1. 百百
  2. #019 陳暁夏代の人生年表【器..
2023-03-31 38:34

#019 陳暁夏代の人生年表【器用貧乏は眠らない。】

spotify

第19回のキーワードは、「過去の黒歴史は人を選ぶ」「父の日本留学」「親族一同教師」「海外に渡った時代で家庭背景を知る」「第一言語は大阪弁」「親との喧嘩は第一言語」「少数派としてのいじめ経験」「ファーストキャリア」「上海での大学時代」「アテンドでVIP接待」「ジャーナリズム」


🦜あなたの耳に百の話を。人生漫談ラジオ「百百」(ヒャクヒャク)

現代アーティストの立石従寛と現代人の陳暁夏代の深夜トークをポッドキャスト化。 宋の時代に生きた無文という禅僧は、悟ったのち、「百不知百不会(ひゃくふちひゃくふえ)」という言葉を残しました。知れば知るほど、経験すればするほど「無知」であることを知る。そんな境地に至った無文の想いを届けます。台本なし。完全フリーセッションから紡がれる「百のお話」。

※自由気ままなトークですので一部事実と異なる場合があります。おおめにみてください。

🦜出演

立石従寛 IG @jukantateisi

陳暁夏代 IG @chinshonatsuyo


🦜 番組の感想は、 twitter #百百 でお願いいたします。

🦜 Apple Podcasts Spotifyで毎週金曜配信中

概要欄: 上海がなぜ国際都市なのか? 中国(清朝)阿片戦争でイギリスに敗北し「南京条約」によって上海が開港。上海租界とは、1842年の南京条約により開港した上海に設定された租界(外国人居留地)を指す。 当初、イギリスとアメリカ合衆国、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編された。 上海租界はこれらの租界の総称。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E7%A7%9F%E7%95%8C


サマリー

このエピソードでは、陳暁夏代が自身のバックグラウンドや留学経験を振り返り、家族の歴史や文化大革命の影響を探ります。彼女はまた、自身の成長過程や異文化交流における課題についても語ります。陳暁夏代は、いじめやアイデンティティの問題に直面しながら、自らの人生を振り返り、ジャーナリズムや芸能に興味を持つきっかけを明らかにします。彼女の進路は家庭の影響を受けつつも、自分の意志を模索する過程が描かれています。陳暁夏代は、自らの人生を振り返りながら、上海での生活や日本への帰国、青春時代のいじめについても語ります。また、モンゴル自治区や中国の地理的な背景にも触れ、自身の経験を通じた成長を深堀りします。

器用貧乏の生い立ち
【器用貧乏は眠らない。】
I can see nothing but a city afar
このラジオは、器用貧乏二人がお届けする雑談ラジオ。
器用貧乏ならではの好奇心と責任感で、膨らみすぎた知識や経験トークをお届けします。
今夜も作業が終わらない、そんなあなたへ。器用貧乏は眠らない。
今、ちょっと軽く事前打ち合わせしたんですけど、
大体面白い話って公に語れないよねっていう。
毎回そんなんの話だね。
今までは、もっと社会の事象じゃないですか。
喋りづらいよねっていうのは。
でも、自分の過去話においても、喋りづらいっすね。
リアルクロ歴史。
一番人に語りたい面白い話は、言えねえって感じ。
これはやっぱり最近、結構だんだんフィードバックも実は返ってきてて、中に公開収録行きたいですっていうお声もあるから。
そうですね。
公開収録いつかする時もそうなんですけど、
その話をする時っていうのは、その対面にいる人がその話を正しく理解してくれるかどうか、
湾曲されたり誤解されたりしないかどうかっていう心の安心感が重要だと思ってて。
例えば、私と樹冠さんはそこが問題ないと思ってるから、こうしてラジオを一緒にしてるんですけど、
そうじゃない人もいるじゃないですか。
そこに危機感を覚えたら、たぶん日常の付き合いでは黒歴史明かさないと思うんですよ。
そうだね。それはそうだと思う。話しても。
それで言うと、大人になればなるほど、そこ、黒歴史を明かすほどの仲が減るんです。
そうだね。
父親の留学と家族の歴史
それが大人になればなるほど、そこ、黒歴史を明かすほどの仲が減るんです。
そうだね。
それが一番課題。だからつまり友達を増やそうっていう。
前向き。前向き。
仲いい友達を増やすべきなんですよ。もっと心を開けられる。
機能を受けない。
そう、心を開けられる機能を受けない親友をいないと、親友がいないと、なんか人は閉じていくと思うんですよね。
それはそうだと思う。
そう。めっちゃ難しい、これ。
私、今、3、4人いるんですけど。
はい。
はい。
でも、その3、4人も、塾間さんも含め、過去の話の片鱗に触れた時に、
同じような経験があったりとか、じゃあこの人にはそれを話しても大丈夫だなとか。
そうだね。
ちゃんと共感できるエビデンスがあるよね。
そうそうそうそう。
ガールとは安心して、もう全部話すんですけど。
ある。すごくわかる。
例えば、例えばだけど、夏代ちゃんの場合、勝手に想像するが、
あ、中国人なんですねっていう過大な反応をされた瞬間に、ちょっとピュってなるだろうし。
もう終わります。
絶対そうだよね。
プロフィールはどうでもいいんですよね。
多分人とのコミュニケーションで一番面白いのって、一つの実証の深掘りなんですよ。
はいはい。
そういう話を最近すごい人としたいなって、この歳で思うようになってきて。
うんうんうん。
そういう話を最近すごい人としたいなって、この歳で思うようになってきて。
過去歴史の一つ、思考が変わったレベルのエピソードじゃないですけど、
はいはい、ありますね。
そういう人生経験を語り合う場があると嬉しいなって。
それこそ友達を増やすという結論ですけど、
もうSNSはもう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
もう、
意外に、
もう意外に、
まぁ、置いといて。
はい。
なので、
僕は、
非常行事
別構おり、
はい。
自分の人生をかたどっているようなエピソードを もうちょっと深掘っていきたいなと思っているので
今日は少なくとも一つ二つぐらいは聞き出せたらな と思っている実験会です
ピューン ポポポー
だめだ 初回のエロさはどこに
確かに 本当に
あれ何だったんだこれ
続かなかったんですよ
間違いない 最初はガチで夜中ぐらいに撮ってたじゃない
2時に撮りました最初
そんな遅かった?
そんな遅かったです
やばいじゃんマジでそうじゃん
樹冠さん家から帰ったの2時半とかですもん
だからそういうことかもよ
最近は朝9時半とか9時とかがら午前中に撮ってるんで
最初の言葉が今日天気いいっすねみたいな
おはようございます
そういうテンション
また夜にやったら違うかもね
まあ置いといて
そもそもなんだけど
本当にそもそもそもそもなんだけど
一番最初夏代ちゃんが日本に初めて移ったのが
4歳とかだっけ
そう4歳ですね
それはそもそもお父さんお母さんの仕事やったの?
文化大革命が終わって
パワーワードそれだけでまた一回終わっちゃう
1989年文革が終わって
中国が国策で留学生を出そうっていう国策を出したんですよ
海外に
その時にアメリカ組とか日本組とか
フランス組とかいっぱいあってカテゴリーが
大学から語学検定試験を受けて国費留学できるみたいな
そうなの?
国費留学助成金みたいな制度ができて
うちの父親がそれに受かって日本に来たんですよ
最初留学として来たんだ
そうです父親が大学で来てて
大学生で来てて関西の大学に入ってたんですけど
何学ばれたの?ちなみに
もうわかんないです日本じゃないですか
日本を学びに来たんじゃないですか
その時は一回国費留学で来ました
それって帰って何年間中国で何かやらないといけないとかっていう制限はなかった?
なかったんですよ
今だったらありそうですよね
そう今だったらありそうだったんだけど
フワーって閉じてた時代を開放するじゃないですけど
その時中国も景気悪かったし
3040年前かな
面白い
それで父親が日本に来たのが
うちの陳家の海外進出のきっかけ
2パターンあって
80年代に中国から海外に出てる人は2パターンあります
1つがこういった学生で海外に出てきた人たち
もう1つが文革で逆に金持ちすぎて海外に被弾された人たち
面白い
出稼ぎできてるか金がありすぎて出てこさせられたか
出てこさせられたっていうのは
中国政府から見た時に敵対関係になる恐れがあるって感じだったの?
結構文革の話になっちゃうんですけど
偉い人とか学者とか医者とかを全部
結構禁止した時代があったんですね
資産家とかもお金をロックされて
持ってる土地を全部返上させられたりとか
そういう時代があったので
その時に1回懲りた人たちが全員海外に出てるんですよ
ちょっとあれだね
フランス革命と状況は近いけど出方が違うよね
その時に金持ちの上海人が出たのが香港と言われていて
あとアメリカ行ったりとか
カナダ行ったりとか色々あるんですけど
だから香港はその時に出てきた上海人のお金で
栄えたみたいな一説もあったりするんですね
上海人 特に貿易で稼いでた人たちってことだよね
資産家です
イメージだけど上海って
そもそも別に国際都市であるようになったのって
日清戦争以降の清が負けて
フランスアメリカイギリスの三か国かな
が普通の漁村だった上海に入ってきて
がっつり外資落とし込んで
貿易の街にしてから資産が生まれていったみたいなイメージだったけど
上海は貿易港ですね完全におっしゃる通り
なので元々は20世紀初頭に
栄えた理由としては貿易港っていうのと
あと各国の植民地だったんですよ
その植民地がポルトガルイギリスとかだったので
結構貿易港として栄えた結果
街が洋風になっていったっていうところがあって
その名残で今上海に外国人が多いんですよ
だからやっぱね歴史は続いているということでございますけれども
話を戻すと
なので結構我々日本で私家境という類になるんですけれども
家境の同世代の子とか会うと
親がいつ来たかを聞くとその家庭の事情がなんとなく想像できます
これ多分家境にしかわからない共通言語
何年に来たか何の目的で来たかで
その人の家柄がちょっとわかっちゃう
ここは資産界
ここは留学かで稼ぎに来たな
中国人で世界中に親戚がいる人っていうのがいるんですよ
そういう人は大体資産家です
いとこがアメリカにいてとか
よく聞くよく聞く
お姉ちゃんフランスにいてとかそういう人は大体文革時代の資産家です
なるほどあれってそういうことなんだ
そういうことです
異文化と成長の経験
一つの国にいて例えば中華料理屋やってるとかで稼ぎでね
とか留学生で親が来たとかは大体もう一つのペルソナの方
なるほどね
聞くだけでわかる
でもわかりそう
そこはやっぱ在日とは違うんだね
在日韓国在日朝鮮
そうです在日は結構やっぱ残留工事とか
が多いもんね
そういったところについた名前だったり
全然違うな
結構違う
面白いね
でそのまま元に戻って
お父さんはこっちに来て留学
留学という名目で来たんだけど
それから彼自身はもう帰る気もなくて
日本でやっていこうってなったの
帰る気がなかった理由としては
3、40年前って中国は貧しい国だったんですよ
まだまだ
なので日本の方が圧倒的に稼ぎが良かったんですよ
当時日本ってバーブルじゃないですか
だから残ったっていう感じです
っていうことはその後またさ
小学校までいて中学校で中国に帰ったというか
そうですね
うちの母親は出てきたのは父親だけで
母親は中国で大学生やってたんですね
その前後ぐらいで私が生まれたので
生まれてすぐは海外出れないし
父親は留学できてるけど
母親は言葉もわからないから
一旦中国で子供を育てるってなって
4歳ぐらいまではずっと母親と
母のおじいちゃんおばあちゃん
実家暮らしで育っていて
お父様だけ日本で留学してたの
そうです
初めて父に会ったのが4歳です
初めて
一時帰国とかもしなかったんだ
しなかったです
飛行機が高い時代だったので
そんな行き来できるアレでもなく
国際電話とかないしね
そうですね
あるけど高いしね
初めて父親に会ったのが
4歳の関西国際空港で会えました
その時覚えてるの?
その時の印象はうっすらあって
なんか誰この人って感じだった
へえ
記憶ないっすよ
記憶ないっすよ
両親との思いではやっぱり
幼稚園の時代とかよりかは
就校とかの方がでかいですね
むしろ
単行記の方がよく覚えてる
なんかほんの覚えてないです私
幼稚園児の時代は
初めて私が日本に来たのはその時
合流できるってなった時
お母さんは中国で大学単大出た後に
大学かな単大かわからないですけど
大学出た後に高校の先生やってて
それもすぐ辞めて
日本に来て合流したっていう
なるほど
そこで父がそのまま日本で
当時バブル期だったので
日本で稼ぎがいいから働いていて
その後中国に戻ろうってなって
中、高、大、社会人は
ずっと私は中国にいました
日本にいた最初の4歳から
小学生か簡単に言えば
そうです幼稚園小学生
その時は関西にずっといた
ずっと大阪です
ずっと大阪
だから私は親と喧嘩する時
関西弁なんですよ日本語だと
関西弁か中国語
親とのファーストラングイッチが
関西弁なんですよ私は
大阪弁なんですよ
めっちゃわかる
僕も喧嘩したら
なんか知らんけど関西弁になる
そうなんです
怖くなるよね
めっちゃ早く喋ります
そうファーストラングイッチって
やっぱ小学生のファーストラングイッチ
すごい残ると思って
東京、東京弁っていうんですか
この標準語はむしろ
社会人になって東京に出てきてから
身についた
ちょっと夏代ちゃんの関西弁
というか大阪弁聞きたいね
親と電話すると出てきますね
今度聞いてみよう
そうかで大阪におって
その時にさっきも
さっきってか前回
前回にちょこっとあった
いじめにあったって言ってたのは
どのタイミングなの
いじめは
日本で
いや中国です
日本ではいじめられてたけど
小学生のいじめって
なんか知能レベル低いんで
そんな気にならなかったんですよね
なんか私名字がチンなんで
よくチンコとか呼ばれたりとか
いじめの影響
そんな気にならないですよ
おいチンコみたいな感じの日々だったんですけど
クラスメイトの男の子とか
当時そのクラスに
在日の韓国人とか結構いたんですよ
なんかキム君とか
金山君とか
金田君とか
キム系ね
そうキム系結構いたんですけど
それは母数がいたから
あんまり標的になってなくて
なんか中国人がね確かね
私ぐらいだったんですよね
その学校がたまたま
それですごいチンコチンコ言われてたけど
別にそんな気にならなくて
その時は別に
そう小学校は別に
平和になってた
そうでも一番いじめっぽかったのは
やっぱ中高ですね
中高は私前回ちょっとお話ししたんですけど
それこそカンニング時代なんですけど
前期と後期があって
中学校は結構ひどくて
高校になるとマシになったって感じです
高校になると結構仲良くなったっていう
なんかイメージ
僕も日本に帰ってくるたんびに
いじめられてたんだけど
そんな感覚で
中国ホームであるのに
こいつお前ホームじゃないだろう
と言うような感覚
そうそうそう
まったくそれです
やっぱ一緒なんやね
そうでしかも
なんかこれ
なんだろうな
ヒトラーみたいな話になっちゃって
なんか嫌なんですけど
当時いじめられてたのが
台湾の子からだったんですよ
へえ
それで一時期マジで台湾嫌いで
はいはいはいはい
そうそうそう
もうなんでもないですけど
子供の頃ね
そういう時代もあったりとかして
そうなんか
中国
あと韓国人からもいじめられた時も
めっちゃ韓国嫌いになったりとか
それも不思議なんだけど
中国に帰って
でもお前めっちゃ日本語
そう海外クラスにいた話
海外というか
国際クラスね
そう国際班にいた時に
その時にさ
それが中学
それが中学時代の3年間なんですよ
で高校からは普通のクラスにも入ったから
ああそういうこと
なくなってそういうのが
でもさ国際クラスだとして
中国人に標的にされるのは分かるの
なんで
だから村は小さい方がいじめが発生するんですよ
ジャーナリズムへの道
やっぱ関係ないよね
もうそこにおいて
こいつ陳称は日本人団だぜ
こいつは中国人じゃないぜっていうのは
ではなかったです
もうただのきっかけでしかなくて
ではなかったです
むしろそのクラスにいたのが
韓国人と台湾の子で
そこからいじめすごいいじめを受けてて
中学生の中1で転校した時
その学校がしかも全寮制だったんですよ
私は月1しか家帰ってなくて週末に
あとは基本学校の寮で寝泊まりしてたんですけど
なんかシンプルにはぶられたりとか
なんかきっかけあったの?
ないっす
なんかうざかったんじゃないですか
はぶるね
日本人が私だけだったんですよ
日本人じゃないけど
日本から来たのが私だけだったんですよ
そこだ
そう
別にそこに政治的背景があったわけじゃないよね
ないっすないっす
みんな教育的に日本はうぬんとか
なんもないっす
不思議な感情はないよね
シンプルに子供って感じです
愚かな時代
あるよね
そう だからなんか
なんだろう
そういう時代でしたね
高校になってからは本当に何もなくて
大学入ってからは超楽しくて
って感じですよ
それいつから
そのまま社会人にもそうだけど
どのタイミングで日本また行こうとか
帰ろうとか
中高大社会人
合計
結構だよね
10年ぐらい
10年ちょいぐらい中国にいたので
なんか
なんだろう 気分転換というか
それで帰ってきちゃったっていう感じですね
なんかその時にまた
違う国行ってればまた人生違ったかもしれないですけど
私は日本になんとなく帰ってきちゃって
決め手はあったの 日本であった
その上海でやってた仕事が
日本系の仕事だったんですよ
何やってたの
言える
芸能事務所なんですけど
なんか前に聞いた
上海の日経の
日経というか社長中国人ですけど
日経のコンテンツを取り扱っている
芸能事務所で働いていたので
その会社辞めるってなった時に
日本帰ったっていう感じです
なんかそこまで深く考えてなかったですね
今のタレント
芸能事務所にいたっていうのが
今の人生にちょっと繋がってくる
原点系
それは何
それはご縁があってその会社に入ったの
そうですね
そうですね
上海時代
結構上海で目立ってて
自分で言うのもキモいですけど
目立ってて
日本から来る
VIPの接待みたいなのを
バイトでいっぱいやってたんですよ
高級レストラン
ガーシーみたいな感じです
アテンド
高級レストランとか高級ホテル
取ってあげたりとか
通訳してあげたりとか
その大学時代に会った
偉い人とか結構いて
大学20歳とか
大学は上海だったんですか
そうです
大学から上海か
悪さしないガーシーみたいな
VIP接待っていうんですか
アテンドをずっとやってて
それも別に
職業にしてたというよりかは
一人やったら芋づる式に紹介された感じで
なのでそのつてで
この仕事を手伝ってみたいな
感じで始めたのが
最初に入った会社
ですね
そこがエンタメ業界だったっていうのが
原点なのかもしれないですけど
それは別にたまたま
その会社さんにはご縁があって
入ったの そうですそうです
当時むしろ私最初の
志望企業金税だったんで
全然違うんですけどもっと
固い感じだったんですけど
大学時代って何やってたの勉強
大学時代はメディアジャーナリズム
です
それもやっぱ今通じて
ジャーナリズムっぽいですよね
ジャーナリスト気質だなと思う
完全にジャーナリスト気質ですよ
それはなんでジャーナリズム
学びたいのか
それは
すごいですね
こんな聞かれることないですね
みんな興味ありますこの話
僕はあるけど
リスナーさん
多分これを
本当にこのラジオの冒頭でやってたら
誰も聞かないと思うけど
今ちょっと17回目ですから
そうですね続けさせていただきますと
日中という
仲の悪い国に挟まれて
育ってきたわけですよ
私は
なので
お互い
例えば
交互にしかも2,3年おきに
移動したりしてると
もう頭がバグるわけですよ
日本は中国のことをこう言ってるけど
中国は日本のことをこう言ってるっていうのが
全く違う意見で
言われてるわけですよ
それを子供の頃から
20年間聞いて育つとバグるんですよ
本当に
アイデンティティ崩壊する
そうアイデンティティ崩壊してるから
正しい情報って何なのかみたいな
課題意識がめちゃ強くて
社会のアンチテーゼ
じゃないけどすごい怒りがあった
症状だったんですね
それで
ジャーナリズム入りました
なるほどね
めっちゃわかりやすいと思いますこの理由
あとジャーナリズム
か悩んだのは
法律
じゃないですけど
ロースクールとかいずれにせよ
そっち系ですね
面白いな
社会システムを問い正すところ
に行ってたんだね
個人的な
感情的に何かをアクティビスト
として作るとか
アウトプット
制作して
表現ではなくて
どっちかというと
ジャーナリズム
社会の欠陥なり
補ったところがいいところを暴いていく
ような感覚
ちょっと話を戻すと
本当は
芸能志望だったんですよ
ただ
話が錯綜して申し訳ないんですけど
うちの家庭が
めちゃくちゃ古風で厳しい家庭で
当時
中国の
芸大の進学を
進めてたら
親と死ぬほど
揉めて願書捨てられて
みたいなくだりがあって
それで普通の大学に進学したって感じです
私は当時
それに勝てなかったです
芸術?
芸能?どっち?
芸能ですね
芸能
芸能系の大学
そうですね
伝統芸能ではなくて
どっちかというと
映画監督になったり女優になったりするような
芸大が中国にあって
北京電影学園とか
電影学園
北京
四十周年
とかあるんですけど
そういうところに入ろうと思ってたんですよ
それは女優の方で?
そうですね
と思ってたんですけど
死ぬほど親と揉めて
家の中に
お皿が飛ぶみたいな
ぐらい揉めて
フライング操作
ユーフォー
飛びまくって
灰皿も飛ぶみたいな
灰皿飛んできて怪我するぐらい揉めて
心が折れて
普通の大学に入ったっていう
くだりがあるんですけど
そういうの
そういうのだったら
よりやっぱり負に落ちる
ジャーナリズムに行くとか
じゃあどうしようっていう
感覚の中で
思いついたというか
進んでいったのが
ジャーナリズム
あと芸大の入試が
時期が違ったんですよ
個別学校入試だったんですよ
ただ大学っていうのは
共通テストだったんですよ
分かっちゃってたんですよね
その後に
芸大行きたいみたいになったから
お皿も灰皿も飛びましたよ
そりゃ飛ぶわ
首飛ばなくてよかった
しかも首は飛ばなかったですけど
うちの親は
学校の教師なわけですよ
お母さんが
親戚もほぼ学校の教師なんですよ
うちの親族は
いわゆる公務員気質で
もうそんなの
もう信じられない
そっちの世界は信じられないじゃないけど
そっちは
うちもあったから
どっかのタイミングで僕も話すけど
次受鑑さんに
ヒアリングさせていただきます
そして
陳称一族の
方々における
教師的な感覚で言うと
芸能なんて
どういう感覚でダメだったの
邪道じゃないですけど
とにかく眼中になかったですね
選択肢として
うちの親は
子供の夢を全否定するタイプの親だったんですよ
今でいう
独児親じゃないですけど
完全に両親は私の反面教師で
家庭の影響
将来自分の子供ができたら
ちゃんと逆のことをやろうと思ってるんですけど
それでちょっと
自分が曲がっちゃった部分もあって
当時
中国にいたからかもしれないんですけど
なんだろうな
親の言うことは絶対みたいな思想が
強いんですよね中国は
日本よりも
強いので
当時その親に
負けた
自分が本当に
やりたかった夢を終わらなかった自分に
今でも後悔があるし
だから最終的には
私は自己責任論者なんで
自分が負けたから
自分のせいだと思ってるんですけど
どこかしらずっと
引っかかりはあるという感じです
要はその大学に進学したのは
私の意向じゃなかったんで
わかりみが深すぎるけど
いずれにせよ
総合大学というか
はい普通の大学に
上海の大学に進学して
結果的にさっき円って言ってたけど
やっぱり
自分のもともとやりたかったことにも
ちょっと近い分野であるという意味で
そうですね
メディアとジャーナリズム
その学科に広告とか
宣伝とか
あったので大体その学科出た人は
テレビ局のアナウンサーとか
メディアとか
新聞社とか
それこそなんだろう
バイトダンスとか
TikTok
そういうメディアの会社に行く
子がほとんど
なるほど
なつよしさんの場合は
上海から日本への帰国
ジャーナリズムという意味でもだし
もともと自分が進みたかった
芸能の世界にも通じるようなという意味で
ご縁があったし
いろんな事務所に
いろんな誘いがあった中で
芸能事務所に入ったかもしれないです
面白い
なんで辞めようとしたの?何年間くらいやったの?
会社が
なくなっちゃったんですよね
そっちか 何年間くらいで?
2年間やりました
経営破綻?
国からの取り潰し?
ちょっと
ここは詳細は語れないんですけど
いろいろあって会社がなくなったので
次どうしようかなと思って
上海10年くらいいたから
ちょっと日本帰るか
1年くらいだったんですよ
1年とか
2,3年戻ろうかなみたいな
軽い気持ちで帰ってきて
今に至る
その時は日本語は
使う機会あったの?
10年以上あった中国時代って
基本使わないですけど
私オタクだったんで
漫画とかアニメ見てるから忘れなかったんですよね
ああやっぱそういうのあんねやね
基本漫画とオタクです
外人が日本語を覚えるのと一緒で
あと私は小学校の
基礎がずっとあるから
そこからの敬語とか標準語は
アニメでアップデートされました
なるほど素晴らしい
ありがとうアニメ
お前な
そうですね なるほど今に至る
今に至りますね
なんだかんだずっと日本に行っちゃってる
コロナ前は全然日本に行っても
結構半年間くらい
中国戻って仕事してたんで
関係なかったんですよあんまり
またコロナ禍で
帰れなくなったけど
そうかそういう時も
選択肢としてまた中国に
戻るっていうこともやっぱあり得たし
今までもあり得る
そうですね社会人口の
中国と日本はなんか別に
なんだろう
どっちも拠点
っていう思考回路だったから
どっちにいるっていう認識はないです
コロナ前は
だから
打ち合わせで来週行くとか
それくらいの気持ちで行き来してたので
向こうにも実家というか
モンゴル自治区の家庭事情
家あるし
家は上海からどのくらいなの?
車で1時間ちょい
良い実家があるんで
行き来してたりとか
エアビー取ったりとか
東北って聞いてたから
うちも移住したんですよ
生まれ故郷がうちモンゴル自治区で
今親が住んでるのは上海の横の
理解良かった
そうだよね
うちモンゴル自治区の時は
でも親戚は全員そっちにいますよ
親戚は大体北京か
うちモンゴル自治区に分布してます
顔も
あんまり知らんでっていう人たち
顔もあんまり知らん名前も言えん
人たち
北京からどれくらいの距離
北京ほぼ北京ですね
ほぼ北京
ほぼ北京組か
ほぼうちモンゴル自治区組か
うちモンゴル自治区は
うちモンゴルと北京って横なんすよ
えっと
北京が東にあって
西にモンゴル自治区がある
北京が下でうちモンゴルが上ですね
はいはいはい
モンゴルは
うちモンゴル自治区ってごめんごめん
いつもなんか勝手にだけど
ある種うるむちみたいに
中国内なんだけど
モンゴルに面している
中国領地の中に
モンゴルが自治している区がある
っていう理解なんだけど違う?
違うかも
ちょっと今のごめんなさい
今の説明ちょっと
入ってこなかったんですけど
モンゴルを
パクッと
真ん中で割って
下を中国が乗っとった
って感じです
中国が反対だ
そうですだから中華人民共和国の
中のかつて
モンゴルだった領土
ああそうだよね
じゃああってます
で少数民族は結構少なくて
だから町の様子とかも
普通に中国って感じですね
なんか別に
草原で馬が走ってるとかは
そんなない田舎の方とか上の方
モンゴルに近づくとあるけど
そんなないです
首都ってあるんですけど
首都っていうか
州の
中の
州とかあるんですけど
そこはもう普通に町で
真下に北京があるんで
だいたいみんな仕事は北京に行ったり
埼玉の人が東京来るみたいな
そういう感覚
なんだ
勝手にうるむちぐらい
仮想なところに
全然都会ですね
都会っこだ思ったより
しかも子供の頃しか
4歳までしか住んでないんで
記憶もないっすわ
そこからの夏休みに
おばあちゃん家行くときの記憶ぐらいですかね
町の記憶としては
面白い
結構これで
一旦
陳書夏曜誌
前半をちゃんと聞けた気がする
ある程度ね
全部今に繋がってるんで
もうちょっときっと中高時代に
色々あったんだろうなって
いじめの記憶
感覚はあるけど
色々あったな
色々あったな
それこそ
カンニングの話は
高校の話ですね
あっそうなの
中高両方だな
中高両方だけど
その後半の方が
でも高校は普通のクラスだったんでしょ
そうですそうです
普通のクラスだった
中学後期か
中学後期
3年生
中3の時代とか結構
その時はもういじめはなくなったってこと?
ちょっと良くなってました
なんか情勢が逆転したじゃないけど
あるあるあるよね
やっぱいじめって
マジでドラマみたいな
いじめでしたよ
私がまずハブになってクラス全員
30対1みたいな
目標的が変わったんですよね
変わってみんなが私に
優しくしてきて全員死ねって思った
記憶があるっていう
なるよね
本当に日本の僕は
日本と一緒だね
そうそうそう
ハブルっていう文化が
回転していくような感じ
その時のリーダー
リーダーは
今でも
嫌いですけど
せめて
不運であれって思っちゃう
今不運であれって思っちゃうけど
もういいですけどね
過去の話なんで
面白い
そこでもうちょっとディグりたいが
でも中学校高校の同級生って
めっちゃいるじゃないですか
私自分がいじめられてた子の名前
めっちゃ覚えてるんですよ
他のクラスメイトあんま覚えてないんですよ
あるかも
それだけ強烈だったんですよね
それはあるかも
僕も昨日も思い出してた
いじめられてたやつ
フルネームで覚えてる私
フルネームで覚えてるし
昨日思い出したのは
そいつのお父さんのことも思い出して
不運になったから
僕はグヘッて思ってた
鮮明にフルネームで覚えてるのは
いじめられてた子と
好きだった男の子
とかは鮮明に
フルネームで言える漢字も書けるみたいな
でもそれ以外の
クラスメイトの名前は結構もう
消えてきてるというか
仲良かった人としてもね
あと仲良かった友達ね
3種類ですかね
人生最初の記憶と
一緒やね
強烈なものしか残んない
面白い
一旦聞けたから
今回はここまで
また次回
また
どうしようかな
どっちにしても聞いていきたいと思います
じゃあ次はバトンタッチということで
私からインタビューさせていただきます
ありがとうございます
では眠らない
38:34

コメント

スクロール