禅の始まりから臨済義元まで
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、鉄学について楽しく学んでみようという番組です。
鉄学好きの弟と、鉄学院馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の環野恭介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
さあ、今回は久々の東洋界というところで、銀材宗についてやっていくというところでしたね。
違うんですよ、実は。
え、違うの?え?
銀材という人なのです。
あ、そうなの?
あ、銀材、銀材って言ってたから、あ、そうなんだ。
そう。
日本で言うとね、銀材宗、英才が鎌倉寺に開いた銀材宗ですみたいな、あれと思うんですけど、
あの、銀材さんという人が実際おりまして、中国に。
この人から取られてるんだよね、銀材宗は。
そうなんだね。
ごめん、いきなり。そうなんだ。
一年間間違った紹介しちゃったね、そっか。
確かにでも、そういう風に思ってらっしゃる方多いかもですね。
銀材、銀材って言ってたんで、なんか銀材宗とかそういう一般のことを取り上げるのかなって思った方もいらっしゃったかもしれないですけど、
でも確かに確かに、銀材って人なんだみたいなところから、銀材義元さんという人がいるんですけど。
あ、そうなんだ。
でもよかった、最初にそこがすり合って。
そうだね。
これはですね、西洋東洋を行き来しながらやってるのがソウル鉄道団体の特徴かなと思うんですけれども、
最近は鉄道主義のサルトルとか、構造主義の中でもレビィストロースとか、ポスト構造主義の代表としてのデリダみたいな、
あまりラベル付けするのもよくはないですけれども、なんとなく代表的な人を取り扱わせていただいて、
その後、前回の第100回記念ということで、意味についてみたいな感じで、僕の好きなテーマをお話しさせていただきましたと。
はいはいはい。
今回から改めて東洋編にちょっと行って、今回臨済行っただけかなと思ってるんですけど、東洋編は。
取り上げようと思ってますと。
さっきもお伝えした通り、日本だと臨済宗という仏教の宗派があって、それは英才という人が開きましたと。
紀元に中国なんで、唐の時代、西暦にして800年の半ばぐらいなんですけど、この時に活躍した臨済義元さんという人がいて、
この人がまさに禅の結構有名な人というか、中国の唐の時代の禅を盛り上げた人みたいな感じなんですよ。
なるほどね。ありがたい。ちゃんと教えてもらえないと、何文字かわかんない。
禅語と段階的な悟り
そうかそうか。
こういう名詞難しい問題があるからね。
そうなんですけど、前回も一回、禅ってこんな感じですよっていうのを何回もやったのか、6、7回前くらいのテーマでやらせていただいたんですけれども、
改めて禅の伝統的な流れみたいな話をさせていただくと、これも諸説もちろんあるんですけれども、
まず仏教なんで、ブッダがいますよねと。そこから、いわゆる小僧仏教、大僧仏教って分かれましたみたいな話もしたと思うんですけど、
そのブッダから、いわゆる直系の弟子みたいなのがいるらしいんだよね。
その28番目が、前回、禅の時に取り上げた母財だるま、いわゆる日本でいうだるまさんね。
はいはいはい。
母財だるまさんがインドから中国にやってきて、そこで仏教の教えを広めたのが禅の始まりだみたいな。
はいはいはい。禅問答の中であったよね。なんでだるまさんが来たんだみたいなね。
そうそうそうそう。なんで来たんだっけみたいな話だったと思うんですけど。
なのでその28の、いわゆる子僧みたいな人たちがいて、そこからさらに禅の流れがあって、
例えばそこの2番目、3番目が子供の人とかって残ってるんですよ。
そこが前回の時にお伝えした6僧、エノみたいな6番目の人とか、また南岳英雄さんとか、バズ・ドーイツさんとか、いろんな人がいるんだけど。
いたね。いたけどその人たちは仏陀から数えて6番目とかじゃなくて、このだるまさんから数えて6番目みたいなイメージで話してたよね。
そうそう。だるまさんから数えて6番目とかそれ以降の人たちみたいな感じでね。
なるほどなるほど。
時代的には仏陀ってもう2500年前、紀元前500年とか600年みたいなところで仏陀が仏教を開くんだけど、
そこから30何代とか続いてある程度直系というか、そういう流れがある中で、中国の唐の時代800年くらいにこの林在さんという人が出てきましたよと。
なるほどなるほど。さらに禅の流れの中で出てきたって話なんだね。
これもね、諸説あるというか、本当にそれが正当の直系として流れているかっていうと結構難しい話もあると思うんですけど。
ある意味結果論的なところでね、番号を捨てた部分もあるかもしれないしって話だよね。
そうそう。とかね、権威づけのために言ってるんじゃないかみたいなところも多分後の人が言ってるってあると思うんですけど。
でも実際にすごい影響力を持っているとかっていうのは間違いないよねっていう感じですと。
じゃあその林在さんの禅の本質というかそれがどういうものかっていうと、
ちょっとこれ前も少しお話したかなと思うんですけど、いわゆる禅語っていうんだけど、禅語、要は一瞬で全てを悟るみたいな。
禅語の語は悟り、禅は時間が短いというか、一瞬でみたいな、こういう時間の隙間なくみたいな感じの意味なんだけど。
禅座するとかの禅かな?
それ禅座の禅だね。
それはつまり一瞬で悟るっていうのは何かっていうと、ありのままの自分そのままが仏だよみたいな。
つまり外に探しに求めたり修行の結果がたどり着くんじゃなくて、今この瞬間のあなた、私が仏なんだみたいな考え方なんですよね。
これに対立する考え方っていうのがその禅の別の流れの中であって。
禅の中にもいろんな考え方があるんですけど、それが禅語っていう、禅っていうのはようやくとか禅字みたいな。
少しずつみたいなね。
そうそう。これは要は段階的に悟っていく。
悟っていくと、ありのままの自分じゃなくて、それを超えたところに本来の自分とか仏としての自分がいますよみたいな感じ。
同じ禅でもって話だね、これは。
同じ禅の中にも統合と禅語っていう、一瞬で悟れるよっていうのと、いやいややっぱり順々にステップ踏んでいくんだよっていう違いがあるんですよ。
禅の起源とカテゴリー
ちょっとこの話とかもしていくんですけど、こういういわゆる対立関係というか、そういう考え方の違いがあったからこそ、どっちが正しいとか、いやこっちだとか。
例えば統合が流行ると、今度は禅語の方が盛り上がってくるみたいなこういう流れがあって、禅っていうものがある種続いてきたというか、発展していって。
それが後に日本に来て、まさにさっき言ったような連在宗とか、相当宗とか、そういうのになっていくっていうような流れなんですよね。
なるほど。いわゆる仏教業界みたいなのがあったとして、さらに禅っていうカテゴリーがあって、その中でもさらにいろんなトレンドだったりとかがある中で発展しているんだよねっていう感じなんだね、雰囲気としてね。
ずれちゃうかもしれないけど、今まで西洋でポスト構造主義ぐらいまでずっと見てきたんだけど、今回久々に東洋やるにあたって、この臨済を取り上げた、その辺に何かあったりするのかな?
そうね。ないっちゃないんだけど、構造主義とかってずっと言葉とは何かみたいな話をしてたじゃないですか。言葉っていうのは相対的なもので、他のものじゃないからっていうふうにしか定義できないみたいな話があったと思うんですけど。
これまでの意味の話もそういう感じだよね、そもそも。
意味の話の最後にも禅の話を取り上げたと思うんですけど、この禅の言葉っていうのは、ある種構造的な言葉を超えているというか、その構造その意味そのもので会話してるようなところがあるなっていう感じがしてるんですよ。
言葉をしょうがなく使ってはいるんだけど、それこそ禅の文脈とか、その言葉で現れない、要は怒鳴るとか殴るとか棒で打つとかっていうのが禅では出てくるんですけど、よく禅師と勝つとか言って戦えるというイメージあるじゃないですか。
あれは若干パフォーマンスっぽいらしいんですけど、そういう要は身体的なコミュニケーションっていうのもすごい出てくるんだよね。
そうなんだ、言葉じゃなくてね。
その意味で割とポスト構造主義とかで、どうしていいかわからなくなっちゃったじゃないですか。主体とか人間もないし、構造もあるんだけど、相対的なものだしとか。
確かにその中で結局一周回ってもう一回実存主義的に自分で意味をつけていくしかないみたいなところまで、結局さらに一周回った感じするもんね。
構造があるとはいえみたいなね。
そう。その時に西洋のある種行き詰まり感があったと思うんですけど、やっぱ禅の世界とかってもうそんなん関係ねえみたいな、それこそ。
でも自分がある種やりたいようにやることが大事なんだぐらいのことを言ったりもすると。ただそれは仏になるっていう前提でなんだけどね。好き勝手やっていいわけじゃないんだけど。
言葉と身体的なコミュニケーション
あくまで仏教の中での禅って話ってことだね。
なんかそれに対してややそんなありのままの自分とか言ったら、それこそただぐーたらするだけだとか、仏になったわけじゃないっていう批判があるからこそ、段階的なストーリーとかっていう考え方も出てくるんだけど。
でもリンザイさんはその、ありのままの本当にお前そのものが仏なんだっていうのをある種言い続けた人だから。
そうだね。そっち側の人だってことだもんね、さっきの。
その意味で構造主義とか仏と構造主義的なガチガチに固められて、人間どうしたらいいんだっていうところのある種カウンター的に聞いていただくの面白いんじゃないかなっていうふうに思ってる感じですね。
なるほどなるほど。またちょっと言葉じゃなくて感覚の方からまたそっちを楽しんでみようっていう感じだね。
あ、そうそうそう。
東洋的なね。
東洋的にね。
もう一個、ちょっとおさらいみたいになっちゃうかもしれないけれども。
はいはい。
仏教の中における善の立ち位置っていうのは、さっき教えてくれたように、もうちょっとその自分、ありのままの自分がみたいな、そういうふうな感じなのかな。
なるほどね。
えっとね、実は仏教自体は、ありのままの自分を肯定する宗教というか、ものではなく。
へー。
はい。仏陀が言ったね、不流文字と教義別伝っていう言葉があるのね。
うんうん。
つまり何かっていうと、不流文字っていうのは、仏陀とか仏の教えっていうのは文字ではもう表せませんっていうことと、
教義別伝っていうのは、いわゆるお経とかその経典っていわゆる本とかが各種あるんだよね。
その経言とかあとなんだっけ、ちょっと教えがいろいろあるんだけど、そういうものの外に本当の教えというか仏陀の本質があるんだみたいなことを指して教義別伝とか不流文字とかっていう言葉があって、
そこに立ち帰ろうぜみたいな感じと説得されてますと。
その善の考え方がね。
仏陀に立ち帰るみたいな感じ?
要はちょっとこれ隣在の仏にもまた話すんですけど、
ちゃんと勉強するのね隣在も、いろいろ仏教学を勉強していろんな本を読んだりとか、書かれてる経典のことを解釈したりとか分析したりとかするんだけど、
こんなんじゃ仏にはなれないぜみたいなことを思うのよ。
勉強してても仏にはなれませんと。
仏陀はもう教えっていうのは文字にならないし、経典にはないって言ってるんだから、そこに立ち帰ろうぜみたいな。
なるほど、その時代的にそういう感じだったんだ。
仏陀がそう言って広まった仏教なんだけれども、後々国と接続したり政治と接続したりとか、教典とかをお勉強みたいな感じになってきちゃってて、
それに対するところとして、もうちょっと原点というか、帰ろうぜみたいなところが禅のイメージなのかな?そもそもの。
それとも禅もそういう感じになっちゃってたのかな?
隣在もダルマの後の人みたいな話があったから、元々そのダルマさんが禅を作ったっていうイメージなの。
禅を作るみたいなのがちょっとイメージ難しくて、もうちょっとそれの話は今日、禅の話をしてからの方がいいかもしれない。
じゃあいきなりここで誰かが禅を作りましたとか、さっきの引済宗みたいなのがあったときに、引済が禅を作りましたとかっていう感じではないんだ。
もうちょっと境界線が曖昧なふわふわとなんか気づいたら、仏教の中で禅みたいなカテゴリーができてたみたいな感じなのかな?
そうね、割と後付け的なんじゃないかな。もちろんボザイダルマさんが中国でそういうのを広めたっていう感じなんだけど、
そもそもボザイダルマ自体が中国に来たんだけど、特に何も教えも語らずに、7年とか何年か石の前にただただ座ってたみたいな、
そういう伝説とか偽りがあって、そこから始まってるんだよね。
臨済の印象
そうなんだ、じゃあ仏教を中国に広めたではあるけれども、別にその禅を作ったのが、その子祖がダルマさんであるとかっていうわけではないんだね、別に。
まあ一応子祖がダルマとは言われてるんだけど。
とは言われてるんだ、後からね。
だから、禅というものがあるかっていうと、別に教えがあるわけじゃないし、ダルマの禅を引き継いだっていう人がいたら、お前、禅のことわかってねえなって多分言われちゃう。
さっき言ってた不流文字とか教義別伝だけ。
教義別伝、うん。
みたいなところを、あ、そうか、これなんか禅文の時もそういう話あったような気がするね、そういえば。
そうそうそう。
師匠と弟子の関わりにおいて、お前が後継者だみたいな話はあるんだけど、私の禅を引き継げみたいなことではないんだよね。
なるほど、禅とは言ってもあくまでちゃんと仏陀が作った仏教というものに対して悟るんだというところをちゃんと見てるから、別に仏教とは違うものでもないしって捉えると、禅だけでないから駆動してるわけじゃないんだね、完結してるわけではないっていう。
もちろん禅のお坊さんとかもちゃんと本を読んだり勉強したりするし、もちろん座禅だけじゃなくていろんな活動をするんだけれども、
本体にある文字では本当のことが伝わらないとか、教えっていうのはありのままの自分が仏なんだっていうところを前提に仏に取り付こうとするとか、
そういうOSだけあってあとは自由みたいな、OSというか土台だけあって。
確かに禅とは何かみたいな話をしてないと、いきなり禅の話をして忘れてもよくわかんないよね、確かに。
前の禅問答でやったかもしれないけどね、ちょっと忘れてるから、仏教というものがあって、さらに禅というものがあるような感覚で言っちゃうんだけど、もうちょっとふわっとしたものなんだね、今の段階ではね。
仏教は本当にいわゆる仏になる、ブッダっていう人のやったことにあやかりながらある仏になるみたいな感じではあるんだけど、
別にブッダだけじゃない仏はし、割とキリスト教的にこういうキリストが救ってくれるとか、キリストと向き合うみたいなことではなく、
ブッダもあくまでも一人の仏教徒というか修行者だみたいな感覚があるところがあって、もちろんブッダを崇拝するところもなくはないんだけど、いろんな流派の中でね。
特に禅は、それこそ臨済の実際言われたという言葉にあるんだけど、修行をしている中で、仏になったら仏を殺せ、親になったら親を殺せみたいな言葉があって。
ああ、それって臨済が言ってるんだね。なんか聞いたことある気がする。
禅の感覚とその位置づけ
前の時に言った気がするんですけど、これ要はブッダになろうとして、目の前、外にブッダを立てちゃうと、瞬間間違ってる。
要はお前自身が仏というか仏なんだから、この人がブッダだっていうふうに外に見えてしまった瞬間にそれは間違ってるぞっていう話なんだよね。
なるほど。ちょっと禅の立ち位置的なものが見えてきた気がする。
はいはいはい。僕は好きだから結構禅禅って話しますけど、別に世の中的に言ったら修行家って言うとそんなことはないし、
もちろん日本だけは神言宗とか浄土神宗とかいろんな宗派があるから、幕府は仏教という中の一つの分派というか流れでしかないんだけど。
はいはいはい。ただ前回までやってるそういった言葉ってなんだろうね、意味だってなんだろうねっていうことをやると、結構この禅の感覚、さっきの不流文字とか教諭別伝みたいな感覚は結構近しいというか、一つのアプローチに投げ寄るよねみたいな感覚はハヤトが持ってるってことはね、禅に対して。
それだと単純に面白いんだよね、そのやり取りとかさ。
面白いよね。走ってるもんって面白いもんだって、あれ何回かに1回やってほしいもん、あれ本当に。
そうそうそう。なので今回はその仁財の問答というかそのやり取りとかっていうのをお伝えしながら、より自分が仏陀だって言われてもよくわかんないじゃん。
全然わかんない。
それをなんとなく感じていただきましょうみたいな、そういう感じでちょっと行動主義でガチガチになったというか、少し人間じゃあどうしたらいいのっていう時に、いやいやあなたのままでいいんだよみたいな、そんな柔らかいメッセージともちょっと違うんだけど、そういう雰囲気を味わっていただきたいなという感じですね。
了解。すごいごめん、ちょっと本題入る前にそもそもみたいなところ聞いちゃったんだけど、でもなんか見えてきた気がする。今回の方向性というかね、どの頭の部分使えばいいのかみたいなものが。
確かにそうだよね。
そうそうそう。
ありがとうございます。僕は台本作った時にもうその頭になっちゃってるからさ、そのまま喋っちゃうんだけど。
はいはい、その右脳のこの部分使ってますみたいなね、東洋の場合は。
ちょっと左脳がガチガチになってるんで。
そうね、ちょっと右脳的に緩く聞いていただけるって感じなんですけど、佐藤くんね、今回はいつも通り臨済の追い出しというか、どんな人なのっていうところから話をしていこうと思ってたんですけど、実はですね、どんな人がよくわかってないんですよね、この臨済さん。
そうなんだね。
いろいろ読んでると、結構気性が荒いというか、めっちゃ真面目に勉強してたと思ったら、悟った瞬間、まさに自分らしさを出しすぎて、めっちゃ傍若無人になるみたいな、そういう感じの印象があるんですけど。
生まれた年はそもそもわかってないんですよ。亡くなった年はわかってて、たしか866、867年でしょうってことはわかってるんですけど、いつどこで生まれたのかとか、そもそも本当に政権を手続きで出家したお坊さんなのかとか、そんなことすらわかってないらしいんだよね。
へー、そっか、じゃあ有名になったからみたいな話で。そりゃそうだよね、たしかにね。有名になるかわかんない人の具体的な行動記録なんて残ってるわけないもんね、たしかに。
マルシ伝説じゃなくて、本当に素朴に修行してたらちゃんと悟ったというか、偉くなったというかね、そういう辿り着いた人なんだろうなって感じなんですけど、さっきも言ったんですけど、最初から禅を学んでいたというよりは、
20歳くらいから順に仏教の世界に入っていって、いろんな経典を読んだりとか、それこそ仏教学みたいなことを勉強してたらしいんですよね。当時は本当に真面目で勉強熱心みたいな感じで、いわゆる優秀な生徒さんみたいな感じでした。
臨済の修行と教え
さっきも言った通り、こんな仏教学とか本で学んでも悟りの役に立ちっこないよみたいな。そんな感じでそれを捨て去って、禅の世界に入りましたと。
そうかそうか、ちゃんと勉強してるうちにそう思っちゃったんだね。
そうそうそう。結構この辺りも激しいというか、思い切りがいい人なのかなって感じがするんですけど。
すごくセンスが良さそうだよね。
禅の世界に入るってどういうことかっていうと、一応お師匠さんに就くっていう感じなんだよね。
禅もありのままの自分だから勝手に一人でやりますとかじゃなくて、ある種一派というか、修行をしている集団がいて。
このリンザイさんは当時結構有名だったと思うんですけど、オーバクっていうお師匠さんがいて、その人も全員修行をしますと。
そこで悟りを得るんだけど、その話は実際リンザイ6っていう本に残ってるんで、ちょっと次回ちゃんと紹介したいと思ってます。
どういうふうな経緯で悟りを開いたんですかみたいな話ね。
仏教からスタートして、たぶんその中で、さっきセンスがいいとは言ったんだけれども、禅の視点から言うとセンスがいいという話で、禅というものにアンテナが刺さったんだね、リンザイは。
そうなんです。ちゃんと悟りを開いて、そこから自分自身でお寺を開いて、弟子を取ったりとか、そういう人に教えながら暮らしていきました、みたいな感じなんですよね。
そのお寺、いわゆる開道、お寺を開いた時に初めてやった説法の話とかもちゃんと残ってるので、そういうのも紹介していきたいなというふうに思ってます。めっちゃ想像をものすごい超えてると思います。3段階ぐらい超えてると思います。
そうだな。 初めてお寺を開いて、やった話って聞いて想像するものとは、たぶん全然イメージ違うと思うので、めっちゃ面白いと思います。
なるほどね。オープニングセレモニー、お寺落としでとんでもないこと喋っちゃったみたいな話なのか。
まあまあ楽しみにしていただいて。そんな感じでいろいろお話していくんですけど、西洋と違って、臨済が結局何を言ったの?みたいなことは別に難しくないですよ、言葉にするとね。
信じることと意味を理解すること
それはさっきも言った、今ここにいるあなた自身が仏そのものだよ、みたいなことなんだよね、一言で言うと。難しいのは何かっていうと、自分自身が仏そのものだっていうことをある種信じ切るとか、まさに意味を理解すること。やっぱりこれって西洋みたいにロジックではどう頑張ってもいけないんだよね。
そうだね、ロジック的にもう完結してるもんね。あなたイコール仏以上みたいな話だもんね。
そうそう、以上だから、どれだけ言葉で、いや仏っていうのはこういうもので、あなたもこういうものだから仏だよとかっていうふうには言えませんと。逆に言うとそれを信じ切るのがめちゃめちゃ難しくって。
そうだね、あとは自分なりにそれを証明しなきゃいけないんだね、その指揮をね。
信じ切らないことが起きたら、要は信じられなくなっちゃうわけじゃん。例えば仏っていうのは優れて人をある種、善意で導くものであるとか、慈悲の心を持っていてとかって言われても、例えば自分が誰かに対してちょっと憎らしいとか、こいつは嫌いだと思った瞬間に、あなたは仏じゃなくなるんですかって話なんだよね。
なるほどね、そっか、この信じるっていうところちょっと宗教地区になってくるね。でも面白いね、そこの対するスタンスだよね、確かに証明じゃないんだみたいなところは。
そうそうそう、証拠は超えてるんだけど、これはね、信不牛っていうらしくて、要は信じるに及ばないっていう。信じるは信で、不は不利とかの不ね。
信じろって言ってんのに? あ、違う違う、信じれないってことを信不牛って言ってて、それが最大の問題だっていうふうに言いますと。
ああ、本人が言ってるんだ、信じろよと言ってるんだね。
信じろよっていうか、信じれないからダメなんだって言ってる。
そこはあれか、信じろよって言っちゃうと語弊があるんだね。
そう、信じろよだと何を信じてるのって話になっちゃうから、疑うなって言ってるんだよね。
なるほど、信じきれないのがダメと。
そうそう。
禅の世界と悟りの理解
なんか不二っぽいね、前回やった不二とか。
そう、不二っぽい。信じろじゃないんだよね、疑うな、疑っているということに気づけなんだよね。
なるほど、深そう。
そうそう。
要はさっき言ったみたいに、本当はあなた自身、自分自身が仏なのに、自分はこんなに劣った存在だとか、仏であるはずがないって思っている。
その結果、仏になりたいとか、仏がどこにいるんだって求めるから、おかしなことになるんだよっていうのが、隣在が言っていることなんだよね。
なるほど、いい言葉になった。なんかちょっと染みてきた、なんか。
染みてきた。
早い、早い。
ただやっぱこれってすごく難しくって、その主張はやっぱり、そういうことを頭じゃなくて心じゃないと理解できない。
信じる、疑うなって言ってくるからね。
そうそう、疑うなって言ってるからね。やっぱりそれも難しいし、やっぱりどうしてもさ、欲にまみれたりとか、悪せく働いて、なんか今日も一日何してたんだ俺はみたいなさ、自分が仏とかさ、神とは違うんだけど、いわゆる清らかな存在と一緒とはなかなか思えませんよねと。
それっていうのは今の僕らもそうだし、やっぱ当時の人たちもそうなんだよね。なのでやっぱりそういう信じきれないとかさ、やっぱり自分が何かわからないみたいなのっていうのは時代を越えて、当時が800年ぐらいとしたら今から1200年ぐらい前ですけど、やっぱりそういう人間の迷いとかっていうのは今も昔もそんな変わんないじゃないかなって思うと、
なんかそういう話って、きっと今の僕らは聞いても感じたりとか、それこそ学ぶこともあるんじゃないかなっていうふうに思うので、そういう観点で、今回臨済さんが話したと言われる五六っていうのが残っていて、それが臨済六って話したんだけど、
それはちょっとお話ししながら、改めてこの禅の世界というか、臨済さんが伝えようとしたお前が仏だみたいな、自分自身のありのままが仏なんだみたいな世界っていうのを味わっていただきたいなというふうに思っております。
おー、了解です。いいね。ちょっとやっぱこの一言論的なね、言論じゃない。さっき言ってたやっぱ仏を見たら仏を殺せってまさにそうだもんね。二言論的にやったらもうアウトだよみたいな話をされてるような気がするからね。
仏に会う
同意って話を、本人がしてる話をまとめたものってことだもんね。本人の言葉だもんね。五六だもんね。どんな感じでそれを表現してるのか、それこそ不流文字だけども、レシアちゃんも残しちゃったやつだと思うんだけど。
それこそね。
ほんとそう。ほんとそう。
ちょっとね、それをお説明いただくということで。楽しみだね。
そう、面白いですよ。だからまさにそういうイワナビ文庫から臨済録っていうのが出てるんですけれども、そこの役者の後書きでイリアさんかなっていう、すごい孔明な学者さんの方が訳した本があって、そこの後書きにね、この臨済録っていうのはもっと自由に読んでくださいと。
その自由っていうのは、私が役したのより自由に読んでいいんですよ、みたいなことが書いてあって。
要は、やっぱり言葉、不流、まさに何か言ってるけど不流文字だから、その言葉を聞いてその言葉を学ぶっていうよりは、そこに表現されてるものとか、そういうものを別にもっと自由に感じても良いのだと。
勝手な解釈はもちろんできないし、その言葉である以上は、私はって言ったらある程度の私を指してるとは思うんだけど、私っていうのはどこまで深い私なのかみたいな話があるわけだよね。
そういう意味で、自由にというか、ある種の発想力を広げて読んでいいよみたいなことが書いてあって、なかなかそんな本ってないじゃないですか、歴史的な本とかでした。
そうだね、確かに。私その自由っていうのも、いわゆるこの前の構造主義的な話とか、意味の話とか聞いてたからだと思うと思うんだけど、
その自由っていうのはさっき本当に何でもいいみたいなさ、何でもありではなくて、たぶんその人なりに本気で読み解こうとして、本気でリスペクトを持って、自分が本気でこう思う、こう信じる。
この人はこういう風に、こういう意味で言ったんであろうと自分は本気で信じる、思うみたいなところに立ち立たせると、そこに自由が生まれるようなね。
そういう感じが、そういう熱量を感じるよね、そういうことも。
そうだね、そうだね。
そう、やっぱりリンセイがこう言った後では、仏を殺せって言ったから、仏は殺していいんだ、ではなく。
言葉の自由
危ないよね、それ。お坊さん危ない、全国の。
実際、前もちょっと言ったかもだけど、これが英訳された時に、ユーキールブッダみたいなことが英訳されて、やべえ奴がいるぞみたいな。
ちょっと東洋人ヤバすぎじゃねえみたいな話になったっていう、ちょっとジョークというかね、そういう話があったじゃん。
そっか、それは面白いなあ。なんかね、中国語で読むじゃなくて英語で読む面白さみたいなのがそこにありそうだね。
そうそうそう。実際そういうことではないんですよ、みたいなね。やっぱりそこってね、どう伝えるかというか。
その、あくまでも自由なんでみたいな話、やっぱり難しいよね。
はいはいはい。いいね、でもそっか。逆に日本語とかでね、ちょっとつまずくというかさ、なんかわかんねえってなった時は、やっぱり英語を見てみるといいかもね、言葉の表現的に。
うん、でもやっぱりそうそう。やっぱりね、これもちょっと余談だけど、語源に当たるとかね、ちゃんと元々の言葉で読むとかめちゃめちゃ大事だと思うんだよ。僕はできないけど、それは。
言っててもね、やっぱり哲学ちゃんとやるなら、やっぱり大元の言葉で読むべしみたいなのもなんかあったもんね。
そうそうそうそう。
そういうとこだなかもしれないね。
英語、フランス語、ドイツ語、やっぱりそのあたりは読めないとね、みたいな話がやっぱりあるよね。
そのあたりはハードル高いけどね、その注文はね。
ハードル高いです。
まあでもありがたいこと、今日本語でこうやって語録が出ているということで、今回はそこで。
はい、まあそんな感じでね、次回はさっきも言った通り、リンザイさんが王博師匠のところで、こんなフレーズが悟りましたよってお話があって。
まあまあそれもね、めちゃめちゃ面白いので、そういうのをまずはご紹介しながら、あ、なるほど、悟ったってそういうことなのね、みたいな。
だから、悟ったって言われてもね、分かんないじゃないですか。
うん、分かんない。
で、あ、そういうことなのねっていうのをちょっと見ていきたいなというふうに思っておりますと。
はいはい、いやー了解です。いいねー、なんか、もうそれぞれの悟りエピソードみたいなのってさ、たぶん本当千差万別だろうからね。
そこにやっぱりこの東洋の禅門道とか禅の面白さがあるなーって思うね。
じゃあ、次回もその辺り具体的に見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。