だから僕はこのフィロソフィーとか美学を今のAIの技術を作っている人たちにちゃんと表現できるような形をしなきゃいけなくて、
そこで多分日本の縦割りがまずいと思うんですよね。
だから僕は今千葉工業大学というエンジニアの学校の学長をやってるんですけども、
お茶室を今度作るし、どんどんどんどん日本美学をエンジニアに分かる場面を増やそうとしていて、
彼らがそれを感じてテクノロジーに表現する。
今だと結局海外のカンファレンス行って、どっちかというと海外の美学のもとに今細かいパーツを作る話してるんだけど、
もうちょっとそもそも論のところで表現する必要があるんじゃないかなと思ってますね。
なるほどね。伊藤さんがそういうことを言われるのは面白いですよね。
やっぱりMIT経由でそういうところに入ってくるところが面白いですね。
やっぱり外に行った人ほど日本の真ん中に吸収力を持っている感じがするんですよね。
いっぱい入り込まれちゃってる感じがするから。
伊藤さんのそのMIT経由と日本の中に入り込み方っていうのがやっぱりちょっと僕は面白いなと思ってるんで。
その辺の話を聞けたらいいなと思います。
面白いのはMITも結局その科学技術とエンジニアリング、だからMITも最初できた時ってそんなにエリート大学じゃないんですよね。
エンジニアで工場で機械がぶっ壊れた時に直しに行くオーバーオール来たおじいちゃんたちが彼らがエンジニアだったんですよね。
でだんだん科学技術ってすごいパワーになって、そしてそのバウハウスみたいな感じでミニマリズムにいって、
確かこれ噂かもしれないですけど僕がペンタグラムの人に聞いたのはフォントのくるってついてるセリフを外してヘルベティカにして、
ヘルベティカのフォントをもう学校のフォントにバーンってやるのはこれ結構ブルータルなミニマリズムで、
エンジニアなんだからもう全部科学技術と理論でいってその無駄ない色とか無駄なくるくるとかそういうアーツはもういらないと。
それはだからシンプリシティとミニマリズムで、なんか僕は今来てるのがその先にあるもう少し自然をちゃんと吸収できるけれども、
エンピティな原田さんの日本美学の時代になってきてるんじゃないかなっていうふうに思っていて、
そこを僕だからMITのこのバウハウスから新しいエステティックに変えてそこを日本から表現できないかなっていうのを技術のレイヤーで考えてるんですよね。
でもそこまでそういう我々の持ってる美学の時代と言われるとちょっと重はゆいし、
そういうふうな大げさのもんじゃないような気もするんですけど、日本の面白さっていうのは世界の中心にないっていうところなんじゃないかな。
だからその僕らは世界の中心ですとか、僕らの思想が世界を救いますとか、今まで日本人はちっとも考えてこなかった。
ピンセットでつまんでヨーロッパに持ってくると結構でかいんですけど、小さい島国、小さい島国でずっと持ってきた人があって、
アジアの端だし田舎だし中国の中枢からするととんでもない遅れてるって感じがずっとあって、
そういうところのアジアの包ましさでご飯粒一つも残さないみたいなそういうような神聖だと思うんですよね。
そういうものがある意味では機能するとすると、それはそれで慎み深くそれを表現すればいいのかなっていう。
だから世界を石鹸する思想になると僕は思わないんですけども、日本に行くとそういう感じがあるなっていうようなことを感じてもらえればいいかなとは思いますね。
そういう意味で言うと原作のように僕ね、日本って戦略がうまくないと思うんですよね。戦略的にガンと動こうとすると変なことになったりするし、
国の中もそんなに戦略的じゃないと思うんですけれども、たださっき原作が言ったように僕はシルクロードのデッドエンドだと思ってて、
いろんなものが入ってくるけれども、それを食べやすくしたり猛虫みたいに保管してたりする。
中国でなくなっても日本にはまだ残ってたからまたもらいに来るとか、だからそういう意味で言うと日本ってすごいリソースとしては重要で、
そしてもう一つはこの日本の拡大がなくても生きがいを感じるのって、ベンチャーを作ったり大量生産で世界とコンピートしたり戦争をするのにはあんまりいいストラテジーじゃないんだけども、
世の中がボロボロになっている時ってとても重要な美学だと思うんで、日本が戦略的に世界中に売り出しに行くのは難しいかもしれないけれども、
この日本の美学に響いて1850年ぐらい、オカクラ天神とかがボストンにいた時代って、
アメリカの南北戦争の後でギラギラなギルデデイジになって、この日本のシンプリシティにみんなすごくニーズを感じて取りに行ってましたよね。
ちょうど日本が明治時代でギラギラになろうとしてたから、そこにアメリカ人が昔の日本が大事だよねみたいなのがあって、
日本人もそこであまりアプリシエイトしてなかったところに、結構ボストンのピュリタンたちが行って、これいいじゃんって取りに来るので、
もしかすると原作が言うように、一生懸命クールジャパンみたいにやっていくっていうよりも、もうちょっと日本人が淡々と日本人っぽくやっていると、
ちゃんとそれがタイミングよく広がるっていうスタンスでもいいのかもしれないね。
そうですね。あんまりたくさん語りすぎちゃダメで、できるだけ何も言わないぐらいの方が、つまり誤解される力っていうか、
勝手に日本に対する幻想を抱かせる力っていうか、そういうものがあると思うんですよね。
確かにすごい下手ですよ、日本の人たちは。自分たちが何も自分も含めて分かってないし、それを説明するのがずっと下手だ。
戦後80年近くになりますけども、工業立国をやってたまたまうまくいったもんだから、文化を変える暇もなくて、
お茶を立てたりとか、寿司を握ったりとか、折り紙を折ったりとかっていうのは、みんなにワオって言ってもらうためのなんかちょっとエキゾチックなテクニックだったりするわけで、
それが文化だとは思ってないですよね。だからそういうところに実は日本人もいるっていうことを理解しなきゃいけないところもありますよね。
だからもう少し自分たちの文化の根底っていうのがどういうところにあって、そのユニークネスが世界の中でどういうバリューを持っているのかっていうことを、もう少し静かに考える必要があるかなと思う。
原健也さんは講演や著書などで次のように述べています。
日本の美意識は未来を作り出す無形の資源である。
ゴミ一つ落ちていないきれいな空港や東京の夜景の美しさ、日本人の持つ繊細さや丁寧な心配りなど、日常生活から工業製品に至るまであらゆる面で浸透しているこの美意識を資源とみなし、活用することこそが日本の新たな成長戦略になる。
原さんがおっしゃる自分たちのバリューやユニークネス、美意識という観点から突き詰めていけば、答えがおのずと出てくるのかもしれませんね。
この間クマさんと話してるときに、やっぱり彼もアメリカにいたときにお茶を始めたって言ってて、お茶室に興味持ったり、僕も多分離れてて、14年間ぐらい離れて帰ってきて、子供だったとき、若かったからかもあるんだけど、見えないものがだんだん見えてきて、日本人も当たり前だから見えてないんだけども、それを見るとなんか説明したくなっちゃうんだよね。
分かりますね。僕もだから海外に行く機会が増えるほど、やっぱり劣等という場所のユニークネスというか、こういう感性が生まれてくる、育まれる風土っていうのがあって、自分の中では風土っていうものが今すごく大きなコンセプトになってるんですね。
低空飛行なんてのをやってるのは、僕は岡山生まれで18からずっと東京にいるんですけど、日本のことは分かってないんですよ。今でも分かんないけど、つまり日本のつつ裏裏を訪ね回ったこともないし、テレビで見ては知ってるんだけども、日本のことは知らない。
とにかくこの変わった劣等のことをもうちょっと把握しとかなきゃなと。5年くらい前にたまたまコロナだったりもして海外出張がほぼなくなったんで、本当はいけないんだろうけど日本を裏裏押してたんですよね。それで月に1回自分でスマホで動画を撮って、自分で編集してテキスト書いてっていうのを月1くらいでやってると。
今はもう3ヶ月に1回になったんですけども、64ヶ所取材したんですね。64ヶ所取材するとね、それもまだまだだけれども、この国の風土っていうのがそこにやっぱり感受性のヒントがあるんだろうなとは思いますよ。つつ裏裏とよく言ったもので同じ海なんかないし、同じ半島もないし、同じ山もないんですよ。
だから一個一個全然違うし、キー半島なんか行くと本当に巨岩が地面からズドドドドドドっとこう持ち上がってる。まあそこ真下に河口岩があって上に上に押し上げてるもんだから地面がドドドドド上に上がってくるんですよね。だからもうナチの滝なんちゃうのは1枚の石ですからね。あそこドーッと。
だからそういう巨大な自然の猛威を見るとそこにひれ伏せちゃうっていうか、自然を飼いならしてその自然の上に人間の英知をかぶせていこうなんていう気持ちは湧かないんですよね。だからそういう何か至る所に温泉が湧いて時々火山が噴火するし、地震は来るし津波は来るしみたいな。
で、列島の津波っていうのは必ずしもマイナスじゃなくて悲惨なことではありますけども何かを浄化してその清めてくれる感じっていうこともなんか一つの人間の長い歴史と知恵として蓄積されていて、このなんかもう列島に揉みしだかれながら生まれてきた感受性、まあその風土が生み出す感性みたいなものがね、やっぱり今こういう地球の中では大事にされなきゃいけない感覚かもしれないという気もしますよね。
だからそういう意味では僕今日本のことをずっといろんな場所を訪ねては何かそんなことを。だから世界の人がね今日本に行ってみたいっていうのは単にその円安とかね単にその日本のエキゾチズムとかその日本が安全だからじゃなくて本能だと思いますよ。
そういうなんかよくわかんない見たことがない自然の露出とかそこになんかこう営まれてきた古民家があったりとかそういう風情を見てなんか感じたいっていう本能的なものなんじゃないかなって思うんですよね。そういうような日本を日本人も見たほうがいい。世界の人がなんで今日本に惹かれてるかっていうことをなんかその日本の文化が優れてるからみたいなところじゃなくてなんかそこにあるんだっていうことをやっぱり感じ取ったほうがいい気がしますね。
日本の美意識を活用したプロジェクトとして原さんが提案しているのが半島航空。
キー半島や伊豆半島など全国の半島を水陸両用の航空機でつなぎ新たな観光資源を作りたいのだとか。
日本の風土をキャンバスにした原さんによる壮大なクリエイティブディレクション。
日本の美意識を体験を通して価値にするこの構想、いつか実現するといいな。
実際に触ったり体験するというのがなんか情報とは違うなっていうのもなんか僕もすごい感じて、僕もそんなには原さんほど行ってないんですけども、この間も伊豆も行って、
おっしゃる通りなんかお寺と神社は山の上に残ってて、他全部もう何度も消えていってるので、でそのプラクティカルなリアリティとあと建物の感覚もそうだったし、
あと僕も昔は全然日本の伝統芸能とかお茶碗とかって見てたんだけども、あんまりよくわからなかったんだけども、やっぱお茶をして触ってみる、使うと関係性ができると、
そうすると初めて、だから今までは美術館に行って工芸品見ても面白かったけど感動はしなかったんだけども、なんとなく見る目と感覚ができると今度は絵で見てもわかるようになって、
そうすると自分がこうなんかこうソーシャルメディアで投稿してても、わかんない人わかんないんだろうなとだんだん思ってくると、
わかる人たちに絞ったコミュニケーションチャンネルとか、そうするとお茶会とか、でそうするとだんだんこう一生懸命説明するっていうよりも、
わかる人たち同士で集まって体験をするっていうなんかお茶の世界の方がだんだんこう、だから今までなんとなく喋る方がメインだったのが、
今だんだんプライベートでコソコソやる方がどんどん時間の割合が増えてきて、そうするとだんだんみんなにこう伝わらなくなっちゃうんだなっていう。
理球の術中にはまってきてますね。でも思うのはその式年増退ってするでしょ?伊勢神宮とかっていうの。
あれって今喋っててふと思ったんだけど、津波が来て何もなくなっちゃうっていう、そっからまたゼロから始めるっていう感覚とちょっと近いんじゃないですかね。
だから確かにその技術を保存するのは建築を永久に保存するよりも20年に1回作り変えた方が大工の技術とかっていうのは伝承されるというような説明のされ方をしてますけども、
もっと直感的に言うと自然がゼロにしちゃうと。それをもう1回再構築しなきゃいけないっていうことの中にクリエーションを生み出そうとしてるんだと思う。
だからさっきジョイさんはシルクロードのエンドって言ったけども、僕は太平洋のエンドでもあると思う。
だからその伊勢神宮の建築とか見てるとどう考えてもポリネシア系ですよ、ルーツは。
だから太平洋から漂着してきた建築様式をヤシロにしたんですよ。
だけどそれが壊されてもう1回作んなきゃいけない。壊されてもう1回作んなきゃいけないってことをやってるうちに、
それが例えば四季年増大という1300年続いた制度になったとしても、大工は一世代変わるわけですよ。
図面も引き直すわけですよ。全く同じことをやろうと思っても違ってくるんですよね。
だからどれくらい作り直したかわかんないけども、その都度少しずつ違ってくるんですよね。
それは生物進化とほぼ同じようなことで、何かその伊勢神宮っていう日本独特の建築様式がポリネシアからじわじわ変化してきたっていうのは何か。
やっぱりそういう一つのなくなってまた作るっていうことの中に、進化っていうものを取り込んでるようなそんな感じがしますよね。
でも今そう言われてみてちょっと不意に落ちたのが、絶対日本人は壊れた後建て直すのは強いけど、自分で壊せないよね。
だからアメリカ人が入ってきたり、地震が起きたり、第二次大戦負けたり、そういう外でガシャンとやってやけの原になると日本の新しい産業とか生まれて、
でも自分たちで壊せないから今そこがピンチだと思う。自然で壊れてないんですよね、この何十年も。
で円がこんなに安くなってオーバーツーリズムで壊れちゃうかもしれないけど。
確かに一つのこうなんか製造業神話みたいなものがね、一回解体されていくんだろうなとは思いますけどね。
だからそういう未来資源っていうのは日本のフードっていうものの中にヒントがあると思いますね。
そのフードをもう少し説明してもらっていいですか?そのフードってどういうことをフードって呼ぶんですか?美学ですか?
山があるとか、木が生えてるとか、砂浜があるとか、湾があるとか、非常にそのなんか静かな湾もあれば、波の高低差が6メートルもあるような、ある浜に行くと30センチしか高低差がないんですよ。
だからみんなその船屋っていうのを持ってて、船をずりずりっと30センチ引き上げて、でまた次の日ずりずりっと船出して、つまり看板の差がだいたい平均2メートルぐらいなんですけども、2メートルあったら船ずりずりできないんだけど30センチしかないっていうところもあるわけですね。
あるいはマリアッカーみたいな6メートルぐらい。その同じ海なのでなんで看板の差がそんなに違うかと思う。やっぱ海流とかいろんな地形の問題があって。
だから海といっても本当にいろいろある。さまざまな海がさまざまにあやなす海岸線を持ってたりするようなことがやっぱり日本の風土ですよね。
日本って67%ぐらい山林率ですか。だからその木に追われてる率が世界第2位なんですよ。1位はノルウェー。2位が日本で3位がスウェーデンですかね。
日本ってニュージーランドの方が山勝ちなんじゃないかとか、カナダの方は森に囲まれてるんだと思うけども、日本が圧倒的に森に囲まれてて、ごくわずかな平野の中に住んでるんですよ。都市とか作りながら。
そしてそういう森と山の国なのにコンクリートで湾岸を固めてですね、石油とか鉄鉱石とかないものをいっぱい輸入して核防御してきたって。これが戦後、どっちかというとそういう産業に当てがわれちゃった。
ドイツ、そういう産業に当てがわれちゃった日本、そういう産業に当てがわれちゃったイタリアっていうのがあって。
アメリカとかイギリスとかはコンピューティングとか金融とかそっちの方に入り込んでて、なんかひたすら工業やってきた。たまたまそれうまくいったんだけども、長い目で見てみると、なんだか自分たちの本来のフードのあるべき幸せみたいなものをそこから見出すチャンスを少し失って、コンクリートまみれの国を作っちゃったかなっていう気がするんですね。
だからその、僕が言うフードっていうのは本来その国のある自然のあるべきものっていうのが。
この間あるアメリカ人が言ってたのは、ドラウト、水がなくなっちゃうっていう現象ってほぼどこでもあるんですよね。で、日本ってないよねっていう話になって。で、結局ドラウトがあると結構ピンチで。で、日本は地震とかいろいろあるけれども、水がなくなっちゃうっていうのがなくて。
で、日本も多分徳川時代でも何回か看板地であって、食べ物がなくなっちゃう時代はあったかもしれないけど、ほぼないんですよね。で、弥生時代とか縄文だと、とにかくただ自然から食べ物が出てくるような、ポリネイシアも多少そうだと思うんだけども、そういう国の美学と、やっぱり水がそもそもない国って全然違うんだろうなっていう感じもするんですよね。