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2023-03-13 15:13

673話 人生の岐路|この街を早く出たい

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Michael Hasegawaの聴くだけでゴルフが上手くなるラジオ。この放送は幕張ゴルフ調達センターアークゴルフの提供でお送り致します。
はい、えー、ということで、えーと、私の老いたちシリーズ、えー、やってきてまいりますけれども。
今ですね、高校のね、えー、キャディバイト、ね、ところまで来ました。初恋もね、したということです。
えー、まあそういうことなんですけれども、えー、まあこの後ですね、ずーっとですね、毎日同じような生活をね、えー、していきます。
で、あのー、やっぱりですね、どんどんどんどんこうコースに行くと、やっぱりですね、こうコース出れるようになったわけですよね。
週に1回はですね、まあキャディがあれ、あればですよね。あれば、キャディの仕事があれば、コース回れるっていう環境になったんですね。
そうすると、えー、やっぱりですね、練習の質が変わってきて、今まで、えー、すごいこう、飛ばせばいいとかね、なんかね、気持ちよく踏んで、なんかあのー、
まあ、なんてことなかったんですよね。あんまりターゲット意識とか持ったことなくてですね。えー、そんなことをやってたんですけど、やっぱりコース回るようになると練習の質が変わってきてですね。
やっぱりですね、まあ普段の練習でやることが変わってきたんですよね。
なんでね、あのー、まあなんかこう、いろいろな方に、えーと、話を聞くようにはなってきましたね。
その、それまで、それまで僕はずーっと、えー、ほぼ自己流でやってたんですね。ほぼ自己流っていうかね、もうほぼ自己流、まあ自己流ですね。
えー、あのー、要はその、松尾ゴルフ練習場はですね、まあプロはいなかったんですよね。
まあ当時ですね、えー、まあいわゆる30年、まあだから、30年前か、もう30年前ですね。
30年前っていうのはですね、必ず練習場にはですね、まあレッスンプロ、ね、今の僕みたいなね、えー、人がですね、えー、いたんですよね。
いないほうが、あのー、逆に言うと珍しいというか、そんな感じだったんです。
で、えー、プロがいなかったんで、なんかこう、プロに教わるみたいなことが、基本的にはね、あの、できなくて、
まあアマチュアの、うまい方、あー、にいろいろ、教わるっていうような感じでしたね。
で、今思うとね、やっぱりね、あのー、まあそれはその時はですね、いろいろこう、練習法とかね、教えてもらってたんで、
まあとはいっても今ほどですね、スイング論みたいなものが確立してなくてですね、
うーん、なんかえーと、コツみたいなことをね、こうやったらこうなるとかね、こうやって打つべきみたいなぐらいのことでしたよね。
まあそれでもそれなりにうまくなってですね、えー、まあその方も結構、あのー、競技ゴルフやられてて、
やっぱりもうゴル上にはもっとうまい人いっぱいいるわけじゃないですか。
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こういう球打ってるよ、こういう球打ってるよ、こういう練習してるよとか、っていうのを教えてくれたんで、
まあそれをいろいろやったりしたんですけどね。
でもやっぱり自分一人でうまくなるときに、やっぱりコース行くと、やっぱりあれだったんですよね、なんかもう芝行ったらもう全然当たんないんですよ。
で、これもう皆さんもね、あのー同じような悩みかかえてるかと思いますけども、やっぱり人工芝でですね、ずっとゴルフスイングを覚えて、
それだけやってるとですね、コースいきなりそこで何千球、何万球打ってるわけですよ。
なんですけど芝行ったら当たんないわけですよ。
だからね、あのー、ほんとね、練習の意識みたいなことが変えなきゃいけないなと思っていて、
まあ僕が一番最初にこう取り組んだのが、まあこれでもこれまでも言ってきてることなんですけど、
フェイスにですね、ドライブフェイスにシールとか粉、粉を振るんですよ。
粉を振るとパチーンって打つと、当たった跡がこう残るじゃないですか。
その打根が、まあ一回粉を振ったら、もう何百球とかその一点で打てるように練習してたんです。
ずーっとそれだけです。
ドライバー、ドライバーだけじゃなくて、ドライバーもアイアンも全部すべてですね、すべて同じ練習です。
だからもうとにかくスイートスポットで打つっていうことのみ考えてやってました。
今思うとね、やっぱりこれ練習はこれで良かったんだと思うんですが、
若干これもクラブを振るっていう方向の意識が薄れちゃったなと。
もっと言うとですね、面を合わせるとかね、ヘッドを合わせて打つっていうことの癖がついちゃったなとは思ってですね、悪い面で言うと。
だけど良い面で言うと、やっぱりミート率が上がったしね。
その練習のおかげでもうそれしかないんで、スイングの動向がわかんないから、
真ん中で打つっていうか芯で打つっていうことは、だいたいこのクラブの芯っていうものさえがどこにあるのかもわからなかったですよ、その当時は情報として。
ただこの辺で言うと気持ちよく打てるよねっていうところだけですよね。
それでずっとやってたら、後にですね、研修生っていうプロを目指す人たちの集団の中に入るんですけど、
それこそ打ふったりトップしたり結構ミスするんですよね。
もう考えられなかったんですよね。
僕の中でもその頃には、ボールは曲がったりスコアは出ないんだけど、ボールを打つっていうね、芯で打つっていうことだけはめちゃくちゃ長けてたわけですよ。
だから打ふったりトップしたりする人の気が知れなかったんですね。
そのぐらいでも集中してやってましたね。
なので、そんなような練習をし始めたのがやっぱりコースで始めてからかなというふうに思いました。
だからやっぱりゴルフうまくなると思ったときに、コースでうまくいかなかった課題は書き出しておいて、
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ちゃんとそれを練習でこなしていくっていうふうに、それはもう計画的にこなしていくっていうことが必要だなと思うわけですよね。
意外とダメだったんで次頑張ろうになっちゃったりするじゃないですか。
そんなこんなで結構ね、やりながらね、高校3年生になるわけですよね。
高校3年生になって、はい進路ですってなったときに、
ここであれですよ、多分僕自身の初めての反抗期はそこで来たんじゃん。
僕あんまり親に反抗してこなかったんですね。
別に親も忙しかったんで、友渡駅でもほとんどいなかったんで。
なんていうのかな、こうやって喧嘩するっていうこともないし、
なんかそれに対して反抗するみたいなこともなかったんですよね。
で、ただこの進路ってなったときに、いや俺もプロゴルファー目指すわって言ったんですよ。
そしたらですね、これがですね意外な、意外っていうかまあ意外ではないですね。
よくよく考えてみると、母親はやれ、そうなんだ、頑張れ、頑張れ、頑張れってなってやったんだけど、
親父はやめろって言われたんですね。お前無理だ、あーだめの人ですから。
あーだめの人なんで、もう皆さんおなじみのあーだめの人なんで、
もう僕がやろうやることもですね、あーだめなわけなんですよ。
だから要するに、お前なんかは無理だと。
で、よくよく後から考えてみると、親父の言うことも一理あったし、
よく考えて、あの親父にしてはよく考えた意見だったと思うんですけど、聞いてないことになりますけどね。
やっぱ後から思いましたけど、お前大学行ってみろと。
で、大学行ってゴルーブ入ればお前自分の実力がわかるからって言ったときに、
そういう選択肢を言ってきたんですよね。
で、僕自身の、当時の僕はですね、
学校の勉強やってもあんまり社会のアレにはなんないと思っちゃってたんですよ。
今思うとやっぱり必要なことだったりするとか、全部が全部つながるわけではないけれども、
やっぱり必要な勉強をしなきゃいけなかったと思うし、やればよかったなって後悔するところもあるんだけど、
当時の僕はこれ以上勉強しても、世の中に出たときにあんまりこれ意味なくないって思っちゃって、
だったら手に触じゃないっていうのがあって。
っていうのと、あと大学4年間行ってる間に、これ研修生やってる人にかなわないなと思ったんですよ。
これ今までエリートで中学高校でゴルフやってた人たちはそれでもいいのかもしれないけど、
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僕みたいに雑草ですよね。雑草でこう来て、自分でやって、今の自分で上手くなくて、
そこに来て研修生にならない。
例えば大学で授業受けてるときにボール打ってる人もいるわけじゃないですか。
絶対かなわないと思ったんで、大学っていう選択肢が全くなかったんですよね。
なんだけど、ここで親の意見が割れたんです。
母親はどっちかというとポジティブな人間。
ポジティブで社交的な人間なんで。
そうやって言うのもあるし、若干後から気づいたんですけど、ミーハー的なところもあるんですよね。
深堀さん、この後出てきますけど、深堀さんとの出会いがあったときに、
一番喜んでたらうちの母親なんじゃないかなって思うぐらいなんですよね。
だからその意味ではすごく性格の違う両親なんですよね。
僕はもう大学に行っても意味ないって思ってたし、
自分の学力で行ける大学なんて知れてるわけですよ。
っていうか、入れないし、勉強してこなかったから。
ゴルフしかやってないわけですよ、高校時代。
ゴルフ寝る…ゴルフ食べる寝る学校。
ゴルフ寝る食べる学校ですからね。
もう勉強する余地ないんですよね。
だから、もう行ける大学もないし、会っても限られてたし、
行ってももう全く意味ない。
ちょうどね、今だったら考えられないんだけど、子供の数も多かったんでしょうね。
ちょうど何だったかな、景気が悪くなってきて、
就職なんて言われた時代なんですよ。
僕、1977年生まれなんです。昭和52年生まれなんですけど、
僕が高校卒業する時には、なんかちょっと就職が難しいよねってなってたんですね。
そういう時代で、じゃあ僕が行けるような大学に行っても、
もう高卒とほぼ変わらない仕事じゃないかなって思った。
その時の考えですよ。その時はそう思ってた。
だからもうそれらを踏まえると、行っても無駄じゃんって言う。
行っても意味ないよねって思ったんですけど。
それで僕はもう、いや親父、もう申し訳ないけど、
ここは僕のやりたいことをやらせてもらうと。
だから、いろいろ練習所の社長にも頼んで行ってるし、
ある程度研修生で雇ってくれる、雇ってくれる宛もついてるから、
就職活動もこれ以上しないと。
で、何とか言ってましたけど、
でも言ってるのも1日2日でしたね。
でもしょうがないなと思ったんじゃないですかね。
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とりあえず家族会議では、じゃあそうするって決めてやったわけですよ。
で、ここから練習所の社長と、練習所社長のマージャン仲間だね。
マージャン仲間の運送屋のキーさんがいたんですよ。
運送会社、大きい運送会社の。
で、その方が当時サワラスプリングスっていうね、
今だとサワラカントリーですかね。
サワラスプリングスっていうスプリングス系のゴルフ場の、
顔がきくみたいな方で、
俺が口聞いてやるよみたいな感じで、
よくあるやつですね。聞いてやるよって言って、
いいんですか?みたいな感じでお願いをして、
今でも思うけど、練習所の社長と、
そこのサワラも今行って、
面接を、3社面談をね、支配人とした記憶があるんですよね。
で、今考えると結構それすごいことだったなと思うんですよ。
あの社長、あの松尾の社長がですね、
シーマに乗ってですね、僕と二人でシーマに乗ってですね、
サワラスプリングスにですね、3社面談に行くって言って、
この鉄井よろしくって言ってるんですよ。
鉄井よろしくって、面接の方がまずいんじゃないかなとか思ってて、
で、まあまあまあ、そこ入れることになったわけなんですけれども、
まあこれがですね、スプリングス系のですね、
例えば千葉スプリングスとか成田スプリングスとか、
今はだいたいアコーディアになってるんですけど、
そこのスプリングス系っていうのは。
まあコースも結構いいコースが多くて。
で、そこでやっぱりいろんな問題が起きるわけですよ。
やっぱ先輩との絡み。
今まで僕、小中と体も大きかったっていうのもあるし、
あんまり先輩後輩の上下関係が厳しい部活でやってこなかったんですよね。
これがですね、スプリングス系のゴルフ場っていうのは、
当時日台、もうめちゃくちゃ強かった時代ですよ。
もうはい、大学ゴルフって言ったら、今は東北次第ですけど、
日台って言ったらもうそういうことです。
で、日台の人たちがそのまま、
要はもう8割、9割、もうほぼ100%って言っていいぐらい、
日台出身の研修生が集まるようなとこだった。
超たて社会だったんですよ。
ここで僕がですね、いろんな問題を起こすということでですね、
これはまた次回お話ししたいんですけど、
そんな簡単にいかなかったなっていう話なんですよね。
やっぱりこの間キャディでね、アルバイトキャディで人生の理不尽さを学ぶとかね、
いろいろこうやってましたけど、全くそれがいきないっていうことが続いて、
15:00
もう路頭に迷うことになります。
またこれは次回に続いて、続きは次回に話したいと思います。
そんなわけで今日もいってらっしゃい。
15:13

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