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小学校の頃、台風の後、まだ下水が完備していなかった頃は、よく水が出て、道路が川みたいになって、そこをうちの裏である材木でイカダを作って、イカダで道路の上を漕いだ、そういう記憶があります。
あと、池がうちにあるんですけどね、あの池が水で溢れて、鯉が逃げ出しちゃって、近所の人から連れて戻してくれたりとか、園の下に入っちゃって、いなくなっちゃったり、そういうことが、確かね、小学校の低学年の頃だと思うんですけどね。
今は、もう下水がほとんど完備したから、そういうことも全くなくなっちゃったけど、当時はたまにそういう大きな大雨とか台風の後は、よく水が溜まってたっていうことがありました。
子供だったんですか。
まあ、そうですね、大人は大変だと思ってたんですけど、子供はそういう…
イカダで遊んだって。
街の中で遊んだっていう、そういう記憶と、あとなんですかね、そうですね、それが一番小さい頃の思い出として強いのは、そういうあれが強かったですね。
ちょっと小さい頃、ずっと、そうですね、そこは遊学って、我々が小学生、はい、小学校入った頃にちょうど、入って翌年かな、昭和33年の3月31日ですか、赤線防止法って遊学が禁止になって、
そういったお店はみんな営業できなくなったんだけど、まだ街角に、街角っていうか、家並みの中にスマートボールとか射的屋さん、ああいうお店がまだ残ってて、
僕ら子供だから理由が分からなかったけど、後でよく考えたら、ああいう花町っていうのはそういうね、温泉街と同じですよね。温泉街もいいかもしれない。
いながらのお酒屋はこういうスマートボールみたいな、こういう、ビーンってやったやつ、ボールが、どっか入ると当たりとか、あと射的とかね、そういう遊び場が、普通の下手の路地、通りに面したところでまだ残ってて、
そこの道路の前で、チョークでベースを書いて、三角ベースって言って、セカンドなくて、一塁と三塁とホームで、ゴロ野球って言ってね。
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投げ野球じゃなくて、下を、道路を転がして、バットもだから道路上でポンって、路地でね。車はもう滅多に走ってこなかったから、あんまり道路で遊んでても、車に邪魔になるってことはなかったですよね。
そういう時代がありました。
あと何があったっけな、あそこの北千住の大踏切の上に、今でもあるんだけど、歩道橋があって、電車が来てる間、遮断器が閉まってから、みんな急ぐ人は歩道橋渡ったんだけど、
まだ消防、蒸気機関車が走ってたときは、蒸気機関車の煙を浴びるんで、上で待ってた蒸気機関車がボポボポ来て、真っ白になって、見えなくなっちゃう蒸気です。
そういう遊びもしたことある。
すすらあるやつは煙ですね。真っ白い煙でしたね。そういう単純な遊びです。
面白そうですね。
学校、この辺は、この千住第三小学校って今の双葉小学校なんですけど、双葉小学校っていろは通りから20メートルくらいですから、ちょっと奥まってるんですよね、学校の校門が。
だから、学校の通りから学校の校門までの間に、下校のときに、下校時になると、いろんな業者が粘土屋さんというのは、粘土に型があって、そこに粘土を詰めて、金粉とか色々塗るんですよね。
それをおじさんに渡すと、出来栄えによってポイントをくれるっていうのがあったり、あと大根鉄砲とかあって、そういう簡単なゴム鉄砲みたいなやつとか、
あと吹き屋、吹き屋で持ち網に新聞紙つけて、そこに的をつくって、
吹き屋で吹いて、いいとこ当たるとまた点数をくれるとか、景品もらえるとか、そういうのもね、入れ替わり、確かり、学校の下校時に校門の前に来てました。
10円、15円の世界だからね、どうやってたんですかね。
でも当時物価も安かったから、それでなんとか生活成り立ったのかもしれない。
そういうのとか、あとはこの近所、駄菓子屋が山のようにあったから、駄菓子屋さん、学校の、毎日のお小遣いが5円とか10円の時代だったから、
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その駄菓子屋さんの奥がだいたい文座、この辺ぼったやつって言うんですかね、文座。
あれ、ぼった、ぼった、この子、先生はぼったって言ってましたね。
ぼったやきって言って、文座なんですけどね。
子供たちだけで、お店の奥の雑誌系屋があって、そこでお好み焼きを、文座焼きです。
文座焼きって言っても10円、20円のやつだから、今みたく上等な具が入ってなくて、
うどん粉とキャベツがちょこっとと、あとイカがちょこっと入ってるぐらいでね。
あとはソースでね、今から思ったら5円10円で十分ぐらい。
それを年中食べてましたね。
あとは紙芝居。
紙芝居。
紙芝居のうちのすぐ裏の路陣等で、何回くらい来てたんですかね。
週に3回か4回、2、3回来てたんですかね。
それでやっぱり、変な駄菓子とかありますよね。
梅ジャムとか、ありがとうございます。
梅ジャムとか、あいの塗ったごせんべとか、あいの食べながら、
おじさんの紙芝居を見るというのがよくありましたね。
これも当たり前にあったから、ずいぶん前になくなっちゃった。
あと何があったのかな、子供が。
こんばんは。
はい、ありがとうございます。
あとは、
第3があって、我々第3で、すぐ近くに第6ってのがあって、
でも他の学校の生徒と何か交流したって、私は記憶ないですね。
やってた人もいたかもしれないけど、
あの頃は、僕らの時代でも減り始めたんだろうけど、
それでもだいたい1学年6クラスあったから、
52以上いて6クラスだから、1学年で300人いましたね。
それが6年だから、
1500人か2000人、今は考えられないですよね。
今、全校生徒でも数百人ですよね、100人、200人だから。
当時そのくらい子供たち多かったから、
悪さするのは悪さしてたし、あれですけど。
ちょうど、
こんばんは。
はい、ありがとうございます。
ちょうど小学校入って2年、3年くらいから学校の建て替えが始まっちゃって、
あの頃はもう学校を壊して建て替えるって言うと、
3年くらいか3、4年かかったんじゃないですか。
だから一度も小学校で運動会やったっていうのをほとんど記憶なくて、
全部土手でやってましたよね、運動会。
いつも工事現場になってたから。
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あの当時は基礎でも何でも音がでかくて、
ドッカンドッカン、基礎を掘る音がすごい音でね。
小学校時代よく勉強頭、言い訳ではないけど、入らなかったよね。
それで根拠になったんですね。
僕らの卒業する年か、卒業前の年か、それぞれくらいまで工事やって、
今の工事はずっと後にまた建て直したから、
もう2、3回建て直したんじゃないですか。
ただ昔の写真見るとあそこずっと畑だったんですよ。
あれ畑の中植えてたんでしょうね。
今国土交通省管轄だからね、各国に振り分けてやって、
千代田区とか台東区のグランドになってるから。
お風呂でも敵屋さんみたいな人多かったから、
柴本の虎さんじゃないけど、タイプの人が結構多かったから、
お風呂の中でシンパの一番目もここにお風呂に入りながら唸ったり、
酔っ払ってくるんですか。
いやいや、まだ明るい時間に来てね、いつも同じ場面で、
バンバの中太郎とかってそういうシンパらしいんだけど、
その一番目、毎日同じ場面でお風呂に浸かりながら喋ってる。
だからそういう、何て言うんですかね、
住民も今とは。
全然違いますよね。
全然違いますよね。
町小判だらけだったから、結構みんな…
荒っぽい人たちが多かったんですか。
まあそうですね、今言ってね、それこそ敵屋さんみたいな、
浅草のホトリ様のこういう、
あんじゃないですか、こういうホトリ様の飾り、お飾り、
ああいうのを家で作ってたりとか、敵屋さんって言うんですよね。
ああいう人とかがいたり、あと町小判だから、
みんな家の中にこういうベルトが、真ん中にこんなものを作って、
仕事があって、汗まみれ、油まみれでお風呂に来てね、
汗流すっていうのが当たり前だったから、
そういうお風呂に入る人は今の数十倍もいましたよ。
お休みなさい。
お休みなさい。
そこの入口のところに、七福神で宝船が乗っかってるってあるんですよ。
入口の上に降り物。
あれは、あれを最初から宝屋って名前はもう決まってたらしいんだろうけど、
そこの門のところでお客さんが通ることによって、
幸運になるようにとか、宝くじに当たるとあれでしょうけど、
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ご利益、ご利益があるように。
そういう意味も含めて宝屋って、
おめでたい名前、この先にあった古屋が小宝屋って言うんですよね。
小宝屋って、子供の宝って書いて。
別にうちと関係ないんですけど、
うちが宝屋で、向こうが小宝屋にしてるんだから、
あとこっちが大国屋でしょ。
おめでたいね、七福屋のニコニコ屋っていうのが、
ここは金の屋でしょ。金の屋って書いてある。
そういうのか、そういったおめでたい名前を付けるのが、
あれだったんじゃないですか。
最初の開店の時の写真を見ると、
そこののれんは古いうかんぶりの宝って、
古い宝くじなんですよ。宝屋って書いてあって、
煙突はカタカナで宝屋って書いてあったから、
いつの間にかでもカタカナの宝屋が普通にあれになってたんですけど、
当初は漢字でやってたのかもしれないですね。
その時、80年前に作った反転があった。
それはカタカナで宝屋って書いてあった。
親父も7人兄弟だった。母も6人。
母方はずいぶん長生きしたけど、
やっぱり人の死が一番びっくりしました。
あと何だろう、僕ら16歳の時にまだ軽自動車の免許取れたから、
軽免許って16歳、高校生の時にも、
軽ですよ、小さいよって。
360ccまで乗れる車を運転できたから、
車の運転をどうしても早くしたかったから、
学校授業早引きしながら、自動車学校に通って免許取った。
そういうことはありまして。
あれから数年して軽免許ってなくなったから、
18歳に引き上がって戻られちゃった。
昔はバンダイだったからね。
こういう形式だと乗るのもそんなに抵抗ないけど、
バンダイだと最初に乗るときに抵抗があった。
今はこれだと誰が乗っても乗りやすい。
バンダイのときは高いしね。
子供のとき?
そんなに子供のときじゃないですね。
高校かその先ぐらいですかね。
そんなに前じゃないですね。
そんなに若いときじゃないですね。
下町部隊に、アパート部隊に撮影して、
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夜中の一時何分からやるドラマですけどね。
あれは何回かやるんじゃないですか。
ちょっと奥の方。
イルハ通りの奥に入ったところの家を使って、
地方から上京した女の子のテーマで。
ここをやたら北千住というのを台にしたね。
いろいろドラマを作ったりとか。
いろいろそういうマッチを抑えて1位になって、
それから急にいろんなマスコミがドット特集を送るようになって。
何かあったね。
そうですね。秋葉原も多いですね。
秋葉原も多いし、秋知も結構廃校になった学校が。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。秋知も結構廃校になった学校が。
学校が廃校、子供の学院に行ってた学校はやたら当廃校で、
秋以降になっちゃって。
そこへ府庁が大学誘致し始めて。
提供の男だよね。
提供科学ですよね。
駅前のこっち側が芸大で、
東宇寺の駅前が電気大学で、その奥が未来大学。
放送大学というのが図書館の上だった。
放送大学。
今は5校かな。
放送大学というと5校で、
来年竹の塚に文教大学とかね。
行け行け。
花畑か、あそこの団地の中に大学が。
6校くらいになって。
今まで大学の頼んじもなかったもんね。
この5、6年で急に6校も増えてきてね。
お年寄りだらけ。
若い人が増えていく。
これからも増えていく。
13歳のおばあさんが男子を引っ張って歩いてる街だったら、
急に若い姉ちゃんが、
カップをするようになって。
インタかアリータか。
そういう街の変遷というか、
あとは一番、
ここの今、そこに一歩ずつ、
ここの今、そこに一歩先に商店があって、
一番右こっち側は名工会。
それからニコニコと商店街。
その先がいろは通り。
出ると日光街道なんですよ。
国道4号。
その国道4号のところに、
都電の終点があったんですよ。
なんで終点かというと、
そこから今度坂があがって、
新橋渡らなきゃいけないから、
都電は電気上から取るじゃないですか。
橋の上なんかできて、
橋の上とかあっちまでは電気しかなくて、
そこが終点だったんですね。
だから、僕ら北千住は遠いから行かなくて、
みんなどこ行くんでも都電で行ったんです。
上野行くんでも寛大行くんでも。
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水田郡行くとか、
何個か行き先あって、
そこから乗り換えて、
また都電で、
中央に行ってたんです。
だからこの商店が、
すごい人通り多くて、
駅前の商店街ぐらいにお店が多かったし、
3つ商店街、
この1本の道に3商店街あって、
みんな全部お店やってたから、
すごい人があってました。
それが水戸さんって、
都知事の時代に都電を撤去して、
その途端に、
この商店街は、
途端でもないけど、
もう串の刃が抜けるように、
みんな商店街が住宅街で、
お店やってるの数件しかないんですよね。
名前は商店街って書いてあるけど、
商店街じゃないですね、住宅。
逆に駅前の商店街にあったフレアも全滅。
全滅は失礼だけど、
全部マンションとか、
おフレアやってるのばからしい。
合わないから、
みんな商店街にあったフレアは、
駅前の宮殿にあったフレア全滅しました。
そういう言い方は失礼かもしれないけど、
全滅じゃなくて、全部。
一軒だけ廃業したまま、
建物残ってるところがある。
あとは全部マンション。
こんばんは。
はい、どうぞ。
やっぱり街の様子も、
どんどんいろんなそういうことに変わって。
そういう都電があった頃は、
古き良き時代で、
どこへでものんびりゆっくり、
してた時代ですよ。
さっき言ったように、
車も十分の一も走ってなかった。
どんどんのんびりしてた。
車の増額とともに、
とても邪魔になって廃止されちゃってね。
そしたら、
あそこ日光街道もね、
昔は商店もずいぶんあって、
残ってたんだけど、
この十数年前からやはり、
マンション業者がね、
どこ行っても同じような街並みになっちゃいました。
前は結構いいお店がね、
何軒も残ってたんだけど、
もう今、本当になくなっちゃった。
ただ、車の通過点みたいになって、
店がなくなっちゃいましたね。
でも結構、駅前のところにあった、
伊東洋化堂って、
あそこの北千住店、今ちょうど壊しちゃったけど、
あそこが発祥の地なんですね。
一番あそこ、第1号店。
一番あそこが1号店。
よくおばあちゃんに連れて行って、
洋化堂で行って、
平屋の平屋だったな、
お店に2軒くらいになると、
よくセーターとかね、
ちょっとシャレたっていうか、
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子供の頃、小学生の頃からなんか、
おばあちゃんに連れて行って、そこで。
あれがそのセーターだったからね。
そしたらその時、
洋化堂とどこかに似たような名前があったらしくて、
社長が伊東まさしなんとかっていう社長だったから、
それで伊東洋化堂って名前がついて、
それからもうね、
八区の医療機関、八区の医療機関、
日本全国制覇した。
今ちょうどあそこ、全部壊して、
今度、自分なんか建て替えてますね。
もう工事始まっていくから、
今度はもう食料品だけしかやらないんじゃないですか。
今あそこの家具屋さんできましたよね。
家具屋さんできましたよね。
家具の、何でしたっけ、
二戸階段のところに、
家具、役所の斜めの前に、
家具、家具が、家具の、
二鳥。
ありがとうございます。
あとそのすぐそばにある釣り部屋が、
常習屋の発祥の地です。
常習屋も来たね。
結構ね、
大きいところがあるんですけどね。
タコ公園の前の、あそこに行ったんですか。
あそこでいろいろやった。
芸大の熊倉先生とか、
ご存知ですよね、熊倉芸大の先生。
芸大の卒業生結構いますよね、たくさん。
います。
ものすごいお年寄りで元気な人とか、
この辺とかで、
何か覚えてるみたい。
今もう一人、
今問題にいる彼女の方がいるんですけど、
今出てきたら聞いてください。
この間ちょっと話聞いた。
でもまだ。
小学生1名と、大人2名と、
中学生1名です。
今日お安くなってますから、
小学生の方100円で。
大人が2名。
大人2名ですね。
それから中学生。
同班の方がいいんですか?
はい。
中学生1名。
中学生300円ですから、
中学生は100円。
400円。
大人の方は360円。
720円と400円だから、
1160円。
120円。
ドライヤー使うから、
200円にしといていいですか?
はい。
80円。
80円10円玉で持っていいですか?
ドライヤー結構使うので。
はい、どうもありがとうございます。
24:00
はい、どうぞ。
そこで待ってるんでしょ?
帰る帰る帰る帰る。
りょうたんは1番から。
はい、どうも。
ありがとうございます。
まっちゃん、
あの人と話したよ。
あの人と話したよ。
まっちゃん、この辺で年取ってて、
偉い元気な人いるから。
まあいいよ、いいよ。
80だもんね。
元気ですよ。
ちょっと待ってると出てきます、今。
出てきます、出てきます。
草加さんね。
草加さん今ね、まだ裸だけど。
ちょっとあと20分、15分か。