ボードゲームの魅力と隠された視点
休日の午後、友達とテーブルを囲んで、新しいボードゲームの箱を開ける時ってあるじゃないですか。
一番ワクワクする瞬間ですよね。
そうそう。で、厚紙のタイルを型からパチパチって外して、サイコロの重みを手の中で確かめたりして、これから数時間、現実世界の面倒なことは全部忘れて、もう純粋で無邪気な楽しさに没頭するぞ!みたいな。
あなたもきっと、そんな風にゲームを楽しんでいると思うんです。
はい。大半の人がそうやって純粋に楽しんでいますよね。
でも、もしそのワクワクするゲームの盤面が、実は19世紀から続く家父長制とか、支配の構造を無意識に反復練習させるための、なんていうか、精巧なシミュレーターだったとしたらどうでしょうか?
なかなかショッキングな視点ですよね。私たちがただの遊びだと思っているものの中に、社会の強固なバイアスがひっそりと、でも確実に組み込まれているっていう指摘なわけですから。
そうなんです。今回の深掘りでは、まさにそのタブーに切り込んでいこうと思います。
はい。よろしくお願いします。
「ボードゲームのガラスの天井」コラムの紹介
今日取り上げる情報源なんですけど、ボードゲーム制作サークルの空葉堂さんが、「ボ哲」つまり「ボードゲーム哲学」というメディアで公開した「ボードゲームのガラスの天井」という非常に挑発的なコラムです。
このテキスト、本当に興味深い内容でしたよね。
このコラムが私たちに突きつける問いは、すごくシンプルで、「なぜ私たちはゲームで遊ぶとき、いつも戦争や征服ばかりしているのか?」ということなんです。
そうですね。そしてこのコラムの素晴らしいところは、単に戦争のゲームは無双だからやめましょう、みたいな表面的な道徳論に着地していない点なんですよ。
ああ、確かにそういう単純な話じゃなかったです。
ゲームのルールとかシステムそのものが、いかにして私たちの社会の隠された価値観を映し出しているのかというのを、歴史とか哲学のレンズを通して見事に解体していますよね。
なので、あなたが次にゲームで遊ぶとき、今までと全く違う視点を持てるようになる、そんなアハ体験を今回の深掘りでお届けできるかなと思っています。
はい、とても楽しみですね。
テーマ変更の現状と「モンバサ」の事例
著者のコラムを読んでいて本当に面白かったのが、近年のボードゲーム業界におけるテーマの変更に対する鋭いツッコミなんです。
テーマの変更ですね。
はい。
あなたも思い浮かべてみてください。大ヒットするような重量級の戦略ゲームって、軍隊で領土を広げたりとか、未開の地を開拓したり、あとは巨大な企業を支配したりするものが多いじゃないですか。
そうですね。圧倒的にそのパターンのテーマが多いです。
ですよね。
ただ近年は業界全体でそうしたテーマに対する見直しが進んでいるのも事実なんです。
と言いますと?
かつては植民地支配とか奴隷制といった歴史的な策書をテーマにしたゲームがごく普通に存在していたんですけど、今はより中立的で誰も傷つけないようなテーマに差し替えられるケースが増えています。
あーなるほど。資料の中で具体例として挙げられていたのが、『モンバサ』という名作ゲームですよね。
はい。まさにその『モンバサ』が典型的な例です。
これ、もともとはアフリカの植民地開発をテーマにしていて、プレイヤーは投資家として資源を搾取していくっていう内容だったんですよね。
そうなんです。それが近年、舞台を宇宙空間に移して、小惑星での資源採掘を描く『スカイマイン』というゲームとしてリメイクされました。
宇宙空間にですか?
ええ。表面的には非常にコンプライアンスを意識した現代的なアップデートだと言えますよね。
現実の歴史的搾取をエンターテイメントにすることの是非が問われる中で、舞台を架空の宇宙にすれば誰も不快な思いをせずに済むだろうと。
純粋にシステムだけを楽しめるっていう理屈ですね?
その通りです。
表面的な変更の奥にある構造
でも著者はそこで立ち止まらないんですよね?
ええ。そこからの展開が鋭いです。
ここをちょっと紐解いていきたいんですけど、テーマを宇宙に変えたところで、プレイヤーがゲームの中で実際にやっている行動、
つまり資源を独占するとか、他者を陣取りで出し抜くみたいな根本的なメカニクスは1ミリも変わっていないじゃないかという指摘です。
そうなんですよ。やっていることの本質は同じなんです。
これって例えるなら、古い軍隊の兵舎があって、その建物の壁紙を可愛らしい花柄とかスタイリッシュな宇宙柄に貼り替えたようなものじゃないですか?
とても分かりやすい例えですね。
見た目は現代風でオシャレになったけれど、建物の骨組み自体は相変わらず兵舎のままだよね、という。
ええ。ここで非常に興味深いのは、著者の批判がさらにその奥へと踏み込んでいる点です。
さらに奥ですか?
はい。単に骨組みが兵舎のままであること以上に恐ろしいのは、遊び手も作り手もさらにはレビューアーでさえも、その兵舎の骨組みをボードゲームにおける普遍的で中立で標準的なものとして無意識に受け入れてしまっているという構造そのものなんです。
つまり、誰も「なぜゲームって必ず誰かを支配したり競い合ったりしなきゃいけないの」とすら思わなくなっているってことですね。
そうなんです。それが標準になってしまっているからです。
なるほど。
コラムの著者は、この標準とされている闘争や支配のメカニックスこそが、文化領域における男性的な視点の表れであると論じています。
ボードゲームにおける闘争・支配の歴史的ルーツ
男性的な視点ですか?でもここで気になるのは、なぜそうなったのかという歴史的な経緯なんですよね。
ええ、そこは重要ですね。
別にある日突然、今日から支配と闘争をゲームの標準にしようって誰かが会議で決めたわけではないですよね。
おっしゃる通りです。そのルーツをたどると非常に明確な歴史的背景が見えてきます。
まず、私たちがよく知るチェスや囲碁といった古典的なアブストラクトゲームですね。
はい、チェスや囲碁。
これらはそもそもが、軍隊の動きや陣形を模した戦争のメタファーなんです。
そうなんです。さらに重要なのが、私たちが現在楽しんでいる趣味としての現代ボードゲームの直接的な源流の一つについてです。
源流ですか?
ええ、それは19世紀のプロイセン軍、現在のドイツなんですが、そこで将校の軍事訓練用に開発されたクリークシピールという戦争演習のシステムにさかのぼるんです。
クリークシピール?へえ。
地図上に木のコマを置いて、ルールに従って部隊を動かし、サイコロで戦闘の勝敗を決める、これまさに現代の戦略ゲームのプロトタイプなんですよ。
なるほど。軍事訓練のシミュレーターからスタートしているから、現代のゲームのDNAの深いところには文字通り戦争とかゼロサムの競争が刻み込まれているわけですね。
ええ、勝者がいれば必ず敗者がいるというシステムがですね。
だからこそ、ゲームの世界において相手を出し抜くこととか、経済的な競争で優位に立つことは、あえて特別な説明を必要としない無標、つまり当たり前の標準状態として扱われるようになった、と。
はい、この無標というのは言語学などで使われる概念なんですが、社会で普通とされるものは、いちいち注釈をつけられたりしないんですよね。
ケアや共感のゲームが特殊扱いされる理由
標準だからそもそも疑問すら持たれないんですね。一方で、著者はその対極にあるテーマについて言及しています。
ええ、ここからがまた面白い視点です。
もし、他者へのケアとか共感、あるいは純粋な恋愛関係の構築みたいなものを、メカニクスの中心に据えたゲームがあったとしたらどうなるか。
確実に特殊なゲームとして扱われますよね。ニッチなテーマとか、女性向けとか、あるいは実験的なインディ作品、といったレッテルを貼られてしまうわけです。
相手を破産させるゲームは標準なのに、他者をケアするゲームは特殊扱いされる、と。
そうなんです。著者はこれを無標として周縁化されると表現していて、この非対称性こそがボードゲーム界におけるガラスの天井なのだと指摘しています。
市場原理と根底にあるジェンダー構造
ああ、それがタイトルのガラスの天井に繋がるわけですね。でもちょっと待ってください。ここであなたが抱くかもしれない素朴な疑問をあえてぶつけさせてください。
はい、何でしょう。
それって単なる市場の原理じゃないでしょうか。
市場の原理ですか?
ええ。ボードゲームの出版社からすれば、標準や歴史から外れた、勝敗のないケアのゲームなんてルール作りも難しいし、何より売れないかもしれないっていう巨大なビジネス上のリスクですよね。
確かにそうですね。
そもそも、明確な勝ち負けや競争がないと、ゲームというシステム自体が破綻して面白くならないのでは?って思っちゃうんですが。
これは非常に重要な問いを投げかけていますね。ゲームデザインとビジネスの観点から見て、とてもまっとうな指摘です。
やっぱりそうですよね。
実際、明確な勝利条件とか数学的なバランス調整のしやすさから言っても、軍事や経済といった競争モデルはシステムとして構築しやすいんです。
コラムの著者も、出版社が直面するそうした商業的なリスクの存在自体は否定していません。
では、著者はなぜそこまでこだわってこの問題を掘り下げているんですか?ビジネス上の理由があるなら仕方ないじゃないかとも思えるんですが。
著者が問うているのは、なぜ競争や闘争のゲームばかりが売れるのか?つまり、なぜ大多数の人がそれを面白いと感じるのか?というさらに一段深いレベルの問いなんです。
なぜ私たちがそれを面白いと感じてしまうのかですか?
そうです。なぜ私たちは、ケアではなく戦いのテーマに引き付けられるのか。その根本原因は、市場の原理という表層的な問題ではなくて、私たちの社会の根底にあるジェンダー構造に起因しているというのが、このコラムの最もスリリングな主張なんです。
なるほど。市場が戦いを求めるのは、社会全体がそもそもそういう欲求を抱いているからだということですね?
はい、その通りです。
超越と内在性の哲学
そこで著者が論拠として持ち出してくるのが、2人の著名なフェミニズム思想家の哲学なんですね。シモーヌ・ド・ボーヴォワールとベティ・フリーダム。
彼女たちの思想を補助線としてボードゲームの構造を読み解くことで、このコラムは単なるゲーム表の枠を大きく飛び越えていきます。
この部分のロジック、本当に興味深かったので整理させてください。まず、ボーヴォワールは名著の『第二の性』の中で、社会が長きに渡って男性と女性を2つの異なるカテゴリーに分けてきたと論じていますよね?
はい、そうです。
男性は主体として、そして女性はその主体に対する他者としてというふうに。
その通りです。ボーヴォワールはそこで2つの重要な概念を提示しています。超越と内在性です。
超越と内在性、なんだか難しい言葉ですね。
彼女の分析によれば、歴史的に男性は未知の領域を開拓したり、新しいものを創造したり、時に危険を犯してでも現状を打破して外へと向かう超越的な存在として自己を定義してきたんです。
世界に自分の生きた証を刻み込むような、まさに目標達成の生き方ですね。
一方で女性は、そうした男性の活動を支えるために、日々の命を維持し、反復的な労働を行なし、家庭という枠組みの中に閉じこめられる内在性の領域に押し込められてきたと論じています。
なるほど、それが内在性。
そしてさらに後年、ベティ・フリーダンが『女らしさの神話』という本で、この構造が現代社会にも深く根付いていることを暴きました。
というと?
良き妻、良き母として、家庭という内在性に閉じ込められた女性たちが、いくら物質的に豊かになっても拭いきれない深い虚無感とか、アイデンティティの危機に苦しんでいる現状を告発したんです。
ボードゲームにおける超越の疑似体験
ああ、なるほど。で、ここからが本当に面白いところなんですが、著者が展開するロジックの凄みって、この超越と内在性という哲学的な構造をそのままボードゲームのテーブルの上に重ね合わせているところですよね。
はい、まさにそこが見事な点です。
つまり、私たちが夢中になっている戦争とか未開の地の探検、あるいは宇宙の征服といったゲームは、この主体的で男性的とされる超越の感覚を極めて安全な環境で味わうための最高のシミュレーターになっているという主張なんです。
ええ。私たちはサイコロを振って、リソースを管理して他者を出し抜くことで、現実世界ではなかなか得られない、自らの力で世界をコントロールして目標を達成したという全能感、つまり超越の快楽を擬似体験しているわけです。
著者のこの視点に従うと、本当にハッとするような気づきがあります。
そうですよね。
あなたも、自分が最後に遊んだ重ための戦略ゲームを思い出してみてください。きっと帝国を築いたり、ライバル企業を打ちふかったりしていませんでしたか?
大抵はそういったテーマですよね。
逆に言うと、私たちは内在のゲームを全く持っていないんですよ。誰も永遠に終わらない皿洗いと子供の寝かしつけと近所付き合いを完璧にこなし続けることで勝利を得るゲームなんて作らないじゃないですか。
確かにそんなゲーム見たことないです。
なぜなら、現実の社会においてそうしたケア労働は達成とか異業ではなくて、やって当たり前の維持として低く見積もられてきたからです。
そこが確信なんです。
著者は、私たちがゲームの標準として無意識に受け入れて楽しんでいる文化的実践だ、実は女性を内在性の領域へ押し込めてきた現実社会の価値観と完全に血続きであるという構造を指摘しています。
インディーゲームシーンとラディカルな提案
これ、誤解のないように言っておきたいんですけど、コラムの著者は決して、だから戦争ゲームで遊ぶ人は悪だとか、戦略ゲームを楽しむなと断罪しているわけではないですよね?
もちろんです。エンターテイメントとしての楽しさ自体を否定しているわけでは全くありません。
あくまで構造の指摘なんですね?
ええ。私たちが純粋で中立なルールの塊だと思っているものの中に、これほどまでに偏った社会構造が反映されているという事実から目を背けるべきではないという継承なんです。
ただの厚紙と木のコマだと思っていたものが、突然社会のジェンダー構造を支えるシステムの一部に見えてくる。この視点の転換は本当に強烈でした。
ええ。一度気づいてしまうと、もう元には戻れないような鋭さがあります。
では、この分厚いガラスの天井に気づいてしまった今、ボードゲームの未来はどうあるべきだと著者は語っているのでしょうか?私たちはずっとこの兵舎の骨組みの中で遊び続けるしかないんですか?
いえ、絶望だけで終わるテキストではありません。著者は一つの希望の兆しとして、日本のインディーボードゲームシーン、いわゆる同人ゲームの界隈に触れています。
あ、日本のインディーシーンですか。世界的に見てもかなり特殊で面白い生態系を持っていますよね。
そうなんですよ。大きな商業的リスクを背負わないインディーの作り手たちは、非常に多様で実験的なテーマに挑んでいるんです。
例えばどんなものがあるんでしょうか?
例えば、一緒にお茶を入れる空間を楽しむゲームとか、お互いの感情の機微を察せられればクリアになるゲームなどですね。
なるほど。
明確な敵の打倒とかゼロサムの競争を背した、まさにケアや日常の内在性をテーマにしたような作品が毎年数多く生まれています。
誰かが勝つために誰かが負ける必要がない、そういうメカニクスなんですね。
ええ。しかし著者は、そうしたインディーの動きを高く評価しつつも、世界のメインストリームに向けてよりラディカルな提案を突きつけています。
よりラディカルな提案?
はい。単に不快なテーマを排除して宇宙柄の壁紙に貼り替えるような表面的なアップデートではなくて、ゲームの根幹にある勝利条件そのものを疑えと主張しているんです。
自己中足的なコミュニケーションへの移行
勝利条件そのものを疑う。それはつまり、ゲームをゲームたらしめている根本のルールを解体するということですよね。
全体としてどういう意味を持つんでしょうか?
著者の言葉を借りれば、自己充足的なコミュニケーションを中心に据えたゲームデザインへの移行です。
自己充足的なコミュニケーションですか?
はい。誰かを打ち深かして支配することでカタルシスを得るのではなく、参加者全員が対話を通じて関係性を築き、そのプロセス自体を目的とするようなゲームです。
なるほど。勝敗ではなく、プロセスそのものが目的なんですね。
そうした作品をニッチな変わり種として終焉化するのではなく、次世代の標準として眼差す時代が来ているのではないかと結んでいます。
ゲームデザインと社会の価値観の変化
いやー、本当に深く考えさせられるコラムでした。
これを踏まえると、あなたが次にボードゲームの箱を開け、ルール説明書を読むとき、きっとその文字を追う目が変わっているはずです。
そうですね。間違いなく視点が変わると思います。
このゲームは私に何を学ばせようとしているのか。誰かを打ち深し、支配する快楽か。それとも他者との共感や対話を促そうとしているのかと。
これをより大きな視点全体像と結びつけてみると、ボードゲームにおける勝利至上主義を手放すという著者の提案は、決してテーブルの上の話だけに留まりません。
私たちの現実社会にも関係してくるわけですね。
ええ。それは私たちが現実世界で成功や自己実現というものをどう定義しているのかという本当的な問い直しに直結しています。
他者を蹴落として超越することだけを評価する社会から、互いをケアし関係性を維持する内在の価値を再評価する社会へ。
ゲームのデザインが変わることは、社会の価値観が変わることの予兆なのかもしれません。
今回の深掘りでは、空葉堂さんのコラムを通じて、私たちが普段何気なく楽しんでいるエンターテインメントの裏に、いかに深い文化的バイアスと歴史が存在しているかを見てきました。
未来への試行実験
本当に多くの示唆に富んだ内容でしたね。
ええ。それでは最後に、今回の内容を踏まえて、あなたに一つだけ思考実験を投げかけてみたいと思います。
おっ、何でしょう。
もし、今後100年間、世界で最も売れて標準となる大ヒットゲームが、潜伏や敵の討伐ではなく、純粋に他者へのケアや共感のメカニズムだけで構成されるものになったとしたら。
ほう、100年間ですか。
はい。そのゲームで育ち、そのルールを当たり前として吸収した子どもたちは、大人になったとき、一体どんな現実社会を築き上げるでしょうか。
それはとても興味深い想像ですね。
次にあなたがサイコロを振るとき、その手の中にある小さなプラスチックの塊が持つ未来の可能性について、少しだけ想像してみてください。