#30-2 科学と人間らしさの間を探究する美意識
2026-07-01 37:43

#30-2 科学と人間らしさの間を探究する美意識

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堀 寛史

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田代雄斗

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サマリー

本エピソードでは、科学と人間らしさの狭間を探求する美意識について議論する。特に、地位の上昇や賞の獲得といった「高める」という本能への興味の薄さから、内面的な探求や他者との対話、そして「割り切れないもの」への価値観へと話が展開する。日本の漫画や伝統的な美学に見られるような、アナログさや余韻、不完全さの中に美しさを見出す感覚が、AI時代における人間の独自性やセラピストの役割の重要性へと繋がっていく。最終的には、学び続けること自体に価値があり、美的感覚や言語化、他者との共有を通じて、より豊かな生き方や人間関係を築くことの重要性が語られる。

「高める」本能への興味と内面への探求
こんにちは、田代です。 こんにちは、堀です。 Advanced Therapistの30本目の後半部分ということで、後半もあれこれいろいろ喋っていこうかなと思うんですけども、前半、8つの本能みたいな話をしてきたんですけど、最初に高めるっていう本能の話、全然してないよなっていう感じで、お互いあんまり特定の集団の中で上の地位に行きたいとか、そういうのが少ないのかなっていう感じがしましたし、でもこういう人もいるよねっていうので、
ここを起点にしながら、また未来の話もしていけたらなと思うんですけど。
高めるって、その間喋ってたんですけど、一切8つのうちの高める話が出なかったっていうことになって、確かに、もしかしたら外の人から見ると、高めるというところ自身に自体に僕らが興味を持っているって思われるかもしれませんけど、あんまり興味ないんですよね。
そうですね。
高めるというのを例えば1つ、何か得て自分自身がそのポジションにつくとか、リーダーになるとか、そういうのにあんまり興味を持っていないなという感じでしたね。
そうですね。自分も学問を探究していくとか、自分の中で理解が深まって高まっている感は好きかもしれないですけど、大学院に出てから教員にならなかったっていうのも、女教授から講師級教授みたいな、そういう肩書とかにはそこまで興味なかったり、組織の中でもあんまり昇進みたいなのはあんまり興味なかったから、逆に自分で会社作っちゃえばもう代表だし、それでも肩書はいいや。
みたいな感じで、やっぱりもうそれで決めたみたいなのもあるんで。
その意味では確かに、自分自身が女教とか講師だった時代って、毎年大体秋から冬にかけて証人審査の話が出てくるわけですよね。
その証人審査に選ばれるのか選ばれないのかみたいなことに、他の人よりは弱かったかもしれませんけど、やっぱり頭は向いてましたね。
それは高めるというか、ある種の、いやここのタイミングでは自分じゃないとおかしくないですかみたいな、そこもなんとなく論理性みたいなのが見れた可能性はあります。
だからそれが飛び越えたらなんでだとかっていう、おかしいだろうみたいな感じにはなってましたけれども、俺がそうなるべきだみたいなところが、自信まんまにあるという感じではなかったですね。
それが例えば、生まれてきてからずっと賞を取ってくるような人生だったら、賞を取ることが当たり前みたいな感じだったかもしれませんけど、賞と無縁の人生なんですね。
賞を取るということがないから、基本的に自分自身が賞を取るためにやっていないと、勝つためにやっていない、あるいは賞を取れないって思ってるから、勝つということから逃げている。
あるいは勝つという考えを自分の横に置いているっていうところをずっとやってたらいつの間にか高めるっていうのが失われていたのかもしれません。
そうですね。自分もあんまりなんとか賞とか取るようなタイプじゃないんで、あんまり外からの承認というよりは、自分の中での満足感とか進んでる感じみたいなのを重視してきたところはあるので、ちょっと共感するところではありました。
なので、例えば自分自身がこの今の港南女子大学のポジションっていうところから、次どういうふうにステップアップしていきたいか。
例えば、自分は京都大学の理学療法の教授になるべきだ、みたいなのはなくて、そうではなくて、どっかの哲学科とかで教えたいとかって気持ちはあるんです。
それはもう完全に違う学問。もともと学位としてやってきた学問というのがあるのと、理学療法ももちろん好きだが、それ以外の学問も教えてみたいっていうただの興味なんですよね。
それはそれを高めるといえば高めるなんだと思いますし、といってそのために、じゃあわざわざ公募探して移動するっていうようなことを準備してる方は全然そういうつもりではないです。
なんか非常勤とかでそんなないかなと思ったりするぐらいですね。
これも何なんですかね。そのさっきの本能でいくという有識的なものを物語りたいって感じですか。それともまた違うんですか。
対話したいんでしょうね。例えば理学療法の授業で哲学的対話をしようと思うと、ある種その答えがあるというか、理学療法の論章推論というものに答えはないんだけれども、しかし答えみたいなのあるわけですよ。
幸福であるとか不幸であるとか、それこそ高めるっていうことに関しては答えがないので、そういったことをやりたいんでしょうね。
そこもやっぱりさらに新しいことを知って探求していきたいって感じですね。
言うするっていうのと、これはだからそれは進めるのかもしれません。
自分の中の真理を探求したいというか、自分の中で設定したゴールにできるだけ近づきたいみたいな感じですか。
より正確に言うと、非言語的な部分というものが自分の中にあって、それを他の人からの考えを通して自分を言語化したいということを感じでしょうね。
無知による罪と他者からの学び
何かしらわからないものがあると。例えば今、たまたま北海道で残忍な事件が2つ若者によってなされて、それの裁判とかをわりと追いかけてるんですね。
そうなった時に反省しているっていうふりをしたり、反省していないっていうふりをしたり、いろいろなこれから大事なのはふりの方なんですね。
要はその人が本当にやっちまったではなくて、やったということをよくよくわかってないみたいなことが報道されるんですね。
今回の事件とかではなく、特留の事件とか、特留で特別流動性何とか犯罪とかっていう、いわゆるオレオレ詐欺とかなんですけど、
特留で末端の子が殺人事件と強盗事件を起こして捕まると。
要は上に言われてやってるわけですよね。最初の弁護士の接見でどれぐらいで出れますかって聞くらしいんですよ。
強盗殺人って無期懲が死刑なんですね。だからもう出ることがほぼないっていう状態をそこで初めて知るっていう、この無知さ。
だから無知によって起き得る罪っていうようなところ、それを知った時の感情だとか、それを無知な状態でどういうふうに判断したのかというのを聞きたいです。
だから裁判傍聴とか面白いだろうなぁとちょっと思ったりはするんですけど、自分の中に価値観ない価値観というものをインストールするために、他の人の話を聞きたいということになります。
それも自分にはない価値観とか、それも知りたいとか言うするみたいな感じなんですかね。
もう完全にこれは言うするです。
縄文時代と日本のルーツへの関心
橘さんそんなのあるんですか。そうか、橘さんの話は聞かないかね。
最近個人的には縄文時代の調べてるんですけど、一応自分の会社が日本の神話から取ってきたの由来であるんですけど、もっと言葉も扱われてなかった。
縄文時代の中に暮らしみたいなのが結構日本人の根底にあるんじゃないかと思ったりして。
あと、岡本太郎の作品とか外交本とかちょこちょこ好きなんですけど、結構縄文に影響されてるみたいなのがあったりするんで、何となく興味持って調べてますけど、これは今のところまだ何の本能に基づいてやってるのかちょっとよくわかんないですね。
過去の歴史を振り返るっていう、一つはルーツを探るということだと思いますし、そのルーツっていうのは自分に関わってくるルーツもあれば、人間全体に関わってくるルーツとかっていうのもあると思うんですけど、橘さんはどんなルーツに今惹かれてるというか興味を持ってますか。
本当どっちもですかね、自分自身のっていうのもありますし、今特にちょっと日本の会社のメンタルヘルスみたいな取り組みが増えてきたりしてるんですけど、組織の集団のあり方とか個人のマインドとかメンタリティみたいなところがまだちょっと理解しきれてなくて、
ちょっとあんまり触れてこなかったんで、ちょっと結構古い歴史から遡ってみようかなみたいな感じですね。
中国史と人間の判断への興味
僕は昔からわりと中国史が好きで、23ぐらいの時にNHKの番組とかを見れて、中国の奥深さみたいな、ちょうど映像と一緒に歴史なんかを見て、それをしょっちゅう見てたんですよね。
しょっちゅう見る、じゃあ逆にSMAPの番組見るかって見ないわけですよ。それがなんでその歴史の方を見たかって言った時に、やっぱり人間のルーツとかっていうものにすごく興味を持っているんだろうなと。
なんで人間がこういうふうな判断をしてきたのかということに対しての興味をずっと持ってるのは持ってるんですね。それは根本的に自分の判断に究極は自信がないんだろうなと思います。
歴史的な判断というものが自分の中のリファレンスとして欲しいのかなというような感じかもしれません。
確かにそういう自分の意識っていうのは根拠となるものを欲しいみたいなのも確かにあるなと思いましたし。
AI時代における日本的価値観と禅の美学
あとこれも収録の前の話なんですけど、結構本当にAIの進化が激しすぎて、何ですかね。
西洋の価値観の見解というか、不安みたいなのもある中で、もうちょっと日本人とか東洋人としてどういう振る舞いをするといいのかなみたいなことも探りたいなっていうのもあるかもしれないですね。
それこそ今度インドで僕が講演する内容というのが、禅というところが一つのテーマになるんですけども、
この禅における鈴木大雪を一つメインの思想家として考えていくわけですけども、広く言うと和美・寂とかですよね。
いわゆる和美しい状態、寂しい状態っていうものに美的感覚を感じると。
いわゆる一つは貧しさで何もなく、そしてただただっぴろいような感覚に美しさを感じるっていうのは、
基本的には日本的な美学にもなりますし、例えば、あ、忘れした。この辺りの文豪誰でしたっけ。
谷崎純一郎です。
谷崎純一郎の陰影霊さんとかムナイさんとかもそうですけれども、結局日本人の持ちうる美学ということと、
あとは完全に割り切れないものに対しての価値観というものをすごく日本人で持っているわけですよね。
例えば禅なんかっていうのは、主観と客体が分かれた状態の前の状態を考えるわけですね。
主観っていうのはもうはっきりと自分のものであると。客観というのは人のものであると考えたときに、
私と人が分かれる前、これはちょっと現象学的な感主感性みたいな感じになってくるわけですけれども、
そういうはっきりと割り切れないものっていうものに興味を持っていますし、
現代においてメンタルヘルスの異常というのは、はっきりと答えが出ているものを受け入れられないからきつくなってくることが多いんですよね。
善悪とか優秀優劣とかっていうものが決められてしまうと。
それになんかそれって違うんじゃないですかって言ったときに反論ができない。自分の自由度が持てない。
今日初めて知ったんですけど、自由ってこれ仏教の言葉なんですねっていう。
西洋には自由という日本人が考える自由という概念はないそうです。
愛法とかはあるけれども、日本のような自由にフリーダムでもないんですよね。
よく僕はリバティ、フリーダム、ケイパビリティのセットで日本的自由っていうふうに言うんですけれども、
そのはっきりとした自由感っていうものが西洋にはもちろんないと。それは大きな宗教観に縛られているということにもなりますけれども、
メンタルヘルス不調ってそういうところから起きてくると。だからもう少しなだらかであったり緩やかであったり適当であるものというものの受け入れ方っていうのがすごく今後の人間にはすごく重要であり、
AI が発達すると余計にそれが明確化されるわけですよ。明確化できないものというものを我々がどれだけ目を向けていくかというところをちょっとインドでしゃべろうと思っています。
セラピストの役割と科学と人間らしさの境界
なるほど。そういう観点で改めてセラピスト的な仕事の価値とか見直されるのかなっていう感じもするんですけど、
ホワイトワーカー的な仕事をしている人って本当にAIによってどんどん淘汰されて、自分の必要性って何だろうかとか見失いかけてまたメンタル不調出るような気がしますけど、
やっぱりセラピスト的な仕事って科学では割り切れなくて人と関わりながらっていう仕事なんで、自分の存在意義とか見出しやすい職種かなと思ったりするんで、
そういう意味でも注目されたらいいのかなと思ったりしますけど。
まさに割り切れなさっていうのは自分自身の感覚、自分自身の価値観の割り切れなさであり、自分と人が本当は完全な別物であるというふうにはっきりと割り切れるものでもないわけですよね。
同じように感じてるかもしれない、同じように考えてるかもしれないっていうこと、しかし全く違うことを考えてるかもしれないっていう割り切れなさの部分っていうのが人付き合いにおいてすごく重要なわけですけど、
AIは割り切ってちゃんと外在化してくるわけですよね。そしてそこに感情はないと。
我々やっぱり空気を読んだりだとか表情を読んだりだとかしてるっていうところが人間の面白さであり、その部分が理学療法だとか医療の中に重要視されているのは事実であると。
ただどうしても、医学っていうのは科学の分野である、あるいはソマスティックな分野とバイオジェネティックな分野があるとすると、我々はどうしてもバイオジェネティック的な答えがある方向に進まなければいけないっていうある種のオブセッションがあるわけですよね。
表白関連があるわけですけども、その部分と実は臨床というのはそうではなくてもう少し人付き合いというところがあると。ただラインを引いて、いわゆる科学的なラインと人付き合いのラインっていうものを自分が行き来できないといけないわけですね。
両方に片足ずつ入れているんだけれども、ちゃんと自分の意思で行き来できるような能力がいるんだと。それを僕は理学療法推論の中で作ろうとしているんですね。
理学療法推論と解釈学による境界線の探求
だから行き来できる能力っていうのがあれば、必然的にメンタルヘルス的な問題というのも起きにくくなるんですね。それはなぜかといったら、科学的に対応できない問題に対しては人間的にやりましょうと。
人間的にやりすぎることによって、何も変化しないっていうこと自体で自分が理学療法師として能力が低いんじゃないかって思ってしまうこともよくないと。
そうすると科学に戻って適切に予測をして適切なアプローチっていうのをやっていこうという感じになると思うんですよね。
そうですよね。
こういう理学療法って科学的なところと人間寄りのところの中間にいるような感じで、なかなかシンプルに伝えづらいですけど大事なポジションかなっていう気がします。
医療の先端のところでいくと科学寄りで、どっちかというとあんまり分けすぎるのもよくないですけど、福祉とかの方向だとあんまり科学寄りは人間寄りのっていうのがあるような気がするんで、中間の難しいけど大事なポジションなんですよっていう形で見えてくるといいなと思います。
本当に今どうにか作り上げていこうとしている理学療法推論の考え方というのは、綺麗にまた最初の鈴木大説的に分けられないというところにもあるんですけど、分けられないんだけれども分ける努力はするってことなんですね。
分けられないけど分ける努力をすることによって見え方が変わるっていうのと、はっきり分けるっていうことを信じ切って本当は間にあるものを見ないっていうのは良くないってことなんですよ。
それこそ木村美音なんかの僕の間っていう概念が非常に好きなので、その何かしらの間を見ていく。その間を見ることによって境界線が見えるっていう。
この境界を見ていこうというのが僕の全体的な研究テーマであるっていうことを最近気づきました。
最近そのノートの記事とかも書かれてると思うんですけど、そういうあたりも触れていって今後も深めていくって感じなんですかね。
そうですね。今ちょうどノートのところで解釈学的理学療法っていうものを一つ書いてるんですけど、その解釈学によって起こり得るものっていうのは境界線であるということを考えてて。
これは別に解釈学ってデュルタイからガダマ、リクールとかっていうふうになってきたときに境界っていう話はそんなに出てこないんですけども、
僕自身はその境界線っていうものが何かあるであろうと。ガダマが地平という言葉を使ってるんですけども、その何かしらAとBの間に実は何かあるんではないかっていうような感じのことをやっていますね。
今、理学療法推論の中だとどっちかっていうと情報学と結構科学寄りのところが多くて、システム化されるところが深まってきてるかなっていうところですが、その解釈学学も含めた理学療法のところと両方組み合わさってくると本当に現場に安いというかものにもなってくるんですかね。
僕が求めているものは教育支援だとか業務支援だとかっていう非常にプラクティカルなものと同時に自分自身の思想をどういうふうに反映させるかっていったところになってくると思うので、その解釈学的理学療法というのは自分の思想の部分ですよね。
だから、理学療法推論というのはOSだって言ってるわけですけど、どちらかというとバイオスの部分ですよね。
分かりやすくこれ使えばいいよっていうのがシステム的にOS的に出来上がってくるのと、その裏に隠れてるものっていうのが思想としてありますよという前半の安らぐ本能みたいなところでもシンプル化するのと、権威が見えるみたいなところもあると思うんで、分かりやすいところと裏側にある背景が徐々に整理されていってるっていうところですかね。
コンサルティング業の歴史と経験と科学の融合
そのあたりってどうですか?田代さんが今から考えていっているいろいろなノートの中でいろんなことを展開されていると思いますけども、自分がキーワードとかでもいいと思いますけど、こういうことが達成される、あるいはこういうことが自分の中で理解されるっていう世界観がいいなみたいなのって何かありますか。
そうですね、自分の中では自分の考えが理解されるっていうのは世の中の課題がより解決されていくといいなと思ってるんですけど、今の仕事でいくと企業のコンサルティング的な業務が多くて、そこの考え方も結構科学的にやってるところとか経験的にやってる人もいるかなっていうところですけど、
ちょうどまさに理学論の推論的な間を取るような形が個人的には固まりつつあるかなと思うんで、そういうコンサルティングのあり方みたいなのは一つまとまってもいいかなと思いますかね。
またちょっと面白いのは、コンサル的なあり方っていうのはそれこそ間に入るんですよね。間っていうのは面白いなという。
最近そのコンサルティング業みたいなのをちょっと歴史みたいなのも調べ始めてるんですけど、有名なところだとマッキンゼっていうコンサルティングファームみたいなのがあるんですけど、それ以前だとグレイヘアーって言われるような結構年取った経験がある経営者みたいな人が若い経営者に教えるみたいな、
どちらかというと科学っていうよりも経験重視のやり方が多かったのがマッキンゼのマーヴィンバウアーっていう人が定識化したって言われてるんですけど、そこは結構若い人とかも積極的に採用して、科学的に数値とかデータに基づいたアプローチでコンサルティングするっていうのが結構新しい流れとしてできて、結構それが広がってきたっていう流れがあるらしいんですけど、
最近はそれがまた細分化されていってて、結構また科学の限界とかも出てきてるから、多分両方うまく組み合わせるというか、経験と科学みたいなのを組み合わせたものが多分今後必要になってくるんじゃないかなと思ってるんですけど、なので結構個人的には理学療法推論の考えを学ぶ中で、自分のそういう今企業との関わりみたいなのも結構生きてきてるんで、面白いなと思ってますね。
日本漫画のアナログさとアート性
今のマッキンゼの話ってすごい、本当にアメリカ的で、すごく発展していく上で、ある種の啓蒙思想的な部分だなと思いつつ、たまたま違うピボットで作家の人が喋ってた、今村さんって人が喋ってて面白いなと思ったのが、漫画っていうのがやはり日本でのみ発展していくらしいんですね。
これってどんなに頑張っても他の国がやはり発展させきらないと。韓国がすごく頑張ってて、韓国が日本の漫画とか韓国の色々なものをめちゃくちゃ分析して、これが成功パターンだっていうパターンを作っていくと、大体8ページ目にヒーローが出てきて、大罰の人は黒髪でとかっていうのが全部パターン化しすぎちゃって、みんなそれでやるらしいんですよ。
だから読んでたらみんなパターン化、つまりそれをさらに計算しているから、必ず8ページ目にこういうことを書かなきゃいけないっていう自由度が低くなってくるらしい。日本の漫画ってめちゃくちゃアナログなんですよ。だから未だにデジタルで書かない人たちもいて、ペンと紙でやってる人たちもいると。
そうやってくると、そのペン、線1本にでも表現が宿るらしくて、非常にアーティー、アートなんですよね、日本の漫画って。それに属する人たちがそこに解釈を出してくるらしいんですね。
昔、なんだっけな、マンベンだったかな。ちょっと題名忘れましたけど、NHKの浦沢直樹が、浦沢直樹って僕のすごい好きな漫画家が20世紀少年とか書いてる人が。
モンスターとか。
僕はマスター・キートが一番好きなんですけど、その人が色々な漫画家のところに行って、漫画家にインタビューをするんですよ。
川口海次っていう沈黙の艦隊とかをですね、書いてる人が、平野清盛の作品を書いてたときに、線を書くときにブルブルって震えてたらしいんですね。
それを浦沢直樹が見て、あの線描けませんよねって言うんですよ。そうなんですよ、あれは本当にどうやっても手が震えると。
本当に平野清盛のものすごい重要なシーンの口元のラインになったんですね、確か。それが描けんと。本当は一編で引きたいんだけれども、すごい震えると。
でも浦沢直樹はあの震え感が平野清盛の表情をちゃんと描けてたから、あれは震えるべきだっていう、そういう議論をしてるわけですよ。
すごいですね。
多分そういうことなんだと思うんですね。だからアートであるということと、漫画というものの中に入っている作者のナラティブっていうところでもあると思いますし、
日本の漫画が生きていくっていうのはアナログでやり続けている何かしら良さっていうのがあったりすると思うんですね。
多分ですけども、小田栄一郎は未だに紙で描いてるのかな。だからコミックとか雑誌で表現するというものの最後の大物作家になるだろうと。
これから出てくる人たちってのはデジタルなので、1ページ1ページがスライドされていくと。なので見開きページを書かないらしいんですね。
だけど小田栄一郎ってめちゃくちゃ見開き書くんですよ。だからデジタルで読むとわからないっていう。
だからコミックで読ませようとしているっていう最後の魂を感じるらしいんですね。
クラフトマンシップと日本的AIの可能性
なるほど。
だからめちゃくちゃ贅沢らしいんです、漫画化すると。
あの見開きを作るっていうことはデジタルで読ませないっていう意思を感じるんですね。
そうですね。それがデジタルになれば効率化するかもしれないけど、そうすると日本の良さがもしかしたら失われていっちゃうみたいなのも考えられますね。
本当にこれがまさにナラティブで、そういう不安。だから僕はある種そういったところに属しているのかもしれませんけども、
突出した人たちの悩みだとか、突出した人たちの技術とかっていうのにすごく興味を持っているので、
時計とか靴とかそういったのが好き。いわゆるクラフトマンシップがすごい好きで、
その第一郎にしても川口会議士にしろ、ある種のクラフトマンシップを見てるんだろうなと今ちょっと喋って思いました。
なるほど。
あとAIとかの話でいくと、やっぱり欧米がすごい強かったりとか、ものづくりでも中国がすごいとかそういうのありますけど、
日本の中での強みとしてものづくりみたいなのもあると思うんで、ドラえもんが生まれたみたいなのもありますけど、
日本なりの世界にはないロボットとかフィジカルAIみたいな分野もありますけど、そういうのが出てくると個人的には面白いかなとは思ってますけどね。
言葉にできないものの美学と医療への実装
本当になので日本人がもう少し日本人を歴史的に見直すターンっていうのがすごく重要で、それこそ先ほどの鈴木大雪が中で言ったような幽言。幽霊の幽に玄米の玄ですね。
いわゆる言葉や形で表現しきれないものの美しさ、それが例えば余韻とかですよね。さっきの愛だとか。
そういうのを趣だとして捉えるっていうこの感覚はその世界に発信してももちろんいいでしょうし、そういうのが何かしらこれが美学以外のものに実装されるっていう可能性をどっかで僕は感じてるんですね。
それは医療には多分実装できるんですよ。患者さんの感覚的なものっていう。それがフィジカルAIだとか、いわゆるLLMの中にどういうふうに表現されるかなという。
そうですね。西洋で行くと本当に人とAIバチッと分断して分けてみたいな感じかもしれないですけど、さっきの話でもうまく混じり合っててっていうか完全に分断しないのが日本っぽいよねみたいな感じがあったんで。
前半のところでもあった堀先生自身は先に進めていって、それまで蓄積したものはエージェント的なAIがやってみたいなところもなんか混じり合ってるような感じではあるかもしれないですし、同じ人の情報を生かしてみたいな。
なので、完全に自動化してAIエージェントに任せるんじゃなくて、自分の要素も入ったAIだったら近くで動いてもいいかなとか、そういうのがちょっと日本っぽいのかもしれないなと思いました。
確かに自分自身の物語るものというところの蓄積というところと、たぶん全く蓄積できないものっていうのも今、先ほどの鈴木大雪の話とか考えてて、鈴木大雪がすごい大切にしていたものの一つが、
藤原定家の百人一首の中に出てくる、見渡せば花ももみじもなかりけり、とまのうらやにの秋の夕暮れっていう単歌があるんですね。見渡してみたら、いわゆる美しい花もなければもみじもないと。
で、海辺に古い小屋があって、その横に上がっている秋の夕暮れ。これ、日本人としてはめちゃくちゃ美しいんですよ。その秋の夕暮れ、いわゆる山積の歌っていうやつなんですけども、その秋の夕暮れの美しさっていうものを、おそらくこれ絵で表現したりしても、たぶん感覚的には違うんですよね。
本当にそれをリアルに体験するということの必要性があったり、あるいは自分がかつて小さい頃に、例えばお母さんに手を引かれて見てた夕暮れ、秋の夕暮れだとかっていう、そういうものにフィッティングしていく感覚とかがあったりすると思うんですよ。
それはもちろん海外の人もあるでしょうし、でもAIがそこにフィジカルというものの部分と経験というものと、一応これって美しいですよねって言ってくれはすると思うんですけど、それが自分の中に確実に残っているものではたぶんないんですよね。
だから学習はできるだろうけど、それが本当に美しいというふうに捉えていくっていう、特に日本っていうのは足りないものだとか貧しいものに美しさを感じたりするっていう、これはすごく大切にしていくものなんだろうなと。
今話しながらそういうのが自分の中で少しスッキリしました。
短い言葉から広がる想像力と美的感覚
でも別の話で、古い木や川を飛び込む水の音みたいな、あれも日本人だったらだいたい結構似たような情景が思い浮かぶとか、日本人ならではみたいなのもあるかもしれないですし。
あと結局AIの進化とかも倫理的にどう止めるかみたいのはありますけど、美学としてこれはないよねみたいな方が最終的な抑止力になるとかもあるかもしれないんで。
日本人はAIの進化とどう向き合うかみたいなところも日本人なりの道が見つかってくるといいのになと思ったりしますけど。
人間の良さというものを文学的になりすぎてもあんまり良くないわけですけども、本当にAIが発展していくと一周回って人間の良さを考えようというところになってくるであろうと。
僕いろんなところであんまりスライド擦らないっていう話をしたんですけど、ある文字は擦るんですね。
それはヘミングウェイが書いた、ヘミングウェイの作品とされるらしいけど違うらしいんですけども、世界で一番短い小説っていうのがあって、知ってます?
知らないです。
フォーセイル、ベイビーシューズ、ネバーウォーン、売ります赤ん坊の靴、ミシオンっていう小説、それだけなんですよ。
それを最初に聞いた時に結構そのいろいろな人の感覚のところでそれを聞くんですけども、どういうふうに考えますか?
僕それを最初に聞いた時に、その靴は使用されることがなかった靴であって、きっと若い夫婦が生まれる前に子供が死んでしまった。
だけども子供を本当に欲してた人は、歩くっていうのはまだ先にもかかわらず先に靴を買ってしまったんだな、みたいなことを想像するわけですよ。
これは単純にいらなくなったって、これがミシオンっていうことが入ることによって急激に物語ができてくるんですよね。
だからこの短歌なんかもそうですけども、さっきの河津飛び込む水の音も、水の音を通して静寂を表現してるわけですよね。
その静寂っていう、本当にちっちゃいカエルが飛び込むだけでもすごく音が響くような状態っていうところに自分がいるっていう、この感覚的な世界観っていうのはやっぱり人間ならではなんだなというふうに思います。
なんかそういう短い言葉とかで、どう想像を膨らませるかによって結構その人の価値観が出るかなと思いました。
ミシオンみたいな話であったら高く売れるわみたいなふうに単純に思う人もいるかもしれないんで。
なんかなんだろうな、そういうので美的感覚とかアナカリン美規感が合う人とコミュニティが築きながら少しずつ広がっていくと、なんかいい場になりそうな気がするんで。
そうですね、なんかちょっといろいろ考えちゃいますね。
学びによる感覚の繊維化と美意識の重要性
最終的に非常に文学的な話で、進化論マーケティングだとかからちょっと外れていってますけど、ざっくりと僕の中でまとめると、
学んでいくことによって感覚が繊維化されるんですよね。それが繊維化されることによって苦しみも出てくるけど、同時にやっぱり美しさがわかってくると思うんですよ。
人ってやっぱり美しさが思えるっていう能力をおそらく他の生き物よりもすごく強く持っている。
つまり美しさってお腹も太らなければ役に立たないんですよ。
だけど美しいものっていうものをものすごく人は求め続けてきているわけです。
この求め続けていく行為というのは、食べることと同じように本能に近いと思うんですよね。
この本能というものをずっと持ち続ける。そしてその美しさというものを本当にその外在化されたものによって美しいと思える。
例えばその秋の夕暮れも美しい。ただその秋の夕暮れというものに、トマの裏屋の秋の夕暮れというふうに言葉になったときにそれが美しいって感覚が出るのはおそらく学んどかないと無理なんですよ。
だから美しさというもの自体に触れていくためにはどうしても学ぶ必要がある。
この学ぶというのは前回から共通テストの学びももちろん重要であるが、それ以外に自分の中に感覚値として言語化をしていくトレーニングっていうのがすごく重要であるだろうなと思ってます。
確かにそうですね。その中で自分自身の生き方として美意識みたいなものをちゃんと考えていくとか、人間関係も含めてとか集団の場においてもこういうのが美しいよねって人それぞれ感覚はある気がするんですけど、
結構そこを持っておくとまたこう対話しながら擦り合わせていけるとなんかより良い生き方できるようになるんじゃないかなっていう気がするので、そうですねまた今後も考えていきたいなと思いますね。
なのでやっぱり学び続けるということ自体は価値があると。その価値というものは美的感覚あるいは言語化、そして他者との共有。なんか意味はあるんだと。それはその高めるっていう意味ももちろんあるでしょう。
金が儲かるとかポジションが上がるっていう。だからいろいろな他方向に価値があるんだから勉強したらいいですよってなる。
そうですね。
ぜひアドバンスドセラピストの聞いてくれてる人とかはより高めていきたいっていう人は多いかなと思うんで、単純に収益が上がるからとかポジションが上がるからっていうだけじゃなくて、
より学ぶこと自体楽しんだりとか、美意識がさらに高まっていくというか、自分なりのことが見えてくるみたいな方向に行くとより楽しいかなと思いますし、いろいろな話もしていけたらなと思いますね。
ぜひコミュニティに入っていただいて、別にこんな話したくないという方も中にはもちろんおられると思いますけど、逆に言うとこんな話ができるところが少ないというところでこのコミュニティがあるということですね。
そうですね。常にオンラインでいろいろやり取りしてるってわけじゃなくても、こういう価値観の人が近くにいるんだなっていう感じれるだけでもいいかもしれないですし、オンラインだったりリアルだったりでまた交流会もしていけたらなと思いますので、もしここまで聞いてくれた方はよかったらコミュニティにも入ってもらえたらなと思うので、説明欄のところにリンクがあるのでまたポチッと押してもらえたらなと思います。
ぜひぜひよろしくお願いいたします。
まとめと今後の展望
今回はいろんな話が飛んで、何の話っていうのはよくわからなかったかもしれないですけど、最終的には美意識大事だよねみたいな話になりました。
学びましょうということで。
学びましょうという感じです。今回はこの辺でありがとうございます。
ありがとうございました。
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