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  2. #57 キルケゴールが鮮やかに描..
2022-11-09 40:14

#57 キルケゴールが鮮やかに描き出す「原罪」の意味とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(音楽)
はい、ソレッドスラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日はついに、キュウケゴールの思想の中身について、入っていきたいと思います。
はい、では早速いっていきましょう。
前回もお伝えした通り、今回は「死に至る病」というキュウケゴールの本を取り上げたいんですけれども、
その前に、その本自体も書いてあることは一般的な言葉で書いているんですけど、
思想というか土台に色濃く宗教的な感覚というか、キュウケゴールがキリスト教をどう捉えているかってやっぱりめっちゃあるんですよね。
なので、いきなりその本の話をする前に、キュウケゴールの宗教的な理解ってなんとなく皆さんにも感じていただきたくて、
その中でも、原罪、もともとの罪、人間は原罪があるみたいなのをキュウケゴールは言うと思うんですけど、
そこの認識を豊かにしておきたいなって思っています。
はいはい、助かります。
僕も正直分からなかったというか、なんとなくアダムとイブが生まれながらに罪があるぐらいしか分からなかったんですけど、
改めてキュウケゴールの話を読んでいくと、なるほどねって思うところがあったので、ちょっとそのなるほどねを皆さんにも共有して、
前回はやっぱりキュウケゴールはあくまでも信仰者として、キリスト教徒として生きたみたいな話をしたと思うんですけど、
そういう感覚を伝えられたらなというふうに思っています。
はいはい。
ではですね、前回も軽く触れたんですけど、キュウケゴールはもちろんキリスト教徒なので、キリスト教の神を信じているんですけれども、
当時のデンマークってのはルター派ですと、兄貴が言ってくれたプロテスタントだよね。
そこのある種その物語というか、言われることとしてはすごく簡単に言うと、神っていうのはもちろんあらゆるものを生み出した大元の存在なんですけど、
その中で最初の人間としてアダムっていう人間を作りますと。
アダムとイブは食べちゃダメだよって言われた知識の木の実っていうのを禁断の実みたいなものを食べて、エデンのソノという神の国を追放されるんだよね。
それがいわゆるアダムが犯した罪で、その後生まれた人間っていうのは、原罪、要はアダムが犯した罪っていうのを引き継いでいるっていうような意味合いで、その罪の原罪を持っているんですけど、
神っていうのは人間の愛っていうのをちゃんと持っているので、人間と神自身っていうのは正しい関係だから、元々のエデンのソノの時にいたある種満たされた関係に戻すために人間の前に立ち現れるんですよっていう風に言っていて、
03:10
それが実際に生じたのがイエスキリストだよっていう風な話があるんですよね。
ただ人間っていうのはイエスキリストのことをちゃんと理解できなくて、迫害したり石を投げたり十字架で処刑したりしますと。
ただその新約聖書、イエスキリスト以降の聖書としては、それ自体が神と人間の和解、要はキリストが十字架にかけられることで、あらゆる人間の罪を償ったと。
現在だけじゃなくて、あらゆる起きた罪っていうのを償うためにイエスキリストが犠牲になられたんだと。
ただそこで罪を償うんだけど、その後も人間っていうのは生きているし、罪を犯したりするんだよね。
なのでこの世の終わりには全ての使者っていうのを復活させて、そのキリストは経験な人には永遠の命を尽きない喜びを与えて、経験じゃない人とか罪を犯した人っていうのは果てしない苦しみを与えるよ。
それが最後の審判だよみたいな考え方が大枠あります。
はい、そっか。ちゃんと説明してもらえるとあれだね。確かに自分じゃ説明できないけど、ところどころ聞いたことあるよなーって。
なんかね、これをストーリーとして聞くと、そういうことだったのって思うね。
僕もなんとなくアダムがエリの孫を追放されて、キリストが処刑されて、とかって思ってるもんね。単体では知ってるけど。
だからすごくだけ、神の創造と人間の、もっと言うとアダムの罰罪、罪に陥ることと、あと原罪を背負った人間とキリストの救済と、最後の審判としての裁判みたいな流れっていうのがすごく構造的に捉えてあります。
なるほどね。キリストが全部、原罪も含めて罪を償うために犠牲になってもらったから、めーたしめーたしじゃなくて、ちゃんと最後の審判っていうところも、ちゃんと装置っていうと、あまりにも構造的すぎるけど、機械的すぎるけど、そしてちゃんと最後に残してあるってことなんだね、人間がちゃんと生きるように。
だからその日に向けて、ちゃんとキリスト教として生きていきましょう、みたいなものがあるんだけれども、ここでキルケゴールは一つの問いを考えるのね。
それは何かっていうと、その原罪、今日は使いたいテーマとしての原罪っていう概念と、あと罰罪。
要はアダムがエデンの相撲から追放されたという罰罪っていうものは同じなのかっていう問いをとってるのね。
ほー、はいはい。そうなの。
06:01
なんでアダムが犯した罪が、その後生まれた全人類とか人間の罪になるの?って考えるのよ。言われてみたらそうじゃない?
まあそうだね、だけどそこに問いを持ってしまったんだね。
そう、なぜかっていうと、やっぱりキルケゴールは自分自身の信仰を考えているから、みんな原罪持ってるよーって言われたら満足できないんだよね。
それをなぜかっていうのをちょっとこの後話してくるんだけど、要は具体的に4つの側面からその問題を考えていて、
1個は責任の所在の問題で、もしアダムだけが罪を犯して、名残を引き継いでるみたいな感じだったら、
結局後から生まれた人って、そのろくでもない先祖を持ってアンラッキーみたいな、要は先祖が借金したから俺も借金抱えてるみたいな話で、
本人には責任がないっていう話になっちゃう。
だからその原罪っていうのは結局自分に関係ないところで起きた罪をなんか知らんけど抱えてるみたいになっちゃうんだけど、それって本当なの?っていう話があって。
2つ目はアダムの得意性。もちろんアダムは神が最初に作った人間だから特別なのかもしれないけれども、
アダムだけが罪を犯していて、あとはもう罪人として同じ原罪を持った人という、要は人っくりにされちゃうとしたら、
個人の得意性っていうものが神の前においてなくなってしまうよねと。
みんな同じ原罪原罪原罪原罪ってなると、神からしたら人っくりの人間になっちゃうよねっていうことを考えますと。
アダムだけが特別。
3つ目がアダムが神話化されて、アダムだけが神の世界にいて、もう既に決定的なことは何千年前か分からないけど起こっちゃったと。
でなったら後は歴史っていうのはダラダラ続くだけになっちゃって、結局人と神の関係っていうのが神話のただの物語になっちゃって、自分が生きる時代とは接続しなくなっちゃう。
はいはいはい。
自分にキリスト教とか神との関係ってのは引き寄せることができなくなって断接されちゃうよねっていうことを言いますと。
なるほどね、そっか。そこ実際、罪を犯したという世界観と今が歴史として延長線上に繋がっているのであれば、その逆も起こるというか、こんな固定化しているわけないよねって話だよね。
まさに、そうすごくいいところ。それちょっとまた後で取り上げるんだけど。
はいはいはい。
で、最後4つ目が、自分はどんな意味で罪人なのかみたいな、自分の現在と何かっていうふうに考えたり、通ったりした時に、
結局、それはアダムが知恵の実を食べたからなんだってなると、結局過去に思いを馳せるしかなくなって、自分は今に生きているのに決定的な問題が過去になっちゃうっていう意味で、それって本当なんだっけっていうことを考えるのね。
09:13
はいはいはい。
要は今、キリュウケゴールはこの1800年代のデンマーク・コペンハーゲンっていう時代とか、チリにおいてキリスト教者として生きようとしているのに、全部過去とか神話とかアダムの話になっちゃって、俺の話じゃないじゃんっていうふうに思い悩むのね。
はぁー。
なんか、うん。
なんだか伝わる?
そこまで来てる感じ。
ごめん、まだ断りなんだけど。
だから結局、キリスト教っていう物語を読んでるだけで、自分がキリスト教者として生きるって無理じゃん、この現在っていう考え方だと、みたいなことを思うのね。
だからこそ、キリュウケゴールは、ただ別にキリスト教を否定したわけじゃないから、その教えとか教義とか否定することなく、一人一人の罪性、要は罪を犯してそれが許されるっていうのが、さっきお伝えした物語でいくとすごく大事なことだから、物語っていうのはキリスト教の考え方よりも大事だから。
はいはいはい。
まず自分には罪があって、それが許される可能性があるっていうことが、自分にとって切実だっていう、アダムとか関係なく、自分がちゃんと罪を持って償われる可能性があるっていうことを信じきれないと、結局神と自分の関係って成り立たないんだよね。
もっと言うと、すごく逆説的なんだけど、罪があるから神と人が結びつくっていう考えがここに生まれてくるのね。
逆に言うと、そういう感覚は内容にキリュウケゴールには見えてたってことか。
他の人はね。
ただ教えを聞いてるだけだとね。
なんとなくこのキリュウケゴールの切実さ伝わるかな。
伝わる伝わる。
さっきのストーリーで、この罪っていうものがじゃなかったとか、ここを適当にやっちゃうと、人間が罪を償うとか、罪があるという追い目を持ったまま生きる、それを解消するために生きるっていうベクトルがなくなっちゃうんだよね。
消失してしまう。生きる目的だったりとか、そもそも存在理由みたいなものがなくなってしまって。
なのに、周りで言うと、そこを一番大事なところを、なぜかみんな自明のこととして捉えてるけど、だから多分表面的にしか生きてない。
もし罪について聞いても、ちゃんとふわっとした回答しか来ないし、っていうとこに強烈な違和感を持って。でもキリュウケゴールは、そこの罪ってことをちゃんと説明してくんないと、ちゃんと信じられないんですけど、ちゃんと生きられないんですけど、苦しいんですけどっていう。
12:10
やっぱり33歳で死ぬと思ってたから。
そこを説明してくんないと、精神持たないんですけど。
もしかしたら、回避する可能性があるとしたら、罪ってものをちゃんと認識できて、本当にその伝え方に聞けば33歳以上生きれるんじゃないかっていう光を持ち掴みたいって思ってたとしたら、
やっぱりそこに対する強烈な罪の存在を規定するとか、確定する。もしくは誰か偉い人教えてよみたいな。
誰も教えてくんねえなら自分が考えるよ、もういいよみたいな。そこまで辿り着いた感じっていうふうにちょっと思った。
そうだね、そこはあったと思うし、1個あるとしたら、キリスト教徒としては、現実の人生ってやっぱりその魂の永遠性みたいなのがキリスト教の中にあるから、
自分が生きている中で、ある種どこまでその魂を磨けるというか、神の世界に近づけるかってことを考えたと思うんだよね。
なるほど、さっきあまり現世的な話しちゃったけど、30歳超えて生きれるみたいな話しちゃったけど、魂の話で言ったらそうか。
ちゃんと自分が死ぬ33歳までに魂を磨き、生きることができるのかっていう光っていうのもあるわけか。
そうそう、多分そっちの方がちょっと理想化してるかもしれないけど、強かったんじゃないかなと思う。
キリスト教の世界観でいうとそうだもんね、現世で、道行じゃなくて、救われるかどうかっていう意味ではそうか。
そう、まさにまさに。これは想像でしかないけど、周りの人が「我々は罪深い人間だ、この前も万引きしたって」とか言ってたら、
「そんな罪じゃねえだろ」みたいな、多分ね。「そんな美的な、現世的なこと言ってんじゃねえよ」みたいな。
なるほど、そっか、その罪トークが。噛み合わなかったのか、周りとの罪トーク。
飴トークみたいなね。
それは現世の話、万引きとかは現世の話だから、どうでもいいじゃんみたいな。もっと神様を信じられないとか、そういう話しようよみたいなね。
そうそうそうそう。おかしいだろうみたいな感じも思った時に、やっぱ罪とか原罪っていうのが、ある種、個人の手に取り戻さなきゃいけないみたいなことを考えるんだよね。
はいはい。お金は持ってたとしても、やっぱりそういう宗教信仰心みたいなものの価値観が強い時代だとすると、確かに給料いくらもらったとかよりも、その罪トークの方が多分もっと重要で、そこは噛み合わないというのは苦しそうだし、すごい切実な感じがあるね。
15:00
そうだと思う。キルケゴールがキリスト教のことを話した時に、周囲と全然噛み合わないとかレベルが違うって思ったら、やっぱ俺だけが本当のキリスト教徒だから周りを白線させようって思ったのかもしれないし。
実際どうやって、高校人の手に原罪という切実さを取り戻すんですか?っていうのが、いくつかその戦略があるって言われてるんだけど、まず一つが、罪っていうのは「質」ではなく「量」とみなすみたいな。
面白いね。 要は、罪の質で言ったら、人類が初めて知恵の切り身を食べたっていうアダムの罪は、もうやりようがないわけよ。知恵の身もないし、そもそもエデンの相もないし。
ただ、アダムの本当の罪は、知恵の身を食べたことかって言うとそうじゃなくて、要は無垢な状態とか、神の世界にいて、穢れとか悪いことを知らないっていう状態を失ったことだっていうふうに捉え直すわね、ギルゲゴールは。
言われればそうだ。食べたことじゃないもんね。
なんで食べちゃダメって言われたかっていうと、そういう知恵を身につけると、無垢なものから外れちゃって、要は人間論であれとかこれとか色々識別して、善とか悪とか考えちゃうからなんですよ。
例えば話し合った時に、それって別に自分らも変わらなくねってこと言うんだよね。
要は、ここまではギルゲゴールは言ってないんだけど、例えば生まれた時は赤ちゃんとして無垢な状態で生まれるんだけど、それが生きる中ですぐに失われてしまう。
キリスト教的には本当は原罪を持っているから、生まれた時から完全に無垢ではないんだけど。
こういう無垢な状態を失うっていうことだとしたら、それはアダムと変わらない罪を我々も繰り返し、要は犯すことができるというか、反復されているという考え方を導入するよね。
罪を犯すことができるというのは気持ち悪いから、次でとりあえずニーチェが「そんなのはアルサンチマンだ」とか「弱者の道徳だ」って言ってキリするんだけど、そっちはそっちでめちゃくちゃ面白いから、またそれもぜひお話ししたいんだけど。
キリゲゴールの宗教的な考え方で言うと、徹底的に重要なのは、アダムが罪を犯したということも重要だし、キリストはこのように生きて罪を償ったということも重要です。
ただ、例えば当時からしても1800年前、キリストが生きた今からだと2000年は出来事だとしたら、キリストを自在に生きていたというか、キリストと一緒に過ごした人は超ラッキーで、要はキリストというものを実際に見て救われたわけだから。
18:09
今の自分、1800年後に生きたキリゲゴールは、アンラッキーなのか、罪が償われるチャンスが少ないかというと、そんなことはないんだと。
今この瞬間にアダムと同じ罪を自分も犯すことができて、だからこそその罪が償われるということもちゃんと行われるんだということを言うのね。
逆に言うと、アダムが打罪して救われたというのは過去の話ではなくて、今この瞬間に起きているんだと。
自分が打罪して罪をちゃんと打たざらじするという言葉があるんだけど、罪というものを身につけてそれを許される、救われるということが絶対に反復される経験としてあり得て、だから打罪とか原罪というのは、だらだら続くことではなくて、新しい経験として個々人が経験することなんだということを言うのね。
ここにこそキリストとか神と自分が直接的に出会える可能性があるんだということを言います。
もうちょっと身近な例で言うと、例えば本とか本を読んでいる時に、昔読んだ時に気づかなかったことに気づくとかって、例えば何回か読んだ時にあったりするじゃない。
本を読んだっていう行動は同じなんだけど、時々の自分とか、他の人が読んだ時と自分が読んだ時とは違う経験が起こりうる。
それが、神とアダムの関係で、アダムが打罪したという関係と、神と自分がいて、自分が打罪するという関係もちゃんと経験できるよっていうふうに言うのね。
それがこれまで言って初めて、この罪とか原罪っていうのがキルケゴール自身にとって切実なものとして捉えられたみたいな感じになっていきます。
当時の人たち、さっきキルケゴールが切手して出た腐敗してるとか、罪についてよくわかってないみたいな人たちのことの感覚はまだよくわからない。
罪を認識する、打罪したことを自分も認識できるというのはすごい面白いと思って、そこをきちんと、さっきも言った自明のこと、
その競技の中で言われてるからそうだよね、じゃなくて、自分が知恵の実は食べてないんだけども、食べたものの子孫として、やっぱり無垢な状態を失っている。
21:07
知恵もついてしまって、いろんな判断しちゃってるよっていうことを、罪だっていうことをきちんと自己認識するべきだ。
それを罪だとして、自己認識しろよっていうのがスタート地点だよっていうのは、やっぱりすごく難しいことだと思うよね、自明だと思っている人にとって。
そこを自己認識さえすれば、その罪を償う感覚が出てくるよね。自分はやっぱり無垢じゃないんだってことをちゃんと思うとか、それこそ無知の知だよね。
ソクラテス的な、それをティースト教的な無知の知って、この罪をちゃんと自己認識することだよね。
その理由は、どういう理解するんじゃなくて、自分の体験として、本当にその状態を失ったんだなってことに気づくこと。
それこそが無知の知だよね、みたいな。まずそこから覚醒のスタートだよ、みたいな雰囲気がすごいしてきた。
そうだね。まさにその次紹介していきたいと思っている、その死に至る病っていうのは、まさにその自己認識とか、自分を正しく捉えられないから、みんなティースト教徒として覚醒しないんだ、みたいなことをすごく言っている本で。
兄貴が今話してくれていることはすごく近いというか、正しいと思う。
ここからはちょっと面白いのが、イエス・キリストってお話の中では、要は馬小屋で生まれて、その後も別に貧しく暮らしましたみたいな感じがあるじゃないですか。
別に王族とかじゃないよ、みたいな話があったと思うんだけど。
そうだね、大工さんだった。
そう、そう。で、キリゲゴールはそれこそがキリスト、むしろそこに意味があったというか、イエス・キリストは生まれるべくして、貧しくて嬉しい人物として生まれたのだ、みたいなことを考えるのね。
どういうことかっていうと、神の神性みたいなものとか、その絶対性みたいなものっていうのは人間には感じ取れないですよね。
結局、さっき言った通り、キリストと同じ時代に生きていた人たちがキリスト教徒としてめっちゃ優秀というかラッキーだったかっていうことは別にそんなことはなくて、
結局同じ時代に生きているとキリストの神性も認識できないから、むしろ石を投げて迫害したりとかいうことをします。
だから多分、仏教の時もちょっと言ったかもしれないけど、つまりにキリストとかブッダがいても僕らは気づけない。認識する力がない。
だけど、だからこそ、時間を減らせた人間の方が正しくキリストの教えとかも残っていたりとか、いろいろまとめられたりしてちゃんと伝わっていたりとかするし、
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そういうキリストの神性みたいなものをちゃんと感じることができるよね、みたいなことをキリゴールは考える。
だから逆にキリストは神として一目でわかるような存在として生きていたら、それは人間が認識できる神性だから、そんなものは嘘っぱちだ、みたいなことを考える。
はい、なるほど。
認識できないことにこそ、人間と神の断絶があって、断絶の違いがあって、だからこそ人が神の世界を目指す、みたいなことが生まれてくるという考え方があって。
ちなみに仏教は実はそんなことなくて、いきなりブッダの話が飛ぶんだけど、ブッダは32個の優れた身体的な特徴があったって言われていて、
だから、外見的にはブッダとなるべくして生まれてきたよ、みたいな話がある。
そうなの?オーラとかじゃなくて?
そう、舌が神の早毛山に届くくらい長いとか、それがあるとブッダの一つの身体的特徴を唱えている人だ、みたいなこと言われたりするんだけど。
そうなの?舌が長いって言うの?
舌が長い。
32個あったら、なんかどれか重いそうな。
そう、だから後からもうなんか俺は8個あるからブッダかもみたいな人たちがいたみたいな話もあるんだけど。
ありがたみたいな話で言うと、どっちがあるかどうかってあるんだけど、いやしくね、普通に人として生まれたイエス・キリストと、
いわゆるあらゆる身体的特徴をかざさないで、なるべくして生まれてきた強魂ってあるだっていう人と、
みたいな結構宗教的なというか、その構成の捉え方としても面白いなぁとは思ったりするんですけど、
ちょっと脱線しちゃったんだけど、そんな感じで、いわゆるその、なんだろうな、
要はキリストっていうのは、1800年前、キリュケゴールからすると1800年前、僕らからすると2000年前に生きた人で、
その時に生まれて死んだ人なんだっていう風に捉える、いわゆる過去、現在、未来みたいな時間の流れと、
そうじゃなくて、今この瞬間に生きる自分と、永遠に生きるキリストっていうものを、どういう風に繋げるかっていう捉え方をするのとはやっぱり全然違うんだよね。
だからこそ、逆にキリュケゴール的な、今この瞬間に永遠性を持った神と繋がるっていう発想をすると、
歴史みたいな積み重ねっていうのは、意味がないものというか、一挙に乗り越えられるべきものだし、
現実的な今日があった、明日があって、明後日があって、みたいな時間にとらわれている発想では絶対にそこにはたどり着けない。
27:01
だから、例えば平行とかが言うような、歴史っていうのは時間の発展において一歩一歩進んでいくんだみたいな発展の仕方とか、
伝承法的な考え方では、キリスト教的な、要は宗教的な理解とか伝承法的な発展はないっていう風に言うのね。
はい、なるほどね。さっきのアダムの例なんかまさにそれってことだよね。歴史的な事実。
アダムっていう人が昨日も言ったから、今うちらがあるとするとやっぱりダメで、ダメというか理解できなくて。
それと同じことを自分たちも、同じことが起こってるんですよっていう、自分ごととしてそれを捉えるみたいな感覚が大事というか、じゃないと理解できないというか。
そうそうそう。自分ごとにしないと、結局正しいというか、キリゲゴルフの考える正しいキリスト教の信仰者としての生き方にはならないよっていう風に言う感じですね。
はいはいはい。その罪っていうものをちゃんと認識するためにはってことだね。
そうそうそう。っていうような感じか、キリゲゴルフ的な現在の理解とか認識。
はいはいはい。これがね、当時の世界の共通認識かは別として、少なくともキリゲゴルフの周りでは、罪っていうものをそういう歴史的な事実としてやったりとか、お話の中、もしくは教義の中の一つの話として、感覚として、
もしくはそれまで培われてきた、そこそこ歴史的に培われてきたキリスト教的な価値観、もしくはプロテスタント的な価値観というものを、ただただそこそこ赤ちゃんから育つ中で身に着けてきた、
自明のもの、考えたこともない、みたいなレベルだったものを、ちょっとこう、罪っていうものをキリゲゴルフは取り出して、
これだよ、こんなものあるよって見せてくれようとしてる感じがするね。
そうだねそうだね。だからその、まさに多分、あんたが言ってくれた通り、現在っていう、すごく常識的なワードっていうか、当時言ったら、ある種当たり前の言葉だったり認識だったと思うから、
そこで僕らからしたら、魂というのは天国に行って地獄に行くかわかんないよ、みたいな話が常識として、仮に後としたら、そもそも魂とは何かとか、魂が天国に行くとは何かとかって考え出そうとか、
自分が本当にどうしても地獄に行きたくないって思った時に、どういう発想をするかみたいな、
そうだね。 創設実際を考えた時に。
キリゲゴルフは創設実際に直面してたからってことだね。
そうだねそうだね。やっぱりそういう意味で言うと、前回キリゲゴルフ主体がキリスト社として模範的だったかどうかみたいな話は、ちょっとわかんないよって話もしたんですけど、
こういう考え方を聞くと、やっぱりすごく突き詰めて考えた人だし、ちゃんと成立にキリスト教の信仰者として生きようとした人だったのかな。
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もしかしたら、本当にキリスト教を信じている人からしたら、別にそんなこと考えなくていいんだとか、
キリスト教を変に自分に引き寄せようとするのは、生きすぎだっていう声もあるのかもしれないんだけど。
そうだね、それこそ信じろ、感じろみたいなところとは逆行するかもしれないもんね。そこをギズメで考えちゃうっていうのはね。
やっぱり哲学の流れとしてとか、実存主義ってやっぱり一人の人間としてどう生きるかみたいなことを実実に考えるっていうのは、
僕はすごく鬱屈してるし、若干ちょっと暗そうだなと思うんだけど、キリゲゴルフって人がね、印象として。
でもやっぱりすごいちゃんと考えてる人だし、真剣に生きてる人だなっていう感じがあるから、すごく好きというか、
なんかやっぱり憧れる、憧れはしないけど、学ぶものが多いなっていう感じはあるんだよね。
そうだよね、ここもやっぱ死に向き合って、死というものを恐れて若い頃から生きるってこともないだろうしね、体験としてね。
そうね。やっぱり逆に、死が身近だったら逆にあまりにもありふれたものになっちゃうみたいな、多分時代もあっただろうと思っていて、
みんながみんな早死にするんだったら自分もそうかって思うんだけど、一体みんなが長生きするように自分の家族だけが死んでいくとか、
そういう状況に置かれた時の切実さだよね。
はいはい、ある意味本当に原始的な宗教とはまた違う時代ってことだよね。
うん、そう。
原始的なのはまさにそうだもんね、どんどん食べ物なくて死ぬのが当たり前の中でどう生きるかみたいな。
もっとはやっぱりこの休憩ゴールドの時代がちょっと違うってことだよね。
そうだね、そういうのがあったんじゃないかなと思う。
この話を聞くと割とすんなり入ってくるっていうことは、逆に言うとこの前やったトマス・アーキナスとかの進学大全とかの時代も、
多分キースト教というものを論理的にいろいろ考えて言葉で語ってたはずなんだけれども、
やっぱりキースト教というものを体系的に説明するのと、キースト教をどう信仰して自分に引き付けてどういうふうに生きていくかみたいなものという意味で、
このトマス・アーキナスとこの休憩ゴールドの感覚と結構違うのかな。
こういうふうに罪というものを捉えて自分ごとにしてきたっていうのは結構斬新な話だったのか。
そうだね。おそらく休憩ゴールド前にもあった人はいるかもしれないけれども、
33:03
ここまで自分に引き付けてとか、自分の存在というのを前提としながら神について語った人というのは多分あんまりいなくて。
そうかそうか。そういうことを信じろ感じろ側を強くするっていう意味でのトマス・アーキナスみたいな話があったとすると。
もっと言うと、理性の力で神という存在を定義したときに、
要は心でも信じるし、頭でも理解することしかできないよねっていうことをやったのが多分トマス・アーキナスなんだよね。
そこにはあんまりキリスト教者として生きるとか、どうやったら救われるのかみたいなことはあんまりなくて、
神というのを正しく捉えれば別に救われもするし、保存も受けられるっていうのが多分感覚だから。
そうかそうか。二元論的な話でいうと、イデア的な神とかキリスト教というものを神学大全ではすごく強固なものとして設定したって話が、
自称的に設定しました。あとはみんなこれを信じればいいよみたいな話まで持ってったけれどもって感じかな。
そうそうそうそう。逆に言うとそれだけガチっとしたものとかが受け継がれてはいるんだけれども、
その中でもキリスト教が正しく信仰されているとは思えない周りの人たちとか、
自分自身がそのガチっと固まったものを受けてどうキリスト教ってものと向き合えばいいかっていうような問いだったりとか、
そのジレンマだよね。そういう話の時にやっぱり自分ごと化しなきゃいけなかったなと思うんだよね、そのキリスト教。
これっていうのは多分聞いてる方も関していただいているかもなんですけど、これまでの哲学の語り口とは多分全然違っていて、
やっぱりね、真理とはとか、一般的にはっていう話じゃなくて、もう自分の話しかしてないから基本的には。
はいはい、そうなんだ。今日はまだ現在か、前提の話だから、その質感がわかりましたっていう話だと思うんだけど、
次回からまたそういうヘイゲルまでの感じとして、違った思考の積み上げ方みたいな。
そうだねそうだね。ロジックでとかっていうよりは、結構人間という存在をどう捉えているかとか、どう定義するかみたいな話は結構出てくるから、
なんかね、たぶんね、その話の入り方とかも全然変わってくるかなって思います、確かに。
そうなんだ。今回から思想に入ってきますといったものの現在とは何か、まあいわたらね。
そうですね、土台としてちょっと。やっぱり、でもね、ここをなんか、僕もちゃんと今回改めて色々調べる中で見たからこそ、
36:03
だからキルケゴールこういうこと言ってるのかとか、だからキルケゴールの、ここはやっぱりキリスト教的すぎるからわかんないけど、
でもそこに至った思考はわかるみたいなことにちょっとずつなんかね、見えた気がして。
はいはい。
ちょっとあえてその、現在というか、イエスキリストとキルケゴールの関係ってのをどう結ぼうとしたのか。でも本当にそれだけが結構キルケゴールの問題だから、もっと言うと。
へー、はいはいはい。
もっと言うと、キルケゴールとイエスキリストの関係もそうだし、その本を読んだ皆さんとか、あなたとイエスキリストの関係をどう結ぶかっていうのが問題だから。
うんうんうん、なるほど、だし、そうはね、この現在の多分感覚、その積みトークでちゃんとそのキルケゴールと同じ感覚で話せるような感覚を持っておかないと、
多分次の話聞いた時あれなんだろうね、その腐敗してる側の感覚だったりとか、
積みトークで窃盗しちゃった、盗みしちゃった、みたいな、そっちのライトな層の感覚からしか多分キルケゴールの話を理解できなくて、
逆にキルケゴール何野暮なこと言ってんの?みたいなツッコミをしちゃいかねないってことだね、おそらく。
そうねそうね、前回も言ったお葬式の時に何も考えずに手を合わせるんじゃないって怒鳴り込んでくる親戚のおじさんみたいな構図になっちゃうのよ、多分。
こっちはもうあと1時間のお葬式を終わるのを待ってるだけなんだ、みたいに思ってる人たちと、
そのままじゃ本当にこの亡くなった人が地獄に行ってしまって一生怒られないぞって思ってる人では、
全然見てる世界というかさ、価値観がやっぱ違うじゃないの。それ話でも噛み合わないよね。
それをちょっとそのおじさん側に今回寄せてくれたってことがね、そっちの視点もあるんだよっていう。
そうそうそう、おじさんのもしかしたら考え方を深掘りするというか、内部の思考とかを探っていくとこういうことを考えてるかもね、みたいな。
あるいは桐生ゴールっていう人がそういうことを考えてたんだよ、みたいな。そういう人たちのことも理解しようね、みたいなそんな感じ。
いやーありがとうございます。なんかちょっとずつそうはね、時代から桐生ゴールの人となり、そして罪っていうものに対する、そこが重要なんだって話をその捉え方向けなところで、ちょっとずつなんか惚れてきた感じするね。
そうね、そうね。あと途中で言ったけど、僕自身は今桐生ゴールの話だからそういう風に言ってはいるけれども、やっぱりちょっとひねくれてるなって思うのよ。
人間がやっぱり罪を、なんだろう、あえて改めてもう一回罪を犯すことで救われるみたいな、最初から救われといたらよくね、みたいな思うのよね、個人的には。
まあまあ、そうか、そういう考え方もあるって。
39:03
そうそうそう、だからそれはさっき途中も言ったからニーチェに繋がってくるから、これやっぱ桐生ゴールニーチェっていうシリーズはすごい楽しみというか、自分自身がすごい楽しいので、ぜひちょっとね、皆さんも楽しんで聞いていただけたら嬉しいなって思ってます。
はい、そうはね、知ってる人はね、ニーチェ楽しみにしてくださっている方もたくさんいるようなので、そこを楽しみにしてもらえればですし、自分みたいにニーチェ知らない人でも、そうはね、桐生ゴールしてからニーチェ比較するとまたなんか面白いってことがね、楽しみにして。
うんうんうんうん。
はい、じゃあ次回こそ本の内容というところに入っていくのかと思うので。
そうですね、次こそは本当に入っていきますので、土台が長くなりましたが、皆さんまた次も楽しんで聞いていただけると嬉しいです。
はい、じゃあ次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします、ありがとうございます。
はい、じゃあまたね。
はい。
(♪ BGM)
40:14

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