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2023-10-24 1:26:23

インタビュー_2023_02_27_火曜会からannolab立ち上げまで

インタビュー音源

サマリー

anno labの火曜会は2011年から始まり、震災後の日に会が立ち上げられました。この会はサロンのような集まりであり、メンバーは毎週ワイワイと作品紹介や興味のあることを共有しながら刺激し合っています。その後、メンバーが増えてきて、展示の依頼などが舞い込むようになりました。インタビューでは、グループが始まるきっかけからラボの名前やロゴの作成までの経緯について話されています。また、「森の木巾」プロジェクトの結成経緯と、メンバーが個々に感じていたフィードバックの話を紹介しています。さらに、クライアントワークを通じて感じたネットコミュニティの盛り上がりや、技術ブログを書くことでのマーケティングの有効性についての考察、そしてGPT-4とAIの進歩がマーケティングに与える影響についても話しています。また、そのまんま歌謡会の引継ぎからannolabの立ち上げまでの経緯については、話者がその進行過程について語られています。最後に、村上さんがブログの文章について意見を述べ、内部でまとまった形でシェアできるよう整えることを提案しました。

火曜会の始まり
ありがとうございます。
えっと、2009年の10月からサダムさんはシリアスゲームプロジェクトに関わるようになって、
で、anno labを立ち上げたのが2012年4月で、 火曜会っていうのはどのくらいのタイミングで始まりましたか?
えっとですね、割と記憶がおぼろげなんですが。
たぶんけど、1年前ぐらいだと思いますね。2011年からやったんじゃないかなと思いますね。
震災後ぐらいの日とかなんかありますか?
そうですね、たぶん震災ちょうど震災前後だったと思います。
覚えてるうさみくん?その辺の時期とか。
あら、うさみくんオンになってないかもこれ。
あの、ちょっと今ね、ほうかべさんがおって聞いてた。
聞いてた。
けど、わからん。
メンバーの増加と刺激の共有
そうね。たぶん1年ぐらいはやった気がしますよね。たぶんね。
そのサロンっていう感じで始めたっていう。
さだむさんは狙いとしてはどういうところになりましたか?
えっと、僕が当時その芸工大で、九州大学の芸工学部で、
テクニカルスタッフとして働いてて、
たぶん前回少しお話ししましたけど、シリアスゲームプロジェクトをやってて、
同僚で中島あいちゃんっていう子がいたんですけど、
その子はもともと、
後世年科学館の時は、
運営スタッフには入ってないけど作品出してもらったみたいな感じで、
けどメンバーと結構仲のいい子だったんですよね。
あいちゃんが後世年科学館の時にやってたみたいな、
サロンみたいなのをやりたいみたいな話をしたのがたぶん、
きっかけだったような気がするんですけど、
僕も結構そういうサロン、
あの時に運営チームとかで集まって、
毎週ワイワイサロン的に何か作品紹介をそれぞれやってみたりとか、
なんとか刺激し合ってたのがすごい面白かったなぁみたいなのは思ってたんで、
それで何かそういうサロンみたいなのをしないっていうのを、
たぶんうさみ君とか岩谷君とかに声かけたんだったような気がしますけど、
その辺の詳細ちょっと覚えてないんだけど、
ただ、あれとしては下校大の部屋の一室を借りて、
毎週火曜日の放課後的な時間に集まって、
研究発表したりとか、
なんか自分の最近やってることとか、
最近興味があることとかをそれぞれ紹介し合うみたいなのをやって始めたんだな気がしますね。
徐々にメンバーが増えていった感じで、
うさみ君もね、確か途中から参加し始めたんだったよね、確かね。
そんな覚えがありますね。
展示の依頼
メインは中島愛さんが中心になったような気がするんですけど、
さなむさんとごっちゃんとかが乗っていったような感じ。
僕は全然知らなかった、その存在を。
なっちんとかは後なんだよね、僕もたぶん。
だから、まあそうか、
後世年とは別ルートっていうイメージではいた。
最初はね。
けどきっかけは、その後世年の時にやってたようなのをやりたいって、
愛ちゃんが言ったのがきっかけだったんで。
できる限り後世年のメンバーには声をかけたいなっていうのは思ってた気がしますけどね。
なんとなく立ち位置としては、後世年はどっちかというとクリエイターの集まりって感じで、
歌謡会の方はどっちかというとコミュニティを作るフォームがメインだった気がする。
そういうイメージ。
機能がなんか別で、後半に合わさっていったような。
多分そこの本当にサロンの部分というかコミュニティの部分をやりたいっていうのを多分愛ちゃんが言ったんだと思うんですよね。
だからクリエイター、
もともとはその後世年科学館はクリエイターたちが集まって、
クリエイターたちが集まった中で生まれた文化の中から、
いろんなサロン的要素みたいなのを当時やってたんですけど、
そこの多分サロン的要素というかね、
お互いに刺激し合うコミュニティっていうところに多分愛ちゃんは興味を持ったんだと思うんですけど、
そこをやりたいっていうように言って、
それいいねっていう感じになって僕が乗って、
声かけたのは割と僕が中心というより多分愛ちゃん中心に声かけて、
僕も声かけていって、多分途中から
うさみ君とかも入ったし、岩谷君も入ったし、
割と岩谷君もそうですね。
そんな感じのイメージがありますけどね。
そこでわいわいやっていってたら、
その発表してた人とか愛ちゃんとかいろんなつながりから、
結局のところこの母体に何か作ってくれないっていう依頼みたいなのが来たりして、
ウェブページ作ってくれないみたいな話とか、
多分一番大きかったのが九州大学の同窓会みたいなやつを、
これは下校大じゃなくて九州大学の本体の方の同窓会みたいなのをやってる人、
どういう人なんだっけ?
どういうつながりだったのかちょっと覚えてないんだけど。
あれ、誰から話きたんだっけ?覚えてる?
ごっちゃんか、ごとうさんか、中島愛さんかどっちかですよね。
多分ね、その辺りだと思うけど。
今ごっちゃんって言ったのはごとうもえさんっていう人がいて、
今はもう伝通に入ってて、当時も伝通に内定してたんですけど、
内定してたんだけど白紙課程を取り切ってなかったんで、
もう1年学生やって白紙を取ってから行くっていうことになって、
その1年と多分かぶってたんですよね。
それで歌謡会に、ごとうさんももともと高生年の中心のメンバーで、
その辺りで歌謡会にも入ってたんですけど、
それでそこの辺のメンバーの中からつながりで、
なんかこういう話があるんだけどっていうのがポコポコしたりして、
その中で1つ、九州大学の中の施設で展示、
芸光大を紹介する展示みたいなのをしてほしいっていう依頼を受けたんですよね。
それで展示やるんだったら高生年みたいになんか、
もう1回盛り上げようみたいな動きが出て、
その辺りでがっつりチームになって踏んだのが、
多分高生年のメンバーが割と多くいたんじゃないかなっていう覚えがありますね。
中島愛さんって方は今何されてるんですか?
今はですね、フィンランドの方にいて、
ちょうど僕ら結婚式にお呼ばれしたので、
5月ぐらいに結婚する予定なんですけど、
向こうで研究者したりしてて、今多分まだ研究者なのかな。
メディア、アートとかは?
どちらかというと、彼女デザイン寄りなんですよね。
どうなんだろうね、グラフィックデザイン寄りだよね。
今愛ちゃんが何をしてるかわかる?
あの子も発発すぎて謎すぎるんだけど。
大亀さんの方がよく知ってる。
その当時は学科は?
愛ちゃんはもともとは画像設計、
うさみ君たちと同じ画像テレビだったよね。
画像だよね、あの子。
デザインストラテジーにいたっけ?どうだろうな。
愛ちゃんはね、どちらかというと僕のイメージでは
グラフィック系、デザイン系をしてた子なんですよね。
もともとむさび出身で、インからゲイコーに来てたんですけど、
その当時は僕と一緒にシリアスゲームプロジェクトっていうプロジェクトのスタッフをやってて、
彼女がグラフィックの方を担当して、僕がプログラミングの方を担当して、
一緒にシリアスゲームを作ってたメンバーなんですけど、
一緒に仕事をしている中からそういう話も生まれて、
多様化やろうっていう流れができたっていう流れではあります。
そのゲイコーダイの紹介する展示をっていう話が来るまでも、
毎週集まってそれをお互いそれぞれがプレゼンをしたりとか、
意見交換したりっていうのを続けていて、
徐々にコミュニティが広がっていってみたいな。
そうですね、そうですそうです。
うさび君も割と別ルートからって言ってましたけど、
多分最初は、
高生年科学館そのものを継続しようっていう流れっていうよりは、
ああいう感じのものをやりたいっていうところから始まって、
高生年のメンバーが中心にっていうよりは多分、
あいちゃん中心にここここ集まってきて、
けど共通の知り合いがすごく多かったんで、
そこの中でも僕も入り、途中からうさび君も入り、
岡部さんとかね、いろいろ後藤さんとか、
その辺の元高生年のメンバーがどんどん入ってきた中で、
元の色を割と、またそこに作ってほしいみたいな依頼が入ってき始めたから、
割とそういう高生年の、
あと展示ですね。展示をするっていうのを中心に高生年科学館はやってたんで、
芸工大のあれをやってほしい、展示をやってほしい。
それも多分その高生年科学館の動きを知ってたから、
それでああいう高生年科学館みたいな展示を、
芸工大の大きな同窓会のイベントでやってほしいっていう話だったんだと思うんですね。
その声を掛けてきた人っていうのは、
世代もそんなに上でもなく、
そうですね、鎌田さんはどのくらいだろう。
ある程度上だった覚えがあるけどね。
多分10、15、20ぐらいは、10以上は上だったんじゃないかなって気はしますが。
高生年科学館って前回少しお話ししましたが、
いろんなそういう社会人とかに声をかけて、
お金を集めたりしてたんですよね。
なのでそういうのもあって、
すごく、特に先生とかOBの人とか、
そういうのに受け入れがめちゃくちゃ良かったんですよ。
そういう流れもあって、
結構歌謡会をやって、
途中から高生メンバーとかがそういうのをやってるっていうのを、
関わってたメンバーからまたぎきしてたと思うんですけど、
いろんなそういう先生方とかも応援してくれたりしてたんだと思いますね。
その流れの中で、高生年科学館みたいな感じのイベントを、
中大の本体のほうの同窓会の大きなイベントでもやってほしいっていう声がかかったんだと思います。
うさみさんは途中から加わったときには、
どういうふうな話が進んでて、
ご自身はどういう話をプレゼンしたかっていうのは覚えていらっしゃいますか。
えっと、
僕は特に、
あれ、もう話を持っていくみたいなことはなかったような気がするんですけど、
同窓会関係でロゴマーク作ったりとか、
旧大アラムナイか。
同窓会のなんとかアラムナイっていうのが、
いろいろ大学の同窓会でネーミングとしてあるみたいで、
旧大アラムナイみたいなのを作ろうみたいな話になってて、
ロゴを作ったりチラシ作ったりとか、
ブランディング広報あたりで制作に携わったりとか、
あと、
他のメンバーとゲームを作ったりとか、
ゲームの叩きを作ってみたりとか、
そういうこともしたり、
やってましたね。
同窓会でも、物を作る方にむしろ行っていた感じですか。
僕がそこしかあんまり興味がないかな。
そこだけ耳を傾けていた感じですね。
アラムナイの最初はロゴマークとかそういうのを作ってほしいみたいなところから、
最終的に展示をやってほしいっていうのは、
一番最後に来た感じだったような気がします。
がっつり覚えてます。
アラムナイっていうのはどういう意味ですか。
アラムナイって同窓会っていう意味ですね。
同窓会の英語でアラムナイ。
多分いろんな大学の、
東大とかにもアラムナイっていうので、
同窓会グループが多分あるんだと思います。
それと一緒で、
旧大にもアラムナイっていうのを作ろうっていう動きが、
当時あったんだと思うんですね。
今残ってるのかどうかちょっとよくわかんないですけど、
多分あるんだと思います。
それ、じゃあ展示よりそっちが先だったんですか。
そうですね。
そう、多分ロゴ作ってほしいとかウェブ作ってほしいとか、
そういうちょこちょこしたあれが、
仕事っぽいものが入ってきてた気がします。
で、そのあたりから、
これちょっとこの歌謡会のやつを、
個人事業の次第になるなりにしないとね、みたいな、
収入みたいなのが入りそうになってたんで、
そういう話になって、
僕は学校で働いてたんで副業できないんで、
ラボの立ち上げ
それで後藤萌恵さんにお願いして、
個人事業主になってもらって、
だから後藤さんが代表で、
あのラボの前身というか、
そういう個人事業主をやりましたね。
で、それ作るのに名前が必要だよね、みたいな話になって、
もうなんか、
名前が必要だよねって話をした日のうちにはもう決まってましたけど、
あのラボっていう名前になって、
個人事業主としてあのラボっていう名前で登録をしてもらいました。
あのラボはどこから出てきたんですか?
多分僕ね、覚えてるのは、多分岩谷くんだったと思うんですよね。
今ちょっとまだ入ってこれてないんですが、岩谷くんが、
なんかさだむさんもいつも、
あのあれが、あのあれ、あれで、あれ、みたいな話しかしないから、
もうあのラボでいいじゃないですかって話になって、
それでいいじゃんって話になって、
もうサクッとあのラボになったのを覚えてますね。
めちゃめちゃ多分何の抵抗感もなく、
スルスルっと入れたのを覚えてます。
で、まあそのあのラボっていうのを、
じゃあロゴ作んなきゃみたいな話になって、
一番最初にロゴを作ったのは、
後藤萌恵さんが作ったんですけど、
ロゴ化するときに、
ANOだと、
あのラテン語とか、
ラテン系の言語だとお尻の穴になっちゃうから、
ANOはまずいよねみたいな話になって、
じゃあANNOにしようみたいになって、
一応その、あいちゃんとか留学生とすごく仲良くしてたんで、
いろんなそういう留学生とかにネイティブチェック的なのをしてもらって、
ANNOだったら全然そんなに、
うん、あの、
フラットなイメージらしいよーみたいになって、
ANNO、ANNOラボになった感じでしたね。
うん。
じゃあちょっと火曜回の話に戻らせてもらう。
歌謡会の内容
実際にそのアラーム内のロゴとかを作るっていう話が出る前に、
例えばなんかこういう風な意見交換が行われていたとか、
当時の、2011年当時にみんなが共有してた興味だったりっていうのはどういうところだった?
めちゃめちゃ薄いんですよね、覚えてないですよね。
結構毎回ちゃんとその、
あの、
プロジェクター使って映しながら、
あの、
その持ってきた、それぞれが持ってきたなんかネタみたいなのをあれこれ見てた覚えはあるんですけど、
内容はねそんなに覚えてないですよね。
基本はけど、なんか研究内容の発表とかそういう系が多かったような気がするんですけどね。
ただ、あとこういう面白いアニメーション見たよーとかいうのを紹介してみたりとか、
そういうのが多かった気がするんですけどね。
八谷君とか覚えてたかな。
ちょっとね、内容をね本当に薄っすらとしか覚えてないんですよね。
僕も全然覚えてないです。
ですよね。
全然覚えてない。
テーマとか決めたりはしてた?
テーマ決めたりとかは特にしてなくて、それぞれ。
テーマは特に決めてなくて、
あの、それなんか来た人、
今日はこの人、この人、この人発表するよーみたいなのを多分集めてて、
多分あいちゃんが集めてくれてたんだと思いますけど、
それで、えっとじゃあ、
みんなで聴いてみようっていう感じで、
聴いてそれぞれになんか雑談を、その後に雑談をワイワイしたりして、
っていうのを繰り返して、
大体はその後に一緒に食べに行ったり飲みに行ってたりしたような覚えがありますが、
八谷君、あの歌謡会の内容って覚えてる?
内容?
何を喋ってたかみたいなの?
うーん、なんか見かけた面白い作品の事例を紹介したりとか、
最近こんなもの作ったよー言ってる人もいたかな。
そうそうそう。
そのふわっとしたあれは覚えてるんだけど、
具体例でこういうのあったって覚えてる?
えー。
かなぐらむ作って、かなぐらむ。
かなぐらむは作ったよね。
そこでやりましたっけ、そっかそっか。
かなぐらむってフォント…
お、もしもーす。
ちょっと回線があれかな。
じゃあ僕が説明しましょうか。
ひらがな…
アナグラムをひらがなでやるっていうやつなんですけど、
なんかツイッターボットみたいなものを作って、
定期的にお題が投稿されてそのリンクをクリックすると、
それを名で変えられるようなウェブアプリがあって、
そこで面白いものができたらツイッターに投稿できるみたいな、
そういうやつを作ってたんですよね。
そういう…
なんていうんですかね。
作ったよ、これ面白いでしょとか、
この後どうしたらいいと思うみたいなものを持ち寄る場っていう性格もありましたかね。
例えば今のかなぐらむだったら、
それぞれが何かプレゼンをしたところから興味がリンクして、
またこういうのを作ってみようみたいになったりっていうイメージですか。
そうですね、たぶん。
かなぐらむに、具体的にそいつに関してはたぶん、
たぶん僕が思いついて作った状態で持っていったんじゃなかったかなと思いますけど。
具体的にそこでコラボレーションが生まれてあれっていうよりは、
うさみくんと岩谷くんがやってる時点でコラボレーションは生まれてはいますけど、
出てきたアイディアから発展させてっていうよりは、
普通にこういうのをやってたよっていうのを見せて、
いろんな反応を得てっていう感じの、
いわゆるサロン的な感じの雰囲気が強かったような気がしますよね。
たぶんそこから発展して何かが作品化されるっていうものは、
歌謡会の時点ではそこまでなかったような覚えがあります。
単純に仕事としてこういう話が来てるよっていうのをシェアして、
それでじゃあやってみようかって言ってやるみたいなのがあったりした。
そういう繋がりでの広がりみたいなのはあったんですけど。
研究発表とコラボレーション
岩谷さんは歌謡会に合流したタイミングとかって何となく覚えてますか?
入ってたらどういう感じのことが起こっていたか?
そんなだったかな。
僕は当時ゲーム会社で働いていたと思うんですけど、
いつからやってますっけ?
たぶんね、僕も本当にフルスクリしてるんだけど、
たぶん1年前からぐらいなんだよね。
たぶん2011年にやってるはずなんだよね。
震災前後だよね、たぶんだから。
ぐらいから始まってて。
岩谷くんは僕のうっすらの覚えでは、
その前から僕に個人的に何か始めるなら絶対声かけてくださいね、
みたいなのを言ってくれてたんだよね。
そういうのもあって、
たぶん岩谷くんが何か始めるならそこの環境から始めて、
岩谷くんが何か始めるならそこの環境から飛び出したいっていう、
何かがあったんだろうと思うんですよね。
わかんないけど。
それで歌謡会始まったときに、
わりと早めの段階で岩谷くんにも声かけたんだった覚えがあるんですね。
うさみくんもまた劇で声をかけられるんだったら参加するよ、
みたいにうさみくんが言ってたよっていう話を聞いて、
声かけに行った覚えがありました。
うさみくんもやってるっていう認識はあったんだよね。
ほぼなかったですよ。
なんかやってるらしいよ、みたいな。
またばくんから聞きましたよ。
またばくんから聞いたんだ。
またばくんっていう子がいて。
やってるらしいよ、どうする、みたいな。
面白いな。
またばくんの話はちょっと前回も少ししたと思いますけど、
森の木巾とかも参加したりしてた、
僕と研究室が同じ後輩で、
音響にいた後輩で、
僕と岩谷くんと同じ研究室の子で、
今はベルリンの方に住んでて、
最近だと太陽と月の部屋を作るときに、
彼と一緒にブレストしたりして、
それでアイディア出したりして、
最近も付き合いがある子なんですけど、
その時にまたばくんにも声をかけたけど、
またばくんはあんま興味ないかな、みたいな感じで、
一回ちょろっと見に来たけど、
参加はしなかった覚えがありますね。
ちなみに三木くんは、
同じタイミングで見に来て、
その後に、たぶんちょうど仕事が入ってたのかわからないけど、
その後自然に合流してた覚えがある、三木くんは。
なんか暇だったんだと思う。
そうですね。
その時期だってフリーでやってたから、
だいぶ暇な時に、
ちょっと話す機会がなかったから、
そうだ、いいなと思って。
そうですね。
その歌謡会をやってる時点で、
それをクリエイティブ団体にしたいみたいな、
あれは全くなかったんですよ。
そういうつもりで作ったものじゃなくて、
あくまで大学の研究室とかで、
それぞれのメンバーが研究発表するのと同じような感覚で、
いろんな人が研究発表して、
それでディスカッションしてっていう、
自分の研究、
同世代に対して研究発表して、
いろんな意見をもらって、
刺激をもらうわみたいなのが作れればいいねって話をしてた感じだったんですね。
だからこそ多分、
研究室と一緒で、
それぞれの研究内容を発表されても、
そこにコラボレーションで一緒に作っていくっていうスタイルではなくて、
その研究はその人の研究とか、
発表はその人の発表っていうとこを尊重しながら、
あくまでそこに質疑応答的に、
もうちょっとラフなスタイルですけどね、
話をしていくっていう、
そういう場として最初は作ってたんだと思います。
その中でつながりとして、
いろんなそういう新しいロゴを作ってほしいだとか、
そういう話が入ってきたから、
そこを個人事業にしようかっていう話になったっていう流れだったんですね。
その個人事業主としてラボっていうのを始めるぐらいのタイミングまでは、
貞野さんとしては大学でのテクニカルスタッフとしての職から、
その次っていうのはどういうふうに考えていましたか?
僕自身はかなり悩んでた時期でもあって、
ポスト学なんで普通に続けたりしてれば、
多分大学側に職が進んでいってたと思うんですけど、
最終的には教授っていうところになってたと思うんですけど、
そっち側に行くのに、
多分前回のインタビューでもちょっと話しましたけど、
大学の中でずっと続けるよりも、
サイクル早くいろんなのを作ったりしたいっていうのがあったりしたのと、
大学でやってた内容が社会とつながりを、
自分のクリエーションとつながりを持つっていうところのきっかけを与えてくれたんですけど、
それはすごく楽しかったんで、
もっともっと社会とつながる活動をしていきたいみたいなのは、
自分の中では意識としてはありましたね。
同時に森のボッキン、
それが2011年の3月、2月、3月、
ちょうど震災の時期なんですけど、
そこの辺りでやっぱり社会的なつながりみたいな仕事をやったときに、
すごい楽しかったし、
成果がものすごい反響があったっていうのもあって、
たぶん今までも少し触れたかもしれないですけど、
うさみくんと僕と、
的場くんと、
あと、
のぶくん。のぶくん本名なんだっけ?
のぶくん。
ふるた。
ふるたのぶひこくん。
ふるたのぶひこくん。
ふるたのぶひこくん、のぶくんって呼んでるんですけど、
その4人で、
このクリエイティブ集団みたいなのをやるみたいな話を、
2週間くらいかな、話をしてたことはあったんですよね。
高生年科学館からずっとたぶん、
わりと高生年科学館を見てくれてた周りの大人とかは、
ここのメンバーを、
森の木巾の結成
なんか君たちやればいいじゃんっていう後押しをグイグイしてくれてたっていうのがあって、
僕らとしても意識として、
なんかそういうのやれたらいいよねぐらいには思ってた覚えがありますね。
そこと、
つなげようと思ってかよかよ始めたわけではないんですけど、
ただ、最終的に結果としてつながったっていう感じなのかなと思ってます。
岩谷くん入ってきたんで、
あれですけど、さっきもちょっと話しましたけど、
あのラボの名前は僕の覚えでは岩谷くんが言ってた。
覚えがある。
岩谷くんが、
佐藤さんいつもあのあのあれがあのあのって言ってるから、あのラボでいいじゃないですかみたいに。
岩谷くんが言った覚えがある、僕の中で。
毎度僕はそれ覚えてないって言うんですけど、
他に覚えてる人もいないから、もうそういうことにいいんじゃないかって思ってます。
僕の覚えではね、天の前でね、あのラーメン屋の天の前でね、
言ってた覚えがある。
それもね、もう僕、佐藤さんからそう言われてるから作られた記憶がもうちょっとあるんですよね。
あ、そうなんだ。
面白いよね。
確信は持ててない。
そんな感じぐらいね、ふわーっとしたあれでしたよ。
そんなにみんなで、あの名前しっかりディスカッションしようっていう感じでは全然なく。
またあの違和感があったらまたその時に自然に変わるだろうなと思ってたんで。
ぐらいの感じで。
けど、自分たちとしては割としっくりきてたんだろうと思いますね。
じゃあちょっと話遡りますけど、
森の木巾ってどういう風な始まりで声がかかったんですか?
森の木巾は、
中心になって作った、
僕らは木巾の制作チームのお手伝いをしたんですけど、
その木巾の制作チームの中心になったのが、
インビジブルデザインズラボ、今インビジっていう名前の会社になってますけど、
今、六本木の方にちょっと会社の中心は移動してますけど、
当時福岡にある会社で、今も福岡にも支店がありますけど、
CMの音楽とかを作ってる会社で、
作曲家集団というか、そういう集団がいて、
その代表の松剣二郎さんという方が、
僕らが学生の時に、
僕と岩谷くんとか的場くんとかその辺のメンバーが、
音響設計学科っていう音方面の学科にいて、
僕らが学生の時に年に1回フレックっていうコンサートのようなイベントをやってたんですよね。
実験音楽を、自分たちの作品とかの実験音楽を演奏するイベント。
アルファベットの小文字でFREQでフレック。
フリークエンシーのフレックですね。
フレックっていうイベント。
それは、
遡ると結構すごいことになるんですけど、
今、芸工大の先生をやっている、
城和弘さんっていう先生がいるんですけど、
城さんが学生の時に、
城さんとまた僕らの先輩の堀尾勘太さんっていう先輩。
僕は以前少しお話したかもしれないですけど、堀尾勘太さんのパフォーマンスを見て、
衝撃を受けてメディアアートの世界に飛び込んだっていう経緯があるんですけど、
堀尾勘太さんと城さんが、
福岡でそういう実験音楽のイベントをやりたいっていうので立ち上げたのがFREQっていうイベントで、
そのFREQっていうイベントは、城さんとか堀尾勘太さんが卒業されても、
僕とかが引き継いで中心になってやってたりしたんですよね。
研究室では中村茂先生っていう先生が、
そこのFREQのイベントをやられてて、継続されてて、
そのイベントとかを見に来てくれてて、
音楽、実験音楽とか好きなんで、松原さんがですね。
それで、津田三郎さんっていう、これも芸工大の、
本当に名物の工房の技師のおじさんがいるんですけど、
津田さんっていうすごいおじさんがいるんですけど、
木造りを任せたら何でもやってくれるみたいなおじさんがいるんですけど、
その津田さんが面白いやつらがいるよっていうのを紹介してくれて、
それで見に来てくれたんですよね。
それで見に来てくれて、面白いじゃんって言って、
なんか目をかけてくれてたっていうのがあって、
それで後世年科学館の時もインビジに行ってスポンサーになってもらって、
少しお金を出してもらったりとかしているつながりもあって、
僕とか戸場君とかは割とインビジのウェブページ作ってくれないみたいな仕事を受けて、
それでウェブページ作ったりとか、
そういうちょこちょこした仕事を回してもらったりしてたんですよね。
その中で松原さんから、ちょっとでっかいプロジェクトがあるから一緒にやんないって声をかけてもらったのが、
森の木金でしたね。
その当時はまだ歌謡会が引き受けたっていうよりは、
多分僕とか戸場君が引き受けて、
これちょっと巻き込もうって言って、
プロジェクトの偶然と必然
あれは多分ね、まだ岩谷君とかが入るちょっと前だったんじゃないかっていう気がするんですけどね。
僕も木金は何にも手伝いなかったですね。
うん、そうですよね。
それでうくさみ君も声かけて、やってっていう感じだったのを覚えてます。
じゃあその、サダンさんが蛍光台で2009年から働いている期間中に、
そういう外からのプロジェクトの依頼とかっていうのもたまにあったんですか?
そうですね。
それが来始めた時期と、歌謡会をやり始めた時期と、
結構こう、同時多発的にワーッとなってて、
それぞれが最終的に一つにまとまっていったっていうイメージが僕の中にはあって、
だから結構、それぞれのプロジェクトが一緒に、同じ団体が一緒にそういうのをやってたっていうよりは、
パラレルにいろんな話が、メンバーは割とかぶってたりするんだけど、
パラレルにいろんなのが走ってたっていうようなイメージをなんとなく持ってますね。
そういうのがいっぱいいっぱい来るけど、
そろそろこういうのをちゃんと受けれる母体を作んなきゃいけないよねって話で作ったのが、
個人事業主としてのラボっていう母体だったのかなっていう印象はあります。
森を引き受けた時点では、僕らは基本個人個人で引き受けてて、
何らかの引き受ける母体があったわけではないんですよね。
やってる間の松剣さんとかから、君たちそこのグループになればいいじゃんみたいな話とかをされてたんですけど、
そうですね。
うさみさんは大学院も修了して、
でも部屋を借りてそこで制作をしながらフリーランスで仕事をしてっていう状況だったんですよね。
そうですね。
その時に開放会が始まったり、森のもっきみたいなプロジェクトがあったりっていうので、
自分一人で何かを受けるよりも広がるみたいなイメージをだんだん持っていったっていうのがその時でしたか、2011年くらい。
どうなんでしょうね。
チームでやるっていうのと、2人以上でやるっていうのと、個人の仕事って多分ずっと続けてたから、
この時期がこうとかいうのはあんまりなくて、
やってたら会社作るみたいな話になってて、いつの間にかみたいな感じでしたね。僕の中では。
そういうふうに会社とかチームでやってやるんだったら、
佐谷さんだったり岩谷さんだったりっていう、その高生年科学館からのメンバーとやるっていうのがイメージできるところだったという感じですか。
会社は別にイメージ自体はなかったんですけど、会社を特定して作るような会社じゃないから、
そういう仲間でこのままやるっていうのは、
アリというか、アリだねみたいな話をしてたし、楽しそうだなと思って。
基本楽しそうだなという方向にしか身を置かないと思うんで、
自然とは自然ですね。
やっぱりそうなんですね。
歌謡会みたいなのとか、森の木巾みたいなのもそうだし、高生年科学館もそうなんですけど、
やっぱりイメージとしてアノラモみたいなところに向かって、それをいろいろやってたっていうよりは、
たぶん本当に手探りにそれぞれがいろんなものをやってて、
それが自然な感じで最終的にアノラモになったって感じがあって、
だからそこの高生年科学館と同じであるっていうのも割と偶然といってもいいかもしれないっていうぐらい、
個々の世界観とフィードバック
必然で、だからこれだよねってなったっていうよりは、
たぶん歌謡会をやってて、いろいろ仕事を受けてって中で、
なんとなくここでっていう感じになったっていう気がしていて、
いろんなものが必然でこういったっていうよりは、
割とそういう偶然要素も強かったんじゃないかなっていう気が僕の中でもしてますね。
そうですね、タイミングがたまたま重なったとかっていうのは。
そうですね、タイミングが重なったとか、最終的にはそういうもんなのかなと思ってますけどね。
必然っていうものもそういうもんなのかなっていう気もしてます。
それこそ岩谷さんがゲーム会社からじゃあどうしようかっていうようなタイミングと、
その伊原さんが広告代理店からどうしようかっていうのとかが近かったりとかっていうのも、
たまたまのような気もするし、何かそういう周期な気もするし。
そうですね、後から思い返してそれを必然と言ってしまえば、
確かに必然とストーリー立てることもできるとは思うんですけど、
やっぱり当時って基本的には学生に毛が生えた感じで、
自分たちがどうしていけばどうなるのかみたいなのが明確に見えてたわけではないので、
いろいろいろいろトライアルしてた中で、
なんか偶然も重なっていい感じに、いい感じのあれができたのかなっていうのは、
あればっかりすみません。
すみません、質問してもいいですか。
はい。
歌謡会に出られている間って、皆さんそれぞれの研究過程を経て、
それなりに社会に出て、今学生に毛が生えたっておっしゃっていましたけど、
でもそれなりに個々の世界観で、
お仕事だったり、研究、こういうことやって面白いっていうのがちょっとずつ出てきていた中で、
一人の世界とか自分の身の回りの今考えている仕事だけの世界ではない、
歌謡会っていうサロン形式の場に出ることで、
それぞれがどういうフィードバックというか、
個人的なフィードバックってどんなふうにあったか覚えていらっしゃいますか。
あります。僕最後に言います。
岩谷さん、宇佐美さん、どなたでもいいんですけど、
例えば宇佐美さんだったら、
自分の人生の中で、
一人でやってるのが割と多分、マイペースに好きなものづくりをやるのが好きっていう性格でいらっしゃるのかなって想像してるんですが、
でもやっぱりこう、
高生年科学館の時にやった、
みんなで一緒に仕事をしている、
自分ってこういうのが好きとか、ありましたか。
確認作業じゃないけど。
うーん、
そうですよね。
自分の人生の中で、
自分の人生の中で、
自分の人生の中で、
自分の人生の中で、
自分の人生の中で、
自分の人生の中で
自分の人生の中で
自分の人生の中で
自分日本に行くのが最高だったりとか、
自分の人生の中で
自分の人生の中で
自分がほしいものをbourneしたときにやられないような思い出があるかと思うんだけど、
小学校を得ながら、新しい表現というのを自分の中で作っていくようなタイプだと思うんですよね。
だから、そういう場に身をつくってのはやっぱり自然っていうか、僕の中では結構自然で、
なんかやっぱ声がけてくれなかったら、ちょっと困ってたかもしれないですね。
そういうのは一個あるのと、気づきで言うと、
僕デザイン向いてないなっていうのは気づいてる。
いや、そうなんですか。
そうそう、なんか自分で作るのが好きなだけで、
クライアントワークっていうのがあんまり得意じゃないのかなっていうのを気づいてますね。
気づいて、ちょっと飛び行くね。
それは、高校生年科学館でやってた時はあんまり思わなかったことですか。
クライアントワークとネットコミュニティの盛り上がり
クライアントワークをやるようになって、また歌謡会でなんかそういう、みんなで作ったりする機会があって、改めて感じた。
歌謡会で外の人とやっぱ、
企業とかとやるっていう機会を得たので、
それまでどっちかというと、何か、
個人対個人だとか、あるいは
社内の決まった作業に対して何か作るとかだったんで、
そういう時にタイプがいろんな、デザイナーのタイプっていろいろいるんだなみたいな。
ものづくりのスペースがいろいろ違うんして、僕はそのタイプじゃなくてこっち側のタイプなんだなみたいなのを
再認識したようになりましたね。
例えばその歌謡会から進んで、アノラボの前身ができて会社化ってなってた時に、
うさみさんとしては会社っていうもののイメージはないけど、
クライアントワークをただやるのもちょっとだし、でもこういうアノラボ式な会社だと、
自分が活躍できそうというか、楽しくできそうというイメージ。
どういうふうな会社のイメージはないけど、ここだったらアリっていうのは?
これは、メンバーがよく面白そうだと思う。
このメンバーなら絶対面白い仕事になるだろうなぁみたいな予感。
内容はそんなにあんまり気にしてなかったというか。
ああ、はい。
ありがとうございます。
岩谷さんはどうですか?
岩谷さんは芸能の会社に勤められていて、
ご自身がこのままでいいのかなっていうのと重なってたのかもしれないですけど、
歌謡会に、それは本当に同時進行だったのか、歌謡会に出ながら、
何かのフィードバックがあって膨らんでいった思いなのか、
それとも自分の中に、わりとは初めからちょっと違うなじゃないけど、
もっと次のステップがあるけど、
歌謡会もそこで出ることを探しながらだったのか、
どういうふうにその場が、影響というかフィードバックがありましたか?
岩谷さんに。
多分、歌謡会とかアノラボの話がなければ、
今もそのまま全職に続けてたとは思うんですよね。
少なくとも自覚的には不満というか、次のステップを求めているみたいな意識はなくて、
歌謡会に参加してたのは、多分単になんか楽しそうだからなんですよね。
多分。
やっぱりその会社の中で、仕事してものづくりしていると、
それは楽しいが楽しいんですけど、別の楽しさもあったらやっぱりそれも楽しいです。
不満があったというよりは、1より2がいいよね、みたいな観点で参加してたんだと思います。
さっき宇佐美さんへの質問であった、
会社、なぜアノラボなら良かったのかという話で言うと、
僕が前にいた会社は80人くらいいたんですけど、
80分の1より4分の1の方が楽しそうだなと思ったというのがありますね。
会社を自分が会社に与えられる影響を引いては、
会社が社会に与える影響の中で、自分の割合というのが、
80分の1より4分の1がいいなと思ったというのが結構大きな理由でした。
技術ブログとマーケティング
そうですね。
伊原くんは何かあるんですか?
すみません。
当時やってた仕事からアノラボに、
歌謡会をやっていた現地でアノラボに移るみたいなので、
山谷くんは終わったのかな?
はい。
山谷くんに質問がなければ。
僕は歌謡会を全然知らなかったので、
同時に東京にいたので、
何かやってるよっていうのを知ってたんですけど、
参加はすることにもそんなにこっちに来たんですけど、
場所が遠いというところと参加しにくいというところで、
歌謡会は全然行ってなかったんですけど、
学生の時に似たような経験をしていたので、
その時の感覚的に、
面白いことが絶対作れるなと思って、
入ってきたという感じです。
会社を辞めた当時はこの間話していなかったので、
とりあえずやってみようという感じでやってました。
僕は基本多分、
歌謡性を求めてたんだろうなっていう気はするんですよね。
歌謡会でいろんな全然違う人の発表を聞いて、
刺激を受けたみたいなのも面白いなって思ったのもあるし、
それ以前に高生年科学館で、
僕らがやってる音響設計学科の研究内容とは全然違う内容の研究をしている、
横断的にいろんな人が集まってきて、
一緒に自分のクリエイションを発表したりしながら、
活動しているというのはすごく刺激を受けていたので、
歌謡会に関してもそこの刺激を求めたっていうのもありますし、
これ若干、記事化するとアレな部分もあるかもしれないですけど、
またば君とかのぶ君とかが一緒になってやろうよって言ってた団体っていうのは、
もうちょっと多分専門的な、専門家集団というか、
スペシャリスト集団みたいなのを思い描いて、
一緒にやりたいっていうのを言ってくれてたんですよね、多分。
それはある程度変更してやろうよっていう話は進んでた覚えがあるんですけど、
そっちの方でワッと会議をしてたんですが、
そこの中で、じゃあこの集団を何て名前にしようって話をしたときに、
それで1週間、2週間くらいかな、多分宇佐美君もいたから覚えてると思うんですけど、
1週間、2週間くらいずっと名前の会議してたよね。
ずっと名前の会議してたので、全然決まらないんですよ。
それでそういうのもあって、ふわっとその会議が流れちゃって、
そのままに自然消滅したっていう感じだったんですけど、
GPT-4とAIの進歩
そこも偶然だったのか必然だったのかは全然よくわかんないんですけど、
基本的には僕はやっぱり多様性の方を求めてて、
この4人が超バラバラなアレになってるのに、
僕が面白そうって思ったのも、
基本はやっぱりバラバラですごいバックグラウンドが違う、
多様性のあるだから面白そうって思ったんじゃないかなっていう気がしてますね。
4人になったっていうのも最初から決めてやってたっていうよりは、
ふわっと4人になった覚えが僕の中にはあって、
伊原くんもね、ふわっと入ってきたんですよ。
よくわかんないですよね。
ふわっと着地した感じがなんとなくあって、
あいちゃんとかも、もっとグイッと入ろうと思ってれば入れた位置にいたんじゃないかなと思いますし、
もっとふわっとしてたと思うんですけどね、最初のうちは。
最終的に歌謡会は何人くらいの参加者がいたなという感覚ですか?
けどレギュラーは青年の時とほぼ変わらない感じで、
多分7、8人くらいなんですかね。
レギュラーでいたのは。
その会だけ発表しに来るっていう人たちも結構いたんで、
1回ごとに集まってるのは10人くらいいたんじゃないかなって気もする。
10人近くいたんじゃないかなって覚えもあるんですけど。
そうですね。
ちょっと今、伊原さん下がっちゃいましたけど、
伊原さんにその2011年の震災がひとつのきっかけになって、
広告がすごい止まっちゃったことも次の進路を考えるようになったみたいな、
この間ちょっと伺ったと思うんですけど、
それが実際に2011年から12年の前半にかけて、
どう膨らんでいったかっていうのと、
そこにどう歌謡会だったり、
後はその後世年科学館の時のメンバーとのやり取りが、
その次の進路への気持ちを膨らませるきっかけになったかみたいな、
反映されたかみたいなものをちょっと次聞けたらと思います。
そうですね。
震災をすごく意識してっていうのは、
震災をすごく意識してっていうのだったかは、
ちょっとよくわかんないんですけど、
ただそのやっぱり森の木金がドガーンと爆発したのも、
震災とどかぶりして、
日本頑張れみたいな感じのあれが世界中にあったからっていうのは、
すごく関係してるのかなって気もしてて、
アラム内の展示の時も一つ目玉でボンと展示したのは、
後藤萌恵さんが中心に展示してた、
震災の時のためのデザインみたいなのを展示してたんですね。
それはまだ311の前に僕らが集まってワイワイブレストした中から生まれてたやつだったんですけど、
神戸の震災の何年後みたいなので、
各報道がイシュープラスデザインみたいなコンペティションをやってた時に出したアイディアで、
何て名前だっけ、覚えてます?
うさみ君は覚えてる?
くるくるしてるけど。
何が?
後藤さんがやってた、
できますぜって。
当時はちょっと違う名前で呼んでた覚えがありますけど、
忘れたね。
なんかもう一個あったよね。
なんとかさんみたいな。
まあいいや。
プロジェクトとしては、震災があった時に避難所として大きな体育館とかで生活しなきゃいけないみたいなところで、
隣に誰がいるかもわかんない中で生活するのは超ストレスだから、
ゼッケンとか腕に巻くバンドとかで、
私は英会話ができますとか子育てできますとか、
そういうゼッケンをつけて、
私はこういうスキルを持ってますみたいなのをやったら、
隣に住んでる人はどういうことができるのかみたいなのも可視化されるんで、
少し安心感につながるのと、
外国人が来て英語わかんないって時に、
あそこで英語できる人いたよねって言ってちょっと声をかけやすいとか、
そういう相互扶助みたいなのが自動で生まれるみたいなのをデザインにして応募して、
結構賞を取ってたんですよね。
それで実際に、
ハクフォードがその後に、
できますゼッケンっていう名前に変えて、
311の後の避難所のデザインに実際に使われたりみたいなのをしたんですけど、
そういうのもあって、
そういうあたりでのクリエイションみたいなのも、
当時はしてた覚えがありますけどね。
なので、
すごいミッションベースで、
そういう震災後にどうしようみたいなのがあったわけでは全然ないんですけど、
きちんと社会からの影響っていうのは受けつつ進んでたと思います。
西原さん今ちょっといいですか?
はい。
その開放会がやられてるっていうのを途中で知って、
西原さんその会社やらめようかなっていう、
会社とやるのちょっと違うかなっていうのを思っていたタイミングとそれが重なってたっていう、
この前のインタビューがあったんですけど、
実際どういう…
そうですね。
開放会ってもともと大学の頃からずっとやってて、
木曜日やった頃は木曜会やってたり、
水曜日やった時は水曜会やってたりっていうようなので、
それずっと続けてたっていうのは知ってたんですよね。
だからその会社をやるからやってるっていうような態度で、
単純にもう3、4年ぐらいまだ続いてるんだぐらいにしか思ってなかったんです。
多分それ僕もこっち帰ってきてからその存在したぐらいのものだったんで、
そういう特別なものっていう認識は全然してなかったんですけど、
単純に会社帰ってこようかなっていうか、
普通に会社やめようかなって思ってて、
その働き方とかやりたいこととか含めて、
もうちょっと自由に面白いことやりたいなっていった時に、
高生年にやってた時のメンバーの子どもに出して、
いつか会社立てたいよねっていうようなことを話してたから、
みんなと会社やれたらいいなーぐらいな感じで、
高生さんにとりあえず会社やりましょうよみたいな感じで電話したら、
たまたまみんなそういうことを動いてたみたいで、
今そういうことやってみろみたいな話をすると合流したって言ったやつ。
さっき言ったその目標会とかっていうのは、
もともと多分僕の記憶では高生年科学館で集まってた時も、
集まる日の曜日の名前で目標会とか、
そういう感じで呼んでたと思うんですよね。
そこは継続してたんじゃなくて、一回途切れてたんだけど、
あいちゃんがああいうのやりたいって言って、
それで復活させたのに、
多分高生年科学館の時のその呼び名をそのまんま、
そのまんま歌謡会の引継ぎ
そのまんま歌謡会って形で引き継いだんだと覚えてますね。
ずっと続いてたっていうよりは一旦途切れたんだけど、
そういうあいちゃんがやりたいやりたいって言って、
そうそうそうそう。
あえてない。
そんなにあえてない。
だって2009年ぐらいまであれやってて、
2011年ぐらいから始めて、
1年ぐらい途切れたかなっていう感じぐらいですけど。
じゃあその伊原さんはそこから会社辞めて、
ラボ立ち上げっていうまでは、
どうみんなと同じ方向に向いていく実感があったかというか。
ほとんどなかったです。
一回こっちに帰ってきて、
春過ぎ5月とかだったかな。
帰ってきて、
4月から始めましょうねみたいなことで、
3月準備しましょうねだけ決めて、
正月ぐらいも一回話したかな。
ここ見に来た時?
見に来た時。
もっと前。
大橋のカフェで資本金の出し方とか、
3月か。
いや、ほんと3月ですね。
それまで僕も会社で、
12月か1月ぐらいに指標提出して、
13月にいっぱいあるからって言ったのをやってたぐらいで、
メンバーとなんかっていうのはないです。
帰ってきたら帰ってきたで、
別に何も進んでることはなくて、
だから会社の立て方とか勉強して、
こうやったら会社立てれるらしいですよみたいな話をみんなにして、
ラボ立ち上げまでの準備
そうなんだーみたいな。
次から資本金どうします?
代表取締役どうします?みたいな話を、
1か2回大橋のカフェでやって、
全然覚えてないけど。
みんな100万出て、
さらばさらば350万出て、
人口に集まって資本金振り込んだりみたいなのを、
3月のもう後半ぐらいですよね多分。
そうですね、後半の話ですよね。
僕は4月に結婚式があったので、
それの準備をしつつ、
家の準備をしつつ、
会社の事務所の準備をしつつ、
IKEAに行ったりしながら、
物揃えて、
会社の立て方と計画性
やってましたね。
3月に一気にやってしまった感じですね。
答えになってますか?
本当にあれなんですよ。
コミュニケーションがとってなかったですか?
ふわっと着地した感じが、
僕の中でもあって、
しっかりやるぞって感じで、
やった感じではなくて、
ふわっと着地したのがこの4人だった。
何の計画性もなかったですか?
何の計画性もないですね。
本当に明確なビジョンみたいな。
ただ、
下校大で働いていたところの先生で、
前田先生という先生がいて、
その前田先生が、
三学館の連携のいろんなのをやっている先生で、
割と産業寄りのことをやられていたんですけど、
新しく何かやるんだったら、
ちゃんとプレゼンみたいなのを作りなさいって言われて、
僕見てあげるからみたいに言われて、
それで少しそこに向けて、
作ってはアドバイスをもらった。
そんなにもしてないな。
それに向けて作ったみたいなのはあったんですけど、
明確にこういうプランがあるっていうのがあったわけでは全然なくて、
基本的には宇佐美君が言ってた通り、
こういう面白い人たちが、
面白いスキルを持っているんだったら、
面白そうだなって集まったっていうだけの4人で、
計画性ゼロで始めましたね。
実際に本当に多分僕も、
1年持てばいいなって思ってたぐらいの感覚で始めましたね。
ロゴがごっちゃんでしたよね。
そうそう、後藤萌恵さんが。
ロゴがメンバーじゃなくて後藤さんが作ってて、
なぜか後藤さんいないんですよね。
そうそうそうそう。
半月ぐらい。
だってこの4人でやるって多分結構直前。
超直前だよ多分。
わかった事実でしたもんね。
わかった事実だよ。
誰が決めたってこともなかったと思うんだよね。
僕もだって、
あ、藍ちゃん入んないんだとか、
後藤さんどうなるんだろうとかも、
僕全然決めてなかったし、
誰が決めたこともなかったような気がするんだよね。
メイクが多分残った方が良いなって。
そんな感じだよと思う。
そうそうそう。
そんな感じ。
フワッとじゃなくて、完全にフワッとだもんな。
意外とでも不安じゃなかったのがすごい。
全然不安なかったと思う。
あ、不安一切なかったね。
なぜか。
不安一切なかったけどね。
普通なんかで不安感じそうな流れなんだよね。
ああ、体育的にね。
いや、なんか、
よく分からんけど会社作って大丈夫かなとか、
金集めてるけど大丈夫かなとか、
一切あんま考えてない。
あんま考えてないよね。
マジだろ。
楽しかった。
でも、
西原さんと岩谷さんは、いわゆる事業勤めの経験がある中での、
先行きへの期待と不安というのはどういう感じか。
そうですね。
特にそこ全然気にしてなくて、
別に転職しようと思ったら別にクラブでも転職させてやるんで、
特に別に一社で勤めようとか、
そこにずっといたいと思ったらいたんでしょうけど、
そもそも辞めようと思ってたんで、
やるなら楽しい方がいいかなっていうのは考えてました。
別に楽しければ、
転職すればいいんじゃない?ぐらいの。
そうですね。同じような感じかな。
さっき言った人数の180分の1より4分の1っていうのは、
リスクについても同じような考え方をしていて、
会社が危ないみたいな時に、
僕が80分の1しか影響力ないのと4分の1しか影響力ないのって、
4分の1の方が自己責任でいろいろできるじゃんみたいな、
自分で何とか立て直せそうっていうのも、
いいところかなと思います。
そうですね。
基本、多分会社っていうよりは結構、
独立とか個人事業主としての独立ぐらいの感覚に近かったと思うんで、
会社って意識も、
会社って意識じゃなかったです。
普通に独立ぐらいの感覚でした。
会社、僕多分ね、
大学が割とそこの会社にするための手続きのあれこれをやってくれてたっていうところもあって、
僕の中での会社にしたって意識がすごい薄い。
いまだに薄いんですよ、多分ね。
当時の感覚として一番覚えてるのは、
僕はうさみ君と一緒に、
すぐ近くのセトレボンっていうパン屋さんのカフェに行って、
昼間からお茶して、
いつの時間でも僕たちこれできるね、最強じゃんみたいな話をした覚えがあって、
僕の中で大学に入った時に一人暮らしを初めてした時に、
いつでも外で歩いて全然いいじゃんっていう自由を感じたのを覚えてるんですけど、
それと全く同じ感覚の第二の自由を感じた瞬間でしたね。
自分たちがやりたいことを自分たちの仕事にできるんだったら、
何でもできるじゃんみたいな。
多分そういう社会みたいなものからこれが仕事ですよっていうのを言われて、
それに肩にはまって仕事をしなきゃいけないんじゃなくて、
自分たちが考えたことが仕事になるってことは何でもできるんだなみたいな、
そういう自由さを感じた覚えはありますね。
そのクリエイターたちのシェアオフィスみたいな感じだったんですか?
いや、そういう意味ではもうちょっと結びつき強い。
総合依存してやってるので、
多分立ち上げるときも自分たちが自分たちのやれることをやった結果、
できたっていうだけです。
多分一人ずつでもできてたんだろうけど、
世にいたからこそ強いものになってたし、
他の試合に出たし、
多分周りを他の3人見ながら、
じゃあそれに乗っかろうとか、
そういうので乗っかり合ってた結果、
うまくそれが機能してたっていうような感覚が近いので、
独立してるようで結局コラボレーションしてたので、
やっぱりそこはシェアっていうよりは、
ちゃんと共同体として成り立ってたっていう感覚も強い。
逆に言えば足りないところがあるっていうのも、
それぞれ自覚してるから、
そこをお互いに依存し合ってるっていうのが、
後から考えたらそう言えたなっていう感じです。
やっぱり一人で何らかのものを作ってるときに、
それに対して入ってくる仕事ってやっぱり広がりがないんですよ。
自分の範囲から出ないんですよね、
その仕事の枠っていうのが。
けど、会話会だったり、
ラボでっていうときに入ってくる仕事、
他のメンバーから入ってきたりする仕事、
自分に入ってくる仕事も、
自分だけを見て入ってくるわけじゃなくて、
4人でやってる4人を見て入ってくるんで、
やっぱり自分が一人で活動してるのに比べて、
入ってくる仕事の幅が広いんですよね。
それでやっぱり僕は面白さを感じた部分はあって、
多様性も含めなんですけど、
お互いにやってると、
一人でやってるのでは全然見えない部分の世界を知ることができるな、
みたいなのがすごく感覚として強かったなと思います。
ありがとうございます。
じゃあ僕らとしても今日はこのぐらいで、
それで次はあのラボとして立ち上げ、
ちょっと今日と被る部分もあるかもしれないですけど、
2012年の4月、
少し前からの話で、
実際にどういうふうに一緒に仕事を受けて、
一緒に納品したのかどういうものだったのかだったり、
っていうふうにつないでいくのがいいですかね。
ありがとうございます。
すみません、記憶がフワフワしてるから結構、
申し訳ないです。
話しながら何か多分、
そうですね。
ありがとうございます。
じゃあ今日はこれ、
例えば、次までに考えてほしいとして、
自然発展的に結びつくことになったの、
なんでなんだろう。
結び、お互いが、なんでこのように。
でも、その4人が、
それぞれこういう強みがあって、
自分にないものを誰々が持っているのだったり、
この4人だった、
例えば、さだむさんはうさみさんにどういうものを見ていた、
岩谷さんにどういうものを見ていた、
岩野さんにどういうものを見ていた、
っていうのが多分それぞれ、
4名とも他3名に対して持っていると思うので、
そういうのをちょっとなんとなく考えておいていただいて、
それでじゃあ、
この自然発展的に、
その流れであのラボってなって、
活動が始まったかっていうのを、
やっぱりやってみて、
間違いじゃなかったんだなっていうのは、
どういうふうに実感したかみたいな、
そういうふうにつなげていけると、
面白いかも。
ちょっとそのあたりを考えて、
もうふんわりでいいんで。
その後から考えてっていうのはね、
結構言うのが簡単なんです。
今多分、いろいろこう言っている部分も、
当時の感覚どうだったかなって思いながら話しているところがあって、
多分それって、
後からの話だと、
結構やっぱりスキル的にすごくいいバランスでいる4人だなと思うんですけど、
その4人も、
多分後から考えると必然の方向に、
グイッと話を持っていけちゃう部分はあると思うんですけど、
当時の感覚にしっかりこう、
持ちつつちゃんと話したいなっていう部分はあって、
多分結構そこ、
偶然的要素が結構強めで、
言いつつ、
割と奇跡的に着地したみたいなところはありそうだなと思いつつ、
ただ、
少しそこの部分は、
考えながら話せればなと思います。
ありがとうございます。
じゃあまた、
ちょっと今日ののもまとめて、
で、言わんでいただくのと、
次じゃあどのタイミングで、
集まっていただくかっていうのを、
メッセージさせていただきます。
ありがとうございます。
ブログの文章についての提案
ちょっとそのすごいいい文章で、
実際、村上さんっていうメンバーが、
ちらっと見たところめちゃくちゃ、
おもろいって言ってたんで、
多分ちゃんとした形で、
内部に対しても、
もっときちんと、
文としてもきれいに読みやすい形で、
まとまったものを、
シェアできるといいなと思ってるんで、
少しそのあたりも、
整えていきたいなという所存です。
ありがとうございます。
じゃあ引き続き。
はい、引き続きよろしくお願いします。
ありがとうございます。
お疲れ様でした。
お疲れ様です。
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