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2023-06-28 29:05

第337回 豊島俊弘氏(株式会社マーキュリアホールディングス代表取締役)【前編】

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今回は、株式会社マーキュリアホールディングスの豊島俊弘氏にお越し頂きました。

不動産バブルやインターネットバブルの崩壊、リーマンショックやコロナショックなど、多くの経済的な転機を、投資をする側として経験。その流れの中で見つけた成功の秘訣から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
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■WizBiz社長塾
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社長に聞く!in WizBiz
本日の社長に聞く!in WizBizは、株式会社マーキュリアホールディングス代表取締役、豊島俊弘様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。東大法学部卒業後、日本政策投資銀行に入港。
世界銀行を経て、現在のマーキュリアホールディングスの創設に関わられました。
その後、代表取組員御就任。2016年には、東商二部に上場。その後、東商一部市場。
現在のクライム市場の市場指定概要になさっていらっしゃいます。
東商クライム市場の社長様、上場企業の社長様でいらっしゃいます。
豊島社長様、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。豊島でございます。
まず最初のご質問ですが、ご出身は大阪でよろしかったでしょうか。
はい、大阪ですね。
お父様は戦員臨床者と書いていらっしゃるので、本町とかあの辺な感じでいらっしゃるんですか。
父ではなくてですね、祖父ですね。まさに本町ですね。
お寺が南御堂っていうんですけど、御堂筋に本町のところにあると思うんですけど、そこがうちのお寺っていう感じでございます。
失礼しました。おじい様が戦員臨床者の社長様でいらっしゃいます。
そうでしたね。はい。
小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたか。
小学校ですね。小学校は別に普通に、自分で言うのもあれですけど、いい子だったんじゃないかなと思いますね。
ただ父親が少し、祖父は戦員臨床者だったんですけれども、父親がですね、4番目の子供で家徳を継ぐ必要がないということで、医学研究の道に行ったんですね。
それで小学校の初めはアメリカのシアトルっていうところにおりまして、その後日本に帰ってきたんで、そういう意味ではちょっと昔の帰国史上みたいな感じで、最初小学校でちょっとなじめない時期っていうのもありましたけれども、普通の子供時代だったのかなと思ってます。
なるほど。ありがとうございます。中学は長中に受験で入りになっていらっしゃるということで、長中というと日本でナンバーワン、中学高校でいうので、相当頭は良かったんじゃないでしょうか。
どうなんでしょうね。ただ昔はですね、今ほど受験っていうのが高度化されてなかったものですから、そんなに特別な塾に行くっていうことはなかったんですね。
普通に昔は自由自在とか応用自在とか、そういうようなものをきちんと勉強して、それでなんとなく入ったと。私の前兄も入ってましたんで、なんとなくっていうような感じで、特段そんなにすごく何かを考えて入ったっていうことではなかったですね。
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それも特段考えて入れちゃうところがすごいんだと思うんですけども、那田中学時代はどんな中学時代を過ごしたかと思いますか。
これ実はですね、入るまでは結構この平易な人生を歩んでたんですけれども、やっぱりこの那田っていうのはですね、非常に癖の強い学校でして、この同級生なんかを見ましてもですね、非常にみんな癖の強い人間が多いんですね。
やっぱりこの頭のいい人間っていうのもいますし、やっぱり学校って何が大切なのかなっていうのはあるんですけれども、教えるコンテンツっていうのは世の中に参考書から何から何でもあるわけですけれども、一緒に触れ合う人たちから学ぶところっていうのがよくも悪くもあったなと思うんですね。
そういう意味でいい友達もいたし、意地悪な友達もいたし、それから何よりも自分から見て、こいつすごいなと、そういうすごいものを持っている人がたくさんいた。これが私にとってかけがえのない経験になったなと今でも思っております。
なるほど、ありがとうございます。中学時代とか高校時代は何か部活動とかそういうのはなさったんですか。
ワンゲルっていうのにいまして、これはワンゲル山の森ですね。なので、六甲山であったりとか北アルプスであったりとか、そういうようなところに行く、そういうのをやっておりました。
あと高校の時は、これは正式のクラブではなかったんですけれども、みんなで集まって、いつもソフトボールをやっていたっていう、そのあたりでしょうかね。
なるほど、ありがとうございます。高校時代の思い出なんてございますでしょうか。
高校の思い出、高校はですね、もともと大阪出身だって申しましたけれども、ちょうど高校になる頃にですね、私の親が大阪の方から東京の方に仕事を移しまして、そのような関係で高校は下宿だったんですね。
下宿にいますと学校は近いし、いわゆる通学時間ってなくなりますので、非常に楽しい、そういう意味ではかなり堕落した高校生活になってしまったのかなというふうに思っています。
結構遊んでいらっしゃったんですか。
ほとんど休みましたね。
ありがとうございます。その後、東京大学にお住まいになっていらっしゃいますが、そうは言っても、NADAの中でも東京大学ということは、頭のいい方でいらっしゃったということでいらっしゃいますよね。
自分ではそんなこと全然思っていなくて、当時のNADAっていうのは東京大学に100人ぐらい受かる、全校で高校を入れて1学年220人ぐらいですから、そういう意味で特段何かっていうのはなかったですね。
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ただ、もちろん受かった時はホッとするっていうのはあるんですけれども、もう一つですね、これは非常に大きな問題なんですけど、理科系と文化系っていうのがありまして、当時は文化系に行く人間っていうのもいたんですけれども、最近はですね、もうみんな理科系の方に行っちゃうということで、4クラスあるんですけど、文化系のクラスが1クラスできないっていうような状況ですね。
当時、私の時は1クラス半ぐらいが文化系に行くっていう感じでした。
なるほど、ありがとうございます。文研に行こうと法学部に行ってらっしゃいますが、そっち側に行こうと思われた理由は何かございましたか?
これは、うちのじじさんが商売人をやっていて、父親が逆に医学の研究の道に行った。逆にですね、私の兄も、私の兄がやっぱり医学部の方に行ったっていうこともあって、自分は逆に別なことをやりたいっていうので文化系に行こうというふうに考えてました。
なるほど、ありがとうございます。東京大学の過ごし方とか思い出とかございましたでしょうか?
東京大学はですね、法学部なんですけど、前にあがつくと法学部だということで、全然勉強は実はあんまりやらなかったですね。
大学時代は、これはあんまり言うような話じゃないんですけれども、バジ粒に入っておりまして、こちらの方はですね、なんか楽しくてですね、もともと動物好きっていうこともあるんですが、競技でやると好き嫌いなんて言ってられないんですね。
だけど、これはもう4年間結構熱中してやっておりました。
なるほど、ありがとうございます。その後、日本開発銀行、今の日本政策投資銀行にご入港されてらっしゃるんですが、東大法学部出身だと割と弁護士か官僚か、官僚か弁護士かみたいなイメージが強いんですが、そっちの方面に行こうとは思われなかったんでしょうか?
いい質問だと思うんですけれども、勉強しなかったんで、逆にあまりにも勉強しなくて、4年生になってから改めて公務員試験を受けるとか、弁護士になるとか、そういう人間もいたんですけれども、今さらっていう思いがあったので、
実は卒業の時に、必須単位の半分以上というものを、最後の最後の卒業の4年生の秋のテストで取るということで、逆にわざわざ留年してやるほどの価値があることが、それだけの大学生活は送ってなかったってことなんでしょうかね。
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なるほど、承知いたしました。
日本開発銀行、銀行、それも銀行でもちょっと政府系銀行ですか、かなり変わっている銀行でいらっしゃると思うんですが、こちらを選ばれた理由とは何かございましたか?
こんなこと話していいんだろうかって思いますけど、当時リクルート社が紙のリクルート雑誌っていうのを学生に送ってくるんですね。
とりあえず、あんまり深く考えずに銀行とか商社とか、ハガキが付いてるんで、それをずっと送っていたわけです。
それを送ってたんですけれども、同時に政策投資銀行に東京大学の体育会のこと、運動会っていうんですけれども、運動会で幹部をやってらっしゃる方が数年上にいまして、私4年の時に和実で3種目全部全日本に出ることが決まってたんですね。
そうすると、君、もうその就職活動なんかしてる場合じゃないぞというふうなことで、ちょっと声をかけていただきまして、そのようなご縁があって、政策投資銀行に入りました。
なるほど。ちょっと一つの前に戻って、和術も上手でらっしゃったんですか?
そうですね、意外とちゃんとしてました。六大大学なんかでも2つぐらいは優勝したものがありますし、関東大会で10位ぐらいとかですね、一応まあまあやった方かなというふうに思ってます。
オリンピックを目指そうまでは思われなかったんですか?
オリンピックに出られた方について指導を受けてた、バジ公演にずっと合宿をしてた、そういうような時期っていうのはあります。ただ、やっぱりレベルが違いますよね。本当に強い大学、私たちの頃は千秋大学とか日大とか、明治さんが強かったですけど、そのあたりを見てると、やっぱりちょっと馬力者って言うんですけど、ずっと子供の頃からやってる人たちはなかなか勝てないと思うんですよね。
かなわないところがあるなっていうのは思いました。
なるほど、ありがとうございます。じゃあちょっとまた先に進めさせていただければと思いますが、その日本開発銀行、日本政策投資銀行での思い出なんてございましたでしょうか?
そうですね、一番最初に、そういう意味では若干先輩の引きみたいなところで、きちんとした就職試験というわけではなく、なんとなく入ってしまったってところがあるんですけれども、入ってくると周りにいる人たちはちゃんと優秀な方が多いんですね。
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公務員試験もちゃんと受かってましたとか、弁護士になろうかと思ったけど、開発銀行に入りましたみたいなんで、やっぱり入社式の時に当時の役員のうちの一人から、君は卒業しないと思ってたよっていうふうに言われてですね、
なんかバカ採用だったんだなというのは非常に思い知ったと、身の程知ったという、それが社会人のスタートですね。
ただ入ってみますと、とても面白かったし、それからあまり勉強しなかったんですけれども、この法律っていうものに大学時代に触れたのはとてもいいことだなっていうふうに思いましたね。
例えば90年前後っていうのはですね、ロケットサイエンティスト、このような非常に科学的な関係、それから数学的な考えによっていわゆる運用っていうものがなされるのが金融っていうのはサイエンスだと、そういうようなことっていうのは非常にもてはやされた時代なんですけれども。
一方で、もちろんそういう部分はあるんですけれども、一つ一つの融資であったり、一つ一つの投資っていうふうになりますと、契約条件っていうのはとても重要なんですね。
結局全てを数学的に見通すことなんて当然できないわけですから、逆に見通せない様々なことが起きるからこそ契約って必要なわけで、当然あり得ることっていうのはわかりますから、そういうようなものに対する契約の使い方っていうものを考える上で、後から気づいた大学で実際いろんなことを学んでいたのかなっていう、こういうのはありましたですね。
なるほど、ありがとうございます。ちょっとリスナー様の補足説明ですが、先ほど90年代のお話をされました、いわゆるデリバティブとかが流行った時期だと思いますので、おそらくデリバティブは30ぐらいまでにしか覚えられないと言われたりした時期がございましたので、その時期のお話を今、豊島社長様はお話していただいたので、ちょっと補足説明でございます。
すみません。
これもすごいんですが、日本政策投資銀行にいらっしゃる最中にマサチューセッツ工科学の留学を社会人としてなさっていました。
これは社内の留学生試験で受かって、それでアプライしたっていうことですね。受験して。
リスナーの皆さん方もよくご存じだと思いますが、マサチューセッツ工科学ですので、世界1位か2位か3位かぐらいのところにスッと留学されるのも、やっぱり校内でもご優秀でいらっしゃったということでいらっしゃるんじゃないでしょうか。
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校内で毎年、当時は大体2人ぐらい、1つの台の中2人ぐらい、海外留学のチャンスをいただけるということで、これは大変ラッキーでしたし、やっぱり感謝しています。
実はこのアメリカに、1990から92年なんですけれども、この時期、アメリカにいて学んだことっていうのが、実は私のビジネスマンとしての人生の礎になっております。
なるほど。そのマサチューセッツ工科学ではどんな勉強をなかったんでしょうか。
端的に言うと、今で言うと不動産の証券化とか流動化、ストラクチャードファイナンスっていうような分野であったりとか、そのようなものですね。
その技術としての流動化や証券化っていうのもあるんですけれども、もっと大切なことっていうのは、アメリカのバブル崩壊なんですね。
日本のバブル崩壊は、90年ぐらいにバブルが崩壊するわけですけれども、アメリカのバブル崩壊はその前の80年代半ばに、いわゆるセービングアンドローンズっていう地方の貯蓄組合の破綻っていうのは大量にありまして、
これの不良再建処理っていうのが、まさに私が言ったこの90年、92年の非常にホットトピックだったんですね。
その時に数多くの貯蓄組合、銀行ですね、小さな信用金庫のようなところが多いんですけれども、こういうようなものの不良再建処理をしていく中で、不動産の流動化であったり、さまざまな証券化手法っていうものが用いられた。
これを学んだわけです。これはもう話さなくてもお分かりになると思うんですけれども、92年、卒業して日本に戻ってくると、もうバブル崩壊が始まっていたということでございますので、その時に結局何が起きるのか、どういうふうに対処するのか。
そのあたりのいわゆる地図ですね、マップが自分の頭の中にサッとできた。これが非常に大きい、私のビジネスマンとしての一つの大きな原点になりました。
なるほど、ありがとうございます。
そうすると日本政策投資銀行には、まさに高科大学が大戻りになると、まさにバブル崩壊の時だったんで、ある意味エースでいらっしゃったんじゃないでしょうか。
そうですね、私はもちろんいろんな何をするべきか、どういうことをやろう、そういうようなビジョンは自分の中にはしっかりありましたけれども、当然この日本の組織はバリバリの年功序列ですので、自分の言っていること、自分の考えていることをやるべきだと言っていることが、そのままスッと社内で受け入れられたわけではないんですね。
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最初はですね、とは言っても生意気ですから、いろんなことを言うわけですけど、それを上にいる人たちは理解しない、またはちゃんと聞いてもらえないというような時代というのはあったんですけれども、ある時にですね、私企画部というところにいたんですけど、その企画部の部長さんというのはですね、
昔やってたこういうリゾート法とか、サンセクとか、こういうようなものはもう全部ダメだと、無駄だなと。そういうようなものに天下りとかも含めてしがみついている人というのはいたんですけど、そういう時代じゃないというふうに言ってくれる部長さんというのがいてですね、
豊将の言っていることは非常に理にかなっているから、思いっきりやってみろよということで任せてくれたんですね。これはですね、私はその時の部長さんには今でもとても感謝しています。
もう一人その方の本人の部長さんというのがですね、いわゆる銀行員ではあるんですけれども、工学部出身の方で非常に合理的な人で、新しいことをやろうとすると何を提案したらみんな反対するんですね。
だからその時にその部長さんが言ったことっていうのはですね、何かを決める時に決定して実行されたことっていうのについては、役員会談なんでも記録が残るんだけれども、却下された記録って残らないよねっていう話で。
で、その時に実は私は、どの企業にも同じような金利で勝つのはおかしいと、リスクに応じて金利体系を変えるべきだっていう話をしたんですけれども、海外じゃないんだから日本はそういう文化じゃないんだみたいなことを言う人はいっぱいいたんですけど、先ほど言った2人目の方の部長さんですね、私が尊敬する。
この部長さんは、じゃあこのその金利についてリスク別金利っていう体系をきちんと入れていかないっていうことに反対した人の名前を記録に留めようと。
決定を通さなかったものについて、それを阻止した人間の責任っていうのも問われるべきだと。
っていうことを言ったらですね、皆さん賛成というか、承認したというようなことで、これはですね、日本の当時メガバンクも全部そういうリスク別金利ってない時代でしたので、非常にこの大きな従来のメインバンク制からのデパーチャーから離れていく一歩になったんじゃないかなと思っております。
なるほど、ありがとうございます。私の会社も融資を受けてますが、金利がよく変わるというか、すみません、その大元をやられたのが福島社長さんということで、今じゃない。
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もう一つ付け加えますと、会社に対する金利はですね、最初から変えたわけじゃないんですね。
ただ、バブル崩壊後、実はもう倒産しそうな会社とか、普通に考えると金利を変える以前に貸せない会社っていうのがいっぱい出てきたわけです。
だけど会社には貸せないんだけれども、会社の中にいい資産があります。会社には貸せないんだけど、会社の中でプロジェクトファイナンスで新しいやるべきプロジェクトがあります。
その時はもう会社の保証はいりませんと。だけどこの資産にお金を付けます。このプロジェクトにお金を付けますと。
そうすると保証はしないわけですから、当然金利体系も変えますよということで、このストラクチャードファイナンス、こういうノンリコースファイナンスって業界で言うんですけれども、
そういう社長さんとか企業がお金返せなかったら破産しますよと、そういう運命を共にしない場合には、じゃああなた運命を共にしないんだから銀行としてもお金を出すけれども、そこにはちゃんとスプレッドという形で少し上の責任をいただきますよと、こういう線引きっていうのを行ったわけです。
ありがとうございます。リーさん、皆さん方は、金融業界いらっしゃった方少ないかもしれないんでわからないかもしれない。私は銀行コンサルタントやってたんで、今ちょっと興奮してて、こっちばっかり聞いてしまいそうになるんで、ちょっと次の話にちょっと。
皆さんも聞いてください。カットしていただいていいですよ。
ありがとうございます。もう非常に面白い話なんですが、ある意味バブル崩壊になったんで、いわゆる事業再生なんかも結構手がけられたんですか?
はい。これはですね、きっと皆さん信じられないと思うんですけど、事業再生って言葉は実は私が作ったんですね。
なるほど。
これはですね、2001年の春にですね、事業再生フォーラムっていうのをやってるんですね。
その時にこの事業再生っていう言葉を初めて使ったわけです。
この事業再生って言葉の裏側って実はすごく深くてですね、私は会社っていうのは5つの概念だって言ってるんですね。
会社が5つっていうのは何かっていうと、1つ目はまず法人格ですよね。登記されてる、登録されてる法人格がありますと。
次にその法人格を持ってるのは株主ですから、株主っていう概念があって、その株主に選ばれるのが経営者。
それから法人との間で雇用契約でその法人で働いている従業員。これが4つ目になりますですね。
それから1つの法人の中でも様々な事業部門があります。
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例えばこの小売部門とか卸売部門とかトレーディング部門とか、そういう部門っていうのが5つ目の概念。
バブル崩壊っていうのはご存知のように、同産投資とか、むやみやたらな為替投資とかいろんなことをやって、
本業がある会社が在宅っていうのに走っておかしくなった会社がいっぱいあるわけですね。
そうするとその在宅部門は価値がないわけですけど、その時にコンプレートファイナンスの考えだと、
その法人格丸ごと経営者の従業員も全部沈んでいくっていう風になるわけですね。
だからそういう在宅とか同産投資者って会社はおかしいんだけど、
会社の中の事業、良い事業がある場合には事業を再生しましょうっていうことなんですね。
ところが会社構成っていうと、会社っていう法人格になっちゃうわけです。
それから民事再生っていうのは和儀法から当時出てきたんですが、そうすると経営者はそのまま残れるんじゃないか。
それから銀行がやる場合は私的整理っていうことをやるんですけど、銀行の再建本期だと根本的には直らない。
どのプロセスを取るかによって有利になる人も変わるし、会社単位で議論をするっていうことだったんですね。
そうじゃないと会社単位で議論をすると、例えば会社構成になると会社単位と言いながら、
このかわいそうな従業員を守らなければいけないっていうかなり人権的な考え方で銀行は全部悪だっていうことで、
銀行のいわゆる一般再建100%カットからスタートする。
そういうようなプロセスに銀行がやっぱり協力はなかなかしないわけですね。
だからやっぱりそうじゃなくて、別に従業員がかわいそうだから銀行は再建するとか、
会社を残すことは自己向け化するっていうことではなくて、一つの会社の中にいい事業と悪い事業がある。
だからそのいい事業をちゃんと直すためにはお金が流れている。
呼吸をするのと同じように金融が続けなければいけない。
だから倒産者の仕立て後の会社にもきちんとお金をつけるんですよ。
それが事業再生、会社の再生じゃなくて事業再生ですよって、
そういうような説明をして事業再生っていうフォーラムをやったんですね。
そこにいわゆる倒産村っていう再生関係の弁護士の方、
もう亡くなってしまいましたけど、有名な高木真次郎先生、当時は独協大学ですね。
それから園野さんっていう、いわゆる民事人事務という再生部の総括判事をやっている方々がみんな集まっていただいて、
これはすごくまさに金融の役割として有用な事業の再生にお金を回し続けるべきだ、そういう話があって、
その後にこの弁護士会の方々が、その事業再生、要するに会社構成でも民事再生でもない、
この事業再生っていいネーミングをつけましたねってある偉い先生が言っていただいて、
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それがその後の事業再生実務者協議会につながっていくと。
そういうシンポジウムをやるだけでなくて、日本で初めての申し立て後のいわゆるディップファイナンスっていうものを私が同時にそのタイミングでやったと。
これは一つの思い出ですね。
ありがとうございます。
今のお話、私なんかタイランドマネジメントの本を読んで感動して、
そのコンサルタント、そして会社分割で3社分割みたいなのをやったこともありますもんですが、非常にちょっと興奮する話なんです。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。
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