1. イラストレーター原あいみの話
  2. #121 母の一周忌。母と私の手..
2025-03-17 14:09

#121 母の一周忌。母と私の手芸遍歴を振り返る。

母の一周忌法要で帰省をしておりました。夜布団の中で、母と私の「ものづくり」の遍歴をひたすら思い出してみました。母は凝り性で、いつも何か作っていた人。ものづくりが好きだと一生飽きないんだな、ということに改めて気付かされました。

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#52 中日新聞「家族の話をしよう」のコーナーでお話させてもらいました。


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サマリー

このエピソードでは、母の一周忌を迎えた原あいみさんが、母との手芸の思い出を振り返ります。手縫いやビーズ、シルバニアファミリーの洋服作りを通じて、母とのつながりや影響を感じたエピソードが紹介されます。また、母と過ごした手芸遍歴が語られ、特に、はた織り機を使ったものづくりへの情熱やそれにまつわる思い出が中心に描かれています。

母との思い出を語る
イラストレーターの原あいみです。皆さんおはようございます。今日は起き抜けに早朝で撮っておりますので、声がガサガサです。ご了承ください。
今日はですね、先日母の一周期の法要が終わりましてですね、ちょっとそれにちなんで、母のことを思い出しつつ、
私のというか、母とともにやった手芸の遍歴を思い出してみようかなと思っております。
今回、母の一周期でちょっと寄生をしていたんですが、
お一子の誕生日がちょうどありまして、2歳になったんですね。
お一子がまさに今、私が絵を描いている絵本の鬼の子にこちゃんのような状態で、
もうすごいんです。パワフルで元気で、全くじっとしている時間がないというそんな感じで、
母の一周期というよりも、お一子の2歳の誕生日っていう方のね、パワーがものすごく強かったような、そんな寄生でした。
でもきっとね、うちの母はこんな状態をね、喜ばしく見てるんじゃないかな、なんて思いながら帰ってまいりました。
まあなんですけど、ちょっとね、せっかく1年という節目なので、母のことをね、私は思い出していたんです、布団の中で。
自分の記憶がある頃のお母さんと、あと自分が大きくなってきたら、母を女性としてどんな女性だったかな、みたいなことをね、思い返してみました。
そうするとですね、私と母の思い出の中にはですね、常になんかものづくりが間に入ってるんですよね。
手芸とかが大好きな人だったので、私はありとあらゆる手芸を母から教わってきたんですよね。
そして、まあ思春期とかね、そういった頃も一緒に何かものづくりをしているという時間が、とてもね、いい時間だったなというふうに思うんですよ。
なので、ちょっとね、ものづくりの変歴というか、そんなことをね、話しながら思い出してみようかなと思います。
私が記憶に残っている最初の母に教わった手芸はですね、多分フェルトのマスコットを作るっていうやつだったんじゃないかなという気がしますね。
これ、小学生の女子は、ハマる子はハマりますよね。
もうひたすらいろんなものをね、かがり縫いっていうんですかね、あれで作った思い出があります。
それを最初に母に教えてもらったなという記憶ですね。
で、次にハマったのがビーズアクセサリーづくりなんですよ。
これはですね、なんかお隣さんだか誰かが引っ越す時に、ちょっと年上のお姉ちゃんが、もうこれ使わなくなったからあゆみちゃん良かったら使ってみたいな感じで、
カンカンに入ったね、大量のビーズをくださったんですよ。
それを見て、私と母と大興奮して、手芸店でビーズの本を買ってきて、そこからいろいろ道具を揃えて、なんかひたすらビーズを作っていたっていう記憶がありますね。
母はね、もうかなりレベルが高い人だったので、めちゃくちゃおしゃれな指輪とか、すごいね、かっこいいの作ってくれてたんですよ。
もう子供の頃の私からしたら、いつもお母さんが作るやつは、本当になんだろう、お母さんが作った手作りのやつっていう恥ずかしさがない、ちゃんとおしゃれなやつを作ってくるみたいな、そういう人だったんですよね。
なので常に憧れの人でした。
そして次にはまったのは、シルバニアのですね、シルバニアファミリーってあの動物のね、人形のおもちゃですよ。
あれのお洋服を作るっていうのをやった時期がありましたね。
で、これはですね、母が相当はまって、男の子のね、ズボンをこれ作りたいから、量産したいから一回解体していいって言われて、私はすごい嫌だったんです。
えっ、そんな解いてバラバラにしちゃうなんて嫌だって思ったんですけど、必ず元に戻すからって言われて。
母はですね、その人形たちのお洋服を解体して作り方を確かめた上で元に戻してくれて、
で、しかもかっこいいね、ズボンはね結構リボンで作ってあるらしいんですけど、チェックのかっこいい色のリボンとかを買ってきてくれて、いろんなファッションアイテムをね増やしてくれたんですよ。
で、しかもウェディングドレスを一個ね確か作ってくれて、それがめちゃくちゃ素敵で、これも本当に既製品なんじゃないかって思うほどのものを作ってくれて、結構ねお友達に自慢だったっていうのを覚えてますね。
次に思い出すのは、なんかバザーみたいなのがあったので作ったんだと思うんですけど、コーヒーのスジャータ、ミルクのカップにリリアンをボンドでぐるぐる巻いていくっていう手芸がなんか当時流行ったことがあってですね、
成長と技術の習得
わかります?同世代の方だったらもしかしたら知っているかも。それで帽子のアクセサリーっていうかマスコットをすごい作るっていうのをやった記憶があります。
そして、これもね多分バザーかなんかだったと思うんですけど、ポケットティッシュカバーをやたらとミシンで大量生産してたっていう記憶がありますね。
そこで多分私はミシンを母に教わってミシンができるようになったんじゃないかなという記憶ですね。
当時ミシンのちっちゃいおもちゃを買ってもらったんです。
イガラシユミコさんのジョージーっていうアニメがあるんですけど、それが私大好きで、ジョージーのちっちゃいミシンを買ってもらって、母はもちろん本物のミシンで縫ってるんですが、
私はこのねおもちゃのミシンといってもちゃんと縫えるんですよ、針があって。それでいろいろ作ったなーっていう思い出があります。
なんか巾着とかね作れるようになって、ひたすらそういうものを増やしていたなと思います。
でここからは私の手芸編歴なんですけど、小学校でなんかいろんなクラブ活動が始まりますよね。
そこでペーパーフラワーをやりましたね。ペーパーフラワーをやり、あと刺繍クラブにも入って刺繍も相当やりました。
でもこういうのをやる時、すべて家で母にね、わからないところは全部教わるっていう感じで、
どんな手芸を持ってきてもだいたい母が私より先に習得してくれて教えてくれるので、手芸の先生が家にいる状態っていうそんな感じだったなというふうに思います。
あとはぬいぐるみ作りも相当ハマってたくさん作りましたね。これも全部教えてもらいながら作った記憶です。
一つね、とっても大きなことがあって、母がですね、紙粘土人形を習い始めたんですよね。紙粘土で半立体のお人形っぽいものでブローチを作ったり、
お花のブローチを作ったり、あとどんどん技術が上がってくると本当に直立する、立っている状態の人形を作るっていうようなところまでいっていて、
講師の資格とかも取り出したんですよね。私はその横で余った粘土でこれ使っていいよ、これなら触っていいよっていうのを横でずっとこねこねしていたんです。
そしてバラの作り方を教わったり、手の作り方を教わったり、それは遊びでね、母のやっている横でずっと遊んでいたんですけど、
まあこれをね、やっていたことで私は立体作品を大人になってね、作り出す人になったんじゃないかなというような、そんなルーツがね、あるんですね。
そして中高生くらいになったら、母は編み物をやり始めてですね。でこれまた、なんだろう、お母さんが手編みで作ってくれたやつみたいな感じじゃなくて、
すごくおしゃれな糸を選んで買ってきてくれて、既製品では売っていない、ちょっと変わったおしゃれなニットみたいなのを作ってくれるようになったんですよ。
これもですね、全然恥ずかしくなく、むしろ着心地もいいので、すごく気に入ってね、着ていましたね。
なんか懲り性なんでしょうね、うちの母はね。やりだすととことん突き詰めるみたいな感じで、売れるようなものを作り出すんですよね。
それをずっと見ていたような気がします。
母と共に過ごしたものづくりの思い出
そして私が大人になってからはですね、最後、はた織りにはまりだしてですね、糸を草木染めとかして、自分で色を染めた上で、はた織りで折って布を作り、それを洋裁で仕立てて何かものに仕上げるというような、なんかそんなところまで行ってしまいましたね。
すごかったなと思います。
しかもですね、母の執念がすごいんですけど、祖母の家に古いはた織り機が眠っていたんですよ。
もともとうちの祖母の家が洋裁をやっていた家だったので、はた織り機っていうのはね、分解されて屋根裏部屋に眠っていたんですよね。
それを知ってたんです、母は。いつかあれを取り出して、組み立てて、使えるようにしたいっていうね、それをね、若い頃から思っていたらしいんですね。
で、それをね、やってのけたんですよね。
うちの祖母の家はですね、まごめ塾というところにあるんです。岐阜県の宿場町の一つですね。
すごく古いね、日本家屋なんですけど、その屋根裏に忍び込んで、はた織り機のパーツ、部品を全部出してくるっていうのを、母とやったんですよね、二人で。
探検隊がつけるような、頭につける懐中電灯を二人でつけて、もうすっごい狭いところをなんか潜り込んでいって、
すすだらけの雲の巣だらけの、なんかもうめっちゃ怖かったんですけども、うちの母はもう終電だなと思って、
絶対あの奥にあるってばあちゃんが言ってたから、絶対あるはずだとか言ってね、二人で屋根裏潜り込んで、はた織り機のパーツ出してきたんですよね。
でももちろん、説明書とかがあるわけじゃないんですよ。どうやって組み立てるかなんて書いてないし、部品が足りているかどうかなんてわからないんですよ。
でもなんとなくね、番号とか書いてあったのかな、ちょっと覚えてないんですけど、それでこの孫めじゅくのね、なんかおばあちゃんみたいな人に、
確かあの家にはた織り機が組み立った状態で残っていたはずだみたいなので、聞きに行って、なんかねパーツ足りてないパーツがないかとかね、自力でね調べあげたんですよね。
そして足りないパーツを、うちの兄はちょっと建築系の仕事をしているので、うちの兄がね確かね切り出して作ってくれて、で旗をね組み立てちゃったんですよね。
もうなんかね、すごい人だなぁと思って、まあそれはね、組み立て上げたところはもう私大人でね家出てるんで見てないんですけど、話で聞いて、なんかすごい人だなぁと思って見ておりました。
まあ今思うとですね、うちの母はあんまりお勉強が得意な人ではなかったんですけど、こういうね、あのものづくりが好きな人だったんですよ。
なので私は母から勉強的なことを何かね、あれやれこれやれ言われた記憶は全くないですし、なんかあなたたちはすごいねってなんか褒められて褒められて育ったっていう感じで、
でもこの手芸とかものづくりはやっぱりすごく憧れの存在で、しかも楽しくてしょうがないっていう背中をね、ずっとなんか見ていたような気がするんです。
しかもね旗織り機まで作っちゃうっていう、この執念、執念深さ。
母の影響と手芸への思い
まあ何かとにかくものづくりが好きで好きでしょうがないっていうね、職人だったんだなぁという気がしますね。
でもものづくりが好きだと、もう多分ね一生飽きずにめちゃくちゃ楽しく生きていけるんだなっていう気がするんですよね。
この何でしょう、ものづくりの地をね、私は母から受け継いだ気がするので、私は多分ずっと楽しく生涯を終えることができるような気がしますね。
自分のアトリエ兼事務所も絵を描くだけの場所じゃなくて、手芸のものもちょっとねかなり持ち込んで、そういうスペースにもなったらいいなぁなんて思いました。
この場所ね、ちょっと母に見せたかったなという気はしますが、きっとね、空から喜んで見てくれて応援してくれてるんじゃないかなという気がしますが、
とにかく母は無理しちゃダメだよ、無理しすぎたらダメだよ、体壊しちゃダメだよって私にはずっとずっと言い続けてきたので、
コン詰めてやってると怒られる気がしますので、その辺り気をつけながら健康に気をつけて、一生ね、もの作っていきたいなぁなんて思います。
はい、ということで今日は母の一周期を迎えまして、母と私の手芸編歴を思い返してみました。
ああ手芸やりたい、本終わったらやろうかなと思います。
はい、ということでイラストレーターの原井美でした。
フォローやコメントいただけるととっても嬉しいです。
また話します。
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