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2024-06-26 50:21

#226 曽根崎心中はハッピーエンド?歴史が語る日本人の「こころ」

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「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

この本は日本人の心を深く掘り下げています。日本人の心は他の民族とは異なり、言葉や文章の特徴、お互いの関係性を示す言葉、調和や自主自立といった要素があり、日本の歴史や文化にも影響を与えています。現世の交わりと関係性は日本人にとって重要な要素であり、仏教と儒教の考え方には異なる視点があります。仏教は関係性を切り離し、寂しさや辛さを慰めるために出家仲間と結びつく一方、儒教は現世の関係性を重視し、人との交流を大切にしています。 仏教に触れながら、一緒に死を選ぶことが日本の歴史や恋愛にどのように関わっているかを紹介するエピソードもあります。物語「曽根崎真珠」では、夫婦になれない場合に一緒に死ぬことを選ぶ恋愛が描かれています。 結婚や恋愛において、当時の日本人の信仰心や文化の中で自己の位置を理解する思考プロセスが遺伝レベルで継承されており、その脳の中で最適解を構築する回路として心が活動しています。日本人の心は環境との相互作用や学習の結果から生まれており、心の理解は心が持つ意味や共感の要点を知ることへつながります。 次回はもう少し穏やかな話を聞けたらいいなと期待しています。武士の話とかするので、少し物騒かもしれませんが。引き続き、日本人の心についてさらに深く掘り下げていきたいと思いますので、次回もよろしくお願いします。

日本人の心の特徴
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、こころをテーマにやってるんですけれども、前回は脳の方ですね、自由エネルギーリミットは何かというところで聞いてきたというところでした。
今回はガラッと変えまして、日本人のこころみたいな、ちょっと大きいというか、ちょっとふわっとしたテーマについても深掘りしていきたいなと思っているんですよと。
まあそうね、そんなのあるのかっていう話で終わるけどね。
前回兄貴がまさに言ってくれた通りで、やっぱり仮に脳というのが自由エネルギー原理として、前回に聞いている方とか忘れてるって方もいらっしゃると思うので話すんですけれども、
不確実性と予測誤差というもので、それをある種を少なくするように脳というのは活動するんだという話を前回したと思うんですね。
そうすると不確実みたいな話って、要は生きているような環境で違うなって言ったと思うんですけど、まさに僕らが生きている環境、いわゆる文化とか社会というものにかなり影響されていると思うんですよね。
それこそ例えば日本で言うと、普段はご飯食べるけど、例えばアメリカでは仮にパンを食べますとするときに、普段朝ご飯に米しか食べてない人が朝いきなりパン出されたらびっくりするじゃないですか。
それは別にアメリカの人からしたら逆だよねっていうふうに、同じことでも全然違う反応をするっていうと、それぞれ違う心というか、そういうふうな違う行動を取るっていうことは言えると思うんですよね。
そうね。やっぱり環境においては不確実性っていうのは、環境とか共同体においては違うだろうし、それに対して最適化していこうとすると、人間の行動とか考え、心みたいなものも、やっぱりその中で違いと生まれてくるだろうねっていう話で。
だから、合にいれば合に従えって、ある意味すごくいい言葉だよね。
いい、どんな意味で?
自分を守る意味でかな。
さっきのところアメリカに行って、入学して、ホームステイしてるときにパン出されて、「俺は米食うんだよ、俺は!」っていう合に従わないって、すごくシンはあるけれどもめちゃくちゃカロリー使うじゃん、結局。
それがいい悪いとか、シンがあるないみたいなの置いといて、疲れるじゃん、お互い。
お互いに疲れるね、それはね。
パン食えばいいじゃんっていうね。そこを適応しとこうっていうね。
確かに。
逆に言ったらあれか。この間魚の話で言うと、黙って日本帰れやって、ビチビチ跳ねて日本へ帰れやって。
そうそうそう。
だから、あえて海外行くのはどないやねんっていうのは、そういうふうな、やっぱり両方の判定があると思うんだけれども。
逆に言うと、ある人僕もある人も岩手県で生まれてずっと日本に暮らしてる日本人だとは思うんですよ、一定ね。
なので、そういう意味では絶対に日本っていう文化とか社会に影響されてることはあるだろうし、
もちろん聞いてくださってる方の中には、日本以外の国籍の方とか、日本人だとしても日本以外の環境で過ごしてる時間長いですよっていう方もいらっしゃるとは思うんですけれども、
日本語である種話してる以上、日本に関わる方っていうのは多いとは思うので、
そのある種日本人の心というか、日本の心みたいなものを取り上げるのは無駄ではないんじゃなかろうかとね、
思ったんで、今日はそのテーマにしていくんですけど、今回は短い分ぐらいになると思うんですけど。
そんなに話すことあんの?日本の心で。
あるよ。それだけで一個のテーマになるなって思ったよね。
あ、そうなんだ。
これはちょっと面白い本に出会っちゃったんですよ、大きくって。
ちょっとこれも前回タイトルをお伝えしたんですけど、ズバリ日本人の心っていうタイトルの本なんですよ。
これは佐賀徹先生って僕もちょっと初めて知ったんですけれども、日本の思想師の大科みたいな方で、東大の名誉教授の方なんですよね。
言葉や文章の特徴
もう亡くなられている方で、この本も出たのが1984年なので、40年近く前の本なんですけど、
そういう感覚からすると、今からすると少し違和感があるとか、今の日本人は違うよってこともあると思うんですけれども、むしろそれを味わうのも面白いかなと思ってて。
まあそうだね。とはいえその後延長戦場だったりとか、その後最適化を続けた結果として我々がいるわけですね。
そうそうそう。やはり日本という環境も変化したからこそってのもあるだろうし、あと当然、今のとかその当時のというだけじゃなくて、
ある種、例えば聖徳太子の時代とか、その後仏教が入ってきてどうだとか、武士はどうだ、江戸時代はどうだみたいなふうに、
その本の歴史を振り返った時に日本人がどんな心を持ってたのかみたいなこととか、あるいはそれがどんなふうに現代まで影響を与えてるのか、あるいは失われちゃったのかとか、
そういうふうな歴史的な観点が詰まってる本なんですよね。
わーそれ面白そうだね。
そうそう。なので、やっぱり僕らが普段聖徳太子に思い馳せることは普通はないと思うんだけど、
でもある種、日本という歴史がある中で生きてきたっていう意味で言うと、僕らに直接関わる部分もあるんじゃないかなと思うんで、
これも結構面白いんじゃないかっていうか、僕は結構面白かったんですよね、読んでて。
なので、やっぱりそういうふうな歴史を知るみたいな話もそうだし、それは納得できるけどとか、それはちょっと納得いかねえぜみたいなことっていうのは、
もしかしたら僕と兄貴がそうだよねって言える部分もあれば、シャエとはそう言うけど俺はわかんないよとかって逆もしかしたらあると思うんだよね。
だからそういうことも含めてちょっと2回分ぐらいですね、いろいろとテーマを取りながら話してみたいなっていうふうに思ったんですよね。
おー、なるほど。それは2回なるかな?面白そうな感じは。
なるというか、一気にそまるかなと思ったんだけど、この本の構成の話をちょっとだけすると、全部で8章あるんですよ。
8章あって、それぞれが交わりの心とか、純粋性、これいわゆる誠とか誠実っていうような話とか、
あとは諦めと覚悟とか、そういうふうなテーマごとにいろんな人の話を持ってきてるっていうふうな話なんだけど。
歴史順じゃないの?時代順じゃないの?
時代順じゃないの。どういうふうな心に対して、過去こんな人がこんなことを言ってたっていうふうな話をまとめてるんだよね。
生きるなって思ったんだけど、今回さ、交わりの心っていう第1章をやっただけで1テーマ分になっちゃったんだよね。
面白すぎてね。
あれ?って思って。言いたいこと多すぎるなと思って。初回っていうのもあるんだけど。
なのでせっかくなら2回分ぐらいでちゃんとやりたいなって思ったんで、今回と次回ですとやっていきますぜっていう話なんですけど。
はい。ちょっとこれも雑談っていうか少し横にされちゃうんだけど、やっぱり改めてこういうふうに読んでいくと、
普段出てこない南洋宗の言葉とかさ、あとはもとおりの稲葉とかって覚えてる?
うーん、名前は。
いわゆる国学者みたいな感じで、いわゆる暴れとか平安時代のこととかを、当時江戸時代の学者さんですね。
なので江戸時代から見たときに、過去である平安時代とか、そういうことをある種、勉強というか、より学び直しましたみたいな人なんだけど。
こういう人の話とかを読むと、哲学からはちょっと離れちゃうんだけど、日本の思想を知るとか、日本の考え方を知るっていう意味ですごく面白かったんだよね、改めて。
なのでいずれにか、いわゆる日本の哲学者シリーズとか、日本の思想の歴史みたいなことをやりたいなと思ってたんだけど、
それのきっかけでもあったらいいなとかって思ってるんですよね。
ああ、そうなの。そんな野望というか、あったんだね。
あるあるある。やっぱり西田貴太郎を生まれたいなとかさ。
そういう意味ではある種、西洋と東洋、中でも仏教っていうのがメインだったんだけど、
日本みたいな話も少しずつ取り入れていきたいなみたいな。
別にね、だから日本がすごいとか、日本最高みたいな別にそういう人でも別にないんで、
あえてフラットにというか、普通にまずは日本っていうのはこういう思想とか歴史があったんですよみたいな話。
はいはいはい。まあそうだよね、確かに。
それもそう、一個のテーマとしてやるのは全然アリというか、やっていきたいなっていうふうに思ってたんだよね。
うんうんうん。
調和と自主自立の意義
手のところがちょっと前段で、早速に本部に入っていくんですけれども。
まず結構ね、この本の書き出しは僕からするとめちゃめちゃ面白くって、
さっきもお伝えした通り、第一章っていうのは「交わりの心」っていうタイトル。
まさにここも心っていうのが出てくるんですけど、どんなふうに始まってるかっていうと、
日本人に人と人との関係を重視する傾向があるということは、
すでに多くの人々によって指摘されてきたふうに書かれてるんだよね。
うーん、そうなのね。はいはい。
そう、どうどう。これ言われてさ、もう確かにって思う。
いやわかんない。それ人間一般でも言えるのかなとかって思っちゃうけどね。
はいはいはい。
別に日本人がとりわけとかってちょっとわかんないかな。
はい、なるほどね。
で、例えば続けて言われてるのは、いわゆる言葉とか文章っていう意味でも、
要は日本語の文章では主語が省略される。
つまり、私とかあなたとかっていうふうなことっていうのは、ある種隠れちゃうんだけれども、
例えば敬語みたいに、お互いの関係性を示す言葉っていうのが発達してるじゃないかとか。
ほうほうほうほう。
あるいは、やっぱりそれこそ聖徳太子の時代から和を持って唐突となすみたいなふうに、
和っていうのはいわゆる調和みたいなつながりだよね。
ふんふんふん。
これがやっぱり第一に来るんだみたいな。
そういうことってある種古来からあったよねっていうふうな話が引かれるわけなんだよね。
ふんふんふんふん。
だからある種、海外とかでいくと、いわゆる英語圏とかでいくと、
やっぱり主語って言わなくてならず最初に来るよね。
最初というか、外せないよね。
ふんふんふんふん。
あるいは敬語みたいなものもそこまで発達。
もちろんあるもあるんだけども、そこまで秘密じゃないよね。
ふんふんふんふん。
もちろん調和とかも大事なんだけども、やっぱりそれよりも、いわゆる自主自立みたいな、
自分でもの確立するほうが大事だとかさ。
ふんふんふんふん。
そういうふうなある種違いを考える中でも、
日本人っていうものが、やっぱり他のある種民族との対話、
もちろん全民族と言われたらどうかわかんないんだけども、
仏教と関係性
そういったことの中で、人と人の関係を大事にする民族であってっていうことは、
言えるんじゃなかろうかっていう話を最初にするんだよね。
はいはいはい。なるほど。
そのぐらい言われたら確かになって思う部分もあると思うんですけども、
この本で言われてるのは、その関係性とは何かとかっていうことなんじゃなくて、
関係って、これまでは日本人にとって、どんな意味を持って理解されてきましたかっていうことを考えるんだよね。
はいはい。なんで大事だったかって話があるんだね。
大事にされてきたからこそ、こんなふうに日本人って生きてきたよねっていう、
そういうような生き方とか在り方の話をしてくんだよね。
ふんふんふんふん。それは面白そうだね。
なので、ちょっとそういう話を今回持ってきたんですけれども、
ここでいわゆる対比されるというか、まず最初にテーマとして挙げるのは仏教なんだよね。
おー、そうなんだ。
なんでかっていうと、この本2幕なんだけど、仏教っていうのは最終的に目立つのって、
いわゆる悟りとか偽脱じゃないですか。
悟るために何をするかっていうと、もちろん修行をするんだけれども、
そのためには実践としての出家を伴うんだよね。
ふんふんふん。
つまり出家っていうのは、独生との関係というものを立って、要は独生から離れるということなんだけれども、
つまりこの仏教っていうのは、そもそも人と人との関係を切り離すような働きを持っているんだっていうことが言えるじゃないかっていうふうに言うんだよね。
あー、まあ確かにそうだね。
で、言われてみれば。
じゃあさ、その関係ある種切り離すっていう仏教っていうものを、和をもって尊しとなすみたいな、
ある種価値観があった日本人が受け入れるとどうなるかっていうふうなことを考えていくというか、
それってどんなふうになるのっていうのを、ある事例をもとに話すんだけど、
それが、いわゆる歳行法師。
ふんふんふん。
なんか名前は知ったようだと思いますし、歳行って言えばさ、要は、
寝が沸くは花の元にて春し難。その岸上の餅づきの頃みたいなさ。
うん。
知ってる?この和歌。
うーん、わかんないね。
あんまり、あ、そうなんだ。
まあ、章家書とかでやったんだろうね、たぶんね。
はいはい、歳行法師。結構有名な人なんですけど。
うん。
そうなんです。で、彼はね、もともと武士なんだけど、出家してね、お坊さんになるんだよね。
ふんふんふんふん。
で、そういう、いわゆる桜を読んだ和歌というか、歌と言えば歳行みたいなさ。
へー。
そのぐらいに言われるような人なんですけど。
そうなんです。
歳行法師の交流
そうなんですけど、まあ、それはね、出家して、じゃあフラフラあちこち行ってってなるんだけど、
それを一人でやってましたかっていうと、実は仲間がいたらしいんですよ。
ふんふんふん。
出家して、じゃあ全部俗世間の繋がり断ち切って、もう一人で修行だとかっていう風に、
ある種のストイックなやつじゃなくって、結構ある種出家仲間がいて、
その出家仲間と交流を持つ中で、やっぱり自分の辛さとか寂しさとかを紛らわせてましたっていうような話があるんだよね。
ふんふんふんふん。
そう。で、じゃあどんな話があるかっていうと、
例えば夜に粗末な家に集まって、背中合わせに歌を読み合いますと。
ふん。
で、これの歌がまた面白くって、秋の寒い夜の時期らしいんだけど、
僕らっていうのは世間じゃなくって、みんな上道の方を向いてると。
なので、その顔を見合わせるんじゃなくって、背中合わせになって、
要はそれぞれ自分のそういうイメージを見てるんだけど、寒いし寂しくて辛いから、
背中合わせになって背中を寄せ合って、世間の辛さを慰め合っているんだみたいな。
おー。
そういう歌を読んでるらしいんだよね。
なんかいいね。リアルな歌な感じがするね。
そうそうそうそう。
だから、結構これまで日本の仏教でいうと、法念とか神覧とかっていう風に、
とにかく修行して学んで、仏の道はこれだっていうのをみんなに布教していくみたいな、
結構強い人をお伝えしてきたじゃないですか。
まあそうね。あれし残るその世界のリーダーみたいな人たちだからね。
そうそうそう。そうなんですよ。
だから僕も日本の仏教っていう、まさにリーダーがどんどん生まれてきて、
世の中に広めていきましたみたいなふうに思っちゃってたんだけど、
いわゆる普通のというか、出家してちょっとなんとか浮世の辛さを晴らしたいですみたいな、
こういうことを考えると、やっぱりみんな家族はやっぱり恋しいし、
普通の生活に戻りたいし、でもなんかそれができない自分みたいな、
やっぱりちょっと恥ずかしさというか寂しさってやっぱりあったんだと思うんだよね。
かといってやっぱり俗世に戻ることもできないから、
同じ境遇のね、やっぱり出家しちゃって寄せ人になった人たちと慰め合ってるみたいな、
そういうふうなシーンがあったらしいんだよね。
まあそうだよね。だって、なんていうんだっけ、神秘体験とかもないという、
いわゆる俗世が辛いからそっちに行きますって逃げじゃん、ある意味。
まあそう、逃げだと思う。あるしね。
ね、厳しく言うとね。だから辛くないわけないよね。
そういうモチベーションで出家した人たちが悟りとは何か、
勉強することこそが、みたいなことにはならないそうだよね、なかなかね、突然。
そうだね、なかなかね。
し、やっぱり普通の生活してる人はすごいなとか、
自分もこんな風になっちゃってみたいな、そうそうそう。
っていう歌もやっぱあるんだって。
確かにな。田舎に引っ込んでね、のんびり過ごしていいけども、
裏で東京でバリバリ稼いでる人羨ましいみたいなね。
そうやっぱね、例えば。
そういうのはあるよね。
まあやっぱりその自分は、なんだろうな、やっぱり長然として、
やっぱりいわゆる浄土の方をまっすぐ見て生きてるって思うけど、
やっぱり人の世の中で、お互いに怒りとか苦しみとかもありながら、
でもやっぱり引きずりを稼いで家族と暮らしてる子供がいて、
子供に怒りながらもでも、
一時の幸せを噛み締めてるみたいな生活を見たときに、
やっぱり自分はもうそれを忘れちゃったんだって思うようになることもあるんだと思うんだよね。
なるほど、結構忘れてるもんね、そっかそっか。
そう言うと普通の生活を忘れてる人たちだもんね。
そうなんだよね。
だから、やっぱりそういう中で、
いわゆる仏の道として、
そういう風に歩んでいきたいんだけれども、
例えば仲間たちが死んでしまったと聞いて、
すごく一人になってしまった、寂しいな、みたいな歌を読んだりとか、
やっぱりもう、話はこうなんだろうな、
いわゆる感情を制御して苦しみとか煩悩を乗り越えましょう、
みたいな感じで起こったら、全然違くない生き方なんだよね。
なので、いざ出家といえども、
やっぱり本物の、
本物というか、いわゆるエリート仏教徒みたいな、
じゃないとすると、
独りぼっちの寂しさとか苦しさとかさ、
そういうのを抱えながら過ごしている人は人間なわけだし、
やっぱり行き当てもなく彷徨いながら、
上道に行くことを願うんだけど、
やっぱり現世の交わりとか関係、
まずはそういうものを大事にしながら、
生きていたっていうのはあったんじゃないかっていう話があるんだよね。
これがある種の日本、
西洋って一人の人間の話はあるんだけれども、
その関係性が大事なんだけど、
それを断ち切って床でもならぬっていう仏教を授業したときの、
一つの形というか、
エピソードみたいな話になってくるんだよね。
面白いね。なるほど。
仏教と儒教の違い
それは当然、仏教って話もあるんだけれども、
当然日本にはそういう仏教だけじゃなくて、
いろんな思想っていうのは、
中国とかそういうところから入り込んできてるじゃないか。
で、もう一個大きいのって言われてるのが、いわゆる儒教。
例えば、いわゆる孔子とか孟子の考え方なんですよね。
日本でも儒学者とかがいたりしたんだけれども、
これは例えば、いわゆる朝陽の女とかっていうふうに、
朝っていうのは年齢ね。
年齢が高い人と低い人、幼い人の序列みたいな話があったりして、
いわゆる親子関係とか、
君子と親家みたいな関係とかっていうふうに、
結構上下の環境を大事にするんですよね。
かつ、仏教と比較すると明確な違いがあって、
それは儒教っていうのは、この世の現世のことを重視しますと。
なので、例えばこの本の中でも伊藤仁才っていう、
この人も日本の歴史の中で結構有名な人らしいんだけど、
その人の考えは取り入れられていて、
この儒教の考え方からすると、
仏教的な空とかってあるじゃないですか。
僕らも空の話して、空すげえ、空最高めって言ったりするんだけど、
この儒教の考え方からすると、
空っていうのは一種の偏見なんですよね。
なんでかっていうと、あえて抽象的な立場に立って、
この世は空だとかって言うんだけど、
それはある種、この世っていうのは普通じゃない見方で見ている。
そういうふうに、ある種、空力論ってちょっと悪い言い方だけれども、
そういうふうに、ある種思考の中で倒れついたような世界だから、
それっていうのは、ある種一つの立場としては別にいいんだけど、
現実とものを捉えている立場じゃないよねっていうふうに批判するんだよね。
はいはい、なるほど。そういう批判もわからなくもないよね。
なので、やっぱりその通とか浄土とかってことじゃなくって、
あくまでも人が行くべき道は、人の交わりの中にありますっていうふうに考えるんだと。
現世のこの世間の中でどう生きていくかっていうことだけが重要だよって、
それはそれは一つの極端な立場ではあるんだけれども、
でもそれが大事っていうのもわかるじゃないですか。
そうね、実際目に見えているとか感じるものはそっちだからね、実際。
そうそうそう。
なので、やっぱり人と交わるっていうことが大事っていうのは、
仏教の視点からの親子関係
この宗教的な考え方からもやっぱり出てくるですよっていう話があるんだけど、
じゃあそんなふうに言われた仏教の方どうしますかっていう話ね。
要はそうやって宗教みたいな感じでさ、
人との縁が切れるとかさ、人との関係を断ち切らないとダメだとかって批判されるとさ、
やっぱり仏教的にもそれはきついわけじゃない?
そうね、本当にただの寄せ人にしかならない。
そうそうそう。
そうなっちゃうんで、もう本当に没向上とかになっちゃうんで、
じゃあどうしようとかなるんだけれども、
実はサイトって仏教の方に関係を大事にするっていう考え方があるんだよね。
これが何かっていうと、いわゆる五縁、縁ですと。
縁っていうのはまさに縁起の縁なんだけど、
やっぱり世の中、物事っていうのはすべて関係していて、
繋がっていてできているっていうのがまさに仏教の考え方じゃないですか。
なので道道に行くとか、いわゆる悟りを開くっていうのは俗世間から離れてはいるんだけれども、
でもそれはある種僕らの文府の目で見た区別であって、
本来なら現世も浄土も分かれていないというか、
関係があるから、いわゆる現世から浄土に行くっていうのも五縁の働きっていうのはあるから、
決して関係がバツッと立ち切れてるわけじゃないんだよっていう話なんだよね。
もっと言うと、例えば現世の繋がりっていうのはあくまでも仏の世界から見たらある種取りに足りないもんだと。
そう言っちゃうとそれはそれであれなんだけど。
そうじゃなくてもっと大きな縁っていうものを考えやすいってことがあったときに、
例えば親子っていう関係があるとすると、
自強的な考え方で言うと年齢が上だからとか、
自分よりも立場が上だから敬うっていうふうな発想になるんだよね。
だからある種親子関係っていうのは固定化された、
親が偉くて子は従うみたいな関係性なんだけど、
仏教的な五縁で言うと、
要は過去世、現世だけじゃなくて過去の世も含むいろんな因縁の中で、
今世では親子として生まれましたと。
前世では恋人同士だったかもしれないし、全く知らない人だったかもしれないけれども、
いろんなものを巡り巡って、この世ではたまたま親子として生まれましたみたいな、
そういう世界観になってくるんだよね。
一緒に死ぬことへの日本的な考え方
そうなるとその関係性って全然違うじゃないですか。
自教的な親子と仏教的な親子って。
どっちもある種親子っていう関係性は大事だとか、
必要だってことは同じかもしれないけれども、
そこにいる親とはどうあれべきでとか、
子はどうあれべきでとか、
親子っていうのはどういうふうな関係を育むべきでっていうことが全部変わってくるんだよね。
ちょっと紐解いただけでも、
仏教とか儒教ってものを紐解いただけでも、
親子って一個の関係だけでも、
すごいいろんなことが実は絡まっているというか、
いろんな考え方が起きては、
スタイル的というか、また復活してみたいなことが起きているのが、
結構日本の歴史の話なんだよね。
日本の中でもこっちの方がちょっと強いなとか、
儒教の方がやっぱり強いなとか、
そこは時代とかによって変わってきてるみたいな話とかね。
そういうのがあるしあったりなかったりしながらやってるんで、
どっちもわかるよねとか、
たぶんどっちもやれたら理解できるようになっているのが、
現代の僕たちなんだよね。
そこは固定化されてないよねってことなんですね。
両方あるじゃんみたいな。
やっぱり絆大事っていう発想をする人もいるし、
別にそんなものはただたまたま親子として生まれただけなんだから、
親は親子は子で好きに生きなさいっていうこともどっちも言えるわけなんだよね。
ここにさらに西洋的なね、
しかも絡んでくるから余計複雑だっていうね。
だからそれこそいわゆる養子とか、
そういういわゆる義理の子供とかになったときに、
親子関係どうなんだっていうのはまたさらに広がってくるよね。
みたいな感じで、
ちょっとひもを取るだけでいろんな発想があるのが面白いなって思って読んでたんですけど、
その中でも一個、
確かにって言われて面白いなと思ったエピソードっていうかね、
今あるんでお伝えしたいんですけど、
それがね、いわゆる一緒に死ぬ、死んじゅうっていう話。
今はさ、よく無理死んじゅうみたいな言葉で言われてると思うんですけど、
一緒に死ぬみたいな発想ってあるじゃないですか。
これってなんかさ、本来結構やばいことだけど、
なんか普通に受け入れてない?受け入れてるというか、普通にそういうのあるよねって思っちゃわない?
まあそうね、それがある前提でというか、
無理死んじゅう、ああ大変だねとか、ただの死んじゅうだと、ああどうやったのねみたいな。
そうそうそうそう。
それ自身に対して何かというのはあんまないかもしれないね。
よく考えるとさ、この死んじゅうっていうことって結構怖いというか、
一緒に死んでどうすんの?みたいな話じゃない?本来的には。
まあね、それもわかるよね。
なんだそれって言ってもわかるよ。
ね、そうそうそう。
笑いって思ってたんだけど、実はこの死んじゅうっていうことも、
まちわりの心っていうテーマの中で扱われてたんですよ。
へー、あ、そうなんだ。
しかもこれがやっぱり仏教的な感覚が入り込んでるよっていう話があったんで、
ちょっとそれを紹介していきたいんですけど、
ここで取り上げられたのが、地下物門左衛門っていう、
いわゆる人形浄瑠璃の作家さんなのかな?がいると思うんですけど、
その人の有名な中で曽根崎真珠っていうものがあるんですよね。
地下物門左衛門っていう名前は歴史の教科書でご存知の方もいるんじゃないかなとは思うんですけど、
つまりその曽根崎っていうのは場所だよね。
その曽根崎の森で真珠なので、ある種若い男女が真珠を遂げるっていうふうな、
すごい大雑把な話なんですけど、
やっぱりね、さっきも言った通りよく考えると、
思い合う恋人同士が一緒に死ぬ。
尊崎真珠という物語
普通おかしいじゃないですかと。
まあそうだよね、確かに。
人生で結ばれればいいじゃんっていうね、無理してでも。
駆け落ちか、駆け落ちとかもね。
そうそう、逃げるとかさ。
もちろん逃げるといっても捕まったら大変とかってあると思うんだけど、
でもじゃあなんで死んじゃうの?みたいな話なんですよね。
ちょっと僕も読んだことというか、見たこともなかったので調べてたんですけど、
物語の主人公っていうのはおはつっていう女性と、
とくべいっていう男性なんですよね。おはつととくべい。
もともとお互いに惹かれ合う中ではあったんだけど、
結構親が勝手に、とくべいさんの親が勝手に婚姻を約束しちゃったとか、別の人と。
あと友人が裏切られてお金全部取られちゃったとかね、結構大変なことがいろいろあって。
とくべいさんとおはつさんはこの世ではもう夫婦になれないみたいな。
なるほど。
そういう状況だったらしいんですよね。
ちょっとロミオとジュリエット的な。
まあ的な感じ。
でもそれはさ、この世で一緒になれないならって、まさにそういう、もう死んじゃったからって話だと思うんだけど、
まだ生きてるんですよ、この二人。
生きてるんですけど、もう夫婦になれないなった時に、じゃあ一緒に死にましょうって言って、
尊崎の森に行くんだよね。
でも森に行く途中で、結構その縁のまさに深さというか、その不思議さというものを語り合いますと。
例えば、なんで惹かれ合うことになったのかとか、こんなに惹かれ合ったのになぜ夫婦にならないのか、それは分からないんだと。
分かんないけど、その分からなさこそが、この二人の複雑に絡まり合った縁というか愛だよね。
それを示してるんだみたいな、そういうふうな発想になってるんだよね。
だからこそ、その縁に導かれて、来世で結ばれるみたいな。
こんだけ強い縁があるんだったら、来世ではまた一緒になれるよねっていうふうな発想があって、
この作者の言葉にも恋を母台の橋となしっていう言葉があるんだけど、恋っていうのは母台だからやはり成仏だよね。
橋のいわゆる掛け橋にするから、恋の力で成仏するぜみたいな、そんな発想なんだよね。
結構この発想は現代的に言うとちょっと病んでる気質というか、ちょっと信仰的な感じがあると思うんだけど。
仏教的にはどうなの?
仏教的には本来ないと思うね。
恋はね、母台の橋となるんでしょうかっていうね。
ならないと思うんだけど。
自殺した場合の。
でもこのおはつさんがそういうことを仏さんの前で言うらしい。
なんとありがたい、こんだけ縁が深いということが来世で一緒になれるでしょうみたいな。
ありがたい、ありがたいって言って死んでいくんだけど。
やっぱりそこまで深く思うし、ある種あれだよね。
障害の多い恋は燃えるみたいな話があるのかな。ちょっと実感的にはわかんないですけど、そういう話ってあるじゃないですか。
そういう時に、やっぱりこれだけいろんなことが起こるということは我々の縁はそこまで深いんでしょうと。
だから死が二人を分かつまでじゃなくて、死してなおとか死んでこそ、より二人の縁というものがちゃんと成り立つんだと。
そういうことから構造を取っていって、最後この物語、尊崎真珠っていうのは、未来の成仏が疑いがない恋のお手本だっていう風にして結ばれるんだよね。
なのでこの関係性っていうところからここまで来たんだけど、やっぱりある種、ここまで深く変わり合うというか、
いわゆる五縁みたいなものがあればこそ、そういう死してなお一緒にいるみたいな発想がやっぱりなる。
というのって、まさにこれは日本的なっていうのがあれなんだけれども、やっぱり結構独特な感覚じゃないかなっていう風に思ったんだよね。
でもそうは面白いし、どうなんだろうな。これは自分が日本の古今とか歴史とかを浅くしか知らないというか、
やっぱりそのかもしれないけど、やっぱソードビュート・ジュリエット的なところでさ、時代的に実らない恋ってあるじゃん、愛。
結婚と家族の価値観
それがね、今だとわかんないかもしれないけど、結婚は相手は親が決めるとか、身分同士、そこを超えた家柄とかね、結婚も不可である、完全に不可であるみたいな文化の中で、
そしたら確かにその恋とか、相手絶対に実らないし、まさに家庭落ちすればいいじゃんって言ったけれども、その家庭落ちのリスクが多分高すぎるんだよね。
普通に不可みたいな。
不可だし、捕まったらね、たぶん偉い目に遭うみたいなね。
その後ね、もう一度死ぬかみたいなね。っていうかなりきつい状態になるってことを考えたときに、当時の信仰心からすると死んだ方が次に行きたいみたいな話なのかね、何なんだろうね。
でも、さっきさ、やっぱりロミオとジュエットの話をしたくらいだとは思うんだけれども、覚えてないんだがなぜかロミオとジュエットの最後を。ジュエットが死んで、ロミオはなんで死ぬんだっけ?
いやもう、後終わらなきゃみたいな、もう残念だし。
この世であれだよね、この世で生きている価値がないみたいな、そうだよね。
だから、絶望して死ぬじゃん、やっぱりそういう話って。
あー、確かにそこは、来世で一緒にとは言ってないような気がする。
そうそうそうし、それこそおとぎ話というかさ、子供に読むような本とかでも、後追い系って子供向けだったらマイルドになったりすると思うんだけど、
要はなんで死ぬとか、この世界には未練とか生きる価値がないって言って死ぬみたいな話はあると思うんだけど、
そうじゃなくて、この真珠の話は、この世界とかじゃなくて、もう来世が楽しすぎて一緒に死んじゃうみたいな。
あー、ということはある非力ではあるけれども、たぶんこれ書いてる人も読んでる人も、わりとハッピーエンドとして読んでるってことなのかな、こっちに関しては。
ハッピーエンドなんだよね、この2人にとっては。
2人にとっては。要するに人は分かんないから、人によるかそこは。
人によると思う。それが、オハツと北米が来世に結ばれて素敵っていう人もいれば、
このヨゼがそんな苦しかったなんて、結ばれたなんて悲しいっていう人もいると思うんだけど、両方あるんだよね、たぶん。
そんなことをするなんて馬鹿だ、みたいなこともあると思うんだけど、そんなふうに、いろんなものが含まれてるっていうのは、この真珠っていうテーマだと思うんだよね。
はいはいはい。
やっぱり、この感覚ね、この2人素敵っていう感覚をピュアに持ってる人は少ないとは思うんだけども、
全く共感できませんかっていうと、それはそれで、こういうあり方もあるかもねとか、ここまで思い合える人がいたら素敵かもねっていうふうな感覚もあるんじゃないかと思うんだよね。
そう。時代背景とかはね、どうしようものさみたいなものを考えるとね、なくはない。ちょっとそんな勇気持てるかわかんないけど、わかんなくはない。
そうそうそう。これはウィキペディア情報なんですけど、やっぱりこの真珠の、小谷崎真珠が出た後に、やっぱりいわゆる真珠をしたい人が後を伝わって、どんどん死んじゃったんだって。
だからいわゆる真珠禁止令みたいな。
流行っちゃったんだ。
そうそうそう。流行っちゃったから、真珠で生き残ったら晒し首にするぞとか、失敗したらもうひどいこと目に遭うんだぜみたいな感じで落として、やっぱり押さえつけたみたいなとか、
真珠ものはやっちゃダメみたいな。公演しちゃダメみたいな。そういうふうなことがなるぐらい、やっぱりこういう発想があったらしいんだよね。
確かにね、これはお話ではあっただろうけど、実際に多分多かったんだろうね。
まあね、時代的にね。
心中のロマンと生きる意義
本当に思ってる人と結ばれないっていうのは。
そうそうそう。
よく見る気もするよね、歴史小説みたいな。
そうそう、歴史的にね。
やっぱりある種ロマンチックに思うときはあるよね。やっぱりそのぐらいの章が乗り越えてて、まささっきの話だけども。
だから、もちろんね、僕ら今を感覚化すると、死ぬほどはないよねとか、死ぬっていうことがいいのかっていう感覚ももちろんあると思うんだけど、
やっぱりこの関係もわからんでもないと思うっていうのは、やっぱりわかんない。
ちょっとこれをね、例えばアメリカの人とかアフリカの人とかさ、メロディして聞いたらどう思うのかわかんないんだけど、
でもやっぱりこうなんだろうな、スッと入ってくるかどうかっていうのはわかんないと思うんだよね。
確かに。
なので、今回ちょっと日本人の心っていうふうに言ってきたんだけれども、
日本人の心が心事を良しとする心があるとかってことではなく、そういうものもある種受け入れられるというか、
まあ何だろうな、拒絶しない心は多分あるよね、と。
まあ共感は少なくともできるっていうね。
だからある種の心がもうちょっと感情的に思わせたときに、やっぱりその感情が動くポイントとか、
まさにその共感するポイントっていうのは、やっぱりこの歴史とか文化の積み重ねとか、
僕らの人生の積み重ねの中でやっぱり培われてるものなのかと思うんだよね。
だからやっぱりそれを理解するっていうのは、前回みたいに自由エネルギー原理があって脳っていうのはこういうふうに動いて、
っていうふうな機能みたいな話じゃなくて、
僕らが生きる日常とか現実の中でどんなふうに心っていうものがある種含まれてますかというか、
まあ機能はそういうふうになりますかっていうのをやっぱり知るっていう意味では、やっぱり心の理解につながるんじゃないかと思うんだよね。
なるほど、なるほど。
なのでちょっとね、今回関係性っていうところから、最強の話とか儒教とか真珠とかいろんな話をしてきたんですけど、
結構こんな話がいろいろある本がこの日本人の心っていう本なので、
次回までもう少しお付き合いいただいて、他にもこういうふうな心ってあるんじゃないかとか、
これって共感できるできないみたいな話をしたいなと思ってますっていうふうな感じなんだよね。
今回良かったね。今、ハヤトがこういう歴史とか文化みたいなものを見るっていうことと、
脳の機能を知ることっていうのはまた違うアプローチがあるっていう話があったけれども、
まさにそうだよね。脳の機能を知るっていうのは確かに不確実性が云々みたいな、
云々って、ちゃんと確かに聞いたのに云々ってなんだよって話はあるけど、驚きを減らしましょうというところで、
ただ今回見た歴史とか自分たちのルーツみたいな、日本人だからね、話でいうと、
そういった脳の機能に対してどういった学習素材をぶち込んできましたかっていう、そっちの方へのアプローチだよね。
そうだね、まさにそう。
そういう試行錯誤とか、学習させてきた結果として、今の最適解としてこういうような心を持っています。
ただ恋愛があったときにはこういうふうな気持ちを持っています。
現代は、基本的にはよほどの答えかけは、死にましょう、一緒に、みたいなのはあんまりないですよと。
経済的にも遠くに行って生き延びることができるような環境では、当時よりは少なくともあるみたいなね。
ただ、今まで学習してきたものの中にそういうものは入ってるんですよっていうことを知っとくっていう意味でね。
自分たちは何者かを知るみたいな。今のこの最適解が何でなのか、なんとなく知っとくみたいな。
心と環境の相互作用
意味での面白さだよね、という感じかな、今回。
だから、やっぱり環境が変われば心が変わるってのは本当にそうだと思うし、それは現実的な意味でもそうだし、
前回の自由なエネルギー原理のところの不確立性を減らそうと思うと、新しい環境に適応していくから、
やっぱりそれは心とか振る舞いも変わっていくよねって話はあって。
だからこそ、心っていうのも、やっぱりこれ第1回とかでもあったかもしれないですけど、
ただ単純に心っていうものを考えるんじゃなくて、環境との相互作用とか、
やっぱり内と外っていうのをバツッと分けるものじゃないのに、っていうのは本当にそうだなって改めて思ったんだよね。
ここからはちょっとロマンの話みたいな感じ。よくわかんないですけど、実際のところはわかんないけど、
そういう日本人の心みたいなものは、例えば誰かがそういう思考作用を脳みそに学習させて、
試して死ぬ、その遺伝情報みたいなものはもしかして残ってるのかもしれないもんね。
物理的にというか。
そうそう、ある意味物理的だよね。
だから逆に言うとさ、生きてきなくなったらこういうふうにビチビチ跳ねるべしみたいなのは、
たぶん進化というかさ、たぶん引き継がれるはずじゃん、少しずつ。
ある程度あると思う。
そういうのはなんか、そういうロマンを感じる部分もあるよね。
先天的に心中というものの感覚、今回のレディとね。
がなんとなくあるなーっていうのが遺伝レベルで、本当に物質的にあって、
その脳の中で最適解の構成する回路としてね。
その中で後天的に、また自分の環境があって、家庭環境があって、社会環境があってみたいなところで、
またその自分なりの脳みそが、心がまた適応していくみたいなのも面白いなーってね。
そして納得性もあるなーとは思ったね。
すごい。だいぶあれじゃないか、心っていうものに絡めた概念が広がってきたじゃないですか。
広がってきた。こんなに概念なかったから。
ねえ、言ってたもんね。心って何?って気づくの?みたいなやつだもんね。
何?怒る?とか感情?みたいな。
はい。
というふうに、いろんなものを見ていくことで広がっていくのも面白いかなと思うので、
次回ですね、もうちょっとだけこの日本人の心っていうものをお伝えした上で、
今回の心っていう回自体はおしまいにしようかなと思っております。
分かりました。ちょっとなんか、ハヤトの手のひらな感じで悔しくもあるけどね。
そんなことはないけどね。
単純に面白いなと思ったものが伝わるものがあるなって思えてるぐらいの感じです。
それはあまりにもひねくれすぎてるよね。心がひねくれてるよね。
ひねくれた心を学習してきたんですかね、兄貴はね。
かもしれない。
環境で。
常に飛び跳ねてOKみたいな。どこでも飛び跳ねてOKみたいな。
そんな学習してんの?ソイデッドラジオを通じて。
ちょっとね、穏やかにね。やっていきたいと思うんですけれども。
分かりました。でも確かに真珠の話で1回終わっちゃったもんな。
そうね、そうね。
2回いくわ、これ確かに。
まだあるよ。まだね、全然いろいろある。
次回予告
分かりました。次回はもうちょっと物騒じゃない話聞けたらいいなと期待してますね。
武士の話とかするからちょっと物騒かもしれないけど。
分かりました。
次回引き続き日本人の心というところでより深めていきたいと思いますので、
次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
50:21

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