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イラストレーターの原あいみです。絵本や書籍やキャラクターを作ったり、難しいことを分かりやすく、漫画やイラストで伝えるお仕事をしています。
先週はですね、母とのお別れがありまして、いろいろ葬儀とかたくさんのことがあって、バタバタとしたすごい1週間でした。
こんなに長く実家にいたのは、出産の時以来ですね。
みんなでね、バーバ休みって言ってたんですけど、大きな大きな休みをもらったような、そんな時間でした。
前回ね、迷いながら上げた放送について、たくさん温かいコメントとかいただきまして、ありがとうございました。
葬儀のね、母の横で収録なんかしたもんですから、こんなの上げて大丈夫かなと思いつつ、迷いながらだったんですけど、コメントいただけて嬉しかったです。ありがとうございます。
今朝、スタイフの配信者であるうさぎさんがですね、私の放送について取り上げてもくださって、本当ちょっと迷いながらだったんですごくね、嬉しかったです。
ありがとうございます。
そんなことしてね、不謹慎かなとかね、思ったりしましたけど、葬儀はですね、家族だけである家族層で見送ったので、不謹慎かどうかは家族が決めることですからね。
そういった意味でも、なんか心置きなく自分たちらしく見送ることができたなと思ってます。
葬儀の場でも、うちはね、父が前の放送でもしかしたら言ったかもですが、母のね、お世話をする時に、もうめんどくさいとか、ああ嫌だなって思うたんびに替え歌を作って歌ってたんですよ。
その歯を磨かないとか、デイサービスに行きたがらないとか、あとね、猫の世話も父の仕事になってしまっていたので、いろいろ猫の毛だらけだとか、そういったこともね、全部替え歌になったりしていて、
その替え歌を私たちが帰るたんびに、みんなで歌って動画撮ったりとかして遊んでいたので、その動画もね、葬儀の担当の方がこれ流しますかっていう風に言ってくださって、会場で流したりして、もうね、なんか企画外な葬儀だったなという気がします。
出館する時もみんなで歌おうかということで、家族だけなんですけどね、みんなで歌ったりして、すごくすごくうちらしい葬儀だったなというふうに思います。
さて、今日の本題はですね、ちょっと家族絡みのお話が続いて恐縮なんですが、先日取材をしてもらった新聞がですね、昨日出まして、その話をちょっとしたいなと思います。
この新聞はですね、中日新聞という私の地元の新聞社さんからお声掛けをいただいて取材してもらったものなんですけど、家族のことを話そうっていう30年近く続いている企画らしいんですね。
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こんなタイミングでね、家族をテーマのお話をさせてもらうなんて、なんかすごいご縁だなというふうに思いました。
どんな話をしたかというと、この取材を機にちょっといろいろね、両親のこととか自分の子育てのこととか結構思い返すいい機会になったんですけど、私はですね、自分で言うと恥ずかしいんですけど、めちゃくちゃ自己肯定感が高いんですよね。
かつ自分のことを大好きな感じなんですよ。
でもそういうふうに育ててくれたのは多分両親なんだろうなというふうに思い返しました。
子供の頃から、ちっちゃい時から本当に学校とかもずっと大好きで、部活もその年で大好きなことに熱中してまして。
だから学校行くのもめちゃめちゃ楽しかったんですよね。
行きたくないと思った記憶は全くないんです。
仕事してからも本当にこんなふうにね、好きなことに邁進させてもらったからっていうのもあるんですけど、ずっと楽しいんですよね。
この漢字はちょっともしかしたら父から似た、父に似たのかなと思うんですけど、父がね、前回の配信でも少し話しましたが下界をしてるんですけど、ずっと仕事がもうめちゃくちゃ面白いってずっと言ってたんです。
特に40代くらい、私ももう大人になってからなんですけど、その頃も今年は面白かったなーって言いながら、でも来年もっと面白くなるぞとかね、そんなふうに言っていたんですね。
こんな大人になって、要はおじさんになっても、こんなに毎年面白いって言えるってすごい素敵だなーっていうふうには思っていたので、自分もそんなところは父に似たのかなというふうに思います。
でもね、あのすっごいそんな忙しい日だったので、土日もあんまりしっかり休んでいたっていうイメージはなくて、記憶はなくて、で、どこか遊びに出かけるときも、とにかく当時ポケベルですよね、ポケベルでお父さんが呼び出されたらもう即終わり、そこで帰るっていうような家だったので、
どこか珍しく家族でお出かけするにしても、病院に帰れる範囲の距離でしかお出かけはできないみたいな、なんかそんな感じのことが多かったですね。
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で、私はちょっと覚えてないんですけど、久しぶりに家族揃ってなんかピクニックみたいな感じで、ちょっと大きい公園に出かけたときに、着いて現地に着いて、車降りたらポケベルが鳴って、はい終了ってなってそのままとんぼ帰りで帰ってくるっていう日があったらしいんですけど、それに対してね、兄がめちゃくちゃ泣いてめちゃくちゃ怒ったっていうのはね、よく残ってるエピソードですね、我が家には。
まあそんな感じだったので、父がねそんな風に仕事に没頭できたのは多分母の支えがあったからであって、母は、まあなので男親の役も女親の役も両方やってたっていう感じがありました。
で、車の運転もすごい得意だったので、母一人でどこか連れてってくれたりとか、なんか家の中で機械とかそういうのが不具合が起きても、普通だったらなんかお父さんみたいなところも全部全部母がやってたっていう感じの、まあお母さんでしたね。
そんな感じなので、まあお父さんはね外では頑張ってるだろうけど、家の中ではもう何にもできないよってよくね言ってましたけど、それでも、それをなんかすごく悪口みたいに言うんじゃなくて、そんなお父さんはチャーミングだねっていうような言い方をずっとしていたので、
で、かつ父のこと、母は父のことをずっと尊敬してる感じがちゃんと家庭内にあって、かつお父さんのこと好きなんだろうなっていう感じがね、ずっと感じられる母だったんですよね。なので家にいる時間が少なくても、お父さんの威厳みたいな、なんかそういうのがね、ずっとちゃんと残っているような、なんかそれも本当母のうまさだったっていうのは、結婚してからよくわかりますね。
で、勉強もね、あの、やれって言われた記憶があんまりないんですよね。あの、まあそこそこ塾とか中学ぐらいから塾は行ってたんですけど、あの、嫌な記憶はあまりなくて、できないと自分が悔しいから頑張ってたっていう自主的なイメージです。
で、あと父が、あの、わからないことは、とにかくすぐさま、今調べろっていう人だったんです。じゃないと忘れちゃうから、あの、たとえばご飯中でもわからない言葉とか出てきたら、もう今、今調べろって言って、百科辞典とか出してきて、で、調べた後、はあ、なるほどな、面白いな、みたいな、そういう人だったんですよ。
なので、こう、塾で何か新しいことを学ぶとか、知るとか、そういったことはとても面白いことだっていうふうに子供の頃から育ってきた気がします。なので、今でも、あの、何かチャレンジしたり学んだりとか、そういうことが、あの、面白いなーってずっと思えてるのは、あの、そういう両親の下で育ったからなのかなというふうな気がしますね。
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ただ、母はですね、30代の頃に流末を患ってしまって、そこからかなりね、あの、体に不自由がある状態で生きてきた人でした。
で、歌がとっても上手だったという話を前回の放送ではしたんですけど、とにかく、あの、歌とかダンスとか、あの、エレクトーンを習ってたりとか、なんかすごいね、いろんなバイタリティーあふれる多趣味な人だったんですけど、その流末になってしまってからは、もうやりたいこと多分全部諦めて、とにかく普通に生活をするで精一杯だったと思うんです。
かつ、それに加え、時代っていうのもあるかもしれないですけど、祖母と、私の祖母と祖父の介護もしていて、かつ、その、祖父の介護が終わってからは、猫がね、交通事故になってしまって、猫が結構生きがいだったところもあったんで、猫の介護もずっとしてたんですよね。
ほんと、介護、介護、介護だった、人の世話をしてずっと生きてきた母だったなぁという感じがするので、お母さんは幸せだったのかな、みたいなことを考えることも多かったですが、でもね、なんかこう、手が不自由になってしまっても、力を入れずに書ける絵手紙にはまったりとか、あとはたおりをやったりとか、こう、限られた制限の中でも楽しみとか幸せとか、
を見つけるのがとっても上手だったような気がするんです。なので、まああのね、娘とか子供たちにはそういう姿を見せないようにってしてくれてたところももう存分にあると思うんですけど、私の子供の頃からのこう、記憶で言うと、あの、留待でつらそうなお母さんももちろん残ってますが、それよりもやっぱりいろんなことにチャレンジして、いつもね、楽しそうで幸せそうな、
お母さんっていうふうが残ってるんですよね。なので、限られた中で幸せを探していくことがすごくすごく上手な人だったんじゃないかなというふうに思ってまして、それは自分もすごく受け継いだんじゃないかなと思いました。
私はこの絵をね、仕事にしているので、やっぱりこう、野心みたいなのがないとこの仕事はできないなという気がするんですけど、でも、こう、イラストレーターとして有名になりたいとか絶対本が売れたいとか、なんかそういう思いっていうより、あの、面白い仕事ができてるか、自分がやりたいことがやれているかっていう方に執着してるっていうところが大きいので、なので、本当、あの、
大ヒット作家には慣れてないんですけど、でも、自分が今関心あることで絵を描けているので、それで食べていけてるので、もう本当にめちゃくちゃ幸せなんですよね。だから、こう、本当幸せをね、見つけるっていうのが得意に育ててくれたなというふうに思い返して感じました。
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で、今、自分の娘を見てみるとですね、もう本当にね、好きなことがいっぱいあって、で、自分の好きを見つけるのがとっても上手な人だなと思って見てるんです。で、まあ、漫画とかね、YouTubeとかゲームとかいろいろありますけど、もう本当いろんなものに手を出してすぐチャレンジしてみて、もう1日の時間が足りないっていう感じで毎日めちゃくちゃ楽しそうなんですよね。
で、そんな姿を見ていて、自分もとっても今幸せだなと思って眺めています。自分が両親に本当に好きなことをのびのびさせてもらったから、うちの娘もそういうふうにしてほしいなっていう思いがつながっているような気はします。
少し前のボイシーの対談の話なんですけど、中村つい子さんのチャンネルで関年Mさんという方が出られた対談がありました。関年Mさんっていうのはですね、AV男優の方でSMのM道を極めたっていう方らしいんですね。私はそのリアルの時は知らないんですけれども。
Mさんのお話によると、ご自身の親御さんとの関係から結構自分をちょっとこう痛めつけるような方向でM道に走ったところがあったんじゃないかなっていうような話が出ていました。
最初にもお話したうさぎさんという方もその対談に出られてたんですけど、うさぎさんがMさんに向かって、とにかく今からでも幸せになってくださいっていうふうに言ったんです。Mさんが幸せになることがご両親への一番の復讐になり、一番の恩返しになると思いますって言ったんですよね。
私それめちゃくちゃ感動して、もうその直後に感想が言えたら良かったんですけど、ちょっと時間が経ってしまいましたが、それをちょっと聞いて自分も母に対してね、私は本当に好き勝手、好きなことを自分一番でやってきてしまって、本当だったら私は18で家を出てしまったんですけど、
母が龍町で辛かった時とか、介護で大変だった時とか、なんかもっと帰ってできたことがあったのかもしれないなって思うこともあったんですけど、でも自分が今子供ができて親となってみて、
娘がね、もし自分のことを犠牲にして私のことで一番に帰ってきたりとかしてたら、私は嫌だなって思うし、母も多分そんなことは望んでないタイプの人だったように思うんです。
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だから、自分勝手なのかもしれないですけど、今私がそういうふうに育ててくれたからこそ、もうめちゃくちゃ幸せだよっていうふうに言うことが、母への恩返しになったらいいなって思いながら、最後ね、まだ意識がちゃんとしてる時にそういう話をしました。
もう言葉がちょっとね、出ない感じだったので、ジェスチャーで返してくれてたんですけど、両手でね、めっちゃガッツポーズ作って、もう頑張れ頑張れ、お前はそのまま行けみたいなね、感じのメッセージをくれたような気がします。
そんなような話を取材でさせていただきまして、新聞ではこんなふうに見出しをつけてくださいました。
幸せを探す力、親から私、娘へというタイトルをつけてもらいました。
すごいね、素敵な見出しだなと思って、とてもとても感謝しています。
新聞がね、母間に合うかなと思ってたんですけど、残念ながらちょっと出るまでにね、ちょっと間に合わなかったですね。見せれたらよかったなと思うんですけど、
まあでも、こんなタイミングだからこそ、こんな時に取材いただいてね、こんな話もできたかなと思いますし、
母に対しても、今度取材があるからこういう話をしようと思うんだって言って、普通だったら恥ずかしいようなことも話せました。
なので、こんな機会をいただけて、とてもとても感謝しています。
あとね、新聞が出て、父がめちゃくちゃ嬉しそうだったので、よかったなと思いますね。
家族もたくさん集まっている機会で、この新聞が出たので、いい感じに母にも報告できて、とてもいい機会だったなと思います。
ありがとうございました。
はい、ということで、すいません。長くなってしまいましたが、今日はこの辺で終わりにしたいと思います。
イラストレーターの原絵美でした。フォローやコメントいただけたら嬉しいです。