがあって
アメリカのプログラムがあって
そこのプログラムのお金を
募ってアフリカで
エイズのケアをするっていうようなプログラムを作りました
ちょっと体制が違うけども
エイズっていうか
同じプログラム的には
似たような感じで続けられてたっていうことですね
そうですね
なるほど
何か移られたきっかけはあったんですか
いろんな視点から
自分の仕事を見てみたいっていうことと
世界銀行では結構上からトップのところからの視点なので
今度はもうちょっと下からの視点みたいなということで
そっちに移って
その時は本当にもう1ヶ月に2回とか
出張出張出張の時代でしたね
やっぱりアフリカとかああいうところに
フィールドを現場に立ってたっていう
やっぱりそういう好奇心があるんですか
やっぱりあちこちの角度
一箇所にずっといるっていうよりは
あちこちの角度から見たいみたいなところがあるのかなって聞いてて
そうだと思います
多分その向上心というか
常に上というか
やっぱり自分自身に対して
チャレンジし続けたいっていう思いはあると思います
そのコンサルティング会社の後は
また違うお仕事をついたりしたんですか
はい
また変わる
いろいろキャリアが変わってますよね
その後はまた同じ路線なんですけど
今度はクリントン財団というところで
プレジデントのクリントン大統領が辞めた後に
作られたファウンデーションというところに移って
パブリックヘルスグローバルヘルスのフィールドなんですけれども
また今度はプライベートファンデーションからの視点で
アフリカの支援というか
途上国の支援という仕事をして
その時はアフリカの政府の中に入って
お薬とかテストとかありますね
そういうダイアグナスティックとかの
プロキュアメントみたいな仕事で
大きなロースとか日本の会社も一緒に働きます
シズメックスという知能検査とかも作っている会社で
パブリックプライベートパートナーシップみたいなので
その会社をアフリカに連れてくるとか
そういうプロダクトをアベイラブルにするみたいな
ような仕事をしてました
33:00
また出張も多かったんですか
そうですね
ずっと出張が続く
オフィスがない生活で
空港がオフィスみたいな
それぐらい結構移動が激しかったみたいな
そうですね
その時はロンドンとかに住んで
ロンドンベース
ロンドンベースで
ドイツベースで
私の主人もすごい出張が多かったので
その時は主人はドイツに住んでたんですね
だから私はもうドイツ
彼のホテルがいいみたいな感じで
そこから出張とかそういう
会うだけでも移動しなきゃいけないって感じですよね
ご結婚はどのタイミングでされたんですか
結婚は26でしてるから
もう長いですね
覚えてないです
クリント財団に行った頃ですか
前です
その前に結婚されてたんですね
2003年とか
そうだったんですね
結構そういう
お互い動きながら
一緒のところで会うみたいな生活が
続いてたっていうことですか
そうですね
そういう時のカップル的に
気をつけてたことってありますか2人で
もちろん私たちは
マリッジカウンセリングとかも
ちゃんと受けてるみんなので
問題あり
山越え谷越えっていう感じで
暇があるっていう
それは多分
それだけで1時間話せず
でもその時にやっぱり
学んだことは
今でもすごい大切に
使ってるテクニックとかあるので
1個だけでも
シェアしていただけますか
その大事にしている
山越え谷越え
結構多分いろんな
カップルで悩んでらっしゃる方とか
ここまで激しくはなくても
やっぱりなかなかすれ違いだったりとか
うまくいかないって方も
多分いらっしゃると思うので
ようこさんの経験から
ちょっとティップを
語っていただけると嬉しいなと
本当に簡単なことなんですけど
カウンセリングの方に
ホームワークってあるんですね
一緒にカウンセリングを受けて
それから1人ずつ
何回も何回も1年とかかけて
最後にまた1回やる
みたいな感じだったんですけど
宿題とかが
まず目を見て話す
そこ大事
ただいまって言ったら
目を見て
目を見て
寝る前に目を見ておやすみ
そういう本当に大切なことで
その時は携帯とかもない時代だったので
でも今は多分
もっともっとそういうのに気をつけないと
逆にね
もう目見ないで話すっていうのも
普通になっちゃう可能性高いですもんね
なるほど
大事ですね
確かに
それは今でもやっぱり気をつけないと
話してる時に
目を向けて言ってあげるとか
そういうのは言われないとできなかったかな
そうですね
でも基本と基本中の基本だけど
36:02
一番大事なことかもしれないですよね
はい
じゃあそんな生活の中で
このね
まだ多分ご経験いろいろされてると思うんですけど
ミテラにどうやってつながりつくのかっていう
まだまだですね
そうなんですね
どういうつながりで変わっていくんですか
そうですね
だから私の公衆衛生というか
グローバルヘルスのカリアに行ったきっかけは
父親の死という悲しい出来事で
そこからクリントン財団から
また私は世界銀行に戻ってるんですね
もう1回また戻られたんですか
5年くらい戻って
そこで内戦の国とか
イメリアとかそういうところで働き
2010年に1人目を出産
その最中に
そうですね
出張が多い生活の中で
出産を経験されたんですね
妊娠出産を経験した時に
その時私は世界銀行の
ワシントン人種のヘッドクォーターさんで
アフリカ局で働いてたんですけれども
自分のカリアの中で
たくさんアフリカとかで
出産の時に亡くなってしまう方とか
そういう話を聞いたり
目の当たりにしたりして
自分が妊娠した時に
できるだけそういう人たちの
経験に近づきたい
無理ですけど
アメリカだと病院だし
お医者さんもいるし
無理ですけど
自分の経験として
すごい大切にしたいと思って
子どもが生まれた
生まれました
その時にやっぱり
パブリックヘルスのプロフェッションですから
授乳というか
ブレストフィーディングで育てたい
頭の中でそれが
一番いいって分かってるから
その時に働きながら
そういうベストプラクティスを
やるっていうのは
どんなに大変かっていうのを
現実的にやるっていうのが
難しいってことですよね
社会の中で
女の人に対してのプレッシャーが
すごいなと思ったんですよ
本当にベストプラクティスを
やらなくちゃいけない
だけど仕事に戻って
子どもがいないように
振る舞わなくちゃいけない
いないときと同じように
っていうことですよね
それがすごいキャップを感じて
それから自分に対して
仕事をしながら
作乳ができる服っていうのを
2本でパパと作ってもらって
そればっかり着てたんですね
その時にそれどこで買ったの?
みたいになってきて
でもその時はそんな
起業するとか全く考えてなくて
自分のために
サバイバルという感じで
島手陽子さんのインタビュー
1回目でした
結構いろいろ仕事を変え
波乱万丈な
16歳でアメリカ
単身で行ってしまうとか
39:00
行動力のお花
タイプですよね
でもやりたいことが
やってるうちに
だんだん見えてきて
また次っていう
感じでね
やっぱり彼女も
おっしゃってたように
お父様が亡くなるっていうのが
結構彼女にとって
大きなターニングポイントに来て
その後そういう
パブリックヘルスっていうんですかね
公衆衛生の
そういう専門家になるために
大学に行くところから
そっちのスペシャリストになっていき
HIVとかAIDS系の感じで
ガンガンアフリカの方に
常に現場に
フィールドにね
いらっしゃったという
すごいですよね
とっても行動派ですね
だから同じ分野なんだけど
今度違うプライベートな
アメリカのプログラムの方から
見た視点でいきたいとか
トップの視点から
もっと下からのね
視点っていう話だよね
あとは今度
クリントン財団に入って
今度プライベート財団からの視点で
上国にどうやって
援助していくかみたいな
いろんな視点からアプローチ
していくと
そこで出てきた
ご主人は実はドイツベースで
彼女はロンドンベースで
ホテルであって
すごいですよね
それで結構ホテルで会って
またそれぞれ出張場所に行くみたいな
ロンドンベースとドイツベースって
結構ね
そんな近いわけでもないし
出張してたらなかなか会えない
今ですよね
すれ違いにもなっちゃいます
そういう意味で
マリージカウンセリングを受けたっていうのは
アメリカならではだかな
アメリカだと普通っていうか
みんな結構受けてますね
いますよね
だから日本の感覚からすると
ちょっと特別な感じですけど
アメリカは多分
こういう感じで
カップルでカウンセリング受けたりって
結構万適というか
多いっていう感じなので
そういう中から
ご夫婦の目を見て話す
私それうちの主人に言いましたよ
本当?
私の目見て話してないでしょ
そうなんだ
朝とか特に忙しい時とか
なんか私が話しかけても
そうだよとかって言って
目を見ないで
ヨーコさんの目を仕立てたことを
言ったんだ
ちょっと私の目見て話してないでしょ
って言って
ビビってた
言ってましたね
やっぱ反省する場所なんだなっていうのは
誰にでもわかりますもんね
意識しないとやっぱりそのあたりって
本当に適当にやっちゃいますよね
声だけ聞こうと思えば聞けるからね
いつも一緒にいるから
そんなに意識しなくても
いつも一緒だしなんていう
甘えみたいのがあるのかなって
ちょっとヨーコさんの話を聞いて
これではいけないんだ
42:00
思いましたね
反省しますよね
でも本当に誰にでもできるけど
すごく重要なこと
本当におっしゃる通りだなと思いました
これだから子供にも
同じだと思うんですよね
ついつい耳だけで聞いてる
っていう感じだけど
ちゃんと目を見て話すかっていうのは
結構大事だなっていうのを
教えてもらったという感じですね
今回は自分が
母になって
母親としてのプレッシャーのところで
終わってますが
後半では彼女が
どうやってブランドを立ち上げる
っていうふうに
つながっていったのか
というところを聞いてますので
ぜひ次回も楽しみにしていてください
ありがとうございました
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お楽しみに
秋でした