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ハートに火をつけろ。こんにちは。創業期のスタートアップ投資に特化したベンチャーキャピタル、ANRIの代表、様田アニです。
この番組では、毎回様々な企業家精神を持った方をゲストに呼びし、企業背景や目指す未来など、その人を突き動かす熱について深く掘り下げていきます。
今日のゲストは慶應義塾塾長の伊藤公平さんにお越しいただきました。伊藤さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
早速なんですけれど、伊藤さんのこれまでの経歴を踏まえて、簡単に自己紹介をいただいてもいいでしょうか。
今、慶應義塾長を務めています伊藤公平です。私は量子コンピューターの研究の専門家です。材料科学、物理学を専門としています。
経歴としては、小学校から慶應義塾幼稚園に入り、要は慶應に小学校から入り、それから中学・高校・大学と慶應で学び、大学は理工学部で学んで、
大学4年生の卒業研究がとても面白かったことと、それからやはり小学校時代からずっと福沢諭吉の慶應義塾にいるのであれば世界に出なければいけないという、
脅迫観念のようなものをずっと父親から受けていたので、どこかで出なきゃいけないということで、海外のカリフォルニア大学のバーク理工で修士号と博士号を取得して、
結果的にはそれはエンジニアリング、工学、材料科学と物理学の方に進んだんですが、本当はもともとずっと経済を学んで金儲けをしたかったんです。
そうなんですか。
そうですそうです。大学の時も本当は経済学部に進みたいというのを父親の大反対にあって、散々揉めた上の果てに理工学部に行ったんですけど、
そういうふうに思うようになったのは、アメリカの高校1年間留学、シリコンバーレーのところに行ったのもあるので、その話はまた後でもしたいと思うんですが、
そんな混乱しているうちにアメリカで大学院、研究が面白くなって大学院を出た後に、将来どうしようかなと思った時に、
一人でも多くの日本の学生を世界に出したいと思って、それができるのは大学教員だと思って、
いろんな世界からの会社からオファーをもらったんですけど、結局、慶応の教員になる道を選んで、それで初心鑑鉄を目指しながら、現在に至っているという感じですね。
一般的に聞くと、大学の学長というポジションに就く人生って何なんだろうとあまり想像がつかないので、不思議ですよね。
ベンチャーキャピタルになる人もわからないかもしれないですけど。
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でもね、これからもそうだけども、特に私が高校ぐらいになってから、高校って言ったってもう大体1980年ですよ。
それぐらいからは定番のやり方っていうのが、例えばわかりやすければ、慶応の大学の教員になろうと思ったら、
慶応の修士課程と博士課程に進んで、教授に気に入られて、助手にしてもらって、そのまま慶応に残る。それは唯一の道だったんですよ、昔は。
なんかそのイメージあります。
だから、私の場合、出てった時点で慶応の教員は全く興味ない。
確かに。
でも、世の中って不思議なもので、慶応の教員になりたいと思って、そのまま慶応の大学に残った同級生がたくさんいるんですけども、その人たちが慶応の教員になかなかなれなかった。
それは、慶応は今、慶応出身の教員が多すぎるという波が来ていて、
面白い。
多すぎるから外の地を入れなきゃいけないという、正式なプレッシャーがあったかどうかわからないですけど、私が就職する1995年の時には、外から理工学部で外から入れなきゃいけないと言って、それで伊藤浩平くらいがちょうどいいだろうと。
大学までが理工学部で、大学院は外。
その後は、もうそんな感じの一本摺りがどんどんなくなっていって、完全に工房になっていきますよね。
なるほど。
自分たちで変わらなきゃという話があったの?
ありました。
でも、そういうことでどんどん世の中って変わっていくじゃないですか。
慶応の教員になるためには、スタートアップで成功するには、というような定番モデルがどんどん変わっていくので、好きなことを。
タイミング的または直感で、やっぱりやりたいことをやっていくということが、それは正しいことにつながるだろうという直感じゃなきゃいけないんだけども。
それが結構重要なんじゃないかなって私なんか思うところですね。
なるほどな。早速いきなりまとめ級にいい話が。
これ伊藤さんが、じゃあ初めは慶応に触れてたのが小学校からで、物理にたどり着くまでは何なんですか?何があったんですか?
結構小学校から科学が好きになるような教育が結構ありましたね。
でも振り返ってみると、例えば貝。貝品学校って言って、千葉の立山にみんなで三泊だか四泊だか忘れましたけど、
四年生の時に学校の合宿に行くわけですけど、その時に理科室に貝の標本があって、その貝を全部覚えるんですよ、興味がある人は。
それでそのまま海岸に行って、そこにない貝を見つけると、心象を見つけたと言って、そこに自分の名前と名前の貝が永遠に残るわけですね。
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発見者も一緒に掛かるんですか?
そうそう。でもその時に僕は心象を発見したんです。熱中して探して発見して、貝を持って判定してくれる先生のいる旅館の部屋に駆け込んで行ったら、
伊藤君これは本当に君の言う通り紳士だよ。でもね、1時間前になんとかさんが同じものを持ってきちゃったんだって言って、
その時に今から考えてみると発見する喜びと、それから最初に報告しなければいけないという悔しさっていうのかな、これを結果的に学びましたよね。
あと例えば中学校の時には、KF2部というところでひたすらレポートを万年筆で書くということで、導入から何からって書く。
もうなんでこんな厳しくやるんだろうと指導されたんですけど、それって実は世界一般の科学者が実行しているシステムをそのまま中学生に教えていたということで、
これもやっぱりレベルとしてはその時はすごく大変だったんですけど、後から考えてみると、ああ、あの習ったことを当たり前にやればいいんだというようなことがあったり、
あと慶応の高校の時に、地学の時間にどっかの大学の博士課程の人が講師で教えに来てくれたんですね。
自分でひたすら掘り出してきた考古学の化石とか、そういうのをみんなに配ってくれて、これを鑑定しなさいという実践事業で、
それを鑑定するというのがすごく面白くて、最後鑑定していろいろやったわけで、最後はそれのコピーというのかな、石膏に流し込んで、それで色も塗ってコピーを作るわけですけどね。
でもそういうふうに実践の事業というのがすごく楽しくて、やっぱり普通の考えるカリキュラムと違うものの積み重ねはあったなと思いました。
でも、だからといってすごく理科に興味があった。その高校の時はあったわけじゃないですね。
それで経済に行こうと思ったけど、お父さんの反対にあった。
そう、経済に行こうと思ったのは、高校1年生の時に父のシリコンバレーの転勤について、1年間アメリカの公立の小学校に過ごしたんですよ。
高校に過ごしたんですよ。
そこで僕がびっくりしたのは、アメリカのカリフォルニアの高校生は、カリフォルニアの市民は16歳から車が運転できるんですよ。
なのでパーキングロッドが広いのが高校にあって、見ると大抵ボロい車なんだけど、いくつかフィアットとかすごくいい車がある。
これって親が金持ちなのかなと最初思ってたんだけど、話を聞くと自分で仕事をしてるって言うんですよ。
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自分で仕事をしてるっていう高校生が、とてもいい車を乗ってる。
なるほど。
自分で仕事をしてる、あれは1982年ですね。
今から43年前、まさにシリコンバレーのど真ん中だったんですけど。
仕事をしてるっていうのが、金持ち相手にケータリングをしてるとか、
あと金持ち相手にポーカーの付き合いをしてて、それで金を巻き上げてるとか、いろいろいたんだけども、
でもやっぱりプログラミングをして金を稼いでる人がいたりして、
やっぱり起業家精神ってすごいんだなと思って。
その時私はもう衝撃を受けて、なんで日本の高校生とこんなに違うんだろう。
日本の高校生って受験受けてとか、クラブ活動頑張るとか、
澤田さんも私も、クラブ活動とか高校生の生活をひたすらエンジョイしてたと思うんだけど、
そうやって勝負してる連中がいて、それが衝撃的で、
実際に例えば数学の授業に、天才的なユダヤ人の友人がいて、
彼はアメリカフットボールのセンターっていうドバンの中で、すごい体験してたんだけど、
彼も天才でね、数学の難しい試験を全部答えしか彼が書かない。
答えしか書いてないから、数学の先生が怒って半分しか点数くれなかったんです。
なんでこんなに点数低いんだって言ったら正解なのに。
いや、途中経過を示してないから。
途中経過なんてここで示せるってそのまま黒板に行って、彼が全部書き出してるみたいな人で。
でも彼もね、その後スタンフォード行って最近調べてみると、
投資家として大成功して、ベンチャー投資家として、要はベンチャーキャピタルとして大成功して、
たくさんのエキゼットっていうのからM&Aを成功させて、
いよいよ自敵の引退生活を送ってますね。
なるほど。
そういう連中に高校時代にあったってすごい刺激的ですね。
それはめちゃめちゃいいですね。
むしろその延長線上のイメージがあるのか、どっちかというと確かに。
慶応にずっといたっていうよりも、カルフォルニアとかのそういうのをいっぱい見てたんですよね。
アメリカの1年行って帰ってきた後なんて、私ただのアメリカカブルで、
真面目にその勉強、真面目に、慶応高校が終わったときにね、
みんな暇そうに自由学科にお茶しに行く連中とかね。
ただスポーツしか、軍隊的な環境でスポーツしかしてない体育会の連中とか、
全部バカバカしく見えちゃって。
なるほどね。
すごくね、あの時はアメリカカブルの変な少年でした。
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その時は何やってたんですか?
その時のところ、特許を申請する代行のアルバイトとか。
何か知らないけどね、勝手に車検のやり方を学んで、周りの人たちの車検を代行して勝手にやってた。
何かね、本当に小銭を稼ぐみたいな。
オンビジネスをやるのがかっこいいというか。
何か考えなきゃいけないです。
へー。
でも大学に入って、そろそろ何かこのまんまただのアメリカカブルじゃまずいなと思っている頃に、
もう一度テニスを頑張って日本人になろうと思って、
大学のテニス部に頭を下げて、すみません今まで生意気でしたけど、
テニス部に入れてくださいって言って、
そこで180度変わったひたすら学級生をもう一度経験して、
そのおかげで日本的な、もう一度あれに戻れたかなって。
伊藤さんはめちゃめちゃテニスやってたんですよね。
その時はだってテニス部でしたからね、大学の間は。
すごいな。
行ったり来たりですよ。
確かに。
人によってはダイエットしても体重が増えたり減ったりする人がいるって噂ですけど。
僕は10キロ前後上下するんで、1年で10キロ上下するんですよ。
それちょっと間隔が短い。
極端に。
トレーニング始まっちゃうと減ってっちゃう。
そっか。
じゃあそこでビジネス的なものとか、学問とか、スポーツとか、
いろんなものを極端にいろいろ試してたというか。
いろいろ試してきた。
でも、その中でも、だから大学は経済学部で算数、数学は好きだったんで、
計量経済で数学は使えるから、数学も活かして経済学部に行きたいと思ったんだけど、
父親が大学4年間、理工さえ勉強すれば、その後大学院経済学部に進むことができるけど、
その逆はできないと。
それは確かに。
強い説得にあって。
すごい具体的な説得ですね。
そうです。
だから理工だけには行けって言って、せっかくのチャンスなんだからって言われて、
あまり納得しないまま、理工学部に行って、
理工学部の1、2年生の頃は何のために勉強してるんだろうと、
あまりよくわからないまま、
テニスやったりして、好きなように、好きなようにというか、
日本人に戻るべきリハビリをしながら生活してた感じですね。
そうか。
そういう風になっていく中で、
結局そこから院にも、あれ終始がまたカルフォルニア。
そう、でも大学院に行かなきゃいけない。
アメリカに、海外に出なきゃいけないという強い。
そこはずっとあるんですね。
あるんですね。
やっぱり、慶応で福沢出雲があっていると、
世界の広さを感じなきゃいけないってことは常に思っていたので、
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そういう共和観念があるので、
そうだ、じゃあ大学院で行けばいいんだと。
思っているときに、理工学部で卒業研究が始まって、
そうしたら卒業研究って初めて、テニスで言えば初めて試合をさせてもらったようなもの。
突然、世の中ではここまで分かっていて、
これが分かっていない。
それを発見するっていう。
新種発見。
そうそうそうそう。
それがね、あまりにも面白くて、
そうかってこういう、自分だけが知っている真理ってのがあるわけじゃない。
確かに。
これは面白いって言って、それで急に研究が好きになって、
要は試合が好き、ゲームが好きなんですよ。
なるほどね、新種発見をしたくなっちゃったんですね。
そんな感じでしたね。
そうか、それでじゃあ大学院に。
でもそれって一般的に考えると慶応の大学院に行きません?
それでは海外に行かなきゃっていう。
研究面白いかける海外に行かなきゃで、
カルフォルニアにまた戻るわけですね。
そうでしたね、結果的にはカルフォルニアでしたね。
いくつかの大学からオファーがあって、
本当は東海岸に行きたかったんだけど、
バークレーからもらったオファーがあまりにも良くて、
給料も払う、学費も免除っていうオファーがすごい良かったんで。
めっちゃ良い条件だ。
それでだったらもう最後はバークレー行こうって言って、
バークレー行きました。
そうか。
バブルでしたよ、その時は。
そっか、その時期か。
バブルの時代。
確かに確かに。
89年ですから。
このまま聞くと多分研究者になっていく道になる気がするんですよね。
だから研究者になります。
確かに。
研究者になっていくのか。
でもビジネスの方もずっと迷いながらなんですか?
ビジネスの方はもう研究者としてやって、
それで一人でも多くの日本の学生を海外に出そうと思ったら、
帰ってきて、
帰ってきてというのはKOに教員になったのが95年。
今からちょうど30年前。
その時に、さあこれから私は良い推薦書を書けばいいんだと。
ただね、あの時もまた親父が反対したんだ。
親父言いますね。
親父常に、やっぱりでも親父を説得するっていうのはとても大切な教育だった。
大切な教育だったんだろうね。
なんでしがないKOの教員なんかになるんだと。
はっきりそういうわけ。
金もない。
しかも教授の下で言うことを聞く手下になる。
そんなのね、もうここまで成功してるんだからやることないだろうと。
実際にドイツのマックスプラン研究所とか、
カルフェーノのゼロックスのパラロイド研究所とか、
いくつかオファーもらってたんで、
よっぽどそっちにした方がいいじゃないかと。
すごく強く言うわけ。
でも一人でも多くの大学院生を出したいんだって。
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それはいいけどさ。
いいけど、しがない教授の下に入ってもできるわけないだろうっていうので、
KOに入る前に条件を出して、
自分の小さな研究室を自分でも出してほしいって。
それが条件だって言ったわけ。
OKだって言うわけよ。
それ一部屋もらって、完全な自由がもらえた。
その条件のもとで行ったので、
いきなり留守コンピューターとか新しい研究を自分で始められたし、
お金はなくてもね。
すごく良い条件が今から見ると得られたので。
なるほど。破格ですね。
破格。
日本大学ってそんなにフレキシブルな。
しかも最初は大して研究、
だからKOに来て、その当時のKOに来て、
今は違うけども、
大して研究もできないかもしれないけど、
良い推薦状を一生懸命書けば、
みんなを外に送り出せるなと思ったんだけど、
良い推薦状を書くためにも、
研究の最前線にいなきゃいけないってすぐ分かるよね。
なるほどね。
ちょうどね、野間秀樹が、
野間秀樹がオールスターに出る時だったね。
LA DODGERSで。
この人を推薦したのも、
星野選一だよなって。
草野球の監督じゃ、
DODGERSには推薦できなかったよなって。
そういうのを重ねながらね、
やっぱり研究で活躍しなきゃいけないと。
でもKOの環境は生ぬるいから、
どうやったら自分を、
厳しい環境がもらえないと、
ちょっと頑張れないとこない?
分かりますよ。
安里さんだってね、ファンドを始めて、
そうしたらもう、後ろを向くことができないわけじゃない?
無理です。
責任があるわけじゃない?
一方、ぬるい環境にいると飽きちゃうので、
よりハードな。
だから事務所に厳しい環境を作ったってこと?
おっしゃる通りですね。
じゃないと作ってもらえないもんね。
でも同じですよ。
支援者として自分も挑戦してて、
挑戦者を相手に勝負してるんで、
自分も何か挑戦しないと、
申し訳ないというか、
かっこ悪いなと思うんで、
自分も企業家だと思ってるんで。
自分も実際企業家だもんね。
無茶なことをやってた方が、
自分は燃えるので。
私は40歳までに、
アメリカの大学の教授になるという目標を立てて、
毎年アメリカの大学に応募したんです。
ということはそれだけ英語で、
突然私の研究室のホームページだけ、
急に英語が充実して、
英語が充実して、
毎年魅力的な研究テーマを考えなきゃいけないんです。
常にアップデートする。
それで応募してやっていくと、
結果的にいかなかったのは、
別にオファーがなかったわけじゃなくて、
詳細はここであえて言いませんけど、
毎年応募してると面白いことで、
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計画的じゃないですよ。
でも、これが一番自分の宣伝になったということが後で分かって、
いろんな学会から招待講演の話が私に来るようになった。
だってみんな私の申請書を読んで、
真剣に見てるから、
そうすると、この人はうちに来なかったとしても面白いって言って、
世界からいろんな学会から招待講演されて、
日本の学会の従事員たちが、
なんでお前ばかり、彼はなんでこんな招待講演が来るんだと。
なんでこの基調講演とかも早くから来て。
なんかあいつはうまくやってるんじゃない。
うまくやってるだけでなくて、真面目に申請してるだけなんですよね。
なるほど。
やっぱり挑戦し続けないとね。
その原点は面白いところで、
挑戦してなきゃいけないとか、
自分を履歴しなきゃいけないみたいなものと、
海外に行かなきゃいけないっていう、
植え付けられてるなんかあるんですね、自分の中で。
なるほどな。
結構あれですね。
僕の中で大学とかで偉くなる人って、
中を見てる人のイメージがあったんですけど、
ずっと外を見てるんですね、どっちかというと。
外っていうか、どっか飛び出したいというか。
理工学部長になった時に、
理工学部長も選挙で選ばれるから、
僕が選ばれるっていうことは、
よくこんな時代が来たなと勝手に僕は思ったぐらいなんですけども、
理工学部長になってから、
新人の教員に研修を話してくださいって言って、
40歳まで外に応募してたって言って、
周りが、ちょっとその話はここで適切にしないと。
会社で行くと、
新入社員に転職をした方がいいよっていうようなものですからね。
言われたけどね。
そんな感じでしたね。
理想的な職場って、その人のキャリアをちゃんとアップさせられる場所だと思うんで、
それぐらいの気持ちで生きた方がいいですよねっていうのはありますけどね。
そうだと思います。
面白い、そっか。
その延長戦場の中で、
気が付くと、
塾長みたいな話になってるわけですね。
そういうことですね。
まとめてもらえるとそうなっちゃいますね。
そうか。
面白い。
結局、慶応義塾ってのは、
結構開かれた、外に向かっている集団なんだなっていうのは、
私も実感するし、仲間たちは本当にそうだなと思いますね。
ということで、第23回は伊藤浩平さんにお越しいただきました。
今回は伊藤さんのこれまでの歩みについて、
詳しく伺ってきたんですけど、
次回は伊藤さんの塾長としての今の挑戦と、
あとこれからの野望について、
伺っていきたいと思います。
そして、番組ではメッセージを募集しています。
ポッドキャストの感想や、私さまと安里への質問、
今後の希望ゲストなど、何でも寄せてください。
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また、安里では企業相談や資金調達の相談を受け付けています。
どちらも番組概要欄にフォームのリンクがありますので、
そちらからお送りください。
それから、XなどSNSでもぜひ感想をつぶやいてください。
ハッシュタグは、
ハッシュハートに火をつけろでお願いします。
それでは次回も楽しみに。
圧倒的な未来を作るのは君だ。
ハートに火をつけろ。