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親愛なる皆様、アロハです。幸せってなんだっけ研究所、愛です。今日はですね、珍しくちょっと自信ネタ的になったテーマがあったので、それについてお話ししてみようかなと思います。
小山田圭吾さんがね、オリンピックの開会式の曲を担当してたんですけれども、4日前にですね、急遽辞任することになったと。
で、彼が昔いじめをしてたという事実があり、そしてその事実をVUでのようにね、面白おかしく音楽雑誌で語っていたということがあって、辞任されたというニュースが、皆さんもね、多分ご存じの通りあったと思うんですけれども、
これを私聞いた時にですね、なんかすっごいモヤモヤザワザワしたんですよね、気持ちの中が。で、そのなんでこんなにモヤモヤしてるんだろうということで、ちょっとその気持ちを言語化してみようかなと今回思いました。
で、まずね、この話をする前に大前提としていじめは本当にいけないことだし、誰かをね、貶めたり傷つけるっていうことは良くない人間としてね、そんなことは当たり前のことだということは大前提にしておきたいと思います。
オリンピックに関してのね、なんか利権とか大人の事情とかそういうことはね、今回はちょっと特にね、置いておこうかなと思うんですけども、なんか私がすごく気になるのは、そのいじめはいけないっていうその当たり前のことをね、まるでなんか無敵の正義の剣のようにですね、振りかざして人を斬るっていう、なんていうのかな、日本のメディアの特徴なのかな、わかんないんですけど、
なんかそれってそれ自体は罪じゃないのかなっていうふうな気持ちがしました。
まあもちろんね、いじめられた人っていうと本当に大変だったと思うし、私もいじめられっ子側の時にね、中学生の時なんかいたので、それがどれだけね、あの大変かとか、もちろんね、そのいじめによって命を落とした人っていうのもね、たくさんいると思うので、それは本当に取り返しのつかないことだなっていうふうに思うんですけれども、
でも、いじめを犯した人はじゃあ一生その罪人のままなのかとか、じゃあいじめられてた人は一生ね、底辺のままなのかって言ったら、そんなわけはないですよね。
自分がしたことを悔やんで反省して生き直して世界に返そうとしている元いじめっ子もいるし、自分がされてきたことを真似に何くそ根性でですね、自分の世界を切り開いてきた元いじめられっ子っていうのもいると思うんですよね。
なので、その可能性っていうのをゼロにする権利は誰にもないんじゃないかなって思ったりするんですよね。いじめだけじゃなくて、日本だとドラッグね、ドラッグやっちゃった芸能人の話とかもよくね、話題に上がりますけれども。
でもなんかその私がすごく悲しいなって思ったのは、誰もがそういう可能性を持っている、自分の力で何か過ちを犯したとしても自分の力で人生を想像できるんだっていうことを、誰か自分以外の人たちが、その他大勢の人たちが可能性を阻害している、その可能性を見くびっているっていうような、そういうふうな見え方がね。
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それがとてつもなく悲しいなって思ったんですよね。
なんか、例えばもしそれがね、自分の子供だったらどうだろうっていじめられてる側もそうだけどいじめっ子のね、子供が自分の子供だったらどうだろうってドラッグをしてしまった、ドラッグをやってしまった、法を犯してしまった、何か罪を犯してしまった、それが自分の子供だったらどうなんでしょう。
それをね、悪いから斬るっていうふうなね、そういう論理で片付けられるのかなっていうふうに想像したりします。
なんか悪いから斬るっていう論理だと、斬った側からまた新しいね、その悪っていうものがね、生まれるんじゃないかなって思います。
それだとカルマは永遠に終わらないなって思うんですよね。
そもそもそれって悪なのかっていう、前回鬼の話もしましたけれども、そもそもそれは悪なのか。
なぜその悪って呼ばれるものがね、生まれたのかなっていう、そういうところにもね、想像力を働かせたいなって私は常に思ってるんですけども。
いじめられっ子の声があるように、いじめっ子の方にも多分ね、声があるんですよね。
例えばなんか家庭環境だったりとか、心の病だったり、なんか教育システムだったりとか、原因っていうのはね、本当に絡み合って大体は目に見えないし、本人ですらね、わからないですよね。
何が原因なのか、なんでこんなにね、イライラむじゃくじゃするのか。
そう、だからわからないから誰かを傷つけるっていう形で表現するしかないんじゃないのかなっていうふうに想像します。
で、まあそれを見てね、大人たちはその行為だけを見てね、いじめてる側、いじめられてる側っていうその状況だけを、その瞬間だけを見てね、
それはいけないことだ、お前が悪いっていうふうに、その正義のふりをして、その原因を見ずにね、本当の原因を見ずに全てをその子に押し付けてしまったりしてるんじゃないかなっていうふうに思ったりします。
なんかね、いじめられっ子もいじめっ子も、なんかどっちも、どっちもが声にならない助けてっていうことをね、叫んでるんじゃないかなって思うんですよね。
そう、その助けてって声にならない助けてっていう言葉にですね、耳を傾け続けるしかないんじゃないかなって、私はそう思います。
これって本当にいじめの話だけじゃなくて、ドラッグの話とか、どんな過ち、どんな罪でもそうですよね。
で、私たちって本当に誰でも過ちをね、犯し合っているんですよね。
誰もがどこかでね、大なり小なり、加害者で被害者なんだと思うんですよね。
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私もまあいじめられっ子の側の時もあったし、逆になんかそういうね、なんだろうな、いじめた側の方になってた時もあると思うんですよね。
大なり小なり、みんな誰でも加害者で被害者。
でもそれでも斬るのかな、お前は悪いからって言って斬るのかなって。
もしそれで斬るんであれば、本当にその切っ先っていうのは同時に自分の喉元にもかかっているんじゃないかなって私は想像したりします。
そう、でも誰もね、そんな斬り合いの世界をね、果てしない斬り合いの世界を望んでないと思うんですよね。
だから本当に私がいつも心に思うのは、改めて心に思うのは、誰かの人生をね、想像できる人間でいたいですし、
想像、イマジネーションの方の想像ね。そう、でもって自分の人生をね、自分自身で想像できる、クリエイション、クリエイトできる人間でいたいなっていうふうに思ってます。
なので、本当に何があってもね、私の人生、過去、そう、あなたの人生、私の人生、誰の人生もね、その人だけのものなんですよね。
誰の人生も何があっても破壊されない、何があっても怪我されないと思うんですよね。私の人生、すべての人の私の人生はね。
そう、そのことをね、伝えていきたいなって思うし、自分自身もそうでありたいなって常に想像できる、想像できる人間でいたいなっていうふうに改めて思った件でございました。
なんかちょっと言語化したらちょっとスッキリしました。まあ大人の事情とかね、本当にいろんな視点でいろんな意見があると思うので、結論とかね、どれが一番正しいとか、いやそうは言ってもこうだとかね、いろいろあって、全部ね、全部正解じゃないし、全部そうだよねっていうことだと思うんですよね。
なんかその一つ一つをね、大切にしていくことで、何かね、もっとね、優しい世界が生まれるんじゃないかななんていうふうに思いました。
というわけで、今日はそんなジジネタのお話でございました。
皆さん今日も良い一日をお過ごしください。
昨日よりもね、優しく温かい世界を一緒に作っていきましょう。ありがとうございました。バイバイ。