1. パリで学んだ「ブレない自分の作り方」
  2. Vol.162「超逆境の乗り越え方」
2019-05-02 43:06

Vol.162「超逆境の乗り越え方」

マルチタレントでプロデューサーの鈴木ナオミさんのインタビュー第1回目です。
ナオミさんが、どういうきっかけで今のお仕事の世界に入られたのか、マルチタレントやプロデューサーとしての活動のお話や、大きな病気になったことや震災などの転機とご自分の活動の変化に関してお話を伺っています。

オープニングでは、4月に起こったパリのノートルダム大聖堂の大火災についてお話しています。

オフィシャルサイトは、http://projectsparis.com/


00:15
こんにちは、あきです。
今日もパリで学んだ、ブレない自分の作り方の時間がやってまいりました。
今日もさゆみさん、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
5月の3日ということで、日本はゴールデンウィーク真っ最中なんですけれども、
パリではね、4月の半ばですかね、ちょっと大事件が起こりましたよね。
本当ですね、ちょっとショッキングな。
あの時どうしてました?
私ね、娘のコンサルバトア、ダンスのクラスの待ち時間だったんですよ。
そしたらその待ち時間の時に、私のスマホにスイスのジャーナリストの友達が、
さゆみさんととんでもないことが起こってますって言って、映像を送ってくれたんですよ。
映像まで来ちゃったんですか?
映像、もうジャーナリストですから。
え?って思ってその映像を見たら、ノートルダムが焼けてるんですよ。
3月の真っ最中ですよね。
これ冗談でしょと思って、あんまりその時は、え?なんて思ってたんですけど、
いろいろその後自分でニュース調べたら、やっぱり本当みたいで、とんでもないことになってると思って、
もうね、ショックでした。
というのは、その前日に私の次女、ダンスのクラスに行ってるその次女が、
お友達と学校からの課題で、彼女とそのお友達2人は、
ノートルダム大聖堂の歴史について調べてプレゼンをしなさいっていう課題を与えられて、
それはもう先生の方から与えられてたんだ。
先生から与えられて、他の子たちはまた別のものだったんです。
あ、そっか、たまたま彼女たちがノートルダムだったんだ。
それでその前の日に準備を始めて、プレゼンの資料を作り始めてたんですよ。
で、私と彼女のお母さんも一緒に手伝ってたら、
ノートルダム調べまくってたんだ。
調べまくってたんです、その前日に。
でもうね、パワーポイントみたいなの作ってたんですね。
え?みたいなことになって、びっくりしてそのお母さんに、彼女のお友達のお母さんに
アンヌって言うんですけど、とんでもないことが起こってるみたいだけども見た?
ってその映像を送ってあげたら、え?って。
見てなかったんだ、まだ。
すぐにちょっとテレビでつけてみるって。
とんでもないことだわ、びっくり。なんて悲しいっていう。
ちょっとでもね、不思議な感じがしましたね。
戦争中でもないし、まさか焼けるっていう発想はないじゃないですか。
灯がね、落ちたときとか、911、
03:03
私も同じこと思いましたね。
彷彿とさせるというか、全然状況は違いますけど、
なんかちょっと通ずるものをね。
感じましたよね。
だから、亡くなった方もいなかったし、
全員避難させられたっていうところでは本当に良かったと思うんですけど、
でも、なんか私がニュースで聞いたときは、
まず1回目にアラームが鳴ったんですって。
で、アラームが鳴ったけれども、あまりにも広すぎて、
どこが原因なのか分かんなかったんですって。
千平米ぐらいあるみたいなので、
何が起こったことによるアラームなのかが分かんないタイミングで、
10分後に2回目のアラームが鳴って、
その時にはもう火事バーンと出てたっていう感じなので、
あんまり広すぎてもね、分かんない。
何が原因だったんでしょうね。今、救命してるとか言ってますけど。
でも、私が新しく工事の初日だったんですよね。
あの倒れて亡くなってしまった塔の工事だったんですよ。
私がちょっと聞いたのは、工事中の火花が散ってって。
でもね、それあり得ると思う。
なぜかというと、私の家もリノベーションをしようとしてて、
床のね、フローリングの張り替えをするために、
アステクトの人とスタッフの人が来て、床の板を削ったんですよ。
穴を開けて、どんな深さ、どのくらいの厚みかっていうのを調べるために、
穴を開けたんです。
ドリルみたいな。
ドリルでパカッと丸く厚みをつけて開けるんですけども、
その時にやっぱり煙と火が出るんですよ。熱が。
それでアラームが鳴って、
あ、鳴ったんだ。
大変だったんですよ。
煙出ちゃうとね。
煙出るんです、絶対。
熱も出るんですよ。
だからすごく熱くなるし、
絶対、やっぱりそういった削ったりとかっていう作業があると思うんです。
それで火花が散る、熱が出るっていうことは、
絶対原因じゃないかなと素人考えですけどね。
でもその火花が木に移ったら、そこ燃えますよね。
燃えますよ。
結構初日だったから、その辺がわからないまま始まっちゃったっていうのはあるのかもしれないですよね。
だから結構ね、機能できることでしたよね。
本当にいまだにちょっと信じられない感じ。
っていう感じですよね。
私次の日行ったんですよ。見に行って。
そしたらやっぱり工事現場のあれがあるから、
ぱっかり抜けてるとこは見えないんだけど、
06:00
これ屋根がすっぽ抜けちゃったんだろうなっていうのもわかるし、
やっぱりその壁のところが真っ黒くなってるから、ススで。
だからちょっとね、それ見ると、あーっていう感じは悲しかったですね。
やっぱり人が多かったのもあったし、
メディアはすごかったんですよね。
みんな橋の上からリポートしてて、
有名どころというか、ヨーロッパとかの辺だったらいいけど、
なんか結構あちこちから来てるっていう感じで、
その辺のことの大きさを知らされたって感じですね。
アメリカのメディアとかもすごい報道してたしね。
ずっとしてましたね。
だから本当に英語圏もいっぱいあったし、スペイン語圏もあったし、
イタリアも見たし、あと何語かよくわかんないのもいっぱい見たし、
もちろん日本のメディアもいたし、
だからやっぱりその辺はね、パリにいたら、パリ四国があるところはみんな。
そうですよね。
ノートルダムっていわゆるパリの中心というか、
ポイントゼロみたいなところじゃないですか。
そう、ポイントゼロですよね。
結構それもね、911と感じちゃいますよね。
なんか不思議なね。
なぜここなんだろうみたいなね。
感じましたよ。
なんかやっぱりフランスってなんかやっぱり必ずありますよね。
最近何かある。
ジレジョンだったり、テロだったり。
今回やっぱりノートルダムが焼けて、
いろんなね、ビッグ企業の人たちがすぐ寄付をするっていう風になって、
結構それが1億ユーロとかだから125億円とかぐらいですよね。
2億とかね、ルイビトン系のところとか。
ガンガン出して、24時間でそういうアクションが撮れる、
行動が早いね、で終わるのかと思ったら、
ジレジョンルっていう黄色いベストの人たちが、
人たちがじゃないのかもしれないけど、
金持ちは協会に払うんだみたいな感じで、
自分たちには払わないのかみたいなね。
きっとそんな感じですよ。
今週の週末のデモは暴動になるんじゃないかっていうことで、
警察がすんごい量を集めて配備するらしい。
この収録の段階ではまだその前なんですけど、
らしいですよ。
だから、なんていうのかな、
人が好意でやったことが、
すべての人に受け入れられるわけではなく、
実はそんなお金持ってるんだと、
それを従業員に、
石には出すんだとか、
石は出して他には出さないんだみたいな、
09:02
ところで思っちゃう人が、
この間みたいなシャンゼリゼのね、
ガツンと壊しにかかるんじゃないかっていうのを聞いて、
物は、当たり前より寄付すごいな、で終わるのかと思ったら、
そうでもないんだっていうのが、
さすがフランスだなと思いましたね。
いろんなところに連鎖して。
そう、していくっていう。
たまたまシャンゼリゼもね、
今回母が来てたってこともあって行ったんですけど、
結構寂しかったですよ。
シャンゼリゼで暴動があったじゃないですか。
風景とか、ほんと全面工事やってたし、
その赤い風景のね、テントみたいなのが、
工事の白いテントになってて、
すごい悲しかったし、
反対側の方ではもうガッサガサに壊れちゃって、
ヒビが入ってたり、壊れて工事をやってるところもあったし、
なんかなんだかなーって思いながらシャンゼリゼを通ってましたけどね。
ちょっと最近のパリというか、
フランス以前の花の都っていうのと、
またちょっとなんか違う感じになってきた。
そういう政治とか経済が絡んでくると、
ただの綺麗っていう話とはまたちょっと違っていて、
国民の不満を持っている人たちがバーッと現れたり、
何かに便乗して壊しにかかったりとか、
それはね、ちょっとどうかなと。
壊すのはね、ちょっとやめてほしいですよね。
でもはわかるだけで。
でもはね、別に権利だからしていいと思うんですけど、
でも壊す必要はないですよね。
だから金曜日のたんびに、
プロテクターをかけてるお店の人たちがかわいそうで。
毎週メールでね、日本大使館から来ますよね。
金曜日ベスト運動情報みたいな感じで。
どこの駅が閉鎖されるとかね。
多分来ると思います。
また来るでしょう。
ということで、それでは本編スタートです。
はい、本編です。
5月の頭ということですので、今回もインタビューをさせていただきました。
今回はマルチタレントで、プロデューサーの鈴木直美さんです。
鈴木さんは実はロンドンにお住まいの方で、
私が前回ロンドンに行った時にインタビューをさせていただきました。
このマルチタレントでプロデューサーっていうお仕事と、
彼女の、なんていうんですかね、
波乱万丈な人生を、
ちょっとぜひ聞いていただきたいと思いますので、
まず1回目のインタビューを聞いてください。
こんにちは、鈴木です。
今日も素敵なゲストの方に来ていただいています。
12:01
マルチタレントでプロデューサーの鈴木直美さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
鈴木直美です。よろしくお願いします。
直美さんはロンドン在住ということで、何年お住まいなんですか、ロンドンに。
今数えたらあっという間に22年になっています。
そういうことはだんだん、一応私永遠の二十歳ということになっています。
だんだん計算が合わなくなってきて。
生まれる時から住んでいるのみたいな。
生まれる前から住んでいるみたいな。
なるほどね、ということになっていますけども。
マルチタレントでプロデューサーっていうことなんですか。
マルチタレントって具体的にはどんなことをされているんですか。
そうですね、芸能一般。
歌います、司会します、
お芝居します、女優もやります、
なんでもやりますみたいな。
一番の中で何か重点というか比重みたいなものはあるんですか。
そうですね、その時々お仕事は一生懸命、全力で命がけでやっていますけれども、
やはり私としてはシンガーソングライターということで、
音楽で私の思いとか、いろんなことを元気とか勇気とかを伝えていきたいなというのが
今一番重きを置いている。
メインになっているということですね。
では、延々と二十歳の前に、
どういうきっかけでこの世界に入っていったというか、
ロンドンに来たというのも含めてなんですけど、
一番最初のきっかけは何だったんですか。
私はオンライン日本で行っていたんですけども、
当時いろんな先輩たちがCM制作会社に就職されて、
コマーシャルソングとかを発注というか、
こういうコマーシャルソングがあるから歌ってみないとか、
アニメソングがあるから歌ってみないとか、
そういうのから入っていたんですけど、
だんだん歌が面白くなってきて、
私はピアノ家だったんですけど、
もともと歌の人ではなかったんですね。
当時私の音楽の先生が、
これからはピアノだけ弾けてもダメだから、
歌えるピアニストとか、
しゃべれるピアニストとか、
マルチじゃないとなかなか生き残れないよということで、
たまたま私が入学したときにそういうクラスが併設されて、
そこでいろいろ歩き方だとか歌い方だとか、
そういうトレーニングを受けたんです。
ピアノ以外の部分でも。
それがよかったのか、
いろんなコマーシャルの仕事が来るようになって、
そうしているうちにアイドルみたいな、
自分が出てくるってことですか。
アニメソングを歌います。
イベントで出て行ったりとか、
あと演歌歌手の方、
5代なつこさんとか、
阿蘇川隆さんとか覚えてるんですけど、
そういう方々のショーの前座で、
15:01
マライア・キャリーとか歌ってたりとか、
ホイットニーヒューソンとか。
タイプが違うような感じもしますけどね。
そんな中、全然違う演歌のショーなのに、
ホイットニーヒューソンとか歌って面白い人がいるということで、
イギリスのプロデューサーがやってきて、
イギリスでデビューしませんかって。
いきなり?
いきなり。
みんな嘘って思うんですけど、
私も当然嘘って思って、
親もそんな怪しいとこ行っちゃいけません、
みたいになったんですけど。
いきなりプロデューサーって言っても、
どこの人かもよく分からないってこともありますもんね。
でもチケットも送られてきたし、
一応タダで旅行だし、
まあいいかと思って、
とりあえずイギリスに来ちゃいこうって。
それがまだ学生の時?卒業はしてたんですか?
卒業したぐらいかな。
で、戻ってきたら。
一人で来ちゃった?
来ちゃったんですよね。
そしたらすごいことになってて、
セッティングされてて、
BBCのカメラが4台回ってるとか、
ダンサーは、マドンナのダンサーが。
でも本当にアーティストとして、
ロンドンでデビューするみたいな感じになってた?
そうなんですよ。
もうそこでセッティングはすべてできてて、
で、えーって思って、
調子に乗って、
ロンドンでコンサートをしたりとかしてるうちに、
UKチャートで12位になったんですね。
すっごいシンデレラストーリー。
で、それを今度は逆輸入っていうことで、
日本でリリースさせようということで、
いろんな大人たちが日本のコマーシャルソングとか、
当時歌謡サスペンスのテーマソングとかですね、
カメリアダイヤモンドのテーマソングとか決まって、
当時のレコード会社の今年の一押しアーティストということで、
お金も何億円単位で出たんですけど、
なんと、それを紹介した間のプロデューサーが、
その制作費を持って全部逃げてしまった。
え、その人が?
で、ジエンド。
いきなりジエンド。
ちょっと待ってくださいね。
ロンドンでそうやって合作して、
今度じゃあ日本でやるよってなる直前に、
もうレコーディングも済ませて、
済ませてたんですか?
全部本当にポスターも撮って、写真も撮って、
コマーシャルも決まって、
もう全部リリースの日も決まったんですけど、
お金がないってことになって、どこ行ったんだ?
その紹介した人が、
持って逃げちゃってるっぽいみたいになって、
もう大変なことになっちゃったんですよね。
そこでもういきなりそのプロジェクトが?
終わりです。
いきなりのシンデレラストーリーからの
翌日はもう急降下みたいな。
1ヶ月足らずの命でした。
えー。
で、ナオミさんどうされたんですか?
そのプロジェクトがなくなっちゃって。
18:00
しょうがないじゃないですか。
でも一応そういう状況のことは、
家族も日本の友達もすごいすごいって言って
すっごい盛り上がって、
一応イギリスでも12位になって、
すごいすごいってなってたんで、
今さらなんかこう、
ダメでしたって変えるわけにもいかなくて。
でも当時私は英語が全く喋れなかったんですね。
そうなんですね。
私はね、イエーイ!
How old are you?
イエーイ!
全部イエーイ!で2年くらい過ごしてたっていうね。
もうすごい全然喋れなくって、
最初BBCが、
すごい時にBBCが取材に来るんですけど、
ダンサーと喋ってて、
分かんないのにイエーイ!イエーイ!とか言ってですよね。
ダンサーが、
Have you ever been to US?とか言って。
イエーイ!言ったこともないのにイエーイ!とか言って。
全部イエーイ!だったからね。
ただ向こうがウェアって聞いて、
ウェアは分かったんですよ。
場所を言わなきゃ。
China!とかもう全然分かんない。
アメリカなのにChina!って言って。
そんなくらいダメだったんですけど、
1回イギリスに来たんで、
何かゲットして帰らないと、
国境に認識を重ねないべと思って、
すごく英語をまず勉強して。
そこから勉強始めたんですね。
だからもうすごい朝から晩までずっと英語の勉強をしてたんですけど、
当時ですね、日本の歌謡館がバブル時期で、
いっぱい日本からイギリスにレコーディングに来たりとか、
撮影に来たりとか、コンサートやりたいとか、
いっぱい来ることがあって、
皆さんご存知と思いますけど、
歌田ヒカルさんとか、
当時小柳由紀さんとか売れてたアーティストさんが、
イギリスで活動したいっていうのに、
私は歌手ですけど、
ちょっと手伝いますよみたいな形で手伝ったら、
本物の通訳さんを使うよりも、
勝手が分かっているプロデューサーとのやり取りとか、
ミュージシャンとのやり取りとか、
分かっているので、
これいいぞっていうことで、
私コーディネーターって言うんですけども、
コーディネーターとして雇ってくださるアーティストさんが、
ジャンジャン来始めたのがラッキーだったんですね。
そこでまたマルチの方がいろいろ出てきたわけですね。
意外と自分出たいけども、
向いてるなって思ったんですね。
人の世話をやいたり、
制作をしたり、
マネジメントをしたり、
オーガナイズしたり、
アーティストさんがコンサートをしたいって言ったら、
コンサートをオーガナイズする。
写真撮影をしたいって言ったら、
それをオーガナイズする。
ビデオ撮影をしたいって言ったら、
いろんなキャストを集めるとか、
すごく向いてるなと思って。
固定職だなってある意味思ったんですけど、
そういうのもあって、
時期も良かったということで、
いっぱい日本のアーティストさんが来るようになってくれくださって、
会社を設立して、
ずっと住み着いてるっていう感じなんですけどね。
21:04
お仕事的には、
そういうコーディネート的な、
要は日本から来るアーティストさんを、
ロンドンでの活動をコーディネートするみたいなことを
ずっとキャリアをしたんですかね。
今はその経験を活かして、
いろんなイベントの企画とか、
何年か前は、
プリンセス・ダイアナのエキシビジョンを
日本全国で巡回展をしたりとか、
そういうこともやらせています。
日本からこっちだけじゃなくて、
ロンドンから日本にっていうものもやってらっしゃったんですかね。
そうですね。
そういうの向いてるなと思いながらも、
やはり最初の挫折が、
歌手が目指して頑張ってたのにダメになった。
もともと音楽はずっと音楽で生きていくんだって思ってたんですけど、
チャンスがあって、
歌手になるっていうチャンスができてきて、
いたのにガンって亡くなったことに対する、
自分の中での何とかいかない部分っていうのが、
ずっとどこかにあってたんですよね。
あるすごく有名な日本のアーティストさんが来て、
そのアーティストさんがレコーディングをするということで、
私がマネージャーということでやってたんですけど、
後にそのアルバムは、
その年のベストアルバムとして、
1位になって、一番最も売れたアルバムになるんですけれども、
その制作をしているときに、
当時ダットっていうテープを、
マスターテープとして納品してたんですけど、
それが亡くなったんですね。
亡くなったっていうのは、紛失。
私も責任の一人なんですけど、
大変大変と言いながら、
心の中で、
このまま見つからなければいいのに、
って思った自分がいたんです。
で、はって気がついて、
それはすぐに、私はなんて恥ずかしいことを思ってしまったんだ。
私はこのプロジェクトの一員で、
このプロジェクトを成功させるために動いてた。
それは嘘じゃないし、真実なんだけど、
その心のどこかで、
出てこなければいいのにと思った自分が、
ものすごく、なんていうのかな、
えーって自分を軽蔑するというか、
ショックだったんですよね。
でも、結果的には出たとか出てきて、
解決はしたんですけども、
そのことに関してしばらく自分で悩んだんですけど、
なんで自分はこういうふうに思ったんだろう。
どこかで歌っている人に対するジェラシーとか、
そういうものがあったからなんだなって思ったときに、
じゃあ私も歌えばいいじゃん。
って思ったんですよね。
24:01
それは何年頃なんですか?
そうですね、10年くらい前かな。
歌手であるということを捨てて、
それまでガンって亡くなってから、
詐欺事件にあってからは、
しばらく歌手であることを忘れて、
コーディネーターとしてだけで頑張ろう、
もう私は裏方できるんだみたいな感じで頑張ってたんですけど、
別に決めなくてもいいんじゃないの?って思ったんですね。
11年くらい前かな。
12年前かな。
そこから2足のわらじ。
具体的に歌手としてどのように?
その時にちょうどイギリスで、
今最大の日本のフェスティバル、
ジャパン祭りっていうのがあって、
7万人くらい来るんですけど、
イギリスの中心のトラファルガースクエアだったところでやって、
すごい人たちが来て、
イギリス中の日本企業が全部参加して、
ストールとかも60くらい出て、
すごい大きなイベントがあって、
そこの司会者として抜擢されたんですね。
11年前かな。
歌も歌うということでステージやらせていただいたりしたんですけど、
その時にすごい人たちの前で
パフォーマンスすることの喜びというか、
やっぱりいいよねってすごく思って、
そこからやっていくんですけど、
その前にちょっと
日本人のコミュニティの人たちに
童謡とかリハビリ、今考えたら
その大きいイベントのリハビリだったんだなと思うんですけど、
童謡とか日本の歌を歌ってあげようと思って、
ぼちぼち歌ってたんですよね。
それはどういう場所で歌ってたんですか?
日本人のコミュニティのおじいちゃんおばあちゃんが集まるようなところとか、
もうその時すでに日本にはお家がなくて、
何十年もお家に帰ってないとかいう人たちが
いるようなところに行って、
日本の歌とかを歌ってあげると喜ぶんですよね。
懐かしいしね。
私はもうこれでいいやって思ったんです、その時ね。
ジャパン祭りの前に、これでいい私の歌を
こうやって聴いてくれて喜んでくれる
おじいちゃんおばあちゃんがいたらそれでいいやって思ってたら、
そのおじいちゃんおばあちゃんの会長さんに声をかけてもらって
その司会をするという。
そのご縁で?
司会の方にも。
日本ジャパン祭りの司会っていう。
で、ダーンっていきなり大きいステージ、
司会、もうすごい脚光を浴びて、
うわ、これやっぱりいいわみたいな。
なるほどね。
っていう感じでやってたんですけども、
走行してる間に東日本大震災が。
2011年ですね。
ちょうどだから8年前になりますもんね。
そう。
27:00
起こるんですけども、
やっぱりその日本ジャパン祭りから震災の間起こるまでっていうのは
結構急にギアチェンジで。
歌手の方を?
うん。
バーって頑張っていて。
で、さっきも話したプリンセスダイアナの展覧会を日本でやるっていうときに
プロデュースしていて、
やっぱり音楽とビジュアルと一体の方が
見てるお客さんもダイアナの綺麗な写真とかドレスとかを
もっと相乗的に音楽があった方がいいって思って
フェミニンとかエレガンスとかビューティーとかをテーマに曲を作ったんですね。
BGMが。
それはナオミさんが。
じゃあその展示会に合わせて、
服とかにも合わせて音楽を作った。
作った。
で、CDも作って会場で売ろうと。
結構売れて、いいんじゃないの?女子に乗って。
こっちのプロデューサーにこんなのを作って売れたんだよねって言ったら
イギリスでリリースしようってことになって
イギリスでリリースしたんですよね。
そしたら、いろんな雑誌とかが
今までこんな綺麗なCDは聞いたことがないみたいな。
イギリスで?
イギリスで。
いっぱい記事が出て、
なんかちょっと、え?ってびっくり。
そんなつもり、もともとBGMで作ったつもりなので
こんなものがそんな評価されるなんてって思ってたら
どこかを見たアメリカのプロデューサーが
これをアメリカでも売らないかっていう話になってきて
それこそまた最初のね、一番最初の四つ葉の話じゃないけど
またなんか騙されて
さすがにね、ちょっと二回目とかもね。
また美味しい話持ってきて
また人の人生突き落とされるようなことになるんじゃないかって思ったんですけど
あんまりしつこくて、わざわざ私に会いに来てくれたんですアメリカからニューヨークから
で、じゃあもうとりあえずわかんないけどやってみてくださいって言ったら
なんとアメリカのチャートのチャートで14位になって
そのCD?
その中の音楽がいっぱい
そのCD自体も世界中の1400曲、ラジオ曲の投票による
1位に3週間なって
10週間くらい順位に確か入ってたんですよね
そのCDのタイトルは何だったんですか?
スイートローズって言うんですけど
ローズっていうのがライアンのイメージ
で、そうそう
それがそういうことになって
もうなんてこった
一直線に音楽を作るっていうね
とりあえずこれもよかったら日本でね
また広がっていけばいいなと思っていたところで
30:01
病気になっちゃったんですね
ナーミさんが?
なんかやっぱりこういつもセットですよね
うまくいきながら次に何か起こって
そう、試練が起こる
いつも試練が待ち受けていて
それを乗り越えることで
次のまたステップが見えてくる
っていうのを繰り返してるなって
病気は結構どんな感じだった?
そうなんだけど
おかしいなと思ってたら
血病みたいになってたんですよね
それはロンドンでわかったんですよね
活動は休止せざるを得ない感じ?
その時はかなり悪い感じで
肝臓ももう機能していない
走行しているうちに肺も一部が壊れて
免疫がおかしいので
何か一箇所が壊れたら治せないみたいな感じになって
お医者さんもあんまり後がないと思った方がいいかもしれないみたいな
それくらい行かれてたんだ
でもどんどん具合が悪くなって
もうダメって思ってた時に震災が起こったんですね
なるほど、そのタイミングだったんだ
具合が悪いのは震災の時の津波の映像とかで
もっと具合が悪くなって
なんでこんなに具合が悪いのって
生きてるからなのか病気なのか分からないぐらい
具合が悪い時に
見ず知らずの人から
ナオミさんの歌で被災地を救ってくださいっていう
ツイッターが来たんですよ
全然知らない人なんです
そういうのをいただいて
一生懸命頑張ってくださいとか返しますよね
返したんですけども
その人がしつこくっていうか
もう一回言ってきた言葉に心を打たれて
私ももう一回返したんですね
本当に頑張ってほしいっていう思いを込めて
そしたらその人が自分はがんで
余命もないみたいなことを言われて
自分の流されたお家に行ったら
全部流されてるんですけど
がれきの中に自分が愛用してたベースだけがそこにあった
自分はアマチュアですけど
昔はミュージシャン目指していて
今も地元で音楽をやってて
いろんなイベントとか出てるんだけれども
自分のベースだけが流された
跡形もなくなったがれきにあるっていうことは
これは自分がもう一回ベースを弾けって言われてるんだと思う
33:02
だから音楽を一緒にやってくださいっていうような思いで
私も今実は死にそうなんです
その人も僕も命ある限り頑張りたい
そこに心を打たれて
私もどれだけ来られるか分からないけど
全員は急げだから
一緒に音楽を作りましょうって
もう見ず知らずの人ですよ
そこで話があって
その当時早速誰かが頑張れ頑張れとか
You can do itみたいなファイトみたいな
応援歌っていうのがたくさん出始めてたんですけど
被災地の人たちの気持ちになった曲っていうのを
歌ってあげたいなって思って
その人が見たものを作文にしてくれたら
私は歌詞にしますということで
作文にしてもらったんですね
それを一生懸命
本当にその人の気持ちになって
歌詞を一生懸命書いて
で、できた時に
私の白血球がちょっと上がってたんですよ
病気に影響があったんだ
あんなに苦しかったのに
元気がすごくできてて
これ私もしかして歌詞だけじゃなくて
歌も歌えるかもって思って
すぐレコーディングスタジオを予約して
歌おうとしたんですよね
たまたま周りの人たちは
自分が音楽作ってあげるからっていう人が出てきて
すぐにカラオケを作ってもらって
歌を歌えたんですよね
そしたらまた元気になったんですよね
そしたらコーディネート時代
コーディネートした時長くなった
なつきまりさんとか
そういうアーティストの人たちが参加してくれて
一緒に歌ってくれたんですよね
その曲がホームって言うんですけど
CDがなんとできてしまったんですよね
まだ生きられてる
じゃあこれは生きられてるうちに
持っていこうと決めて
仙台に行ったんですよね
持ってCDを
CDを持って
最初にTwitterでメッセージを送れた人があって
初めましてって感動の最感
その人も病気がよくなってた
その思い
生きるっていう思い
それから本当に絶望を味わうんですけど
その人も私も味わうんですけど
そこからの光に目指して
死に物狂いで
その光を手繰り寄せるっていうパワーっていうのは
本当に医者が見放したような
病気ですらも
よくなる
自分の中でのホルモンみたいなのが
出るんだろうなっていうのは確信したんですね
せっかく持っていったんで
今度はこれを
36:01
被災地の当時仮設住宅とかいっぱいあって
車とかこんななったまま
ひっくり返ったまま転がってるような感じで
とりあえず行ける学校とか幼稚園とか
仮設住宅とかを回っていったんですね
当時はまだまだ人々の心が
本当に悲しみに打ちひしがれてるわけですよ
さっきまで手繋いでた人がそのまま手が離れていって
流されていった人たちも
ちょっと反狂乱になってるのを
そうならないように
理性で抑えてるみたいな状況なんで
一緒に歌うところじゃないんですね
でもそうやって一緒に歌いましょうって
最初は目を伏せて
目も合わせてくれないんですけど
そのうちだんだん顔が上がってきて
だんだん一緒に歌っていくうちに
その人が笑顔になってくるんですよ
その笑顔を見たら
私ももっと元気になって
どんどんどんどん
私の数値が上がっていったんですね
その反撃の
それって震災からどれくらい
仙台に持って行った時期とか歌?
半年後ぐらい
5ヶ月後ぐらいですかね
これ私のライフスタイルっていうか
私の本当に命を救ってくれた
一連の出来事っていう風に
自分の中では位置づけて
そこから10年間
ずっと100カ所ぐらい回ってるんですね
それを見る周りの人たちは
みんな偉いねとか
すごいねとか
そういう褒めてくれるんですね
私が特別にすごいことをしてるみたいな
褒めてくれる人
それからもう一つは
私の活動を震災を使って
売名行為をしているという
そういう風に言う人もいるんですね
半分半分いるんですよ
半分ぐらいなんだ
いつも冷めた目で
またやってる
南さんはまた自分を織り込むために
震災を利用してるっていう風に
言う人がいる
最初は校舎の方に
私はすごく心を
その言葉にすごく傷ついて
苦しくて
また病気をぶり返すんじゃないかっていうぐらい
本当に苦しみに悲しんだんですけど
でもだんだんそう言われても
やっぱり真実は
家畜住宅に行って
希望をなくした人たちの笑顔を見ることで
私は生かされてて
その感謝と
これをやめてしまったら
私は死んでしまうような気がして
要はチャリティーとかそういうことではなく
39:00
自分のためなんですね
その活動は自分のためだからできる
別にチャリティーをやってるとか
ボランティをやってるとか
自分を織り込むためにとかだったら
多分続いてないんじゃないかな
って思うんですけれども
そういうモチベーションがあったから
今も生きられていて
活動もできていて
どれぐらい何箇所回ったんですか
100箇所ぐらい回ってますね
この10年間やってて
ずっと続いてました
鈴木直美さんの1回目のインタビューでした
かなりシンデレラストーリーから始まるかと思ったら
いきなりプロデューサーが
お金持って逃げちゃうとか
デビ夫人の話みたいじゃないですか
そうですよね
元々はピアノで大学に行かれてたところから
歌手として広告のアニメソングで歌を歌い始めて
そこから急にイギリスからスカウトされ
すごいですよね
イギリスのプロデューサーに目をつけた
羨ましい
それで行って
実際に曲も作り
ヒットをしてチャートで
そのまま日本で外戦帰国みたいにしようと思ったら
まさかのっていう
持ち逃げ
すごいですね
あるんですねやっぱりね
その方は捕まっちゃったんですかね
どうなったのかその話は聞いてないんですけどね
でもどっちにしろ彼女の歌手としての
日本デビューはできなくなっちゃったっていうところから
そのプロデューサーとかコーディネーターとか
そういうところに入ってたみたいな感じですよね
で実際に3.11の話とか
実際に自分が病気になったことで
それもねちょっとショック
ショックですよね
またこういい方向に行き始めたって思ってたら
病気っていう
でそこから絶望のところから
3.11をきっかけに作詞をして曲も作って
で実際に災地で活動するっていうのが
彼女のエネルギーになってったみたいな
人の何倍もなんかすごい
すごいエネルギー
っていう感じですよね
で次回はですね
彼女のその絶望といい時のこのギャップ
でその絶望からどうやって
這い上がってきたのかとか
42:01
その自分の
メンタル部分ですよね
その辺の話とか
ご自身の性格とか
その辺について伺ってますので
ぜひ聞いてください
ありがとうございました
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また次回もパリで学んだブレない自分の作り方をお楽しみに
アキでした
43:06

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