こんにちは、田代です。 こんにちは、堀です。 Advanced Therapistの30本目の後半部分ということで、後半もあれこれいろいろ喋っていこうかなと思うんですけども、前半、8つの本能みたいな話をしてきたんですけど、最初に高めるっていう本能の話、全然してないよなっていう感じで、お互いあんまり特定の集団の中で上の地位に行きたいとか、そういうのが少ないのかなっていう感じがしましたし、でもこういう人もいるよねっていうので、
ここを起点にしながら、また未来の話もしていけたらなと思うんですけど。
高めるって、その間喋ってたんですけど、一切8つのうちの高める話が出なかったっていうことになって、確かに、もしかしたら外の人から見ると、高めるというところ自身に自体に僕らが興味を持っているって思われるかもしれませんけど、あんまり興味ないんですよね。
そうですね。
高めるというのを例えば1つ、何か得て自分自身がそのポジションにつくとか、リーダーになるとか、そういうのにあんまり興味を持っていないなという感じでしたね。
そうですね。自分も学問を探究していくとか、自分の中で理解が深まって高まっている感は好きかもしれないですけど、大学院に出てから教員にならなかったっていうのも、女教授から講師級教授みたいな、そういう肩書とかにはそこまで興味なかったり、組織の中でもあんまり昇進みたいなのはあんまり興味なかったから、逆に自分で会社作っちゃえばもう代表だし、それでも肩書はいいや。
みたいな感じで、やっぱりもうそれで決めたみたいなのもあるんで。
その意味では確かに、自分自身が女教とか講師だった時代って、毎年大体秋から冬にかけて証人審査の話が出てくるわけですよね。
その証人審査に選ばれるのか選ばれないのかみたいなことに、他の人よりは弱かったかもしれませんけど、やっぱり頭は向いてましたね。
それは高めるというか、ある種の、いやここのタイミングでは自分じゃないとおかしくないですかみたいな、そこもなんとなく論理性みたいなのが見れた可能性はあります。
だからそれが飛び越えたらなんでだとかっていう、おかしいだろうみたいな感じにはなってましたけれども、俺がそうなるべきだみたいなところが、自信まんまにあるという感じではなかったですね。
それが例えば、生まれてきてからずっと賞を取ってくるような人生だったら、賞を取ることが当たり前みたいな感じだったかもしれませんけど、賞と無縁の人生なんですね。
賞を取るということがないから、基本的に自分自身が賞を取るためにやっていないと、勝つためにやっていない、あるいは賞を取れないって思ってるから、勝つということから逃げている。
あるいは勝つという考えを自分の横に置いているっていうところをずっとやってたらいつの間にか高めるっていうのが失われていたのかもしれません。
そうですね。自分もあんまりなんとか賞とか取るようなタイプじゃないんで、あんまり外からの承認というよりは、自分の中での満足感とか進んでる感じみたいなのを重視してきたところはあるので、ちょっと共感するところではありました。
なので、例えば自分自身がこの今の港南女子大学のポジションっていうところから、次どういうふうにステップアップしていきたいか。
例えば、自分は京都大学の理学療法の教授になるべきだ、みたいなのはなくて、そうではなくて、どっかの哲学科とかで教えたいとかって気持ちはあるんです。
それはもう完全に違う学問。もともと学位としてやってきた学問というのがあるのと、理学療法ももちろん好きだが、それ以外の学問も教えてみたいっていうただの興味なんですよね。
それはそれを高めるといえば高めるなんだと思いますし、といってそのために、じゃあわざわざ公募探して移動するっていうようなことを準備してる方は全然そういうつもりではないです。
なんか非常勤とかでそんなないかなと思ったりするぐらいですね。
これも何なんですかね。そのさっきの本能でいくという有識的なものを物語りたいって感じですか。それともまた違うんですか。
対話したいんでしょうね。例えば理学療法の授業で哲学的対話をしようと思うと、ある種その答えがあるというか、理学療法の論章推論というものに答えはないんだけれども、しかし答えみたいなのあるわけですよ。
幸福であるとか不幸であるとか、それこそ高めるっていうことに関しては答えがないので、そういったことをやりたいんでしょうね。
そこもやっぱりさらに新しいことを知って探求していきたいって感じですね。
言うするっていうのと、これはだからそれは進めるのかもしれません。
自分の中の真理を探求したいというか、自分の中で設定したゴールにできるだけ近づきたいみたいな感じですか。
より正確に言うと、非言語的な部分というものが自分の中にあって、それを他の人からの考えを通して自分を言語化したいということを感じでしょうね。
あとこれも収録の前の話なんですけど、結構本当にAIの進化が激しすぎて、何ですかね。
西洋の価値観の見解というか、不安みたいなのもある中で、もうちょっと日本人とか東洋人としてどういう振る舞いをするといいのかなみたいなことも探りたいなっていうのもあるかもしれないですね。
それこそ今度インドで僕が講演する内容というのが、禅というところが一つのテーマになるんですけども、
この禅における鈴木大雪を一つメインの思想家として考えていくわけですけども、広く言うと和美・寂とかですよね。
いわゆる和美しい状態、寂しい状態っていうものに美的感覚を感じると。
いわゆる一つは貧しさで何もなく、そしてただただっぴろいような感覚に美しさを感じるっていうのは、
基本的には日本的な美学にもなりますし、例えば、あ、忘れした。この辺りの文豪誰でしたっけ。
谷崎純一郎です。
谷崎純一郎の陰影霊さんとかムナイさんとかもそうですけれども、結局日本人の持ちうる美学ということと、
あとは完全に割り切れないものに対しての価値観というものをすごく日本人で持っているわけですよね。
例えば禅なんかっていうのは、主観と客体が分かれた状態の前の状態を考えるわけですね。
主観っていうのはもうはっきりと自分のものであると。客観というのは人のものであると考えたときに、
私と人が分かれる前、これはちょっと現象学的な感主感性みたいな感じになってくるわけですけれども、
そういうはっきりと割り切れないものっていうものに興味を持っていますし、
現代においてメンタルヘルスの異常というのは、はっきりと答えが出ているものを受け入れられないからきつくなってくることが多いんですよね。
善悪とか優秀優劣とかっていうものが決められてしまうと。
それになんかそれって違うんじゃないですかって言ったときに反論ができない。自分の自由度が持てない。
今日初めて知ったんですけど、自由ってこれ仏教の言葉なんですねっていう。
西洋には自由という日本人が考える自由という概念はないそうです。
愛法とかはあるけれども、日本のような自由にフリーダムでもないんですよね。
よく僕はリバティ、フリーダム、ケイパビリティのセットで日本的自由っていうふうに言うんですけれども、
そのはっきりとした自由感っていうものが西洋にはもちろんないと。それは大きな宗教観に縛られているということにもなりますけれども、
メンタルヘルス不調ってそういうところから起きてくると。だからもう少しなだらかであったり緩やかであったり適当であるものというものの受け入れ方っていうのがすごく今後の人間にはすごく重要であり、
AI が発達すると余計にそれが明確化されるわけですよ。明確化できないものというものを我々がどれだけ目を向けていくかというところをちょっとインドでしゃべろうと思っています。