1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #227 「誠」と「生死」の捉え..
2024-06-30 59:47

#227 「誠」と「生死」の捉え方。日本人のこころを巡る旅

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「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、こころ編も今回で7回ということで、こころだとか脳だとか、いろいろ見てきた中で、前回はあれですね、日本人のこころというところで、その辺りを見てきたという感じでした。
前回はですね、日本人のこころという本を読んで、ちょっとそれは面白かったというところで、ご紹介したと思うんですけれども、
結構その関係性、それこそ和をもって唐突となすとかさ、
そういうふうな形で、結構日本人の、ある種古来からのこころってどういうふうになったのっていうところをお伝えしてきたと思うんですけれども、
今回もその日本人のこころについて、ちょっとテーマとして取り上げていく中で、今回のこころ編全体の最終回としたいなというふうに思っています。
今回取り上げるのがですね、大きく2つ思っていて、1つが誠、誠実の誠ね。
誠みたいなものと、あと生きる死ぬの、死生観みたいなものを取り上げたいなと思っています。
これもちゃんとやろうと思うと、日本人の死生観というだけで1個のテーマになるなと思っていて、それもイエスからやりたいなと思ってるんですけど。
それはね、日本人の死生観だけでか、世界のじゃなくてね。
そう、世界のじゃなくて日本人の死生観だけで1個やりたいくらい面白かったんだけど、
クリスのこころ全体っていう中でとか、日本人のこころっていうのを考える中で、
もっと言ってやっぱり自分たちのこころっていうものを考えたって、いろんな視点を与えてくれるんじゃないかななんて思ってるので、
そのあたりをぜひお伝えしたいなというふうに思っております。
早速やっぱり誠、誠実の誠っていう方なんですけれども、
誠といえばね、やっぱり神仙組が結構有名じゃないですか。
そうだね、やっぱりその一文字だけ見せられると思い出すからね、確かに。
そうそうそうそう。
っていうぐらいのあると思うんですけど、やっぱり僕らの普段の日常としても、やっぱり誠実でありなさいとかさ、
あるいは例えば子供とかに対して誠実な人になってほしいとかっていうのはやっぱりよく言われたりするわけですよね。
基本的にいろんなことって両面あると思うんだけど、いい悪いってあると思うんだけど、
誠実な人って言われたら基本的にいい人であってさ、
03:01
悪い意味であいつ誠実なんだぜとかって悪く言うことってあんまないじゃない。
そうだね、嫌味でも使わないかな。
そうそうそう。
ちょっとさ、あいつ素直すぎるんだよなとかさ、あいつちょっとピュアなんだよねとかはさ、
なんかちょっと皮肉っぽく言うこともあると思うんだけど、
あいつマジ誠実なんだぜ、やばくない?って言うことはないじゃない。
聞いたことないね。
そうそうそう。
っていうぐらいやっぱりこの誠とか誠実って結構まあ、本当にこういい意味とかポリティブな意味でやっぱり使われてる言葉なんですよね。
確かにだいぶ得が高いワードなんだね、誠実っていうのはね。
そうそうそう、そうなんですよ。
じゃあこの誠実とか誠って、いつからどんな風に大事にされてきたのとかって、
まあそれこそ考えることってあんまないじゃないですか。
私まあそうね、そもそも誠実ってどの意味みたいなね、考えたこともないかも。
なんでちょっとそのあたりを少し歴史的なものを掴みながらお伝えしていきますが、
今回の前半戦なんだけど、
普通なんか例とね、このもともとの誠っていう言葉も中国の儒教から入ってきた言葉なんですよね。
前回もちょっと儒教ってやったと思うんですけど、
その儒教の原点である忠孝っていう、
これが中国の秦の時代なので、紀元前200年ぐらいなんですけれども、
師匠御教とか大学とか忠孝とかって本があるよっていう中の忠孝っていう中に、
この誠っていう言葉が結構重要な概念として登場してるらしいんですよね。
だから歴史としては結構古いんだけれども、
その後の中国の歴史とか中国の儒教の歴史においては、
この誠っていうのはそんなに大事にされてなかったらしいんですよ。
だからもっと別の概念。
それこそ朱子学っていう名前だけでちょこちょこ出てると思うんですけど、
朱子学とかで言うと、結構理学とかって言われたりするんだけど、
理ってことわりの理、理科の理なんだけど、
これって要は理性の理でもあるんで、
理性とか知性とか、これすごいざっくり言うんだけど、
理性とか知性とかそういうものを使ってこの世の真理を解き明かそうぜみたいな、
結構西洋の哲学に近いような性質を持ってるんですよね。
なるほど。スピニチュアル要素を排除してこうぜみたいな感覚。
もともと例えば法師とか言ってるじゃないですか、中学論語とかを書いたね。
06:03
あんまりこの世の真理どうこうっていうよりは、
やっぱり戦乱の世にあって、異性者がどうやって民を治めるかとか、
政治をやるかとかって前ちょっとやったと思うんですけど、
そういうことのほうが大事なので、
そもそも何だ、人間とはどういう存在かとか、
宇宙とは何かみたいな話ってなくはないんだけど、
天とか道とかっていう発想あるはあるんだけど、
それをとにかく突き詰めるみたいな感じではあんまなかったらしいんですよね、
自学に関しては。
なるほど。
もともと自学に関しては。
その後の朱子学とかってなると、
そういうふうに理性とか知性を使って、
この世全体、目的的に言うと、
天の働きとか天の運行とかっていうものを理解して、
この世のことも理解しようみたいな感じが強かったんで、
あんまりこの誠とか誠律みたいなものが、
ピックアップされるタイミングがなかったらしいんだよね。
なるほど。
道徳とか倫理とかよりも、
もうちょっと仕組みそのものみたいな方に目が行ってたんだね、
こっちの朱子学とかだと。
そうなんです、そうなんです。
逆に日本は近世にあって、
朱子学とかを中国から輸入していくわけなんだけれども、
それが入ってきたときに、
そういう理性とか知性みたいなもので、
全部解き明かそうぜみたいなやつを否定する人たちがいたんだよね。
そうなの、否定。分からないとかじゃなくてね。
分からないとかじゃなくて、
ちゃんと理解した上で、いや違うんじゃねえかと。
それはさっき言ったみたいに、
いわゆる古代の聖人、聖なる人だよね。
孔子とかって、当時の日本人とかからしても、
いわゆる聖なる人というか、
偉人みたいな感じだったわけなんだけど、
他の人って本当に、
理性とか知性だけで物事を考えたんでしたっけ、
みたいなことを考えるわけですよ。
当時の日本人ってね。
なんかすごい着眼点っぽい感じがする。
確かにいいってなるかもね。
なりそうじゃない。
全部が本当に、
いわゆる理みたいなもので解き明かせるとしたら、
ある種、いいことは良い、悪いことは悪いってなって、
すごいすっきりするんだけど、
でもそれで本当にいいのって思う人たちが、
当時の日本人でいたわけなんですよね。
要は、物理学みたいにさ、
これは石ですとか、これは鉄ですとか、
09:01
ある種、混ざらないものだったらいいかもしれないけど、
人の世の中とか、政治みたいなことを温めた時に、
善は善、悪は悪ってスパッと切られたらさ、
それはそれで、
生きづらいというか、生き苦しいみたいな、
そういう風になっちゃうじゃないですか。
なるほど、若干仏教観みたいな、
一言論観みたいな、
価値観もあるから、みたいなとこはあるのかね。
そうだね、そういうのもあるし、
もともと日本人の和を持って闘争してたら素敵な、
仲間になれば別に、
例えば仮に悪人だとしても一回仲間になれば仲間だよね、
みたいな話とか、
そういうこともあるだろうし、
やっぱり良い人というか、
いわゆる聖なる人とか聖人というような人っていうのは、
別に悪を断罪して善だけを守るんじゃなくて、
やっぱり悪い人もちゃんと立ち直らせてあげるとか、
悪い人も許してあげるっていう風な心の広さを持ってるねとか、
あるいは良い人がいたらもっとその良いところを伸ばしてあげるよねみたいな、
そういう結構何だろうな、
慣用さみたいなことが大事。
慣用みたいなところも面白そうだね、テーマとしてね。
そうそうそうそう。
だから理、断りだけでやっちゃうと、慣用さがなくなるんだよね。
なので、そういうものじゃなくて、
我々は、当時の伊藤仁才さんとかっていう人は、
本の中での名前として挙がってたんだけど、
そういう人からすると我々日本人っていうのが、
もっとそういう、
理性だけじゃなくて、
もっと感情的な面とかも含めて、
やっぱり物事に向き合っていくのが良いんじゃなかろうかと。
そんなことを考えたときに、
ある種、改めて注目され始めたのがこの誠っていうものなんだよね。
それはどの段階で注目されてるんだ?
それはこの理っていうもの。
伊藤は、趣旨学をそのまま受け取ると、
理が大事だとか、理性を持つことが大事だってなるんだけど、
そうじゃないっていうときに、
ただそうじゃないって言ってもさ、
単なるイチャモノになっちゃうじゃん。
そうじゃなくて、
ほら、この誠っていうものは中洋っていうもともとの原点にも書いてるでしょっていう風に再発見するんだよね。
なるほどなるほど。
この趣旨学が入ってきたのってちなみにどのくらいなんだっけか。
趣旨学が日本に入ってきたのは、1200年頃らしいんだよね。
ほうほうほう、あそこ。
思ったより早い。
今名前を挙げた伊藤仁才さんっていう人が、
12:01
1600年ぐらいの人ですよ。
時代的には江戸時代の前期ぐらい。
入ってきたっていうところからすると400年ぐらい経ってるので、
入ってすぐにそれを批判したというよりは、
日本にある程度根付いてたんだけれども、
江戸時代っていう風な時代の変化とか流れだったりとか、
当時の多分民衆の考え方とかっていうところからしたときに、
いわゆる理性、知性っていうものだけじゃないよねっていうところで、
そういう再解釈というか、
再発見をしたっていう感じなんじゃないかな。
1200年くらいと鎌倉時代と江戸時代では全然違いそうだもんね。
戦国感みたいなものが。
そうなんです。
逆に言うと、当時のもしかしたら江戸時代でいくと、
そういうふうに、この世の真理とはとか、
世界の本質とはっていうところがそんなに大事じゃなかったっていうか、
もうある種江戸幕府、江戸時代っていうふうなものができちゃったわけだから、
その中でどう生きていくかだったりとか、
どういうふうな時代を作るべきかとか、
そういうことのほうが大事にされてたんじゃないかなとも想像するんだよね。
哲学的に言うと江戸時代の方が、もし例えば戦争、戦争が少ない、
まあわかんないけど、歴史はわかんないから的なことを言ってるかもしれないけど、
もしだとすると、こっちの方が余裕があってさ、哲学思想な感じもするけれども、
あんまそういう時代限らずというか、
割と目の前の仏教観みたいなさ、
涅槃みたいな悟りみたいな感覚はあれども、
たとえ世俗を捨て切るでもないみたいなバランス感覚みたいなものが、
なんかこうあるのかね、日本人ならではのものか。
これもちょっと想像でしかない部分はあるんだけれども、
本の中で戦国時代とか武士はどういうことを考えたかってあるんだけれども、
武士の時代とかっていうのは、ある種いつ死んでもしょうがないというか、
明日死ぬのが当たり前みたいな時代でした。
結局は死についてどう向けるかとか、
死と直面する中でどう生きるかみたいなところがテーマになってくるから、
それはそれで結構生き方死に方みたいなところに目が向き始めるらしいんだよね。
やっぱり名を残すとか、家を残すとか、
自分を超えたもののために自分を生かすみたいなとか、
15:01
恥っていうのはもう本当に一族労働の恥だからそれは絶対にダメだとかっていうふうに、
逆に哲学的なものが芽生えたりします。
わーなるほどね。暇だけじゃ生まれないものもあるんだね。
そうそうそう。そういうこと。ちょっと得意な時代だと思うんだけどね。
逆に実際江戸時代とかになると、ある種日本が統一されて、
戦争っていうのは基本的にはダメよってなったときに、
どうやって改めてリアルな生活だよね。
どういうふうに街を復興させていくかとか、
そういう現実の方に目を向けていくっていうふうなこともあったんじゃないかと思うんだよね。
あーなるほどね。確かにあんまり極端なのかもしれないね。
戦国時代と江戸時代の切り替わりがね。
もちろんね、いちいちスパッと変わったことはないからさ、
もちろんいろんなことがあってってことだと思うんだけどね。
なるほど。
そうなんです。なので、この誠っていうのは、
あんまりこう、いわゆる誠実さみたいなものから、
もちろん神に対する誠実さとかってあるかもしれないけれども、
あんまり世界とは何かとか、
客観的に人がどう生きるべきかっていうことっていうのは、
ちょっと誠とか誠実って言葉とは遠い感じがすると思うんだよね。
どっちかっていうと、いわゆる目の前の状況に誠実に向き合うとか、
周りの人に対して誠実だっていうところでいくと、
リアルな出来事に対して純粋に向き合うみたいな意味合いで使われていくものなんですよ。
なるほど。確かにそうか。
今言ったように、もともと数字学であったような理性、知性とかってことじゃなくて、
江戸時代のリアルにどう生きていくかとか、
どういうふうに目の前の状況に向き合っていくかっていうときに、
この誠っていうものがある種、されたというか、再注目した人がいて、
そういったものが日本人にとって大事なんだとか、
こういう誠っていうものをある種共通のスタンスとして生きていくのはいいんだみたいな、
そういう風潮っていうのができてきたんじゃなかろうかっていうふうに言われてるんだよね。
なるほど。
だからそういう意味で言うと、逆に言うとね、
よくもあるくも物事を客観的に捉えるとか、
理性を掴みたいなところが、この誠には結構欠けてるんですよ。
わりと根性論、精神論的な部分がある。
精神論的な部分がある。
成立でさえあればいいというか、
18:01
例えば、ちょっとこれ極端なんだけど、
仮にね、例えばネズミを、例えばチベモノを盗みましたと。
で、お前何やってるんだ、そんなの泥棒じゃないかって言うんだけど、
でもこれは今お腹を空かしている、明日にも死にそうな子供がいて、
ちょっとその子供を育てたいという一心で、
私の真心からやりましたとか、誠実さだったんですとかっていうふうに言われたとしたら、
まあしょうがないな、じゃあ今日はもう帰れとかって言っちゃいそうじゃない?
うーん、なんかそうだね、めっちゃ狭い範囲での誠実さだね、それ。
まあね。
だからそれは誠実さは言えないかもしれないけれども。
まあ、それはアニュールよね。
そうそう。
ある種、そのばかりかもしれないけど、
やっぱりそういうひたむきさとか純粋さに対して、
まあしゃらないよねって思う気持ちがあるとしたときに、
人情としてはいいかもしれないけれども、
客観的に、例えば法律をどうするかとか、
世の中をどう良くしていくかっていうふうなことを考えようと思うときには、
ちょっと合わなかったりするわけだよね。
まあ、確かにそうはね、法の根拠にされたらちょっと怖いかもね。
そうそうそう。
まことであればよい。まことっていうか、そういうものであればよいってことにならないから。
だからそういう意味では、ある種、まことであればよいとか言い過ぎちゃうと、
それはそれで楽観的みたいな感じになっちゃうんだよね。
まあ確かに解釈の余地もいっぱいありそうだもんね。
さっきのような話でね。
許す人もいるかもしれないし、許さない人もいるかもしれないし。
うるせえみたいな、ネズミは止めな!っていう人ももちろんいるかもしれないし。
結構当時の江戸時代の話を見ると、
みんながみんなまこと?
心を持って過ごしさえすれば、世の中平和になるみたいな。
結構そういう論調で語られることも多いらしいんだよね。
へー、そうなんだね。それぐらい大切にというか、すごいいいことであったんだ。
そうだね。いいことであった。
あるいはそういうことを発信しすぎた知識人がいたみたいな、そういうことかもしれないから。
あんまり民衆にどこまで広がっていたかっていうところはもちろんあると思うんだけど。
でもそれもたぶん江戸時代っていう結構安定してきた時代だったりとか、
あるいは外国、いわゆる今でいうところの中国とかアメリカとかそういうところって交流がない中で、
やっぱり日本人だけのことを考えると、日本人みんながそういう誠実さを持って、
お互いに目の前のことにピュアに向き合っていれば、豊かになるよね、平和になるよねみたいな。
21:02
そういう発想はわかるかなとは思うんだよね。
まあそうだね、確かにそれはそれで。
なのでこの誠というものは、ある程度江戸時代の前期というか、
そのぐらいから日本にとって結構大事なというか、
いいことなんじゃないっていうふうに言われてきたというのが歴史の流れではあったりするんですけど、
それがさらに時代を下って明治とか、その後どうなってきたかみたいな話でもちょこっとだけ触れられてるんだけれども、
例えば哲学的な流れで言うと、この誠っていう考え方が、
名前はちょっと何度か出したことあると思うんですけど、西田貴太郎さん。
これは日本で一番有名な哲学者ですけど、
「善の研究」っていう、これはめちゃめちゃ有名な本があるんですけど、
善はね、善なるものの善。
よし足とよしの本。
仏教の善じゃなくて。
まさに仏教的な善の思想も入ってるから、これ結構面白いんだけど。
よし足の善の研究っていう本に、この誠っていうふうなものが結構含まれてるんじゃないか。
あとはね、全然違うところで言うと、明治以降、いわゆる江戸時代が終わって、
明治になっていくと思うんですけれども、いわゆる近代化とか経済成長に関しても、
この誠っていう考え方がすごく土台になってたんじゃないかっていうふうな話が書かれてたんですよね。
これどういうことかっていうと、これもちょっとこじつけというか、何とも言えるんじゃねえかみたいな話もあるんだけれども、
ある種国が経済的に発展しようとか、ある種西洋に触れたときに、このままじゃまずいってなったわけだと思うんだけど、
そういうときに、ある種トップというか、ある種政治家たちだけが盛り上がってもダメだし、
ある種民衆だけが張り切っても方向性がまとまらないんで、うまくいかないわけですよね。
まあそうね。
まさに巨国一致みたいな言葉もあるけれども、
ちゃんと政治的な人たちと民衆がある種ちゃんと同じ方向を向いてやっていくというふうになったときに、
やっぱり民衆の人たちが政治をちゃんと信じて、一人一人が目の前のことをちゃんとやる。
24:01
ある種自分の領土に向き合うということがないと無理ではねってなるんだけど、
これがいわゆる自分の領土を守るという意味での誠実さっていうことがあったんじゃないかっていうふうに言われたりするんだよね。
ただただ時代が変わって、禁弁さがあったから成長しましたってことじゃなくて、
やっぱり禁弁さのもとになる誠とか、やっぱり誠実に自分の仕事とか役割に向き合うということが、
そもそものスタンスとか、やっぱり僕らの価値観として、当時の日本人の価値観としてあったからことを、
あれだけ世界が驚くというか、今からしてもあんなに発展性がすごいって言われるような経済成長があったのだろうかみたいな。
なるほどなるほど。確かにここは難しいね。成功というか、要因が誠であるって言われるとちょっとハテナはつくけれども、
確かにそうだよね。レンガ積み職人の話じゃないけどね。全員が立派な教会の設計図描きたいっすって言っても、
日本な教会は立たないからね。ちゃんとレンガを積む人たちが先進先取の目の前のレンガ積み仕事に取り組めるかっていうところも、
ちゃんと教会が完成するかにかかってますからね。
そうなんだよね。教会ができるかどうか知らんけど、私はレンガ積み一筋30年でもレンガ一個一個積むことに人生費やしてますって言われても別にいいわけじゃん。
そうだね。そのかっこよさはあるよね。
そうそう。かっこいいからさ。という意味での誠実さっていうところが、もしかしたらあったんじゃないかと思うかっていう話だよね。
なるほどなるほど。
まあね、これをちょっと皆さんもどう思いますかっていう話はあるんだけど。
いやーでも面白い概念だね、確かに。
なかなか普段こういうのって考えないし、なんでもそうだと思うんだけど、やっぱり普段僕らが大事にしてる価値観とか、やっぱりこれは良いよね悪いよねっていうような概念で、結局いつから良いって言われ始めたのか。
そもそもこの誠とか誠実っていう話も、多分江戸時代に言われた頃の意味とちょっと違うと思うんだよね。
なるほどなるほど。
私はちょっと読んでないからわかんないけど、中陽っていうね、紀元前200年とか今から2000年以上前に書かれた誠っていう文字一つの言葉の意味と、今僕らが使っている誠っていう意味と、
27:04
それこそ新選組が掲げたときの誠っていう言葉の意味って多分違うじゃないですか。
うんうんうん、そうだね。
でもやっぱり同じ文字、同じ言葉で語ってるから、やっぱりそれって何なのっていうことを見るのは結構ね、面白いというか大事なんじゃないかって思うんだよね。
いやーだって、でも新選、あの明治維新ですもん。
うん。
新選組にさ、殺されてる方がある意味新選組作ってるわけじゃん。
うーん、そうね、ほんとそうそうそう。
まあね、この誠っていう言葉で言うとそこも面白いよね。
そうなんだよね。
そっちにやりつけられてた方がむしろね。
そうそうそうそう。今のね、日本の母体というか、材料ってわけだから。
いやーほんとそうなんだからね。その辺りの歴史はね、僕もあんまり詳しくないからあれですけども。
こんなことをね、ほんとやるだけでもいろんなテーマがあるなーなんて思ったのが一つありますよ。
はいはいはい。
駆け足になるんだけど、もう一個のテーマとしての姿勢感、生きるしみたいなこともちょっとだけ触れさせてくださいと。
うんうんうんうん。
で、これはちょっと多分ね、またどっかでテーマとして出すんで、ちょっと今日はね、すごいごめんなさい、浅くなっちゃうとは思うんだけど。
うん。
まああれでしょ、心っていうものをやっぱり、なんだろうな、テーマとして扱う中の最後の締めくくりとして、このやっぱり生きるとか死ぬっていう話ってめちゃめちゃ大事だと思ったんで、ちょっと改めて取り上げてみたんですけどね。
うんうんうん。
で、まずその、日本のある種の姿勢感とかっていうのを考えたときに、わかりやすい比較として、ちょっと西洋とかキリスト教的なことを取り上げてみたいんだけど。
うん。
まあ、前までちょっとどっかでやったと思うんですけど、ある種キリスト教における死みたいな話って、お話としてはいわゆるアダムとイブがその罪を犯して、それによってもともとは不老不死だった人間が死ぬようになりましたみたいな話なので。
うんうんうん。
いわゆるその原罪に対する罰なんだよね。
なので、すごいシンプルに単純化して言うと、恐怖の対象ですよと。
うんうんうん。
だから死ぬのが怖いって話なんだけど、これはこれでさ、たぶん今の日本人からすると一般的な感覚だと思うんですよね。
まあそうだね。
死ぬのは嫌だ、死ぬのは怖いって思うと思うんですけど、一方で日本的に言うと、あの人はぽっぷり行きましたわとかさ、あれはピンピンコロリでさくっと死にたしそうみたいな、そういうのもあるんじゃない?
はいはい、そうだね。
この時のさ、ピンピンコロリみたいな話で行くと、もちろん死ぬのが怖いからさくっとみたいな話もあるかもしれないんだけれども、
30:09
どっちかっていうと、もうさらっと死んでしまいたいみたいな、そういうあっさりした感じだったりとか、そういうふうなものもあると思うんだよね。
まあそうだね、もう怖いからどうしようじゃなくて、ある意味こう、自分の中で受け入れてる感覚みたいな感じはするよね。
そういうものみたいな話だった時に、これってどういうふうに受け止めたらいいの?っていうふうになるんだよね。
なるんだよねっていうか、そういうことも考えられるじゃないか。要は、死ぬのは怖いよ怖いよって人もいれば、結構受け入れて、もう別にいつ死んでもいいやってる人もいる。
っていう時に、なんでこんなふうになってんだっけっていう話なんですよね。
そこを例によって歴史的に見ていきましょうっていう話なんだけれども、結構、昔の日本人の感覚からすると、
結構、死ぬことに対しては、さっきの後者のサラッと死ぬみたいな、そういう感覚が強かったんじゃないかっていうふうなことを、この本の作者さんは言ってるんだよね。
この本の作者さんは日本人のサラッという人なんですけど、例えば、西暦800年なので今から1200年前ぐらいに生きていた有原の成平っていう、これも結構有名人ですけど、
この人が亡くなる際に読んだ、いわゆる自生の句みたいな、隣住の歌みたいなのがあって、ちょっと読むと、
ついに行く道とは兼ねて、聞きしかど、昨日、今日とは思わざりしよ。っていうふうな歌があるんだよね。
なんか聞いたことある?これ。
いや、ないでしょうね。
たぶんね、国語の教科書とかにもあったりすると思うんですけれども、古文かな。
そういう有名な歌があるんですけど、すごいざっくり言うと、誰もが最後に通る道も、これがいわゆる死だよね。
あとは聞いてたんだけど、まさか昨日、今日みたいな感じで差し迫ってるとは思いもしなかったぜみたいな、そういうふうな歌で、
今は自分もいよいよ死ぬ足が迫ってるんだなっていうふうな時の歌なんだけれども、
ここに読み取れるのは、いわゆる怖さ、恐怖とかよりも、兄貴が言ってくれたような、ある種の受け入れてる感じとか、
いわゆるちょっとした諦めみたいな感じ。
33:01
なので、そのいわゆる、昨日、今日に差し迫った死っていうのに対して、
抗うとか、苛立つとかってことじゃなくて、こんなに死が近づいてきたんだなぁみたいな、
ある種の素直な驚きが表現されてるんじゃないかっていうふうに読み取れることが多いわけなんですよね。
もし本当に嫌だ嫌だってなったら、そんな死にたくないとか、いつまでも生きていたいなりみたいな歌になってるはずなんだけど、
昨日、今日とは思わなかったなぁみたいな、そういうような歌になっちゃってる。
確かに、恨みつらみって感じはしないもんね。
そうそうそうそう。
なので、結構この辺りに、いわゆる当時の、いわゆる西暦800年くらいの日本人の死に対する思いっていうのがあるんじゃないかっていう話なんだけれども、
ただね、死がある種の受け入れとか諦めだっていうのは、やっぱりちょっと単純すぎるじゃなかろうかというふうな話で、
やっぱりいろんな歴史的な変遷もあるんですけれども、
例えばね、万葉集の時代、万葉集って西暦700年くらいから続いている、
当時のいろんな日本人が読んだ歌が集められている本ですけれども、
万葉集の中で、やっぱり死ぬとかっていうのについて書かれている歌がいくつかあるんだけれども、
ここではね、結構死っていうのが安らぎみたいな形で描かれていることが多いらしいんだよね。
ほうほうほうほう。
例えば、いわゆる解放みたいな話なんだけれども、
例えば恋の歌で、ある種好きな男性に対して女性が、この恋を抱えながら生きるのがつらいから、
いっそ死んだら楽になれるのにみたいな歌とか、結構重たい歌なんだけど、みたいなやつとか、
あとは単純にご老人が、ちょっと最近年取ってしんどいから、いっそ死んだら楽になれるんだけどなみたいな、
これって現代人でも言いそうじゃない?
感覚としてはわかる気がするよね。
そうそうそう、わかるじゃん。
そういうのを今から1300年くらい前の日本人も、歌に読んでるんだよね。
そういうような意味で、やっぱり当時の日本人からすると、
死っていうのはちょっと安らぎだったり救いみたいな感覚もあったんじゃないかろうか、
っていうふうに今言えたりするんだよね。
なるほど、さっきまでの感じだと、
最初、一応比較として出てきたキリスト教では、みたいな話があったけれども、
36:00
そことどうそこまで違うんだろうな、みたいなさ、
別にキリスト教でもさ、もちろん現在的な感覚はあるけど、
やっぱり天国に行けたらなぁとかさ、
もちろん現在という罪の意識と罰だよね、
アデュールという恐怖心はあるとは思うんだけれども、
自分はちゃんとしてきたから、天国に行ける安らぎを、
そういう受け入れみたいな状態、
経典的な話と現実の感覚ってあるじゃん。
そこはそんなにめちゃくちゃ遠くなるかなぁっていうのも感じたんだけれども、
今の歌からすると、若干宗教観なのか、
価値観なのかわからないけれども、
それに基づく若干の差異みたいなのはありそうな感じがするね、確かに。
そうだね。
今のまさに天国とかって言ってくれると思うんだけれども、
ある種、700年くらいの日本でいくと、
まだそんなに天国、地獄みたいな思想が入ってないんだよね。
そうなんだ。
まさに次言おうと思ったんだけれども、
これって本当に仏教の導入とともに、まさに浄土だよね。
死後の世界っていう風な考え方っていうところが、
ある種アップデートされていきますと。
それまでの日本の神話でいくと、
いわゆる足原の中津国っていう我々の世界と、
高間川原っていう天の世界と、
黄泉の国かっていうある種国があったときに、
地続きだったじゃないですか。
そうなんだね。
ですかって俺たちは見たことないんだけども。
そうなんだね。
そんなに分かれてない。
人からすると、そうなんだね。
そうそう。なので、別に死後の世界があるというよりは、
同じ世界の中に別々のレイヤーがあるみたいな感じだったと思うんだよね。
ほうほうほうほう。
いっそ死んだらっていうのも、僕らが思うみたいに、
死後の世界に行くとか、天国とか地獄っていう別の、
本当に異世界に行っちゃうっていうことじゃない感覚があるから、
いっそ死んだら楽になれるのに。
よくも悪くも、死をあんまり大事にしてないみたいな、
たぶん捉え方があるはずなんですよね。
はいはいはい。
その後、仏教が導入されて浸透していたときに、
天国と地獄、もっと言うと浄土と地獄みたいな人が入ってきます。
そうなんだ。その順番なんだね。
そうそう。順番的にはね。
そうすると、もともとはさっき言ったみたいに、
死んだら解放されるとか、この辛さが楽になるっていう感覚があったところに、
39:07
なんと死んだら地獄に行って、
永遠のこの世のものとは思えない苦しみを足折るかもしれませんみたいなさ。
あー。
うん。
なるほど。ここでちょっとキリスト教っぽい天国地獄みたいなところと若干近くなるのか、感覚がね。
うん。
現在話題にしても嫌だもんな。
そうそう。キリスト教も、もともとは地獄とかめちゃめちゃ言うのはたぶん宗教ではないから、
うん。
あれなんだけれども、どっちかっていうと死んだ後も楽にならぬとか、
死んだ後の方がむしろ苦しいかもしれないみたいな感覚が来るわけだよね。
なるほど。
しかもさ、これが適当な教えあったらいいけど、
BUDで当時最先端の中国から来た、いわゆる真理というか、超絶スーパー学問なわけですよ。
いやー、あれでしょ。現代のビジネスにはAI必須であるみたいな話をしてるのと一緒でしょ。
そうそう。
もうそこを無視してはいけないって話でもね。
いけないみたいな。そうそう。
チャットGPTがやってきて、なんかお前らすげえよ、死ぬ後の世界は苦しみなんだよと言われましたみたいな。
うんうんうん。
否定しようとしたらチャットGPTの仕組みを改名しなきゃいけませんみたいな。結構そんな感じなわけだよね。
いやー、そうだよね。本気に否定するにしてもそこまでしない。
チャットGPTのこと分かってないと否定もできないっていう。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
そういうことです。
なので、結構それはみんな混乱したというか、
じゃあ本当はそうなんだみたいな。
俺らが思っていたことは間違いだったんだってなっちゃった部分もあっただろうと思うんだよね。
だってみんな言ってるし、頭多い人もみんな言ってるし、勝ってるしみたいな。
そうそうそう。勝ってるしみたいな。
そうそうそう。
で、なっていくんで、やっぱりこう、
死んだら解放されると思ったけどそうじゃないんだとか、
生きてる間にもっと得を積まなきゃとか、
いや、仏教に敬礼してなんだかんだしなきゃとかっていう風になっていくのがまさに平安時代とかそういうような時代なんですよ。
はいはいはい。
だけど、日本人の中にね、死は安らげだとか解放だとかっていうものが消え去るかっていうと、
実はそうじゃなかったというふうなことが書かれていて、
それをある種うまく復活させたのが、
まさに以前やった新蘭の浄土新宿じゃなかろうかっていうふうに言われてるんですよ。
おー、つながってくるね。なるほど。
42:00
つながってくるんだよね。
やっぱり仏教なんだけど、もちろん浄土新宿はね、
なんだけど、いやいや、みんなが頑張るんじゃなくって、
阿弥陀仏様の力でみんなで浄土に行くんだと。
つまり、やっぱり浄土とか地獄とかあるかもしれないけれども、
そんとなむ阿弥陀仏、阿弥陀仏さんに祈礼すれば、死んだ後も安らかな世界に行けるんだぜっていうふうに、
もともとあったであろうという、死は安らぎだっていうところに仏教を接続させたんだよね。
おー、はいはいはい。ありがたいね。
だからやっぱりここまで浄土新宿広まってんじゃないかとか、
だからやっぱり新蘭はすごかったんじゃないかって言われると、
なるほど、なんかそれってわかる?というか説得力が上がった?みたいな感じが僕はしたんだよね。
なるほど、まあ完全に人工AIが社会に実装されたらこうなるのか、みたいなね。
まあ、され方にもよるだろうけど。
もうあんまりそこ、地獄とか浄土とか意識しなくてもいいような段階まで来れるよね、こうするとね。
そうね、浄土あるかもしれないけど、それはそれとして僕らは救われるんだとか、
AIが労働を、仕事を奪うかもしれないけど、
別になんかもうみんなが食べるだけの食料をちゃんと豊かに見のってて、
しかも地球の環境とかそういうものを守る方法も全部AIがわかりきっちゃったぜ、みたいな。
世界になったら別に失業、困る人もいなくなっちゃったじゃん、みたいな。
っていう世界に行っちゃったよっていう感じだね。
なるほど、感覚としてそうだね。その感覚とこの死生家の感覚が近いかは別としてでもそうだね。
まあそうね、そうそうそう。みたいな感じなんですよ。
やっぱりさ、僕らが普段、死について語るときにもさ、
結構死ぬことをやっぱり成仏するとか、仏さんになるとか王女をするとかって言うじゃない。
これって全部仏教の言葉だし、しかも良い方の言葉なんだよね。
良い方、そうなんだ。悪い方の言葉もあるのか。
だってあるでしょ。だってね、あいつは地獄に行くってなったらもちろん悪い言葉だし。
でも成仏ってことは仏になるってことだし、王女は絶対上道に行くってことだよね。
やっぱり僕らはすごく無意識なんだけど、死ぬっていうことをちゃんと解放されるとか、
穏やかな世界に行くっていうことに結びつけてるってところがあるんだよね。
あるいは死んだら星になるとかもそうかもしれないんだけれども、
45:03
やっぱり死ぬっていうことが何か辛い世界に行くとか、
もっと死んだらより苦しくなるっていうことじゃなくて、
やっぱり穏やかな世界に行ってほしいとか、
やっぱり死んだ後には、
なんだろうな、
それこそ迷いなくとか憂いなく過ごしてほしい。
死後の世界がもしあるとしたら、
そういう穏やかでいてほしいみたいな感覚ってあると思うんだよね。
確かに個人で言ったら絶対そっちの方がいいよね。
死に怯えながらさ、死ぬまで生きるって結構大変だと思うけどね。
大変だと思うし。
でもやっぱりキリスト教的なさ、死は罪であるとか罰であるって言われるとさ、
やっぱり死なないことがいいことになっちゃうから、
やっぱり少しでも死を遅らせようとか、
やっぱり生きているっていうことの価値がぐんぐん上がるわけだよね。
700年代まで日本人がもともと解放されるみたいな、
その国を持っていたのと同じような感覚で、
その国に生きている方が価値があるって思った可能性があった。
ちょっとここはね、宗教観とか国の違いの感覚があるから、
ぜひね、そういう感覚を持っている人の話も聞いてみたいなと思って。
聞いてみたいけどね。
そうなんです。だから、もちろんね、それがいいか悪いかってあると思う。
いいか悪いかっていうか、別にいいか悪いかっていうものはないんだけれども、
ただやっぱりそういうぐらい、生きるとか死ぬってことに対する感覚が違う可能性やっぱりあるよね。
まあそうだよね。はいはい。
なので、もちろんね、今日本人って大きく言ってるけれども、
聞いてる方の中でも、もう自分は1日でも長く生きていきたいという方もいらっしゃるだろうし、
そこはもう本当に人それぞれだとは思うんだけども、
やっぱりいわゆる歴史的な流れからすると、
ある種ちょっと死が安らげだみたいな感覚っていうのは、
ちょこっとあるんじゃなかろうかっていうふうなことはあると思う。
ここまでの結構仏教的な姿勢感、もっと言うと死についての感覚なんだけど、
当然日本は仏教だけじゃなくて、さっきも触れたのは儒教みたいなものとか、
あるいはさっきも触れた武士とかね、
あるいは江戸の長人でいうと浮世っていう言葉があったじゃん。
浮かれるの浮くもあるし、あと憂うというか憂鬱という意味での浮世っていうのもあるんだけれども、
48:01
そういう生き方も含めて、同じ日本とか日本人といえども、
時代によっていろんな死に方、生き方の捉え方があるわけだよね。
例えばこれは本当に深くやれないんでまたテーマ変えてやりたいんですけど、
武士の代表を仮に織田信長とするならば、
織田さんは人間50年でこの世は夢幻だみたいなことを言ってたし、
浮世っていう意味では、やっぱり人生は思うままにならん。
何も思うままにならんし、言ってもどうせ短い、ただ生きてるだけの間なんだから、
もうその時その時楽しく生きりゃいいじゃないかみたいな、
それこそAじゃないかみたいな言葉があったと思うんだけど、
またいわゆる酔い腰の金は持たないみたいなさ。
やっぱりそういう言い方も正当化されるわけだよね。
だからやっぱりそれは死生観って言われるぐらいなんで、
死をどう捉えるかによって生き方とかどういう生き方がいいかっていうことも変わるし、
やっぱり生きるっていうことを使うままの夢幻だって捉えるのか、
やっぱり生きるっていうことにも意味があると捉えるのかによって、
やっぱり死ぬ時の死に対する捉え方も変わる。
そういうことが時代時代で起きてきたんですよ。
ただやっぱり死は安らげであるっていう感覚が少しでもあればこそ、
逆に生きている時間をどう使うかっていうことが広がりが出てくるだろうし、
逆に1300年間ぐらいの日本人が言ったような、
ただただ死は開放であるとかっていうだけとか、
死っていうのはただちょっと別の世界に行くだけだよっていう話だと、
やっぱり死に対する哲学的な発想とか理解って深まらない。
やっぱり地獄とか天国みたいな概念があってこそ、
やっぱりそうならないためにこの人生何をするかとか、
そういうふうなことがあるし人間としては深まっていくから、
それで深くなって生きづらくなっちゃうとかもあるかもしれないけれども、
やっぱりそういうふうな時代のいろんな思想とか概念の発展とかを経て、
僕らは生きるとか死ぬとかっていうことを捉えてるんですよっていうような感じなんだよね。
はいはいはい、なるほど。
確かにこれ、ちゃんとやろうとしたら1回じゃ終わんないっていう意味がわかったね、これ。
わかった。
いろいろ聞きたくなっちゃうもんね、他の国というかね。
場所って全然違うだろうし、時代によっても違うだろうし、
51:02
それを比較しないとまた、
例えば日本人の姿勢感ってものが多分浮き彫りになってこないだろうしみたいなさ。
確かにね。
それなんか面白いな、面白いとかやりたいなと思った。
日本人の姿勢感とかもちろんそうだけど、
それから宗教ごとの姿勢感もあるだろうし、国ごとの姿勢感もあるだろうし、
なんかそういう姿勢感テーマ、姿勢感会みたいな。
それは全然なんかやってもいいよねっていうか、やりたいね。
それはね、なんとなくやっぱりその、
その時の一般常識みたいな感じで、ある程度共通認識みたいなさ、
こうあるべしだったりとか、こうはダメみたいなのもあるだろうし、
あとはそれに対してね、その個々人がどう反応するかっていう、
さっきの小田信長は、人生50年短い夢魔の殺しである。
でも、それどう本人が言ったかは知らんけれども、
そういう時、そうだそうだって言って、
めちゃくちゃ頑張る人もいるだろうし、
めちゃくちゃ頑張らない人もいるだろうし。
そこはやっぱりもう同じ価値観に基づいて、
全然違う挙動が起こってるみたいなところはあげるからね。
それもまた面白いなとは思うけど。
ここはね、ある種頭足っぽくなっちゃったんだけれども、
今回その、
その誠というようなものと、
その姿勢観というものをちょっと触れさせていただきました。
というところで、やっぱりね、心って言ってもさ、
今回いろんな7回か多分これまで過去最長ぐらいでやってきたと思うんですけど、
それこそね、覚えてるかな、
フロイトの精神分析もちょっと見たし、
脳科学もちょっと見たし、
日本の歴史見てきたわけだけれども、
やっぱり心っていうテーマって、
いろんなものがあるし、よくもあるものが含められちゃいますよね。
だからこそこんなふうにいろんなことを見ながら、
心って何だろうね、
もちろん心が何かって答えは全く出なかったんだけど、
心に対していろんな観点から見ていくのは、
結構やっぱ面白いなって僕自身は思ったんですよね。
アニメはどうだったかな。
また次回の質問会とかも聞けたらと思うんですけど、
どうでしたか、感想としては。
めちゃくちゃ面白かったよ。
心っていうものが何かは確かに分からなかったんだけれども、
その心みたいなものが、
今回後半の日本人の心とか、
あとは脳科学的な話とかって、
一見すると全然心と関係ないというかさ、
54:00
ただの雑学的なさ、
何のお話だみたいな、ただの面白い話かみたいなさ、
どこもあるっちゃあるように見えるかもしれないけど、
実はやっぱりインプットだよね。
通じて、その学習だよね。
そういった学習を重ねることによって、
心みたいなものとか、
カエルみたいなものが生まれていって、
今日さらに思ったのが、
それに対する、
一般常識というか、ルールみたいなのがあったら、
それに乗っ取るのか、それに反対するのか、
ちょっと反対するのかとかさ、
もしくは新しいルールを作るのかみたいな、
そこに対する、何もないところに自分の心がわーって生まれるっていうよりは、
今まで培われてきたもの、
その土台の上にちゃんと心みたいなものがあるんだろうなっていう、
その土台みたいなものの存在を感じて、すごい楽しかったかな。
なるほどね。
それは嬉しいな。
本当そうで、
例えば脳科学的にさ、心は脳だっていうこともできるかもしれないけれども、
例えば今お伝えしたような形で、
日本という国の歴史の中で、
日本人的な心というものがあるともいえたときに、
この日本人の心って、ただただ僕の今の脳、
このよくわからん物質に、
全部押し込められますかみたいな話できたら、
結構それってハテナがつくと思うんだよね。
だから、もちろん心っていうものがポンと出てくることもあるのかもしれないけれども、
いろんなことを学んだりとか、
過ごしていく中で育まれていく部分もあるよねって思うと、
やっぱりその単純じゃねえよなって改めて思うし。
そうだね。
変数みたいなものが何個か見えてきた気がするよね。
ね、そうそうそう。
それもね、1000年とかね、
そしたら1000年後はもう全部解明されてるのかもしれないけど、
でも僕らの今生きてるレベル観で言うと、
やっぱりそういう複雑性の中で生きていく、
いうことが結構大事なんじゃないかなとやっぱ思うんだよね。
そんな感じでやってきたわけなんですけれども、
次回はやっぱりテーマっていうものを大事にしてやっていきたいなと思ってまして、
内容としては時間っていうものを取り上げたいなと思ってます。
またなんか深そうなテーマですね。
深いです。
57:01
次回に関しては結構ハイデッカーの時にもちょっとだけ話したかと思うんですけど、
時間ってなんだってすごい難しいとか普段考えるよりは考えないんだよね。
確かにね。
これもある種、前ちょっと言ったんだけど、
アーグスティヌスさんっていう有名なカトリックの司教さんが、
これも本当に清暦300とか400年くらいしたらしいんですけど、
言ってるんだけど、一体時間とは何でしょうかと。
誰も私に尋ねないときには私は知ってるんだけど、
尋ねられて説明しようと思うと知らないのですって言葉が残ってるらしいんだよね。
そんな昔からこういう感覚なんだ。
そんな感覚があるんです。
これはもう僕らの話じゃなくて、むしろ人類、歴史がある中でもこういうことを言ってた人がいたんですよ。
誰だよ時間作ったのね。やめてくれよって話だよね。そんなもの作んなよ。
しかも時間って面白くて、哲学的なものもあれば、
物理学とか能科学の人たちも時間と何かっていうものに踏み込んだりしてるわけなんですよね。
物理学は何となくイメージがある気がするけど、能科学は?
能科学もだよ。
でもね、僕が今兄貴が言った物理学で時間を扱うのがイメージ学っていうのは僕は驚けたね、逆に。
いやこれあれだよ。それでつられちゃうで、たまにハイトが言うアインシュタヒンガーとかさ。
そういう話だけど全く知らないからね。
いやいや、ちょっとね、その面白さもあるんで、そこをぜひ、
なので次回は時間というところでまたお受けしていきたいと思っております。
確かに哲学って文系的な話が多いから、たまにこういう物理学とか能科学の話をやっていただけると、
知的好奇心が満たされて嬉しいですね、個人的に。
言ってた前もですよね。
言ってた?
はい、織り混ぜていこうかなと思って、ぜひまたお楽しみにしていただければ嬉しいです。
はい、分かりました。今回結構心が長丁場というところでしたけれども、楽しんでいただければ幸いですというところで、
次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
59:47

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