00:00
メッシュワークは、そういうなんかブレーキ的な側面で 企業の活動に提言するみたいなことあったりするんですか?
なんか、僕ここに来るまでに文化人類学が何ができるのかみたいな本を、今日その辺について話すのかなと思って読んでたんですけど、
文化とは何かみたいな称があって、人が無意識に従ってしまうものみたいな、言語化できないけど、なんかその辺の雰囲気にあるようなものだよみたいな話が書いてあって、
そういうものを指摘したりするのが、指摘したり研究するのが文化人類学の営みなのだとすると、
その会社っていう中で、なんか無意識に行われてる監修とか、作品とかもそうでしょうけど、いつもこう作ってるからこうでいいよねみたいなことがあるときに、
いや、これってこういう差別的な表現を主張してしまうからやめた方がいいとか、なんかそういう側面の貢献もできるのかなって今ぼんやり思って。
そういう商法があっても面白そう、面白そうというか、いかがなものかと思ってちょっと聞きました。
開発の分野では結構それがあったりしますね。
国際開発とかで、よくある話としてはやっぱりその文化的なタブーみたいなところに入っていくような開発ってあるわけですよ。
例えば、コロナのときとかもそうだったけど、死体に触れないで埋葬しなきゃいけない。
それはでも本当に死体のことを宗教的にすごく重要視していて、それをみんなでちゃんと弔うみたいなことがコミュニティにおいて大事なところにおいてどうやって援助するかみたいなところに人類学者が雇われて、
でも雇われるときはだいたい公衆衛生を推進したい人側に雇われるから。
そうなんですね。補強しようと強いられる。
どうやってその現地の人たちを説得するかみたいなところで人類学者が雇われること多いんですけど、だからあんまりだから。
やだなそれ。
あんまりそれを人類学者は手放しに操作したりはあんまりしないんですけど、確かその事例が何年か前の東大の掃除科なんかに使われてたと思うんですけど、人類学の事例として。
学者の説得のために使われるっていう。
そうそうそう、それが前近代的なものと近代的なものを成長する素晴らしい知識の使い方みたいな、そういう事例で確か使われてた気がするんですけど。
03:01
そうだからでもあの話とか。
それは掃除でそういう文脈で使われるってこと?
入学式とかかな東大の。
皆さんもそういう風な人材になってくださいねみたいな感じだったと思うんですけど。
その前近代的な。
人は言ってないよそういう事例は。
例えばそういうものを乗り越えるための。
文化が違うところのその間の。
ブリッジするんですあなたたちがってこと。
会社になるみたいな。
なるほどね。
だから人文学はそのそういう。
なるほど。
多分ニュアンスで言ってたと思うけど。
でからその時でも人類学者たちはそうかなみたいな話をたぶん思って聞いてたんですけど。
そうですね。
だから伝統的にはそういう風な立場を取ってきたし。
だからビジネスとかに危機感。
ビジネスに何か関わるっていうのに危機感を感じてる人類学者って多いと思うんですけど。
それはそういうことができなくなるんじゃないかっていう。
依頼者側がやりたいことをやるための説得の材料として使われてしまう。
そうそう。
それそういう危機というかそういう風になりうるなっていう場面はやっぱり私たちもミシュワークの仕事やっててもあったし。
そこはそうならないように気をつけてきた。
やっぱりその現場で行われていることを企業側の論理で解釈しないと。
それをいやいやそうは言っても現場の人ってこう言ってましたよね。
それはあなたも聞きましたよねみたいないう風にするっていうのをやってた。
だからさっきの桂田さんの言い方だと何て言うんでしょうね。
歯止めをかける。
かけるのが結構なんか抽象的なところで歯止めをかけるような感じの雰囲気があったんですけど。
でも私たちやっているのはやっぱり企業の人と一緒にフィールドに行ってそこで何かを経験してもらって
そこで経験したものをどう解釈するかというところに伴奏しているから
その解釈の仕方が
恣意的にならないという言い方はちょっと無理なんですけど絶対恣意的になるんですけど
片方の側面だけに着目した解釈にならないようにしたりとか
現場に見たことを売却しないようにどうやったら解釈できるかみたいなことを
ガイドしているという感覚はあるかな。
外部にある理念みたいなものよりも
そこで起きた出来事の方により尊重してただそれが
一面的な見方にならないようにサポートするみたいなこと
そうですねそうですね。特に人類学者は天の弱なことが多いので
06:07
皆さんが言った外部にある論理とか理論みたいなものはあんまり尊重してなくて
それが良いものというかリベラルとかフェミニズムとかであっても
マジョリティとか強い力がそちらにあるものであっても
あまりそこはそういうものもあるよねぐらいに考えていて
それよりも現場で起きていること現場の人たちが考えていること
そこで起きている固有な事象そこで起きている固有な事象が生まれるに至った背景
とかそういったものの方に着目する
しかもでもそれを着目するのって実はすごく難しくて
それはその多分桂太郎さんが読まれた本に書かれている文化というものが
あまりにも私たちの骨の髄まで入ってしまっているから
それを相対化しないとその現場で起きていることのそのままみたいなものって見えないんですけど
相対化するのがすごく難しいから
いろんな人類学の理論があったりとか
これまでの人類学者がやってきたことをリファーする必要があるというか参照する必要がある
という話かなと思っています
そのメッシュワークが企業に対してやっていることを
作品を作っている人たちに対して転用しようとしたらどうなるのかなっていうのを考えながら聞いてたんですよ今
で例えばその作品の作り手たちがこういう人に届けたいって思ってるとするじゃないですか
そういう人たちにこういうプロットがあったらどう思いますかっていうのをなんかサポートする
サポートするとかそれを作り手たちと一緒になんかワークショップみたいにやって
こういう反応が来るんだったらやめといた方がいいとか
そういう経験を提供するみたいなのは喜んでやりたくない人がいてもおかしくないなと思いましたね
作品を作って外に出して一発でこれはダサくだ明らかにダサくだみたいになるより
そういう修正するプロセスが途中に挟めた方が健全なクリエイションになると思うから
そういう機会を提供するみたいな場がビジネスチャンスになるのかと思って聞いてました
その場合なんか抽象的な
具体のシナリオがないから
存在しないペルソナーみたいなのが必要になってくるのかなって気がする
それと人類学はでもそれは有益だと思うし
フィールドワークの結果そういったものたちを想定するみたいなことはできるかなと思うんですけど
それってどう思いましたみたいな
09:01
一つ思ったのは私が飯まくのポッドキャストのすごく最初の方に
実は演出家の人と喋っている回で
人類学者はどんな末力になり得るのかっていう題で話してるんですけど
けだるさんが今言ってたことって基本的にはドラマツルーキーがやるべき仕事で
ドラマツルーキーと呼ばれる範囲の話だと思うんですよね
だからその時には今まさにみなさん言っているように
想定し得るペルソナーというか観客とかを多分考えて
もしこういう人が来たらどう思うだろうとか
例えばもし視覚障害の人がこの話聞いたらどう思うだろうとかを多分いろいろ考えたりとか
それをどう社会に折損していくのかっていうのを考えるのが
ドラマツルーキーなのかなっていうふうに私はその時理解したんですけど
だからドラマツルーキー的なこととして
人類学者が入るというのは全然可能かなとは思っている
あんまないですよね結局演劇関係者というか演劇が詳しい人とかが入っちゃうから
そうですね多分人類学者が入るときは
それこそ文化みたいなものとか社会みたいなものが
大罪になるとき
結構大きくその素大罪とか考えに入ってないと
あんまり話すことないみたいな
まあいいんじゃないみたいになっちゃうと思うんですけど
そういうものが文化みたいな大罪じゃないと
文化人類学の手法でもって貢献するというかは
文化人類学の知見をお伝えすることで
何か呼び取っていただいて
何かいい影響があればいいですねみたいな
それだったら多分普通のドラマツルークでできるんですよ
ドラマツルークの人だって別にレビストロース読めばいいし
人類学者が書いたものを読んでわかるんだったら別にそれで良いので
わざわざ人類学者が開催する
必要性が多分あんまりないんじゃないかなって聞いた
演劇とか作品とかそういう
そうでも何か面白いなと思ったのは
池田さん言ってたようにプロセス自体を考えるってときには
もしかしたら人類学者は役に立つかもしれず
それは結構何て言うんだろう
プロセスにかなり興味がある人たちだと思うんですね
人類学者って
フィールドワークをどうやってすればいいのかとか
どういうふうに人と出会えば良いのかってことは
結構みんな考えてきたし
それの経験もあるし
それに関する理論みたいなものもあるから
そこをどう捉えていけばいいのかって考えるときには
人類学者一つに役に立つだろうなっていうのはあります
12:00
あともう一個は
さっき見されてたみたいな
フレームワークを転用するみたいなことに関しても
使えなくはないかなとは思うんだけど
でもそれは知識があれば誰でもできることだから
できなくはないけどっていう感じかな
今知識があれば誰にでもできるって言いましたけど
知識があっても
どこでどのように使うのが適しているのかまで
ちゃんと分かっている人とか実際に使ったことがある人が
これがいいと思いますよっていうのは
説得力というか
実感に基づいたこれがいいと思うと
本で読んだこれ使ってみようだと全然違うんだと思うんですよ
そういう実感の伴ったレコメンドというか
みたいなのがあることが心強いと思う
作家はいっぱいいると思うし
さっきのプロセスの話もそうですけど
多分みんな思い思いのやり方でインタビューしたりとか
知識を仕入れたりしてると思うのを
もっとこうしたらあなたがやりたいこと
うまいことを引っ張れますよみたいな
多分いっぱいみんな経験則でやってると思うのが
こういうプロセスがあったとか
そういうアプローチもあって面白そうですよね
フレームワークの適応のさせ方の姿勢みたいなのが
文化人類学者以外がやると出てくるというか
結合がよく
だから学問特有の倫理観みたいなのが
必要になってくるときってあるんじゃないかなって
やったぞー
ビジネスの現場だとよりそれが顕著というか
どこから出した数字とかレポートとかを
自分の顧客とか自分の上司とかに
自分の立場の補強に使えるんだったら使うし
使えないんだったら使わないしっていう選択っていう
どれだけうまく説得できたかという
論理というかレトリックがどれだけ優れてるかみたいな
ことがある意味重要になってくる場合もあるけど
それを許さないっていうのは
その学問領域で学んだ人の倫理観
そこで培った倫理観が貢献できるのかもしれないなって
思いますね
確かに一個指示する研究があったとしても
それと近い条件であって違うのがあったら
えっこれどうなのってなるのも必要だけど
自分がそのお客さんを説得するためだったら
この良い方だけ引っ張って
知らなかったことにするとか全然ある
だから綺麗になれるお酢とか水槽の水とか
サルトの水とかゼルマニウムとか何でも入れるわけじゃない
15:00
それで
それがみんなその倫理観が人間に育ってるんだったら
こんな社会になってないから
それが演劇への文化人文学への貢献っていう意味では
だから人間を信用しすぎてるんだよねそれは
演劇に限らず作品全般なんでしょうけどね
何かをアウトプットするということのプロセスに
どういう検証が必要なのかとか
どうインプット集めたら再現性があり
なおかつその人にやりたいことができるのかということを
設計するという営みに対する専門性があるんですよ
そうですね
ただ一方でやっぱり人類学者って
やっぱり基本書くことしかこれまでしてこなかったから
なんか書く以外のアウトプットとか
あとそのやっぱりエンターテイメントというか
楽しませるような書き物みたいなのは
書ける人類学者もいるけど
そういう人は少ないから
なんかその観客に伝えるとか
お客さんがいるときのところで出すということが
何なのかっていうのは
やっぱ分かってないところがあるので
そことどう折り合いをつけれるかっていうのがありますね
それはでもビジネスでもそうかも
やっぱり結局儲かるんですかみたいなところに
エミスとキルジョイみたいになって
殺しておしまいになったら持続可能性がなくなっちゃうから
そうなんですよそことどう接続していくかとか
そのエイリーの活動の中に位置づけていくっていうときに
どうするのかっていうのは結構大事かなと
ビジネスだと儲かるとかもだし
作品だとあなたが言ってることは正しいけど
この尺で伝わるのかみたいなこととか
てかこれで面白いの?
作品でもやっぱりそれが売れるかとかも
やっぱり関わってくるわけじゃないですか
その人の生活とか評価に
そうするとこういうものもありますよっていう情報提供とか
権限の弱いレビューみたいなだけになってくると
結局さっきの悠君が言ったような立場
伝えるだけというか
あんまり価値を出さないんじゃないかなって気がしていて
だからそれよりもやっぱり一歩踏み込んで
一緒に何かを作るっていうとこのチームの一人として
人類学者がいるっていうのは結構重要かな
それは何かをジャッジしたりとか何かを評価したりとか
何かをアドバイスするっていうよりも
作っていく中に一人そういう人がいる
18:04
話
さっき悠君の話聞いて
ケイドラさんは演劇とか話に当てはめて考えたっておっしゃってて
僕は別のものと当てはめてて
何でしょうさっきの開発みたいな話とかと
の中で
現代社会と宗教みたいなものとかと
考えてたんですよね
現地の人たちの先住民とかの感情と
公益性みたいなところで
これがさっきは文化人類学者もどうしても
権威側に雇われがちだっていう話ですけど
けうな例としてニュージーランドだったかな
山の人格権みたいなのが認められたっていう
あれが結構かなり面白いというか
マオリなのかな
先住民の方が信仰する山の
自体に人格的
法人というか人格権が認められたからそこに対する開発っていうのが
そこの人格に沿うか沿わないかみたいな
それにとって許されるかみたいな
結局その判断するのは人間だったりとか
現地の先住民の方なんだろうけど
そういうものを
現代の社会の法律とはちょっとの中で
現代と近代のずれたものを認めるみたいな
ことができるのも文化人類学の価値なんだろうし
それを作品というか映画として
世の中に出したのが結構アバターとかだと思う
とかこの間室越さんに教えてもらった
フュリオサとかもマッドマックスが
文化人類学者が中に入って作った映画だったりとかっていう
文化人類学が取り上げるテーマって
多分社会がまだ考慮できてない範囲だったりとか
かつ作品的に面白いにまだまだつながるのかな
っていうのをちょっと聞いてて思いましたね
一緒になって文化人類学が文化のことしか
に関係することだけ
には関わりやすいみたいなのも
むしろ彼らが見てる世界みたいなのが
もっと面白いんじゃないかなっていうのは
もっとそういう作品があってもいいんじゃないかなっていうのは
思いましたね今
結構そこは概念化みたいなこととか
人類学の中では理論化みたいなこととか
理論と現場を行き来するみたいな言い方をするんですけど
21:04
そこと多分つながっているような気がしていて
例えばだから
物を送り合うみたいなことを
ただ見ているだけだと光電5000円包まれたのに
焼き海苔が帰ってきたなみたいに思うんですけど
半分ぐらい帰ってきてるのかなそうでもないなみたいに思うけど
それの中にご習性という概念を入れると
人は物をもらったときに何かを返さなければいけないっていう風に
考えるシステムがある
とするとノリが返ってくるのって
そのシステムの中に位置づけられた行動なんだみたいなことが
理解できたり分析できたりするじゃないですか
それは別に100%正しいとかではなくて
そういう枠組みを適用してみると違ったように見えてくる
贈与か交換かみたいな話ですか
それはご習性っていうのは贈与されたものに対して
返そうと思う気持ちですね
映画の義務が生じてそれが互いに行われているっていう話ですね
僕人に物をあげるとき返法は期待しないですけど
そういう文化がある文脈において人に物をあげると
意図せず返ってきちゃうよってことですね
そうです採用を忘れるってことです相手に
それプレゼントあげたいとき困るじゃんって思いながら
聞きましたけど返さないでねって言えばいいのかな
言ってもダメです相手が勝手に思うことだから
日本の文化ってことですか
結構それは世界中いろんなところに見られて
例えば記者みたいな文化も生むわけですよね
プレイン?
イスラム教徒とかが財産を寄付する
あーなるほど
すごいバカなこと言っちゃった聞いてない
途中でそういう表現があるのか
全然漢字が変換できなくて
記者で
普通使わないと思う
記者かなと思っちゃって
っていう話があったりとかいろいろあるわけですよ
そういう概念を持ち込むことによって
私たちがやっている不可解な行動みたいなものが
よりはっきり見えてくるみたいなことはあるのかな
っていう風に思っていて
そういうのは人類学者の特異分野なのかなと
桂田さんがプレゼントを自分が渡したい
でもそれに返礼は期待してないから
でも相手に期待を抑えてるっていうのは
24:02
逆にのことも現代で生じてるというか
最近僕が好きで読んでる
昨日何食べたっていう漫画の最新刊が
主人公のカップルの親御さんが亡くなって
それでお葬式は身内だけでやって
49日まで誰にも言わないっていう
現代的な本当に話なんだけど
でもそれに対して
パートナーの親御さんとかは
ぜひそれでも受け取ってくださいっていう風に
公伝というか
なんていうのかな
お花とかを持ってこないっていう
すごくもう数コマで終わったんだけど
それってその
返礼来たせずにあげるっていうのと同時に
相手に気を使わせたくない
もう恒例の人間が亡くなって
小さく閉じるっていう中で
相手に気を合わせたくないから隠すというか
それが御習性が発生しないように隠すんだけど
でもそれをすることによって御習性を立つことによって
相手方がその
何かその人が亡くなったことに対して
自分がしたいっていうことを
途切れさせてというか
御習性が発生しないことが幸せというわけではなくて
どっちも必要というか
すごく
なんだろうな
思いやり同士がぶつかるみたいな
ことってあるよなと
あと最近ちょっと悠君が
小さな恐縮批判をしてた
ニュースピックスに書いてた
思い出したけど
何かを与えるとか
それによって不才を得るみたいな
不才って言うとちょっと強いけど
何か返礼をしなければいけないと思わせる
社会的な力っていうのは
別にそれを何ていうんだろう
罰としてやりたいんじゃなくて
何か意味があるからやってるわけですよね
そこで共同体の
繋がりを維持するとか
コミュニケーションにおいて
こぼれ落ちてしまうものを
物によって代替するとか
みたいなことをやってるわけですよね
だから
何て言うんだろうな
意味があるとか言うと
機能主義的になって
オールドファッションな感じもするんですけど
何かしらの
機能とか
功用とか
逆に
それが嬉しいことだったり
やっぱりプレゼントもらって
嬉しいという
嬉しさっていうのは
27:02
ある種の追い目を
追わされるということと
そんなに遠くない
可能性があるんですよね
別にだから
返礼をいらないよって
言われてしまうことによって
悲しくなっている人もいるかもしれないというか
ぜひ返したいのに
返す返されるという
コミュニケーションの中に
入れてくれた
ではないんですかっていうことですよ
あなたがプレゼントを
くれるということは
互いにプレゼントしあう関係性ですよね
私たちはっていう
できるはずだったのに
それをパサリと
切ってしまうこと
可能性があるかもしれない
それはおっしゃる通りなんですけど
そういう
円環の輪みたいなものが
起きるからプレゼントしてる
っていう風に見られたくなくて
互いが全員によって
私送ったよ
あなたは私に送ったよっていうのが
突発的にポンポンって起きるのが
僕は心地いいと思うから
なんかその
負債とかいう概念を
なるべく感じてほしくないし
資本主義的で
経済的価値を考えるともちろん
プレゼントをあげた方が
お金が少なくなるから
損失として
相手はそれを負債として
将来発生する
人生的負担が
今ここでプレゼントという形で
健在化したんだみたいに
思われると
寂しい気持ちになる
もっと直感的に
私はあなたに幸せになってほしいから
プレゼントあげます
あなたも私にプレゼントをあげて
幸せな気持ちになってほしいって
僕にとって大切なイベントが来たときに
そう思ったんだったら
その瞬間に判断して渡してほしい
変法としてじゃなくて
その瞬発的な幸せの祈りとして
プレゼントをあげてほしいんですよ
それはよく分かるし
めんどくさい人みたいな
いやいや
一個は私が説明し忘れていって
重要なポイントがあって
御習性というのは
当代においてなされるとは
限らないんですよ
それはちょっと分かる
御習性とか
変法の義務というものは
その世代において
達成されるべきと思われていることって
実は少なくて
自分に返ってこないってこと
それ結構やってると思うよ
やってる
実は
自分には返ってこないことが多くて
それだからこそ社会システムの中に
社会という実情を作るために
使われているわけなんですね
例えば
僕がやってるのは
おじさんとおばさん
僕の父の
妹のおばさんと
おばさん夫婦がいるんですけど
その2人
僕母親が長らくいないんで
お世話になったんですよ
もちろん彼らは
うちの父に世話になったこともあると思うんだけど
30:00
僕が彼らに
直接働いてお金があるから
恩を返そうって言うと
ちょっと違くて
受け取らないと思うし
それを僕はどうやって返してるつもりになってるかというと
彼らの子供の
僕のいとこに
20代前半くらいなんですけど
東京来る時に
宿題出すとか
プレゼントするとかで
やってるっていう風に
彼に、いとこに対して僕が
こんなに何かしてあげたいって思うのは
何なんだろうと思うと
今まで
受けた彼の
親ってあるおばさん
おじさんからの
いただいたものを返したい
っていうのがあるんじゃないかな
っていうのが今のことかなって
聞いてましたね
特にさっきの公伝とかもそうですね
公伝帳っていうのが書かれて
どの家からいくらもらったっていうのが
こと細かに記録されるんですけど
それって
何のために記録するかというと
何日か後に
公伝返しを
送るためでもあるんだけど
それよりもっと重要なのが
その書かれた家で
死人が出た時に
自分たちが
いくら公伝を持っていくかの
資料として
使われるわけですよ
それって別に自分がもらった
お金を返すわけじゃないし
もしかすると自分の
おじいさんとかが亡くなった時の
何かもらってるものを返しに行くかもしれないんですけど
そういったことをすることによって
その共同体が維持される
世代を超えて維持される
っていうところに
つながっていったりとか
あとよくこの雑魚の話で
出てくるのが
ニューギニアとか
あっちの方の島々で
言われる
貝のお金があるんですけど
貝のお金って
現金のように
その場でご飯とかに
交換にも使えるんですけど
基本的にはみんな使わないで
貯めておく
どんどんその貝の
お金の輪っかが大きくなっていくんですよ
生きてると
葬式とか結婚式で
生きてるともらうから
それが大きくなっていって
最後どこで使われるかっていうと
自分が死んだときに
それが分解されて
そこに算列した人に
配られる
片見分けみたいな感じ
その人がいかに偉大だったか
みたいな話になるわけですよね
100人来たのに
1人3つももらえたみたいな
それでも語られる
っていうことが
その社会でのほまれみたいになるわけなんですけど
そういうふうに考えると
別に自分の世代で何かもらったから
何かを返すだけではなくて
しかもそれが
良いのは別に
その人が死んでその人の名声が
上がるだけじゃなくて
その人の葬式を出した
遺言の人たちが
間接的に利益を
33:00
得るわけじゃないですか
偉大なおじいさんの息子とか
になるから
あのね
君のおじいさんの葬式出たよ
みたいな
話になって
そうだね
本当に
とってもよく分かると同時に
僕の
主義主張としては
そういう世代間の継承を
離れたところに
人々の人生が
立ち上がってほしいと思うんですよね
それは
富が継承されるってこと
じゃないですか
そうすると今富んでいる人たちが
常に富み続けて今の格差が
保存される方向の作用が
働くことを
肯定するというか
それが意図せず行われていると
それをすることによって治安が良くなるとか
そういう良い面があるというのは
もちろん分かるけど
そうじゃなくて
そういう
継承とかじゃなくて
より
イコールな
世界になってほしい
思っているなという違和感が
今の話を聞いているときに生まれたんです
でもそうしちゃうと完全に
共産主義みたいになっちゃうから
その塩梅が難しい
僕が心の中に抱えている偏見として
能力主義がすごいあって
人は頑張れが頑張っただけ
稼げて
上手いこといくみたいに
思っている気持ちがすごくあって
でもそれはまやかしだって
最近になってようやく分かって
でも
でも
より人々が
納得できる形の配分を
しようとするとここに収まっちゃうのかな
と思うから
なんか
資産の継承とか
贈与と
贈与じゃないな
相続とかは
なるべく
行われないようにしたいと思うと同時に
それが尊い
より良く生きることに
貢献しているなと思うと
もう何も言えないじゃん
もう何も言えないみたいな
さっきの物を
受け渡す
相手の
気持ちが生じたときに
物をいただければとか
互いの好感
みたいなのではない
っていうところから
多分
なんかあるんだと思うんだよね
そうですねまさにそれは
好感と贈与の違いですね
その
どうかかどうかとか
なんか
最後の話というか
最初のその物の話だと
桂太郎さんが誰か物をあげた時に
負債を負わせると同時に
ユウカさんさっき言ったように
それはあなたとの関係を
36:00
重視していますっていう一生児とか
その返す返さない
は
相手に任すという心理的な
ものを個人としては
持ってても
相手に対しての
思いみたいなのが
だってそれがないんだったら別に
だってお金と商品権でいい
けど物にするわけじゃない
その人を見てるから物にするんで
あって
それっていうのは
その
その人と自分
っていう関係を結ぶっていうことは
自分もそうだし相手も社会的に
孤立してないっていうことなんだ
と思う
多分根本的に人の
幸せという
なんか
富は重要な要因だけど
富が平等になったほうが
機会が平等になるんだけど
人の幸せと
不幸せは
富
経済的な
豊かさ
安定と
多分もう一個は社会的な
孤立があるかどうか
なんじゃないかなと思うと
階級的な
社会でも
これやだけど
階級的な社会でも
孤立してなければ誰も不幸せじゃないのかもしれないな
って思うときも
確かに繋がりとその富を
一緒くたに繋げた
雑用の話として捉えてしまったけど
そこはなんか
分離できる
どう継承するかは
制度の設計ももちろんできるし
繋がりながら
自分がやりたいように継承する
それこそ
僕が聞き取れなかった記者
みたいな
寄付とか今は寄付金控除とか
あるけど
そういうやり方も
ありますよね
そういう
これって不正の
音症でもありますよねやっぱり
人との関係みたいなものっていうのは
それによって
経済的
それを
何だろうな
それを継承しないとか
継承することで起きる不正も
あれば継承しない
ことで起きる孤立みたいな
ものもきっとあるんだろうなって
ただ問題は
継承した孤立みたい
継承した関係性みたいなのに
新産物を
入れないとか
そこに入るための新産物の
コストみたいなのを自覚しないみたいな
社会がやっぱり最近
よくないんだろうな
外国から来た人
とかが
どうかという
批判も受けるかもしれないけど
社会的な統合みたいなの
が必要で
それにとっては彼
当人の努力じゃなくて
39:01
向かいで社会側の
にも
それなりのコスト
が発生するというか
それをお互い負担
して
我々の継承された社会というのを
の一位になってもらいましょうというのが
必要なのかなと
こういう話を
原大臣という
自分の中で
考えると
どこかに凄い公理主義的な
ネオリベ的な発想が凄い出てくるのが
毎回嫌だなって
僕は思うんですよね
どの視点で
語るのかによって凄い変わるというか
自分が生きている
自分の生活を守るとか
自分の
左右の手が伸びる範囲
で見るのか
それとも
そこからさらに広げて
自分が所属しているコミュニティを
社会全体なのか国なのか
地球全体なのか
またまた宇宙って言うと言い過ぎだけど
みたいなそのレイヤー
ごとに
考えることが変わってくる
変わってくるはずなのに
政治家は
自分の個人的な範囲で話をしてたりすると
腹立たしくて
ぶん殴りたくなる
ぶん殴りたくなるとか言うと
あれですか
ポッドキャスト検証に反して
削除されたりしますか
スポーツファイケース
どこなんだろう
バンされるか
どこまでなら大丈夫なんだろう
確かに私たちはあんまり
そういうこと言ったことないから
言ってる言ってる
ぶん殴りたいぐらいは
言ってる多分
ピー音入れればいい
Fワードみたいな
そんなことないと思うけど
さっきの世代観みたいなところは
我々にとっては結構さ
如実に現れると思わないかな
って思っていて
基本的に末代でしょ
子供をね
養子を取ったり
養子組したりは違うけど
そこに対してどうやって
自分が
社会の
あるべきというか
社会の維持みたいなのに
考える面もあれば
自分個人の心を守ったりとか
自分がどうやって
生きやすいかみたいな
とは
もう少し違うのかな
と思って
前すごくくだらない話なんだけどさ
一滴言うって番組あるでしょ
それでさ
糸浅子さんだったかなが
なんかもう
50になって
子供もいなくて結婚もしなくて
みたいな
女性の芸人さんが言ってて
それに
椿鬼役子さんだと思うんだけど
彼女が言ったのが
いいのよたくさん税金払えば
42:02
これ結構ね
子供が増えないと
この社会持たないでしょ
みたいな批判があるかもしれないけど
その
それはみんなの課題としてあるけど
だからって言って
そうでない自分
みたいなのを
自分のせいだって一心に背負うと
もう生きていけないから
そうじゃなくて
あなたは
生きていていい
っていうことだと思ったんだよね
その言葉を聞いて
そんな深い意味ないと思うんだけど
いいのはたくさん税金払えばみたいなのって
あなたは
みんなの課題はあるけど
あなたはあなたで生きていいじゃないっていう
免罪婦みたいな
なんかこのさっきの
人への贈与も
そういう部分あるなと
僕は思ってて
人への出産祝いとか結婚祝いとか
手厚くしてあげたいなと思うんだけど
それはやっぱり
それは自分に帰って来なくても
した方がいいんじゃないかって
自分に帰って来ないから
こそするべきな
逆に帰って来ないってことは
相手に塞いで
押し付けてるというか
自分の身軽さでもあるかなと思うし
確かに結婚式で
お祝い
送るけど自分結婚できないし
結婚帰って来ないし
みたいなことは確かに思う
それはでも
帰って来る可能性がある人よりも
尊いお金を渡してるんで
そうかも
記者だから
持ってけ泥棒みたいな
本当に重要な
ことをしているんだ
と思うんですよ
普通はそうのはず
帰って来るかも
確かにそう
さっき皆さんがおっしゃってた
伊藤麻子さんと
鬼若子さんの会話は
税金を払うということで社会参画
してるっていう話ですよね
だから
直接与える対象が
目の前にいなかったとしても
税金を払うとかそういう形で
社会の
格差を是正する方向に
政治を
司っている人たちが社会の仕組みを
作って
出生率を上げるとか
そういうことは政治家が
考えて仕組みを作って
それに則った人間たちがうまく働いて
やってくれればいいと
そう
我々が国家に
参加している理由は
五条の仕組みにある
じゃないかなと
人権もらえないでしょうけど
それこそ記者です
何だろう
その
五条の仕組みがあって
みんなで決めた仕組みがあって
それに参加していれば
45:02
一旦OKじゃないっていう
もしそれに
加えてどうにか
こうにか
何かを
誰かの養育の責任を取らなきゃいけない
だったら
そのような五条の仕組みにすれば
いいんじゃないかっていうことだし
そう思いますね
そんなところで
もう1時間くらい
何の話
っていういつもの展開ですけど
前半は
前後編にしたらいい
前半は
おりさかゆうたんの話
後編は
ゾヨと交換の話
いいんじゃないでしょうか
ケイ太郎さんの
いろんな
いろんなところに触れた気がして
いろんなところってちょっと意味深
いろんな
考えに触れた
と思って
この回の前の
基礎的な情報交換
より一歩進んだな
バックグラウンド
ケイ太郎さんいかがでした
そろそろ東京ネイティブ
東京ネイティブ感をどれだけ
出せたのかは疑問ですけれども
ちなみに
氷主義的なところとか良かったよね
確かに氷主義的なところ
それ東京の中だから
そうなるのかは分かんないですけど
私の言いはすごい偏見
偏見と
逆噛みが入ってるかもしれない
普段考えてることを
お二人に話して
お二人とも普段やってることに根付いて
それに共鳴してくれたり
ここは違うと思うよっていうのを
話してくれるのすごく
楽しいし嬉しいなと
同じです
分かります
むしろこの初めての場で
なんだろう
自分の考えを
さらせてさらけ出して
いただいてすごいありがたいなと
思いました
いつも文章書いてさらけ出してるんで
そうなんですね
ありがとうございました
水上さんは
感想
どうしよう
どうしよう
私は
大切な人たちが仲良くやってくれて
すごい嬉しいなっていう
意味深なやつですか
全然意味深じゃない
お二人
どちらも大切な人だから
私にとっては
良かったなと思います
いろいろ憎恨を受けた気分ですね
ありがとうございます
実際溜まってますか大丈夫ですか
溜まってますね本当に
今ブラックジョークのつもりで
言ったのに
すぐに受け止められちゃった
溜めていきたいからね
溜めていきたいから
私あれだよ一回
ちょっと違うけど
一社目に勤めてるとき
48:00
よく営業の電話かかってきて
大体の
あれが節税しませんか
って言って
それでなんか
税金納めるの好きなんで
やめてやめて
返事したら相手も
なんか笑っちゃって
えーとか言って
切られたことある
大体いつもそうやって撃退してた
えー使ってみよう今度
わかる
僕がふるさと納税への会議感は
まさにそういうことだね
ということで皆さん
使ってみてください
好きなんで
はいさよなら
ありがとうございました