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さあ、始まりました。アートテラー・とにのそろそろ美術の話を...です。
この番組は、アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えしてトークするポッドキャスト番組です。
第4回目は前回に引き続き、天野太郎さんにゲスト参加いただき、
天野さんご自身のことやアートの醍醐味をお聞きしたいと思います。
天野太郎って何者って方も多いので、まずはちょっとその辺からという。
何者ってまあ、組織に属してね。
お給料もらって学院してるっていう人間ですけどね。
急に小さくなったな、声が。
でも、天野さんがさっき、第3回でいろんな芸術さんの話をしてるから、
現代アート専門の学院だと思われてるけど、もともと違いましたもんね。仏教美術でしたっけ?
そうですね。
そうですよね。
あのね、僕は関西で生まれ育ったんですけど、
住んでる地域に在日の韓国、朝鮮の人とか、そういうコミュニティがたくさんあったんですよ。
これはもう結構覚えてるんですけど、小学校のとき僕はサッカーしててね。
そのときに学校の先生経由で、在日の韓国じゃなくて朝鮮の方の小学校と試合が決まったんですよ。
ただ、僕らの頃はね、
そういう在日の人たちのコミュニティにあんまり近づくなみたいな、ある種の偏見もあったし、
差別ももちろんあるんですけど、とにかく向こうの学校へ行って試合したんですけど、
ところが、韓国はね、国技に近いんですよ、サッカーって。
当時ですか?
当時というか今もそうですけど、だから今の北朝鮮はワールドカップ行ってるの、日本よりも。
とっくのとおり。1960年代かな。
とにかくものすごく強いんですよ。それだけは知ってたんだけど。
そういう強いし、向こうも日本の学校で野球ばっかりやってると思ったら、サッカーなんかやってるんだみたいな。
今ほどだからサッカーが染みてないってときですよね。
で、向こうとしても圧勝っていうの。負けはしたんだけど、2対1だったんですよ。
意外と接戦だったんですね。
そのときに小学校の教室で、みんなで試合の後に交流会みたいなのがあって、ジュースなんか出ちゃったりしてね。
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それがね、ものすごい綺麗な教室が。廊下ピカピカだし。
で、小学校の教室には初代の日生かな、の肖像が飾ってあったりはしてるんだけど、
見ると聞くと大違いっていうか、もう僕らの小学校よりも圧倒的に綺麗のよう。
もっと汚いとか怖いイメージがあったんですね、行くまではっていう。
でね、そのときのキャプテンだった人と、そのときだけだったんだけど、かなりお互いに印象深い付き合いだったんですけどね。
それがね、高校も僕サッカーしてたんだけど、ばったり会うのよ。
また久々、小学校以来。
彼もサッカー部入ってたんだけど、一緒に試合するとこまで行かなかったんですけどね。
日本の中で知ってるかな。
そういう違う国、つまり韓国だ、北朝鮮だって言ってるんだけど、
小学校のときなんかもあんまりわかってないし、もちろん。
で、高校のときもあんまりわかってないんだけど。
だけど、日本の中にいろんな朝鮮文化があるような本が出てた、そのときに。
なんかそういうのに興味があったよね。
だから、仏教美術なんだけど、最初にあったのは、
日本の中の朝鮮文化じゃないんだけど、朝鮮美術みたいな石物とかさ、
白木のね、だから当時の白木の慶州ってところにあるような、
ナムサンっていうところに魔外物があったりするんだけど、
それの影響を受けたような魔外物を調べたりとかしてたんだよね。
それは高校のときにも。
大学入ってからかな。
でも興味は持ってたってことですね。
でもサッカー選手になりたいなとかなかったんですか?
そんなにずっとサッカーやってて。
かなりいいとこまで行ったんだ。
サッカーマガジンってあるでしょ。
あれに3回、3号ぐらい連続で模範プレイっていうのを、
例えばヘディングするとか、連続写真で出たことがあってさ。
プレイヤーとして結構すごかったんですね、当時は。
だからね、時々大人の人なんだけど、
君サッカーマガジン出てたよねって言われたりするのよ。
じゃあ美術のほうよりも先に、サッカーマガジンデビューの方が早いんですか?
美の字もなしみたいな。
じゃあそこまで行ってて、なんでサッカーのほうに行かなかったんですか?
やっぱりね、上には上がいるのよ。
上手い人が。
だからまあまあ行けてたけど、
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でもね、そんなプロまで行くようなもんじゃないわなというのはありましたけどね。
じゃあ高校で辞めたんですか、サッカーは。
そうですね、高校で。
でも大学行くときにはもう美術の学部を選んだってことですか?
いやいや、まあこれは、こんな個人的な話したくないんですけど。
じゃあいいですよ、何なんですか。
もともとね、勉強ができるできないに関わる、そのことはちょっと置いといて、
勝手に決めてたのは、京都不律医大に行って精神科の医者になって、
結構黒ずくめっていうのかな、黒のタートルと黒のジャケットと。
ブラックジャックじゃないですか。
なんかちょっとこう、孤独感を漂わす。
医者になりたかったんですか。
だからもう行くのは医学部。
で、医学部でもあんまり血は見たくないので、手術はしませんってやってたんだけど、
理科系、文系と理科系に分かれたの、高校のときに。
それを何をとちくるったか、今思えばね、理科系なんか行っちゃったりしたんですよ。
ただ心露心動の先生に、大物の話はいつも狡猾で結構なんだけど、将来も見据えてね、
本当に狡猾なんだよ、現実がな、追いつかんなって言われて。
学力の問題ですね。
もちろん。
で、我に変えるわけですよ。
無理だよねっていう、だから物理も科学もね。
だいたい当時国立は数一数二数三までと、
それから歴史も日本史、人文系が2科目、理科系も2科目、すごい科目やんなきゃいけない。
それから全部低空飛行だったんで。
すごいですね。
一回精神科医に見てもらったほうがよかったですよね。
そんな状態のやつ。
そこにはどっちかというと文系の人だったんで、同人雑誌入って小説書いてたりとか。
新聞社の記者はしてたんだけどね。
だけど同人雑誌もしてて、結構日本で一番古い同人雑誌、バイキングっていうんだけど。
そうするとその夜中に起こされるんですよ。
そしたら何事かなと思ったら、狭い長屋みたいな家だったんだけど、
そこに大の大人がね、今思えば6人か7人か、車じゃなくて、お酒飲んでタバコ吸って、
つまり文学論みたいな、青臭い話ですよ。
みんな酔っ払ってるわけ、基本的に。
挨拶をしろって言われる。
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君は何をしてるんだとかね。
何をしてるんだって、小学生ですけど。
そういうことを聞いてるんじゃなくてとかね。
なんか作家してるらしいじゃないかとか。
で、僕そのときに大人っていいなと思って。
それを見て。
だって夜中までこんなワーワーやってさ、誰からも自由な感じがしたわけですよ。
だから早く大人になりたいってそのとき思ったよね。
大人にさえなればこういう勝手なことができるっていう。
それが面倒くさいなじゃなかったんですね。
っていうパターンもあるじゃないですか。
親に何か子供に何かやれやれ。
僕それだったんですよ。
親戚の前で歌うたえとか、それが嫌で親戚付き合いも嫌だったし。
濱田さんはそういうの楽しかったんですか?
そう。だから別の社会における大人の振る舞いとは違って見えたんよ。
なるほど。プライベートな大人みなんですね。
賢まった大人ではなくて、とにかく自由な感じがね。
楽しそうだったんですね。
そうそう。全然楽しそうでさ。
だからそういう、それは影響したかもしれないね。
でも精神科医を諦めて、学芸員の道にすぐ。
いや、学芸員じゃなくて、だから入る大学も文学偏差値の低いところを狙ってやるわけですよ。
もはや高マイナー、高度挫折がどこへやられて。
どこへ。早くも挫折が。
それでそこが美学芸術学というところだったんで、美術なんだけど。
だけどそれで職を得ようなんて全然思わなかった。
なんかこう、マスコミとかそういうのがいいかなと思ったけど、
それは父親にダメ出し一発で食らわされて、君の能力では無理。
否定の人生なんですね。いろんな人に。
出版社、新聞社、絶対無理って言われて、この成績じゃもうこれでアウトって言われた。
そのときは今の山田さんはもう反骨精神の塊みたいな感じじゃないですか。
見えんよ。何尺も丸出してる。
でも今って美術館の学園生さんって狭きもののイメージがあるじゃないですか。
いやそれは狭いですよ。
そうなったんですか。
というよりも、僕大体美術館ってね、
美術館に働いてる人がいるっていう発想がなかったもん。
監視してる人が、あの人らが働いてるんだけど、
こういう仕事をしてる人なんて知らなかった。
想像もしてなかったんですか、当時。
大学生のときですか。
どこで知ったんですか、学園行って仕事があるって。
学園実習みたいなのがあったときに、実習に行ったときにそういう人に会ったけどね。
だけど、なんか暇ないよなと思って。
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じゃあどこで北海道に行く。
これはね、実は大学のときの同級生がすごい優秀な女性がいましてね。
札幌出身なんだけど。
彼女が北海道立近代美術館に就職したんですよ。
先に。
試験受けてね、もちろん。
それで1年か2年ぐらいしたら、大学の先生を通じて、
何か内々さんからね、美術館で決意ができたんで、
確か尚野さんまだ教祖でうろうろしてるよねっていう。
卒業したんですか、尚野さんそのときは。
卒業した。なんかちょっとまだだらだらしてたんですよね。
関が大学にまだ卒業してなかったってことなんですか。
あったっちゃあった。
どういう状況なんですか。
でも同期は先にもう2年働いてたんですか。
2年だったと思うんだけど。
とにかく彼女が優秀なんで、知り合いだったらいいのもいるかもしれないから
って言って声かけてもらったんだけど、
試験を受けたのは何人かいたんですよ。
だけどね、おそらく下駄は絶対吐かしてもらったと思う。
今だから言えるけど、おそらくよ。
で、入っちゃったのよ。
それで北海道なんですか、すぐ。
いきなり。
京都でしたもんね、大学。京都から北海道。
いきなり。
でもそれはもうやる気はあったんですか、そのときには。
せっかく決まったわけですから。
就職が決まんないでしょ。
どうして食べていったらいいのかっていう。
さすがに僕も夜中にハッと起きるわけよ。
このまんま。
何か就職活動はしなかったんですか。
そんな救いのような手紙が来たからいいものの、
なかったらどうやって生きていくつもりだったんですか。
だからその辺がね、ちょっとどういうのかな。
ネジが抜けてたかもしれない。
そこでこの人が黒い服着て精神会議をやろうとしてたんですか。
なんかそういう映画見たんかな、確か。
いや本当に。今も人生の先輩だからあれだけど、
マジでやべえやつですね、そこだけ聞いたら。
よく生きてこれましたね。
だからその手があれがなかったら、だってどうなってたかわからないってことですよ。
そのときの2年間は学芸員になりたいのもなかったわけですか、そのときは。
せっかく美術、美学してもらったのに。
知らないでしょ。
これもこういうポーズキャストだから言いますけど、
割とね、クラシックとかね、美術についてね、
こんなさかばかりしてるくせに妙に詳しいのよ。
妙に。
それは簡単で、音楽にすごいピアノを習ってて、
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とにかくこいつ芸大まで行くんちゃうっていうタイプの女の子と、
美大に行こうとしてた女の子がいて、
この2人にモテたいがために。
それがきっかけで知識が。
何が役立つかわからんもんですね。
その2人とは?
何もないんですけど、
それもね、印象派知ってるとか、
米東圏知ってますというようなものじゃダメだろうとは思ってた。
もっと上を行かなきゃみたいな。
例えばシェンベルクとか、バルトークとか、
美術のほうもドイツ表現主義とか、
というようなものがなぜかやたらと詳しいっていう。
それでそれを披露する機会はあったんですか?
いやいや、天中行くわけですよ。
デートで。
天中行くの?って言われて、
ドイツ表現主義って知ってる?って言ったら、
もっとよく知らないわけですよ、さすがに。
これがゲオルク・グロスとか言って、
なんか暗いねとか言ってたら覚えてるけどね。
あと音楽のほうは、
アモノ君はどういう音楽聴くの?って言われて、
バルトークって言ったら、
バルトークの何?って言って、
知ってるかな、ミクロコスモスってピアノ曲知ってる?とか言って、
感動ですよ。
だから非常に不純な動機で、
美術とか音楽とかね。
知ってはいたんですね、知識として。
極めて不純な動機で。
でも男ってそんなもんですよね。
やっぱりいい格好したいですし。
それが役だったんですね、結局は。
で、北海道行って、
10万も学芸員でやってくぞみたいな。
もうね、そのときは逃げ場がないですからね。
しかも就職が決まって、
給料ももらえるわけでしょ。
だからさすがにちょっと腹すいてやらなきゃいけないかなと思いましたけど、
だけどそもそも何をやっていいかよくわからないっていう。
現代美術についてもそんなに詳しいわけでもなかったんでね。
だからとにかく与えられた仕事をこなすので精一杯みたいな。
いつじゃあ自分がこの仕事向いてるなというか、
その仕事の中で楽しみを見出した瞬間とかってありますか?
それはね、もうずっと後ですよ。
へえ。
ずっと後。
だから横浜に移って、
移って、もうもう後じゃおうかなと思うけどね。
楽しいなって思う瞬間っていつですか?
逆に一般的にも学芸員の仕事の一番自分の楽しい瞬間って。
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それはね、一つは今でこそ当たり前かもしれないんだけども、
とにかくこの作品をこの人が作ってるんだっていう人に会えるっていうのは、
それは非常に魅力的でしたね。
それはやっぱり現代アートならではですか?
そうかもしれないですね。
例えばルイズ・ブルージュアイっていう展覧会をしたときに。
スポンギニアのでっかい雲を作った方ですね。
ルイズ・ブルージュアイのニューヨークのスタジオというかお家というかに何回か、
ともあれその展覧会したいんですけどっていう打ち合わせとかで何回も行くんだけど。
横浜美術館で展覧会やるとき。
そうそう。
それでどうかな。
それがさっきの父親と飲んでる大人のようにというか別の意味で、
四六時中その作品のことについて考えてるわけですよ。
その方が。
そのときルイズさんはオイクスぐらいだったんですか?
78は過ぎてたな。
ほぼ80に近い。
言って悪いけどおばあちゃんというか。
それがとにかく僕が話してる間は、
例えば普通なら遠くから来たねとか、
今日はちょっと寒いねとか、
とにかく一種の世間話があったりするんだけど、
そんなものは一つもなくていきなりとにかくどういうときの中で。
作品がそこら中に置いてあるんだけど、
誰がこれを作ってんだとか。
とにかく最初何か試されてるのかなと思った。
そうじゃなくて、とにかく始終その作品について考えてるっていう。
それが当時は新鮮っていうの。
僕の中ではロバート・フランクという写真家の人が、
そもそもそれは僕がやろうと思ってた世の中じゃないんだけど、
違う音楽家園がやろうとしてたんだけど、
それを手伝ったんだけど、
結局それもロバート・フランクに何度も会う機会も得たし、
その人もどちらかというと始終その作品について考えてるタイプだったりとか。
だから仕事は仕事で終わったら、
はい、息抜きでっていうか、家帰ってちょっとお風呂入って寝ようかっていうような生活じゃなくて、
ずっとなんよ。
アートのことばっかり考えてるって。
それはね、すごい新鮮っていうかな、
面白いなというふうに思ったのは覚えてるんですけど。
そういう人に会うわけじゃないですか。
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でも天田さんって結構やっぱり家帰ったら料理のことばっかりやってる気がするんですけど、
天田さんは切り替えてますか、仕事。
例えば学者でも研究者でも24時間タイプの人っているんですよ。
僕が知ってる人って何人か。
例えばご飯もそこそこに書斎行って調べてる。
そこまで徹底なんか全然できない。
まさか切り替えるパターン。
切り替えるかっていうか、継続しないですよね。
持続性がないっていうの。
だからそういう何か没入してるっていう人たちが年齢に関係なく。
例えば70もなればもうちょっと悟ってとか言って、
もう悟りなんか一つもないっていう。
なるほど。
というのが、その辺がやっぱり美術は面白いなと思い出したのがその辺かな。
だから94年か95年かそれ辺ですよ。
ようやく目覚める。
10年ぐらい経ってようやく。
プラス今度は知識が追いつかないので、追いつくのにまだ10年ぐらいかかる。
もう一回勉強し直さないと、西洋美術っていうか美術の歴史とかっていうようなものについて勉強し直し。
もうこれだめだって。
し直さなきゃいっていうのがだいたい2005年ぐらい以降。
結構最近。
それで2008年に俺に対してボロクソにしてたんですか?
お前は勉強してねえみたいなことを。
3年先輩だったぐらいじゃないですか、その時は。
だけどだいぶ3年先行ってるからね。
いやそうですけど。
俺はもう20年ぐらい上の人と思って接してましたからね、当時は。
まあまあそういうふうに振る舞ってたかもしれないね。
それこそでも尼さんが展覧会担当したの、
奈良義友さん初めて日本で展覧会。
大得意なんですよね。
奈良さんもやっぱりずっと没入タイプの人です。
うんね、彼はね。
どういう出会いだったんですか?
あのね、奈良国の展覧会をやりたいと思って、
奈良さんに会ったのね、東京でね。
そしたらね、映画を作りたいっていう、
多分本人は覚えてると思うんだけど、
映画を作りたいっていう話が出て、
実はその前に菅義偉さんっていう菅義偉展で、
モノ派のシンプルな作品。
映画を作ったんですよ、美術館で。
それは展覧会に合わせてですか?
見たことない。
ないですね。
劇映画ですよ。
知らなかったですね。
暗石忍っていう学芸員が殺人者で出てくるんですけど。
そうなんですか。
僕も演技してるんですよ。
寺の男1とかで。
ちょい役じゃないですか。
それでロケ版とか全部やったの。
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映画って面白いなと思って。
出た矢先に本人、奈良さんが映画作って。
どんな映画って言ったら、
地方にいる少女がね、東京に憧れて、
高校生かな。
東京に来るわけですよ。
で、1日いろんな人に会うんです。
東京で。
いろんな人。
とにかくホームレスの人から、
ヤクザから、詐欺師から、
とにかくありとあらゆる種類の人たちに会って、
じゃあ東京に住むのか決めるのかっていうと、
いろいろあった挙句にまた帰っていくっていう田舎に。
それをオムニバスに撮りたい。
だから少女が会う人は仕込みなんだけど、
本人からすると本当にホームレスの人だと思って、
会うようなふうに作りたいって言って。
ちょっと半分ドキュメンタリーじゃないけど、
リアクション取りたい感じ。
それでね、スクリプターの知り合いに頼んで、
スクリプトまで作り始めてたんですよ。
そしたらいろいろあったんだけど、
映画じゃなくて普通の展覧会っていうかな。
作品で絵とか彫刻のというか、
普段彼が作っている作品のいわゆる展覧会に話が行っちゃって、
映画がなくなっちゃったんですよ、そのとき。
本当は映画がスタートだったんですか。
最初は。
それ実現したんですか、結局この長年の間に。
してない。
まだしてないんですか、実。
してない。
だからそれは本人の中で全然もう記憶の外なのか、
あるいはここのどこに残っているのかよく分からないんだけど、
僕としては話そのものがすごく面白かったし、
なんか映像ですね、再現が女の子が出てきて、
いろんな人に会って、
夜行か電車で帰っていくっていうふうなことなんですけど、
昔なんだよね。
昔っていうか飛行機じゃなくてよ。
だからなんかあれ映画にしても面白いのないっていうのはあったけどね。
それは横浜美術館で流す予定だったんですか、
もしそれが実現したら。
だからね、そういう意味じゃ展覧会というよりも、
映画作品一本で上映会になってしまうのかいっていうね。
でもなんとなく僕はそれでもいいかなと思って、
普通の展覧会じゃなくてねって思ったけど、
でもまあ最終的にはいわゆるオーソドックスの展覧会にはなりましたけど。
それがでも結局実質みんなが知ったきっかけになるとですか、一般の人は。
でもそれ以前に奈良さんのファンもいたし、割と本も出てたんでね。
ただ大がかりなっていうふうには初めてだったかもしれないけど。
天野さんが今までやってきた中で一番、どれも力を入れたと思うんですけど、
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自分が振り返ったときに、あれが俺の代表作だぜって、
もし一個選べって言われたらどれになります?
代表作っていうかね、だって僕らの仕事ってね、
結局アーティストがいて、その人たちの作品があるわけだから、
俺の代表作だって代表作が彼女らの作品なわけで、
そういう感じではあんまりないよね。
でもプロフィールに書くわけじゃないですか。
こういう展覧会を過去に担当したみたく。
そうするとやっぱりどれか選ばなきゃいけない。
いわゆるグループ展と称するものはテーマを僕が考えて、
それにテーマに合わせて参加してもらうっていう意味で言えばね、
ある程度誘導するわけじゃないですか。
それは確かに写真についてのグループ展を三つ連続でやったんですけど、
あれは自分でも楽しかったですよね。
それいつやったやつですか?
90年代と2000年に入ってもやったんですけどね。
現代の写真のシリーズって言うと1,2,3ってやったのがあってね。
だからおそらくウォルブ・アング・テルマンズって知ってる?写真家。
名前は?
今もすごいとにかく応募書になっちゃったんだけど、
多分初めて日本に紹介したと思う。読んだのは僕最初だと思う。
その人がこの人だと思ったきっかけというか出会いはどこにあったんですか?
出会いっていうかね、テルマンズがファッション雑誌なんだけど、
ファッション写真撮ってるんですけどね。
ところがファッション写真っていわゆる本当に服着てスタイリッシュにモデル街っていうんじゃなくて、
着たもののどちらかというと本当の日常の生活みたいなものをドキュメンタリーで撮ってるのがファッション写真として。
多分ファッション写真のスタイルがガラッと変わったときなんですよ。
ファッション写真として見れば見れる。今でこそそういう写真ってみんな慣れてんだけど、
当時はやっぱりどこがそんな、みんなシャツ着たりTシャツ着たりしてるだけなのにっていうのがあるんだけど。
それでたまたまヨーロッパの写真のキュレーターに、
これが今ちょっとスタイルが変わりつつあっていいっていう話で、
誰なんよって言ったらテルマンズって今ロンドンにいるよって言って、
紹介してもらって会いに行って話してたらすげえ面白くて出してくれんかなみたいな。
やっぱりアマゾンって決めるときには人を会ってから決めることが多いですか?
話はしますよ、やっぱり。話してね。
作品はいいんだけど、人柄的にこいつちょっと合わないわっていうパターンってありますか?
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でもそれはね、そんな別に深く付き合うわけじゃないんで、
最終的に人柄がどう来いっていうのは基本的には関係ないですね、作品ですね。
あとちょっと最後になんですけど、あっという間であれですけど、
キュレーターの仕事って大変だって話を僕よく聞いてるじゃないですか。
キュレーターさんって何にもしてないようなイメージって言ったら失礼ですけど、
でも何か作家さんがこういうものをやりたいって言ったら、
意外とキュレーターさんが動いてるって話で、
2011年の横取りのときのシマブックさんの話がすごい僕は印象的だったんですけど、
ちょっとそれを話せる範囲でいいですか?
だからシマブックさんの話もそうですけど、
今ね、僕もキャリアとしてはほとんど最後のほうなんだけど、
仕事としてはどうですか?って聞かれれば、こんなに面白い仕事ないね。
こんなに面白い仕事がないというか、これで変な話給料ももらっててね、
こんな好きなことができる仕事ってあんまりないんじゃない?と思うぐらい。
他にも多分あるかもしれないけど。
そう思ってる人は他のジャンルに、分野にもあるかもしれないけど、
だって新しい表現を目の前に目撃できるわけでしょ?
それは場合によってっていうかな、
僕だけ、自分だけが面白いと思ってるだけじゃなくて、
それを紹介することでそれに影響を受ける人もいたりとかね、
分かりやすく感動する人もいるわけですけど、
そういう一番現場にいることができるっていうのがね、
それはやっぱ魅力的な仕事ですね、僕は。
最初は別にやりたくて入ったわけじゃないというか。
よくわからなかったですね。
人間一個のことをやってるとそこにたどり着けるんですね。
我慢して。
やめた時はあるんですか?
だってやめるって他にチョイスが、オプションがあるわけじゃないしね、
そんな能力が十分であるとはとても思えないんで。
婚姻剤嫌だと思ったことはないんですけどね。
どうしたらいいんだろうかっていうのが、ながらわからなかった時があるんで。
それがだんだんわかってきだすと、仕事って慣れてくるとみんな楽しくなるって言うんだけど、
それと同じようなもんだと思うんだけどね。
それにしても、いろんなことを考えたときに恵まれた仕事だっていう感じはするけどね。
今楽しいんですね、やっぱり。
面白いね。
だからその間に入る、一種の媒介としての役割っていうのは、
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僕らの職業の中で一番大きな役割だと思うんで。
大野太郎ですじゃなくて、紹介したい人はちゃんと作品とか婚姻がいいんだけど、
それとそれを見る人たちの間の媒介ですよね、媒介というか。
自分だけが面白いと思ってたってね、人が見て面白くないって言われちゃう、それまででしょ。
そこの橋をつくる橋っていうかな、どうつなげていくかっていうところも、
それがまたうまくいったらね、よかったですよ、この間の展覧会はなんて言われたらね。
嬉しいですけどね。
あくまでそれは主人公はいるわけでね、作品であり作家であるわけで、そっちはあくまで種なわけですけど、
とにかくそれが非常に魅力的な仕事ちゃうかなと思いますけどね。
最後すごいいい話だった。高感度を上げようとしてきてるなっていう。
まだまだ聞きたいことないですか?
いやそうだな、もうちょっとカッコ悪い話とか聞きたいな。
濱田さんカッコ悪い話。
たっぷりあるよ。
美術作品ってね、美術作品を扱う、扱う実際のこの手でね、
例えば掛け軸を掛けてとか、屏風を開いたりとか、そういうことは基本的にはできなきゃダメなんですよ。
できなきゃダメなんですけど、展覧会のときは逆に学芸員が直接手をかけて展示をしちゃダメなの。
それはどうしてダメかっていうと、輸送するときに保険かけるんですけど、
それはドアツードアとか、ウォールトゥウォールって言うんですけど、
つまり借りてくるところの壁から外して、借りてきたほうの壁にかけるまでの間に保険かけるのね。
そうそう、その輸送する会社がその保険を全部カバーする保険が入ってるわけですよ。
それはニッツだったりヤモトだったりっていう会社が、美術専門のスタッフがいるわけですけど、
その人たちが掛けてやらないと、仮に変な話、事故ってもう、それはここに保険入ってるんで。
ところが、僕が、美術館の担当の学芸員であったとしても、美術館は保険に入ってないので、
僕が落としてしまうと、美術館が独自に保険払わなきゃいけないっていうのがある。
それを、もうすぐ初期のときに、手伝わなきゃと思ってやろうとしたアクリルがバカーッと割れたわけです。
アクリルで済んでよかったですよね。作品じゃないんですか?
いやいやいや、それは歴史的作品ですよ。
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未来派のぼっち鬼の。
え、それ壊しちゃったんですか?
うん、アクリルが割れた。
で、どうしたんですか?謝った?隠しました?
謝ったね。隠しようもないのでかいし。
でも、「おい!」ってなりましたよね、絶対運搬の人も。
うん。
お前なんだみたいな。
いやいや、そのときに僕、移送会社の人に教わったのは、
大野さんね、こういう失敗しても大声出さないって言われたんですよ。
なんでですか、それは。バレないように。
いやいや、じゃなくて、大声出さないで、すみません、ちょっと割っちゃいました。
大騒ぎしないでって言われたんですよ。
それプロの技なんですか?
いや、技かどうか分かんないんですけど、別にごまかす話じゃなくて、
要するにワーとかアーとか言わないっていうね。
最初のときに修復はされたんですか?その作品。
修復だって、割れたアクリルつけるだってね、入れ替えなきゃどうしようもないんですよね。
どうしたんですか、それは。
いや、ちょっとどうなったか分かんないですけど。
いやいやいや、調べておいてくださいよ、ぜひ。大変なことじゃないです。
すごい有名な作品ですよ。ミライハキサルっていうね、本当に有名な作品。
展示した後ですか?
展示の最中。
展示したんですか、その作品は結局。
いや、だから展示できなかったですよね。
うわうわうわ、大事件ですね。じゃあ、図録とかには載ってるんですか?
いや、というか、表紙。
それが見たくて来た人もいても。
いや、見るでしょうね。
まさか学芸員が割ったとは思ってないですよね。
それはもう今でも言える話なんですか、もう今や。
別に今でもその当時でも別に隠してたわけじゃないので、単なるそこつもろいってことですよ。
でも、直ってるといいですよね、それでも本当に。
いやだから、割れたアクリルが割れ目がなくなるような修復の方法なんてないわけで、
ああ割れてますねっていうのはずっと残るでしょう。
一生残るんでしょうね、天野太郎という。
太郎天野がイタリアのとこにも書かれてるんでしょうね、この絆みたいな。
おそらくね。
いやそれはもう大変な失敗談でしたけど、聞けてよかったでございます。
もうあっという間ですよ本当に。
さあということで最後天野さんから記念すべき初ゲストとして来ていただきましたので、
コメントいただけたらと思います。
いやいや、本当にこんな話で良かったのかいっていうね、良かったのかないっていう風に、
大した話ができたんですけど。
いやいや、そしたらまたぜひもう一回。
本当に呼んでいただいてありがとうございました。
ありがとうございます。
いや僕もちょっと感慨深いです。
天野さんをゲストに招く日が来るとはですよね。
いやいや。
いや本当に今後ともよろしくお願いいたします。
いやいや、小山さんも活躍がね、いろんな方面にされてるっていうことなんで、
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ますます技術のハンガーが増えるように頑張ってもらったら嬉しいな。
ちょっとそれを胸に頑張りたいと思います。
この番組は不定期配信ですということで、各種ポッドキャッツとサービスでのフォロー・購読をお願いします。
感想はハッシュタグそろそろ美術のお話をで。
そして今後聞きたいテーマやゲストは番組ウェブページまでお願いします。
ということで今回はここでお別れしたいと思います。
皆様どうもありがとうございました。