教育だとか学習だとかっていうものを少し歴史的にひも解いていくと、
特に教育学習の祖というか、近代における非常に重要な立ち位置にいる人っていうのが、
ルソーになる。ジャンジャックルソーという人が、エミールという本を書いて、
人間の発達みたいなのを、発達というと今の生きる発達ではなくて、人生における成長過程みたいなのをエミールで書いた。
そのエミールというのを一つの契機として、どうやら人間というのは教育を与える、あるいは学習をしなければいけない。
つまりそれはなぜかというと、人間が少しずつ長く生きるようになったからなんだ。
長く生きるということ自体は、生産性を上げていくこと自体が、一つのその人の生活を楽にするものである。
農家に生まれたら農家だったっていう人だったはずなのが、年化することによって商業に参加できる。
あるいは会社というものを持つことによって売上を上げていけるというような、生きることに対する多様性が生まれたわけです。
その多様性をうまく達成させようとすると、結局自分の子供たちというのにうまく教育を与えることによって、
それがより生産性が高くなるということになるわけですけども。
教育自体の、僕がすごく大好きな教育者にペスタロッチっていう人がいるんですけども、
ペスタロッチっていう人が、本当に子供たちっていうのに教育を与えなければならないという考えのもと、
スイスの方なんですけども、私学を作って、私学っていうのは私学ですよね。
非常に重要な教育というものを実践して、それを達成していく。
その結果、どうやら子供というのはちゃんとした教育を与えていくとうまく成長するんだ。
そしてその後にブルームとかですね、いろんな人が出てくる、デュイとかいろんな人が出てくるんですけども、
現代における教育の一つの立ち位置っていうのがプラグマティズムをベースとした考え方。
プラグマティズムっていうのが経験と実践をいかに与えるかということなんですけども、
現代の中ではそういった経験実践というのがすごく重要視されている。
教育自体がそういうふうな立ち位置になるとすると、学習もそうならなきゃいけないというところが一つの考え方。
それにさらに認知心理学みたいなのが乗ってきて、与えるものというプラス、
どういったらより良くなるかっていう学習者の理解というところで、
わかりやすく言うとパブロ風の犬と言われるような、古典的条件付けだとか、
あるいはスキナーにおけるレスポンデント条件付けって日本語で何て言うんだろう。
いわゆるスキナー僕、オペラント条件付けってやつです。
レスポンデント条件付けっていうのがパブロ風の方で、オペラント条件付けっていうのはスキナーの方で、
いわゆる行動と言われる。その後にピアジェとかが生まれて認知という話なんですけど、
認知行動療法というのが、ある種今の精神科における治療方法を取るわけですけども、
学習においてすごく重要なわけですよね。認知をする、そして行動をする。
つまり行動を変えることによって認知が変わる。認知が変わることによって行動が変わるという、
重要な関係性の中で学習というものを強化していくというのが、
20世紀における重要な考え方、そしてその21世紀でもそれが使われているよというものになりますので、
教育の流れ、学習の流れというのを今ちょっとベーシックに。
それをもって未来はどういくかというところに話が進んでいくということです。
なるほど。理学療法師として考えると、どう行動していった方がいいのかとか、
自分は行動していきたいのかみたいなことの考え方に合わせて、
学びみたいなこともデザインしていくといいのかなという感じですね。
そうですね。今のデザインというのがすごく学習において重要だと思うんですけども、
自分がどうなりたいのか。これはよく海外のアメリカの人たちなんかも常にその問いをしていくんですよね。
日本人はどうなりたいのっていう問いを答えるのもすごく苦手としている傾向に。
それは前回の話にもあったと思いますけど、顔色を伺うんですよね。
すごく人の顔色を伺うから、自分がこうなりたいからといって無理だよっていう。
どうなりたいのっていうのはあくまでも英語で言うとアンビシャスですよね。
やりかえると野望というふうに訳されたりとかするんですけども、
希望、ホープとアンビシャスのいい訳がないんですね。
希望と希望の間がないっていう感じがある。
だから野望というと、ホープ&アンビシャスというのがおそらくなりたい自分なんですよ。
そのなりたい自分って言われるものっていうのを教育の中でいかに作っていくか、
それに向けて学習していくかっていうのがすごく重要だと思うんですけど、
田代さんになりたい自分って言われたらどんなふうなことが答えます?
そうですね。自分はどっちかっていうと結構そういうのある方かなみたいな感じで思ってましたけど、
大学生の頃は日本代表に関わるスポーツトレーナーになりたいみたいなものが一つあったりとか、
大学院で研究してたときは研究者として体制するというか、
新しいアイデアを世の中に認められるものを作りたいみたいなものとか、
そこから独立して会社も作ってっていうと、
こういうウェルビングとかの領域で事業を作っていきたいとかもありますし、
短期的にはそれぞれコロコロ変わってますけど、
長期的には社会に役立つことをしたいというか、
より良い社会につながることをしたいみたいな感じはあるんで、
中期的とか短期的でいうとそんな感じですかね。
今日は今の田代さんの発想というのを、
どこの主義とかところに置くかというと、
結局啓蒙主義だとか進歩主義と言われるような発想になるという風に捉えられるんですね。
つまり自分の存在が社会に対して何かコミットができる。
コミットした結果社会がより良くなる。これが啓蒙主義なんですよね。
なので啓蒙主義の良さというのは、より良いものを見つけようとする。
啓蒙主義の悪さというのは、社会というのは常に発展していく。
つまり進歩主義に変わっていくわけですね。
進歩主義というのは、啓蒙主義も進歩主義も決して悪いものでないし、
今の社会における重要なOSではあるんですけれども、
その時に間違った方向に行くと事故が失われるってことなんですね。
主語が社会になっちゃうので。
僕自身というのはどちらかというと、実存主義。
つまり事故というものをいかに理解するか、事故というものをどういう風に見つめていくか。
社会の進歩だとか、社会における啓蒙というものをあまり重要視しない感じですね。
どうしても理学方法とか医療の考え方というのは、
啓蒙主義とか進歩主義というものが内在的にベースにあるんですよね。
つまり寿命は延びるとか、病気は治るとか、
病気というのは克服できるんだっていうような感じ方になってくるので、
復習というのもどうしてもそっちに影響され得るっていう。
ある種僕の正ですね、正しい意味の批判なんですよ。
この辺りってどうですか。
それって啓蒙主義ですねとか言われると。
いや、自分の20代から30代の今中盤ぐらいまでっていうと、
やっぱりより良くとか、発展していく形が強かったのはあるんですけど、
やっぱりその中で限界もいろいろ感じ始めていて、
その中で結構もう一回自己を見つめ直すとか、
堀先生とも関わりながらいろいろ本を読んだりっていうのもありますけど、
そういう一種の限界というかも感じてるからこそ、
ちょっと興味の方向性が変わってきたりしてるのもあるんで、
フェーズによる違いはあるのかなと思いましたね。
おそらく田代さんみたいにある種自己モニタリングができてる人たちの方が少なくて、
なんとなく意味もなくって言うとちょっとおかしいんですけれども、
あえて意味もなく啓蒙する、啓発するっていうこと自体を
絶対的な善として捉えてることが今の社会にあるんですよね。
ビジネス書とかっていうのは完全な啓蒙主義で、
会社が良くなるとか上がるとか、
自己を理解するっていうふうに捉えていくようなビジネス書ってあんま売れないんですよ。
やっぱりなんかすごい良くなる良くなるっていう、
なんていうのかな、well-beingなんですよ。
良く生きるっていうのの捉え方が良くなる。つまり、
一生一個一個積んでいくと必ず大きな山ができるっていうような考え方になるんですけども、
限界値っていうのはやっぱり重力が限界値であったりとか、
キャパの限界値っていうのがあって、どっかでそれは達成できないっていうものを
どっかでブラインドしちゃうんですよね。
で、必ず良くなる必ず良くなるっていうCPUのムーアの法則みたいに、
必ずCPUが早くなり続けるみたいな法則が、
どっかでふっと立ち止まった時に気づいた時に虚しくなってくる。
ここに実存主義っていうのが介入してくるんですよね。
要は私っていうものの意味だとか、自分自身ってのは何で存在するんだろうだとか、
こんな私は私、あるいは私というのは何っていうような問いが、
その両方で多分走らなきゃいけないんですよね。
だからそれをいきなり理学療法士に実存主義を教えると、
何クソってなるかといって、そういった啓蒙主義だけで走っていくと、
どっかで何かにぶち当たってすごく辛くなってくる。
なのでその両方をどのタイミングで教育し、かつ学習していくのかっていうのが、
これから自分が理学療法士としてのみならず、
人として生きていくというのも重要な学びなのかなというふうには常に僕は思っているんですよね。
確かに。
なんで理学療法士ってなってもいろんな道の読み方があると思いますし、
結構臨床一筋でやるみたいなこともあれば、
その研究者とか教育側にもあるとか、自分みたいに独立政治をやるとかありますけど、
どういう方向にいても結構さっきみたいな啓蒙主義というか、
社会問題を解決するとかそっちにやっぱり目を向きやすいと思いますし、
でもどこか行ってもどこかでぶち当たるのはあると思うんで、
そのタイミングで自己見つめ直して、
それでまた新しい道を作っていくというか、
そういうのができる人が増えるといいのかなと思いましたね。
なので広く捉えていくと客観と主観、つまりソープ、
カルテの書き方におけるソープのサブジェクトとオブジェクトというのがあるわけですね。
サブジェクトとオブジェクトという考え方は正しいけれども、
どちらかというとサブジェクトとオブジェクトというのは時間帯というのが短いんです。
つまり今の話をしてるんですよね。
そうではなくて人を見るときっていうのは過去と未来というの連続性があって、
それを人生史、いわゆる人の歴史とかというふうに捉えていくんですけども、
どうしても病気を見るときには明らかにサブジェクトとオブジェクトというのを重要視しなければいけないけれども、
人を見るときっていうのはそれの今度は時間性を重視しなければいけない。
その人が未来でどういうふうになりたいのか、あるいは過去のことをやってきたのかっていうところ。
この3視点というものをいかに見ていくかっていうのが僕自身の答えなんですね。
人を見ようとする職業である理学療法は必ず人生史を見なさいということです。
ただ間違って、これは間違ってるというと大きな非難になってくるけど、
大学の教員だとか養成校の教員っていうのは、
その瞬間瞬間だけを捉える人たちって結構多いんですよ。
どうしたいの?みたいな。どうしたいの?っていうものの幅が狭いんですよね。
それがある種の啓蒙主義的なものが強くなったら、
理学療法士にならなきゃいけない。
だったらその行為っていうのは間違いだっていうふうに捉えていく人たちが多いんですよね。
例えばその実習中にすごくやる気をなくして、
もう勉強したくないですって言った時に、
いい理学療法士になりたくないの?みたいな指導をしてしまうと、
学生が捉えている人生史を否定してしまうことになるんですよね。
そうじゃなくて、なんでそういう風になってるかっていうのをやっぱりじっくり聞いていって、
学生が落ち込んでいる状態というものをいかにどういうふうに捉えるのかっていうのは、
本来は重要だと思います。
そうですね。そういう意味で自分の場合、
学生の時代っていうのは結構学び多かったかなと思ってるんですけど、
大学都州史と博史といって、
それも全部同じ研究室で先生に関わってやったって感じなんで、
多分最初に言ってることと途中とか最後に言ってること、
変わってると思いますけど、
根本的にこいつはこういうことをしたいんだろうなみたいなことを、
なんとなく分かってもらってた部分もあるから、
それも変化も受け入れながら関わり続けてもらったのかなみたいなことは思うんで、
そういう自分の人生史みたいなことを自分で見つめるのも大事ですし、
近くで見てもらいながら伴奏してくれる人がいるみたいな、
両方あるといいのかなと思いましたね。
今のところがすごくいい、
田代さんはいい指導者に出会えたんだ。
つまりこの伴奏型指導者だとか、
あるいはボスというか支持的な指導者とか、
いろいろな指導者タイプがいると思います。
伴奏してもらうことが最近は好まれるなという傾向にはあります。
数が多ければ伴奏って難しいわけですけども、
数が少なかったら伴奏してもらえる。
ただ伴奏してもらえると、ある種の包み込まれてしまうので、
伴奏と言いつつも、実は包み込んでいこうとする人たちもいるので、
いわゆるアドバイスをする。
選択するのはあなたですよと言っておきながら、
これを選択せよというふうな、
暗黙の指示みたいなのがどうしても出てくる。
逆に、自由に伴奏するがゆえに自由な選択を与えるがゆえに、
自由度が高くなって選択できない人たちでも出てくるので、
このあたりはどういうふうに教育、あるいは授業を流すというのは、
すごく難しいのは難しいんですけども、
教育者側が自分が伴奏型なのか、
学生側が伴奏型を求めているのか、
というのを最初にちゃんと評価できていると、
すごく指導ができると思うんですね。
そしてその指導というものを学習というのは両方セットですし、
学習者が教育側になったときに、
それができたらすごく良い受け渡し。
映画でそのペイフォワードという映画があるんですけど、
1人が良いことをしてもらったら3つ返せと、
そうすると必ず世界は平和になるというような論理で、
それを実践していくという映画なんですけど、
そのペイフォワード、つまり何かを誰かに提供しようとするときに、
自分にとってそれがより良いものである、
というものを実験しておくのがすごく重要だと思うんですよね。
そうですね。さっきの伴奏でいくと、
学ぶ側の自分からすると、やっぱりボスというか先生なんで、
言われたことをやるみたいなフェーズもあったんですけど、
なんとなくしゅはり的な、守るとこは守るけど、
嫌なことは嫌って言って、
逆に結構今はもう完全に離れているような感じもありますし、
自分がやりたいこととか明確にしていたりとか、
関係性みたいなのをうまく作れるといいのかな、
みたいなことを改めてちょっと思いましたね。
なので今どちらかというと、理学療法の教育全体を通して、
しゅはりをさせるためにはPBLなんかをすごく重要視されているわけですね。
PBLっていうのはプログラムベースドといったり、
プログラムベースドといったりしますけども、
一番はプログラム、つまり問題解決型能力をつけましょう。
その問題解決型能力っていうのは、
前回のところの痛みに近いわけですね。
問題に携わらせて、成功なり失敗なりさせて、
自分で考えていって自己解決。
自己解決っていうのはやっぱり痛いんですよ。
なのでそういった状態を作っていくっていう、
教育方針というのはすごくよく取られたりしますし、
そのためにOSCEだとかを使われるわけですね。
OSCEって日本語なんだっけ、客観的臨床能力試験かな。
そういったものを最近はよく使われると。
ただEBLもOSCEも形状のちゃんと理論背景だとか、
どういうふうに作られたかっていうのを理解してやらずに、
僕の感じだと上手くいっているケースと上手くいっていないケース
っていうのが結構散見されます。
実際にいろいろな教育方法っていうのが最近あって、
反転授業だとかアクティブラーニングっていう風に
言われるわけですけど、学習というのを並走させるための方法が
アクティブラーニング。
つまり学習者がいかに自分から学習するかっていうのを
非常に良しとされているんですね。
ただそれは自由に走っていいが故に、
例えば理学療法の教育っていうのは101単位のカリキュラムっていうのがあって、
それをクリアさせなきゃいけないわけですね。
そうなってくるとどうしてもスクール型の学習がやりやすいという風に
言ったりするので、例えば哲学の教育においてはおそらく
アクティブラーニングっていうのがめちゃめちゃ効果的なんだけども、
両方の教育の中でどこまでがアクティブラーニングが有効なのかっていうのは
結構難しいんですよね。
なので学習者が自己意思を持って、できれば正当的に
ちゃんと周辺に参加してもらえるっていう場の作り方っていうのが結構難しいよね。
なかなか学生の時代とか若いうちに自分の強い意思というか
こうなりたいんだっていうのを持ちながら学習に参加するみたいなのは
なかなか多くの人に求めると難しいかも。
理想はそういう方がいいかもしれないですけど、
でも徐々にはそういう意欲的に生きる人が増えるといいなと思います。
特に田代さんの先ほどのケースで言うと
メンタリングと言われるか、メンターですね。
つまり自動車に出会えるとうまくいくっていう
メンターの出会いっていうのはこれ運の要素がすごく強いんだけれども、
より良いメンターをたくさん作っていくっていうのは
学習者でいうかある種のスーパーバイザーと言われるような
自動車っていうのももちろんそうですし、
エビノ先生もそうなんですけど、運要素が強い。
メンターガチャみたいのがあるってことですね。
確かに、そうですね。
そういう意味だとさっき折先生言われてた
実論的なことを学ぶきっかけもあるといいよねみたいなところっていうのは
メンター側がもちろんより良くとか啓蒙的に社会のことを見ることも教えられつつ
どっかのタイミングでぶち当たりそうだなってなったタイミングで
そういうのも教えられるみたいな
両方関われるようなメンターみたいのが増えておくといいのかな
みたいな感じはあるんですかね。
多くのメンターって自分が受けたメンタリングというか
自分が受けた教育でより良いと思っているものを
他の人に提供するんですよね。
だから当たれば当たるんだけれどもっていうところで
その教育学をちゃんとやっていくと
いろいろな手数を学べますので
やっぱり教育者っていう理学療法大学の場合って
教育者ではなくて正確には研究者だよね。
だから研究者がいかに教育を興味を持って学ぶかっていうのは
実はすごく重要だなというふうに思って
理学療法の臨床において
メンターだったりあるいはプラットフォームだと言われる人たちが
教育をいかに学んでいるかっていうのは
実は重要なことであるが
そんな暇がないっていうのが言われる。
なるほどですね。
結構そこは今後解決しないといけないところかなと思いますし
自分の場合だと独立して働いているのもあるので
理学療法士とかセラピスト系で独立して働きたいっていう人から
相談を受けたりすると
ちょっとメンター的に関わったりすることもありますけど
そこでもちょっと今回の話は生かしたいなと思いました。
学習者にとってとっても重要な努力って
自分にとって適切なメンターに出会えるまで学習するってことだと思います。
なるほど。
だからコーチだとかカウンターだとか全部なんですけども
会う人、例えばもっと言うと美容師とかっていうことかもしれませんけど
すごく心地がいい、自分と合う人に出会うまで頑張る。
だからどこまで頑張ればいいんだって言われたら