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2021-09-24 37:20

#20(s3-8)「近代茶業ハード編」この人無しには語れない。近代茶業の礎を築いた壮絶な人生を送った奇跡の3人(たべものラジオ)

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近代茶業の礎を築いた3人の父がいた。
茶の機械を発明したことで有名な高林謙三。和紅茶を生み出した多田元吉。そして、100種類もの品種を作ったと言われるやぶきた茶の発明者、杉山彦三郎。
何が凄いって、同じ時期にこの3人が同時にそれぞれ発明していなかったら現代の茶業は成立していないということ。

今回は近代茶業のハード側を作った3名を取り上げています。


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00:02
はい、前回からの続きです。今回は
はい、近代茶業の知事、3名います 3名
はい、3人いるんですよ。この人たちがいたおかげで、前回にも話繋がりますけれども
茶業が本格的に近代化をして、高品質なお茶を大量に生産することができるようになっていきます
先に名前だけ言っときましょうか。高林健三さん
この人は高林式製茶器というお茶を作る機械を発明した人ですね
この人がいますね。それから田田元吉さん
田田元吉 元吉さんですね。この人は旧幕神、元武士ですね
和紅茶の父とも言われています へえ、和紅茶
日本で一番最初に紅茶を本格的に作った人でもあります
そうなんだ この紅茶の機械の図面を持ってきたりとかもやってますね
でもう一人が杉山彦三郎さん
この人がいなかったら静岡はゾッとしますよ
そうなの 矢吹北の見つけた人ですから
今現在全国で生産されている緑茶の半分以上は矢吹北という品種ですね
これを一番最初に発見したのが杉山彦三郎さん
この3人が組み合わさって近代茶業の発展の礎を築いていきます
じゃあまず高林健三さんからいきましょうか
高林健三さん 高林健三ですね
覚えましたか 多分
ちなみにこの方が作った高林式製茶器
今では曽住器という表現をされることが多いですが
実は今でも現役です 今も現役なの
高林式っていう言葉を茶業界の方に言うと
はいはいってなりますよ そんなに有名なの
もちろんだいぶ時が経っていますので
いろいろと改良改造はされてますけども
高林式という名称で十分通じるくらい
この人が曽住器という機械を作ったことで
一気に大量生産ができるようになるわけですが
この工場が今の掛川市そしてすぐ移転して
菊川市にあったことから牧野原の一大茶園の生茶場を
効率よく生茶することができるようになったからこそ
静岡がお茶大国になっていくと
この辺にあったのか
これがざっくりとした流れなんですけど
じゃあこの高林健三さん何者だっていうところから行きますね
この人出身静岡県全くゆかりありません
今の埼玉県日高市の出身ですね
ウィキペディアなんか見ると
発明家とか事業家って書いてあるんですけど
03:00
実は本業は医者です
お医者さん
お医者さんです
16歳の時に医学を志して勉強を始めます
20代後半には藩主
藩主
タワゴエ藩ですね
あそこの藩のお殿様の10位
専属ってこと
そういうことですね
2まで上り詰めますね
20代後半で
27、8くらいにはもうかなり裕福です
めちゃくちゃ優秀なんですよ
そんな早くはなれないよね
だって高校1年生で俳修業入りまーすって言って
28ですよ
あなた今おいくつです?
30越えたね
その頃にはもう一角のお医者さんです
すごいな
人材さん気づいてます
すごいな
めちゃくちゃ優秀なんですよ
この人がなぜか不意にですよ
政治というか国のこと心配始めるんですね
急にね
なんでって感じなんですけど
で貿易の不均等これ何とかせんといかんぞ
前回の話と一緒ですね
西欧列強を攻めてくるし
このまま行くと真の二の前になるぞと
確かに
これ何とかせんといかんぞと一念発起をして
普通に農家として茶園始めます
お医者さん急に始めちゃう農家
はい
お医者さん続けるんですけど
その稼いだお金で山とか畑買って
そこで茶園を始めるんですね
だけど全然うまくいかないんですよ
別に農家の出身でもないですね
農業の素人がいきなり始めて
茶園の計画うまくいくわけないんですよ
確かにね
これおかしいぞと
これだめだなどうにかしないとだめだぞ
しかもこれっぱかし作ったところで
貿易の不均等国のために何とかしようと思ったのに
何トンもなるわけないじゃん
規模がね
規模がね
一人でちょろちょろ作ったぐらいでさ
何トンとかいうのなるわけないんですよ
ないだろうね
まあいわゆるこういうの
焼け石に水っていうんですけど
これはもう量産して低コストでたくさん作んないと
もうお話にならんぞということを思いつくんですよ
で彼が思い立つのが
これはもう絶対機械化するしかない
機械を何とかせないといけない
まあそうだよね低作業じゃ無理だよね
ということで40なる前ぐらいの時に
急に発明家になるんですよ
自分でやるのそこ
自分で発明始めます
でね普通に考えてですよ
何の工学知識もない人が機械を発明するってどうですか
まあ普通に考えればねちょっと難しいよね
多分ね現代人無理だと思いますよ
例えばあなた工業高校で高専出てますからいいですけど
06:00
僕みたいに普通科出てる人間だと
はって何から手つけたらいいか全く想像つかんみたいなところから
まあそうかそうかね
で彼がそこに手をつけようと思うからには
それなりの基礎知識があったからと考えるのが自然ですよね
でルーツを探ってこの師匠とかに当たってったら
見つかったんですよ
いた
いた
師匠いたんだ
高林健三の医師としての師匠は二人いるんですけど
一人は官法医ですね
それが16歳の時に就いた方で
その後に西洋医学の先生に支持するわけですね
この師匠が佐藤貴仲という人です
佐藤貴仲
ちょっと字がね
なおという字に真ん中の中で貴仲と読むんですけど
これね知ってる人
お医者さんとかは佐藤貴仲って聞いたら有名人だと感じるんだそうですよ
へえ純定堂って言ったかな
そう純定堂病院の開設者ですから
有名よね
かなり有名人普通にウィキでも有名人として出てきますからね
この佐藤貴仲の師匠というのは当然いるわけですよ
この人がホランダ人のお医者さんで
名前長いですよフルネームいくと
一回読みましょうか
ヨハネス レイディウス カタリヌス ポンペ メーデルフォルト
メーデルフォルトさん
一般的にポンペって呼ばれてます
ポンペっていうの
だいたいポンペメーデルフォルトで通じますかね
ポンペさんです
長いんだねポンペさんね
ポンペさん名前の通りオランダ人ですからね
こういう長い名前になっちゃうらしいんですが
オランダ軍医なんですって
軍のお医者さんですね
当時まだ開国する前ですから
長崎にオランダの人たちがある程度仲材をしていて
そこから蘭学ですね
蘭学からやってくる西洋の医学だったり物理学だったり科学だったりを
日本に教えてくれる
幕府や藩からお金をもらって
日本人が長崎の出島に留学をする
ある意味は外国みたいな状態なので
そこに留学をして学びに行くわけですね
このポンペという人は医者にして
なんといろんな学問に詳しい方だったんですね
しかも医学練習所というのをちょうど作るところ
医学の学校を日本人の人たちが頑張って作ります
そこにポンペさんに先生として入ってもらって
学長だったかな
入ってもらって授業をやってもらいます
ポンペさんの授業で教えていた内容というのが
医学関連だと生理学解剖学病理学
それから化学物理学と
09:02
化学物理学医学でいるかみたいな感じですけど
あと工学とかそれ以外の基礎的な科学
知識を一通り全部教えてくれる
全部
なんで多分当時の時代背景からすると
医療機器自体も海外から日本に輸入するわけですよね
基本的な工学科学を知らないと
それを再生産したりとか修理することができない
留学生ですから長崎に来てる留学生なので
江戸に帰りましたって言って
どうやって直すのって話になっちゃいますよね
確かにね
なので佐藤貴氏はポンペから
一通りのことを全部学びます
その学んだ知識があるから
後の順天堂医になるような
代表医になるようなものを江戸で開くことができるわけですね
まあそうなんだ
当然この佐藤貴氏は自分の弟子たちに
同じものをどんどん広めていくわけですよ
ということで高林健三は
工学知識を持ったお医者さんでもあるんですね
医療の機械っていうのは
今みたいにサービスで修理とかないよね
でしょうね
自分で全部覚えて作らないといけないから
修理しなきゃいけない
そうなんですよ
だから西洋の科学というものが
日本国中に広まってるわけではないですし
大工さんとかそういう人たちが
西洋の技術を持って何かを作るとか直すとかっていうのは
考えられないですよね
まあ宇宙船に直すようなもんだよね
そうか
知識ないしこっち
カラクリ人形とかね
詳しい人いるかもしれんけど
急に何異次元
異次元でしょうね
読めないし修理師屋さん
構造を理解するということはもう最低限できる
ところからのスタートですね
そしてもう一つは漢方医学を学んでいた
これもお茶の製造技術には役に立ったというふうに書いてありましたよね
よく思い出してくださいお茶は何ですかもともと
薬だ
そうです
漢方薬の中の一種として
お茶はカウントされていた時代が長いことありましたので
薬の取り扱いつまり葉っぱの取り扱いはお手のものなわけですよね
ああそうかそうなるね
そして川越の隣の町ですね今の日高市というのは
近隣で茶園いくらでも見ていますね
この3つが全て噛み合わさると
多分全員じゃないでしょうけど
この3つの条件があるからこそ高林健三は
これ製茶器作るべきだということになるわけですね
そういうことね
これなかなかすごいですよ
でここから12年間医者をやりながらコツコツコツと
12:02
発明作業をしていくわけですよ
12年
12年間そして1881年建造は49歳でございます
ついにできます製茶機械第1号
これが焙煎機ですね
焙煎機
イル機械ですね
あんなもんフライパンでやったら死んじゃいますよね
何百キロとかね
釜でもねそんな入らないもんね
あれはもうバサーッと入れて
全部一気にいってザーッと開けるという
そういうような仕組みの機械ですね
ちなみにお茶ってさ
生茶は1キロ入れるとどのくらい生茶になるんだっけ今
10分の1強団で9分の1とかだいぶ縮みますよ
1トン作ろうと思うと生茶は10トンぐらいなんてか
まあまあそういうことですね
それを手作業は無理だね
今までやってきたわけですけどね手作業でね
すごいな
それで6トン出荷するとかマジやばいですよね
6トン
今までそれやってきたんです
60トン捌くってこと
そういうことですね
運ぶだけでも
はいざっとえぐいですよね
ちょっとね無理だわ人的
やっぱりね大量でやろうと思ってもなかなかできないのもありますし
手作業だと品質がばらつくんですよ
ああばらつくね品質ね
そして特にいる工程はロスが大きかったみたいなんです
くだけちゃうんでしょうね乾燥の具合で
茶葉のロスがあったのがこれを焙煎機という機械にかけることによって
品質も安定するしなおかつ茶葉のロスが出ないという記録がありますね
それはいいね
これを完成させたら続けざまにもう二つ作るんですよ
茶葉を蒸す機械一番最初の工程ですね
そして仕上げの工程の摩擦機械
摩擦機械
最後揉み込んで全部完成させた後に艶を出すために摩擦させるんですって
擦り込むんですって僕も詳しくないんですけど
この摩擦機械の三つを作り上げると
ほとんどの部分半分くらいのところは機械化ができたということですね
ちなみにこの三つが実は民間人における日本の特許番号の一番二番三番なんですよ
すご
民間特許初代
特許番号の号数でいくと2号3号4号に当たるんですって
1号は軍艦の塗料で国の技術者が発明したものなのでこれはもうカウントせずとしてもいいんじゃないですかね
民間ではないんですからね
その次に来るのが焙煎機、蒸し機、摩擦機と
よく取ろうと思ったよね
15:00
タイミングよく特許法という法律ができたのが発明から2年後だったかなくらいだったので
すぐに出したという経緯もありますね
すごいね
高林健三という人はお医者さんというだけではなくて
周りがすごくよく見えてた人なのかなという感じはしますね
世界情勢国の情勢もそうですし特許が制度ができるったらすぐに出すとか
そういった視野がとても広い人のような感じがしますね
そしてさらに高林健三は続けて2つの機械を作ります
充電器、モム機械ですねグリグリグリグリモムで寝るような機械ですね
それから改良型の扇風機、要は乾燥機ですね
生茶葉専用に改良した扇風機
これずっとあちこち作っていろんなパターンで工程の一個一個を作っていくんですけど
彼が自分の書物の中で残してるのがざっくり言うと俺はオートメーション化させたいんだ
オートメーション化
明治時代の言葉なんでそんなざっくり言ってないんですけど
生茶葉を入れるだろうとここにバサッと入れるだろうと
出てくる時には生茶されたものが出てくるこれを目指すんだって
すごいね すごいですよね
だってそれ1800年代でしょ
しかも現代のように所々の機械がすでにあってオートメーション化させようぜって言ってるのとはわけ違いますからね
手作業ですから何の機械も世の中にないわけですよ
もっと言っちゃうと世界中に緑茶を作る機械自体が存在してません
でいきなりオートメーション化するぞって言ってるんです
いやすごいね目標が 目標がやばいですよね
でね実際に53歳の時にもう作りたくて作りたくてもうこれ絶対
作りたくてしょうがないというかやるべきだなのかわかんないですけど
相当入れ込んでせいで建造53歳の時ついに医者を辞めてしまいます
何作るために辞めたの そうです
オートメーション開発をやるために医者を辞めます
ずいぶん入れ込んだね うん収入止まりますね
そしてここから2年後55歳か2年後の55歳でオートメーション機械を発明してしまいますね
自立式生茶機械とかそんな感じかな
ただこれめちゃくちゃ売れるんですよめちゃくちゃ売れるんですけど
売れて数ヶ月でクレームラッシュが来るんですね
一部に不具合があったらしくてそのおかげで機械は返品されるクレームは来る
代金は払ってもらえないその評判が広がっていって高林健三がやっていた茶園
あと埼玉の彼が関わった茶工場この茶工場埼玉生茶という茶工場なんですけど
18:06
ここもその建造の機械を使ってたもんだからそんな奴が作った機械を入れている茶工場のお茶なんか飲めるかということで
そのお茶もとばっちりで全部返品されるっていう とばっちりだね
もう一気に大赤字なわけですよ
うわぁどうしようってとりあえず茶園を売ってゼニに帰って何とか経営を立て直そうとするんですけど
なんだろうねこういう悪いことって続くんですけどこのタイミングで本当に運が悪く自宅が全焼するんですよ
まさかの自宅全焼きちゃう
これ30くらいの時にはそこそこの結構な金持ちで山買うわとか茶園作るわとかできるぐらいの財力があった人がですよ
もう57歳くらいの時にはもう無一文みたいになるんですね
すごいね
もう明日何食おうとかいう状態に家族も巻き込まれていきますね
うわぁすごいな
奥さんとか本当大変だったと思いますよでここでめげない
めげないんだ
55歳から60歳くらいまでもう自力でずっと発明頑張ってるんですよ
へぇまだそこから発明する
まだやる
そしたらあんまり頑張ってやってるもんだから61歳の時かな1893年東京に国からの援助をもらって
国がお前すげえからちょっと援助するよって言って東京に研究開発用の茶工場を作ってもらうことができる
ずいぶんと
官歴越えてからですこれが
官歴越えてからすごいな
すごいですよねでどうもこの時本人自覚はなかったんですけどすでに肺に病気を抱えていたらしいですね
無茶しすぎなんです
まあお金の苦労すごそうだもんね
相当ストレスかかったと思いますねで60歳からまたコツコツコツコツずっと研究するんですね
で画期的なものが1897年明治30年ですね高林健三67歳の時に茶葉蘇熟器という機械を完成させます
これが現代の高林式の原型ですね
そうなんだ
従来のものに比べて4倍の生茶能力を持ち味や香りも損なわないという風な記述がありますね
味や香りを損なわないすごいね
これが全国で一気にわーっと広まらなかったんですよすぐには
一回見てますよね今までの機械を茶業界の方々で特に地主とかね大きい茶工場の方々は高林式の原型を知っています
21:04
大失敗してるの知っています結果として例えば川越近くの川越のお茶屋さんなんかは
お茶屋なんかがやるよりも俺が作ったお茶の方がうまいに決まっとろうが前もそうだったろっていう話になってしまうんですね
ただ一部のベンチャースピリッツ持ってる人たちはその機械をうちで作りますよっていう動きが同時に起こるんですよ
でこの作る製造の権利ですよね製造販売権利を最終的に獲得したのが松下耕作さんという人ですね
松下耕作さん 名前を覚える必要ないんですけどもこれは掛川市を含むこの辺りの昔でいうと小笠郡という郡がありますね
小笠郡茶業組合に属していた松下耕作さんですこの人が製造販売権をもらいます
この人とこの人の仲間がだいぶ頑張ってこの建造さんのところまで通い詰めたらしいですね
何度も何度も通って仲良くなって熱意が伝わってじゃああんたんとこで頼むわということになってこの松下耕作が権利を得て
静岡県掛川市白西に第一弾の松下工場を設立してここで高林式の製造に着手をします
ここで作ってたんだね ただ半年後には今の菊川市駅近くの堀の内という地域に移転をします
掛川にあったのはわずか半年間ほどだそうですねでも売り始めたらめちゃくちゃ売れてしまって手妻になってとても間に合わなかったと
そんな半年で手妻になっちゃった はい実際牧野原の茶工場社業界の方々にもうやっぱ言われたらしいんですよ
こんな機会なんかでと俺の方がうめえだろということで言ったんですけど飲ませてみたらマジかめちゃくちゃすごいじゃないかと
なんだこりゃってで買う買う買う買うって いやー相当すごかったんだろうね
なるんですね買いたいんだけど買えないジレンマも同時に発生します機械ですから高価なので個人事業主ならまだしも
今みたいに株式会社化とかできてないしただの農家さんなわけですよなんなら牧野原のてっぺんの人たちなんかついこの間まで刀振ってた人たちがやっとこそ作ったわけですよね
金ないじゃないですかどうやって買うっていう そういう問題か
こういうね今度経済の問題投資をどうするかっていう問題が出てきます実は今回じゃなくて次回一個もう一回話しますけど
ここに力添えをしてくれたのが県で政茶監督員をしていた河村総平さん含む人たちとそこにお金を融資して回してきた
24:05
渋沢栄一が作った商法会社とここらへんがまた出てくるんですね これから出てくるんだね
この発明のおかげで現代の茶業があると言っても過言ではないですね すごい話だったな
ちなみにですねやっとできてこれが67歳の時ですよねでずっと作っていくんですけど機械のことで相談乗ってもらったりとかさチェックしてもらったりしなきゃいけないわけですよね本人に
行ったり来たりできないじゃないですか東京と架け川ですよ東海道線新幹線なんかありませんからね そうだね
で行ったり来たりして2回目に架け川まで来てもらった時にバタッと倒れちゃうんですね笑いこっちの方いいんですけど無茶しすぎなんですよこの方
じゃあもう建造さんがこんなに移動するの負荷が高すぎるっていうことですぐに架け川に住居を構えてでも狭いからって言って工場の移転に合わせて工場の隣接した菊川市の工場の隣接したところに高林専用の屋敷を用意してそこに移り住んで監督をするようになります
へえ移り住んだんだ で監督をすると言ってもほとんど自宅にいてもらっていて工場の人たちが困った時に駆け込んで行って先生ってロッキングチェーンみたいなゆったりした椅子に座ってああじゃないこうじゃないという指導をしてくれてわかりましたそういうような穏やかな晩年だったそうです
そうなんだ でこの製造が始まってわずか2年後1901年70歳で亡くなります ああそうなんだ随分苦労してたもんね はい壮絶ですよ
壮絶だね こんな日茶業に命かけるかっていう 晩年この当初の年齢50超えてからって相当な恒例だよねもう かなりの恒例だと思いますよ
そこから始めるって医者辞めて 医者辞めて 財産投げ打っていやすごいな ねこの背景にあったのは国を思う気持ちとかなんかあったんでしょうねいろいろと
いやーでも楽しかったんじゃない それもあるだろうね 楽しみもあったんじゃないから苦労も多いけどじゃなきゃここまではできないと思う
はいでですね高林さんの他にですね先ほど申し上げました田田元吉さんと杉山彦三郎さんいきますがこれ2人セットです基本的に
2人セット はいというのが杉山彦三郎さんは田田元吉さんの文科生です 文科生なんだ お弟子さんですね田田元吉さんは何をしたかというとそんなにねインパクトないんですけど本当土台作った感じですね
土台をね 旧爆心ですので静岡に徳川家が静岡に来るときに伴って一緒に静岡にやってきますね
27:00
でそんなに給料もらえない状態になりますんで自分でお茶を始めてでそこで自給自足の世話になります
静岡県今でいうと麻里湖という場所ですが旧東海道で行くと麻里湖の宿場町になるところですよね
ここで茶園を自ら開いて普通に茶農家として生きています ただ周りの農家さんと比べると元武士ですから額があるわけですよ
一生懸命周りの人たちに文字を教えたりとかこういうふうな農業をやるといいんじゃないかということでどんどん指導する係になっていくんですね
そしたらどういう経緯かそれ書いてなかったですけど1875年46歳のときに政府から施設団の特使として海外視察いかんかっていう声がかかるんですね
これ何かというとお茶の日本茶の信頼が少し低下していた時期があってですねこれを復興させるためにはお茶の改良をしなきゃいけないと
だったらそもそも紅茶売ったらどうという話になるんですよもちろん緑茶も売れてるんですけど紅茶も売ったらもっと売れるよね
だって彼ら飲んでるの紅茶だしって話になりますねただ日本には紅茶の技術がないとどんなもんかもよくわかってない
なので紅茶を作ってる場所を見に行きましょうということで中国の紅茶作ってるところに行ったりとかあとインドのダージリンアッサムセイロンという地名です
これ地名ですからねお茶の種類じゃないですからねダージリンとかアッサムセイロンという土地に行って実際の紅茶を作ってるところを茶園を見に行って
青茶どうやったらできるのかなってどういう風な工程で紅茶を作ってるのかなっていうのを視察していきます
で日本に帰ってくる時に持ち帰ったのは紅茶の苗木と紅茶用の製茶器の図面です
紅茶用なんだ 誰がこの紅茶用の機械を発明したか名前わかんないですけど当然ですけどイギリスです
イギリスなの この当時インドはがっつりイギリス領です
そうなんだ イギリスの植民地です完全支配されてますね
なのでイギリスがお金をかけてインドに茶園を作ってそこでお茶を作らせて紅茶にしてイギリスに運ぶと
要は自国内生産をするようになったってことですねイギリスが えらい遠い自国内だな
というのもイギリスみたいな北位ではお茶が育たないからどうにもならないです
確かにねあの寒いところで農地のイメージは薄いね 糸高すぎるんですね
でインドにそれがあったのでその機械の図面も一緒に持って帰ることにします
でこの機械を日本に持って帰ってきて自分たちで実際に作ってみてさらには緑茶用にカスタマイズをしてっていうことをコツコツやってますね
30:02
なんなら和紅茶の普及とか指導もやってるので全国渡り歩いたりとかしてますけどね
で特に静岡県内はぐるぐる回っていてこれが高橋敷よりも少し前の時代のことなので
高橋建造の作った操縦機ができたときにスッと手を出せたのはおそらく
田田元吉が持ってきた和紅茶用の機械の土台が知識としてあったからとも言われてますね
まあ場所も近いもんね そうなんですこれがあったから機械すごいっていうのを知ってて
じゃあすぐ買おうみたいなそういう流れも多少あったんじゃないかなと
でこのセットでさっきも言いましたけど杉山彦三郎さんこれは文化生ですね
1857年生まれちょっと若いですがこの人何やったらというと普通に農民です
生まれも育ちも純農民ですで住んでる場所は麻里子の宿の山奥ですね
元吉さんの文化生ですんでひたすら普通にお茶を作ってただけなんですけど
とある時にお茶の木によって早くできたり遅く芽が出たり
硬い芽ができたり柔らかい芽ができたりという違いがあることに気がつきました
よっぽど毎日言ってたね なんかね毎日観察してたっぽい
一番最初は和製中手奥手に気づいたぐらいなんですってあれおかしいよな
じゃあちょっと調べてみようって言って毎日言って記録をつけて調べていて
お茶を作ってみたらそれぞれに味の品質違うぞと
これはなんだっていうことでひたすら選抜と育成だけを繰り返してます
ほんとのガチの品種改良だね ちょっとキチガイだと思われてたっぽいですけどね
どうなんだろうこの当時って品種改良って概念あったのかな 全くないです
この人が品種改良と概念の走りですね そうなんだ
それまでお茶はお茶以上っていう じゃあ他の作物も似たようなもんかな
米は米はいっていう感じ へえそんな中で見たらかなりキチガイだね
かなりのキチガイですで自分で茶園をまた農園を自分で資材を投じて広げて買って
いろいろ植えてみて選抜作業をして新しい違う茶木も手に入れたいじゃないですか
全国を旅に出るわけですよ 一番遠いところだと沖縄とか
沖縄 あとね朝鮮半島とか 朝鮮半島海渡ったの 海渡って
で持って帰ってきてはさあどの木がいいかなどの木がいいかなって
その辺のマニアじゃ負けちゃうね はいこれがねこの方農家の生まれの方なので
10代から農業を始めていて20歳前後ぐらいでこの品種改良的なことを動き始めるんですね
50歳の時にヤブキタを見つけるんですよ 何十年もやり続けて竹ヤブの北側に生えたこの茶の木がすごいと
33:02
今までに見たことない早くできるし芽がいいし量も多いし品質最高これやばいぞってなって
これを広めていくんですね その苗木を複数に分けて一回できた時に
初めてこれを新品種として自ら名前を付けます 竹ヤブの北側にあったからヤブキタという
だいぶストレートな名前だったな だいぶストレートな名前ですね
そういうとこ自分の名前じゃないんだね海外みたいにね 不思議ですよね
ヤブキタ品種の特徴は品質がすごく良くて収量も今までの3倍以上の量が取れて
成長の工程がスクスクと育つとこういう条件が揃ったそうですね
だいぶすごいね だいぶすごいですよ今までとは桁が違うので
ちなみにこの時まだ期待化されてませんよね大変なことが彼の杉山茶園で起こります
お茶捨てる 勿体ねえ
でもヤブキタの生産量が今までの3倍とか軽く上がってるわけですよ葉っぱ自体が
生茶が追いつかないです 手作業か
手作業なんで彼ら たくさん作ったら3倍の農園になったってことでしょ
そういうことですよね 急にそれは余るわ
なのでここにさっきの高倍式蘇生機が組み合わさって初めてなんですよ
生茶の方が機械化されても生産量が追いついてなかったら空回りするだけですよね
逆はさっきの杉山茶園のように捨てることになりますよね
これセットで初めて動くんですね すごいタイミングだね
一人じゃなくてせーのでみんながやるからこういうことが起こる
すごい すごいね本当偶然なんだけど
そうなんですよ タイミングってすごいんだね
だからこの3人が近代茶業の父と言われています
そういうことかこの3人がちょうどやってなかったらできたんだよね
誰一人かけても現代の茶業の基礎は作れなかった
いやすごいなそんな偶然があったのか
そういうことですね しかもそれぞれ変人だしな
変人ですねだいたいあれですよ杉山彦三郎100種類以上作ったらしいですからね
同時の掛け合わせって自分指定だからさ
何年とかの単位で1年に作れるようなんてね限られてるはずなんだけど
そうでしょうね それ100以上って
なんだっけなちょっとメモしてないからおっしゃったけど
この人あだ名がイタチとか呼ばれてたみたいですよ イタチ
虫眼鏡持って粒さんに観察するために潜ったりとかしてるから
苗木の下にね そうそう
確かにイタチが茶の木のうねの間の下を潜って通るからね
われかしみんなドン引きしてましたね
36:00
まあそうだよな今生まれてたら完全に先生として崇められるね
そうでしょうね特にこの3人のうちのけんぞうさんと彦三郎さんは振り切っちゃってますよね
振り切っちゃったよね こういう人好きですね
すごい職人の空気を感じる わくわくします
はいじゃあ今回はここまでということで
そうですねで次回はねここで発明とかがあったところで現場の方がしっちゃかめっちゃかなんですよ
分かりますコンピューターが会社に導入されましただけど会社の中の運用人の面ですね
ソフトがまともに成立してないと機能しないんですよ発明に
ああそうか確かにね
こっちで踏ん張ったもっと無名な人たちがいるんですね
ソフト側 ソフト側
この人たちがいなかったらやっぱり高林式も矢吹田ちゃんも空回りしてるはずなんですよ
へえそうなんだやっぱ難しかったのかな
大変ですね読んだらもう涙出ますもん
そんなレベル よー頑張りましたって
こっちもだいぶだったよ すごかったですけどこっちはこっちでうわーってなった
楽しみだね 次回話します
じゃあ次回お楽しみにありがとうございました ありがとうございました
37:20

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