2回連続で僕からの連絡です。
あ、そうなんですね。
前回も確かそうでした。
インターネットのおじさんにね。
インターネットで調べるって言ったおじさんだと、
あの話、前回だったと思うんですけど。
あの、ちょっとね、この配信のタイミングもそうだし、
収録のタイミングですでに、ちょっとタイミングを意思した感があるんですけど。
確かにね。今日が収録日が12月12日なんだけど、
今日の時点だと確かにホットトピックではなくなる。
ない。
あ、でももうそんな早い。
もうほとんど誰も話していない話題について。
いつホット?
2週間くらい。
2週間、もうすごい。
いやいやいや。
ファストすぎません?まだ前編じゃん。
たった2週間でもう触れるとなんか地雷みたいな感じは、空気は出てる。
いや、なんかやっぱあの、2025年だなってすごい思ったのが、
あの、多分一番初めに見つけられたっていうか、
その言葉があるってなった瞬間に、
もう大体の論点出尽くした感あるなと思ってたよね。
これから何かを話すハードルがどんどん上がっていて、
だからみんな話したらいいんだと思うんですよ。
もう論点出尽くしたから。
確かにさっき話したけど、確かにそれはありそうですね。
で、何の話をしたいかというと、
令和人文主義の話をしたいんですよ。
うわ。
来ました。
わ、恥ずかしい。
言ってる。
俺最近ね、カチューに挙げられてる当事者のある方にね、
あの、令和人文主義っぽいじゃないですかって言ったら、
あーって言って。
あーって感じですよね。
あれ、なんか、あの、イベントがあるんだかあったんだかしたんですよね。
あ、そうなの。
で、その令和のその人文主義みたいなこう、
そのイベントに出てた人をまとめて、
で、まぁ令和人文主義っぽい人たちですよねみたいな感じが出発だったのかなみたいな、なんかよくわかんないですけど。
でもあれ多分、イベントに出られた方、別に誰も合意してないと思うんですよ。
そのように呼ばれることを。
あの、結構皆さんぶつかり事故だっただろうなと思って。
で、まぁその後、自分で絡みに行った人は全員自己責任だと思うんですけど。
なので僕もこの話題をカラコーに踏み込んでしまったので、
自己責任、これより以降は自己責任になっていくと思うんですけど。
いやーでも、僕は当事者じゃないくって、逆にこう僕の友達たちとか、近い人たちが、
まぁその、あの、挙げられる方だったりするんだけども、
なんか動きとしてはすごくね、僕は嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
なんでですか。
えっとね、多分、これ多分この後僕話すと思うんだけども、
僕がポッドキャストアワードからスタートしてさ、
ポッドキャストをこう、カルチャーとして定着させたいと思っていろんな活動をするときに、
あのアワード立ち上げるときに僕がまずイメージしたプレイヤーの像っていうのが、
いわゆるこう、あらさー言論の新しい形みたいなものの楽しい場になるといいなと思って、
それがいろんなジャンルの人集まるといいなと思ってて、
で、そんなことを抱いて僕も6、7年ここのポッドキャストで活動してる僕からすると、
令和人文主義って言って、まぁいろいろ挙げられてた方々って、
まさにポッドキャスト、ポッドキャストに適用されてる方がほとんどで、
あ、なんかこういう外からある意味僕がこう描いていた、
あの言論空間みたいなものってこういう名称ついてくんだと思って、
で、ってことはじゃあポッドキャストとは何ぞやみたいな話までちゃんとそこに紐づけて話せるなとか、
なんか実はあれってアカデミアとか書籍みたいな、そっちの方でくくっているような話が聞こえるんだけど、
僕からするとポッドキャストとは何ぞやって言える1個のフレームを作ってもらえたなと思ってて、
確かにそれは余裕かい。
そういう意味で嬉しい。
めちきろさんぽい時点。
そうそう、すっごく僕、僕よりね。
いやでも大事。
はい。
一旦あれですかね、令和人文主義ってどういうふうなことを言われているのか、
あの総括みたいなところが入った方がいいですかね。
いいと思う、だってこれ全くこの単語自体が初めて聞いた人もいると思う。
いっぱいいるでしょうね。
僕も初めて見えてたけどなんか興味持てずに、なんかやってんなーって。
流れていきかねないよね。
今日のテーマになるかもしれないってなってからなんか見てみるかってなってちょっと興味持ってわかったぐらいなんで。
ひとまず令和人文主義とは、どういうくくられ方をしていると見られるか。
小室さんから軽くアウトライン引いてもらおうか。
久しぶりの大責任。
しかも自己責任ね。
一番責任を負いたくない。
シーズン1は俺の無茶振りから。
そうですね。
多分基本的には、
谷川よしひろさんっていう哲学者の方ですね。
スマホ時代の哲学とか、
信仰と想像力の哲学などを著書を出されているその哲学者の方が、
朝日新聞に寄稿された記事で書出というか、
その前段階としての回みたいなのがあったみたいなんですけど、
そこで令和人文主義っていう、
僕がもともとちょっと喋らせていただいてた古典ラジオの深井龍之介とか、
クイズノックの田村さんとか、
文芸評論家の三宅嘉穂さんとか、
大阪大学の翔平順教授の中肥長老さんとか、
そういうふうな、
いわゆる人文系に造形の深く、
今メディアとか言論の中で活躍されている人たちをひとっくりにして、
令和人文主義っていうような言葉を出していった。
それに、令和人文主義というものをくくる、
多分大きい理由っていうのは、
教養主義というか、戦後に起きた、
読書とか文化的洗練とか自己投影を目指すような、
そういうふうな大正教養主義か、
大正から昭和みたいなものに引き付かれていた教養主義みたいなのに、
とはちょっと黄色の違う人たち出てきたよっていう感じで、
令和人文主義っていう言葉を出していらっしゃるのかなと思っていて、
令和人文主義、ご自身のノートの中では特徴として、
文体が上の世代と全然違うと。
受け取り手は学生よりも会社員。
かつての教養主義は大学生を典型としていたが、
新しい知能観客を意識した語り方になっている。
ハメディア展開。
反アカデミズムではない。
専門分野・専門家との協調。
教養主義から単なる人文知識。
SNSからポスト・トゥルースを意識した自己論や社会論。
言葉への強いこだわり。
言語哲学・言語学など。
専門や得意分野があるというふうな。
そういうふうなことを特徴として、
2016年ぐらいからだんだんと大きくなってきたムーブメントなんじゃないか。
だから10年ぐらいですよね。
10年ぐらいあっているムーブメントなんじゃないか。
っていう谷川さんのお話があって。
実は僕、谷川さんの議論っていうのはあんまり知らなくて。
これに対する批判の方から先に入ったんですよ。
批判としては、
例は人文主義に異議あり。
その歴史的異議と問題点ということで。
小峰ひずみさんっていう方が評論文を書かれていて。
その中で、
例は人文主義っていう括り自体があんまり良くないんじゃないかっていう話をしていて。
例は人文主義みたいなものがあるとして、
出てきた経緯っていうのは、
21世紀に入ってからのグローバル化とか、
新自由主義みたいなものは社会全体に浸透していったとか、
インターネットが登場していったとか、
2010年代の言論的な状況みたいなものがあったんじゃないですかっていう話をした後に、
このように例は人文主義を括ることっていうのにも問題点はあるよねっていう話があって。
例えば、知識人みたいなものを抹消しているよねとか、
例は人文主義の機種というか、
担い手の一人とされている三宅嘉穂さんが書かれた、
なぜ働いていると本が読めなくなるのかの歴史観っていうのが、
ちょっと誤っているのではないかという話だったりとか、
キャリア組のための哲学というか、
会社員、正社員みたいなものっていうのが、
キャリアアップをするために扱っているような、
そういうふうなことなんじゃないのかなみたいなことをお話しされていて、
この話っていうのが、
なんで問題なのかっていうと、
例は人文主義みたいなものが、
実は階級みたいなものを覆い隠していたりとか、
それまでの共生主義でおそらく大切にされていた、
現代の社会の根本的な状況というか、
法治の概念だったりとかいうこと、
小峰さん自体が法学から出身の方なんだと思うんですけど、
とかっていうのを割に軽視しているのではないか、
みたいな話をされているのかなっていうのが、
僕の受け止めで、
僕が例は人文主義というものが、
そもそもあるのかないのかみたいな話があると思うんですけど、
よくできた言葉だと思っていて、
これだけ盛り上がった2週間経って、
ほとんど誰も話していない状況の中であれなんですけど、
あれだけバーってみんながしゃべりたかったのは、
やっぱりそういうふうなのあるよねっていうの。
時代的状況っていうのは絶対そうだったと思うんですよね。
それを谷川さんが非常に上手に言葉にされて、
それをマーケットに出されたっていうのが、
すごい力だったと思うんですけど、
それに対して小峰さんの批判が出て、
僕はどっちかというと小峰さんの批判が、
そうだなって思ったっていう感じなんですよね。
でもこれ、ある種、
例は人文主義の方にあまり実体的なものがないというか、
そのような時代的雰囲気はあるけれども、
じゃあ誰がそうなのかとか、
論調に本当に共通点とか、
論者とかに本当に同じ方向みたいなムーブメントと言えるのかどうかみたいなのがあると考えたときに、
結構難しいところかなと思っていて、
じゃあそうすると、例は人文主義が存在するのか存在しないのかという問題があり、
存在して、実体としてないのに、
まあ実体的に雰囲気だけがあるとして、
雰囲気を批判してもなあみたいなのもあるんだけれども、
もし実体としてあるとしたときに、
この小峰さんの批判というのは僕は結構的を置いてるなと思ったっていう感じですね。
かつての体系の何かの延長にあるように見えないっていうのがそれかなと思ってて。
ライト化してるとも言えるというか、地位が。
確かに、それはあるなと思っていて、僕はどっちかというと今の話だと司さんの方がそうかなと思っていて、
別に強調したムーブメントはない。それぞれのやりたいことはあると思うんですよ。
なので、それぞれの方がそれぞれやりたいことがあるっておっしゃってるのはよくわかるんだけれども、
それを令和人文主義であるというとまとめたからといって、
その令和人文主義として何かが出てくるかって別にそういうことではないんだろうなと思っているっていうのが、
例えばほら、構造主義なら構造主義というので、いろいろな分野のものの見方っていうのを、
言語学の構造主義的な構造言語学みたいなものの見方っていうのを、
別のディスプリンに当てはめた時にこう見えますよっていう基本的なものの見方があって、
それを共通したところとあり、それぞれのディスプリンとかそれぞれの論者とか、
同じディスプリンの中でも話し方とか興味関心とかやり方とかが違えば、
お前が正しいこっちが間違ってるみたいな話はあったと思うんだけれども、
一応あったと思うんですよね。構造的に物事を見るっていう。
構造っていうのが一般的な意味でのストラクチャーというか、
構造という意味ではなくて、それが差異の体系であるっていうのが、
根本的なものの見方だったと思うんですけど、
例は人文主義に共通したものの見方があるのかっていうと、
正社員とかマジョリティに向けたマーケットとしてやってるっていうのは、
確かに一個そうかもしれないんだけども、
でも、それって何ていうのかな、
街の純喫茶とスターバックスがコーヒー屋であるみたいな感じで、
くくることに何の意味があるのかみたいなものでもあると。
だから例えばシアトルコーヒーとかスターバックスとかをまとめて、
サードウェーブコーヒーであるみたいな言うのは意味があるかもしれないけど、
あまりにも違うものを一つの括りに入れても、確かにコーヒー屋であるのは分かった。
でも、だから何っていう話にはなるなと思っていて、
それが例は人文主義に関して、サードウェーブコーヒー的なものなのか、
それともコーヒー屋であるっていうことなのかっていうのは、
ちょっと僕にはあんまり見当がつかないんだけれども、
それがどっちなのかなと思っているっていう話かなと思っていて、
ただ、めちくろさんの今のお話は、ちょっと僕がこの話を初めて読んだときに、
結構いう踏ん切りがついたことが一個あって。
人文知という言葉を持ってきたのが、
やっぱ初め天才的だったんだろうなっていうのをちょっと思ったんですよね。
で、それが人文学ではなかったっていうところがやっぱ大きい。
大きいところだと思うんですよ。
学問っていうのは学等があってディスプリンがあるので、
その学を収めないと、
別に高等教育みたいなのが教育システムとしてかなり整備されているので、
日本は必ずしもそうではないと思うんですけど、
誰かの弟子にならなければ学問は名乗れないっていう状況があると思うんですよね。
基本的にはどこの研究室を出たのか、どこの学校を出たのか、
どういう風な先生についてそれを習ったのかっていうことを、
ある意味つまびらかにできなければ、
谷川さん学位を取った大学教員ですって書いていらっしゃったんで、
それは自分のある種の正統性とか権威性みたいなものを、
証明しようとしていらっしゃるんだと思うんですけれども、
学位を取られたっていうのは学位を審査した指導教官がいるってことなので、
指導教官がいるってことはお師匠さんがいるっていうことなので、
そのお師匠さんはさらにお師匠班がいるっていうことなので、
これがちょっとイマジナリなつながりですけれども、
最終的にはみんなソクラテス、プラトン、アリストテレスまで、
師匠、師匠、師匠をたどっていくとどうにかそこにつながるっていうような、
イマジナリな学等をみんな持ってると思うんですよね。
それが直近のところで言えば、
日本に何々学を持ち込んだなんとか先生のところまで行くみたいなのは、
確実にあると思うんですよ。
でも学を名乗ろうとすると、それがないと名乗れないというところを、
知だと、なくても名乗れそうな雰囲気が出るっていうところがすごかったなって思ってる。
お話その通りだと思います。
お師匠さん誰ですかって言われたときに、
いやいません。自分で勉強しました。
あ、小立派に勉強されたんですねってなるんだけれども、学は名乗れない。
僕はアカデミアと相性がいいとか仲がいいっていう谷川さんの分析があったんですけど、
僕はその点において割と反アカデミズムなムーブメント、
これがムーブメントだとしたらムーブメントだなと思っている。
そこの今の括りの中で反アカデミズムではないっていう特徴を挙げてた人もいるよね。
谷川さんはそのようにおっしゃってましたね。
それは本人たちの自意識ではそうだろうと思うんですよ。
人間がという言い方としてはちょっと語弊があるんですけど、
少なくとも西洋の知識人社会みたいなのが、
どのように地をつないでいくかっていうシステムを結構根本から破壊し得るムーブだなと僕は思っており、
それを意図的にやってるのか、意図的にやってないのかはそれぞれいらっしゃるし、
本人の気持ちとしてはアカデミズムと親和性があるないっていうのはあると思うんだけれども、
学ではなくて地を標榜するっていうのは根本的にはそこにつながっていくんじゃないかなって僕は思ったっていう感じですね。
巨人の肩に乗るっていうよく言われる、
巨人の肩に乗る、ちゃんと訓練と権威というか称号を得た人が、
巨人の肩に乗って話すっていうのが多分今までの、今室さんが言った形だと思うんだけど、
巨人の肩に乗る、そこのプロセスを経ずに巨人を拝借して語るっていうことが、
知っていう括りにするとできちゃってる可能性があるみたいな。
できちゃってる可能性っていうか、できてる風を装うことができるってことだと僕は思っていて、
それはテクノロジーの問題もあると思うんですよ。
データベースがあるので、データベースを万人が使えるっていうことは別にお師匠さんいなくてもいいっていう話なんですよね。
データベースの中にこのデータベースをどのように使うかというデータすら入っていて、
研究のプロトコルみたいなのが論文になっていっぱい出てるわけだから、
ちゃんとした文章読解能力があればそのプロトコル書を読んで、論文を読んでたら別に再構成できる、技能としてはできるわけで、
これってちょっと違う話ですけど、ダウンタウンみたいな、
それまで師匠弟子でお笑いをやっていたのを、
養成学校っていうのを作って、養成学校を出ると漫才ができるということになるみたいな話。
だってそれも基本的には、地の板並みもそうなんだけれども、
別に師匠がいなきゃできないっていうことでもないはずなんですよ。漫才もそうです。落語もそうです。
別にビデオを何回も見てやれば、のようなものはできるっていう話なんだと思うんだけども、
そのようなものを社会的に承認するプロセスが人間社会にあるっていう話で、
それが落語では、師匠をもって教会に入るっていうことだし、
漫才でももともとは師匠をもって教会に入るっていうことだったのを、
そうじゃなくていいようにしようって言ったのが養成校だったと思うんです。
なので、令和人文主義というものがあるのであれば、そういうことを言っているんだろうなっていう。
もう師匠でしやめましょうよ。データベースがあれば、自分でできるんだからみたいな。
っていうことなのかなみたいな。
なんか今の人文学と人文知のその絶妙な違いみたいなのの繊細さで言うと、
もしかしたら令和人文主義のこの素晴らしいキャッチフレーズとフレーミングのパワーと、
あとその危うさの隙があるポイントがあるとすると、
主義と言ったところかもしれなくて、
令和人文主義ってつけちゃったがゆえに構造主義のような、
今室さんが言ったような、そういうものと比較されるっていう意味でいくと、
もしかすると令和人文〇〇っていうワードが人文知に当たるようなそのライトさを示すものだったら、
これっていうのはアカデミックな何かと比べるものじゃなくて、
むしろ今のSNSのハッシュタグと同じだよみたいなライトさを持って受け入れられたかもしれなくて。
すごい同意です。なんか令和人文マーケットの市場とかの方が、
今の話聞いてるとすごい、もしかしたら的確だったかもってすごい。
なんかさっき言った通り、ある専門性、専門領域の中で何かを訴えて、
何かが出てくるみたいなのはないと思う中で、
何を言葉によって起き得るかというと、
今の現状をうまく説明できている。
今のマーケットなのか、ムーブメントなのかわかんないですけど、
僕はすごいマーケットとして見てて、その活動をしている人たちが、
地だけでどうやってお金にしているのかとか、
その地を通じてコンテンツを作って、
そんなに自分の身のリスクがない地をプレゼンしているだけなんで、
何もリスクがない形式でプレゼンしていくことによって、やっぱりお金になりやすい。
で、オーディエンスもお金持っているそう。
人気になったらマスメディアからすごい呼ばれやすい。
何のリスクもないからっていうところで、
そういった依存関係がめちゃくちゃ、
当事者にしてはめちゃくちゃ美味しい。
なるほどね。
のが、すごいこの令和人文主義者、
令和人文主義?
or 令和人文マーケットの特有性なのかなって思ってて、
で、それで僕のもう一個、今話し聞いてて意見を言うと、
僕はその名前が出たおかげで、
それを批判しやすくなったのは、すごい良いステップだなって思う。個人的には。
まさにゆる言語学ラジオで起きた現象と同じような、ポジティブな作用みたいなものも期待できるよね。
で、さっきのまさにゆる言語学ラジオがさ、
なぜ一回最初のステートメントだと、ゆるをつけたのに逃げ切れなかったのかって、
ゆる言語学ってつけたから、
アカデミアからのやっぱりプレッシャーかかってて、
もう一回ステートメントを改めなきゃいけなかったかのように。
やっぱ学と知っていうものの、そこの差分が、
ある意味、ホットトピックになり得るパワーを持ってるよね。
いや、だからこれ本当に僕、歴史学者と話した時に、その人に言われたのが、
あのー、なんていうのかな、
その、古典ラジオのことどう見てますか?っていう話をした時に、
あのー、
えっと、柴良太郎にマジギレする歴史学者はいないみたいなことを言われたんですよ。
だって、まああれは、歴史を面白く語る、
キュレーションラジオだから、歴史をキュレーションしてるんですねっていう話で、
だから、歴史学のディスプレイに載ってないっていうのが、
まあ、その歴史学者ですよね。
それが歴史学一般とか、歴史学者一般の反応では多分ないと思うんですけど、
学者の反応だったなって僕は思っていて、
で、おっしゃる通りで、その、やっぱりゆる言語学は、
その学校を名乗ったがために言われたんだろうなとは思ってるんだけど、
なんか、僕はその水野さんの名をために言っておきたいんですけど、
水野さんの今の台本の、その制作過程って、
多分、ソンジョソコーラーの博士過程よりめちゃくちゃ手厚く、
あの、専門家の指導を受けているから、
あの、なんていうかな、彼に学知がないっていう話は僕は絶対したくないんだけれども、
その、なんていうかな、
あの、そういうのは確かにあるなーって僕は思いました。
でも、マーケット側のプレゼンスでいくと、
おそらくアカデミア側が何と言おうと、
コテンラジオの台本の制度や、
あの、ゆる言語学ラジオの水野さんの台本の制度みたいなものの信用っていうのは、
おそらく素人ほど、彼らがどれだけのことをやっているのかっていう信頼は、
なんか獲得している気はすごいするっていうか、
その要は、あの、なんていうのかな、
えっと、それの事実の有無じゃなくて、
そこの信頼をちゃんとアウトプットによって獲得できているかどうかっていう競争がもしあるんだとしたら、
ゆるをつけていようが、コテンラジオが、
キュレーションと言いようが、
彼らがその学術的かどうかは分からないけれども、
そのぐらいのことをやっているっていう信用を持ってリスナーは聞いていると思うんですね。
あの、司さんの論点がちょっと面白かったなと思っていて、
あの、リスクを、当事者がリスクをとっていないっていう話をされてたじゃないですか。
僕その、勝手な僕の目線だって分かってるんですけど、
僕は令和事務局長をちょっと調べた中で、
僕はそっちのレンズでめちゃくちゃ見てるんですよ。
当事者がリスクとってない、
当事者が自分の意見を言わずに、
地だけをプレゼンしている、
その状態の異常性っていうのをすごい興味深いなって思って。
なるほどな。
僕はちょっと違う見方をしていて、
僕はずっとリスキーなことやってるなって思ってたんですよ。
それはどういうリスクなの?
僕は彼らがあんまり意見を言ってないとは思っていなくて、
そのキュレーションしてきた情報と自分の意見っていうのを
隣同士に置いておくんだけれども、
別にそこはノーロジックであるみたいなのがあって、
それはアカデミア側からのお作法からすると、
え?ってなることだと思うんですよ。
それは常に誰か専門家から、
あなた方は知的な正当性を持ってないですよねっていう批判が
飛んでくる可能性がめっちゃある作法だなって僕は思っていて、
すげえリスキーだなってずっと感じてたんですけど、
他方を、昨今のマーケットの反応を見てみると、
マーケットはそんなの全然気にしねえんだなって思ったんですよ。
今はまったさに。
そっち側の人間だからこそそれの解像度が高いんだなって今思いました。
あってるとか間違ってるとかあんま関係ないというか、
そこで自分が楽しいかとか、
ストーリーテリングがどれだけいいかどうかみたいな勝負ですよね。
もしくはインサイトが本当に自分に使えるのかどうか。
だからアカデミシャンが別にめっちゃ正しいことを言ったからといって、
別に俺には関係ねえしなって言われたらそこでおしまいなんですよね。
だから間違ってるかもしれない。
アカデミックには間違ってるかもしれないが、
そのインサイトは俺に使えるってなったら使うわけでお金を払うわけですよね。
それは結構違うことだなっていうのは思いました。
あとは一方、大学っていう体系とか組織とか、
あと出版っていう体系とか組織っていうものの弱体化みたいなものをつかれたと思っていて、
要は人文っていうものの継承者を自分たちの組織の中に循環させていくための、
それこそマーケティングがあまりにもストロングスタイルが故にできてなかったのが、
今の現状だともし仮定すれば、
そういう外野のすごくリスキーな立場を取って、
社会に献殿してくれるゆるまるまるだったりっていうのによって出版が救われたりとか、
人文に興味を持ってアカデミシャンになろうとする人を生み出してるみたいな効果を、
大学とか書籍の方のシステム外からやってくれてるとも言えるというか、
結果、地っていうものや学っていうものに対する正しさみたいなものにおいてはすごく危ういことをやってるんだけども、
その危うさをやってくれるがゆえに、
その本当のアカデミアを存続させるためのきっかけ作りをやって、
マーケティングをやってくれたりとか、
広報活動をやってくれてる可能性みたいなところが、
本当に絶妙だなと思ってて、
それは盛り上がるようになったと思うというか。
僕はゆる言語にはその志があると思うんですけど、
例は人文主義として隠られていると全員がその志を持っているかとかはわからないし、
実際にマネーがそのように循環し、ゆる言語はさせていると思うんですよ、頑張って。
ある種の自然の理だと思うんですけど、
ここで僕が面白いなって思っていることの一つは、
結局全部できる人と何にもできない人になっている。
例えば僕は何にもできない側ですよね。
別にお金も儲けてないし、ポジションもないし、みたいな人なんだけれども、
谷川さんのようにたくさん本を出して、
学校のポジションもあって、学位もあって、みたいな人もいて、
普通に新自由主義的な能力主義によって、
上手くいく人と上手くいかない人が出るっていうことになったなっていう。
だから今挙げられている人は何例かいるんだけど、
その人たちはとばっちりかもしれないんだけど、
この現象面白いなと思って、今谷川さんが期待したことって、
今僕らは例としてこれを挙げるんだけど、
これが例は人文主義とくくれるかどうかも含めて皆さんで、
ちょっといろんなご意見くださいって言ってたのが、
そこの期待が彼のモチベーションかなと思ってて、
今こうやって3人で話してるだけでもさ、
ゆる言語学ラジオっていうのは、
マーケット側からアカデミアに対してのフィードバック、
要は興味や人のフィードバックがあるからそれは言える。
ただ挙げられた中で言うと、そうじゃない人もいるであろうみたいなのがあって、
だからこのカテゴリーに誰が当てはまるのかゲームを、
いろんなみんな枠組みで考えてるのってすごい知的なことだなと思って。
これは多分谷川さんが期待したことな気がすごいするね。
すごいフレームワークを与えてくれた。
面白い面白い。
だからハッシュタグって俺さっき言ったけど、
ハッシュタグっていうふうにライトに言うほど、
なんか一家性のものじゃないと思ってるから、
だから2週間で流れる可能性、
ハッシュタグが流れる可能性があるワードなんだけども、
僕はあえてまたポッドキャストで議論したいなと思ったな、そこ。
だから永遠と話してほしい。
全然話せる。
でさ、さっきのさ、今の専門性とか権威の話で言うとさ、
今あの話前にさ、塚田さんが言ってたのがちょっと興味深かったんだけど、
フランスとかイギリスの例と今のこの日本のこの現象と比べたときに、
多分そのアカデミア側の権威っていうもののマスの扱い方の差があるらしいことを言ってたんだけど、
ちょっとそれちょっと聞きたいな。
そうなんか未だにちゃんと言葉にはできてないですけど、
なんか僕がなぜそこに至ったかたどると、
一昨日ぐらいにそのめちゃくちゃ令和人文主義を簡単に説明するみたいなノート記事読んで、
へーって読んでたんですね。
サマリー化してて。
サマリー化してて、分かりやすって思いながら読んでて。
でなんか寝る前だったんで、寝ようとしてたらなんか、
あーでもなんか日本っぽいかもって。
だから日本っぽいかもって普通にそんなメタで関係なくて、
え、待ってみたいな。
これ、僕が馴染みあるフランスとかイギリスに全くなくね?みたいな。
この現象自体が可能性としてなさそう。
そう。で、確かに、まあまあこれ根拠はない感覚なんですけど、
確かにみたいな、でちょっとメタしてた。
なんでなんだろうとか思ったときに、
まず一つありえるかなって思ったのが、
まあイギリスよりフランスのほうが全然顕著なんですけど、
そのアカデミアが日本と比べてよっぽどやっぱりもう、
すでに社会と接点がめちゃくちゃある。
日本だと僕の勝手なイメージだと、学者は大学にしかいなくて、
で、研究とかりして、で、なんかそんな、
俗に言う社売行為なんて絶対手に出すべきじゃない、出さない。
YouTubeなんてもうそんなの絶対ありえないみたいな考え方なのだと思うんですけど、
海外だと、もうめちゃくちゃ立派な、
一番有名って言われてる経済学者であっても、
すごいゴールデンタイムのテレビに出て、
自分のマニフェスト、自分の政治性を説明して、
なぜ、例えば、レフ・ヒザー生徒と組んでるのかとか、
めっちゃ語ったり、
それでライトな番組から、
そもそもいい意味で意識高い番組が日本より全然ある世界線なんで、
やっぱりなんか、
その言葉使ったら簡単に過ぎかもしれないけど、
そういったことに対してリテラシーは高いから、
起きにくい構造があるのかなって思っている。
それって浸透しているから、
あの人たち学者じゃない学者であるみたいなことが起きにくいことがあるのかなと。
サイドノートですけど、
かつ、やっぱりそういったYouTubeとかしていい、しちゃダメみたいな概念も、
日本と比べてめちゃくちゃ薄いんで、
なんか海外だとPHDやっている人でYouTubeやる人めっちゃ増えてるんですよ。
だから何かそこは確かにあるなってすごい思う。
すごい思う。
だから逆にアカデミア側からの返答、アンサーみたいなものも、
マーケット側からのアンサーみたいなものも、
そこのちゃんとした権威の人が発言したところで、
マーケット側はどっちも信じてないみたいな。
だから見たいものだけ見たいし、
言語学ラジオが正しいかどうかわからないけど、
僕はこの地を使いたいみたいな、
なんかなってる気がする。
印象はない。
教育システムとかもあるのかな。
僕なんかフランスの教育システムよくわかってないんですけど、
理性、日本で言うと高校にあたるんですかね。
理性。
理性の先生たちっていうのは、
なんていうかな、アグレガシオンって言うんですか。
アグレガシオン。
を取らないとできないようになっているんですかね。
そうだと思います。
で、あれって結構日本で言うと、
なんていうかな、
結構学部だけ出てみたいな感じじゃなくて、
結構ちゃんとした訓練を受けた人が。
めちゃくちゃ高学歴の人たちが、
高校の先生せざるを得ない。
しかもかなり労働環境悪いみたいな。
給与とかも。
よくない。
そうなってくると、高校時点で結構ディスプリンっていうか、
専門性の高い人たちの教育を受けているみたいな。
要は自分が知恵を獲得するためのゲームルールみたいなものを、
ちゃんとそういう体系だったらディスプリンとして、
高校レベルで受けられると。
つまりテレビとかのメディアの情報を受け取るときの基礎操用がすでに違うんじゃないかなって。
なるほどね。
だから日本だと、大学が4年間遊ぶところですみたいなところも、
今は多分そうじゃないと思うんですよ。就職も厳しいし。
大学におけるガバナンスとかもめちゃくちゃ厳しくなっていると思うので、
今は全然そうじゃないと思うんですけど。
もし大学が4年遊ぶところですみたいな時代があったとしたら、
もしかしたらフランスで高校の時にすでに学んでいるようなことを、
大学4年間出たからといって別に学べないみたいなところもあるのかなと思ったら、
テレビに出てる専門家が本当に専門性があるのかどうかを強化する基準とか、
判断する能力とかが、実は我々の側にないみたいなこともあるのかなって。
だからさ、令和人文マーケットっていう言い方でさ、
見事にハッシュタグを作れたとしてもさ、
すでに大学側がさ、自分の営業業態をマーケット化してた過去が、
日本には数十年あったってことだよね。
要は4年間遊ぶ場所の人を集めるためのマーケティングを、
大学側がやっちゃってたっていう過去があるから。
大学がやってたというより、もう少し日本の産業構造がそうなった。
そっかそっか。それは大学側が意図してやったというよりは、
要は就職までの、要はラベリングのために、
このモラトリアム機関として受け皿にしましたよっていう。
というか、就職するときに企業側が別に専門性を求めないので、
大学っていうのが剥付機関になってしまう上に、
結局学生たちの目標っていうのは、企業に就職することになっているので、
そこで知的な訓練を受けるということよりも、
就職するという方にインセンティブが行くっていう。
で、それをそういうふうな集団就職というか、
新卒一括就職みたいなものがOKであるみたいなことが、
結局その土壌を生み出しているので、
大学が別にそれを加担しなかったとは言わないけれども、
もうちょっと統合的な政策の中で実は考えなきゃいけなかったことなんだろうと思うし、
そのような変革っていうのはある意味起きているのかなと思うんですけれども、
別に雑誌で待っていたわけじゃなくて、
ほっといたら自動的にそうなったっていう話なんで、
これは良くないよねって言ってみんな結構頑張ってるんだとは思うんですけど、
そういうことがあるのかなと思う。
だから大学という機関だけが知的教育みたいなものっていうのが、
うまくいかなかったからそうなったとは僕はあまり思ってないですね。
やっぱり日本全体の産業構造自体がそうなったっていうことだと思うんですよ。
なんかそれってアートでもアカデミアでも日本って特徴的だなと思うのか、
なんか要は今日本のアートの最も世界的にも評価されているのは、
もし漫画、アニメだとした場合、
そこのトッププレイヤーたちって別に東京芸大出てる人がほとんどなわけでもないっていうか、
専門的な何かを受けたわけでもない人がトッププレイヤーで世界に評価されてたりとか、
だからその日本ってそこがなんかよくわからなくなってるからこそ、
いろんなオルタナティブが生まれてて、
世界側から、権威側から見るととてもユニークなものが生まれるみたいな現象って起きやすいのは日本だったりするというか、
やっぱフランスのバンドネシエの人とか見てたりすると、
やっぱり何かしらの正当な筋をたどってる人とかがお見受けられたりするというか、
だからなんかそのプロフェッショナリズムだったりアカデミアだったりみたいなものが、
すごく曖昧なふりに溶けてる国だからこそ、
今回の令和日本主義とかも起きてる現象だなと思ってて。
それはそうかもしれないですね。
どっちかというと、でも漫画も、
僕はその正確にはわかんないですけど、
例えばこの編集者さんに見つかったとか、
この漫画家の先生の弟子だったみたいなのがやっぱり聞いてくるところなのかなと思っていて、
なんか、まあわかんないですけど、
時はそうみたいなのが存在するみたいなのって、
やっぱりそういうことなのかなと思って。
なんかね、入り口のところは、
ちょっと吉本的なんだけども、
ある出版社のその賞に応募して、
まず賞に引っかかるっていうところから入り口が、本校が開かれていて、
そこに入って連載獲得までの間に、
どこかの先生のアシスタントについて、
その数年間お師匠さんができるみたいな、
結構混ざってる、ハイブリッドな構造だったりするんだけど、
でも確かにそれが、要は東京芸大をちゃんと拍子取ったじゃないと、
収益者のこの出版社から出せませんとかっていうものは全くなかったりするっていう。
ただその特定関係みたいなものは確かに絶妙に間に入れ込まれたりするから、
面白いかなとは僕は思っていて、
で、それやっぱ新しい分野だからかなと思うんですよね。
出てきて、たぶん200年は経ってないと思うので、
そうかなと思う。
だからたぶん落後化、精度化されていくとか、
例えば今でこそお農とか国宝みたいな映画、僕見てないんですけど、
あって血が大事みたいな話みたいですけど、
でも農が初めに出てきた時のことを考えてご覧なさいみたいな話だと思うんですよね。
そしたら精度化するまで何百年かかるっていう話かなと思っており、
だから新しい産業とか新しいクリエイティビティの中にはその余剰があるっていう話だと思うんですけれども、
その中で、例えば人文とか言ったら、
人間の文字の歴史と同じぐらい長い歴史があって、
それがかなり精度化されているっていうところに対するアンチテーゼルとして出てきてるのは結構違うのかなと思うんですけどね。
さっき三室さんがこの話を話すときに気づかされたって言ったので、
人文学じゃなくて人文地団って言ったのって、
室さんはそれを派となった時に自分はどのスタンスを取ろうとかっていうのって思った。
室さんって意外と絶妙じゃん。
派ってなったというより、僕は結構思っていたんだけれども、
なんか世の中にスタンスを出すときはもう言わざるを得ないっていうところまで来たなって感じです。
僕は学等が大事だと思ってるんですよ。
なんか俺、今令和人文主義って言って挙げられてる方々は、
この人はそうだろうなっていうのを自分なりにシミュレーションしたんだけど、
そのときずっと引っかかって浮かんだのが室さんどこに入るのかなってずっと俺考えてたんだけど、
室さん絶対そこ入んないなと思ったときに、
とはいえ室さんって何かのそれじゃない何かっていうのが入らないから、
室さん用にハッシュタグ作りたいなと思って。
この人何なんだろうっていうのが。
だから俺があらゆる人関わりながら室さんと津川さんと興味深く話してるのはそれかなと思って。
どれでもない。
いらないでしょ。何でもない人の。
いやいやいやでも興味ある興味ある。
だってさ、文化人類学っていうところの系譜からやってきてさ、
でそのアカデミックなある程度訓練を受けながらもさ、
でさっき言った令和人文主義に挙げられてるコテンラジオのタレもつけながらさ、
この人は今何なんだろうっていうのが一番面白い。
僕がコテンでやりたかったのはそういうことというか、
なんていうかそこをつなげていくっていうのは自分の仕事だとずっと思ってたんですよ。
あの、学童の中にないから、
でそこに入ることはできないですよね。
コテンという会社自体がその何々先生のその会社まるごと弟子ですみたいにならないわけだし、
じゃあその社長の深井龍之介が何々先生の弟子になる、
まあこれからなるのかもしれないし今なってるかもしれないけど知らないけど、
その弟子になるという方向性って僕が言ったわけじゃなかったんですよ。
でなったらじゃあその別にその流れの中に正式には入れないんだけれども、
その流れに対するリスペクトというか、
少なくともそのそれを遭遇しないみたいなのを頑張ってやるのが僕の仕事なんだろうなって思ってたんですよね。
だからすっごく真摯だよね。
でも結構失敗してて、
そのコンテンツの中に結構良くない情報が混ざり込んだりとかしたことも結構あるんだけど、
でもその難しいなというのはちょっと難しいなっていうのはなんていうのかな、
まあ僕も歴史学が専門じゃないから、
人類学が扱う領域であればある程度何とかあたりはつくけど、
歴史学的にどうなんだって言われると、
まあ読みましたけどみたいな、
僕の解釈はこうなんですがみたいなことは言えても、
それがどうなんだろうみたいなのがやっぱ最終的な正当性は出せないわけですよね。
みたいなのもあるし、
まあでももっとレベルの低い単純な事実誤認で僕が口をすびらして喋っちゃったこととかもあるし。
でもさ、
あずまさんがそれこそ定性可能性の哲学とかで言ってた、
ある意味大学批判的なものを持って多分言ってたように僕はあれ感じるんだけども、
その定性可能性に対して今自分はどこのポジションを取るのかっていうのが、
みんな今のマーケットにおいて競ってるんだなって見えてるところでいくと、
もろさんは定性する可能性がある間違ったことをやる場で戦ってる人に見えるっていうか、
要は完全に定性が必要ないぐらい正しくあったものを出すのがもし論文なのとしたら、
その論文だけだとできない、
もしかしたら間違うかもしれないけども口を滑らせるかもしれないし、
仮説しか入れてないかもしれないけども言いますっていうのを知能側から社会に出てくれてることが多分、
俺は今面白いと思ってて。
だからもろさんは自来言にちゃんと聞いてくれてる人に見える。
僕の感覚で言うと僕、あずまさんの定性可能性の哲学買ったけど読んでなくて申し訳ないんですけど。
何で買ったアピールするんだよ。
ちゃんと知らないマウントじゃないよって。
いやいや、何て言うのかな。
あずまさんへのリスペクト。
これを読まなければいけない本だという認識はあるんだけど、
僕の力不足で読んでないなって言いたかった。
意味がないから買ってないです、意味がないから知らないですってことを言いたいわけではなくて。
伝承じゃないよって。
ちゃんと読まなきゃいけないなという認識はあるんだけれども、
読めてない自分がいる。
申し訳ないですっていう話なので、
あずまさんの議論って僕は知らないので、別個の話として話したいんですけど、
僕はアカデミアが定性できないところだと思ってなくて、
むしろ定性できるところだと思ってた。
論文に対してもそうですよね、さどくとかも。
さどくもそうだし、
それを磨いていく場なので、
アカデミズムという全体が、
新しいことを言うって別にそれが正しいことか間違っていることか分かんないじゃないですか。
ここでこういうふうな、
例えば自然科学的なことだったらデータからこういうことが言えますとか、
人文系だったら論理性の中からこういうことが言えて、
ということはこういうことなんじゃないかと思いますってことを出すわけじゃないですか。
それが正しいか間違ってるかみんな分かんないわけですよね。
だから100%じゃないよっていう大前提が自然科学の条件としてあるよね。
というか、学知の一般的なでっかいゲームルールがそうなんだと思うんですよ。
それに対して違うなと思うんだったら違うと思いますっていう論文を書けばいいなという話なので、
それで全体としては定性されていくっていう話だと思うんですよ。
あんまりないと思うんですけど、
確かにその点ではあなたが正しかったです、
私の論文が間違ってました、撤回しますということもあるだろうし、
そういうことが起きるのがアカデミズムだなとは思うんだけれども、
マーケットに相手にしちゃうとそうはできないというか、
その人は買ったものを信じて使うので、
なんていうのかな、別に苦情が来たからといって、
だからすごくクレーム対応的になっちゃうんですよね。
皆さん表に出ていることだからご存知の方はご存知だと思うんですけど、
サイエントークのレーンさんが古典ラジオのこの部分間違ってるんじゃないですかっていうのを出されて、
それに対する古典の対応が残念でしたっていうのをノート記事に出されてたと思うんですけど、
あれは僕がいた時から社の方針としてそうなってたのであって、
別にそれは会社の経営的な判断だから、
僕はそれに対してシノボの言う立場でもないし、
別にそういう決断があり得るだろうなっていうのは僕の考えなんですけど、
なんていうかな、
学知を扱うものとして誠実ではないなと僕は思うんです、個人的には。
なのでそれが起きちゃうと会社としてはそのような対応するしかないので、
起きないように全段階で頑張って前さばきをしなきゃっていうのが、
僕がやりたかったことで力が及ばずにできてないところも結構あるんですけど、
なっていう感じなんですよ。
だから僕は谷川さんがどのようにお考えかっていうのは、
この文章の中から僕はちょっとあまり推察することはできなかったんですけど、
例は人文主義がやりたいこと、
人文的なものっていうのをマーケットにリーチしていくっていうこと自体は、
めっちゃいいって僕はやっぱ思ったんですよ。
あり得るべきことだろうと。
さっき津川さんがおっしゃったようなフランスではもっと近いんですっていう話になったときに、
日本では近い状況っていうのを作り出せばいいっていう話で、
それがアカデミシアンをやるのが難しいっていう、
大学の規定もいっぱいあるし、今大学生としてはほんとめちゃくちゃ忙しいんですよね。
僕の知ってる研究者の人ももう研究できないと事務作業に工作されて、
それは政府がお金出さないって決めてるからですよね、大学に高等教育に。
それで結局もう幸せな研究者に行くので、
そうなるっていう状況をどう変えるのかって言ったら、
それは社会的に投資する価値がありますっていうのを社会のほうに分かってもらうしかないじゃないですか。
税金を投入する、税金を投入しないといけない事業なんですってことを分かってもらわなきゃいけないってときに、
やっぱりマーケット耕していかなきゃいけないってことだと思うし、
それは例えば大学の人文的な教育を受けた人が、実際社会の中でも人文的な素養を生かせば全然動きが違うじゃないですかと。
専門性によって、例えばその医者とかの給料が高いように、
人文的な専門性がある人っていうのがその分給料高くなっても当たり前じゃないですかっていう世界性になれば、
その循環っていうのは行くと思うんですよね。
その起爆剤を誰がやるのかって言ったら、この社会の中で、
プライベートセクターの人とか、マーケットの人がやらないと起爆剤にならないんじゃないっていう、
その個展の整理は本当に正しいと思うんで。
でもそれは結局、楽闘を繋いでいくって一番初めの、
地の供給っていうものをやるところっていうのを回していくっていう観念がないと、
先細っていくだろうなって僕は思ってるんですよね。
ただそのマーケット、
塚田さんがおっしゃった、どこを目指してるんだろうはもうまさにそうだなと思っていて、
これを回すという指示がないままに、点でバラバラにやると結局ここから削減的になって、
マネタイズするポイントでだけお金が向かって、
インターネットとかと一緒だと思うんですよ。
インターネットって無料でバーって出た、本当は無料じゃないと思う。
いろんなところでお金がかかるから電気代とかサーバーの維持費とかお金がかかるから、
回していかなきゃいけないんだけど、
なったときにもう少し分配の仕方が違ってもよかったはずのテクノロジーが、
結局テクノロジーに強い人たちっていうのがポンポンポンとサービスを作って、
自分の領地みたいな感じでマネタイズしたことによって、
彼らは長者になったが、みたいな。
それが社会全体を豊かにしたがって言うと絶妙なところであるみたいな話だと思うんですよね。
してないとは僕は言わないんだけど、してるとは思うんだけれども、
別の在り方ももしかしたらあったかもしれないっていうような発展意識だった。
少しでもより良い。
これまた別にインターネットの次に人分地で起きても、
おかしくないなと思ったよね。
そこに対する批判はあってしかるべきだと思うし、
小峰さんの批判はそこをまなざしてる批判なのかなって受け止めたっていう感じですよね。
谷川さんがそれを目指してないかどうかは全くわからないので、
言葉を作った谷川さんとか、令和人文主義者と言われている人たち全体が
別に批判されるべきことではないと僕は思うんですけど、
別にそれを考えてないからといって悪いことやってるわけじゃないから、
それぞれ良かれと思ってやってることがあるっていう、