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こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
教育と学習の理解
Advanced Therapistのエピソード8本目ということで、前回は教育に関するような話というので、学校の教育とかその周りのこともいろいろ話していたんですけど、今回は学習という感じで、前回は教育を与える側というかその仕組みとかの話だったんですけど、もうちょっと学ぶ側に立ってちょっと話していけたらなと思っています。
教育、そして学習となった時にどちらかというと多くの人が教育の方に目が行きがちというか、より良い教育だとか教育を受けるという受動的な立ち位置というイメージするであろうと。
だけども、実際に教育を受けている人は何をしているかというと学習をしているわけですよね。なので、内的なものと外的なものというふうな、あえて二分法で捉えたときに、外的な教育と内的な学習というものを両方すり合わせなきゃいけませんよね、という形の中で学習というものをちょっと話しましょうとなっています。
田代さんは、学習と言われたときにどんなイメージあるいはご自身はどんな学習をしてきた感じですか。
そうですね。なので、どこから起点に話すかというのにもよりますけど、やっぱり学校の授業とかで考えると、やっぱり外的にテストとか基準がある中で学んでいった過程も一つの学習かなと思いますし、あとはスポーツとか外部の活動の中で学んでいったものもあるかなと思いますし、
最近で言えば、独立して働いてたりすると、いろんな人と関わる中で、人の考え方とか、社会の環境とか学ぶこともあるかなと思いますし、
なので、内的な好奇心に基づいて動いている部分と、外的なハードルを超えるために学んでいるところと両方あるかなと思うので、人生の前半はそういうハードルに基づいてやることが多くて、最近は結構自分の好奇心とかに基づいて動いているところが多いのかなみたいな感じが何となくありますかね。
学習という前半を捉えたときに、自分がどういう風な成長をしたいかとか、自分がどうなりたいかとかっていうのにすごく影響されると思うんですよ。
ただ、自分がどうなりたいかって考えたときに、明日どうなりたいかよりも、例えば5年後とか10年後とか、時代であれば就職であるとか、あるいは受験だとかっていう、ある種の具体的な目標というのが立つと思うんですよね。
ただ、学校出てしまって社会に出ていくと、具体的な目標っていうのがものすごく表面的なところでいうと、富、名声みたいなですね。ゴールドロジャーみたいな。
実際に富と名声っていうのはどちらかというと、後からついてくるというか、学習の成果としての評価点としてはちょっと扱いづらいところだと思うんですよね。
じゃあ、学習をうまくいったっていう評価点というか、自分の中で評価しようとしたときに、何をもって学習ってうまくいったって捉えれそうですか。
そうですね。どうなんですかね。面白く感じてるのかとか、好奇心を刺激されて、また次の問いが生まれてきてるかとか、知的探求を続けれる流れになってるかどうかみたいな、結構主観的なところなのかなって感じはしましたかね。
それが多分内的な部分の正しさで、学習という部分と、例えばこれが理学療法の視点になったときには、発達とかがそれに近い部分だと思うんですね。
商人の発達っていうのを考えたときに、一緒に周辺を認識し始めて、その周辺に対して好奇心という表現がいいのかわかりませんけども、これを触ろうということから、はいはいをしていったりとかですね。
商人の時っていうのは、それに意味を確実に持っていないが、取って口の中に入れたりだとかするわけじゃないですか。あれがその学習の第一歩だよねっていう。
ピアージュとかそういう考え方も。
逆に商人麻痺とか、商人の問題というのは、そこに気付かない子たちっていうのが、身体的な発達も遅れるというふうに考えられるわけですよね。
確かに興味を持つ外的なものを認知して、外的なものが何であるかという確認しようとする作業というのが、おそらく根本的な学習における考え方になるわけですよね。
このあたりで好奇心、あるいは最近ご自身の中で好奇心を持って学習したこととか。
そうですね。雑談がてら話している時も、自分はもともと人文系の知見を学ぶのがあまり得意じゃないというか、ちょっと苦手引きを感じていて。
どっちかというと理系的な、数学とか物理とか、結構客観的な答えが出るものを理解する方が面白みを感じていたのがあるんですけど。
今、社会の中で生きていくと、それだけじゃなかなか答えが出ないものがたくさんあるとなると、結構そういう人文系の知見を学んでいった方が、新しいことも学べるし、好奇心が出ているという感じは、自分個人の事例としてはありますね。
確かに今、田次郎さんが、理科系と文系という分け方はすごく大雑把な分け方になるんですけども、数的な事象、つまりはっきりとした客観性があると考えられるものと、客観性はなく、どちらかというと内的な自分の感覚にすごく判断が影響されるようなものというのがあったときに、
おそらく文系というのは、自分の感覚とか身体性だとか、そういったものに影響されると。
でも、田次郎さんがもともとそうではなく、客観値、そしてそれが誰かとも共有ができて、共有した後に間違わないものの理科系の思想、考え方というのがあったと思うんですけど、おそらく確かに多くの人が知りたいというのは、むしろ理科系のものであるというのは、僕も事実だと思うんですね。
ただ、何かしらの違和感が出たときに、理科系の発想で解決できない。それで文科系、いわゆる自分という視点に芽生えたときに、自分をどういうふうに理解していくのか。僕自身の学習の根本は全部そこなんですね。
自分を知るために学習をするっていう、だからそれが文系だよって言われたら文系なんですけど。今、田次郎さんはターンとしては、どちらかというとそっち側の方にシフトというか、時間の使い方としてはそっちの方に重きを置いてるということですよね。
そうですね。でもやっぱりその辺も、理科系的な客観的な真実みたいなものを追求したい欲が多分あるんで、いろいろ歴史とか社会とかある中でも、やっぱり哲学みたいな、何かの問いに対してある程度信頼できるというか、正しさが高そうな答えが見つかりそうなところに興味持ちがちですけど、でもそれから派生していろいろ興味は深まってる感じですかね。
そうすると今、我々哲学をやる人間たちからすると、最近そこまで語られることはなくなったんですけども、もともと哲学が目指していたものは普遍性という考え方。それは英語でいうとユニバーサルというふうになるわけですけども、どんな状況であったとしても変わり得ないであろうというもの。
逆に科学というのは、反証されること自体が一つの価値なわけですよね。なのでそこに寄り合わされないものはあるんですけども、実際に哲学が100%の普遍性を作れるかはなかなか難しい。
ただその歴史を越えて時代を越えても、人間自身が求めてきている何かという、それが例えば生物学的な結論だとか遺伝学的な結論というのに至るのかもしれませんけども、哲学がそういうものを使わずに考えているもの、その普遍性というものを知っていこうとする。
その中で自分自身が何かしらの変化を得られる。これが僕自身の広い指での学習なんですよね。ただ、良き理学療法士になろうとか、会社を成功させようとかってなってくると、学習というのがだいぶ変わってくると思うんですけども、
例えば田代さんが良き理学療法士、良き理学療法士の定義をちょっと一旦置いておいて、一般的に理学療法がうまくいくみたいに考えたときに、どんな学習というものが思い浮かびますか。
そうですね。今一緒に進めさせてもらって、推論の考え方とかにも当てはまるかなと思いますけど、やっぱり課題があったときにこれに対する答えを導き出す推論の流れ、論理的な思考の流れというのを考えるためには多分科学的な知見を学ぶというのも必要だと思いますし、
理学療法士としてもし活動するとしたら、目の前にいる人に関わるわけなんで、もうちょっと精神分析的なところとか心理学みたいなところとか学ぶ必要もあるかなと思うので、論理の部分と精神とか感性的な部分、両方を学んでおくのが大事なのかなみたいなことは思ったりしますかね。
100点の答えですって言うと僕偉そうですけど、多くの理学療法士がそういう風な知見を持っていただけると、おそらく目の前にいる患者さんであるだとか、チームアプローチだとか、そういうのはうまくいくと思うんですよね。
とはいえ、バランスということを考えると、あまりにも文化系というかナラティブに関するものをやりすぎると、そっちにドハマりしますし、あといって今度は患者さんというものはすべて極端に言うと脳の神経のオンオフですべて形取られているので、これさえ勉強すればいいという風に行き過ぎてもやっぱりダメなんですね。
バランスになってくると思うんですけども、そのバランスの取り方って結構年数によったりだとか、扱ってきてる分野によって影響されるんですよね。僕なんかやっぱり運動期の期間が長いので命にあんまり関わらなかったりだとか、生活への影響が麻痺とかに比べると少ないんですよね。
ただすごい違和感があるとか、すごく困っているけどどうにかして、つまりどうにかなりそうなことを扱ってきてるんですよ。麻痺とか心臓とかもそうですけども、どうにかならなそうなところを扱う人では、たとえばナラティブというものの一つの視点と考えたときに、運動期よりも脳卒中系の人たちとかの方が、今ある現実の受け入れ方というものに考えるというような、
ナラティブ要素というのはどうしても考えざるを得なかったりする。そのあたりって、若かりし頃にはそんなに考えられない。つまり、自分というものがある程度明確になっておかないと、人って追体験。
つまり、いろんなことのように考えることができるようになって、相手のことを考えたりできるようになるので、やっぱり年齢が増してこないとダメだ。昔から言われているんですよね。
そのあたりって、結論は年を取ればいいのかというと、そうではない。年を取ることによって得られるものがある。じゃあ、年を取らなくてもどうやったらいいかというと、小説を読むということだと思う。
西野さん、このあたりってどんなふうに考えますか。
そうですね。なんで自分も理学旅行士の資格を取って、スポーツトレーナー的な活動をしているっていうと、若いうちはスポーツ選手の気持ちは結構わかるとか、腰痛の研究とかもしてましたけど、腰痛もある程度若い年代、20代、30代、40代ぐらいのほうが、まだ自分の感覚としてもわかるから関わりやすいっていうのはあって。
20代のところだと、高齢者に関わるとか、逆に子供に関わるとかっていうのは、どっぷりはまりきれないなみたいな、なんとなく思ったりしてて。子供に関わるとやっぱり親の気持ちっていうのもわかんないといけないなとかもなんとなく思ってましたし、高齢者って言っても、まだ若いうちだと年重ねっていくうちに機能が落ちていく感じというか、そういう感覚もなかなかわからないと思います。
なかなかわからないと思ったんで、その辺が徐々に年取ってくると本当に本質みたいなのがわかってくるかもしれないですけど、徐々にそういう人にも関わりやすくなってきましたけど、若いうちは若いスポーツ選手とか中年ぐらいまでにしてたな、みたいなのはなんとなく思いますね。
正当的周辺参加論の重要性
まさに今の一連の田代さんの話というのは、学習だとか物事の理解をする上での正しいプロセス。その正しいプロセスっていうのはどういうことかというと、1991年にレイムとウィンガーっていう人が、
正当的周辺参加論っていう考え方を、教育の世界なのかな、認知心理学の世界なのかな、僕らは教育の中で学んだんですけど、そういう考え方を出すんですね。
正当的周辺参加論っていうのは、知識っていうのは頭の中ではなくて、社会のやりとりの中で学んでいくもんなんだよと。
社会の中にいかに正当的に参加していくのかというのが、つまり正当的っていうのは、例えば昔の寿司屋さんっていうのは、炊き方3年、切り方3年かな。
実際にお寿司を握らせてもらうまでに、それこそ10年近い年数がかかるなと。そこから実際にカウンターに立つのに25ぐらいまでかかるみたいな。
すごく時間がかかって、いわゆる到底制度なんですけども、到底制度の中で何をやってるかというと、現場で学ぶっていうことをやってる。
その現場で学ぶという考え方と、料理学校っていうのが出てきて、料理のいろいろな1から10まで、ある種科学的に客観的に教えていく中で、
より良い寿司屋にどっちが先になるかっていうところは、これは両方やらないとダメだっていうことになってるわけですね。
昔は両方やってもダメだって言われてたわけですよ。単に到底性が良かったと。学校ができて、いわゆる認知的なレベル、学習のレベルさえ上げればどうにかなる。
でもこれ両方うまくいかない。結局うまくいってる人たちはどんなことやってんのっていうところで、正当的に周辺に参加できてる人たちがうまくいってるっていう風に
考えられているんですよね。その理論ができてきて、確かに一人ではうまくいかない。周辺でいい教えてくれる人がいけば学習ってうまくいく。
つまり教育と学習というもののインタラクティブ、インタラクション、いわゆる関係性ですね。関係性の重要性というものが、日本でいうと平成に入ってぐらいから言われ始めたという。
今だとすごく当たり前のような考え方だけど、実は当たり前ではなかったというのが、この正当的周辺参加論で、日本の思考というのは非常に正当的に醸成されてると思うんですね。
それよりも前の僕らが教育を受けてきた時代っていうのは、もちろんよく言うと理論化されたのはその時かもしれなくて、前からやられてたかもしれないけれども、いわゆる鉄拳制裁の時代ですよね。
間違ったら殴られる。間違ったら怒られる。間違ったら排除される。なので正解というものをめちゃくちゃ求めるんですね。
その求める正解というのはどちらかというと、身体的な問題だとか、精神的な問題が非常に著しく起きるので、絶対失敗しないようなやり方というのが必要だと。
それが現代においては確かに学生って失敗をとても嫌うんですよね。これは目の前にある丸と×が明確だから、丸を選択できるようなトレーニングをするんですよ。
僕らの時代の失敗というのはその人の起源なんですよね。なので、いわゆる周りを見て周りを判断してるわけですよ。
なので、なかなか正解と言われる考え方というのが実は時代によって変わってきてるっていうのがあります。
なるほどですね。今はそれが両方ミックスされてきてるみたいな感じなんですかね。
ミックスされているんですけども、起源というものがかなりブラインドされてるんですよ。
情緒面の理解
起源を悪くするっていうのはハラスメントだとかって言われる時代になってきている。
だけど人間ってそんなに急激に成長できる生き物ではない。
結局その空気を読むっていう言い方だと思いますけど、空気が読めてない人たちっていうのは実はうまくなじめてないという現実はあります。
どういう意味だとなんでしょう。自分もあんまり人の起源とかに左右されない形で学んでいきたかったっていうのは多分過去にはあるんで。
多分スポーツでも結局数字で結果が誰によっても、チームスポーツだとコーチの判断で選ばれる選ばれるあるとかありますけど。
なんかそこで最初はそういう人によらないところを求めた感じはありますけど、最近は全部がそういうわけにもいかないよねと思ってるんで。
多分そういう歴史とか人の心とかに興味持ってきてる感じなんですけど。
もちろん逆パターンもあるというか、さっきの起源が学校で評価に結構影響するってことは先にそっちを学んでる人が過去は多かったっていう感じなんですね。
いわゆる相手の表情とか、相手がこうしたら怒るだろうかみたいなのを家庭の中でももちろんでしょうし、学校の中でもそうです。
それが友人関係の中でもそうなんですけど、非常に感覚的なもの。
今、ちゃんと分析すれば量的な評価とかできるかもしれないし、瞬間瞬間に判断しなければいけないというのがあるわけですよね。
そういうのに鍛えられてる人っていうのは、ある種君子危うきに近寄らず的になるんですよ。
だから僕らはよく嗅覚って言いますけど、例えばこれがちょっと話が少しずれるかもしれませんが、海外に旅行行った時とかに、危険な地域に行かなくなるんですよね。
変というのが何かを分かっているっていう。それは雰囲気もそうですし、人々の表情もそうですし、結局この人たちが何か悪いことを考えてるとかっていうのを契機してるんですね。
同時に自分もその中に周辺として参加してた人間なので、自分もこういう場面だったらこういう行動に至るなっていう予測ができるわけです。
なのですごい危険回避能力が高くなるんですよね。
今のそうじゃない、例えばYouTuberとかが平気で怖いところに行っちゃったり、それによって評価が取れてるんですけど、
危険っていうものに対する考え方がね、やっぱり学習してきたものが違うと、危険に関する感覚は多分違うと思います。
なるほどですね。それで理学療法士のさっきの学習のところで、論理的な思考だったり、人の気持ちを理解するとか、療法必要だよねっていう感じで考えると、
例えば多分患者さんによっては、こういう言い方すると傷つきやすいとか、嫌に思うだろうなみたいなことを言わないようにするとか、違う言い方するみたいなところは、
そういう情緒面の理解、学んでた方がやりやすいかもしれないですし、逆に今だと結構そういう○×評価とか、論理的な思考の方を学ぶ方が得意な人は、
そういう思考は回るけど、コミュニケーション面でちょっとギンクみたいなことを言ってしまったりとか、そういうトラブルも起きやすいみたいな、そういう特徴が出やすいって感じですかね。
本当にまさにそうで、実際今臨床現場において、必ずしも若手とは言い切れないんですけども、周りから相談を受けるのは若手の指導とかっていうところで相談を受けるから、
若手というふうに頭は言っちゃうんですけど、実際は若手だけではなく、今のような危険回避能力だとか、情緒面の部分の感覚的な理解とかっていうものを、
おろそかにしてきた世代、おろそかにさせられてきた世代ですね。っていうものが、人たちっていうのが、かなりやっぱり臨床がしんどいっていうんですよね。
臨床は楽しいものって思いきや、臨床がしんどいってなってくるっていうのが、一つはその丸抜で判断できない。
つまり人の表情だとか、人間関係、それは同僚ともそうですし、やっぱりね、うまくいかないんですよ。
それがその小中高の台の中で、どちらかというと今学生だったらお客様扱いなんですよね。
お客様扱いっていう部分と厳しく扱われる部分というものの、その間っていうのがあんまり表現できていない。
今、教育はそれがうまくできていないんですよね。
なるほど。
物理的に育てりゃいいってもんではないっていうところが一つあるのと、社会に出た瞬間に、教育ってすごく色がはっきりしてるんですね。
大学のカラーだとか、高校のカラーだとか、だけど現場に行くとそのカラーっていうのが混じっちゃって、カラーだけでは生きていけない。
これを経験していない人たちっていうのは、うまくそこに参加できないっていう状況です。
だからこの正当的に周辺参加論っていうところから言ったときに、参加が最初の参加がうまくいかないんですよ。
その参加が失敗すると正当的に周辺に入れないので、それをやるための情緒的な部分っていうものの理解、あるいはそれをいかに学習していくのかというのが実は学習における根本の考え方になるんですね。
仮面と適応能力
なるほど。
単に英単語を覚えてるとか、数学の公式を知っているっていうのが学習ではないっていうことです。
なるほど。なんかその情緒面とか結構鍵になりそうだなっていう気がして。
結構その情緒面の理解が臨床現場では重要だからトラブルが起きてる人もいて、
じゃあそっちやっぱ苦手だから研究とか教育とかもうちょっと論理的思考を求められそうなところに行こうって思う人ももしかしたらいるかもしれないですけど、
結局そっちでも多分情緒面の理解必要だろうから。
どこに行ってもやっぱり両方必要だよねっていう感じですよ。
本当に人と生きていく間の、人の間と書いて人間というわけです。
その間の部分の理解とか間の部分の経験ってすごくその学習効果を発揮しやすい。
だから多くの人と携わるということでその理解をしていく。
それがちょっと違うところで言うと小説だとか映画だとか漫画とかいいんですけど、
人の考えに多く触れなければいけないことだと思うんですね。
これは別に心理学的な理解でもいいですし、哲学的な理解でもいいと思うんですけども、
自分と人の違い、そして自分と人との同じな部分っていうものをどれぐらい理解しておくのかっていうのはとっても重要だと思うんですよ。
そこが理解できて正しい意味での学習効果が発揮されると思います。
そうですね。自分はそういう小説とかあんまりちょっと苦手意識感じて読んでこなかったタイプなんですけど、
それは何でしょうね、人の気持ちに興味なかったとかではなくて、目の前にいる人の話を聞いたりとか、
そこで結構手一杯だったというかっていう感じがあって、
最近は結構関わる人間関係が気心知れた人とか、
慣れてきたからこそもっと違う人の考え方触れたいなみたいな感じで興味持ってきたっていうところだと思うんで、
子供のうちから考えたときに人の情緒面とか気持ちを理解する中でも、
直接人関わる形と小説とかに触れる形といろいろ方法はあるかなと思うので、
そういう参観みたいなことを考えたときにどういうふうに関わっていくと良かったりするんですかね。
実際にもうちょっと今度は論理的な世界に入っていくと、
今文部科学省なんかは、前回も話したのかもしれませんけど、
生きる力とかを重要視していると。
論理性だとか想像性だとか批判性だとかっていうのを重要視している。
それを文化の時代とかっていうのも言われるんですけども、
世の中の進み方っていうのがどうも早すぎて理解できないぞ。
世の中の進みイコール人の考えではないんですよね。
世の中だけが進んでいって人が焦り始めて、
人はそんなに成長していない。
だけども成長している人もいれば成長していない人もいる。
つまりそれは適応ですね。
アップデートできている人たちとそうじゃない人たちがいて、
自分がどちら側になろうとしているのか。
自分周りにそういう適応していない人、適応している人たちがいたときに、
どういうふうにその人と適応するかです。
カメレオンパーソナリティとかと言われたりもしますし、
ペルソナっていう表現もしますけども、
状況において仮面を付け替えれるかどうかっていう能力がすごく、
つまりそのためにはメタ認知がいるんですよね。
事故があった上で、付け替えれる仮面の多さを持っているのか。
これは仮面に支配されてはいけないわけですよ。
あくまでも自分はこの仮面を付けているっていう、
メタ認知できたところがすごく重要。
それを生きる力とも言えるということです。
なるほど。
うちだと今子供がもうすぐ2歳と6歳っていう感じですけど、
その子供を見ると全く仮面とかもまだあんまりないというか、
自分をずっとさらけ出している感じがするんですけど、
小学校中学校とかになってくると、
友達関係とか先生とかの中でも使い分けたり、
社会の中でも使い分けたりというので、
徐々にそういう仮面の突き発しみたいなことを学んでいくっていう感じですかね。
いいですね。仮面って、
これはあくまでも僕の考え方が後に説明するのは中心になってきますけど、
どういったら仮面ってできてくるというふうに、
これちょっとすみません大雑把な質問になってくるんですけど、
どんなことを経験すると仮面ができるというふうに思いますか。
どうなんですかね。何かしらの賞罰とかインセンティブみたいなとか、
この人にこうするとこういう反応が来るぞみたいなのがわかってきて、
自分にとっていい方法がだんだんわかってくるみたいな感じですかね。
素晴らしいですね。ほぼ正解です。僕の考えと。
僕はその中で賞罰の罰の方なんですよ。
これは僕は痛みを研究してきたからというふうにあるんですけども、
痛みの最大の機能というのは、
よく身体が痛んだら逃避して、
例えばその夜間を触ったら夜間から手を離すというのが痛みの作用だというふうに
捉える人たちがいるんですけども、僕の解釈ではそうではなくて、
もう二度と夜間を触らないという学習効果が痛みの最大の効果だというふうに考えるんですね。
つまり嫌なことだとかをあえて脳に嫌だと認知させるっていう考えがすごく重要なんです。
だから嫌なことをしない、つまり自分を喜ばせるんじゃなくて、
自分を苦しめないようにするというのが、
社会あるいは世界で生きていく上でものすごく重要な能力なんですよ。
嫌なことをしないためにはどこかで我慢しなきゃいけないとか、
嫌なことをしないためにはそこに近づかないだとか、
さっきの危機管理能力というか、こういう場所に行かないとかっていうのは、
それは痛み、広い意味での痛みですね。
不快感、いわゆるサバリングというものをいかに経験しているかで仮面が作れるということです。
なるほどですね。
それで逆に強みみたいなこともわかってくると思いますし、
学習の重要性と実践
それで自分らしさみたいなことが徐々にわかってくるのも学習の流れみたいな感じですかね。
そうなんです。なのでいかに適切な学習をするかといったときに、
先ほどの署罰というところでいうと、もちろん良しという判断も絶対必要なんですけども、
同時にあしという判断をいかにできるかというのが学習においての重要なところなんですね。
そうしても学習というと非常に努力量みたいな感じがあるんですけど、
学習というのは必ず実践をしていくアウトカットっていうのが出てくるんですけど、
その実践のところで良し、あしというものをトライというか、
ちょっと話があれですけど、教育の中では授業、演習、実践、
講義、演習、実習というのがあるんですけども、
学んだことを自分で鍛えて、そしてそれを実践しなきゃいけない。
レクチャー、エクササイズ、プラクティシーズなんですけども、
このプラクティシーズの部分というのをどれだけそこに行き着けるかというのが学習で重要なところなんですよね。
単にエクササイズだけで終わっているのではなくて、
いかに実践に持ち込んでいけるか、それで学習の強化というのは行われるので、
だから理学療法士としてすごく重要になってくるのは、
学んだものをいかに実践に消化させるかというところの流れを作るか、
そして教育というのはその場面をいかに準備できるかなんですよね。
なるほど。なかなかそれが学校の先生からすると、
実践までやれる部分とやりきれない部分があるだろうから、
そこのどれだけ学習できるかというのは結構本人にも委ねられているところはあるよね。
理学療法とか医療職というのは、例えば経済学部だとか理学部とかに比べると、
実践というものがあらかじめ準備されているわけですね。
なので教育としてはやりやすいんです。
ただこれが一つの線路に乗りすぎちゃっていて、
ここまでもレクチャー、エクササイズ、プラクティシーズというのを
理解している人たちがすごく少ないんですね。
なのでそのプラクティシーズを通して、実習実践を通したときに、
何をベネフィット、恩恵として得られるのかというものを理解して
教育をしなければいけないということなんですよ。
実習で点数を取るためだとか、実習を合格するためというのは、
広く言えば正しいんだけれども、その合格だとか得られるものを
ちゃんと理解しておかないと、学生もそこを理解して進んでいくわけなので、
なので学習というものは実践を通して得られるもの、
それをいかにエクササイズとして自分が身につけていくことで
得られるものが何なのかというのを理解しなければいけないという、
この流れが教育と学習のリンクなんですよ。
学習の感情的要素
なるほどですね。ちょっと戻るかもしれないですけど、
学習するときにそのペルソナの付け外しとか付け方などに
結構×が大きな要素があるんじゃないかというところで、
×にも自分の中で勝手にこれ苦手だなとか嫌いだなって思うこともあれば、
外からの×で怒られるとか評定が悪いとかあるかもしれないですけど、
情緒面もし学ぶとしたらどっちの要素が強いとかそういうのってあるんですかね。
基本的には誰かに怒られているっていうのはものすごく人には影響する。
特に小中の時に強く怒られたりだとかすると、
そこに進むための勇気っていうのは出てこないですよね。
そういうのがなくて、逆に失敗が少なくてうまくいってるケースの人たちに
いいと思うんですよ。国語算数理科社会に関してはですね。
その中で好きなものを伸ばしていくっていうこともあれば、
どうしてもテストっていうのは全部の点数を上げなきゃいけないので、
苦手を多く時間をかけたりしなきゃいけないってことになるわけですけど、
多くの場合、僕数学が苦手なんですけども、
数学が苦手なんじゃないと思うんですよ。
数学にもいくつのかのカテゴリーがあって、
その中でも例えば記科と言われる図形系のものが苦手な人がいれば、
代数と言われる計算系の人が苦手なものがある。
僕は明らかに代数が苦手なんですよ。
だから代数を理解させてくれる、代数をより楽しいと感じさせてくれるような
教育をしてもらえればいい。
つまり、大きな理学療法が嫌いとか、
医学が嫌いっていうことじゃなくて、
その中のどの分野が嫌いか苦手かを分解化していく。
これがポイントであり、分解化されたラダーであったり階段であったり、
一つずつ上らせるのが学習なんですよね。
そこまでのカテゴリー、つまり痛みを与えなければいけないけど、
痛かった後の回復過程というものをちゃんとパターニングしなきゃいけないんですよね。
なるほど。
なので学習する側からすると、いろいろ刺激を受けて経験を積む中で、
得意不得意とか、好き嫌いとか、
一つの関わり方で、こういう人と関わるのは得意だけどこういう人は苦手とか、
そういう解像度が上がっていって、
今後こういうのが必要だったらここは改善しないといけないよねとか、
ここは得意だからもうちょっと伸ばそうとか、
その辺を自分の中でも理解していけると、より学習が進んでいきやすくなるという感じですかね。
そうだと思います。
だから今、学校教育ではなくて塾教育だとか予備校というのが、
先ほど言ったような分節化して分解化して、
そしてまたみたいなのを出して成績を伸ばすっていうのがすごく得意な塾とかがあって、
そういうところがやっぱり伸びていくっていう。
なので、それこそ電車なんかに乗っていると、
四ツ谷学院が半段階指導方式とか、
あるいは等身衛生予備校は問題をたくさん解かせて苦手な問題があれば、
それをAIで解析して、それに近い問題というのをたくさん持ってきて解く練習をしますとか、
やっぱりそういうものの教育によって伸びる子たちというのはすごくいるんです。
ウェルビーングと社会参加
それとは別に、最近竹田塾というのが流行っていて、
この手前の人たちというのがいるわけですよ。
つまり、もう少し的確に学習というものを、
サッカーの試合を出るのに走るとか蹴るという筋力を最初に付けとかないと、
サッカーの試合ができないじゃないかというのが竹田塾で、
サッカーの試合に出た後に、どこが悪くて、次勝つためにはどうしたらいいかというのが、
その四ツ谷学院との通り。
なるほどですね。
だから全然そのテーマが違うというところなんです。
自分がよりよく学習しようと思った時に、
どっちに行かなきゃいけないのか、2つではないと思うんですけど、
そこの素性に合ってるかどうか、それを教育側が判定しなきゃいけないということですよね。
そうすると、より良い学習に生かすことができるということです。
なるほどですね。
なので、受験に受かるとかっていうと、
多分そういうラーダーが組みやすくなったりすると思いますし、
理学療法士でも例えば、高科資格を取るとか、その先臨床で活動するとか、
そういう、ここっていうのがあるとそれに必要な能力とかが分解されていって、
学ぶっていうのはできるかなと思うんですけど、
学習って考えた時にどこの目標を見せるかみたいなのは結構大きくて、
さっきのよくよく生きるとか、最終的に長い人生を通した学びって考えていくと、
またいろいろ幅が広がってくるのかなって感じがしますね。
そうですね。なのでその学習自体が、
今日の最初の話のところにあった好奇心だとか、
あるいはよく生きるっていうところになった時に、
おそらく学習の成果として最も重要なのは、
身体の健康とメンタルヘルスだと言われてるんですけど、
それをいかに作っていけるかのために、やっぱりかなり知識とかが必要になってくる。
そしてそのウェルビーングと言われるような、
よく生きる、自分自身が満足して生きるっていうような感覚っていうのは、
学習によってやっぱり得られるものになります。
メンタルヘルスって捉えてくると、やっぱり仕事っていうのがすごく重要。
仕事、より言うと社会活動というふうに捉えるわけですけど、
社会にいかに参加できるかっていうのが、
メンタルヘルスの中の重要な位置づけなんですね。
兵士で言うと、一兵卒として弱い立場で参加するのか、
将軍として参加するのかでだいぶ変わってきますよね、
ということになるわけですけども、
自分自身が、例えば誰かに指示を与える将軍の立場っていうのが得意というふうに捉える人もいれば、
いや、そんなんじゃなくて、他に自由にさせてもらって、
自分はもう上から言われた通りにやる、
あるいは自分は自由に好きにさせてもらえる、
いろいろな自分の情緒的なやりたさっていうのがあると思うんですけど、
社会に参加する中で、自分がどのような参加の仕方が最もストレスが少ないのか、
ここを知っていく必要があるわけです。
お金をたくさん得るっていうものが好きな人っていうのは、
ものが欲しいとか、お金によって誰かに評価されたいっていう人もいるわけですよね。
そうではなくて、誰かに口出しさせたくなくて、
自分でできるので自由にやらせて欲しいっていう人もいる。
あるいは、自分はあんまり物事を考えたくないので、
全て指示を受けたいっていう人もいる。
だから、学習の成果を通して自分がどういったものをやりたいのか、
どういったものをやりたくないのか、
そこがメンタルヘルスの影響、つまりウェルビーングですよね。
社会との在り方とのウェルビーングっていうのは密接に関わっていますので、
そして同時に人って、どこかしらそこはかとなく、
何かの役に立ちたいとは思っているんですよ。
その役に立ち方っていうのと、社会との在り方っていうのがものすごく関与している。
だからそこに向かって、そこに満足がいく向かい方っていうのが、
おそらく学習の成果としてすごく重要だということです。
理学療法士として重要なのも、自分が何をやりたいか、
そしてどういうふうに、かなり広い話にはなってくると思いますけど、
自分がどういうふうに社会と接したいのかを理解しておかないと、
なかなかいろいろうまくいきませんよね、というふうには思います。
なるほど、それをより考えていくためにも、
ある程度実践の経験積んでいった方が、
その先の学習の在り方みたいな考えやすくなると思うので、
そうなると本当に20代とか30代とかで働いてしばらく経った後に、
考えてその先の学び方を考え直す時間というのが結構大事だなと思いました。
まさに学習というのは、小中高の学び、そして大学の学び、
あるいは新人の学び、中堅の学び、あるいは老年期の学び、死ぬ前の学び、
常に段階というか違いがあって、
学習という一つの言葉、あるいは教育もそうだと思います。
言葉ではなくて時期だとか、何をというような目的的な部分があると思うので、
それが自分が何をしたいか、そして社会にどう接してしたいか、
僕は先ほどから言う、ウェルビングとの関わりというのがすごく重要だと思うので、
ウェルビングにはどうしても罰則も伴うというか、危険も伴う、
つまりレッドフラグのようなものも知っておかなきゃいけない、
そしてベネフィットも知っておかなきゃいけないというふうには思います。
例えば理学療法士的な活動で臨床だったり研究だったりいろいろありますけど、
その中でのレッドフラグ的な行為ってどういうのが当てはまっているんですか?
人間関係を極端に壊すことでしょうね。
それは患者さんとの関係を壊すこと、スタッフとの関係を壊すこと、
家族との関係、自分自身の家族関係を壊すことというのは、
どうしても人間って社会的な生き物なので、
社会的なレッドフラグというのはわかりやすく言うと、
例えば殴るとか、ハラスメントだとかというのはそれです。
ただその暴力だとかハラスメントというのは何かしら理由があるわけですよ。
相手が悪い場合もあれば、自分が悪い場合もあるわけですけども、
そこのラインというものをどういうふうにモニタリング、
メタ認知できるかっていうのが、
レッドフラグを踏む踏まないというところだと思うんですけど、
倫理感と学習の重要性
あとは周りの関係の中で、
例えば患者さんの情報を外に流すとか、
というのはレッドフラグなわけですけども、
そこの倫理感ですよね。
友達と面白おかしくやってしまった上に漏れてしまうということもあれば、
例えば、僕はそういう経験ないですけど、
芸能人とか国の病人たちが自分の病院に入院してきて、
そこにこの情報をくれといったときに流すとかですね。
そういう倫理感みたいな部分という、
ブレーキを踏む感じというのがどこにあるかというのは、
学習の中で結構重要なもの。
つまりレッドフラグって分かっているかどうかということですよね。
確かに。
理学の本質としての活動を見せるのであれば、
倫理的思考とかももちろん大事ではあるんですけど、
結構その人間関係とか情緒面のレッドフラグ踏まないみたいなところは、
結構大事かなと思いますし。
このラジオのテーマのアドバンスとセラピストというふうに考えていくと、
レッドフラグ踏まないのと、
さらにこういうより多くの人の心を理解できるとか、
悩みを解決できるような方向につなげていくための学びとしてはどうしたらいいのか、
みたいな未来思考で考えていくこともできそうだなと思いました。
そうですね。
その辺りを次のテーマにいけたらいいのかなと今思いました。
そうですね。
より良い学びの探求
なんとなくばっくりしていた学習とか学びというものが、
どういうところなのかみたいなのは大まかに分かってきたかなと思うので、
より良い学びしていくためにはどうしたらいいのか、
みたいなことを後半で話していけたらと思います。
ありがとうございます。
ありがとうございました。