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こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
理学療法士の学びのデザイン
Advanced Therapistエピソード8本目の後半部分ということで、前半では学習とはみたいな大きな話とか、
理学療法士として活動していく上でどういう学びが必要そうかなとか、いろいろ喋ったんですけど、
後半ではより良い学び、理学療法士としてより良い活動していくためには、
どういうことを考えていくといいかな、みたいなことをいろいろ喋っていけたらなと思います。
はい、よろしくお願いいたします。
教育だとか学習だとかっていうものを少し歴史的にひも解いていくと、
特に教育学習の祖というか、近代における非常に重要な立ち位置にいる人っていうのが、
ルソーになる。ジャンジャックルソーという人が、エミールという本を書いて、
人間の発達みたいなのを、発達というと今の生きる発達ではなくて、人生における成長過程みたいなのをエミールで書いた。
そのエミールというのを一つの契機として、どうやら人間というのは教育を与える、あるいは学習をしなければいけない。
つまりそれはなぜかというと、人間が少しずつ長く生きるようになったからなんだ。
長く生きるということ自体は、生産性を上げていくこと自体が、一つのその人の生活を楽にするものである。
農家に生まれたら農家だったっていう人だったはずなのが、年化することによって商業に参加できる。
あるいは会社というものを持つことによって売上を上げていけるというような、生きることに対する多様性が生まれたわけです。
その多様性をうまく達成させようとすると、結局自分の子供たちというのにうまく教育を与えることによって、
それがより生産性が高くなるということになるわけですけども。
教育自体の、僕がすごく大好きな教育者にペスタロッチっていう人がいるんですけども、
ペスタロッチっていう人が、本当に子供たちっていうのに教育を与えなければならないという考えのもと、
スイスの方なんですけども、私学を作って、私学っていうのは私学ですよね。
非常に重要な教育というものを実践して、それを達成していく。
その結果、どうやら子供というのはちゃんとした教育を与えていくとうまく成長するんだ。
そしてその後にブルームとかですね、いろんな人が出てくる、デュイとかいろんな人が出てくるんですけども、
現代における教育の一つの立ち位置っていうのがプラグマティズムをベースとした考え方。
プラグマティズムっていうのが経験と実践をいかに与えるかということなんですけども、
現代の中ではそういった経験実践というのがすごく重要視されている。
教育自体がそういうふうな立ち位置になるとすると、学習もそうならなきゃいけないというところが一つの考え方。
それにさらに認知心理学みたいなのが乗ってきて、与えるものというプラス、
どういったらより良くなるかっていう学習者の理解というところで、
わかりやすく言うとパブロ風の犬と言われるような、古典的条件付けだとか、
あるいはスキナーにおけるレスポンデント条件付けって日本語で何て言うんだろう。
いわゆるスキナー僕、オペラント条件付けってやつです。
レスポンデント条件付けっていうのがパブロ風の方で、オペラント条件付けっていうのはスキナーの方で、
いわゆる行動と言われる。その後にピアジェとかが生まれて認知という話なんですけど、
認知行動療法というのが、ある種今の精神科における治療方法を取るわけですけども、
学習においてすごく重要なわけですよね。認知をする、そして行動をする。
つまり行動を変えることによって認知が変わる。認知が変わることによって行動が変わるという、
重要な関係性の中で学習というものを強化していくというのが、
20世紀における重要な考え方、そしてその21世紀でもそれが使われているよというものになりますので、
教育の流れ、学習の流れというのを今ちょっとベーシックに。
それをもって未来はどういくかというところに話が進んでいくということです。
なるほど。理学療法師として考えると、どう行動していった方がいいのかとか、
自分は行動していきたいのかみたいなことの考え方に合わせて、
学びみたいなこともデザインしていくといいのかなという感じですね。
そうですね。今のデザインというのがすごく学習において重要だと思うんですけども、
自分がどうなりたいのか。これはよく海外のアメリカの人たちなんかも常にその問いをしていくんですよね。
日本人はどうなりたいのっていう問いを答えるのもすごく苦手としている傾向に。
それは前回の話にもあったと思いますけど、顔色を伺うんですよね。
すごく人の顔色を伺うから、自分がこうなりたいからといって無理だよっていう。
どうなりたいのっていうのはあくまでも英語で言うとアンビシャスですよね。
やりかえると野望というふうに訳されたりとかするんですけども、
希望、ホープとアンビシャスのいい訳がないんですね。
希望と希望の間がないっていう感じがある。
だから野望というと、ホープ&アンビシャスというのがおそらくなりたい自分なんですよ。
そのなりたい自分って言われるものっていうのを教育の中でいかに作っていくか、
それに向けて学習していくかっていうのがすごく重要だと思うんですけど、
田代さんになりたい自分って言われたらどんなふうなことが答えます?
そうですね。自分はどっちかっていうと結構そういうのある方かなみたいな感じで思ってましたけど、
大学生の頃は日本代表に関わるスポーツトレーナーになりたいみたいなものが一つあったりとか、
大学院で研究してたときは研究者として体制するというか、
新しいアイデアを世の中に認められるものを作りたいみたいなものとか、
そこから独立して会社も作ってっていうと、
こういうウェルビングとかの領域で事業を作っていきたいとかもありますし、
短期的にはそれぞれコロコロ変わってますけど、
長期的には社会に役立つことをしたいというか、
より良い社会につながることをしたいみたいな感じはあるんで、
中期的とか短期的でいうとそんな感じですかね。
今日は今の田代さんの発想というのを、
どこの主義とかところに置くかというと、
啓蒙主義と実存主義の重要性
結局啓蒙主義だとか進歩主義と言われるような発想になるという風に捉えられるんですね。
つまり自分の存在が社会に対して何かコミットができる。
コミットした結果社会がより良くなる。これが啓蒙主義なんですよね。
なので啓蒙主義の良さというのは、より良いものを見つけようとする。
啓蒙主義の悪さというのは、社会というのは常に発展していく。
つまり進歩主義に変わっていくわけですね。
進歩主義というのは、啓蒙主義も進歩主義も決して悪いものでないし、
今の社会における重要なOSではあるんですけれども、
その時に間違った方向に行くと事故が失われるってことなんですね。
主語が社会になっちゃうので。
僕自身というのはどちらかというと、実存主義。
つまり事故というものをいかに理解するか、事故というものをどういう風に見つめていくか。
社会の進歩だとか、社会における啓蒙というものをあまり重要視しない感じですね。
どうしても理学方法とか医療の考え方というのは、
啓蒙主義とか進歩主義というものが内在的にベースにあるんですよね。
つまり寿命は延びるとか、病気は治るとか、
病気というのは克服できるんだっていうような感じ方になってくるので、
復習というのもどうしてもそっちに影響され得るっていう。
ある種僕の正ですね、正しい意味の批判なんですよ。
この辺りってどうですか。
それって啓蒙主義ですねとか言われると。
いや、自分の20代から30代の今中盤ぐらいまでっていうと、
やっぱりより良くとか、発展していく形が強かったのはあるんですけど、
やっぱりその中で限界もいろいろ感じ始めていて、
その中で結構もう一回自己を見つめ直すとか、
堀先生とも関わりながらいろいろ本を読んだりっていうのもありますけど、
そういう一種の限界というかも感じてるからこそ、
ちょっと興味の方向性が変わってきたりしてるのもあるんで、
フェーズによる違いはあるのかなと思いましたね。
おそらく田代さんみたいにある種自己モニタリングができてる人たちの方が少なくて、
なんとなく意味もなくって言うとちょっとおかしいんですけれども、
あえて意味もなく啓蒙する、啓発するっていうこと自体を
絶対的な善として捉えてることが今の社会にあるんですよね。
ビジネス書とかっていうのは完全な啓蒙主義で、
会社が良くなるとか上がるとか、
自己を理解するっていうふうに捉えていくようなビジネス書ってあんま売れないんですよ。
やっぱりなんかすごい良くなる良くなるっていう、
なんていうのかな、well-beingなんですよ。
良く生きるっていうのの捉え方が良くなる。つまり、
一生一個一個積んでいくと必ず大きな山ができるっていうような考え方になるんですけども、
限界値っていうのはやっぱり重力が限界値であったりとか、
キャパの限界値っていうのがあって、どっかでそれは達成できないっていうものを
どっかでブラインドしちゃうんですよね。
で、必ず良くなる必ず良くなるっていうCPUのムーアの法則みたいに、
必ずCPUが早くなり続けるみたいな法則が、
どっかでふっと立ち止まった時に気づいた時に虚しくなってくる。
ここに実存主義っていうのが介入してくるんですよね。
要は私っていうものの意味だとか、自分自身ってのは何で存在するんだろうだとか、
こんな私は私、あるいは私というのは何っていうような問いが、
その両方で多分走らなきゃいけないんですよね。
だからそれをいきなり理学療法士に実存主義を教えると、
何クソってなるかといって、そういった啓蒙主義だけで走っていくと、
どっかで何かにぶち当たってすごく辛くなってくる。
なのでその両方をどのタイミングで教育し、かつ学習していくのかっていうのが、
これから自分が理学療法士としてのみならず、
人として生きていくというのも重要な学びなのかなというふうには常に僕は思っているんですよね。
確かに。
なんで理学療法士ってなってもいろんな道の読み方があると思いますし、
結構臨床一筋でやるみたいなこともあれば、
その研究者とか教育側にもあるとか、自分みたいに独立政治をやるとかありますけど、
どういう方向にいても結構さっきみたいな啓蒙主義というか、
社会問題を解決するとかそっちにやっぱり目を向きやすいと思いますし、
でもどこか行ってもどこかでぶち当たるのはあると思うんで、
そのタイミングで自己見つめ直して、
それでまた新しい道を作っていくというか、
そういうのができる人が増えるといいのかなと思いましたね。
なので広く捉えていくと客観と主観、つまりソープ、
カルテの書き方におけるソープのサブジェクトとオブジェクトというのがあるわけですね。
サブジェクトとオブジェクトという考え方は正しいけれども、
どちらかというとサブジェクトとオブジェクトというのは時間帯というのが短いんです。
つまり今の話をしてるんですよね。
そうではなくて人を見るときっていうのは過去と未来というの連続性があって、
それを人生史、いわゆる人の歴史とかというふうに捉えていくんですけども、
どうしても病気を見るときには明らかにサブジェクトとオブジェクトというのを重要視しなければいけないけれども、
人を見るときっていうのはそれの今度は時間性を重視しなければいけない。
その人が未来でどういうふうになりたいのか、あるいは過去のことをやってきたのかっていうところ。
この3視点というものをいかに見ていくかっていうのが僕自身の答えなんですね。
人を見ようとする職業である理学療法は必ず人生史を見なさいということです。
人生史の重要性
ただそれが機械ということに関して人生史っていうのを見る必要ないわけじゃないですか。
ただ例えば車というものを修理しようとしたときに、
その人が例えばオブジェクトとサブジェクトを見ると、例えばすごいカタカタ音がなるので修理してほしい。
このカタカタっていうのはここのネジが緩んでいましたっていう客観的になる。
だけどその車というのをその人がどういうふうに扱ってきて、今後どうしたいのか。
もうあと半年で乗り換えるからねっていう感じなのか。
実はこれは父親から受け継いでて、もう今後一生続けたいと思っているのか。
ということで修理の仕方も変わってくるわけですよ。
なのでその人のある種の、低く言うとナラティブということに申し上げますけども、
ナラティブって言ってしまうと、今ここの発言もナラティブなんですけども、
それの歴史的なナラティブですよね。
だからいわゆる人生史と呼ばれるものの捉え方をいかにやっていくかっていうのは、
僕はすごく常に重要視している捉え方ですけども、
なかなかそういった発想って理解はしてくれるけど取り入れてくれません。
なぜかというとめんどくさいから。
結構思考体力が必要というか。
まさにそうです。コスパが悪いんですよ。
そうですね。目の前の課題があってそれを解決すれば終わりって感じだったら、
結構たくさんの人関わるって価値提供できるかもしれないですけど、
本当に一人に長く向き合おうと思うとなかなか費用対効果的には合わなかったりすると思いますし、
まあでも個人的にも結構そういう重要性を特に感じたりしてるんで、
結構歴史とか最近勉強するのは面白くなってきてます。
例えば医療において人生史というものを重要視しすぎるっていうのは、
どうしても数のコスパが悪いからな。
教育で学生に携わる時っていうのは実はその人生史におけるポイントっていうのがとっても重要なんですよね。
学生自体と、例えば大学においては4年間携わるわけです。
それをどのタイミングで、例えば1年生の時から最初に携わるのか、
たまたま携わるのかはわかりませんけれども、
それにしろその学生がどういう風な考えを持ってどういう風に行こうとしているのか、
そして何を大切にしているのかっていうものを理解するのはすごく重要なんです。
伴奏型指導者の役割
ただ間違って、これは間違ってるというと大きな非難になってくるけど、
大学の教員だとか養成校の教員っていうのは、
その瞬間瞬間だけを捉える人たちって結構多いんですよ。
どうしたいの?みたいな。どうしたいの?っていうものの幅が狭いんですよね。
それがある種の啓蒙主義的なものが強くなったら、
理学療法士にならなきゃいけない。
だったらその行為っていうのは間違いだっていうふうに捉えていく人たちが多いんですよね。
例えばその実習中にすごくやる気をなくして、
もう勉強したくないですって言った時に、
いい理学療法士になりたくないの?みたいな指導をしてしまうと、
学生が捉えている人生史を否定してしまうことになるんですよね。
そうじゃなくて、なんでそういう風になってるかっていうのをやっぱりじっくり聞いていって、
学生が落ち込んでいる状態というものをいかにどういうふうに捉えるのかっていうのは、
本来は重要だと思います。
そうですね。そういう意味で自分の場合、
学生の時代っていうのは結構学び多かったかなと思ってるんですけど、
大学都州史と博史といって、
それも全部同じ研究室で先生に関わってやったって感じなんで、
多分最初に言ってることと途中とか最後に言ってること、
変わってると思いますけど、
根本的にこいつはこういうことをしたいんだろうなみたいなことを、
なんとなく分かってもらってた部分もあるから、
それも変化も受け入れながら関わり続けてもらったのかなみたいなことは思うんで、
そういう自分の人生史みたいなことを自分で見つめるのも大事ですし、
近くで見てもらいながら伴奏してくれる人がいるみたいな、
両方あるといいのかなと思いましたね。
今のところがすごくいい、
田代さんはいい指導者に出会えたんだ。
つまりこの伴奏型指導者だとか、
あるいはボスというか支持的な指導者とか、
いろいろな指導者タイプがいると思います。
伴奏してもらうことが最近は好まれるなという傾向にはあります。
数が多ければ伴奏って難しいわけですけども、
数が少なかったら伴奏してもらえる。
ただ伴奏してもらえると、ある種の包み込まれてしまうので、
伴奏と言いつつも、実は包み込んでいこうとする人たちもいるので、
いわゆるアドバイスをする。
選択するのはあなたですよと言っておきながら、
これを選択せよというふうな、
暗黙の指示みたいなのがどうしても出てくる。
逆に、自由に伴奏するがゆえに自由な選択を与えるがゆえに、
自由度が高くなって選択できない人たちでも出てくるので、
このあたりはどういうふうに教育、あるいは授業を流すというのは、
すごく難しいのは難しいんですけども、
教育者側が自分が伴奏型なのか、
学生側が伴奏型を求めているのか、
というのを最初にちゃんと評価できていると、
すごく指導ができると思うんですね。
そしてその指導というものを学習というのは両方セットですし、
学習者が教育側になったときに、
それができたらすごく良い受け渡し。
映画でそのペイフォワードという映画があるんですけど、
1人が良いことをしてもらったら3つ返せと、
そうすると必ず世界は平和になるというような論理で、
それを実践していくという映画なんですけど、
そのペイフォワード、つまり何かを誰かに提供しようとするときに、
自分にとってそれがより良いものである、
というものを実験しておくのがすごく重要だと思うんですよね。
そうですね。さっきの伴奏でいくと、
学ぶ側の自分からすると、やっぱりボスというか先生なんで、
言われたことをやるみたいなフェーズもあったんですけど、
なんとなくしゅはり的な、守るとこは守るけど、
嫌なことは嫌って言って、
逆に結構今はもう完全に離れているような感じもありますし、
自分がやりたいこととか明確にしていたりとか、
関係性みたいなのをうまく作れるといいのかな、
みたいなことを改めてちょっと思いましたね。
なので今どちらかというと、理学療法の教育全体を通して、
教育方法の工夫
しゅはりをさせるためにはPBLなんかをすごく重要視されているわけですね。
PBLっていうのはプログラムベースドといったり、
プログラムベースドといったりしますけども、
一番はプログラム、つまり問題解決型能力をつけましょう。
その問題解決型能力っていうのは、
前回のところの痛みに近いわけですね。
問題に携わらせて、成功なり失敗なりさせて、
自分で考えていって自己解決。
自己解決っていうのはやっぱり痛いんですよ。
なのでそういった状態を作っていくっていう、
教育方針というのはすごくよく取られたりしますし、
そのためにOSCEだとかを使われるわけですね。
OSCEって日本語なんだっけ、客観的臨床能力試験かな。
そういったものを最近はよく使われると。
ただEBLもOSCEも形状のちゃんと理論背景だとか、
どういうふうに作られたかっていうのを理解してやらずに、
僕の感じだと上手くいっているケースと上手くいっていないケース
っていうのが結構散見されます。
実際にいろいろな教育方法っていうのが最近あって、
反転授業だとかアクティブラーニングっていう風に
言われるわけですけど、学習というのを並走させるための方法が
アクティブラーニング。
つまり学習者がいかに自分から学習するかっていうのを
非常に良しとされているんですね。
ただそれは自由に走っていいが故に、
例えば理学療法の教育っていうのは101単位のカリキュラムっていうのがあって、
それをクリアさせなきゃいけないわけですね。
そうなってくるとどうしてもスクール型の学習がやりやすいという風に
言ったりするので、例えば哲学の教育においてはおそらく
アクティブラーニングっていうのがめちゃめちゃ効果的なんだけども、
両方の教育の中でどこまでがアクティブラーニングが有効なのかっていうのは
結構難しいんですよね。
なので学習者が自己意思を持って、できれば正当的に
ちゃんと周辺に参加してもらえるっていう場の作り方っていうのが結構難しいよね。
なかなか学生の時代とか若いうちに自分の強い意思というか
こうなりたいんだっていうのを持ちながら学習に参加するみたいなのは
なかなか多くの人に求めると難しいかも。
理想はそういう方がいいかもしれないですけど、
でも徐々にはそういう意欲的に生きる人が増えるといいなと思います。
特に田代さんの先ほどのケースで言うと
メンタリングと言われるか、メンターですね。
つまり自動車に出会えるとうまくいくっていう
メンターの出会いっていうのはこれ運の要素がすごく強いんだけれども、
より良いメンターをたくさん作っていくっていうのは
学習者でいうかある種のスーパーバイザーと言われるような
自動車っていうのももちろんそうですし、
エビノ先生もそうなんですけど、運要素が強い。
メンターガチャみたいのがあるってことですね。
確かに、そうですね。
そういう意味だとさっき折先生言われてた
実論的なことを学ぶきっかけもあるといいよねみたいなところっていうのは
メンター側がもちろんより良くとか啓蒙的に社会のことを見ることも教えられつつ
どっかのタイミングでぶち当たりそうだなってなったタイミングで
そういうのも教えられるみたいな
両方関われるようなメンターみたいのが増えておくといいのかな
みたいな感じはあるんですかね。
多くのメンターって自分が受けたメンタリングというか
自分が受けた教育でより良いと思っているものを
他の人に提供するんですよね。
だから当たれば当たるんだけれどもっていうところで
その教育学をちゃんとやっていくと
いろいろな手数を学べますので
やっぱり教育者っていう理学療法大学の場合って
教育者ではなくて正確には研究者だよね。
だから研究者がいかに教育を興味を持って学ぶかっていうのは
実はすごく重要だなというふうに思って
理学療法の臨床において
メンターだったりあるいはプラットフォームだと言われる人たちが
教育をいかに学んでいるかっていうのは
実は重要なことであるが
そんな暇がないっていうのが言われる。
なるほどですね。
結構そこは今後解決しないといけないところかなと思いますし
自分の場合だと独立して働いているのもあるので
理学療法士とかセラピスト系で独立して働きたいっていう人から
相談を受けたりすると
ちょっとメンター的に関わったりすることもありますけど
そこでもちょっと今回の話は生かしたいなと思いました。
学習者にとってとっても重要な努力って
自分にとって適切なメンターに出会えるまで学習するってことだと思います。
なるほど。
だからコーチだとかカウンターだとか全部なんですけども
会う人、例えばもっと言うと美容師とかっていうことかもしれませんけど
すごく心地がいい、自分と合う人に出会うまで頑張る。
だからどこまで頑張ればいいんだって言われたら
出会いと情報収集の重要性
いい人に出会うまでだと思います。
なるほど。
なんかその辺スピリチュアル的になるかもしれないですけど
思うは招くというか
ちゃんと思い続けて行動していればいつか出会うよみたいなのは
でもなんとなく心理的にあるような気はしますし
そういう行動をし続けることで
より良いメンターに出会いやすくはなるなと思いましたね。
だから思えば出会うところの思う部分っていうものに
いかに適切な情報収集をしていくか
なのでやはり情報収集能力
そして情報を見たときの解釈能力
理学療法でいうと臨床推論能力ですよね。
いかにちゃんと推論できる能力っていうのを
一人でもそれこそ頭叩きながらでも学ぶ
そうすると自分が必要で思うもの
そして人あるいは場所
ここが正しいという判断ができるということですよね。
だからより良いメンターっていうものは
近くにいるかどうかもわからないので
その場所に来ればいけないこともあり得るわけです。
なのでそれができるための十分な能力っていうのは
やはり僕はやっぱり突き詰めていくと推論能力なんですよね。
それが正しいと自分で判断できるということなので
ただ推論能力って工事の能力なので
本当は高校ぐらいまでに育ててほしいんですけど
難しいよねどうしようかねっていう悩みは
そうですね早口身につけといたらいいけど
別に遅すぎることもないというか
今学ぼうと思ったら学べるものでもあると思いますし
理学療法士としてより良い活動しておこうと思ったら
必須というかやっぱり身につけてほうがいいかなと思うんで
まずそっちをしっかり学んでおくっていうのは大事かなと思いますし
その過程の中でたぶんしっかり考えてる人とか
メンターとは出会いやすくなると思うんで
今後理学療法士としてアドバンストな形で
よりしていきたいとは
まずそっちを学んでみるというのはいいかもしれませんね
でも確かに人との出会い
いわゆるメンターが本当にどのタイミングで出てくるかって
これはなかなか今難しいなと話しながら
いいと思ったけど
例えば大学院なんかを選択する際に
学生の下で勉強したいって論文読んでよかった
だけど人として合わなかったっていうのは結構
逆に全然この人実績もないし
よくわからないゼミで振られたから言ったけど
いい人で将来の自分のメンターになるとかいうこともあるので
これは本当にやっぱりガチャですね
そうですね
どうなんですかね
それもこの人いいなと思っていくパターンでいいのか
こういうこと自体を学びたいっていうので
突き詰めた結果この人に出会ったみたいな
多分人の出会い方もいろいろパターンがあると思うんで
それも一つあるんですよね
間違いなく出会えるメンターっていうのがあるんですね
それは今日収録前に喋ってた話になるんですけども
学びの目的と実践的スキル
ノルウェーの森の中で出てくる先輩が
いい文学っていうのはもうすでに作っていて
社会に評価されるっていう
これはメンターとして確実に
実はカントだとかヘイゲルだとか
僕の場合はガダマーだとかリクールっていう人が
この人は死んでるから最高のメンターなんですよ
確かに
そうですね
だからリアルに生きてて
メンターになってくれそうな人を探すっていうと
結構本当にタイミングとか運の要素大きいですけど
過去の偉人としてはこの人からやっぱり学ぶといいよねみたいな
人とか情報っていうのは積み重なったものがあると思うんで
そっちからも慣れていくといいかもしれないですね
理学療法のできないのは大体生きてるし
継続的に一つのことを突き詰めて研究している人たちは
どうしても少ないんですよね
特に今の文科省なんかがやる研究に対する支援って
長くて5年なんですよね
それを20年30年まで支援して
この人が何かを確立したっていうものにやるのが難しい
確立してるとかっていうと
どちらかというと宗教的に捉えられたりだとかしてしまうので
僕なんかはやっぱり哲学者っていうのは
長くそして書物として受け渡してくれるので
噛みごたえがあるんですよね
論文一本で噛みごたえがあるっていうのはなかなか難しいので
だからすごく出会いがある意味では
僕はやっぱり哲学を学ぶとか
あるいは過去の人から学ぶ
もしかしたら文学でもいいと思う
今日収録の前に発してたトマースマンを読んでとか
っていうことでもいいでしょうし
ソウセキの作品を全部読んで
ソウセキの考え方好きやわとかっていう
実はメンター探しって推し勝ちなんですよね
より良い推しを見つけることができれば
ある恋愛的であり宗教的に好きになれるっていうことが
重要であって
本当に指導者ってなってくると
人間の嫌な部分まで見て
それがちゃんと受け入れるかどうかっていうのはすごく重要
確かに
そうですね
本当にリアルな人の出会いは
運と縁とタイミングとうまくフェーズが合うかどうかは
結構難しいところもあるんで
過去の偉人に学びつつ
その中でもリアルな人のところも関わりつつ
学びを深めていくと
理学力保守的にも成長できるでしょうし
いいなと思いましたね
それと合わせて
推論的な論理的な思考とかも
いけばより良い形になりやすいなと思いましたね
なので学習っていうものをもう一回
簡単に紐解くと
レクチャー エクササイズ プラクティシーズ
っていうものがある中での
エクササイズとプラクティシーズの部分
だからそこでしっかりと自分が
実践に向けた学習をやろう
実践に向けた学習
つまり英語をやるんだったら
ちゃんと話せるようになろう
書けるようになろう
というところに向かっていく必要があるわけです
だからトイックで点数を取る
トイックで点数を取るっていう
一つの学習の目標も結構だけれども
その先にある実践を取ることが
おそらく重要なんですね
トイックが990点取れたからといって
英語がネイティブバリに
喋れるわけではない
じゃあ次 IELTSだとか
TOEFLっていう実際に書いたり
喋ったりするところのレベルまで
高めていくっていうところが必要であったり
あるいは留学をするとか
京都駅に行って海外の人といっぱい
喋るとかでもいいと思いますけど
語学ってやっぱりコミュニケーションスキル
関連性が非常に高いので
実際実践まで持っていくところがどうなのか
今度は理学療法士が登録を取って
認定を取っていったりとか
認定理学療法士を取った先の
実践がどういったものにしているのか
すごく重要だったりするわけですよね
なので認定を取ることが
目標であってはならないってことです
学習っていうのは必ず通過点はあるけれども
その通過点の先に何があるのかっていうのを
見定めなければいけない
その見定めるために
ロールモデルである先輩であったり
指導してくれるメンターというものが
必要になってくるよというのが
学習をする上での重要なポイントですよ
バランスの取れた学び
というのが全体のまとめです
そうですね
その実践もこういう
疾患の悩みを抱えている方の
悩みを解決するとか
研究でまだ見つけられてない
知見を見つけるとか
いろいろ方向性があると思います
それは人それぞれだと思いますけど
目先の資格とか認定とかだけじゃない
さっきの本当にやりたいこととか
自分を打球したいとか
そっちがあると
なんでしょうね
徐々に学びは深まっていって
人生もより面白く
良い方向になるんじゃないかなと思うので
ウェルビーングにつながるっていう感じですね
本当にウェルビーングなんですよね
もちろん地位 名誉 名声
ボーコロジャーがね
ここに置いてきたって言われるものも
そこに行くまでのプロセスの中で出会える
仲間であったりだとかっていうのが
おそらく本当の価値なわけですよね
例えばワンピースの話で
ルフィがお金もらったところで
彼は使い切らないので
もっと違うものなわけですね おそらくは
だから言葉上は地位だとか名誉とか
お金とか富とかっていうのは分かりやすい
だけどもそれを本当に全ての人が求めているか
おそらくそうではない
なので広く言って求めているものが
ウェルビーング
よく生きることであるんだとすると
よく生きるための学びというものは
投資価値がすごく高い
だから株で儲けたいがゆえに学ぶっていうことで
投資価値が高いのと一緒で
自分がよく生きたいっていうものに関して
学ぼうとしたときに
今日先ほど言った啓蒙主義だとか
主義だとかっていうのはもちろん価値が高い
同時に並走させて実存主義みたいのも
学んでおかないとどっかで虚しくなる可能性はある
逆に実存主義だけでやってると
実存主義はだいたい虚しいので
実存主義だけで走るというのも
お勧めはしませんよ
そしてメンターとしてそういった多くの知識
多くの経験をさせてくれる
あるいは教えてくれる人に出会えるっていうのは
おそらく重要な価値を持っているであろうと
個人的には思います
だから修士が欲しい
博士が欲しいというだけで
学ぶことももちろんあるけれども
その先に社会における責任みたいなものをですね
責任というのは重たい言葉ではなくて
レスポンシビリティとアカウンタビリティなので
社会から何かを問いかけられたときに
反応できる能力というのと
アカウントつまり何かしら
自分自身が発表したりだとか
自分自身が社会に対してコミットする能力
これこそ責任というわけですけども
その責任を果たすために
何ができるかっていうのは
ちゃんと考えた方がいいよねっていう
そうですね
なんで自己見積も大事だし
ある程度都民名声だったり
そういう責任だったり含めて
外的な評価につながるものとか
他者に対する課題解決するとか
本当どっちも大事だなと思うんで
先に見せるのがどっちとか
どっちの比重が強めとか
人によると思いますけど
多分片方だけに偏ると
辛くなるかなと思うんで
両方うまくバランス取りながら
自分のフェーズとかやりたいことに合わせて
学びを深めると良さそうな感じですかね
本当に学習って広い概念だからこそ
単に掛け算を書く
あるいは単語を覚えることが学習ではない
ほとんどの人が分かっているんですけども
いざ学習を始めようとすると
そういった本の学習の仕方とか
いうふうに進んでいくので
一番手っ取り早いのは
すでに学んでる人のところに行って
話聞くのがいいと思います
今は直接会いに行くだけじゃなくても
SNSとかウェブでも繋がりやすかったり
コミュニケーション取りやすいと思うので
ちょっとそれも勇気出して一歩踏み出して
学びのデザインと勇気
コンタクト取ってみるみたいな感じでも良さそうですね
本当に本当に
なのでよく言われるのが
SNSとかでコンタクトが取りやすくなったからがゆえに
コンタクトを取った時に
丁寧に接してくれる人もいれば
そうじゃない人もいるんですね
そうじゃない人はもう捨ておいて
丁寧に接してくれる人に
接していくっていうのが一番いいであろうと思います
ただ丁寧に接してくれたのであれば
同時に自分も丁寧にその人に接していくっていう
ある種の礼儀だとか礼節だとか
ちょっと実況的になってしまいますけども
そういった部分も考えておくのはいいだろうと
カントが人を手段として
使用することなかれっていうことを言っている
手段であったとしても
ちゃんとその手段に対して
お互いにとって恩恵があるような形がいいであろう
もちろんだから僕に連絡をくださって
丁寧に接しますけども
かといって僕がこう言ったとかっていう話を
いろいろ言いふらされても困るわけです
お互いにとってプラスになるようなことを
できるようなやり取りっていうのを
将来的には求めていこうがいいだろうと
ただ基本的には話しかけると
丁寧に接してくれる人の方が多いと思います
だからそれを上手に使って
自分はこういう風な学習をしたい
っていうようなアクションをかけていくっていう
勇気はすごく僕は価値があると思います
確かに
なので自分の学習とか学びを中心に置きすぎると
この人だったら教えてくれるからみたいな感じで
いくと相手のメリットとか負担みたいなことを
考えないことにもなりがちかもしれないんで
その辺は前半部分とか情緒の話とかありましたけど
それもだから相手の歴史人生史とか知っとくと
こういうことに興味ある人なんだなとか
こういう形で接するのが好きなんだなみたいなこと
分かっておけば分かりやすくなると思いますし
だから患者さんと関わるのとも似ているというか
まあまあ広く言えば人間関係なので
それもこう何だろう
いろいろコミュニケーション取りながら
学んでいけるといいなと思います
そうですね
勇気を持ってアクションをかけましょう
このアドバンスセラピストもそうですけど
田代さんの話もSNSからですからね
そうですね
自分が完全にどっちか分からない
多分僕がコメントしたと思うんですよ
そうかもしれないですよ
でもそれでDM送ったりして
ですよね
こういったことによって起きることも
今の時代はそれがもしかしたら中心なのかもしれませんし
なんかよくわかんないけど
ちょっと連絡取ってみるっていうのが
安くなってる時代だからこそ
自分の学習を広げようと思うと
一つは勇気と大胆さ
自分を作っていけると思いますよ
このラジオのアドバイスなのかなと思っています
痛みからの学び
確かに
時にはそれで思ってみない反応が来て傷ついたりとか
うまく仮面かぶってやることで
うまくいくこともあると思うんで
それも学びだと思って勇気出して
傷つくことは学びだと思ってください
痛みは重要な教育者なので
痛みという教育者から自分の行動を学ぶ
それを一つのベースにしておくと
痛くてもしょうがないやと思えると思います
そうですね
その痛みも乗り越えた先に
より良い活動につながったりとか
自分のモデルにつながることもあると思うんで
気づきの効果になればいいなと思います
じゃあ今回はこの辺でありがとうございます
どうもありがとうございました