アブダビにいて、日本に帰ってきた時にいじめられたんだよね。
日本で?アブダビじゃない?
アブダビでもいじめられたし、日本でも、あの人ってアブダビっていう変なところから帰ってきたし、信号とかもなかった国なんでって、でも勉強はできるみたいな、あの人嫌みたいな、そういうのもあって、
普通の自分を出したら嫌われちゃうんじゃないか。だから抑えとかなきゃいけない。
でもそこで僕もアメリカですごいいじめられて、で、クラス一番ちびだったんだけど、帰ってきたらそれでも一番ちびだったし、いじめは下手だけど、でも帰国史上っぽいところは近いよね。
いじめられるよね、何かとね。
日本ってちょっと変わってるといじめられるよね。
いじめられるっていうか、本当にこうなんだよバカ、なんとかっていうんじゃなくて、ちょっとこう煙たがられるっていうか。
僕も夏だけは、うちの岩手のおばあちゃんのときに、アメリカって夏休み3ヶ月あったので、1ヶ月だけ岩手に行って、岩手で日本の小学校とか行って、もう後ろから、This is a pen?とか言われて、もう外国人いないから、だからいじめとはちょっと違うけど、すっごいやな気分になるんだよね。
そうなんだよね。だから、そういう意味で、どこか世界で、日本じゃ自分が会わなくても、世界に行けばどこかで会う国がある、みたいな感覚は、小学校のときから持ってたかなっていうのはある、今は。
なるほど。じゃあその後ずっと日本で日本の大学出て、就職してっていう感じだよね。
だけど、そのときにオーストラリアに1ヶ月行ってみたり、大学のときにアメリカに行きたいって父に言うわけ。だけど、そしたら父が、英語を勉強しにアメリカに行くのはダメだと。そうじゃなくて、これをやりたいから、それを実現するにはアメリカじゃないとダメって言うんだったら、行っていいと。それができたら留学させてあげるって言われて、えーって言って、それが答えがなかなか見つからなくて。
で、社会人になって3年目ぐらいのときに、あ、やっぱこれで見つかったと思って、これで留学します、みたいな。で、留学したから。
そっか、それ何の理由でどこに留学してたんだっけ。
え、ジャーナリズムを勉強したり。
そこでライターになるのね。
うん、そうなの。だから、大学のときからいつか隙を見てって思ってたんだけど。
なるほど。それって日本卒業してから?
日本卒業してから。
日本卒業してから、日本大学。
それで行って、帰ってきて、ジャーナリストをやって。
うん、帰ってきて、ジャーナリストやらなくて。だから、アメリカ行って、ニューヨークで1年間、インターンでジャーナリスト、まあやったんだけど、ジャーナリストもどきみたいなことをやって、で、でも私はアイラの記者になりたかったから、日本に帰ってきたわけ。
それで、朝日新聞の中途採用に応募して、で、その頃に、須賀くんはニューヨークに住んでて、で、チョーキちゃん、なんか起業しようよ、ネットで、みたいな。
それ何年?いつ頃だの?
え、1998年とか99年。
じゃあ、ちょうどインターネットが盛り上がってる。
そう、盛り上がってるとき、アメリカでね。で、だから、こんな盛り上がってるんだから、やろうよって言って、そういう怪しいのは嫌だから、私はもうジャーナリストになると。
でも落ちたら、まあやってもいいよ、ぐらいに落ちるつもりなかったから、で、言ったら落ちちゃったのよ。で、どうしようって、ちょいやろっかって言って。
ああ、そうなんだ。
そうなの。
で、そのとき2人ともニューヨークで、でも事業しようって言ったときにはもう動いたの?
私が一人で戻ってきた。
でも、えっと、事業計画はニューヨークに居たときに書いたの。だから、事業計画は全部英語で書いてるの。
私が一人で。こうかな、かな。
で、アメリカでやろうと思ったの?アメリカでお金集め?
うん、アメリカではやろうと思ってない。
せっかく英語を覚えたし、ジャーナリストだから英語で書こうってそういう感じなの?
あのね、そのときはやっぱり考えるのが英語になってて、で、っていうのは、アメリカのさ、ベンチャーがどんどん、PRタイムズみたいなのにこう1日100件、200件上がってくるから、
それを全部記事を見て、このベンチャーが面白いんじゃないの?っていうことを京都通信で記事にしてたから。
自分の頭の中が英語になってる。
頭の中が英語になってるから、だからそれのあれでなんとなく英語で書いてたね。
で、それもうそこでいきなりロックワークができちゃうの?
で、じゃあ立ち上げようと思うから、日本に帰るねって言うと、私一人で日本に帰って、で、諏訪君とそのときシステム作ってくれてた京都通信のシステムの担当の人は2人ともニューヨークで、私だけ日本に帰って。
で、もう最初からビジネスモデルはこのクリエイターのネットワークで云々かんねんって、そこはもう最初から。
そこは変わらないの。
変わらないの。で、なんか前聞いた話だと、この話、外に出ていい話か分かんないけど、お父さんの友達にビジネスの相談しに行ったらあんまりこう応援してくれなかったみたいな。
そうそう、そのときは、頭の中はニューヨークのベンチャービジネスの雰囲気を、だからベンチャーやりたいって言ったら、さぞ応援してくれるだろうなって思ったわけ。
それで日本に帰ってきて、投資家に会ってみる。
で、しかもすあと、かまたくんっていう2人はニューヨークだから1人で会いに行くって言って、3、4人会ったのかな。
で、その中の1人に、その父の知り合いの人がいて、インキュベーションするみたいな会社でね。
父ってほら基本的に好きなことやりなさい。
だけどそれは自分の人生だから、自分がやれることをやる。
親とかは関係ないよねっていう、すごいリベラルな人だから。
で、なんだけど私がこうベンチャーやろうって言ったら、さすがにこう何か自分で応援できることないかなと思ったみたいで。
じゃあこの人に連絡してみるねって言って、父の紹介で会って。
で、そしたらお嬢さんって言って、花王に戻りなさいと。
ベンチャーはそんな甘い世界じゃないから、ナンバさんとか楽天のみきたにさんとか共通してることは知ってるって言って知りませんって。
東大とハーバード出てることだよと。
それを出てなかったらベンチャーはうまくいかないんだよと。
僕が本書いてるからそれにサインしてあげるからって言って。
私六本木だったんだけど、その会社が。
もう涙が出てきちゃって。
お父さんに申し訳ないやら、情けないやら、でもそうじゃないんじゃないかって思うやら。
もう人に会いたくないって泣きながら帰ったのを覚えてる。
はじけるか、はじけないかぐらいだったと思う。
2001年だよね、多分、AOLタイムワーナーでこう、ドットコムが終わるっていう。
そのちょっと前だよね。
ちょっと前。
僕もちょうどお金集めて、おっきいオフィス偉そうにしてた。
そうそうそうそう。
一瞬のこう、ちょっと思い出したんだけど、その風景も。
そうそう。それで、右肩上がりの全く根拠はない、その事業計画だったり、いろんなものをとはいえ、数々の投資家に言われたこととかをこう反映して、で、資料を作って、で、あとでも自分だけだったら怖いから、北野さん?
で、北野さん横につけて、北野さんついてきてって言って。
北野さんというのは、ソニーコンピューターサイエンス研究所の代表取締役、北野裕明さんのこと。ロフトワークとはいろんなお仕事を一緒にしているみたい。
北野さんとはどう繋がっているの?
北野さんとは、別れた旦那が仲良くて、それで紹介してもらってとかっていう感じだったかな。
なるほど、そうだね。
そうそう、それで私も、今でも忘れないんだけど、上尉に、あの事業の説明をしようと思いますって言って資料を渡したら、上尉、ピャーって、ピュルルルって言ったら、ほって、もうそれ見ないで横に置いちゃって。
多分日本語は読めなかった。
そうなの?それを何年もして、あ、日本語読めないからなの?って後で気がついたんだけど、そんなとしかいなかったから、もうピャって開いて、目を見て、何やりたいの?って言われたら、もう何にも言えなくなっちゃって。
私ね、人生の中で言葉が出なくて真っ白になっちゃったのは、あの時だけ。本当に。そしたら北野さんがアルゴリズムを使ってクリエイターとなんとかととか言って、アルゴリズムって何だろうって思ったのを覚えてる。
なるほどね。この辺の話って千明ちゃんから何回も聞いてると、だんだん自分の記憶がそれになっちゃってる。どこまで本当に覚えてるかなんだけど。でも確かに代理店が間に入ってて、クリエイターたちがいて、それを直接つなぐとみんなハッピーだよねみたいなモデルで。
今ちょっとモデルは変わったけど、結構僕もずっと広告代理店の下で、デジタルガレージの元々のカウルの元祖は広告代理店下請け業で、そっから直接クライアントのIT企業とやるようになって伸びたの。デジタルガレージだったので。
その時なんとなく代理店から直に行くのって、いろんな意味でメリットあるなっていう話はすごく刺さったような覚えはあるんだけども、ただやっぱりモデルがね、ちょっと事前事業っぽかったんだよね。
ビジネスモデルじゃないからね。代理店だけが日本の中でクリエイティブなことをやりたいって言ったら、じゃあ代理店、あるいはその下、それしかほぼなかったから、それを変えたいっていうのはビジネスモデルじゃないよね、なんのね。だからよく出してくれたなーって思う。
そう、だから確かNPOだったら寄付するけどって、でもあの時もいろんなNPO助けてたから、なんかすごいミッション性は強かったので、それでも集まるんじゃないかなっていうふうに思ったんだけど、でもはっきり言ってそんなに伸びるとは思わなかったんだけど、でもすごかったよね。毎年10倍だったよね、最初の。
だってさ、最初の1年目は数十万、次数百万、次数千万だからさ、それはさ、桁が変わってくよね。だけど数千万、数億ってなったらさ、急にね、変わらなくなるからね。
でもすごかった。で、ちょっとそのロフトワークの事業を少し、そこから今の話につなげる。
で、そういう形でロフトワークっていうのを2000年に作ったんだけど、基本的にはクリエイターって言われているクリエイティブなことをやる人たち、この人たちが今も数千人規模でデータベース化されていて、で、あとはそれに対してクライアントっていうのがいて、
で、ロフトワークはそのパートナーとして、つまりクライアントの前にいるのか、後ろにいるのか、横にいるのか、どこにいるんですか、ロフトワークはって聞かれたときに、横なんだよね。
つまりクライアントの前にいる人っていうのはコンサルタントだよね。こうやったらいいですよって。で、後ろにいる人たちはさ、いわゆる決めたらそれを実行する政策の人たち。
だけどロフトワークは横にいて、何の課題感じてるの、その課題って何が根本の原因なの、だとしたらこういうサービスかな、こういうサービスがその人たちに刺さるかなっていうことを一緒に考える。なんかそういう立場っていうのはずっと変わってないかなって思って。
ただ元々、北野さんじゃないけど、アルゴリズムっぽくやろうっていう話もあったけど、結局は人間関係がメインになってるよね、信頼関係とか。
ただアワードっていうので、ネットでつながるっていうのもやってはいるけど、でもまあ信頼関係がベースにはなってるから、代理店と一緒になっちゃうんじゃないのってなんか上位に言われたじゃない。
自分たちも代理店になっちゃうんじゃないかって。
アワードっていうのはすごく意識していて、でも代理店をなくしたいっていうロフトワークの存在意義っていうのは、やっぱり代理店に似てはくるんだよね。
そうだよね。その穴をこう。
そう、埋めるわけだから。
だけど、やっぱり明確に違うなって思うのは、広告の代理はしてないってことなんだよ、全く。そうじゃなくて、クリエイティブなことを一緒に作る仲間だから、やっぱりそれは広告代理店とは似て器用がないところはあるね。
そうだね。だからそのビジネスモデルによって最適化される部分がずいぶん違うよね。
投資家と起業家という関係で出会ったジョイさんと林千秋さん。来週は一緒にプロジェクトを立ち上げたお話を伺います。