そうか、確かに。花の需要があるってことは、イベントがあるときの前だから。
それだけではなく、夏休みとかね。
かなり小さい時から、お小遣いという概念が全くなく、働けば少しお金をあげるよっていうような感覚で。
だから、私は当時、みんなも、私の友達、兄弟を含めて、嫌でしたんですね。
なんで私たちだけが、こういうね、結構温室の中で暑いし、こういうふうに腰を痛むような仕事でしたんですけれども。
なんでこういうことをやらせるのかって、ずっと思ってたんですね。
そうか。
ただ、もう一つ、ちょっとこれ長い話で、長すぎるんですけれども。
私、姉がハーバード大学を合格したんですね。
受かって、私が次なんですよ。
で、父が私に、私、そんな姉ほど成績良くなかったので、ケッシー、もしハーバードを受からなかったら、この畑を育ないといけない。
ちょっと反情だったんです。
すごい。
あの強烈なプレッシャーをですね、もう地獄のようなプレッシャーでしたので、とにかく何でもやるから、一生懸命、必死に勉強して。
で、実は4人兄弟、みんなハーバードに行けてきました。
そういうことね。ハーバードに行けば、津がなくていいっていうルールで、すごいプレッシャー。
もちろん、半分冗談ですけど、半分リアルですね。
面白い。
僕がケッシーをすごい興味深いなと思っているのは、僕もともとやっぱりケッシーって、なんか本で読む人だったのね。
金融エグゼクティブっていうイメージだったけど、初めて仕事の場で一緒になって、すごいパッションがあるアントレプラなっぽい人だなって思ったのが1回目。
あとは、その後に日経新聞かなんかで、ご家族の話を見させてもらって、いわゆる僕がイメージしている金融エグゼクティブの人生とすごい違ったの。
で、すごいいろんな人生のストーリーを聞いて、あ、こういうふうに起業家的に生きてきたんだなって。
変なバックグラウンドね。
でもなんかその、やっぱり意思決定の軸とか、その人のバックグラウンドを知るって、僕はすごい大事だと思っているし、起業家もそういうのは大事だと思うし。
っていうので、キャッシーにすごく興味が出てきて、やっぱりその時何考えたんだろうって聞きたくて、聞くのに一番いいのはポッドキャストに呼ぶっていう。
すみません。
それでハーバード行って、そっからすぐにゴールドマン?
いえ、ハーバード卒業した直後に、私もともと当時すぐ大学院に進む予定だったんですよ。
ただ、たまたま私の地元のロータリークラブから海外留学の奨学期もらったんですよ。
その奨学期のきっかけに、初めて日本に来る機会を得ました。
それまでは、私一度も日本に来たことなかったんですよ。
そうか。
すごいレアじゃないですか、2世でも。
で、初めて日本に行けるぞっていう、それおまけに1年の奨学期が普通ですけど、
2年ももらえたんですよ。
1年目は、集中日本語勉強。
で、2年目は、私たち14名、世界中からのグループだったんですけど、
2年目は、どっかの日本の大学院ですね、研究とか勉強できる機会をいただきました。
これは、ですから、1986年から88年でしたので、
本当に日本はワイワイっていう、バブルのことでしたので、
超楽しかったんですよ。
我々が王様、女王みたいな扱いで、
ロータリー、世界のロータリー、小学生、日本に参りました、
いろんなパーティーとかね、いろんなリセプションとかね、
すごい楽しかったんですよ。
ですから、あの2年間がなければ、おそらく私今日日本にいない。
その経験から、日本に興味を持つようになって、
その経験から初めて、私、それまで会ったことなかった親戚、
例えば、おじさん、いとこたち、もちろん何人、アメリカに遊びに来たことあったんですが、
正直、私の日本語が今でも下手ですけど、当時はものすごい下手なんですよ。
あまりコミュニケーションできなかったんですね。
おはようございますとか、それ以外は。
ですから、初めてフルな会話ができたのが、すごい嬉しくて、
両親が、例えば戦争のとき、全然話がしてくれなかったんですよ。
まあ、おそらくすごい忘れたい時代だったんですから、かもしれないけど、
私の父のお父さん、私のじいさんが、ものすごいしゃべる人なんですよ。
少しウィスキー入ったら、もう3時間話せる人で、
ものすごい学んだ時期でもあったんですよ。
で、その後、アメリカに戻って、大学にちゃんと進学し、
その修士課程の間の夏、再び日本に来る機会を得たんですよ。
そのときは、なんと旧三井銀行の、初めて海外からの研修生でしたんですよ。
制服着て、日比谷本店で、資本市場部のスワップスデスクに配属されました。
で、あの3ヶ月弱ですか、あれもね、めっちゃ貴重な経験でしたね。
そこで学んだのは、まず日本がもっと好きになったこと。
そして金融がすごい面白いこと。
ただ、私にはちょっと日本の、すいませんけど、
日本ドメドメのところでは、ちょっと合わないかもしれないと。
日本の金融はそうね、本当にいわゆるドメスティックな。
ただ当時はね、時価総額、世界の時価総額トップの、入ってたじゃないですか。
だからすごい皆さん、なんか誇りに当然持ってたし、憧れの世界だったじゃないですか。
全然わからなかったから、もう選ぶのがすごい大変だったので、
私勝手に各会社に、すみません、全然ちょっと迷ってるんですけれども、
お願いですから、半日ください。
インタビューって、窓ない部屋で30分30分で、わからないじゃないですか。
でも、半日各会社のオフィスの風土、すっごい良かったですよ。
確かにね。
全然違いました。
オフィスの業務フロアで座らせてもらうってこと?
そうです。今、考えないと思うんですけれども、とても良かった。
そこでバークレーズ証券っていう、一番賑やか楽しそうな職場を選んだのがバークレーズなんです。
モルスターも決定。
ジェームズ・ケイプル、当時存在していたイギリス、また別のイギリスの証券会社も、
すぐもう図書館みたいに静かで、嫌だったので、バークレーズ選びました。
楽しそうだから、すごい超シンプルで。
で、4年後、すでに私は、いわゆるボスがイギリス人の男性で、一言も日本語できない方で、
私が、言語以外のことですごいお世話になりましたので、
彼がリタイアして、卒業して、私が婚姻になったんですよ。
すでにシニア・ストラテジストというか、役職だった時に、ゴームン・サックスから声をかけられ、来ないかと。
正直最初、全然興味なかったですね。
イギリス系がなんか、よりリラックスというか、すぐ首切らないレビュテーションでしたし。
最初、ゴームン・サックスから声をかけられた時に、私は、すでにシニア・ストラテジストの役職ついてますから、
別に横の移転はあまり理由がないと思って断ったんですが、
再度、GSから声をかけられた時に、
当時、バークレーズ証券にたまたまいらした米国株のストラテジストが、女性の方で、超有名なレジェンドですが、
ウォール・ガイのアビー・ジョセフ・コウェンという方なんですよ。
彼女と私が、米株のストラテジストと私、日本株のストラテジストで、一緒にコンフェンスとかやってたんですよ。
結構接点が多く、ものすごい、私から見ると憧れのアビーだったんですよ。
ただ、彼女は1年未満で辞めて、ゴームン・サックスに移転しましたので、
私、ゴームン・サックスから声をかけられた時に、最初断ったんですが、
再度、アビー・コウェンから電話があったんですよ。
ギャッシー、もう一回、再度考えてくれませんかと。
なぜかというと、イギリス系の証券会社で、もちろんいいんですが、
やっぱり、日本株のストラテジストが成功するために、グローバルフランチャイズが必要じゃないですか。
グローバルプラットフォームの方が必要じゃないですか。
イギリス系の証券会社より、米国の方が大きいですよとか、すごい説得力があって、