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(音楽)
はい、ソレッツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はキュリティゴールの思想の中身に入っていくと言いながら、丸々1回現在の話をしたという、40分現在の話をしたという回でしたね。
そうですね。やっぱり我々に馴染みのない、あるいは今生きているキュリティの教徒たちからしても馴染みのない考えだと思うんですよ。
200年前の人の心向って。せめてちょっと丁寧にお話させていただいたという感じでした。
そこを、その感覚、現在の感覚を折り返しとかないと、今回からの話が全く入ってこないというか、身近に感じられないよという部分もありそうだったもんね。
そうだね。
ついに今回は中身に入っていくということでいいのかな?
大丈夫です。大丈夫なんですが、今回と次回がセットみたいな感じでお話しするんですけど、
これまでも名前が出てきていたキュリティゴールの「死に至る病」という本がありまして、その話を今回と次回にしていこうと思っております。
この本自体がですね、前回から前々回から言った通り、キルケゴーレという名前じゃなくて、アンチクリマックスみたいな名前で出しています。
ペンネームでね。
イメージとしては、キルケゴールよりも上位の、すごいキリスト教を深めた人とか、極めた人が書いているよ、みたいな観点でやっているので、中で使われている言葉がどういう立場というか、死者から言われているのかとか、そもそも人間というのはどういう存在して捉えているのかとか、そういう理解から必要だったりするんですよ。
なるほど。キルケゴール本人、キルケゴールも言っていただろうけど、ペンネームを使うからには本人の感覚というよりは、キリスト教の信仰を極めた人のありがたい本みたいな感じなのか。
そうそう。病というぐらいなので、ある種のお医者さんとは言わないんだけど、人間というのは病気にかかっていて、それを治療するとか診断する人みたいな立場で書いているんだよね。
なので、今回と次回で、今回は「死に至る病」という本で書かれている中での人間論というか、人間観みたいな。人間って今どういうふうに生きているの?ということを示した上で、
まずはその信仰論というか、だからこういうふうにキリスト教と付き合うのだとか、キリスト教というのは大事なんだみたいなお話を、本の中でも実際にしているので、
そんな感じで、キルケゴールというか、死に至る病の人間論と信仰論みたいなのを、今回と次回でお伝えしていきますよ、みたいに思っていただけるといいかなと思います。
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おー、了解です。今回でその人間とは何かという事実というか、当時の人間観みたいなものを見た上で、じゃあどうしようかっていうのが次ってことだね。
そう、当時のっていうか、キルケゴールがキリスト教を極めた人っていう立場から見た当時の人間を見た時の人間論みたいな感じがすごく入り組んでいるの。
間違いなしだ。なるほどね。
なになに?みたいな。うんうんうん。そうかそうか、当時の人がそうだったかは分からないけれども、みたいな。
そうそうそうそう。あくまでもキルケゴールが見た、かつそれをペンネームとして書いたっていうのがあるから、二重のちょっと分かりにくさがあるんだけど、
でも一つの見方としては面白いっていうか、なるほどって、前回の現在とか、要はキルケゴール自身は1800年の時を経てキリストとかと直接繋がれるって思ってるぐらいの人だから、
そういう観点の人がどんなことを言っているのかっていうのを楽しみながら聞いていただけるんじゃないかなとは思ってます。
はいはい、そうだね。ここまで聞いただけでも楽しみ。なんかそうだね。すごいある意味ノンフィクションだけどちょっとフィクション的に脚色してるみたいなね。
そういう面白さありそうだな。
ですね、そうそう。ちょっとそこを今日お伝えしていくんですけれども、もともとは本を書いたきっかけというか、意味合いでいくと、
キルケゴールの書会でもお伝えした通り、キリスト教の当時のキルケゴールが見たところで言うと、なんかみんなちゃんと信仰してないというか、
キリスト教徒としてなんかちゃんとしてないぞみたいな問題意識があって。
ちょっとライトな層が多いみたいなね。
あ、そうそう。あんまり常識っぽくなっていて、だからこそちゃんとキリスト教の信仰を求めていけるように導こうとか、まず啓蒙しようみたいな観点がありましたと。
そういった人たちっていうのは、いわゆる自分自身が病人?もっと言うと、これが死に至る病ってことなんだけど、
本当に神の意思に忠実ではない生き方をしているんだっていうふうにキルケゴールには見えていたの。
だから、それはまず自覚して、あなたは病人なんだよ、病気なんだよっていうことを自覚した上で、
どうしたら、どうしたらというか、神の意思に忠実に生きあえる方法ってなんだみたいなのを示そうとします。
ここから本の話になっていくんだけど、タイトルで出ている死に至る病なので、死っていうのがもちろんテーマではあるんだけど、
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もちろんキリスト教的な観点なので、人間的なとか肉体的な死じゃないんだよね。いわゆるご臨終ではないんだよね。
今もちろんって言ったけど、全然もちろんじゃないからね。
それ哲学者的にはもちろんって言っていいのかもしれないけど、違うからね。そこ晒すんじゃダメだよ。
ダメか。ごめん。今、キリスト教の人の世界から語ってたから、もちろんね、死っていうのは肉体的なものじゃないんだよみたいな。
違うからね。この死に至る病っていうのを、キリスト教のペンネームだけど、タイトルで見た時にまず感じたのは、
キリスト教の老いたちが33歳で自分死ぬんじゃないかっていう恐怖があったでしょ。
はい。
だから自分がそういう死に至る病に侵されていて、それに対する内省的な本なのかなって思ってたんだけど、いきなりさ、もちろんさ、死って原型的な、
死の話じゃないよ、肉体的じゃないよって言われてるんだけど、ダメだからね。
ちょっと無理がありましたね。あと丁寧にお伝えしておきます。
大丈夫だと思うけどね、ここまで聞いていただいている方はもちろんってわかると思うけど、一応ね。
そうですね、ありがとうございます。危なかったですね。
死に至るって言ってるんだけど、まさに老死とか肉体的な死ではなくて、なぜかって言うとキリスト教的には復活っていうのがあるじゃないですか。
うんうんうん。
なので、その、いわゆる肉体的な死は乗り越える可能性があるっていう前提があるんだよね。
はいはいはい。
なので、キリスト教的な理解だと、死っていうのは永遠の命の中の一つの状態とか出来事に過ぎなくて、
それっていうのは死に至る病とか、そういう時の死ではないんだよっていう風に言うのね。
だからこそ、いわゆる貧しくて苦しいとか、病気、いわゆる風邪とか普通の病気になっちゃったとか、
不運で生きるのがしんどいとか、すごいずーんと落ち込むことがあって、もう嫌だみたいな、生きる気力がなくなったとかっていうものも、
全部地上的だし、時間的なもの。要は時間が例えば復活したりとか治ったりするものだから、それも全部死に至る病ではないですよっていう風に言うのね。
なるほど。まあ何ならそれこそキリスト教的には、肉体的な死を迎えることで、俺に救われるっていう意味では救われたって言ってもいいから、
生きてる時どんだけ苦しくても、死んだ後救われれば。
そこに関しては結構諸説あるらしく、死こそ災害であるみたいなのはちょっと言い過ぎかもしれないんだけども。
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そういう風に捉えちゃうと、まあそうだよね、あまりにちょっと。
そうそうそう、そうやったらみんな死んでしまえみたいな、一緒によくわかんない感じになっちゃうから、
そこは言わないまでも、ちゃんと生きて、ちゃんと人生を全うして、神の意思に沿って生きて死ぬと、神にあるしまた審判の時に許されるというか、神の国に迎えられる可能性があるぐらいが多分、伝説かな。
まあそっかそっか、そうだよね、自分を別に粗末にするって話はないもんね、全くね。
そうそうそう、それは神が作った自分というか人間というか存在を粗末にしちゃいけないみたいなところとも繋がるから。
そのわけで、地上的というか今のこの人生みたいなものをどう扱うかっていうことではなくて、永遠の命を持った人間とか存在として、死に至りやまいって何ですかっていうと、それが結局言うと絶望であるっていうふうにね。
要するにこの絶望も、これももちろんって言っちゃうんですけど、普通の意味の絶望じゃないんですよ。
要はね、キルケゴールがキリスト教的な意味でいう絶望ってじゃあなんだみたいな話をしてくるんですけど、それを理解するためには、まさにさっき言ったような、キルケゴールっていうのが人間っていうのをどんな存在と捉えているかっていうのを理解する必要がめっちゃあるのね。
じゃないと、例えば大学死亡口、第一棒落ちた、絶望した、それは死に至りやまいだよみたいな感じになっちゃうと、全然違うみたいになっちゃう。
さっきも病気とか困難みたいなのが違うよって話があったもんね。
ここからはちょっとややこしいことを言っていくんですけど。
キルケゴールが言うところでは、人間というのは精神であるということを言いますと、これはいわゆるドイツ観念論的な、肉体というよりは精神が上位にあって、考えるとか理性が大事だよっていうのはなんとなくイメージつくと思うんですけど、
それが事故であり関係であるっていうのをどういうのね。
わかんなくなってきた。
もうちょっとわかりやすく言うと、人間というのは複数の要素っていうのを持っています。
例えば、有限性と無限性とか、あとは時間的なものとか、永遠的なものとか、要は神の世界にもいることができるし、現実世界にもいられるみたいな、
トマス・アクイナスの時にも話したようなところなんですけど、そういう複数の要素があって、それを生き生きしながら、自分自身とか他者、周囲の人とかもそうだし、環境とかもそうだし、もちろん神とかもそうなんだけど、
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そういうある種、二限性というか複数の要素があって、その間の関係だ、あるいは統合とか総合だって言われていて、
もっとわかりやすく言うと、人間というのは無限性に近づいて神になることもできるし、
でも基本的にはその現世の具体的ないろんないざこざとか、あるいは明日のご飯どうしようとか、食べれる、生きていけるかとかっていうものにやっぱりとらわれちゃってて、
現世的な方、有限性にある種とらわれて生きているよね、みたいなことを言いますと。
精神とか自己っていうのは、自分自身、人間というのは無限性にもなれるし有限性にもなれる存在だってことを自覚しつつ、
その中で自分がどこにいるのかとか、いるべきかっていうのを考えること、
そういう内精の働きっていうのが、精神の働きであり自己だよっていうことを言うのね。
うーん、はいはい。わかる気はする。
それで言うと、まず人間というものは、かなり具体的なものと精神的なものというか、有限と無限、永遠性みたいなもの、いろんなものを行き来す存在であるっていうふうな事実をまず聞いて、
その中で、じゃあ個々の人間って何者なの?っていう時に、その中のポジションを自分はどこに置くっていう選択だったりとか、
コントロールは自分でもうやろうとできるはずだよねっていう意味での自我みたいなものを規定しているのかなって思った。
そうだね、そうだね。でも何その自分自身を規定するっていうのが、自分自身に関係するとか、
自分自身を統合するっていうふうに言っていて、だからすごく事故っていうのを、一つの括弧たるものっていうよりは、
メタ的にというか、外部から見て、自分は今有限に寄ってるから無限にもうちょっと近づこうっていうふうに調整できるとか、
それが可能なのが人間の可能性だよねみたいな世界観というか人間観っていうのがあるんだよね。
なるほど、分かる気がする。
僕らの感覚でも、いわゆる自分を成長させようとかって思った時に、メタ認知して、
自分をどの段階に入れるかっていうのを考えようとかってあると思うんですけど、
ある種、それだけだと自己完結してしまうというか、原始的な考え方になっちゃうんだけれども、
当然、Q.K.ゴールはキリスト教の観点から語るので、
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そういう人間の在り方っていうものに対して、正解とか方向性を与えてくれる、自分よりも大きな存在っていう意味での他者がいるよねっていうことを想定するのね。
はいはいはい、さっきのハエトが言ったメタ認知みたいな話では、現世の中でだよね、このQ.K.ゴール的な世界でいうと、
永遠性とか抜きにした現世でどうなるかっていう意味で、メタ認知をやっていくと自分成長するよねっていう文脈はあるけれども、
Q.K.ゴール的にメタ認知っていう言葉を使ったとすると、
そういう神の世界的な、理想的な世界だったりとか、ある意味その正解というかね、
あった、永遠とかね、またその現世から離れた、死んだ後の世界まで踏まえた中での自分のポジショニングっていう、
もう一個ちょっと次元と世界観が広がっている中で自分をどこに置きますかっていう話ってことだよね、同じメタ認知っていう言葉を使ったとして。
まさにその捉え方です。やっぱりそれがね、頭の中にないとやっぱり話が繋がらないというか、何言ってんだこいつってなっちゃうじゃないですか。
確かにあれだよね、なんか将棋とか囲碁とかさ、ああいう盤面のあるゲームをやってる時にさ、
うちらってその9×9とかさ、の中でゲームしてるじゃん。だけどもQ.K.ゴール的には、
いやこの盤面こそって実は盤面ってあるから、そっちに攻めるっていう手もあるんだよねみたいな話を、ちょっとずれるけどね、具体的に。
でもでも、ほんとそんな感じ。逆に言うとね、僕らはなんか2×2ぐらいで戦ってるんだけど、
プロの人たちからしたら8×8であるじゃんみたいな、そういう全然違う目線で世の中とか物事を捉えてますみたいな、ほんとそんな感じ。
そう。で、まさにそういった広い世界を見るとか、そういう風に方向を付けてるのが神だっていうことをQ.K.ゴールは言うというか、
それが神であるかどうかは一旦置いといてみたいな話を最初はするんだけど、最終的にはそれが神だとは言うんだけども、
一旦その、やっぱり何らかの可能性とか無限するような自分にいろんな可能性があるって思った時に、
やっぱり自分にとってはこの生き方が正しいとか、こっちで合っているっていう自信を求めるっていうのは人間にあるよねっていう風に言うよね。
で、もしそれが自分の中から出てくる、要は自分の正しさは自分で決めるんだみたいになっちゃうと、
結局問題っていうのは自分が正しく考えるかどうかとか、自分がそれを良いと思えるかどうかってことだけにある終始してしまう。
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これって結構現代の要は自己決定とか、自己意識みたいな意味合いで言うと、むしろ良いことじゃんって捉えられがちな気もするんですけど。
そうだね、多様性っていうものもそういう風に理解しようと思えばできるもんね。
そうそうそうそう。だからね、やっぱりまずは自分の正しいと思うことがあってとかっていうのもそうなんだけど、
それだと結局自分だけに留まってしまうというか、自分を超えた無限的な世界にはたどり着けないよねっていうことがあるので。
はいはいはい。
そういった意味で、自分だけじゃなくて自分の方向性を築き続ける大きな存在。
その存在との関係、要はその存在が自分はあっちにいた方がいいとか、こっちにいた、今ここにいるんだぞっていうのを示してくれるから。
はいはいはい。
その他者との関係っていうのも大事で、結局それを考えるってことは、つまり神との関係を考えることだよね。
そこに人間と神の関係を語る糸口が見えてくるよねっていうことを言います。
はいはい。いやーすごいね。事実の認識能力というかね。認識というか場面設定というか。
はいはいはい。
そうだね。だから人間っていうのは、さっき言った通り、精神なり事故との関係だっていうことなんだけど、
でもその事故っていうのは、より大きな存在として事故を方向付ける他者としての神がいるから、
結局自分と関係しようと思うと、神との関係っていうのも切り離せないというか、
そことも絶対的に繋がってくるよねみたいな話をします。
はいはい、なるほどな。
ここに来て、さっき言った絶望とか死に至る病って何ぞやっていう話なんですけど、
結局その経歴社教的には、さっきアニケーってくれた通り、
その「死」っていうのは一切の最後ではない。人生の最後ではあるけど、
別に永遠の命の最後ではないから、死そのものではないんだよっていうのがあって、
そのキルキゴールが言っているのは、生きることへの希望があるわけでもないのに死ぬことができないこととか、
死ぬことを望んで、死ぬことが希望になるくらい危険が大きいのに死ぬことができないっていう状態が絶望なんだよって言っていて、
言い換えると、要は自分自身であるとか、自分自身として生きていることに耐えられない状態、
自分自身との関係っていうのに不協和が起きている状態が絶望なんだよっていうふうに言いますと。
もうちょっとわかりづらいかなと思うんだけれども、さっき言った通り、
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結局人間っていうのは事故との関係しつつ、他者としての神と関係しているよっていうことを言ったんですけど、
結局は自分自身の関係を調整するっていう可能性を持って生きているんだよね。
そうだね、さっきのどこに自分を置くかみたいな話だよね。
例えば、それを調整したときに、どうあっても無限制に近づけないっていうことがわかってしまったとか、
自分自身としてその位置づけっていうのが思ったよりも、めっちゃ有限性よいで、
自分自身の思い描いていた事故とのギャップっていうのに耐えられなくなったとか、
そういうことが起きたときに、自分として生きてるんだけど、神との関係性においては、
自分として生きている意味がないというか、生きていることが恥ずかしいみたいな、
っていうことになったときに、自分として生きていることへの意味っていうのを持てなくなるとか、
そもそもこんな人生、死んでやり直した方がいいんじゃないかっていう気持ちに、どんどんなっていくことがあるだろうと思います。
これはケイル・ケゴールが言ってるよりは、今、僕自身が想像したときにこういうふうな感覚になるんじゃないかっていう形で言ってるんだけど。
これはケイル・ケゴールのいう「絶望」の定義の話だよね、今ね。
そうそう。
ある意味、要は自己認識と他者認識というか、周りからの評価とギャップが大きすぎるみたいなのに近いのかな。
そうだね。近いんだけど。かつ、今言ってくれた他者評価が本来の評価であるとか、絶対的に正しいっていう認識もある上でっていう感じかな。
ああ、その他者っていうのはむしろ神的なものとの、理想とのギャップか。
じゃあ他者評価じゃなくて、自分の自己評価と正解か、理想とのギャップか。
そういうのはね、宗教的な理想とのギャップって言うのかな。
だからいろんな形で絶望っていうのは分析してくるんだけども、本の中で。
例えばケイル・ケゴールに言わせると、自分は絶望なんてしていないみたいな人がいたとしても、結局は自分が絶望してってことに気づいてないだけで絶望しているんだってことを言ったりとか、
自分は絶望している、苦しんでいて、神の世界に近づいているっていう人も、結局は地上的なものを反射しているだけで、本当にそこに気づいてないっていう意味で絶望しているんだとか、そんなことを言ったりするのね。
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もっと言うと、神のとか宗教的に生きようとすると、人間的な正義を超えるというか、自分であるっていうことを乗り越えるみたいなことが出てくる、直面してくるっていうことをケイル・ケゴールは言っていて、
だからこそ、人間が絶望するっていうのは、それを乗り越えて、無限性に近づける、つまづきみたいなことも言ったりするんだけど、
この辺は難しいな。この辺はケイル・ケゴールとかキリスト教がすごいねじくれている感覚になる、僕自身がなるところなんだけど、
前回言ったように人間は罪とか原罪を持っているわけじゃないですか、それに本当に気が付くというか、人間自分というのは本当に罪深い存在なんだと思った瞬間に、
有限性の局地というか、神とは正反対になる穢れた存在だという自覚が芽生えてくるんだよね。
それを本格的に自覚した時に初めて、罪を通じて神と繋がることができる、関係性を結ぶことができるという可能性も開いてくるんだよね。
そうだね、スタートラインな感じするよね。
扉に立つというのは、無限に繋がりつつ、自分の有限性の底に落ちるという極限の状態なわけよ。
はいはいはい、なるほど。
それは絶望だし、挫折とか躓きとか絶望だし、そのまま無限性に至れないとしたら、それは自分自身の人生にはもう意味がないというか、
生きるということ自体が苦しいけど、永遠の命だから死にきれないみたいな、そういう絶望に囚われて落ちるよね、というような感じかな。
はいはい、それが経験語的に言う絶望っていうこと?
ああ、そう。
この後も教えてくれるというか、繋がるんだろうけど、その絶望についてどう考えるかっていうのはこれからの話?
そうだね、かつ、絶望について考えるというよりは、それを乗り越えるというのがキリスト教的な信仰だっていう。
はいはい、うんうん、あれあれば納得だね。
納得納得。そうかそうか、もう絶望するもんですよとかじゃなくて、そういう状態になることを乗り越えることが大事なんですよという話に繋がっていくとすれば、今の絶望という話はすごく納得いくと思うよ。
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本当によかったよかった。
経験語的な絶望というものをどう表現するかっていう時に、さっき言った厳世的な苦しいとか、すごい辛い、死にたいとか、というものと違いますよっていう、やっぱりどうしても信仰的な絶望に経験語はつながっていると思って。
そうだねそうだね。
死というものを、いわゆる魂の救済みたいなものを、厳世的に死んだ後、魂は救われるのかというところすら、自分は無理なんじゃないかっていうふうに、
たぶん、本当に思っちゃうタイミングっていうのが、おそらくこの前の現在っていうものをちゃんと認識したりとかした人には訪れるはずなんだよね、たぶん。
やっぱりその理想の世界にどれだけ自分が頑張ってもたどり着けなさそうだ、それは真面目であればあるほど、その状態を認識すると、
いや、俺がんばっても絶対いけないわっていう、ちょっともう無理だ、あきらめたくなる気持ちが芽生えてくるかもしれない。
その時はやっぱり心を乗り越えることができるんですよっていう、ちょっとまだ話聞いてないからだけど、救急ゴールのこの後の話がたぶんすごい重要になってくるんだろうなぁと思うし、
あと、救急ゴールがいうところの、もうその山に侵されている人たち、もうライトな層っていうのは、そもそもそのやっぱり現在っていうものを自己認識していない、スタートラインにも立っていない人たちっていうのは、
もう無意識下で絶望しちゃってるよねっていう、これダメじゃんみたいな、まずはだからその無意識的に絶望しているのを、
まずはその現在っていうものをちゃんと認識して、そうするとその理想的なものの距離っていうのもやっと測れるようになるから、その上でまたちゃんと絶望してくれと、
絶望っていうものを自己認識してくれと、で、その上で俺がちゃんと導いてやるから、俺が教えてやるからっていう風な形で絶望っていう言葉を捉えると、なんか納得、理解できる気がする。
でもね、本当に多分その通り、今兄貴が言ってくれた通りで、だからこそキルケゴールはキリスト教徒だけが絶望できるみたいなことも言ってるのね。
絶望って要は無限性に至る可能性だからキルケゴールからすると、だから本当にひどい死に至る病なんだけど、ちゃんとそのキリスト教的な信仰を持った人だけが本当にそこに真摯に向き合って絶望することもできて、かつそれを乗り越えることもできるみたいなことを言いますと。
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ちょっとそれは今の僕らからすると、あまりにも一個の宗教とかに寄り過ぎじゃないかっていう批判はもちろんできるんだけど、彼はキリスト社として生きたというか信仰者として生きた人ではあるから、その観点の発言としてはすごくわかるよねっていう感覚は僕は持ったりするんですよね。
そういった意味で、いろんな絶望っていうのを分析しながら、でもそれこそがまさに可能性だよみたいなことを言ったりするんだけれども、結局今まさに役に立ってくれたような絶望を乗り越えるためには信仰というかキリスト教を信じることが重要なのであって、
まさにその絶望っていうのが実は神との関係においては罪っていう概念に変わるんだというか、一致していくんだっていうことが指摘されます。
ここで前回の現在という話と、今回の人間論というか、絶望とはとか、人間っていうのはどう捉えているか、さっきの正義版みたいな話で、っていうのが繋がってくるんだけど、
ここ以降の本の中でも話で、事故と他者と絶望っていうような世界観で語られてきたものが、今度は事故と神と罪っていうキリスト教的な言葉という概念で語られることになっていって、
それが現世で起きている事故と他者と絶望と、キリスト教的な世界にある事故、神、罪っていうものとどう関係していくんだというか、どう同じなんだっていう、それをどう乗り越えるんだっていう話が後半の新考論として出てきているので。
はー、なるほどなるほど。一般的な話ししながら次は神というかキリスト教の話に移っていくって感じなんだ。はいはいはい。
徐々に徐々に世界観というか語るレイヤーが変わっていくような感じもすごく構成として面白かったりするんですけど、
ちょっとそれを次回、しっかり新考論としてまたお伝えして、あ、なるほど。ケルゲウォールそういうことを言ってたのね、みたいなことをお伝えできたらなと思っております。
おおー、了解です。じゃあ今回はね、そこの世界観の第一弾ということで、次回ね、どんな話になっていくのか、ちょっと引き続き楽しみにしてますんで、じゃあまたよろしくお願いします。
はい、お願いします。ありがとうございます。
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