Advanced Therapistはエピソード17本目ということで、今回はですね、宗教とか倫理観とか道徳とかですね、
その医療にもある程度関わりもあるだろうという部分で、ちょっと着地点とか見えてないんですけど、その辺りをざっと話していけたらなと思います。
よろしくお願いいたします。
我々がこう生きていく中で、特に日本人というのは宗教観が薄いとかっていう風な話もされますけれども、かといって神様を全否定していたりだとか、仏を全く信じていないとかっていう人も逆に言うといないという風に思うんですね。
だから我々って何かしらの大いなる力みたいなものっていうのを常々感じたりすることがあるだろうと。
それを広く宗教といった場合に、我々の思考のベースになっているものは一体何なんだろうというところを踏まえて、宗教だとか倫理だとか道徳とかっていうのを今日話そうと思うんですが、
何かの宗教が良いとか悪いとか、そういう宗教の話というよりも、我々が宗教をどのように見ているのかということが一つのテーマになるかなと思ってます。
ありがとうございます。
自分自身も特定の宗教に何か信じてるとかっていう意識はそんなにないですけど、日本人的なオロヨロズの神というか、自然の中に宿ってるみたいな感覚的にはそういうところとか、周りだとお墓参り行くとか、自然に何か宗教に基づいてそうな行動はしてる部分はあるかなと思うんで、
改めてそういうのも何か理解深まるといいなと思いましたね。
なぜすると、日本の宗教観とか日本人の捉えている宗教性というものをちょっと最初にひも解いていこうとすると、古くからあるというのは、いわゆる神様と言われる存在だと思います。
実際、720年前後に古事記、日本書紀というのが同時に示されて、その時に神の存在、要は天皇制における神、神聖を明確にするために神というのが、例えば日本を作ったのはイザナミ・イザナギというような神様がいて、そこからいろいろな系譜の中でアマテラ・ソウミの神が出てきて、
そのアマテラ・ソウミの神の系譜でジム天皇というのがいるんだよというような、時の権力家というのがそういった神様との系譜というものとつなげるというのは好きであるというところがあるし、その権威性を強くするためにはそれが必要であった。そしてそれが歴史として残っている。
日本というのは、そういう神道的な考えというのがベースにあるんですよっていうのが事実であるということだと思います。このあたりは田代さんどうですか?神道と言われると。
そうですね。純粋に古事記のストーリーとか話は面白いなっていう部分もあったりしますし、一応自分の会社のヒルコっていう会社もちょっと神話から取っているところもあるんで、完全に理解しきれてはないですけど、やっぱり神話のストーリーの中でもなんか日本人っぽさっていうか、そういう文化感みたいなのは反映されてるんだろうなとは思ってますけどね。
日本の神話というのは、ギリシャ神話とかとも形態は似てたりするのかもしれませんけれども、その大地を作って、そして文化を作っていくっていう、そして統治していくっていうような流れになって、絶対神が一人いてそれを何かするっていう形ではないと。
絶対神って言った場合に、世界の代表的な絶対神っていうのは、これは発音はいろいろあると思いますけど、ヤハベとかアハベとかアッラーとかと言われるキリスト教だとかユダヤ教、イスラム教における絶対神っていうのがいるんだと。
その絶対神っていうものが全知全能になりますが、日本の場合はそういった絶対神というものを置かないというのが特徴ですし、例えば日本一番最初の神社というのが奈良にある大宮神社と言われるところだと思うはずなんですけど、大宮神社というのは最初に大宮山という山を信仰してるんですよね。
だから、人物的なものを信仰しているというよりも、そういう自然信仰との関係が非常に強いと言われています。
日本がなんでそんなに自然信仰というのが他の国でないわけではないんですけれども、発達したかというと、やはり自然災害が多かったからだと言われています。
自然災害が大いなる力によって台風が来たり地震が来たりだとか津波が来たりだとかっていうのを人々が経験する中で、それをどうやったら抑えられるか。もちろん日出りとか長雨とかもそうだと思いますけど、そこから神様という存在が出てきて信仰する。
祀っていく。お祈りしていく。お祭りをするっていう形になってきているというふうに日本の宗教は発展してきています。
なるほど。さっきの絶対神みたいな存在とか、日本だと自然災害がっていうところもあるんですけど、やっぱり周りに人がたくさんいて争いが大きな問題になるよねみたいなそっちからだと、人の脅威というかそういうのを示すような神話とかそういう宗教観みたいなのもあったりするって感じなんですかね。
実際に、要は古代宗教の中で現代までしっかり生き残っているのがユダヤ教、そしてそれが派生するキリスト教だと思いますけれども、やっぱりあのあたりは今のイスラエルだと思いますけど常に争いがある場所であるということですし、
ギリシャ、ローマ、あるいはペルシャ、エジプトですね。そういったいろいろなところの狭間にあるからこそ、作らなければいけなかったものなのかなと思うところはあります。
例えば同時期に文明が違うところで起きているというと、コーガ文明であったりチグリスユフラテスあたりの文明のところに今も生き残っている信仰というのがそんなに強くない。
にもかかわらず、やっぱりイスラエル周辺で強い信仰が残っているというのはやはり通り道であり、そこが争いの場所になったからという考察は成り立つのかなと思います。
なるほどですね。そこから日本でいうと、またその浸透的なものだけなくて、やっぱり仏教が入ってくる中でまた違った動きになってくるという感じですかね。
そうですね。あと日本は仏教が入ってきたのはどちらかというと学問あるいは統治システムみたいなところと一緒に入ってきているので、宗教性というところ、当時の宗教と今の日本、我々科学技術が発展していった上での宗教というものは同じ理解はしてはいけないと思いますけども、
例えば今の我々の生活に精々愛が入ってきたぐらい感覚なんだと思うんですね。その浸透の中で生活していたところにちょうど530年あたりだと思いますけれども、仏教というのが学問として入ってきて、いろいろな思想を解いていく。
それと同時に中国の統治システムというのが入ってくる。あるいは文字がしっかり入ってくるという大きな文明の流れだったわけですよね。その中で自分たちがいろいろな統治をしていく中で仏像というのを建てていったりすると、権力者の力というものを見せつけられるものになったというところで、奈良でそれが花開いたという。
神様とか仏様という何かしら我々を救ってくれるものと同時に文明、今の我々の精々愛だとか大きな何かのテクノロジーが入ってきた感覚に近いと思います。
そうですよね。その辺の神道とか仏教でいって、奈良が中心で話が進むことが多いかなと思うんですけど、このあたりの九州とかってどんな感じとかあるんですかね。どっちによって違いとか。
結局何が入ってきて何が出ていたかって文字が残ってないとわからないんですよね。
で、いわゆる秘密子ってどこにいたんだっていう話が結局文字が残っていないからというところで、逆にじゃあ秘密子っていなかったのかというと、
義子和神殿の中に秘密子、日本の統治者の名前が残っているからいたのは事実なんですよね。
ただどっから来たかっていうところが明確ではないっていうのでわかってないんですが、佐賀の吉野狩りという遺跡は確かにあると。
ただその吉野狩りは秘密子の年代よりも前の遺跡だというふうに言われてて、どうやら秘密子は九州ではないという話になってるんですね。
で、じゃあやっぱり奈良を中心とした大町という大町の地域から来てるのではないかというふうに言われていますけれども、
同時に北海道だとかいろんな地域も同じように集落とかはあって、小さな意味での統治者はいたんだと思います。
やっぱり文字を持って文明を作って、そしてある程度広い地域を支配した国という単位で動いたところが、やっぱり大町というところが日本の最初のところになるんだと思います。
なるほどですね。
この宗教的なものがある意味っていうと、やっぱり科学的にいろんなものが明らかになってない時代だと、
自然災害とかが起こる理由もわからないし、病気が起こって死んだ後の世界だとか、治癒する過程みたいなところもわからないから、
何か質があるものが欲しいとか、祈る対象が欲しいからっていうので、神道とか仏教とかも用いられるみたいな感じなんですか?
一つは、個人の物語に対しての祈りというよりは、先ほど言いましたように、自然災害への祈りっていうのがすごい強かったみたいなんですね。
神道の神様っていうのは、ギリシャ神話もそうなんですけど、神様ってめちゃくちゃわがままなんですよ。
いわゆる絶対神のように、我々をアガペによって全て包み込むとかっていう感じではなくて、
気に入らなかったら台風起こすし、気に入らなかったら地震起こすと。
だからお祭りをして楽しませなきゃいけない、見継ぎ物をして満足させなきゃいけないっていう立場になってるんですよね。
だから根本的な考え方がちょっと違うという、インドにおける芝心に近いですね、創造と破壊みたいな。
破壊までしてしまうっていう存在であるというのが、日本の神道における神様の、
例えばアマテラスオオミノ神も、もう嫌だっつって天の岩戸に隠れたりするわけでしょ。
世界中が真っ暗になるわけですから、結構みんなわがままなんですよ。
だから日本人はそれを神様と共存するために、神様にご納得いただけるためにいろいろな神事を行うっていうのがいまだにそうだと思います。
なるほど。
例えば農業の向上を願ってみたいなお祈りだったりとか、逆にうまく取れた後はお祭りしたりとか、
そういうのが技術に合わせて、宗教的な物語と合わせてやられてるみたいな世界観なんですかね。
もともとはそういう山岳信仰みたいなのがあって、そしてその後に大きな伊勢だとか出雲だとかっていう、
それはどちらかというと地域とか神様という形はわからないけれど存在するだろうというものの信仰になっていて、
あとは土着の神様っていうのがいろんなところにいるわけですよね。
その五穀神社みたいなところ。
で、その後に今度は生き神様というか人が神様になっていくんですね。
それが代表が靖国だと思います。
靖国っていうのは清南戦争以降に戦没した方たちが亡くなっていて、
だから神様の数があそこは230万柱って言われるわけですね。
神様って柱単位は柱なので、だから230万柱の神様がいるんだという形になりますから、
自然から地域、そして人に変わっていくっていうのが特徴だと思います。
なるほどですね。
まだまだキリスト教とかは全然先だと思うんですけど、
神道と仏教の中でも変遷があるかなと思いますし、
神道みたいなのはあまり変わらないって感じですかね、時代が。
神道もやっぱりそこそこ色々変わってきているはずだと思うんですよね。
特に神道における財布草本山は神宮。
これ伊勢はつけないんですよ、正式には。
神宮っていうのは伊勢のみを指す。
明治神宮だとかは本来明治以降にできているので神宮じゃないだろうっていういろいろな文句はあるんですけど、
いわゆる伊勢神宮を中心とする。
あとは出雲ですよね。
この二大巨頭がある。ただ神宮の方は天皇家とのつながりがあるということで、
それが正式一番強い神社になっているわけです。
その後に先ほど出てきた明治神宮だとか靖国だとか、
色々な神社、平安神宮だとかっていう時の権力者が建てていったりするし、
大野原清盛も五島神社っていうのを作って、
やはり権力を象徴するものとして扱ったわけですよね。
仏教というのは最初は宗教というよりは哲学として入ってきて、
日本の場合は密教の方が強くなってくるわけですよね。
要は国会と最澄が中国に渡って持ってきた経典から密教系のものが強くなって、
最初は奈良の六宗が開いて、
そしてその後に京都に行ってさまざまなものが開くんですけども、
一番大きいのは鎌倉時代の宗教改革。
宗教改革というふうには言わないかもしれませんけど、
信蘭とかそのあたりの人たちが出てくることによって大衆化していくわけですよね。
それまでは貴族のものだったのが大衆化していく。
その大衆化をしていくことによって宗教的な定着が起きるということです。
なるほど。
初期は仏教も哲学的なものとか統治システムみたいな感じだったのが、
もうちょっと宗教改革的なもので、
もうちょっと宗教色が強くなっていくみたいな感じですか?
そうですね。
要は哲学というのが今の日本でも流行らないという人たちは難しいわけですよね。
例えば般若の教えといって、般若というのは知恵なわけですけども、
その知恵を身につけていって、
色即是空、空即是色というような空の境地に追っていく。
そのためには修行が必要だ。
その修行のために仏門に下ってみなさい。
ある種、勉強するために大学に行きなさいみたいな制度がある。
これって万人に受けないわけですよね。
だけども信蘭聖人が現れて、
究極はそんなことしなくたってみんな極楽にいけるんだというふうに、
ちょっと信蘭の教えを僕全て理解しているわけであって、
そんなに詳しくないんですけど、
カイツマンでいうとそういうことなわけですよ。
要は三谷由来のいる蓮の池のところに行って、
みんな幸せになれるんだよというふうに説いていくと。
そうすると当時の農村にいる人たちだとか、
貧農の人たちというのは死ぬのが怖くなるわけですよね。
なので学問という今の枠組みと宗教という枠組みが分かれてますけども、
その学問が宗教と解け合って、
我々は何かしら信じていれば救われるんだというのが、
鎌倉の頃に出てきてきたということです。
なるほど。今でも密教的なものを信じるというか、
される人もいるかなと思いますけど、
やっぱり全体的にはそういうもうちょっと軽いものというか、
ナムアミダブツみたいなところが大衆では、
そこから先の世の中でもそちらが主流という感じですかね。
そうですね。いろいろな地域に神様がいて、
そしてお寺というものが集合していくんですね。
集合というのはギャザリングではなくて合わさるという、
神仏集合という営みが日本ではすごく特別に行われるんですね。
要はイスラムとキリストが同じ場所に教会を建てるということはしないんですけど、
日本の場合というのはお寺の中に神社があったりする、
いわゆる神宮寺って言われるんですけど、
そういったものが存在すると。
融合していく中で今度はいろいろな仏教の中で、
自分が何を信仰するのかというところが地域地域で現れてくると。
時の権力者たちはそれが気に入らないわけですよね。
だから代表的なところでいうと、
織田信長がいろいろなお寺を焼き払ったわけですよ。
要は宗教が力を持っちゃうわけですよ。
総兵といって総が兵隊になってて、
そのお寺を守って自分たちの私服を肥やしていくようなこともたくさんやったわけです。
だから荘厳なお寺を作るし、
肩大なる地域を取りますし、
実際にこれは批判ではないんですけども、
京都の松国寺で会う国の寺は、
同志者とか同志者女子とか、
その周辺の土地はいまだに全部松国寺の土地なんですよね。
同志者とかって松国寺の借りてる土地の上に立ってるんですよ。
その時からとんでもなく京都の中で広い土地を持っていると。
時の権力者としては気に入らないですよね。
だからその権力の行き先というものが、
いろいろなところに散ってしまうっていうのを嫌って、
織田信長とかはやはりそこをやったと。
ただその宗教に傾倒している人たちが代表的な動きでいうと、
大阪城、今の大阪城っていうのは、
もともとの本願寺があった場所になりますので、
織田信長が本願寺をよこせっていうわけですよ。
本願寺は当時は一公衆ですけど、
一公衆の側は渡さない。そこで戦争して、
最終的に織田信長が武力で奪い取るということになるわけですけども、
その時に全国から信者が集まって、
貧能の人たちが鍛えられた武士と戦うんですよね。
だからそれが神様の、仏様のために戦ったら仏になれると。
要は自分は死んでも大丈夫だからと言って突っ込んでいくっていう、
異常な現象が起きてたっていう。
だから神様、仏様というのを使って、
人の命を奪ってたっていう事実はあるということですね。
なるほど。江戸明治あたりでいくと、
儒教とか修学的なものは管理のシステム的なものでつかれて、
仏教も暖化制度とか葬式関係とかでいくと、
目に見える宗教職みたいなところは、その辺の時代だとそんなに強くないという感じなんですかね。
大日本帝国になってくると、その強い宗教職は最終的には天皇のところに集約されますよね。
だから戦争自体というものも、ある種天皇陛下が神様としての扱いを受けながら、
太平洋戦争に進んでいくという部分にもなって、
これは祭り上げられたといえばそうなんでしょうけれども、
それから究極には神道に戻っていくって感じでしょうね。
なるほど。そこが本来の神道だと、
アニミズム的な自然信仰みたいな感じかもしれないですけど、
戦争が近づくと天皇が絶対神みたいな、
ちょっと神教に近い感じになってたみたいなところですか。
そういうふうに統治に使ったということは事実だと思います。
もちろんその時に生きてた人たちが、
キリスト教的な絶対神とか仏教的な
阿弥陀如来みたいに扱ってたわけではないと思いますけれども、
その強い統治者というのと、神様というものの分けるポイントというのは、
非常に難しくなってくるわけですよね、人の感覚として。
ある種現代における推し勝つなんかもそうなんですけど、
推しっていうのは、ある種自分たちにとっての神様みたいな存在になってくる。
現実に存在はしているんだけれども、信仰の対象になるわけですよね。
その信仰というのは全て身を委ねるというわけではなく、
何かの指標にするわけです。
いわゆる競技ですよね。いわゆるドグマと言われるもの。
何かの行動に関してあの人だったらどう考えるとか、
予定があった時にその人のライブを最優先するとかっていう、
自分の行動規範にしていくっていうのが、
宗教ではないかもしれないけれども、宗教性に近い、
いわゆる先ほど言った競技、ドグマというものの信仰なんですよ。
それがおそらく大日本帝国における天皇陛下におけるものだったんだろうなと思います。
そうですよね。
キリスト教とかイスラム教的なものも唯一絶対的な異神教で、
もうすでに亡くなっているというか、もうすでに存在していない人の
残された言葉とかをどう解釈するかみたいな、
そこでのいろいろトラブルもあるかなと思いますけど、
さっきの戦争に近いところで言うと、
今生きている存在が神様的に扱われるというと、
そっちはそっちで違った問題も起きるんだろうなと聞きながら思いました。
なのでそのあたり、ちょっと広く宗教自体、
僕が宗教をどういうふうに捉えているかというと、
哲学者のカントが、人間が作った最大の発明品は神だって言うんですね。
だから神様が人間を作ったのではなくて、
人間が神様を作ったという概念は僕は非常に好きなんですよ。
それは神を冒涜しているというわけではなくて、
実際に本当にその絶対的な神様がいるかどうかっていうのは確認できないので、
一旦それは横に置きましょうと。
ただ少なくとも人間が人間のために自分たちの必要性において、
その神様に話を聞いたわけではなく、
神様と呼んでいるものは発明されているんですよね。
だから発明された神というのはいるであろうというのがカントの解釈です。
そうですよね。
それによってトラブルもあるかもしれないですけど、
それによって統一感が持たせれるとか、
集団で動くときには動きやすくなるみたいなメリットみたいなのもあると思うので、
まさに発明っていう気がします。
特に現代において行動規範みたいなものは、
神ではなくてイデオロギーになったわけですよね。
神はイデオロギーではないということなんですよ。
イデオロギーというものの方が実は神よりも怖いというものになっている部分で、
理解をする上でもしかしたらイデオロギーを、
なんとかな、宗教性を持って信じている人がいるかもしれませんけども、
宗教性とイデオロギーというのはちょっと分けて考えた方がいいものになってくるんですけども、
なので、先ほど言った押し勝つは宗教に近いんですよ。
イデオロギーってなってくると政治的なものだとか、
今ちょうど自民党総裁が決まって、
その後に首相もどうするかっていうところになるんですけど、
このあたりはイデオロギーのぶつかりになるんですよね。
だから両方正しいんですよ。
後の歴史が証明してくれることがあるかもしれませんけど、
彼らが言っているイデオロギーというのは基本的に両方正しいという判断でやっているから、
面白いがよく言うと立ちが悪くなるってことです。
どうなんですかね。
イデオロギーっていう言葉がどこから使われ始めたのかっていうのもちょっと分かんないとこありますけど、
マルクスとか共産主義とかその辺が。
そうですね。そのあたりに出てきた考え方だと思います。
ちょっと僕も語源はどこかちょっと調べてないです。
なるほど。
今大きな話で神道とか仏教とかキリスト教とかもありましたけど、
その時々でまた別の信仰宗教みたいなものも時代によってあるっていう感じですかね。
今、例えば現在において非常に宗教が一つの話題になった時代というのが、
オウム心理教を中心としたその時代のバブル前後における信仰宗教というのは、
すごく社会に影響を及ぼしたというふうに捉えられます。
だから何をもって宗教とするかというのは今の場合は宗教法人化をすると宗教になってくるわけですけども、
宗教法人化していないが宗教観を持っている存在とかってあるわけですよね。
例えば僕自身は非常に極真空手とか好きな時代があって、
極真空手ってある種の宗教観を持った創始者の大山摩擦に対する信仰が強いわけですよね。
そういうように宗教ではないが、宗教法人ではないが、
強い信仰を持ってやっているっていうことはあり得る。
それが法人化をすると宗教認定されるんだけれども、
宗教認定されると今度は税金が免除されて、
活動自体のお金がすごく回りやすくなるわけですよね。
その大きな施設を建てたりとか、
仏壇を作ったりだとか、いろいろなものをやっていくという流れになってくるので、
例えば極真空手が宗教じゃないというところは、
そういった仏部とかそういうのを作っていないというところぐらいで、
宗教というのはやっぱり、
寺を作って仏壇を置いて、あるいは神様を置いてということになるという感じですね。
なるほど。いわゆるスピリチュアル的なイメージを宗教には持つかなと思うんですけど、
何なんですかね、宗教と宗教っぽいものの違いというか線引きというのはどの辺にあるんですかね。
基本的には教義が何かだと思います。
そのドグマ自体というものに関して、
絶対決められた何かを持っている、経典を持っている、聖書を持っている、
そしてその聖書の通りに動いている、経典の通りに動いているというのが古代の宗教ですよね。
仏典があって旧約聖書があって新約聖書があって、
そのことあるごとにその聖書に変えましょうと。
特にキリスト教においては宗教革命が起きた理由というのは、
当時のカソリックの神父さんたちがルターに言わせると、
聖書を過論じているわけですよね。
聖書をみんなが読めないことを言うことに自分たちが都合よく解釈して、
民衆をたぶらかしていると。だから聖書に変えましょうと言って、
聖書主義としてカルバン派ができた、今のプロテスタントができたわけですので、
聖書というものに対しての解釈をお互いに言い合う、解釈というものをし合う、
それを一つの学問とやるのが神学なわけですね。
だからそういうドグマ、教義というものをどういうふうに持っているのか。
仏教もそういった教義をもちろん持っていますし、
イスラム教というのはもっと何よりも強いのが、
いまだに偶像崇拝とかそういったものをせずに、絶対にあるものはコーランなんですね。
コーラン、カオランとかっていうふうに発音されますけど、
しかももともとは交渉伝承なんですよ。
文字伝承ではなくて、全員暗記してそれを交渉伝承していくっていうのが、
イスラム教の非常に重要な役割。
だからみんな生活の規範、動きというのはコーランの通りにやっていくっていうのが、
イスラム教になってくるわけです。
宗教とは何かって言ったら、そういう経典と教義です。
哲学とか科学とかだと、過去にあったものでも批判的に取られて、
置き換わっていく可能性が常にあるみたいなものかもしれないですけど、
宗教は最初にこれってなったら、それがほぼ置き換わらないものみたいな、
さっきのドグマみたいのがあるのが宗教っていう感じなんですね。
そこが難しくて、解釈は変えれるんですよ。
例えば哲学も、カントの原著の内容は変わらないけど、
解釈は変えれるっていう風になってくるので、
宗教学というのは、解釈をどう扱うかということをしっかりやっているわけですね。
時代に合わせてやっていかなければいけませんし、
2000年前に書かれたものと現代というのは100%合わさるはずがないけれども、
現代にいかに合わせていくかということをやっていかなきゃいけない。
これは般若心経なんかっていうのも知恵の教えになってくるわけですけども、
その知恵の教えを今、自分の生活にどのようにアダプテーション、
適応させていくかということを学んでいくということになってくるわけですよね。
だから、生きていく上で何か困っているときに、
要は般若心経の中にはこう書かれている。
カウラの中にはこういう風に書かれている。
聖書の中にはこういう風に書かれているっていう、
自分にとって指標にするものに過ぎない可能性はあるんですよね。
それをどこまで信じ込むか、
そしてあるいは誰かに言われたからそういう風にするのかっていうのとはまたちょっと違って、
自分自身にとっての行動指針だとか、
あるいはガイドラインとして扱っているっていうものが、
正しき宗教の扱いだという風に考えられています。
なるほどですね。
そうなると、今何を信じたらいいかわからないみたいなときに、
これが真実だというか、
そういうのが示されやすいのが宗教的なものかもしれないので、
現代でもアメリカとかでまた宗教を信仰する人が増えているみたいな話もちょっと聞いたりはするんですけど、
不安定で不確実性が高い世の中ほど、
やっぱり宗教に信仰する人が増えるみたいなところもあったりはするんですかね。
まさにそれこそ現代はね、もうちょっとその言葉使われにくくなりましたけど、
文化の時代だと言われるわけですよね。
複雑性だとか多様性だとかっていう中で、
複雑多様っていうものは信頼できるものがないということになるので、
そのときに、僕はよく学生に説明するときに、
そのフリーデーの中で、
ヒンメルだったらこう言った、ヒンメルだったらこうしたっていう風によく言うんですね。
つまり勇者が生きてた時だったらこの行動指針で動いてたと。
だから自分が右か左かに迷ったときに、
ヒンメルだったらこっちに行ったっていうのがある種のガイドラインなわけですよ。
それが聖書の何章何番にこういう風に書かれているっていう風にやっていく。
ただそれを誰かに強要したりだとか、
それを元に例えば犯罪を起こさせるとかっていうことは良くないわけですよね。
だから宗教性ってのは先ほどの押し勝つっていうものもそうですけども、
自分が好きなアイドルとか自分が好きなアーティストだったらこういう風な判断をする。
あるいはこの歌の歌詞でこう言っているからこうしよう。
というような行動指針が競技だということになります。
なるほどですね。
なのでその行動指針をその宗教みたいなものに求める人もいれば、
自分の頭で考えたりして道徳とか倫理観をもとに行動するみたいな方向性もあるってことでしょうね。
そうですね。だからそれを例えば学問とすれば哲学とか倫理学になりますし、
文化的にそのある種理由なく根付いているものってなってくると、
モラルとかエチケット。
エチケットっていうのはエシックスの変形語なので、
エシックスってのは倫理ですから、いわゆる倫理観、道徳観と言われるものが、
集団におけるある種の暗黙の命令だということです。
そうですね。なるほど。
あともうちょっとだいぶ現代に近づいてきた感じだと思うんですけど、
今だといわゆる推しみたいなものは宗教に近いような感じっていうところなんですよね、これまでの話で。
僕としては宗教と言ってしまうと違うって言われると思うんですね。
宗教に対して特に日本人とかっていうのは、
ある種排他的な考えを持っている人たちがいるので、
だけど神が勝ってるよねって言ったらうんうんって言うわけですよ。
もうあれって神じゃんとかってみんな言うわけですよ。
だから結局宗教なんですよ。
ここから例えば理学療法とか医療につなげていこうと思うと、
どう考えていくと良さそうな感じですかね。
例えば自分自身の仕事だとか、患者さん自身もそうかもしれませんけど、
何かしらの生きるガイドラインを持っている人は強いってことなんですよ。
だから宗教を信じて経験な人たちっていうのは、
大体落ち着いてます。
それはおそらくある種のトレーニングなんですけれども、
価値観というものにガイドラインを持っているので、
ガイドラインがあるからゆえに揺れ動かないんですよね。
それがどんな宗教だとしてもそうだと思います。
もうちょっと言うと極真空手の人たちとかっていうのもしっかりしてるわけですよ。
それはガイドラインがあるからゆえに揺れ動かないんですよね。
理学療法という自分の中での理念をどのようにちゃんと持っているのか、
というのがすごく重要になってくるんですね。
だから倫理観、道徳観、あるいは宗教観というそれをすべて広く言ったときに、
何かしらの競技を持っているわけですよね。
違う言い方としてはルールなわけです。
そのルールから逸脱しようとしても、
そのルールから逸脱しようとしても、
そのルールをどのように自分で設定していて、
何かしようとしたときに、そのルールというものをちゃんと目の前に置いて判断できるかどうか。
これが理学療法における、
例えば僕の場合だったら、患者さんとの関係は良くしようとするが、
全部体を突っ込まないようにする。
半分は突っ込むが半分だけ抜こう。
これは前も言ったかもしれませんが、
サリバンの関与しながらの観察という考え方が、
僕が25歳ぐらいの時からずっと取り決めている絶対的なルールなんですね。
これはだから何でそれをやるんですかというと、
これは道徳観なんですよ。
これは壊れない道徳観なので、
そういう意味を認識して、
自分の道徳観をどういうふうに持っているかというところで、
行動が見えてくることがあるかなと思います。
なるほどですね。
最近だとEBMみたいな、
Evidence Based Medicineとか、
エビデンスに基づいて、
科学的な考えを重視しようみたいな動きは、
やっぱり強くあるかなと思うんですけど、
科学だけでいくと、
どんどん更新されていくというか、
そういったものが増え続けていくというか、
そういったものが増え続けていくというか、
そういったものが増え続けていくというか、
新しい知見も出てくるからこそ、
根底として何を信じればいいんだろう、
人によって迷うこともあるかなと思うので、
人によって迷うこともあるかなと思うので、
自分としてのルールとか、
職業としての規範とか、
倫理道徳だったり、
もしかしたら宗教的なところも入ってくるかもしれないですけど、
根っこの部分というのは、
みんな考えないといけないよね、
みんな考えないといけないよね、
という感じですかね。
そうですね。
それが文系的な知識、
人文知といわれるようなものだと思いますし、
科学というのはどうしても
反証の可能性がなければ科学ではない。
つまり反証されることが前提なわけですね。
つまり反証されることが前提なわけですね。
だけども、こういった教義とかっていうのは
反証をするというよりも、
批判しながら、
自分の中で強固にしていくものなので、
例えば、
人を助けましょうっていうこと自体を
同情けないと言ったりしますね。
同情けないと言ったりしますね。
を科学的に証明するのはなかなか難しいわけですね だけども人を助けましょうというものに対して条件をつけたり
例えばこういう場合だったら助けるとか こういう場合だったら助けないだとかいろいろなことを自分の中で積み上げていく
という人文知的な問いの重ね合いというのが自分の中でのドグマを作っていくと その中心にあるのがセントラルドグマ的な
こう絶対言うべきない何かっていうのが人によってその人の強さというものにつながっていったりするのかなと思います
なるほど そういうのはどう形作られていくんですかね 日本人の歴史的に積み重なっているものもありつつ
現代生きていく中でいろいろ経験する中でそういうカッコたるものっていうのも出来上がってくるかなとは思うんですけど
若いうちはなかなかこれっていうのを見づらいかもしれないですし 徐々に年を重ねて経験を積んでいく中で出来上がってくるものっていう感じなんですかね
いろいろあると思うんですよ 例えば根っこの頃から変わらない自分の三つ子の魂100まで的な変わらないものっていうのと
20歳になって衝撃を受けて変わったものと 死ぬ前に典型を受けて変わるものとかっていうのがあると思うんですね
だから何が自分にとってのガイドラインになっているのかっていうのをリフレクションすることが多分大事なんですよ
私何もないなぁと思っても何かあるはずです あるいはもしないんだとするとその時に仏門を叩いたりキリスト教のとこに行ったり
極真空手を始めたりいろいろなことをやったらいいと思うんですよね だから僕なんかはずっと自分の中にあるドグマは何なんだろうというのを
常に問いながら生きているんですけども少しずつこれはなんていうのかな 彫刻をしているような感覚なんですよ
一本の太い木があってそこにのみを入れて削っていってるんだけども 作っている最中に本当に何ができるかよくわかっていないと
自分のいろいろな思考を重ねていく中でこの木の流れではこういう風に作った方がいいな
木とともに自分の彫刻を作っているような感覚なんですよね だからまだはっきりとはしていませんけれどもなんとなくわかってきたっていう感じなので
それはだから僕は哲学的な営みだと思っていて 宗教とは違うんですよね
なるほど だいぶ内面見つめている堀先生でもまだ形決まりきってないみたいな感じだと
やっぱり周りに流されやすいような人だとか内面まだ見つめられてないような人は そこがまだ脆い感じというか
まだ形決まりきってない人も結構いるだろうなとは思いますよね
そうですね その辺りをどっかで明らかにしていくという活動をどこでやるかだと思うんですけども
もちろん僕自身も要は20歳前後の頃にそういうのにものすごく悩んでたんですね
結果出した結論はインドに行こうでしたから
なるほど
インドに行って何か変わったかっていうとやっぱり変わったんですよ
だから何か外発的な動機づけだとか環境における刺激を受けるというのはすごく重要だと思うので
内面に入るのもいいが外からの風に吹かれてみるということもしたらいいと思いますけど
そのスタートはやはり問い立てなんですよね
私とは何かという問いをいかに問えるかなので
ただ多くの人がそれをやらないということを僕は知ってはいますので
田代さんはでも問わない 割と問う方ですね そういうふうに
多分そうだとは思うんですけど 自分としてはまだ分からない部分ありますし
なので途中で出てきた仏教の中で言えば 多分密教方面というかボリシタイタイプで
多くは流されるようなタイプというか 今の時代的にはこうだよねっていうのに合わせるような人もいるかなとは思うんですけど
そうですね なので一個人というか人それぞれで考えるともうそれぞれあるっていうふうになるかなとは思うんですけど
医療人としてとか理学療法士としてとか 何か一つのカテゴリーというか言葉を決めると
もうちょっと統一したものというか 考えやすくはなってくるんですかね
確かにその医療的ペルソナの中で持つ競技と 個人としてのペルソナの中での競技っていうのは
同心院上にはあるんだけれども ちょっとずれますよね
だから自分がどのペルソナで何が発言をしているのかっていうことを ちゃんと理解しておけば多分いいと思うんですよ
ただそれができなくなってくると 自分が何の発言をしているかというのが分からなくなってくるので
でも確かにペルソナの持ちようというのはすごい重要でしょうね
そうですよね なので自分個人みたいなものがないと 周りにある規範だけに流されてしまうと
それで違ってくることもあるかもしれないですし 本当に自分が強固にある人は
周りにある規範が合わなければ またずらしていくっていうこともできるかなと思うので
まずやっぱり各部としては 自分個人の何か規範みたいなものがあったほうが 動きやすくはなるんですかね
そうは思います ただその規範というものが ある程度変化し得るものだと思いますので
その変化しているっていうことの認知が必要でしょうね
なるほど そうですね ちょっといい時間になってきたんで