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始まりました、アートテラー・とにスのそろそろ美術の話を。
この番組は、私アートテラー・とにスがアートに関わる方をゲストにお迎えして、
トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
今回は前回に引き続き、アーティゾン美術館教育副部長、
貝塚剛さんをお迎えして、美術の話をしていきたいと思います。
ということで、後半も引き続きよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
今回は、より貝塚さんの話をしていくと。
取り下げていく。
怖いですね。
ぶっちゃけということで、
いつから美術に興味を持っていましたか?
これは母親から聞いた話なんですけども、
東京生まれ、小学校上がる直前だったらしいですが、
母親に東京国立博物館を連れて行かれたんです。
それでテニスを2人で回っているときに、
あ、れいこぞだと私は言ったんです。
小学生になる前に。
それで母親はびっくりしました。
なんで知ってるんだ、みたいな。
それは家には美術の本一冊もないし、
キシタ流星の流道本も、
字も読めないですもんね。
字も読まないし、れいこの路地も話したこともなくて、
なんでお前れいこぞ知ってるんだっていうので、
びっくりしたらしいんですね。
私ももちろんそのときのことは覚えていませんし、
なぜだかわからないんだけども、
多分、これ今からの想像ですけど、
近所に描かれる人が住んでたんですね、絵描きさんが。
その頃はもう絵描きって知らなかったんですけど、
ちょっと変わったおじさん。
近所の変わったおじさん。
私と同い年の女の子がお嬢さんでいて、
その女の子のお兄さんたちと、
当時の私は変わったんすよなと思った。
子供ながらに。
子供ながらに一つ目二つ目。
その人は、
その子は、
私以外友達がいないっていう。
ちょっと変わった。
子供でもその人の、
その子の部屋は汚いと思った。
その家、楽しかった。
しょっちゅう遊びに行って楽しかったんですよ。
多分そこで、
北流星の何か本とか複製とか見たんじゃないかというふうに、
私は想像した。
テレビもそのとき家になかったし、
本もないし。
そこしかチャンスはないんですね。
おそらく、おそらく。
それは記憶はないんですか?
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私の記憶は、
流星のことは全然記憶にないです。
海産さんは物心ついて美術館に、
そこから行くようになったんですか?
その後も、
要するに小学校行く前の息子を、
上野博文くん連れて行くような母親っていうのが、
私にとって大変運が良かったんですよね。
その後も、
ちょこちょこ美術館を連れて行かれるようになって、
なんとなく好きになっていって、
私、中学生のときは足立区にいて、
足立区は東京の外れですけど、
上野が近いんですよね。
電車が20分。
直通電車が20分で。
要するに西洋美術館だとか、
古事作物館とか、東京の美術館とか、
そういうところにはちょこちょこ行っていたし。
その頃は中学生のときは一人で行ってたんですか?
中学生のときは、
友達と行ったりしたんです。
親ではなくて、自発的に行ってるってことですか?
そうですね。
中学2年のときだったと思うんですが、
東京古事作物館が、
開館100周年、木で名品ってやったんですよ。
それ、中学2年で見に行って、
今だったら100周年だから、
多分、名品だらけです。
有名なものが全部。
その頃はガラガラで、
ガラガラというか、
混んだという記憶はないですね。
行列はないわけですか?
行列はないです。
見放題。
頂上機が見放題で、
水泳ショップで売り場で、
カタウグ、
ズロク、
800円だったんですよ。
高かったんですか?当時としては。
安いものですか?レート的には。
多分普通だと思うんですよ。
今ぐらいの金額?
今ぐらいの金額だと思うんですけど、
カラー図版は前の数ページしかなくて、
全部モノクロで、
テキストも、
エッセイも、
載ってないんですか?
写真だけ?
本当に短い回数で載ってた。
それを売り場で買うか買わないか、
本当に悩んだ。
中学生だったら800円はでかいですよね。
その時も、
800円はめちゃくちゃ、
1ヶ月の収入が飛んでいっちゃうわけですよ。
収入ってまだないけど。
普通だったら少年漫画とか、
買うものが他にあるわけですよね。
そういうのも興味なかったんですか?
漫画はあんまり、
興味なかったですよね。
使うとしたらそこしかなかった?
でも、
最初、貝塚少年は結局買ったんですか?
結局買ったんですよ。
悩んだすぎる。
それで今、実家にまだありますけど、
もう宝物ですよね。
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それで、
今はもう簡単に、
手に入るじゃないですか。
買うとか、貰うとか、
業界の人だから。
だけど、あれほど、
勝手によく読んだはずがないですよ。
本当に丁寧に、
何度も何度も見て、
今じゃよく意味がわからないんだけど、
出品リストのところに、
印がついてるんですよ。
丸とか三角とか。
今は全然わからないです。
でも自分なりにやってたんですね。
美術家の不言文作とかに、
丸がついてたりするんですよね。
説集とか。
でも、
そん時から美術の道に行くのは、
ほぼ確定してたんですか?
いやいや、そんなことはないですけど。
でも、
小学校の卒業文集では、
建築家になりたいって書いてあったんですよ。
建築家になりたい。
その頃は、
新聞で、
建築マンションの見取り、
窓見取りみたいな、
今は全然見ないんですけど、
その頃はよく乗って、
そういうのをスクラップしてたんです。
興味は?
昔から研究職な感じはあったんですかね?
多少。
まあ、そうですね。
片鱗はありますね、
何か研究するという。
逆に運動とか、
スポーツ系はどうだったんですか?
スポーツは、
中学がサッカー部だったんですね。
スポーツは好きでしたね。
テレビで見るのも好きだったし。
だから、完全に
勉強ばっかりしてる
タイプでもないんですね?
そうですね。
サッカー部やってましたし、
そうですね。
当時のサッカー部って結構珍しくないですか?
いや、そこそこに、
今みたいな、
Jリーグとかは当然ないけど。
サッカーやりたいっていう人間は、
一定の数、
学校の中には
いましてね。
野球部と同じくらい。
そうなんですね。
じゃあ、どこで学芸員というか、
その道、これだと思ったんですか?
大学ですか?
大学でも当然そっち。
高校に入った時に、
出生番号は、
次の順番のやつか、
入学式の日に、
初めて話した。
彼が、
実は中学校の美術の先生の息子だったんですよ。
本当にたまたま、
今でも仲いいんですけど。
彼が、
よく知ってたわけです。
自分も美術詳しくなったわけじゃないですか?
詳しい。
普通の中学生に比べたら、
でも、もっと詳しい方がいたんですね。
もっと詳しい。
それで、
大学に入った時に、
その頃は、
たぶん、
ピカスまでは知ってたと思うんですけど、
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これ面白いんだよって、
サルバドール・ダリンとか見せられるんですよ。
2週の時間に図書室とかに行くと、
これ面白いんだぜって、
水絵をパッと出して、
美術雑誌の水絵。
水絵を見せたり、
水絵を見せられた子が、
ポップアートとか、
そういう、
当時最先端として紹介してたんですか?
そういうのがあったんですよね。
マチス・ピカスぐらいまで知らなかった人が、
シュールレアリズムとか、
ポップアートとか、
いきなり見せられて、
ポップアートを水絵で見せられた日は、
お昼、ベッドを食べられなくなっちゃったんですよ。
カルチャーショックすぎて。
なんだこれは?
感動したわけじゃないですよ。
え、これが美術なの?
だって、
読み込んでるのはフゲンボーサスとかだから。
フゲンボーサス。
そっから考えたら、だいぶ飛びますもん。
そうですね。
ポップアートだけだと、リチャード・セラーとか、
カール・アンドレとかが描いてたんですね。
もっこりの当時の水絵。
え、なんでこう、
壁に立てかけただけなの?
美術なの?
本当にショックを受けて、
食欲がなくなっちゃったんですよ。
え、でもそれで嫌いになったわけではなくて、
逆に興味持っちゃったんですか?
当時、西武美術館。
あのうちに生存美術館があって、
今はなくなっちゃいました。
西武美術館で、
本当に美術館のコレクション。
ちょうどその頃に来て、
これはいかなきゃなと思って、
見に行って、
その時に刀を買って、
えー、アメリカの美術館、
西武美術館、
はー、とか思ったり。
それから当時、
テレビの深夜番組で、
峯村俊明さん。
峯村俊明先生が、
キャスターというか、
美術番組。
あったんですか?
あったんですよ。
ベルセア美術館の中でとか、
ドクメンタとか、
普段のアートを紹介してた。
ギルバード&ジョージとか。
パフォーマンス。
ものすぐじゃない。
パフォーマンスじゃなかった。
当時は、
ハプニング。
これが美術。
概念がすごい揺さぶられちゃったわけですね。
概念がすごい揺さぶられちゃったわけですね。
マルセディッシャンとポーンと飛んじゃって、
入ってきて、
いろいろ
困難もしたりし、
困難もしたりし、
それからもちろん、
シャガールデビューに行ったり、
シャガールデビューに行ったり、
いわゆるタブローの美術も
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いわゆるタブローの美術も
行ったりしていて、
もちろん美術館は一人で行くところ。
もちろん美術館は一人で行くところ。
結局、
決して、
アーティスト側にはならなかったのか。
あ、それ、
美大にいきたい格?
高校のときは、
美術部とサッカーブの
チャンポンで
両方入っていたんです。
練習はサッカー部の方が優先で、
練習はサッカー部の方が優先で、
美術部は動かせるときに
描いた絵を出すというだけ。
描いた絵を出すというだけ。
その情報だったから もしそのときに自分に絵を描く才能があるっていう自信を持てれば
未来のポイントだと思います
じゃあ それは自分の中では確信は持てなかったんですね
持てなかったですね
じゃあ その高校のときにはもう研究者というか
いやいや 何となく大学に行こうっていう
未来じゃない大学に 普通の総合大学に行こうという感じでしたね
そのときって学芸員になるとは まだ思ってないんですけど
学芸員という言葉は 多分高校生は知らなかったと思うんですね
大学は結局文学部の美術士学科というのが進んで
もちろんその頃は学芸員という言葉を意識して
なりたいなとは思っていたんだけども
その頃 当時は学芸員でもよく知らなかったですよ
よく知らなくて 学芸員というのは
天高い方のようにエッセイを書く人だと思って
なるほど 自分が読んでる 読んでるから名前が出てくる
名前が出てくるから こういうことをやるのが学芸員だと思っていて
絵を描くために交渉するとか 展示のプランを考えるとか
天高い予算を考えるとか
そういうことを全然考えないと思いました
でも 最初に美術館はコットン博の作品だったわけじゃないですか
それでマティスとかピカスも見たり
ウォーホルとかに出会ったのに
なんで最終的に近代洋画を選んだのか
やっぱり卒業論文 青木茂雄だったんですけども
青木茂雄好きだったんですね 高校生の時も好きでしたね
好きで そういうことをブリジスト美術館見に来て
青木茂雄ね
青木茂雄見に来たり ブリジスト美術館で覚えてるのは
安井総太郎展であり
それからレンブランド展が来ましたね
高校大学時代にってことですか
高校 大学入ってたかな
高校大学時代ですね
大学の時には ブリジスト美術館っていうのは
当時 青木茂雄 海の幸は 久留米の石橋美術館にあって
夏だけ東京に持ってくる っていうルートだったんですよ
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で ブリジスト美術館は 夏に海の幸
農石なら海の幸が飾ってある時に行く美術館
っていう そういうイメージだったんです
そもそも 青木茂雄好きになった理由って何ですか
それは分からん 何ででしょうね
急にバチンと来たんですか
いや きっかけは覚えてないです
青木茂雄の魅力というか ハマってる理由って
今はあるんですか 自分の中で
今はやっぱり好きですね
何が違うんですか 他の方と
えっとね
なんかね すごい前延びりな感じをするんですよ
前延びりっていうかな
なんかね
えっと
えっと 何て言うか 池の淵に行って
もうちょっとで起こっちゃうよ っていうところに
ちょっと危うい感じ
危ういところに自分を追い込んで
こう生きてるって感じがやっぱり ちょっとするんですよね
ギリギリを いつも生きていたいから みたいな感じで
っていう感じがしますね
青木茂雄の研究として
やっぱ青木茂雄が絡んだ場所というか
にはもう行ったりは いっぱいしたんですか
学生時代とかに
学生時代は くるべ 島々市美術館に行っただけでしたね
海野社長が描いたのは 立山の海岸ですけど
それは心が分かりになってから 行っていきました
青木茂雄 でも他のみんなっていうのは
学生時代って みんなやっぱり 洋画をやってるんですか
それとも結構 みんなバラバラに 勉強してるものなんですか
学生時代すごく貧しくて
生活費を 自宅から通ってたわけですけど
生活費を稼がなきゃいけないので
特に5月に学科で 京都奈良に 県役旅行1週間行くんですね
その当時で10万円以上 取んじゃうんですね
結構な金額ですね 学生にとっては
その後 それと月々の生活費
生活費 定期券買うとか そういうのを合わせると
春休み 頑張って 貯めとかなきゃいけないんですよ
稼ぎ時なんですね
でも もちろん世の中 転勤の季節だったりするから
引っ越しの 仕事が多くて
それで そのときに 引っ越しのアルバイトをしたりして
県内のお金を貯めるために 春休みだったんですよね
でも みんなそうじゃないんですか
みんなはもう 要するに 卒業論文のテーマを固めるために
ヨーロッパへ旅行行くとか あれも
おだしょー ご両親のお金で みたいな
田窪 もちろん
おだしょー のが 結構 ポピュラーだったんですね どちらかというと
田窪 どちらかというと そういう 時代だったんですよね
そういう中では 数は少ないけど 春休みは割とっていう
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そんな感じで こういった ほんとに語弊があるけれども
やっぱり西洋美術やるほうが 経済的に豊かで
日本美術やるのは それほどでもないっていうような
もちろん 日本美術の中でもいるけれども
おだしょー 研究しやすいですもんね
だって1個しないと済むわけじゃないですか 基本的に
田窪 基本です このくらいで
おだしょー そうか そうか
経済的にもいいんですね だから 西洋美術が
これ 聞いてる方で もし今後 研究職やる方も
いろんな経済の層があるから 自分は だったら
近代洋画やるといいなとかも ほぼいるかもしれないですもんね
これ 聞いてて
田窪 もちろん ほんと優秀だったらね
奨学金もらって ヨーロッパに行って アメリカに行って
できるわけだけど そこまで優秀じゃないし
そういうことになると やっぱり 電車で家から行って
帰ってこられるところを対象に 選ぶという感じでしたね
そうか みんなが近代洋画ってわけじゃなくて
みんなバラバラにやってたんですね
そうですね バラバラでした
田窪 で 考えると近代洋画やってる人っていうのは
結構少ないんですか
当時は少なかったですね
田窪 今はどうなってるんですか
今はどうでしょう 今も
本当にギンシャローマンから 20世紀ミスまで
結構 いろんな幅広い人が いるんだと思います
だけど 美術史学っていう学問で 勉強しようとすると
なんとなく雰囲気 先生から当時 私 言われませんでしたけども
大学では ちゃんとそのことを きちんとやって
そういう職業に就いたら それから 自分のことやりたいことを
広げていけばいいという先生も 学会の中にはいらっしゃる
っていう そういう雰囲気がありましたね
田窪 ちなみに 今さらであれなんですけど
僕もざっくりなんとなく そういう感じで 喋っちゃってるんですけど
近代洋画って 基本 どこからどこまでを 一応 言ってるんですか
最初はやっぱり明治維新から 終わりはちょっと微妙ですよね
田窪 そこは人によって
貝塚さんは大体どこまで 守備範囲として考えてるのに どこまで
貝塚 私は特に守備範囲って
白川和夫さんで論文を書いたこともありますし
それほど
昭和に入っても
田窪 昭和に入っても そうですね
近代 じゃあ ご存命の人は 現代だけどって感じですか
田窪 そうですね 明治維新からって言うけれども
明治維新 前とずっとつながってるんだよ っていうことを
強調したい研究者もいるし 現代美術のほうとも
いろいろつながってるんだよ っていうことを
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主張したい人もたくさんいますし
今は境が曖昧になってますよね
なんとなくみんな使ってるけどですよね
国立近代美術館なのに 現代後手にやったりとかするから
だんだん近代って何? って思い始めていって
それは学生さんによって みんな待ち待ちなんですね 捉え方が
学生時代に 例えば研究するわけじゃないですか
どういうことを研究しにいくんですか
田窪 学生時代は もう研究のうちに入らないです 私はね
それは今 私は結局 学部卒で学園になっちゃったんですよね
当時は珍しくはなかったけど 今はあり得ないです
今は修士論文まで出して ノクターコースに入って
順番待ちとか 修士出てないのに 学園になると
今じゃ全くあり得ない
それはなんですか 修士とかで
もっと専門職の勉強してから 入ってこいってことですか
田窪 今は 学生さんもそうですよ 今は幕打ちが狭いので
誰か辞めなきゃ 空きがなかったり 大きい美術館が
確かにできるとパイが膨らみますけど
やっぱり就職口が少ないので 優秀な人はたまっちゃうんですよね
その研究の話につながるかもしれないですけど
学園員としての能力っていうのを どこで見極められるんですか
こいつ研究できてるなってやつと こいつはあんまり研究できてないなって
人はいるわけじゃないですか ピンキリで
どこで業界の人たちは こいつは研究できてるわって
見抜くなんかあるんですか
田窪 修士論文がぐらいになると 学会発表をしたり
学会誌に文を書いたり それ以外でも書き換えがあるので
そうすると何となく名をつけられてきますね
できるやつっていうのは何ができる
田窪 やっぱりきちんと視点が良くて
それをしっかり捕まえて ゴールに目指して
色を積み重ねていって きちんと結論を分かりやすく言える
そういうことで証明がちゃんとできてる
田窪 それもやっぱり学院になっちゃうと
細かい問題をいろいろ突っ込んでいくんだけども
学生だとフリーハンドだから 問題の立て方が多くないと
せっかく学生で自由にできるときは
多少物色でもいい課題を 自分に立てられるかっていうのが
すごく大きいですよね
学院の現場になっちゃうとそんな
あまりエラストなこと言えないし やってられないんだけど
学生のときはちゃんと自分が進みたい方向を
照らし出すようなテーマを自分で作って
そこにある程度たどり着くような研究を
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他の人に分かるようにアウトプットしていく
っていうことがやっぱり必要なんですよ
田窪 当然ですけど 学会で発表する研究テーマとして
バンっていったときに それもうみんな知ってるし
みたいなことを最初に出したらアウトなんですよ
田窪 アウトですよ それは
田窪 もうお話にもない
田窪 そうですね 今までのことを全部抑えていって
こっから先は自分がこういう新しいことを 提示したいんですっていうことを
ちゃんとできる人
田窪 すごい文献いっぱい調べてきたんで
こんなこと分かりましたっていうのは 研究ではないですね
分かりました じゃあそっから先どうなのっていうことを
田窪 ウィキペディアまとめたようなもの
田窪 そこではないですね 研究
新しい自分なりの発見をしなきゃいけない
田窪 あと今までのたくさんあるものを整理するところは
やっぱり研究にはなりますよね
バラバラになってこう筋つけて まとめ直しましたっていうのは
研究にはなります 研究生活には
そこだけでも成果があることもできたりすることもあるし
あえて言うとそっから先に じゃあお前何だろうっていうところも
提示できるといい
田窪 これはいわゆる研究発表だけでなくて
展覧会でもやっぱり言えることですか
なんとか展っていっぱいある 例えばピカソ展なんかいっぱいやってるけど
今ピカソ展やる以上 何か学園さんとしては
新しいのを出さないとやっぱ意味がないと
田窪 そうですね これは展覧会は
いろんな要素がありますから 一概には言えないけれども
やっぱり学園としては 狭いところの学園の成果としては
新しいことをせっかくお前がやるんだから
何が言いたいのっていうことを 出てないと
やっぱり言いたいだけじゃないですね
森 人気があるから弱虫やったら 人気あるから弱虫ってやりました
はあんまり学園の仕事じゃないですね
田窪 そうですね
森 やるからには何かお前なりのもの見せろよってことですね
田窪 そういうことになりますね
これまで貝塚さんが展覧会やってきたと思うんですけど
貝塚さんがやった展覧会の中で 特に自分なりに印象残ってるなっていうのは
田窪 例えばですね
お菓子家の助手というのをやったときに
お菓子家の助手ってこれまで いくつも開かれているんですけど
給食所に分けて その給食所を モチーフを分けたんですよ
田窪 お菓子家の助手が書くモチーフっていうのは
田窪 原とか海とか
森 あと発電所とかよく書いてるイメージありますよね
田窪 発電所っていうのも作って
森 コーナーも作って
田窪 コーナーも作って 発電所のモチーフを
同じ時期に書いたのではなくて
パラパラっていうのを寄せ合わせて
そうすると実は前に書いた発電所を
こう持ってきてくっつけたっていうのが 分かったりする
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基本的にどうしても年代上に並べらせたけど
じゃなくてテーマごとにやることで
新しいのが分かった
森 それは生誕100年を記念するお菓子家の助手で
クロロジカルに順番に並べるっていう 決定版みたいなのをやったんですよね
それが京都国立近代美術館を中心にやったので
それを二番煎じ
二番煎じじゃなくて
違うお菓子家の助手を持っていくことで
モチーフごとに並べるっていう
モチーフごとに壁の色を変えるとか
それから一番最後は融合っていうところで
花とか廃墟とかっていうのを組み合わせ
それぞれのセクションにあったもののモチーフが
組み合わさってるっていうのを
一部屋で並べて
それを最後に見納めて
お客さんにお帰りいただくっていう
自分でもすごく楽しくて
展覧会の出品交渉
それをうちが持ってるお菓子家のスーティンですから
いろんな美術館の個人コレクターが書いてくるんですけど
美術館に出品交渉に行くときに
もう展覧会の爪を持って行って
ここにあなたの美術館のこれをここに置きますと
この隣にはもともと美術館の絵を並べますと
だから貸してくださいっていう交渉
もう断りづらいですよね
いや まさに断りづらい
でも向こうもワクワクするんですね
そこと並べるんだみたいな
それを楽園はくすがらないと動かない
いろいろ力関係とか
いろいろ可視化に
テクニックがあって交渉テクニック
それはほとんど行ったところ100発100中だったんですか
いやいや
それくらいは難しい
でもほとんど自分がやりたい点ながらになったんですか
骨組は思い通りにいきました
並べるのも楽しかったし
作業して楽しかったし
出来上がって
自分が一番おっとりして
出来たなって
出来たっていう感じでしたね
今までいろいろ白馬回転とか
藤島竹地の方も携わってるんですけども
僕がすごく印象的なのが
チャイナドレス
これすごかったですよね
今でも覚えてます
チャイナドレスに注目した展覧会
改めて
これ中国服
チャイナドレスで和製英語
英語ではないんですけど
中国服を着た人物像
ほとんどが女性像ですけど
それだけを集めた展覧会をやろうということで
これは藤島竹地から始まって
梅原隆三郎 安井聡太郎ぐらい
だいたい30年間ぐらい
20世紀の前半の
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日本人が描いた中国服 女性像だけを
集めた展覧会
モデルさんは日本人ということですね
例外は中国で
画家が中国に行って
中国人を描いた絵もありますけど
ほとんどは日本人がですね
なんでそんなチャイナドレスブームがあったってことですか
ブームまでいかないけども
今よりもはるかに
日本人がチャイナドレスが好きだった時期があるんですよね
着てる女性が好きだったのか
それともモデルさんとして描かせるのが好きだったのか
両方ですね
これは
女性が和服から洋服に変わって
ずっと服装って変性があるけれども
ある時期から普通にチャイナドレスを
着て歩く人が
いつぐらいですか年代でいうと
1920年代30年代
決して多くはないですよ
多くはないけれども珍しくはない
今だったら目指すんですけど
そういう時代があったんですよね
それとそういう女性を描こうっていう
そういう画家たちの
動きもちょうど合わさって
それは同時に文学でも
中国趣味っていうのがやっぱりあったんですよね
芥川龍之介とか谷崎純一郎が
彼らはあの二人は中国にも
旅行に行ってますけど
中国をテーマにした小説を盛り返す時期があったんですね
そういうのと重なり合って
日本の20世紀前半の中国趣味
ちょっと難しい話をすると
エドワード・サイドル・オリエンタリズムっていう
いわゆるヨーロッパ人が
アラブ圏の
当時ヨーロッパから見てオリエントと呼んでた人たちを
見るわらざしを
日本人はヨーロッパに行って学んで
それを日本に持ち帰ってきて
それを屈折させて中国に向けたんですよね
その目線をですね
それがそっくりヨーロッパが
オリエントを見る見方とは違うというのは
日本はかつては近代より前は
中国の方が偉かったんですよね
これは国の経済力も文化力も
圧倒する国で
日本は中国からいろんなことを学んでいたんだけど
近代になって逆転したと
日本人は思った
今はまた最逆転
そういう屈折した思いを
ヨーロッパで学んだオリエンタリズムと重ねるけれども
ヨーロッパ人が見るのと全然違うんですよね
やっぱり
漢詩を読んだり漢文学を学んだっていう
染み込んだ
33:02
染み込んだ中国好きっていうのが
じわじわと滲み出てるし
中国に対する尊敬とか愛着とか
あるいは当初の優越感とか
いろんなものが積み重なって
日本人に中国を着せて会いちゃえる
エリアに
複雑な感情が出てるんですか
これはどこで思いついたんですか
あるんでしょうね
それに類する論文がいくつも出されてますし
それからやっぱり
安井総太郎の金曜っていう
東京国立近代美術館がある
青いドレスの
ちょっと飾ってみたいなとか
それから藤島竹地の
今回ステップサイトに飾ってある
中国服の女性装で
一緒に飾りたいなとか
展覧会に新種造品として出てますけど
この当時はまだ個人のものではなかったんですね
はいはいはい
いくつかこれとこれ飾ってみたいのがあったんですか
飾ってみたんです オンチ公衆の墓もあるし
梅原隆三郎が北京で空儀屋を描いた絵もあるし
それらを合わせると
面白いんだろうなっていうことから
作った展覧会
これを企画以外は今後
教育普及部長になったらやらないんですか
もう私は展覧会企画から
リタイアして教育普及活動の
総じめみたいなことをやると
たまたま1年前の開館記念展だけは
担当しましたけど
一番古い人間でコレクションのことを
色々知ってたのかなということで
開館展だけやったと
それ以外は展覧会はもうやらないですね
本当はやりたい気持ちもあるんですか
年も年ですからね
大変なんですかそう考えると
大変ですね 疲れますね 体力がいりますね
一番大変だなと思うところはどこですか
特に展覧会の仕事で言うと
一番精神的に具体的に
ここがきついのは
自分が一番苦手なのはお金の管理
予算を立てて
その通りに執行するために
財布を絞ったり開いたり
いろんな人に頭下げて
ごめんなさいしたり
そういうのがやっぱりちょっと辛いですよね
あんまり得意ではない
だけど得意じゃないって言ってちゃいけない
それも仕事の一つ
学園の中でそういうことは
36:00
仕事じゃないっていう
学園もいるんだけれども
それがちょっと違うなという
大事な要素で
それもちゃんとわかって
自分の仕事のマネジメントを
お金も時間管理も
内容もそういうことを全部
マネジメントできる人間を
学園を目指すべきだなと思ってますね
結構これ
学生も聞いたりしてくれてるっぽいので
貝塚さんが言える範囲で
今まであれすごい失敗しちゃったなっていう
反省で言えるやつとかってありますか?
反省だらけで
本当ですか?
天羅会っていうのは
まずプランを作って
それで最初にドリームプラン
一番の理想像
その理想は高すぎてはいけないんですよね
理想が高すぎちゃいけない
だけど低すぎてもいけないんですよね
その微妙なところで
理想のプランっていうのを作って
それはやっぱりすごく大きい仕事なんですよね
理想に向かって
どこまで頑張れるかっていうところ
体力的にも能力も知識も経験も
できる限りのことを
全部投入して最後にようやく
天羅会にたどり着くと
それは細かい失敗だらけだし
ドリームプラン通りには絶対ならないですよね
ドリームプラン化すると
70点いけばもう
いいほうですか?
それは何度やってもそんなものですか?
回数重ねたからとかではないんですか?
それは出品交渉にしても
強みとかできる回のことをやって
何とかこぎつけると
やっぱり70点がいいところですよね
落ち込まないほうがいいんですね
70点も十分
ドリームプランが低ければ
80点10点いくんだけど
ドリームプランが低すぎる
ある程度ちゃんとしたドリームプランだったら
70点いけばもう合格点です
そういうもんな
図録書くのがめんどくさいとか他にはあるんですか?
天羅会以外で
文章書くの割と好きなんですよね
それもいる?ある程度
好きすぎて文章長すぎちゃって
図録が膨らんで予算オーバーする
そういう学園もいますよね
書きすぎちゃう
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筆が滑るなんていうやつもいますけど
あんまり好きじゃないっていうのもいますし
いろんな能力が必要ですね
これ学芸員さん同士で会話ってするんですか?
海賊さんで覚えてる?
海賊さんとよく仲良くなったのは
年賜会ですか?
新年会
僕も学芸員さんじゃないけど呼んでいただいて
あれはいつからやってるんですか?
あれは元を正すと
半信大震災
95年の半信大震災の時に
美術家博物館の被害調査をやったんですよ
2分冊の報告書をまとめたんです
その報告書をまとめ終わって
海賊さんに関わった人たちの打ち上げがきっかけだったんですよ
最初は
全国の学芸員が集まってやったので
そうしょっちゅうはできないから
1回くらい集まろうかっていう感じで
集まって
そこからメンバーがどんどん変わっていった
学芸員さんなら誰を誘ってもいいよみたいな感じの
新聞記者もいるし編集者もいるし
美術業界の方はいろいろいらっしゃいます
ちょっと今年はコロナでできなかったですけど
あれは毎年楽しいなっていうのがあってやってるんですかね?
そうですね
意外とそういう会ないですもんね
一つのジャンルで固まるじゃないですか
洋画は洋画と浮世絵学会は浮世絵学会
あれは珍しくいろんな人がいらっしゃいますよね
語りがあるといえばあるのかもしれないけど
それで美術の話とか交換してる?
あれは楽しくて集まってるっていう感じだから
あんまり仕事の話はそんなにしないけれども
でも仲にはしてる人いるでしょうね
ちょこちょこっと頼むような
やってるかもしれないですね
学芸員さん同士であの展覧会よかったよねとか
結構してるんですか?
ちょこちょことしますね
逆に例えば展覧会見て
これやられたぜみたいなことはあるんですか?
ありますね
本当に驚いたっていうのは
目黒区美術館で炭鉱
はいはいありました炭鉱展
誰にも言い忘れたが文化資源としての炭鉱
マニアックな展覧会ではあったんですけど
炭鉱で働いてる人の
最終的にユネスコかなんかに選ばれた
絵日記的なやつとかもあれば
42:00
炭をテーマにモチーフにした現代アートもあるみたいな
川端忠さんのインスタレーションとか
あれはちょっとやられたなと
どういうやられたな?
発想はなかった?
こういう発想はなかったっていうのもあるし
こういう発想でさらに突き進んでいくパワーってのはすごいですね
それは担当担当学院さんに言いに行くんですか?
良かったよ
その時お会いしなかったです
お目にかからなかったです
その後何年かしたんだけど
あまりにあれは素晴らしかった
当たり前すぎて言ってないですね
でもそういうことはあるんですね
あるあるです
あと逆に視察しに行くときもあるんですか 例えば自分のジャンルの
例えば青木茂だったら 他どっかでしたらもう見に行って
それは見に行くべきところは やっぱり国内だったら行きますよね
それはもう全然お仕事とは別にですかね
いや仕事と絡めて それだけというより色の部分をひっくるめて
見に行ってチェックして 報告書を書いて
報告書も書くんですか
書けますからですね 出張報告書ですね
年間どれくらい見に行くもん そういうので行くと
出張は
出品工廠とはまた別ですね
そうですね 出品工廠はまた別ですね
出品工廠はゼレに見るってことも もちろんありますけどね
結構年間国内はかなり
いやそんなにないですね 2ヶ月に1回くらい
一番行ってた時はもっと日差し切ってのがあるんですか
そうですね 色々な全国美術館会議っていう組織があって
それを事務局の仕事をした時は そっちのことでしょっちゅう知らせとか
それはその時は出張が多いですね
必ず月1回以上は出張に
結構あるんですね
それと別に展覧会から出品工廠があるし 結構忙しいですね学部
そうですね
今教育普及部長になったら 少しゆうとりが出たってことですか
出張は少なくなりましたね
美術館の仕事以外で何してるんですか 趣味的なものってあるんですか
中学高校サッカー部で サッカーは今でも好きなんですけど
サッカーは今でもやるんですか
やらないです
観戦で
最後に見たのはロシアワールドカップの最終予選
それが最後の観戦ですね
それ以降は行ってないです
それまでは結構行ってたんですか
行ける時は行ってましたね
日本代表を応援するのと
Jリーグで裏割れのファンなんですよ
45:02
昔からですか
Jリーグの時から
僕サッカーやってたんですよ
少年サッカーで
小5の時にJリーグ始まるんですけど
裏割れってガンとつ最下位チームだったじゃないですか
最初は
人気もほぼなくて
いやいや人気はありましたよ
本当ですか
チームメイトの仲間なのかもしれないですけど
Jリーグチップスで裏割れ選手出ると外れでしたから
でも当時から好きだったんですか
そうですね
1年目はもう負け試合ばっかり見ましたね
そうそう
その時代ありましたよね
そうそう
ベルディー・川崎が優勝決めた試合ってのを見てますよ
裏割れに勝って優勝決めた試合
なんでそんなに好きだったんですか裏割れは
やっぱり
日本リーグの時代
三菱重工が好きだった
三菱重工が好きだった
もうそこからいるから
Jリーグの時に
その時は
三菱重工一辺倒じゃなかったんだけど
Jリーグができた時に
どっか俺は心決めようと
その時
一つ決めなきゃ
それで
日産と
それから古川も好きだった
ジェフとかマリノスですね
ジェフかマリノスか裏割か
っていうので
その時のJリーグ
前の年に
裏割れっつっていう名前で
色々試合を
やった時に
見に行って
森監督の時代で
裏割れの戦法いいなと思って
裏割れに
決めたんですね
決めたんですね
そしたら最初は
ボロボロだった
それで
ブラジルの男が
一番はずべき行為というのは
自分が
サポートする
クラブチームを変えるってことが
一番はずべき行いだった
変えちゃいけない
何があっても
選んだ以上
それで裏割れ
裏割れか優勝するのは
結局何年後に
10年以上経ってから
10年ずっと応援し続けてたんですか
そうです
その時の喜びは半端じゃないです
半端じゃないです
そうですよね
長かったですよね
応援しに行ってたんですか
その頃は
優勝した年は
ほとんど行けてなかったです
美術界で
サッカーファンの
いらっしゃいますか
盛り上がったりするんですか
えーと
静岡県立美術館の
木下館長
静岡出身
サッカーやってたんですよね
高校まで
東京芸術大学入って
48:01
行っちゃっていいのかな
東京芸術大学入って
サッカーも入ろうと思ったら
あまりに下手なんでやめた
静岡だって
レベル高いわけですよね
もう
レベルしか高いわけですよね
話にならなかったです
でもあんまり
多い方ではないですか
そうですね
あんまりスポーツの話自体
そんなしないけれども
あとそれから
国立西洋美術館の
真淵明子館長
真淵明子先生は
日本サッカー協会の副会長
そうなんですか
意外な
もうお辞めになりましたけど
いらっしゃるんですね意外とサッカー
真淵明子先生は
本田君とか言いますよね
本田圭介のこと
そんなレベル
なかなか本田君
それが
西洋美術館のオープニングとか行くと
中田秀俊さん
よく来てます
いらっしゃるとき見かけた時に
あれは真淵明子先生は
中田君来てよとか電話したんじゃないかと思います
なるほどなるほど
サッカー以外は
他に趣味的なもんとかは
学生時代は
映画も
映画も好きでしたね
映画好きで
はすみしぎひこ先生
もう
リタイアされてる
はすみ先生の
ゼミとか出てて
1年間に100本
映画を見なきゃいけない
100本って結構きつい
きついっちゃきつい
時間作らなきゃいけない
週3ペースですね大体
2本立てとか
貸せ貸せ
その頃
一番フィルムセンター
よく行ってましたね
国立映画アーカイブ
国立映画アーカイブ
行ってたんですね
その頃フィルムセンターに行くと
伊丹十三さんが
途中来てましたね
ご本人がですか
その後
監督されて
監督になる前の伊丹十三さんに会いました
へー
人に歴史ありですね
そう考える
いろんな話を伺ってまいりましたけど
将来的に
こんなことやってみたいとかありますか
今
年ごとしてなので
やっぱり次の世代
次の世代のためになることを
やっぱり残さない
残したいし残さなきゃいけない
それはやっぱり
こういうことやりたい
っていうアイデアを持った時に
実現しやすい環境を作っておいてあげること
学芸員さん
若い学芸員さん
若い学芸員さん
そういう環境を
何ができるって言うと
難しいんだけども
51:01
そういう状況を少しでも
1センチでも
2センチでも
前に進めるように
そういう環境を作ってあげたいなという気がします
それこそ前半にも
話出てきましたけど
アーティストの子供の広場に
僕も1日収録させてもらう機会が何度かあったんですけど
若い学生さんたちが
見学に来てたじゃないですか
って伺ったら
1年間インターンを
これ難しいですよね
他の美術館はなかなかないですけど
ここの美術館は
2000年から始めたんですよね
これは別に
大学の子でもいいんですか
一応首都圏
の大学院生
ということで
今ちょうど
3月25日まで
この最新時には
もう終わっちゃってるかもしれないですけど
来年もやる予定はあるでしょうから
ちょっと耳に
2月3月に募集するという
これは
実践を学べるってことですか
そうですね
最初は研修みたいなことを
いろいろやってもらうんだけど
小学生が来た時ともギャラリートーク
やってもらったり
ファミリープログラム
さっきお話したファミリープログラムで
ギャラリートークとか
子供のケアとか
誘導とか様々な仕事を
実際にやってもらいます
でもそれをやった上で入ると
もう楽ですよね
ある程度知った上で
入れるわけですもんね
これはそのインターン生は
学園志望で
去年まで60人
60人インター
のみ
計60人インターですけど
20人ぐらいの技術が入ってます
僕のよく知っている学園医さんも
そこを趣旨知らないというのを
教えていただきましたけど
だからこれから学園医になりたい人
そういう若い人向けに
っていうのが今ちょっと
そうですね
自分が学生の時考えると
学園医ってあまりにも何も知らなかったんですよね
知らなくて
今から言えるけど
私は学園医になってから
学園医で勉強したんですよね
学園医ってこういう仕事があるんだって
そういうことを
やっぱり学生の時から
学園医になる前からある程度
知って
知ってもらうような
そういう体制に
したいなっていうのがあるんですね
これはだから今も学校では
なかなか教えてくれないってことなんですね
今いろんな先生が
すごく実務的な
あるいは現場に即した
教育活動をやるようになってますけど
でも
自分のことを思い出すと
私が学園医になって
2週間目ぐらいに
ギャラリートーク
ダンタン君 ギャラリートークやって
54:00
入って
ムーンクロハンガーみたいなのを
やってたんです
その時 前の場合は徹夜ですよ
ギャラリートーク
ほぼ徹夜
一夜づけじゃないけど
ほぼ徹夜で
当日 今だったら
ギャラリートークする時は
ちゃんと睡眠を取る
自分は今分かってますけど
とにかく
寝られないんですよ
不安もあるし
いろいろで
本を読む
当日 何喋ったか
覚えてないんですよ
緊張とか
プレッシャーとか
もうすとんじゃん
記憶ないんです
記憶がなかったっていうことだけ
よく記憶してるんですね
それがトラウマで
なっていて
これがやっぱり
学芸を経験するのは
順序が違うんじゃないか
っていうのもあって
学生の時に
ギャラリートークってこういう準備がいるんだって
自分でやってみないと分からないことがあるんです
ギャラリートークって
方法一つじゃないし
準備は人それぞれだし
自分でやるやり方っていうのを
一応やってみないと
分からない
そういうことを言った時に
やってもらえば
本当に学芸になった時に
インスタント切れるんじゃないか
っていうことで
そういう機会を作ろうと
最後にこの質問だけいいですか
2週間目でも
そういうふうに
大変だったわけじゃないですか
海塚さんが自分なりに
一人前になったなって思ったのは
そうですね
学芸になって
5年目に
阪神大震災があったんですよ
阪神大震災があって
それで被災地に行って
救援活動とか
救援活動って
美術館の救援活動
それから
被災してから調査活動
したんですけど
その時に人生が変わりましたよ
人生が変わって
なんかね
美術館って
地震がなくても
危ないから
そもそも
すぐ崩れちゃうかもしれない
そういう存在じゃないか
っていう気がして
これはやっぱり
心を入れ替えて
仕事をしなきゃいけないな
っていうことで
それまでギャラリートーク
してましたけど
ギャラリートーク
ネタというのが
構成とかは全部
切り替えたんですよ
それをきっかけに
もちろん地震のこと言うわけじゃない
切り替えて
本当に言いたいこと
何なのかとか
自分が本当に言いたいことを
57:00
伝えるためには
どう組み立てればいいのかとか
そういうことを考えるようになったんですよね
それが
その果ては
子供の広場だったりするわけだけれども
そういう時に
自分が一番嫌だった
と思わないけれども
ちょっと違う段階に
入ったなっていう気がしまして
そのきっかけに
震災は
本当に多くの人に言って
大変不幸だって聞くことがあったけど
自分にとっては大変大きい
事件ですね
自分の人生を
ギアチェンジする
大変重要だ
事件
そういうきっかけが
必要ってことなのかもしれないですね
あるのは大事なのですね
はい
いろんな話を伺わせていただきましたけれども
そろそろ収録を
あっという間でございました
本の旅は本当に
ありがとうございました
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