オーディションに向けての準備
こんにちは、あっこです。
今日はですね、午後3時から、いよいよ仙台のモデル事務所のオーディションを受けるという状況にあります。
午後の3時からなので、子どもたちは土曜保育に預かっていただいて、
そして、今午前中から自己PRを詰めようかなと思って、
今日なんですけど、まだ自己PRがちゃんと固まっていなくて、
昨日のね、いろんな方から私のスタイフの配信にコメントいただきまして、
その方からもいろんなね、こういう風にしたらいいんじゃないとかアドバイスもいただいて、
ちょっとそれも踏まえながら、改めてね、自己PR、悔いのないようにね、
全て語りたいことを語りたいと思って、
それで午前中はね、自己PR年表みたいな、自分年表みたいなものをちょっと作ってみたんですよ。
今それレターで表示をしてるんですけれども、
これね、なんか作っててね、なんか戻ってきたなっていう感覚がありまして、
なんか子供の頃から好きだったことを、なんか今また大人になって、
アラフォーになって、子供を産んでからなんかやろうとしてるんだな自分みたいなことが、
すっごいね、なんかわかる年表が出来たので、
良ければね、今立ち会ってくださった皆さんにちょっと見てもらいたいなと思って、
レターでもね、今表示をしています。見れるかしら?
ちょっとそれが心配なんですけれども、
誰か見れたよーとか、なんか一言いただけると嬉しいです。
多分ね、見れてると思うんですけど、はい。
あ、親父くんおつ、ありがとうございます。
ひなみときあさん、あこさんおはようございます。
嬉しい、コメントしてくれるの嬉しいです。
この年表って見れてますか?
あの秘密情報ありっていう風に書いてるんですけど、
私がね、仕事6月末で辞めたんですけど、その仕事の内容が書いてます。
今までちゃんと言ったことなかったんですけど、
スタイフではね、内緒にしていたんですけど、
今このライブに来てくださった方だけに見えるようにしようかなと思ってます。
はい、ちょっとね、今これからオーディションなので、
これをギュギュッと濃縮して、5分ぐらいで話すことにはなると思うんですけど、
改めてね、自分の中でも思考の整理とかしたいなと思っているので、
幼少期の思い出
誰も来なくてもいいやっていう勢いで、ちょっとこの年表についてね、
私の歴史についてね、語っていきたいと思います。
お時間を許す方はですね、是非片耳だけでもお付き合いいただけると嬉しいです。
あきのみときあさん、当日なのにライブすごいです。
応援してます。ということでありがとうございます。
いや、当日なのにっていうかね、当日だからかな。
正直ね、なんかもう何も手につかなくて、なんかドキドキしてきちゃってて、
なんかね、せっかく子供を預けたから、ね、少しゆっくりしたりとか、
あとは溜まってる仕事をね、やったりとかすればいいんですけど、
正直ね、今何も手につかないっていう状態。
なんかもう、今日のその3時のオーディションどうするかみたいなところにしか、
今ね、向かないので、ちょっと気晴らしも兼ねて、はい、やっております。
はい。
そう、なのでちょっとまずは私の年表をね、振り返りをします。
時間ない方はね、全然後でゆっくり聞いていただければと思うので、勝手にしゃべりますので、
もし、わずかある方はコメントなどして付き合っていただけると嬉しいです。
はい。で、まずはね、この年表の上からいきますよ。
なんで結構時間かかりそうな気がするんですけど。
はい。私のね、幼少期からね、ちょっと今回振り返ってみました。
なんかやっぱりね、今自己理解いろいろやってますけど、
やっぱりね、幼少期の頃の記憶が楽しかったこととか、心が動いたこととか、
なんかそういうのがね、あの価値観につながってたりするんですよね。
なので皆さん是非ね、幼少期から振り返ることをお勧めします。
はい。で、私は、幼少期どんな子供だったかっていうと、
あのね、おてんば娘で、あのね、本当にね、家でひたすら歌ったり踊ったりしてました。
そう。で、アイドルみたいなのに憧れてて、なんかね、しょっちゅう踊ってましたね。
ベッドの上でピョンピョンピョンピョン跳ねながら、なんか踊ってたり、
なんか人の前でも、親の前とかでも、よくね、歌ったり踊ったりしていたなーって思いますね。
うん。なんかアイドルの真似してみたりとか。
なんかちっちゃい頃の写真を見るとね、なんかあの、コンセント?
コンセントを、なんかどこから引っこ抜いたコンセントをマイクに見立てて、
なんか踊ってる?歌ってる?みたいな写真がね、実家にあるんですよ。
そう、そんな感じで、なんか結構そう、人に注目してほしいみたいな、
まあ末っ子ならではなのか、わかんないですけど、
自分で表現したい。なんか自分を見てみたいなタイプでした。恥ずかしいですけど。
うん。で、そこから小学校とかに上がっていっても、
まあ割と目立つ方だったんじゃないかなーって思います。
うん。で、結構、あの何か、
学業時とかそういうのがあると、割とこう人前で話すっていうのを、
させられたりとか、まあ自分からやってたのもあるかもしれないけど、
割とね、人前で喋ることは抵抗がなかったかなーって思いますね。
うん。あ、パチパチ!おはよう!オーディション頑張れー!ありがとう!
今日のね、15時、13?15時だよね。午後の3時からなので、
ちょっとそれに向けて、ちょっと人生をね、
そのモデルのオーディションを受けるっていう観点で振り返っておりました。
ワンチャンね、このライブを、リッスンっていうね、アプリ、
あのサイトかな?そこで文字起こしが落とせるので、
その文字起こしをチャットGPTに投げかけて、
ワンチャン最後の自己PRのブラッシュアップに使おうかなと思って、
はい、今、とりあえず思うがままに話してみたいなと思います。はい。
そうそう。で、まあショーケーションは、
私ね、小4ぐらいからね、メガネだったんですよ。
そう。で、結構見た目的には、そのメガネになってからは、
結構ね、ちょっとなんか嫌だなって思って生きてきたんですけど、
うん、でもまあまあそれなりに目立つタイプだったと思います。
で、先生から、あのー、なんか話すのが上手だよね、みたいな。
うん、聞き取りやすいみたいな感じで、なんか言ってもらえて、
うん、あのー、広内放送っていうのが当時あったんですけど、
それの、こう、毎回同じ時間に同じ配信が流れるみたいな感じの、
その録音をね、依頼されて、アナウンス室に行って、
あのー、収録?録音をしたっていうのが、
えっとね、あのー、その、あのー、
アナウンス室に行って、あのー、収録?録音をしたっていうのが、
今思えばこれ私の音声配信の原点なんじゃないかって思うんですけど、
そういうこともそういえばあったなーと思って。
うん、それって、あのー、当時の、私の学年の中で、
それ頼まれたのは私だけだったんですよね。
うん、だから、そう考えると、あ、これは自分の優位性だったんだってことに、
今回振り返って気づきました。
そう、なんかね、
ハツラツタイムっていう、なんか、
2時とか3時とかお昼ご飯食べた後の、
時間に、あのー、みんなで一斉に課外活動をするみたいな時間が、
毎週何曜日の何時みたいなのが決まってて、
その時に、一定の時間になると校内で、
全校に対して流れるみたいな音声なんですよ。
なんかね、はっきり覚えてないけど、
何時になりました。ハツラツタイムです。
皆さん、何とかをして、何とかして何とかしましょう。
みたいな。
そう、なんかそんな感じの録音して、
校内に流れるみたいなのがありましたね。
うん、そう、パチパチ。
いい声だとか、聞き取りやすい声だと先生が思ってくれたんだね。
いや、そうなんですよ。
なんか今思えば、これも他者評価だし、
私の優位性だったんだなーって気づきました。
で、あとその流れで、なんか入学式とか卒業式のアナウンスも頼まれてやってましたね。
そう、そうなんですよ。
なんかその辺りからちょっとアナウンサーみたいなものとかはちょっと興味があったし、
これどこかでも言ったんですけども、私の本名なんですけど、
実は、うちのお父さんが当時好きだったアナウンサーの名前をそのまま付けられたんですね、私。
意味とかないんですよ。
そうそう。
だから、なんかその時点でなんかもう、なんかあったんでしょうね、と思います。
私ね、3人兄弟の末っ子で、上がね12個上で、真ん中が9個上なんですよ。
で、私。なので、結構ね、親としたら割ともうどうでもよくなってる。
から、多分1人目と2人目はちゃんと漢字とかね、意味のある名前なんですけど、
私は当時好きだったお父さんのアナウンサー、お父さんが好きだったアナウンサーの名前で、かつひらがななんですね。
漢字すら考えてもらえなかったんですよ。
それぐらい適当に付けられた名前なんですけど。
そうそうそう。
だから、なんかそっからちょっとなんかあったんだろうなって思いますね。
で、小学校の間はそういう感じで先生から頼まれて、人前で話すとかっていう機会をいただいていたんですね。
うたちゃん、ひらがなの名前かわいくてうらやましい。
ありがとうございます。
でもね、当時はそんなになかったんですよね、ひらがな。
今になって結構まあまあ見かけるけど、クラスで私ぐらいしかいなかったんじゃないかな、当時は。
珍しかったような気がします。
ただね、習字がね、習字でちっちゃい細い筆で習字で名前書くじゃないですか、自分の。
ひらがなで丸みがある字が多いので、めちゃめちゃ書きづらくて、なんで漢字にしなかったんだよって思った記憶がありますね。
そうそう。
だいたい名前言うと、なんて書くんですかって漢字でなんて書きますって聞かれてひらがなですって言うと、
そうなんですね、みたいな反応されることが多かったですね。
中学時代の経験
ちなみにこのあっこっていう名前は実家で私が呼ばれてるあだ名、呼び名、そのまんまなんですね。
なのであが最初につく名前です。
そんな感じです。
で、中学生にあがって、小学校の高学年ぐらいからかな、なんかそういうちょっと子供向けのファッション雑誌とかあるじゃないですか。
なんだっけ、ニコラとかかな。
セブンティーンは中学校入ってからか。
なんかそういう雑誌ありますよね、ファッション雑誌みたいなやつ。
ちっちゃい子向けのね。
なんかああいうのを見てて、
そう、なんかいいなーってすごい思ってたんですよね。
なんか淡い、そのモデルへの憧れは、たぶん小学校高学年とか中学生ぐらいからふんわり持ってたと思うんですよ。
そう、友達と結構ね、写真を撮り合いっこするみたいなことも結構あったし、
あとプリクラね、プリクラめちゃめちゃ流行ってて、今も流行ってるかもしれないですけど、
中学生ぐらいはね、めちゃくちゃプリクラ撮りましたね。
なんであんなに撮ったんだろうってぐらい撮りましたね。
普通に何千円ってかけてた気がしますね、一回遊びに行っただけで。
でね、プリクラの交換したりとか、プリチョーとかね、懐かしいですね。
今いるパチパチともよくプリクラを撮りまくりましたね。
本当に懐かしい。
中学校の演劇体験
そう、撮られるとか撮るとか、なんかそういうのは結構好きだった。
そんな中学生時代だったなぁと思います。
で、あとは、学校祭、中学校のうち3年間ね、確か役割を選べるみたいな感じだったんですよ。
なんかこう、何か物を作ってそれを展示するとか、
あと屋台でなんかやるとか、なんかいろいろ選べたんですね。
その中で、私は中学校の3年間、全部演劇を選びました。
あの、吹奏楽とかね、やってる人は吹奏楽で演奏とかあったけど、私楽器とかは全然やれなくて。
でもなんかね、ステージに出るみたいなのはやっぱ好きだったんで、演劇を選びました。
女子ではあんまりいなくて、演劇選ぶのが。
それこそ今、私のリア友のパチパチが中学校から親友なんですけど、
パチパチと私ぐらいだったんじゃないかな、演劇を選んでたの。
それぐらい女子が少ない中、私はね、演劇が好きだったんですよ。
で、3年生の時は主役をやって、なんかステージで、なんか戦争の話だったんですけど、
なんか最後、クライマックスの時に、私一人だけが暗闇の中、スポットライトをパッと浴びて、一人前に出て、
アカペラでワンコーラス歌うっていうシーンがあって、
あの時めっちゃ快感でしたね。今思うと。
そんな人なかなかいないですよね。
で、私がワンコーラス歌ったら、後ろから他のキャストが歌いながら出てくるみたいな、そういうクライマックスだったんですけど、
その時めっちゃなんか、うおーってなった記憶があります。
だから私はステージに立つのが、全く緊張しないとかはなくて、全然緊張するし、何なら結構飛ぶし、
セリフね、飛ばしちゃったりとか、そういうのもあったけど、
でもやっぱりステージに立って表現するみたいなことが、やっぱり好きだったんですよね。
で、その劇が終わって、よかったよーとか、感動して泣いたーとか、いろいろ声かけてもらえると、めちゃめちゃ嬉しくて、
人の心を動かすっていうことに、自分がすごく喜びを感じるっていうのは、中学生の時点で、振り返るとね、
感じてて、多分それがしたくて、3年間演劇をしてたっていうのもあるかもしれないですね。
そう、そんな感じですね。
高校でのメディア体験
で、あとは卒業式、中学校3年生の卒業式の後に、懇談会みたいな、こう集まって、
親、両親とかと一緒に、先生たちと一緒にご飯食べて、お疲れ様ーみたいな、そういう会があったんですけど、
なんかその時に、実はね、バンドをね、出し物として披露するっていうのがあって、
ここもね、実はパチパチさんと一緒に出たんですよ。
で、これは、一人、友人の一人、男友達が、私とパチパチに、ダブルボーカル、ツインボーカルで歌ってくれないかって言われて、
えっとね、シャカラビッツっていうね、バンドの曲、2曲をやるっていう風に言われたんですね。
で、やっぱり私とパチパチは本当にね、中学校入ってからずっと仲良くて、歌うのが2人ともすごく好きっていう共通点があって、
よく2人でもカラオケに行ってたんですけど、そう、脱線しますけど、あの卒会の期間限定のオープンチャットの方に、
私とパチパチがカラオケで歌っている10年前の動画をね、上げてますので、気になる方は是非見てください。
そう、そんな感じですごく歌うのが好きだった私たちに、男子の友達が声をかけてくれて、
ちょっとバンドやりたいからボーカルやってくれって言われて、やることになったんですけど、
当時ね、シャカラビッツっていうバンドを私は知らなかったんですね。
そう、だからそっから初めて曲を聞いて、1ヶ月前とか、もうちょっと切ってたかな、結構ギリギリに言われて、
そっからね、覚えなきゃいけなくて、結局私は歌詞を覚えきれなくて、歌詞カードを持ったままバンドで歌うっていう写真も残ってます。
写真も残ってます。
で、さらに面白いのが、この時、声をかけてくれた友人は、私の幼馴染の男子なんですけど、
この時このバンドのギターを担当していたのが、今夫になっているたかしさんだったんですよね。
びっくりですよね。
そう、なかなかびっくりだなって思うんですけど、
そう、なので、なんかここでもまたちょっと運命を感じるんですけど、
私はね、たかしさんと中学校の3年間のうち、2年間が同じクラスだったんですけど、
全然仲良くなかったんですよ、別に、友達じゃない感じ、同じクラスっていうだけだったんですけど、
このね、バンドを練習するときぐらいですね、たかしさんと多分割と濃く絡んだ、
だと思うんですけど、あんまり話した記憶がないんですよ、3年間の中で。
そうそうそう、ね、時矢さんキュン、そう、不思議ですよね。
ご縁だなって思うんですけど、なのでこの時、中学生でステージで私が歌ってて、
私が歌ってて、歌詞カードを持って歌ってて、たかしさんが丸刈りのね、野球部ニキビ面の丸刈りのたかしさんがギターを弾いてて、
っていうのがちょうどね、私とたかしさんが隣になってるんですね、立ち位置的に。
そういうね、2人だけが写った写真もね、実はあって、
いやーなんか、すごいよなーと思って、この、それが回り回って夫になるなんて、本当に思ってなかったし、
本当に人生何があるかわかんないなーって、今振り返ると思いますね。
そう、っていう感じで、割とやっぱり小学校中学校と人前で話すとか、ステージに出るとか、
そういうのが割と好きだし、やっぱ歌ったりとか演じたりとか、アナウンスしたりとか、そういうのが好き、そんな子供でしたね。
で、高校に入って、アナウンサーにね、ちょっと憧れがやっぱりあって、
職場見学みたいな、そういう課外授業みたいなものがあった時に、アナウンサー興味があったので、テレビ局にね、行ったんですよね。
当時、毎日ね、テレビ越しで見ているスタジオとかを生で見たり、いつもテレビを通して見ているアナウンサーさんと直接話して、色々質問したりとかっていうのが、
すごくやっぱり自分にとってもいい刺激になったし、テレビの向こうってめちゃめちゃ特別な存在だったけど、
なんかテレビ局に入ってみたら、ある意味、いい意味で、こんなもんかみたいな、なんか普通に人だわみたいな、普通の人だみたいなのはちょっと思えて、
なんかこう距離が縮まった感じがあって、なんかこれもやっぱりリアルで会うことの大事さみたいなのは、この高校生の時に感じたんだと思うんですけど、
そう、そうなんですよ。あとここに、あー書いてなかったけど、確かその流れで、このテレビ局の中にラジオの収録ブースみたいなのもあって、
なんかね、職場見学に来た学生たちが今来ていますみたいな感じで、誰か一人代表でちょっと喋りませんかって言われて、確か私喋ったんですよね、ラジオブースで。
そうだ、それもある意味、私の音声配信の2回目の接点だった気がしますね。1回目は小学校の時のアナウンス室の収録。
で、2回目は高校生の時にテレビ局で、ラジオブースで、ちょっとだけね、ほんのちょっとだけ喋ったんですよ。
でもほんとちょっとだったし、なんか本当に予定されてなかった、いきなりそういう風に言われたから、聞き返すこともできなくて、どんな風に自分の声が流れたかとか全然聞けなかったんですけど、
そういえばここでラジオ出演をしてました。これも後で入れておこう。
そうですね、そんな感じで、結構高校生の時はそういうメディアみたいなものに、なんかちょっと興味がね、あったなーっていう感じです。
大学での社交ダンス
で、大学受験は、ちょっとね、前期で失敗して、後期で、まあここでいっかみたいな感じのとこに入ったんですね。
で、4年間ね、社交ダンスの部活をしてました。
名前は正式的にはね、競技舞踏舞っていう名前なんですけど、
これもね、なんかなんとなくぼんやり、高校生はテニスをやってて、中学の時はバレーボールをやってて、ずっと運動部で来てて、運動はしたいなって思ってたんですけど、
なんかやっぱ中学校、高校ではやれなかったことをやってみたいみたいな思いがあって、
そう、で、あの新館っていうね、新入生歓迎会みたいなやつで、いろんな部活がこう、私たちの部活こんな感じですとか、私たちのサークルでこんなことしてますみたいな、
そういうのをね、なんかこうやるとこで、あ、よしこ、やっほー、あれ、今日スターオフ会だよね。
今日スターオフ会だ1時から。
いやー楽しみですね。楽しんできてください。今じゃあ札幌観光とかしてるのかな?
楽しんでね。私も3時からモデルのオーディションなんで、あの仙台の方角に向かって、はい、ちょっと祈っといてください。
あ、今バスで移動中ね。お疲れー。ね、よしこも頑張ってね。楽しんでね。
そうそう、そうなんですよ。で、私あの、その新館でね、あの社交ダンスをね、目の前で見た時に、ときめいちゃったんですよね。
うわー、みたいな。もうお姫様みたいな衣装を着て、待ってるのを見て、なんかわーってなって、これやりたいって。
昔からダンスが好きだったからね、習ったりとかしたことなかったけど、やっぱ子供の頃からダンスするとか、なんかちょっとこう注目されることが好きだったりとか、
なんかそういうのがね、こうわーってときめきになって、もうすぐやろうって決め、あ、決めてないな。
えっとね、社交ダンスとヒップホップがあって、ヒップホップはサークルで社交ダンスは部活だったんですけど、そのどっちかに入りたいっていう風に悩んだんだ。悩んだんですよ。
どっちもダンスだから、悩んだんだけど、その時仲良かった友達が、あの社交ダンスの方にちょっと入ってみたいから一緒に行こうよって誘ってくれて、
じゃあっていう感じで社交ダンス部に入ったんですよ。ただね、あのー、あ、よしこ、社交ダンスってキリッとしててかっこいいよね。ありがとう。
でもね、ただね、入ってみたらね、まあ過酷でしたわ。あの華やかな舞台とは裏腹に練習がきっつくて。
私たち入った時、結構十何人って一気に入ったんですけど、私の友達も結構1年以内に辞めちゃったし、もうね半分以下になりました、人数が最終的に。
やっぱり練習の過酷さと、あとはね、結構センスも問われるんですね、ダンス。
どんなにね、頑張っても、やっぱり見栄えも大事だし、社交ダンスになってくると、見せ方とか、どう見えるかみたいなのもすごく大事だったり、
ちょっとね、あのスタイルとかも正直関係ないわけではないし、練習もきついし、やっぱり頑張っても頑張っても、なかなかやっぱり上位に行くって難しかったりするし、
とにかくね、練習も大変だし、あとね、男子と組んでやるっていうところで、やっぱり人間関係みたいなところも、なんかうまくいかないみたいな子もいたり、
なんかドロドロしたことがあったり、まあちょっとこれはね、後日ゆっくり喋りたいですけど、やっぱり恋愛のね、いざこざがあったりとか、
なんかね、いろいろね、難しいんですよ。いろんな面で、やっぱ難しいってなってやめちゃう子が結構いて、男子も女子もね。
そう、男子も男子で、結構やっぱり女性と触れ合えるとかね、綺麗な女子が多いんで、社交ダンス部。
それにね、連れて入ってくる輩もまあまあいて、そっからダンスの楽しさに目覚めて打ち込む人もいれば、なんかもうやっぱりそこまでやってられないわみたいな感じでやめる男子もいて、
そう、だからね、結構ね、社交ダンスはね、部活としては、なかなかやっぱ他の競技に比べて、いろんな要素があって大変だったなっていうのはあります。
うん、そうそうそうそう。
吉子、ペアでやるからそれもあるのか。
吉子、おさわり目的。
まあいましたよ、そういうやからもね、正直ね。
うん、そうそうそう。
射行ダンスの経験
マジでほんと綺麗な人多かったんで、私の上の先輩とかは。
で、そうですね、そんな過酷な4年間を過ごしたんだけども、最後まで私は何回かやめたいと思いましたが、最後までね、頑張りました。
で、最終的には東北で、東北の地区の大会で2位までね、行けたんですよ。
行けたんですよ。
そう、そうやり切ったんですよ。
そう、やり切って、で、2位だったんだけど1位がね、飛び抜けて上手くて、もう全国でも上位に入るぐらい上手かったんで、なんかね、もはや1位はね、その人たちが病気でもして休まない限り、慣れないっていう感じまでいってて。
だから2位は私の中では1位です。
はい、そう、それぐらいだったんですけど、でも正直、技術面では、私ね、全然だったんですよ。自分で言うけど。
そう、技術面は、私ね、あんまりそういう専門性みたいなもの、その掘り下げたりとか、専門的な知識身につけたり、専門性みたいなのって弱くって、どうしてもね、感覚でやってたからずっと。
人にこう、言葉で教える時も感覚で教えるタイプなんで、ここをギュッと言ったらバッといってみたいな感じで後輩で教えてて。
なんか技の名前も覚えれないし、どういう理屈でそういう風な動きするかとかもうまく説明できないし、みたいな感じだったし。
本当にね、専門性とか技術面では劣ってたんですよ。
だけど、ある意味、見せ方だけで2位にいったような感じです。正直。
映えたんですよ、要は。フロアで映えたもん勝ちだったんですね、射行ダンスの世界は、割りかし。
多少アラがあっても、「おっ!」って思ってもらうことが射行ダンスの世界ではやっぱり大事。
その限られた数分のパフォーマンスの中で、うじゃうじゃいろんなダンサーがいる中で、ジャッジをする人にいかに目に止めてもらうか、みたいな。
ずっとピンポイントで見られるわけじゃないので、いかに目に入って、いかにいい印象を残すか、そういう世界なんですね。
だからこれって発信の世界と似てない?ってちょっと思ったんですよ。
これも振り返って気づいたんですけど、たくさんいる発信者の中で目に止まる力。
これもある意味、射行ダンスで磨けたんじゃないかっていうのをちょっと思いました。振り返ってみて。
だからこれも一応自己PRの中でも触れられるんじゃないかなって思ったりしてて。
そう、吉子、技術は身につけられるけど、花は持ってるものもあるから最大の武器。
そうそう、そうなんですよ。
この射行ダンスやってた時も先輩とかOBの人に、花あるねって言われたんですね。技術は置いといて。
だからそれは褒め言葉と受け取って、私は花が武器なんだなって、この時に感じたなって思います。
大学時代の出来事
そう、今、あっこ年表を順番に読んでいってるんで、やっと前半、やっと大学生の途中まで来ました。
そう、っていう射行ダンスをやった4年間があったり、あと根性ここで鍛えられましたね、4年間でっていうのはあります。
あと人間関係ね、人間関係のいろいろも結構メンタル強くなったなって思いますね。
で、あとは大学生の時だったと思うんですけど、旅行中にね、ちょっと友達と待ち合わせしてたんだったかで、
原宿のラフォーレの前で待ち合わせにしてたんですけど、その時にスカウトされたんですよ。
で、何の事務所だったのかな、芸能事務所だったのかなと思うんですけど、待ち合わせがあったので、
あとちょっと一人だったので怖くて立ち去ろうとして、名刺だけって言われて名刺渡されたんですね。
その名刺ね、多分捨てちゃってて、なんかその時に動いてたらまた人生変わってたかもしれないなっていうのもちょっと思ったりして、
やっぱりなんかそんなねチャンスって早々降ってくるものじゃなかったから、なんかこの時にもうちょっとね自分の内側の気持ちに気づけてたら、
なんかまた違ってたのかなって思ったりするきっかけの出来事でもありましたね。
あとは大学生、3年生か2年生ぐらいだったと思うんですけど、学生が企画するフリーペーパーみたいなものがありまして、
それをなんかこうフリーペーパー作りを主催する一個上の先輩かな、男の先輩がいて、
それ友達の友達みたいな感じだったんですけど、誰かこうそのフリーペーパーの中で一つのコーナーとして、
なんかこう男子が好きな服装ランキングみたいなのもやりたいっていうので、そのモデルを探してるっていうことで、
友達の友達が誰かいないって私の友達に言ってくれて、あっじゃああっこいいんじゃないって感じで私に紹介してくれて、
そこではじめましてで、その方々とフリーペーパー作りみたいなものをやったんですね。
これがめっちゃ楽しかったんですよ。
そう、なんかどんなファッションがいいかみたいな、なんかかわいい系とかかっこいい系とかお姉さん系とかきれい目系みたいな、
あとギャル系とか、なんかそういうファッションを考えて、でそれを着て、でどこで撮るみたいな感じで、
カメラとかね衣装とかを持ちながらここら辺で撮ってみようみたいな感じで撮って、いろんなポージングで撮ったりとかして、
その時間も楽しかったし、で何百枚って写真撮った後に、私の家にねみんなで集まってパソコンに取り込んで、
これがいいんじゃない、あれがいいんじゃないみたいな感じで厳選して、でそれをボードに貼って、で学生食堂を回って、
男性にね急に声をかけて、どの洋服、どのファッションが第一印象で好きですかみたいな感じのアンケートをリアルで撮っていくみたいな。
当時はね、そういうネットでやるとかっていう方法は全然思いつかず、普通に学生食堂でひたすらに男性に声をかけていくっていうやり方をしたんですけど、
それも面白かったですね、今思うと。なんかお金にも何にもなんない活動だったけど、それがすごい楽しかったですね。
フリーペーパーとして紙面に乗って、当時私森岡に住んでたんですけど、森岡の街中でね、いろんなところに置かれてるのを見て、なんかわーってなりましたね。
これもなんかモデル業やりたいっていう今の気持ちにもすごくつながった出来事だったなって思うし、もう全部が楽しかったんでやっぱ好きだなって思いますね。
あと学生の時の経験、割と今につながってるなーって思うのが、アルバイトでね、NHKのね、生放送の裏方の補助っていうのをね、やりました。
画面がいっぱいバーって並んで、スイッチがいっぱいバーって並んでる場所あるじゃないですか。
名前忘れましたけど、そこにいて、Qが出たらこのボタンを押してとか、固定されている、何番はここのカメラとかって固定されているのがあって、
このタイミングでこれを押して、みたいなカメラを動かしたりとか、あとBGMここで流してとか、ここからちょっとずつ音量下げてとか、
なんかそういうのをやりました。やっぱりちょっとアナウンサーとか、そういうメディアに出るみたいな仕事に興味がどうしてもね、あったので、なんかやってみたいって思ってやって、
その番組作りの裏側みたいなのが見れるのもすごく楽しかった。
リハーサルでいろいろスタッフの皆さんとアナウンサーの方が喋ってたりとか、あとはその時間がね、残り時間とかが、次のコーナーまで残り時間とかが表示されてるんですけど、
アナウンサーさんが生放送なので絶対ね、収めなきゃいけないからそこをこううまく収めたりとかってするのを生で見てて、うおーみたいな思ったりとか、楽しかったですね。
あのバイトも経験になったなって思うし、なんか一つのものをみんなで作っていくみたいなのに、なんかちょっと触れてるのもすごい楽しかったっていう思いがありますね。
あとは他のアルバイトで単発のアルバイト、派遣でなんかいろいろちょこちょこ行くみたいなアルバイトもあって、その時はMCとかやったんですよ。
携帯電話のショップの店頭であのキャンペーンをやってるっていうののそのキャンペーンのMCとかやったりとか、ティッシュ配りとか、あとはそのなんかスーパーでなんかこう物を売ったりとか、
試食シーンとか、あとは山田電機とかケース電機とかそういうところで、ヘルシオかな確かの実縁販売したりとか、なんかそういう人前でなんかこうこの商品いいですよみたいな広告みたいなバイトもしてて、なんかその時にねすごく褒められたんですよね。
なんかすごく引きもいいし、ちゃんと伝えられてるし、なんか雇いたいってどっかの店には言われたんですけど、なんかそれぐらいなんかこう人に何か伝えるっていうのが上手だねっていうのを結構言われた経験もあって、なんかこれもやっぱり発信と似てるなぁと思って、なんか今思うと本当に発信につながることめっちゃ私してたんだなぁと思って。
そう、なんか発信に生きているのかもって、どんな風に話したら人に気になってもらえるかなとか、どうやったら立ち止まってもらえるかって結構あるじゃないですか、そういう店頭販売とかMCとかも、ただ決まったものを棒読みで読むんじゃなくて、今そこにいるあなたに届けるみたいな感じで喋るとか、
なんかそういうとこで工夫をね、そのアルバイトやる中でもちょっとしてきたのが今の発信に生きているのかなって思ったりもします。
社会人としての選択
そう、そんな感じで結構社会人になる前の大学生の時点で、わりかしいろいろ気になったことは経験していたなぁというふうに思います。
で、社会人になるんですけど、そう、社会人になって就職、これね、どこに就職したかってのをこの年表にはっきり書いています。
これはスタイフでは喋っていないので、このライブに来た人だけ見れるっていう感じなので、もし見ていない人がいたら見てほしいんですけれども。
そう、大学、あ、言っちゃった。とあるね、とある組織に就職をするんですね。
そう、で、やっぱり自分の今までやってきたこととか好きなこととかを考えた時に、あの、候補やりたいなって思ったんで、希望はね候補って書いたんですけど、結局それはかなわず情報系の部署に配置されることになったんですね。
ここもね、結構一問着二問着ありまして、大学生の時に就職どうするかみたいな段階の時に、あの、私、アナウンサーにね、やっぱり憧れてたので、アナウンサーになりたいなって思って夢見てたんですけど、
親にね、相談した時に、そんなの一握りの人しかなれないとか、それな、なれたとしても、こう、そっからね、ずっと活躍し続ける人もまた一握りだし、本当にやる気、それを、なんかこう、分かっててやるのかみたいな感じで、
大反対までは行かないんですけど、その覚悟はあるの?みたいな感じで、言われちゃってね。で、当時の私は、うーん、なんかそこまでの覚悟がなかったし、うーん、なんだろうな、なんか、そこまでの人生の中でも、こう、失敗することを割と恐れて、安定な方を選ぶっていう選択をしてきちゃっていたので、なんかね、うーん、
その時も、思い切った決断ができなくって、うーん、まあ親が言うように、公務員試験受けたらいいよねって思って、安定した、なるべく安定した会社に入れたらいいよねって思って、うーん、そう、いろいろね、あの、公務員的な仕事の、あの、法を受けるっていう感じでやっていったんですよね、そう。
いやー、なんか、この時もね、うーん、すごくモヤモヤしたままだったけど、でもなんか自分に言い聞かせてて、やっぱ周りも公務員試験受ける人が多かったし、学科が法律経済系の学科だったんで、割とそういう方向に行く人も多かったし、うーん、なんか、私は、まあここで落ち着くんだな、みたいな。
所詮と言ったら変だけど、まあ、うーん、その一握りに私はなれないなって思っちゃって、ここでね、そういう憧れや夢にはおさらばして、もう、あの、安定した身の丈にあった仕事をしようっていう感じで就職をしました。うーん、そう。
で、そっからは、20代は結構仕事頑張って、それなりにね、うん、やって、やりつつ、趣味でね、自分を満たしてたっていうところがあって、そう、あの、それこそ趣味で、あの、カラオケにね、めちゃめちゃ行きましたね。
最初の1、2年ぐらいは、あの、カラオケ好きの友達がいたんで、2人でね、朝1で行って、11時ぐらいだったかな、から、もう、あの、夜の6時とか7時ぐらいまで、もうぶっ通しで、フリータイムでひたすら歌うみたいなことをしたりとか、そう、あとは、趣味でね、ガールズヒップホップっていうのをちょっとやってみたくって、あの、ダンスレッスン受けたりしてて、
1年半ぐらいかな、ちょっと怪我で辞めてしまったんですけど、うん、あの、通ってて、うんと、ショー、ショーケースっていう、あの、クラブでね、あの、ショーをやったりが3回と、あとは大きいその、私が習ってたダンススタジオのイベント、大きいイベントに1回、計3回かな、ショーに出て、人前で踊るっていう経験をしました。
うん、そう、この時もちょっと覚えてることがあって、その、私一応、社交ダンスをやってたので、完全なダンス初心者ではなかったものの、そのヒップホップというジャンルにおいては、全然初めてだったんですよね、うん、なんですけど、あの、通い始めて、5ヶ月目くらいで、あの、そのレッスン受けてた先生から、あの、ショー、今度やるとき、
あの、一番最初のオープニングの、こう、自由に動くところがあって、そう、自由に動く、なんかちょっとガールズヒップホップなんで、ちょっとこう、妖艶な感じで、ちょっとセクシーな感じで、こう、動く、みんながそれぞれ自由に動くみたいな、で、こう、動く、こう、何、性の状態から動になっていくみたいな、あの、パートがあったんですけど、
そこで、あなた映えるから、このセンターでやってって言われたんですね、それも、おおーって思ったんですけど、私よりベテランの人もめっちゃいるのに、一番前のドセンターで、オープニングっていうのに、すごいびっくりしたけど、めっちゃ嬉しくて、うん、そう、これも、なんか社交ダンスやってたときとかに、花があるとか、言っていただけたのと、なんかすごく一緒で、
あっ、これは私の強みなんだっていうのを、なんかそこで感じたんですよね、うん、そう、で、積極的にできるときはショーに出たりとかして、やっぱり、うーん、ただ、ただ練習で踊ってるよりも、ショーがあるっていうのがすごく私はやっぱりやる気が出たし、やっぱり人前で踊って、なんかすごい、こう、人の心を動かす、感動してもらったりとか、
ワクワクしてもらったりとか、一緒に楽しい気持ちになってもらったりとか、するのが好きだなーって、うん、思いました、うん、で、多分これが、23歳、24歳ぐらいの時のことなんですけど、うん、その流れでね、アマチュアのカメラマンさん、当時ね、ミクシーやってて、ミクシーで、あの、仙台のカメラマンさんと、
モデルのコミュニティーみたいな、撮りたい人と、なんか撮られたい人のコミュニティーみたいなのがあって、なんかそこに興味があって入ったんですよね、うん、で、その中でなんか募集があったので、ちょっとやってみようと思って、普通にあの、無償、ボランティアでモデルやってくれる人、みたいな、練習代、なってくれる人、みたいな感じで、
やってみたいです、っていう感じで、3回ぐらいね、同じカメラマンさんにね、撮ってもらったんですよね、うん、それもね、やっぱりね、あの、大学の時と一緒で、撮影楽しかったんですよね、うん、ここでさ、こういうポーズして撮ってみたらいいんじゃないとか、なんかそういうのがすごい、なんか別に何か目的があるわけでもないんですけど、ただその時間が楽しかった、うん、ですよね、うん、あ、で、その時に撮った写真の1枚を今、ライブの背景にしています、はい。
そう、で、今回ね、あの、すっかり忘れてたんですけど、思い出したんですって、あの、言うんですが、あの、この時に撮ってもらった写真のデータを、私なんか、なんか当時、あの、フォトブック作るのにハマってて、で、あの、その時に撮ってもらった写真のデータを元に、なんか自分の写真集みたいなのを作ってて、めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど、
なんか撮ってもらった記念に、みたいな感じで、誰にも見せない、あの、フォトブックをね、作ってまして、はい、それをね、そういえばそういうのあったと思って、昨日、私の思い出ボックスの中をゴサゴサ漁りまして、見つけ出しました、はい。
なので、それをね、今日、うん、オーディションに持ってって、ちょっと見せてもいいかなって、ちょっと恥ずかしいけど、しかも10年以上前なんで、なんか何の参考にもならないかもしれないけど、なんかそういうこともやってました、みたいには言えるかなって、うん、思っています、はい。
音楽活動の経験
そんなことがあって、あとね、社会人になってからは、あの、それこそ社交ダンスで繋がってた友人のご縁で、あのね、ティーナ・カリーナさんっていう方がいるんですね、主に宮城で活動されているシンガーソングライターの方なんですけど、その方のコンサートのバックダンサーをね、一回やりました、はい。
これも初出し情報なんですけど、なんかね、昭和、昭和歌謡祭みたいな感じのコンサートで、ティーナ・カリーナさんがいろんな昔の昭和の歌をカバーして歌うっていうコンサートだったんですね。
そう、だから、なんかね、あの、あれですね、結構昭和っぽいレトロなワンピースとか、うん、そういうのを着たりとかして、あの、2、3曲かな、そんなに難しい振りではなかったんですけど、うん、友達、それこそ社交ダンス友達、仲間のみんなで、あの、バックダンサーをね、しました。
いやー、これもね、貴重な経験だったし、めちゃめちゃワクワクしましたね。
そう、これもボランティアだったんですけどね、ほとんど確かだったと思います。
はい、そんな感じで、うん、やっぱりね、こう、自分の好きなことって、だいぶね、あの、いろいろ、なんか、掘り起こしてみると、私いろいろやってたなって、好きなことめっちゃ明確じゃんって思いましたね。
なんか自分に何もないと思ってたんですけど、そう、あ、なおちゃん先生、お疲れ様です。これからオーディション?あ、そう、3時からなんですよ、午後の。なので、ちょっと午前中は、あの、自己PRに向けたあっこ年表をね、作って見てて、午前中に。
ちょっとこれせっかくだから、一つ一つ、あの、どんな内容だったかを語りたいなと思って、今、ライブをしてました。
で、このライブの文字起こしを、またチャットGPTに投げて、3時のね、自己PRの本番ギリギリまでね、ちょっと内容精査しようかなと思ってました。
私いろいろやってたじゃんっていうことに、今回年表を作ってみたら、気付けて、そう、なんか昨日まではもうちょっと発信してからの話をしようかなって思ったんですけど、なんか幼少期からの振り返っ、人生振り返ったら、結構その、今私が受けようと思ってる事務所で求めてる人材だよってことが言える要素他にもあるんじゃねって思って、そう、今掘り下げをしてました。
はい、ぜひあの、このあっこ年表、今レターで表示してるんで、それ見てみてください。
そう、なんならこれ印刷して持ってこうかなぐらいに持ってて、あの、喋りきれないかったらこれ見てくださいみたいにしようかなと思ったりしてて、うん、そう意外と私はいろいろやっていたなぁということをね、はい、自覚しました。
そう、で、あとは自分の結婚式ですね、結婚まで来ました。
人生の転機と音声配信
はい、自分の結婚式で、あの自分で余興をするっていう、はい、これもね、あんまりそんなにないんじゃないかなって、大体誰かに頼むと思うんですけど、私は出たがりなんで、自分で、はい、企画して、
あの、それこそ中学のとこに書いてるんですけど、あの卒業式後の懇談会で友達とバンドを披露っていうのがあるんですけど、この時に一緒にやったメンバー何人かも来てくれたんで、その人たちを誘って、
で、あの、夫婦でね、夫がギター、私がボーカル、あと友達がドラムやってた子が、ドラムはさすがに持ち込めないので、カホンっていう打楽器ですね、うん、あとそれこそパチパチさんも来てくれたんで、ツインボーカルで、
あと、えっと、当時バンドには参加してなかったけど、あの仲良い子でピアノが上手な子がいるので、ピアノ、なのでギターとカホンとピアノ、あとツインボーカルで、あの星野源のね、サンっていう有名なね、あの曲をね披露しました。
これもめちゃめちゃ楽しかったし、もうめっちゃ盛り上がりましたね。
そう、アンシスターすげー。よしこも言ってるけど、生まれながらに花があるよね。ありがとうございます。
いやでもこれはみんな言ってくれるけど、やっぱ誰にでもあるものではないっていう風にね、あの、言ってくださるので、なんかそれを私は結構受け流してきてたなって正直ね、振り返ってて、
なんかいっぱいチャンスとかきっかけあったのに、なんか行動してなかった。本当はやりたいのに、いや私なんかみたいな謙遜で、なんかやってこなかったのがすごくもったいないなぁと思って、
何なら多分ダンスしてた、大学生の時とか、その社交ダンスの部活の一個上の先輩で、それこそ芸能事務所に入ったっていう人がいたんですね。
その人の話聞いた時も、いいな、私もちょっと興味あるなって思ったけど、言えなかったし、後、高校生の時の一個下の仲良かった後輩が東京でね、アナウンサー全国でアナウンサーになったっていう時も、
いいなってすごい心が踊ったし、もやもやして、私もやっぱりこういうの挑戦してみればよかったなってすごく思ったし、いろいろやっぱり動けば何か変わったかもしれないチャンスっていっぱいあったんだけど、
どっかで私なんかっていう気持ちと失敗したらどうしようみたいな、今思えば失敗なんてないよって思うんですけど、失敗を避けるマインド、安定志向みたいなのが邪魔してて、
なんかね、だから本当に、そうだね、もうちょっと自分の声を聞けたらよかったなって、今は思いますよね。
そう、結婚して、出産もして、コロナ禍だったので、本当にうずっぽくなっちゃって、当時何も発信とかもやってなかったから、ひたすらただ、
なんかインスタとかYouTubeとか、寝ない、子供、育児、つらい、みたいな検索して、ひたすら見てて、当時は本当にキラキラしたママの育児みたいな発信とかも全然見たくなかったし、
そこでね、バブリー玉美ちゃんに出会って、なんかつらいのは私だけじゃないんだなって気づいたし、なんかこうやって、なんかこう汚い部屋とか、育児しんどいっていうこととか、
なんかそういうのを出していく発信いいなって、その時にすごく思って、それがね、私の今の原点になってるなって、いいとこだけを見せるんじゃなくて、それがね、すごい思いますね。
で、こっからね、ちょっと黒いね、黒い線を引いてるんですけど、こっからはね、私の中ではそういう趣味とか、楽しみとかっていうのはほとんどなくて、カラオケにもね、子供なら行けなくなったし、ダンスもね、やれなかったし、
なんかそういう自分の中の好きとか、楽しいとか、なんかやりたいみたいな感情はもうほとんどなく、ひたすら育児と家事と仕事、それをぐるぐるぐるぐる回していくだけの人生が始まりました。
で、転機になったのが2023年の5月ですね。第二次の育休の時に、スタイフで音声配信を始めて、こっからはね、多分皆さんなんとなく知ってると思うんですけど、そこからね、少しずつね、配信聞いてくれる方が増えて、仲良い人が増えていって、
2023年の12月に、ちょっとね、お腹痛くて緊急入院をするっていうことがあったんですけど、この時にね、ちょっと初めて有料配信をね、ちょっとあまりに暗いからと思ってやってみたら、4人の方がね、優しい4人の方がね、買ってくれて、
あとは、Xでね、ファンパスっていうのはね、当時ちょっと流行ったんですけど、ファンが買う、なんか、ファン会員券みたいなのがあったんですけど、これもね、なんか24人の方が買ってくれたんですよね。
応援の力
これもすごいなと思って、別に何者でもなかったんですよ、当時。そう、何者でもなかったんだけど、お友達っていうことで買ってくれた人もいれば、中にはね、全然そんなにすごく交流してた人じゃない方で、たまにコメントくれるみたいな方だったんですけど、
あっこさんは今後、すごい人になりそうだと思ったから、期待値で買いますって言ってくれた人がいたんですよ。それもすごいなって思うんですけど、カチューマ感があったみたいですね。馬券を買ってくれたみたいな感じだと思うんですけど、
そういう風に買ってくれた方もいたりとか、純粋に応援したいって買ってくれた人もいたりして、本当にありがたかったんですけど、発信して1年経ってないうちにそういう風になったっていうのも、一応自己PRのポイントにもなるのかなって思ったので、ちょっとそれも入れてみました。
で、あとは2024年の2月ですね、お腹の手術をして、2週間弱かな、入院をして、その時にね、スタイフで繋がった仲間が声を上げてくれて、サプライズで応援のエイルの36人の方から応援いただいて、最近手術したタカシはそれを大きく超える50人ですけどね。
これ年月が経ってますんで、言い訳じゃないですけど、タカシの方がすごいみたいな感じがしますけど、この時まだ発信して1年経ってないですからね、と言っておきます。
そう、すごいでしょっていう感じなんですけど、そういう風にね、動いてくれる人がいたり、協力してくれる人がいたりしてね、すごくありがたかったなっていうの、これもね、すごく心が温まるエピソードだったし、
なんかこんなにたくさんの方に私は応援してもらってるんだなっていうのがすっごい嬉しかったんですよね。
シスターが泣いている。そう、そうなんですよ。
あとは50人いったのはね、私の頑張りがね、結構ありましたからね、裏でね、めっちゃいろんな人に声をかけましたから。
というのは置いておいて、はい。そう、で、退院してからですね、無償で音声配信のコンサルとかサポートっていうのをモニターでね、やり始めて、うん。
なんか自分にもできるんじゃないかということで、副業はね、禁止だったので、とりあえず無償でやれることっていう感じで、とにかく楽しみながらね、音声配信やりながら、自分にできる価値提供をね、進めていきました。
で、ファンビジネスを学ぶ講座、半年間のものに60万以上ね、金額を払って、人生で初めての大きな自己投資をして、
学んでいったりとか、あとは大抵この時期だったんですけど、カジハック大賞っていうね、民間でやってる企画があったんですけど、それの関わってる方がスタイフでつながってて、
あこさんにぜひスタイフでこのカジハック大賞っていうものの認知を広めてほしいということで、初めてのね、アンバサダーというね、役割をね、依頼されまして、
そう、広報PR活動みたいなものを、初めて人に頼まれてやるっていうことがあったりとか、うん。
あとスタイフのメンバーシップやってみたりとか、あと優勝でコンサルとかサポートを始めたりとか、っていうのがね、こう、どんどん動きを始めていって、
で、今年ですね、2025年の1月ね、ちょっとこれあの、もしかしたらね、印刷して、あの、今日、あの、オーディションの時にね、提出しようかと思ってるので、具体名とかは書いてないんですけど、
リアルのね、ファンイベントで人気投票とスピーチっていうのを経験して、まあ7名中3位という結果に終わりましたけれども、
いやでもこれもめちゃめちゃすごい機会だったなって思うし、だからそういうなんか、なんていうの、人と順位がつけられるみたいなことも全然もうこれでね、私は免疫がつきましたから、
あのランキングとかね、そういうの大丈夫ですみたいな、全然何でもネタにできますみたいな感じで、そこもアピールポイントかなって思いますし、
あと2月にはね、リアルイベントで竹藤のCMのね、ダンスを踊って、そう、福岡にね、住んでるダンサーの方に振付をね、教えていただいたんですけど、
全て遠隔で練習をして、で当日本番始めましてであって、その場で披露をしたんですよね。これもめちゃめちゃいい経験だったんですよ、自分の中で。
10年以上踊ってなかったんでね、だけどここまで踊れるんだっていうことにちょっと自信が持てたし、
やっぱダンサー界で言ったらめっちゃ下手ですよ。技術的にはめっちゃ下手だけど、やっぱりここでも言われたのが、見てくれた方が、あっこさん本当に魅了するねって言われたんですよね。
ダンスの上手い下手とかよくわからんけど、すごく引き付けられたみたいなことを言われて、表現力、技術はともかく、社交ダンスをしてた時代もそうなんですけど、
私はなんかやっぱそういう表現とか、そっちで、そっちを強みにして、やっぱりやっていこうってすごく思って、そう、なんかねここで1月2月でリアルイベントにドンドンって出て、結構ここで枠が外れたっていうか、自分の中のネジがぶっ飛んだ瞬間で、
この辺りでもう、もうやめ、その前からやめたいなっていうのがほんのりあったけど、ここで本当にやめて、ちょっと自分のやりたいことやってみようみたいな気持ちにガチッとなりましたね。勢いがつきました。
運命の日に向けて
そう。で、今年の6月末退職してフリーランスになって、まあね、不思議ですよね。今こんな状況なんですけど。
DJミネさん、こんにちは。今日あれですよね、今日確か北海道のスタオフ会、ミネさん参加ですよね。楽しんできてください。
今日オーディションなんですね。ファイトです。ありがとうございます。頑張ります。ちょっとオーディションに向けて、今ちょっと自己PRの。
こんなに長く語る時間もないので、どこをね、特に強くね、アピールするかっていうのを、これからこの持ち起こしを使って、チャッピーと壁打ちして、もうギリギリまでね、寝ろうと思ってます。
よしこさんと朝昼さんと合流。いいですね。楽しんできてください。感想もお待ちしております。
シスター娘が帰ってきたので、ここまで頑張ってね。ありがとうございます。
本当にみんなに応援してもらえて、それもね、アピールポイントだよねって言ってくれた方もいて、確かにそうだよなと思って。
こんだけいろんな方に、この無名の状態で、何者でもない私に対して応援してくれる人がいて、興味を持ってくれる人がいるっていうことを伝えて、恩者に面接みたいですけど、恩者に私が本当に採用していただけましたら、
私がこの音声配信、得意な音声配信というものを通じて、恩者のこともね、PRもできますし、何歳からでもね、人生を変えていくことができるよっていう私が伝えたいメッセージと、
私がこれから受けようと思っている事務所のスタンスもすごく合ってるんですよ。そこを強調したいなっていうふうに思っていて、
ママ界の星になりたいっていう話をしたいなっていうふうに思っています。
本当にちょっと前まではただの普通の会社員でしたから、それでもこんなに変われるんだよっていう、ビフワーフは見せたいなって思っています。
私は9月ですね、リアルイベント東京で開催予定、あっこのね、会社員卒業を祝う会っていうね、オフ会をしようとしてるんですけど、
今ちょっとレターでも表示したんですけど、これがね、実はね、あれなんですよ、もうね、ほぼね、30人くらい集まりそうなんですね。
そう、VIPのチケットが残り1枚と、あと普通の参加券も残り3枚だったかな、だったと思う。
だから、実残り4名なんですね。28人くらいかな、集まっているので、この9月のイベントなのに、今の時点でそんなにすごくね、毎日毎日言ってるわけでもなくても、それぐらい集まっているっていう、
それもね、アピールポイントにもなるかなと思ってちょっと書いたんですけど、そう、あと当日参加できない方、2000円で応援ができるっていうお祝いチケットみたいなものもあるんですけど、
これもね、現時点で38枚購入されていて、一応こう、それ買っていただくと、期間限定のね、オープンチャットに入って、いろいろね、裏側を見れるよっていう風になっているので、
それが目的の方もいるだろうし、純粋に会社員卒業おめでとうって買ってくれてる方もいるし、何ならね、1人で5枚とか6枚買ってくれてる人もいて、
めっちゃありがたくて、なんかこれ本当に、なんか、なかなかそんな風に応援されるって、なかなか難しいと思うんですよ。
だから、なんか結構、これってすごいんじゃない?って思っています。
そう、なので、ちょっと今回ね、こうやって歴史を振り返ってみて、
なんかね、今までみたいに会社員として、ただただひたすら定型業務をやって、マニュアル通りにルーティーンをこなすっていう人生はやっぱり私には向いてなくって、
今本当にまさに、自分の子供の頃からのワクワクとかときめきとか、そっちの方向に今舵を切ろうとしていて、
多分本当に今日が運命の日になるんじゃないかなって本当に思っているんですね。
なので、ぜひ応援していただけると嬉しいですし、
とりあえず今日の夜、もし時間が取れたら、直後のね、どうだったかっていう、結果はね多分後日だと思うんですけど、
オーディションこんな感じでしたっていう配信じゃない、ライブをしていこうかなって思っているので、
お時間会う方はね、ちょっと今日の夜あこがライブするかもしれないっていうことを覚えておいてもらえると嬉しいです。
はい、そんな感じですかね。とりあえず今日は、あとは自己PRを最後詰めて、
そうですね、あとはもう成り行きかな、成り行きで頑張っていきたいと思います。
はい、皆さんからもたくさんね、昨日の朝の配信にコメントいただいてパワーを受け取りましたので、頑張っていきたいと思います。
はい、ということで1時間以上、私の歴史を長々と語ってしまいましたが、最後まで聞いていただいた方いたらありがとうございました。
はい、じゃあ皆様ありがとうございました。楽しんできてください。
ありがとうございます。ではでは失礼します。