たべものラジオ
掛茶料理むとう、むとう卓郎です。 むとう太郎です。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、食べ物の知られざる世界を
ちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番組です。
はい、ということで前回が、今週か
ゲスト回を収録しまして、
お店にね、ただいま発行中の小倉平岡さんと石井さんにお越しいただきました。
ということで、この蕎麦のシリーズが終わった後に
配信する予定です。
ので、お楽しみにお待ちください。
あとお知らせですね、総再生回数が65万回を突破しました。
なんか淡々と増えてるというか、フォロワー数も淡々とフォローいただいて
順調に増えております。ありがとうございます。 ありがとうございます。
で、あともう一つ、まだ見てないんだけど、
これが届きました。
これというのは?
今開けてる。何を開けてるんだいって。
あ、いい感じだねこれね。 おしゃれTシャツ。Tシャツ完成しました。
あ、いい感じのオシャレなやつですね。これが
猫のマーク。
食べ物ラジオオリジナルTシャツ。
でかない?それM? これMなんだよ。
あ、おっきいね。 思ったよりでかい。
僕普段S着てることが多いので。 これだったらSでも良かったかもね。
ちょっとM思ったより以上にでかくて。
今初めて見たけど。 なるほど。
一回りぐらいでかいかな、いつも買う。
準備してないから。 してないよ、だって今初めて開けるんだもん。
いい感じだねこれね。 それはそれでいいじゃないですか。
おにぎりマーク。
緑色これも。
なぜおにぎりなのかは聞いてない。
ラゴンマークを作ってくださった西村さんが
またTシャツを専用でデザインし直してくれたという。
これもなんか無償、ほぼ無償でやってもらってて、
いいのかなって感じなんだけど。
また何か返せればと思います。
まだある? 3枚目。
3枚目。
何色って言うだろうねこれね。
オリーブみたいな色。
おにぎりがモチーフなのは一緒なんだけど、こちらはちょっとなんかオシャレ感というか、
一層増した感じだね。
ということでこのTシャツを着て、きっとこの配信がされる頃には先にSKS JAPANで
登壇の時に着てるかなと思っている。
なるほど。
また概要欄に
スズリで買えるので、スズリのリンクページを貼っておきますので、もし気になる方は
ご覧ください。
あとマグカップとかよく分からない、色々展開できるみたいなので、一応マグカップと靴下とかね、
そういったものも公開してますんで、ご興味あればご覧ください。
デザインがいいとね、他のアイテムにくっつけてもそのままオシャレなんですよね。
そうだね。最初のシンプルな猫のマークのやつのマグカップなんかはちょっと欲しいもんね。
そうね、確かに。
2000円ちょっと、だから高いっちゃ高いんだけど、自中生産だから高いのはちょっとしょうがないかなっていうのがあって、
機会を見て買えればなと思ってます。
はい、ということで。
じゃあ前回からの続きいきますか。
ほい。
はい、では前回からの続きです。で、今回は、
歴史に刻まれた江戸の名店。
歴史に刻まれた江戸の名店。
はい。
前回まではですね、
寺方蕎麦、寺から生まれてきた蕎麦切りというものが、
民間の方に広まっていきましたね。
はいはい。
で、普通の蕎麦屋さん、まあ何て言ったでしょうね、剣丼蕎麦という説明をしましたけれども、
比較的安価で食べられるような食い切り蕎麦というのが、
定着していきましたよ、広がっていきましたよという話をしました。
はい。
これと同時並行的にですね、
高級店も出てきますし、その走り手のあるのが、
いやあそこの蕎麦はうめえぞという評判が立つようなところがやっぱり出てくるんですね。
へえ。
で、まあミシュランじゃないですけど、そういうものを当時江戸で
勃興してきた出版文化に乗ってですね、
知事という言い方をしますけどね、地元の、地面の字に雑誌の詩って書いて知事って思うんですけど。
知事?
うん。
地元のことを紹介する雑誌、まあ雑誌がない時代なんであれですけど、現代風に言ったら雑誌。
そういう町の紹介雑誌的なものがあって、そこにここの蕎麦屋さんおいしいよとかそういうのが書かれてくるんですね。
はいはいはい。
えっとね、前回途中でケンドン蕎麦の説明で、江戸カノコという雑誌みたいな本がありましたよという説明をちょっとしたんですけど、
実はこの続編で江戸スナ子という本が出るんですよ。
江戸スナ子?
カノコとかスナ子っていうのは目の細かい柄の子と言ってるんですけど、江戸のことを細かい柄のようにいろいろとつぶさに書き記してありますよみたいな。
そういうたとえでね。
たとえでね。で、カノコ言ったら今度スナ子だと言って、続江戸スナ子みたいなのが出てくるんですね。
続江戸スナ子には著者である紀孝賀専僚がね、この辺の蕎麦がうまいという評判が立ってますよというので何店舗も紹介をしています。
で、今回はその中からいくつか抜粋して紹介をしようと思ってるんですけれどね。
これはこの名店から生まれた蕎麦切り文化っていうのがあるんですよ。
ほー、蕎麦切り文化がここから生まれる?
そう、全ての発祥がそこにあるとは言い切るのちょっと難しいんですけど、
今僕らが蕎麦屋さんで見聞きするようなやつって、あ、そこで生まれたのねみたいなのがあるんですよ。
そうなんだ。
やっぱね、誰かが始めてるやつがあって、それが広がって気がついたらなんかみんな真似してわけわからなくなってるみたいなのがあるんですよね。
ということで今日はとりあえず3店舗かな、メインでね。
で、次回でさらに3店舗みたいな感じで紹介していこうかなと思ってます。
はい。
まず1店目、麹町4丁目のひょうたん屋。
麹町4丁目ひょうたん屋。
たぶん麹町どこかわかる?
いやいやわかんない。
あのあれだよ、今で言う東京のすぐ近くのあたりね。
あーそもそもまあそうか、江戸だから東京ね。
そうそう、あ、そうそう今回紹介するのは江戸知事なんで、江戸史中以外のものは基本的に紹介しないです。
あーそういうことね。
というのもですね、もう皆さん、僕の台本上9話目なんですけど、そろそろ忘れてると思うんですよね。
今回の蕎麦のテーマはなんでまた江戸でこんなに蕎麦が流行ったのかっていうのがテーマなんで。
あーそうだっけね。
なんで他の地域でももちろん蕎麦食べられてるんだけど、やたらと江戸って蕎麦文化できちゃったよねっていう目線で見てるんで、今回は江戸限定の名店を紹介していきます。
はい。
えっとね、出前蕎麦を出したのはこのひょうたん屋なんですね。
ほう。
もともとね、蕎麦っていうのはまあ想像の通り伸びるじゃないですか。
だから出前というよりは来てもらって食べる。
なんなら蒸し蕎麦だからね。
あーそうだね、蒸してたね。
なんですけど、実はこれを逆手に取って蕎麦切りを出前始めたところがあって、それがひょうたん屋というお店らしいんですね。
へー。
まあ他にもあったと思うんですけどね、ただここがうまい蕎麦を出前してくれるっていうので人気になったそうです。
ほうほうほう。
はい。面白いのがね、船切りとか、今だと生船って言うんだけど聞いたことありますか?
船切り?生船?
生船とかって言うんですけど、これね、船って言ってもあの川に浮かべる船じゃねえんだよな。
あ、違うんだ。船ってそっちの船だよね、漢字見ると。
漢字見るとそうなんですけど、四角いバットみたいなやつね。
四角いバット?
うん、今でいう、なんだ、業務用のバットあるじゃないですか。
あーバットね。
はい、あそこになんか食材並べたりしますよね。
はいはいはい。
中華料理屋さんと餃子が並んでるやつね。
うんうん。
あれの木製でできたのが生船とか呼ばれてるんですよ。
ほう。
見たことないか。
えっとね、いやあるよ、木枠みたいなやつ。
そうそうそう、あれです。
はい。
あれって蕎麦売って、で麺作るじゃないですか。
そしたらそこに蕎麦を並べておく器なんですね。
はいはい、まあラーメン屋とかでもあるよね。
あーそうですね、はい。
今プラスチックで代用してるとかなり多いですけど。
うん。
はい。
で、あれが生船って今呼んでるんですけど、昔船切りっていう呼び方をしてたらしいんですね。
ふ、船切り?
船切りかな。
船切り?
うん。
もしくは生船という言葉が出てきた以上は、生じゃない蕎麦を持ってた可能性もあるんですけど。
ほう。
はい、この辺諸説ありですね。
あーそうなんだ。
はい。
というのはこの船切りにですね、蕎麦を入れて出前してたっていうね。
ん、あーこれに入れるの?
うん、そう。
あ、蕎麦をじゃなくて作ったもの?
これに蕎麦を乗せてったんですよ。
あ、完成品を。
完成品を。
へー。
この器に入れてる以上お湯はってるわけなくて。
そうだね。
かけ蕎麦じゃないんですよ。
あーほうほう。
あ、器はそんな中に入れるわけではなくて。
なくて、ここに麺が持ってある。
あ、茹でたやつを?
はい。
へー。
茹でたやつもしくは蒸したやつかなーぐらいの感じですけど、わかんないですけどね。
時代的にこれね、今日紹介してる名店っていつオープンしたかわかんないのばっかりなんですよ。
もうそんな感じなんでね、多分このひょうたん屋さんは、共宝年間くらいじゃないかって言われてるんですよ。
ふわっとしてるでしょ?
ふわっとしてるね。
八大将軍吉宗の時ですよ、共宝だからね。
1716年から1736年という20年の幅のどこかみたいな感じで。
20年だいぶあるね、幅。
長いですよ。だからこの時代だから、まだ蒸しそばの可能性もあるんですね、まだ。
あーそうか。
微妙にね。
でそれを船切りに乗せて、でそれを運んでいく。
でこれね、当時の記録なのでよくわかんないですけど、そば切りを茹でて、べん柄の桶に入れ。
でこのべん柄の桶がイコール船切りなんですよ。
ほー、べん柄?
あ、べん柄?聞くと思ったんだよ。
何べん柄?あ、漢字か。
うん。弁当の弁に、あの柄物の柄ですよね。
うん。
でべん柄とかね、あと当て字でべにの柄って書いたりもするんですけど、
ほう。
もともとこれ、あのべん柄が正しくて、あのインドにね、ベンガル地方ってあるんですよ。
あーベンガル地方。
うん、ちょっと右上のところかな。
うんうんうん。
あのベンガル地方に由来してる名前なんで、漢字がそもそも当て字ね。
ほー、もうちょっとよく由来がわかんないけど。
まあまああの塗料ですよ。
あーそうなんだ。
土系の塗料ね。
はいはい。
で赤茶色のやつになるんだけど、これ見たことあるかな。
えっとね、江戸時代の古い建物、木造の建物だと玄関とか柱とかね、表の格子になっているようなところが真っ赤に見えるところがあるかな、見たことあるかな。
えー知らない。
そういうお店とかね、昔ちょいちょいあったっすけど。
へー。
今でも歴史のある街だという、たまーに見かけることあるかもわかんない。
うんうん。
これがね、そのベンガラという塗料の話なんだけどさ、すごく耐熱性が高くて、で気候の変化にも耐えられるからあまり風化しにくいっていうのでね。
あーそういう、守るための塗料として使われた。
そうそうそう、今だと漆の器の下地とかにね、使われたりなんかすることもあるらしいんだけど。
あーそうなんだ。
まあ器というよりは桶とかだよね。
桶。
丈夫さ求められるようなもの。
ああいったものに使われてるんだけど、このベンガラっていうのも赤く塗られた桶に蕎麦切りを入れてってこれ、桶って書いてあるんだけど、たぶんあのひょうたん屋さん曰く船切りに入れてたって言い張ってるんで、たぶん船切りでしょうね。
で真っ赤な小型の船切りに蕎麦並べて、でとっくりにつゆ入れて運んでますっていうそんな感じかな。
あーそうなんだ。
で茹で置きする文化があって、でこれも出前、でもうひょうたん屋さんは出前専門、基本的に。
出前専門。
うーん。
でいろんなところでこうほうぼう呼ばれてって、じゃあ家を改築しましたーってお祝いでーすなんて言ったら、あのひょうたん屋さんに注文が入ってね。
あーそういう出前か。
うん。
なんか今日頼もうみたいな感じではないんだよ。
そういうのもあったと思うよ。
でも今日頼もうだったらさ、何頼みに行くのに行くじゃん。
うん。
じゃあそのまま食べたほうが早くない?
いやいや、あのね、そういうね、庶民感覚違うんすよ。
あー違うんだ。
10人前とか20人前とかそういう世界なんで。
あーそうなの?
だいたいね、船切りでかいから。
あーまあまあまあまあ確かにね。
そうそうで、とっくり立てでかいとっくりだと思いますよ。
うん。
で、何人前も持ってそれで届けてもらう。
うんうんうん。
っていう感じですね。
そこそこ値段するんで。
あーそうなんだ。
はい。
だってそもそもね、ひょうたん屋さんのある麹町、江戸城に近い辺りなんですよ比較的。
おー。
もうね、あの、言ったら高級地域なんで。
あーまあ富裕層が住んでるようなね。
あの、お城から近いとなんか金持ちが住んでるんだっけか。
金持ちとかね、武士です武士。
武士か。
うん、武士階級が多かったりとかするんでね。
はいはい。
そういうところに向けた出前そばですね。
うん。
隣十三町に名前がトトロックみたいなこと書いてありましてね。
へー。
なかなか有名で、まあ言ったら、今ではね、まあ言わねえのか、
はい。
ゾウシガヤの、ゾウシガヤって地名ね。
ゾウシガヤ。
うん。あの東京にありますね今で。
瀬戸ヶ谷みたいな。
あーそうそう。
名前的に。
えーと池袋の近くかな。
ほう。
はい。行ったことない方はね。
ない。
ない。ゾウシガヤっていう町があるんですよ。
あ、まだあるんだ。
もちろんもちろんあります。
はい。
名前が。
怒られれば、住んでる人いっぱいおるけどね。
名前がね、ほら、昔の名前なかったりするからさ。地名って。
あー。いわゆるとね、江戸の地名結構残ってますよ。
あ、そうなんだ。
渋谷とか新宿とかもその当時からあるしね。
へー。
うん。あのもちろん空ではないけど。
あーそういうことね。
当時のゾウシガヤ村の立花屋というお店ですね。
ほう。
これはね、店頭で蕎麦家をこう、デモンストレーションで見せるのを走りって言われてますね。
デモンストレーション?
そう。
だからね、今でも蕎麦屋さんとか行くと、まあほとんど今機械ですけど、ガラス張りのところがあってさ。
うんうん。
で、その向こう側でおっちゃんがこう蕎麦家やってたりするわけじゃない。
はいはいはい。
あれの走り。
え、そうなの?
うん。
へー。
で、しかもその蕎麦がめちゃくちゃうまいっていうので評判になったというのが、この立花屋さんですね。
へー。
そうやって見せたんだね。
そう、見せた。
これね、なんでこんなこと始めたかっていうと、観光客相手なんですよ。
観光客?
うん。
ゾウシガヤに今でもあるんだけど、岸文人堂っていうのがあるんですよ。
岸文人堂?
鬼の子の母の神って書いて岸文人。
まあ人によっては岸文人って読んでもいいんですけど。
うん。
ゾウシガヤ多分岸毛じゃないかな。
岸文人。
うん。ちなみにゾウシガヤは確かね、鬼の一画目のチョンがないんだよね、確かね。
おー確かにチョン書いてないか。
うん。僕は普通に読みにくいんで、普通の鬼という字書いたんですけど。
うん。
多分ホームページ見ると鬼の一画目のチョン消してあるはず。
そうなの?
これはね、この岸文人という神様なんですけど、仏教上の神様ね。
うん。
うん。なんですけど、鬼が角が取れるんですよ。
角が取れる?
そう。もともとね、これ岸文人の話すると脱線しまう。まあいいや、いっか。
宗教上の神様っていうかね、女神に扱いしてるんですよ。これ仏教の話の中ですよ。
岸文人堂って何?お堂?
お堂、お寺ですよ。
あ、お寺?
一応仏教系なんで。
のお堂があって、この岸文人という神様を祀ってると。
はいはい。
この岸文人っていうのはもともとインドのイヤシャ、イヤシャって分かります?
分かる。
鬼の一族みたいなもんだとざっくり思っておいてください。
はい。
の奥さん、だから鬼なんですよ、要は。
まあまあ鬼だね。
で、小宅さんでね、500人くらい子供いるんですね。
多いな。
で、その子供たちを養うために、ほら母乳出さなきゃいけないからめちゃくちゃ体力使うじゃないですか。
うん。
だから、毎日数百人単位の人間の子供を捕らえてきて食べてたと。
おお。
いうのがあって、そこに仏さんが来てね、仏陀が来て。
で、里して、で、一人隠すんですよ、子供。
500人のうちの子供。
そしたらこの岸文人がめちゃくちゃ悲しんで、方々を探しまって。
で、そこに仏陀が声をかけて、お前500人もいるのにたった一人の子供でもそんなに気が狂うほどにね、嘆き悲しむわけじゃないかと。
はい。
これがね、人間のね、たった一人の子供を連れ去られたらどう思う?
言って反省をすると。
ほう。
で、その場で心を入れ替えて、で、仏陀もその子供を返して、で、心を入れ替えて子育ての神様になっていくんですよ。
ほう、神になるんだ。
神様として、その人間の子供たちを守るとかね、育てるとかいう神様になっていくんですね。
へえ。
で、江戸時代っていうのはほら、近代、現代に来るまでの間はずっとそうなんですけど、
でやっぱりお菓子もそういう風になってくるんですよ。
そしたら江戸ぐらいになってくると、
もうすでに説明した通りそばっていうのが、
まあうどんとか麺類全般ですけど、
特に江戸ではそばっていうのは人気になってくるわけですよね。
で、京都でもそばってやっぱり人気になるわけですよ。
なんならそばのルーツ京都にあるんじゃないかって
僕は勝手に思ってるんですけど、
そうするとそばも自前で作ってたりはするんですもちろん。
お寺だから。
なんですけどこれもアウトソースしたいわけじゃないですか。
まあ粉ひくところからだからね。
大変だよね。
だいぶ大変じゃないですか。
じゃあ誰に頼もうかなってなったら、
出入りの菓子屋に頼むんだわ。
こんなもん扱ってるから。
そう。
もともと良質の、もちろん健常するようなお菓子作ってるところなんで、
米粉も小麦粉もめちゃくちゃ上手なもの扱ってて、
しかも粉を扱う技術がめちゃくちゃ高いわけじゃないですか。
ついでにそばも頼むようになってくる。
みたいな感じで、
京都だと割と古いお店だと、
お菓子屋さんがイコールそば屋さんを営んでる。
だから今でも残ってるのと本家終わり屋さんとかね。
終わり屋さん。
終わり屋さんっていうのがあったりとか、
川道屋さんていうのかな?とかが今でも残ってますけどね。
それは残ってる。
この本家終わり屋さんっていうのは、
もともと菓子のつかさ、お菓子専門店なんで、
お菓子屋さんもやりつつ、別店舗でそばの専門店もやってたりします。
これは宮中に呼ばれて行って届けたり、
宮中の中でそば売ったりとかね。
宮中の中で売ってる。
とかやってたらしいですよ。
あと川道屋さんは遠慮寺に出入りしててね。
遠慮寺?
平山遠慮寺。
あの中でそば売ったりとか、そこにそば届けたりとかね。
すごいとこで売ってるね。
本業はお菓子屋さんなんです。どっちも。
得意な人に任せたって感じなんだろうね。
もう常に人気で呼ばれるようになっていくっていう感じなんですよね。
天台宗とそばって結構ここも密接なんですよ。
遠慮寺で、前言ったかな、千日開放行みたいなのがあってって話しましたっけ?
千日開放行の名前はどっかで聞いたけど、ラジオ内かどうかは覚えてない。
千日くらいかけて山の中を飲まず食わずで行くっていう業があるじゃん。
荒業みたいなやつがね。
その前に断食業みたいな、五穀立ちっていうのがあるんですよ。
その時に唯一口にしていいのが水とそばっていう。
水とそば。
そば粉。
そば粉。
そば粉を常備持って行って山の中に入って、そば粉を沢の水で練って食べるとか。
そばって生で食べれますからあれ。
生で食べれるの?
そば粉って生食果なんですよ。
そうなの?
なので、チベットの山奥だと今でも脱炭そばだからちょっと苦味はありますけどね。
今でも普通にそば粉を物資運んで、すごい標高の高い山を馬とか羊なのかわかんないけど連れて歩くじゃないですか。
この時にポケットの中に袋があってて、そこにそば粉が入ってて、それをそのまま口にバクって入れる。
そのまま水で流し込むみたいな文化が今でもちゃんとある。
そうなんだ。なんで今そば粉って生食で出回ってないの?
だってそば切りにしたほうがうまいからじゃね。
まあまあそういうことね。
単純に。
まあ確かに。
っていう感じなので、冷え山でも天台州ですね。
平沢に略して天台州もそばとの縁が深い州派ですかね。
これは次回の動画でちょっとまた天台州出てきますんでね。
そうなんだ。
前振りしときました。
じゃあ天台州ももう一回さらっと言ってもらってください。
西町のやつね。
西町のやつ。
そうです。じゃあこれはこの辺にしときましょう。
雑誌がもう一個名物そば出てくるんで。
もう一個。
今の橘屋さんっていうのは門前なんですよ。
西門の前にイメージしていくと
両サイドにずらーっとお店が並んでるとこあるじゃないですか。
土産物屋さんみたいなのずらーって。
あの中の一角のね。
浅草みたいな。
今で言うと浅草浅草寺の中店通りみたいな感じ。
ああいうのがいろんなところの観光地で見られると思うんですけど、
その中の一つが橘屋さん。
これから言うのは名もなき。
もう野望ないんだ初め。
野望ないの。
野望がない。
しかも岸本神道から社地を離れた。
そこの岸本神道を離れて東にだいぶ行ったところ。
東にだいぶ行ったところ。
歩いてね。
少し離れたところ。
茶屋町を離れ、やぶの中に一軒ぽつんとある百姓家。
百姓家?
農家。
農家。
農家さんのただの家。
ここの寛兵衛という農家の爺がいるんですよ。
この農家の寛兵衛さんが副業で蕎麦を打つんですね。
おお。たまに確かに農家レストラン的だね。
そう。これも初めは別にその場でレストランをやってるわけじゃなくて、
例えば岸本神道2,3軒に来るお客さんがね、
ちょうど通りがかりかなんかで行きかけに、
寛兵衛のおじいさんいるけーって言って、
およー、
お、あとで取れるから頼むよ。
2,3人前やっといてくれ。
って言って、蕎麦も岸本神道行って3軒して茶店とか楽しんで、
帰り際に、
お、寛兵衛さんできたかい?つって、
あいよーっつって。
おお。
おみやげみたいに持って帰る。
さらに綾借り隊軍団が出てくる。
知名度とね、味とね。
そうなんです。
元祖矢部蕎麦はそのうちにもちろんまたなくなっていってしまうんですけど、
元祖矢部蕎麦がまだ営業中に出てきて有名になったところの一つが、
一番流行りのかな、深川の矢部蕎麦。
深川。
江東区白川。
江東区白川。
もうね、東東京だね今でいうとね。
あっちの方に矢部蕎麦というまんまの店名が出てきます。
店名は矢部蕎麦なんだ。
そう、そのまんまです。
これはね、すごいですよ。
庭に古池があって釣りを楽しめる。
すごいね。
だいぶでかいでしょ。
でかい。
夏場には店内に浴室があって、そこで汗をパッと流してから蕎麦を楽しむみたいなね。
お風呂つき。
風呂つき。
風呂つき釣りつき蕎麦屋。
庭がでかくて風情があって。
で建物も2階建てでみたいな。
2階建て。
あの時代にね。
すごいね。
でこれ本庄深川絵図っていうのが残ってる。
絵図っていうのはいわゆる地図ですよ。
これが1853年に描かれた地図なんですけど、
これ見るとですね、
矢部蕎麦がちゃんと地図に載ってるんです。
載ってる。
深川の矢部蕎麦がちゃんと載ってる。
これね何がすごいかっていうと、これ実物見たらわかります。
本庄深川絵図っていうのがありますから、興味あったらググってみてください。
基本的に名前が載ってるのは大名家ばっかりです。
そういうことね。
わかんないですけど、駿河藩徳、松平家何々とか。
そういう三近交代で住まうような江戸屋敷が載ってるんですよ。
それ以外のところは大体何とか町で終わりなんですよ。
田んぼとか何とか町しか書いてない。
地名だけ。
地名だけ。
そんな中に矢部蕎麦だけはちゃんと矢部蕎麦って書いてある。
同格。
うん。
すごいね。
同格っていうかねでかいんだと思う単純に。
面積が。
地図で見ると確かに周りが神奈川藩とか金沢藩とかすげーでかい藩がいっぱい書いてあるの江津田藩とか。
だからすげーちっちゃくしか見えないんだよ。
周りもでっかい寺だから。
だけどこれ現代の地図に重ねるとたぶん軽くビル二つ三つ飲み込むぐらいの面積あるよ。
大きいね。
当時の江戸屋敷がめちゃくちゃでかいからね。
この間なんか携帯で見たやつか。
それそれです。
あれ相当でかかったよね。
だいぶでかいでしょ。
だって屋敷一個だと東京駅丸ごとだったもんね。
大きい藩になるとふだいとか藍とか。
ああいうところの中にポツンとちっちゃく見えんだけど実は結構でかい。
あれなんかちょこっとね四角でこう屋敷みたいな感じで書いてあったけど東京駅一キロぐらいあるからね。
そうですね。
一キロ四方丸ごと屋敷ってやばいよね。
武家屋敷ってそういうやつなんですよ。
そんなでかいんだね。
すげえ脱線するけどアコーローシってあるじゃない。
アコーローシってどこで聞いたんだっけ。
打ち入りですよ。
年末にこう太鼓を鳴らして大石倉之助が殿の敵討ちでキラ小助之助の屋敷に打ち入りしますみたいなのあるじゃないですか。
あれはだいぶ演出されてるからかなりおかしなことになってるんだけど。
そもそも47人の侍がオリャーって門を破って打ち入りして中でちゃんちゃんバラバラ暴れまくるわけじゃないですか。
暴れられるだけのスペース必要だからね。
一キロ四方あったらどんぶんに暴れられるよね。
表門と裏門から両方から攻めるみたいなことやってるわけなんで。
だいぶ遠いもんね。
だいぶ広いです。
そういう感じの中にあるから小さく見えるけど実は矢部相馬もでかいよっていう対比で言ったらなんで対比の説明のほうが長いんだよって。
だからあれか忍者とかって忍べたんだ。
忍び越えるって。
なんかな。
でかすぎて。
じゃあ無理じゃない普通のさ今みたいな家みたいなとこに忍び込もうと思ったらすぐバレるじゃん。
そうですね。
だってせいぜいに100メートル四方ぐらいが大豪邸じゃない。
100メートルぐらいだったら入ってきたら入ってきたってなるけどさすがにいっぺん1キロだったらわかんないよね。
だいぶでかいですね。
で一方で下町に行くと長屋の人たちがいるわけですよ。
もう狭いとこですんで。
狭いね。
隠すとやばい。
すごい差だね。
これが江戸の首脳交渉ですよ。
これが階級社会ってやつね。
すごいね。屋敷にも反映されるんだね。
見事に。
見事にね。
お寺もでかいですみんな。
お寺ね。
という感じ。
そういうことなんだ。
地図から読み解くだけでもそんなことがわかりますよって話ね。
じゃあ最後。
あやかったやぶそばでもう一つ有名になったのがありますね。
団子坂のやぶそば。
団子坂。
なんで団子坂のやぶそばって言ってるのかわかんない。
一応矢後をツタヤって言うんだけど。
ツタヤ。
今の文教区の仙台のあたりかな。
ツタヤってあのツタヤの漢字だ。
漢字はツタヤさんですね。
ツタヤ十三風呂のツタヤと一緒ですね。
おそらく文青年間にできただろうって言われてるんで、
これちょっと後ですね。
1818年から31年が文青年間なんでそのくらい。
1818年。
多分やぶそば元祖が1700年代の序盤のはずなんで、
51年にはもうだいぶ流行らなくなったとか言われてるくらいだし、
31年にもう出てるから、
やぶそばが創業100何周年とか言ってるときに団子坂のやぶそばができるみたいな感じ。
完全なあやかりですよ。
ここもまたすごくて、団子坂行くとわかるんだけど、
本当名前の通り坂がいくつかあって、
そのちょっと小高いところにあったらしいんですよ。
眺めがすごく良くてね。
遠くに水車が見えて田んぼが広がっていてっていう、
そういう丘のようなとこにあって、
庭にはやっぱり古い石があって、
苔むしていてね。
いくつも離れがあってね。
そこでゆったりとお酒を飲みながらそばが出てくるのを待つみたいな。
そばって高いんだね。
今回はそういう高い店ばっかり紹介してるからね。
そば屋でもそんな高いところあるんだね。
あるんですよ。
全然違うね。
寿司でも庶民のやつとそうじゃないところが出てきたように、
そばも分岐をしていくわけなんですね。
ちょっとメモしてないんでうろ覚えですけど、
ざっくりとこれを江戸時代に分類してる人がいるんですよ。
分類。
そば屋には大きく分けて3つプラスアルファ。
プラスアルファっていうのは屋台そばね。
お店を持ってるそば屋で大体3種類のパターンがあるよねっていうのを
最先期っていう書物にまとめてあるので、
それの分類でいくと、
高級そば屋がありますよね。
ここはそば粉も真っ白のきれいな上等なそば使ってて、
売りとしては割り粉も入れてなくて、
結構うちそばではやってますよみたいな。
高いの。
これのことを手打屋そば市って言って名前をつけてるんですよ。
手打屋そば市?
面白いのが、
高級そば、低級そばで中間っていう風に分類分けしてるんだけど、
それに一個一個低級そばのことをダジャレで名前つけてるんですよ。
名前つけてるの?
高級そばは手打ちそば使ったから、
だから手打屋そば市とかっていう人の人物名になぞらえて、
手打屋そば市シリーズ、評担屋、正直屋、やぶそばとかって書いてあるわけだよ。
そういう意味ね。
一番下の低級そば屋が大森康二郎って書いてある。
大森康二郎?
そばがドーンと大森で安いよっていう意味で、
大森康二郎って人の名前がつけられてて。
大森康二郎の中で有名なのはこういうところがいくつかあるよみたいなのが書いてあって、
その真ん中の二八そば使ってるような中級そばね。
森屋賭け蔵って書いてある。
森屋賭け蔵?
森そばと賭けそばをメインで売ってるから森屋賭け蔵みたいな。
そういうことなんだ。
だからこういうふうにざっくりと分けられて、もちろんそこから細分化してるんだけど、
このぐらい三分割できるようなものが当時の江戸に分岐して出てきたよって話ですね。
ここのもう一個外れた向こう側に屋台そばっていうのが出てきて、
屋台そばも風鈴そばと四鷹そばが出てきて、
分岐したのにまたガッチャンコして、そばのあの世界になっていくっていう話よ。
時そばのあの時代の中で一方でこういうそば屋もある。
高級店もあるっていう話ですね。
いずれも今あやかって出てきた深川のやぶそばも、
団子坂のやぶそばも明治の終わり頃には閉店しています。
そうなんだ。
なんか明治末に閉店しまくってるんで、いろんな店が。
寿司屋とかもそうなんだけど。
なんかあるんだろうなと思って、それは現在調査中です。
分かりませんでしたまだ。
調査中。
この後もそば屋もあるからなんかあるんでしょうね。
ちなみにこの団子坂のやぶそばはね、支店を持ってたんですよ。
神谷。
そこも津田屋の支店として、名前は津田屋だったんですけど、
明治13年にのれん分けをして、
これものれん分けだからお弟子さんかなんかに
お前のもんだよって言って完全に分かれちゃうんですね。
そこは神谷やぶそばっていう店でなるんですけど、これ今でも営業してます。
今もある。
だから歴史上に出てきたこの有名なやぶそばシリーズの中でも
唯一残ってるのが、あやかった方の一番最後のやつの
さらにのれん分けされたやつが残ってる感じ。
本筋はもういないんだ。
もういない。
だいぶ前だからね。
だいぶ前だね。
300年くらい前だからね。
そっか。
まあいろいろあったんでしょうよ。
1800年くらい?200年ちょっとか。
うん。1868年が明治元年なんで、
そこから12年経つと1880年創業ですかね。
のれん分けされたのが神谷の支店がね。
それでもだいぶ長いですけど。
長いね。
江戸はいろいろと改編もあるしね。
まあまあ原型ないしね。たぶんね。ほぼ。