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(音楽)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は前回の雑談の引き続きみたいな感じになるんですけれども
ウパニーシャット哲学とか、あとそういったインド哲学と、それを乗り越える形での仏教、そこの接続というのがもうちょっと知りたいなという話が前回の雑談会で出まして、今回はそのあたりを教えてくれると。
そうですね、ちょっとインド哲学の歩行みたいな感じでですね、実際にこれまで話した中でお伝えできたかったところをしっかり今回お伝えしていこうかなと思うんですけど、テーマとしては2つ持ってきてまして、
1つが今兄貴が言ってくれたような、仏教とインド哲学のどのようなどの繋がっているかという話と、あとこれもインド哲学の話の中でちょっと触れていたんですけど、
あるとかないとかっていう時のない方、無ですね。それについて結構深く考えているっていうのがインド哲学の面白さというか特徴としてあって、
そもそも無とは何かとか、無にも種類があるみたいな発想自体が面白いなって僕自身が結構思っているので。
あったね、確かに無にも種類が何個かあるみたいなのあったよね。なんだそれみたいなの。
そう、でどういうことってなるじゃないですか。それをちょっと簡単に紹介していきたいなと。
いいね、そっかその話も教えてくれるんだ。
全然中身は全く違うんですけど、その次紹介するよって言っているサルトルも有名な本として存在と無っていう本を書いてるんですけど、そこにもやっぱ無っていうのが出てくるんですよね。
なので無についてちょっと考えてみるというか、レパートリー広げておくのはいいんじゃないかなと。
そういった意味で、東洋と西洋でも無っていうものが語られているって意味で、既に無にも種類があるしみたいな話か。
まあね、無の話は難しいんだよ。何なら無いものについて話すから。
あくまでもそのインド哲学的な流れでいうと、無についてこういう話がありますっていうのはちょっと今日はさらっと紹介して、2本立てでちょっといってみようかなと思います。
では早速インド哲学から仏教へみたいな流れなんですけれども、これまでもお話ししてきた通り、もともとインドの哲学とか思想の流れとしては、まず神話としての米だ、またはリグ米だっていうようなものがあって、
その後ウパニシャットの時代に、それこそ数何百年もかけてですけれども、どんどん思考が抽象化されていって、ブラフマンとかアートマンみたいな根源があって、実はそれが一つだみたいな、
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そういうものを頂点としたウパニシャットの思想みたいなものがありました。
うんうん、そこまで話を教えてくれて。
そうそうそう、この思想の流れっていうのは確かに今回お伝えしてきたんですけれども、いわゆるインド社会みたいなものを見た時に、実はそこまでも変わってないというか、
社会の仕組みとしては、途中でね、神話から生まれていたバラモンっていう、儀式階級とか宗教の階級があって、シャトリアっていう王様とか武士というか、そういう人たちの階級があってって話をしたとは思うんですけど、
基本的にはこのバラモンの人たちの力がまだまだ強いんですよね。
なるほど、バラモンっていうのはもう神話の方の、ニグベーダの方から出てきてるんだ、もうすでに。
そうそうそうそう。
そうなんだよね、そのバラモン教と今回のベーダとかさ、あとウパニシャットの関係とかもさ、なんかしれっとバラモンがとかって、
はいはいはい、そっか、そうよね。
お話の中で出てきてたから、バラモン教っていうものとの繋がり、そういえば確かに分からなかったなみたいな。
そっか、そうよね、だからどちらかというとそのベーダの神話をある種使ってというか、それに基づいて神様に捧げ物をするとか、
その街の運営をしていくみたいな、あとはそのバラモン階級というか、その人たちのある種役割なんだよね、指導者みたいな。
はいはい、その神話を受け継いで、それにのっとって、捧げ物というか儀式か、そういうのをやっていく人たちがバラモンみたいな。
そうそうそう。
そういうことをやっている人たちとか、信じているというか、そういうのを総称してバラモン教みたいなイメージでいいのかな。
そうだね、ほぼイコールかなと思う。
だからそのバラモン教というのは教え、そうだけどその儀式のやり方とか、こういうふうに道具を使うとか、捧げ物はこういう、
ちょっと動物だったかわからないけど、例えば動物とか植物でとか、そういうのが決まっていて、その知識をもとにちゃんとそれを運営していく人たち。
なるほどなるほど。
その輪廻の時にもちょっとお伝えしたんですけど、結局自分が死んだ時に、例えば来世で健康に生かれるかとか、そういう神様のいい世界に生けるかっていうのもバラモンの人たちがある種、牛耳って言ったから。
はあ、そうなんだね。そっかそっか。そこは一般の人たちというか信者の人たちに教えてたんだ。こういうふうにやると得ポイントたまりやすいですよみたいな話をバラモン教の主宰の人たちが、
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そういう情報に出たみたいな感じか、この神話のね。
そうだね、握ってて、後の意識でそれをある種使ってたみたいな感じですね。
なるほど、じゃあほぼイコールみたいな感じなんだね。そのオリグベーダとかそういう神話と。
そうだね、と思って問題ないと思う。
バラモン教っていうのは、そういうお話とそれを実行する人たちというか、実際に行う人たちがバラモン教みたいな感じか。
そうそうそう。なんでバラモン教の人たちに力があったっていうのはまさにそういうことなんですけども、実はそれが変わってくるっていうのが紀元前6世紀、つまりブッダが活躍し始める時代なんですよね。
はいはいはい。
ブッダ界でもお伝えしたんですけど、やっぱり仏教って今だとすごい広まってるみたいな感じがあると思うんですけど、まさに前に言ってくれたようなバラモン教とか、あとはヒンドゥ教、それが変わっていってヒンドゥ教ってなってくるんですけど、
そっちがある種インドの正当派の宗教なんだよね。そこからしたら最初は仏教もいたんですと。
うん、なるほど。
もっと言うと、いろんな信仰勢力とか、いろんな信仰宗教っていうのがこの時代にバーって出てくるのよ。
そっかそっか。社会が不安とか不満みたいなものがある時って、そっか。
そうそうそう。
仏教は本当にその一つだったんだ。
その一つ、本当に一つって感じで、その辺りはブッダ界でもあんまりちゃんとお話ししなかったので、今回は持ってきたんですけど、この時に現れた人たちがシャモンと呼ばれる人たちで、シャモンは漢字とか日本語読みなんだけど、いわゆる伝道士みたいな感じかな。
これまでのバラモン中心の祭礼主義で、要は儀式があって神様に祈りを捧げてとかじゃなくて、そういう自分の人生をどうしたら豊かにできるかとか、
そういう苦しみをどうやって逃れて輪廻を立てるのかみたいな、そういうことを自分たちの力で作っていこうみたいな、そういう修行者たちっていうのがいっぱい出てくるんだよね。
なるほどね。ある程度やっぱり当時のイグメイナとウパイシャと哲学の世界観を踏襲しながらも、それをやっぱり自分たちの方に引き付けていく人たちが出てきた。
バラモンに言われた通りじゃなくて、自分たちでできるんじゃね?みたいな。
そうなんだよね。で、なぜかというと社会が変わったっていうのもあるんですけど、どう変わったかっていうと、やっぱり結局はいわゆる農工業が発展してとか、
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それまで部落社会で小さい町というか村がいっぱいあったところが、ある種有力な人が束ねていって、いわゆる王国みたいなのが作られていくんだよね。
そうすると、それまで村々で儀式とかをしていたバラモンよりも、それを超えていろんな人を束ねているクシャトリア、階級の人たちの方が力がついていったりとか。
王国がいくつか出てくると、その中で貢益、いわゆる貿易とか小取引が生まれてくるから、そういう小取引を束ねているバイシャっていう階級の人。
いわゆる消耗者マンだよね。消耗者マンって言っていいのかな。その人たちがどんどん富を蓄えていって、ある種力をつけてきます。
へー、なるほど。そっか、その4つの階級のバランスがちょっとずれてきたって感じなんだね。
そうだね。もちろん、バラモン教の神々とか、儀式の大切さっていうのはあるんだけど、相対的に地位というか権利、力っていうのが弱まっていくので。
そうすると、なんでバラモンの奴らだけが神様とか世界の真理とかってのを語ってんだ。俺らにとっての宗教というか精神的な支えが欲しいみたいになって。
そうすると、さっき言ったシャモンみたいな人たちが、実は下脱っていうのは神様のやらずでもこういうふうにできてとか。
別にバラモンの人たちじゃなくても救われるやり方があってとかっていうと、どんどん受け入れられていくみたいな。
へー、シャモンって何者だ。なんか怪しいな。
でも本当に怪しいんですよ。なぜかっていうと、それまでは割といわゆる村に根付いて、そういう神の教えとかをやってた人たちだったんだけど、
このシャモンの人たちはいわゆる宗家とか戸敷をして、今でいうまさに仏教的な修行者というイメージしやすいと思うんだけど、
属性を捨ててとか家族を捨てて森とかに入っていって、いろんな思想を語ったりとか修行をしながら自分自身を高めていくみたいな人たちなんですよね。
なるほど。元バラモンの人とかも多いのかな?もしかすると自分たちとは何かみたいな。
元バラモンはどうなんだろうな。どっちかっていうと、もともとブッダもそうだけどクシャトリアの人とか、
バラモンでもバラモンの教えとかに納得できないとかの人がそういうふうに言ったとかもあったかもしれないですね。
はい、それこそある程度そういう神話とかにアクセスできて、そういったものを考えるような知識人、階層みたいなところではあったみたいな感じなのかな?
ブッダも王族だったし。
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ただの一般人があったよりは、まさにそういう流れを汲んだ人たちがもちろん多かったと思うんだけど、
彼らの根底にあったのは、いわゆるベーダーの神話っていうよりは、ウパニー・シャットの時代に出てきたような、いわゆる抽象的な概念。
例えば、人生に変わる苦しみとか、輪廻とか、下脱っていうテーマがあったときに、
それをどう受け止めますかとか、どう対処しますかっていうのがやっぱり共通のテーマなんだよね、根幹にある。
そこに対して仏教の流れでいくと、62個の思想が生まれたみたいな記録が残ってます。
まあいっぱいだよね。
確かになんかいやに具体的だけどね。
そうそう、実際に残ってるんですよ。それぞれの教えはこれこれで。
ちゃんとあるんだね、62個。
ちゃんと残ってる。ただ別の流れだと300個ありましたとかって言われてるから、
まあまあまあその伝わる中で、ある種自分たちに都合のいいようにピックアップされてる部分もあると思うんだけど、
いずれにしても、やっぱりそんだけ多くの説とか人が活発にこの時に生まれていたっていうのはわかるんじゃないかなって思います。
面白いね、そうか。かなりじゃあそういうシャモンみたいな人たちとか、いろんな思想みたいなもの、玉石根幹みたいな時代だったんだね。
そうそうそうそう。
まさに玉石の中でも、仏教の中ではその有力な人を6人伝えていて、
それをね、六師下道って言うんですけど、六師は6人の師匠、求道者だね、道を追求してる人で、
下道っていうのは仏教から見た時に仏教ではない教えってこと。
そうなんだ、この下道側みたいになって言うけど、こうやって仏教用だんだこれ。
そうそうそう。今で言うとその道を外れたみたいな感じなんだけど、そうではなく仏教じゃない道を歩んでる人。
あくまで主語は仏教か。
そうそうそうそう。あくまでもこれ仏教の観点から見てるので。
これは全然覚える人ないんですけど、一応名前をね、ちょっとカラーであげると、
プーラナさん、アジタさん、パグダさん、ゴーサーラさん、サンジャヤさん、マハビーラさんって人たちがいて、
最後のマハビーラさんっていうのはバルダマーナっていう本名なんだけど、
この人がジャイナ教って聞いたことあるかな。
うん、多分名前だけ。
その教祖の人ですと。
なんで僕らはこれまで仏教の話しかしなかったんだけど、実はこの同じ時代にインドでジャイナ教っていう宗教も生まれたりするんですよね。
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同じような時代で、今言ったゲドウっていうほどだから、今の6人は仏教以外の道を進んでいったけども、かなり思想的には強いインパクトを残していった人たちって感じなんだ。
そう、そう、そう、そう。面白くって、例えばこの6人の下で学んでいた人たちが、ブッダが出た後に仏教に改修するみたいなこととか思ったりするぐらい時代的には近いんだよね。
なるほど、なるほど。それぞれやっぱり影響し合ってるというか、乗り越えるものが同じだったからってことか、時代的にはね。
今回には、クとかリーネとかゲダツってどうするのっていうテーマがあって、それぞれいろんな幅で考えたんだけど、その幅って結構広くて、ちょっとだけお話をすると、僕も詳しく知ってるわけじゃないので、触り程度にお話をすると。
これは時代的にはまだ仏教がちゃんと有名になる前ってことだよね。
そうだね。
ブッダがまだ苦しんでるぐらいの。
ブッダが頑張って修行してるぐらいの時代なんですけど、例えばプーラナさんっていう人は道俗否定論っていうのを唱えていて、そもそも善や悪ってのは存在しないんだっていうところから考えだすよね。
そのウッパン・エン・シャットンとかでお伝えしたように、いわゆるカルマポイントとか俗ポイントみたいなものがあって、それが上がったり下がったりすると、例えば来世でよりよく生きられるとか、動物になっちゃうとかってのがあったじゃないですか。
でもそんなシステムはないんだってことをこの人は言ったんだよね、プーラナさんは。
さっきあったけど、バラモンがそのポイント決めてるでしょみたいなね、話に近いのかな。
そうそうそう。そんなものは存在しなくて、別に盗みとか殺人をしても悪いなんてことはないし、ヨーガというか修行をしたりとか神を称えてもいいってことはなくて、その報いとかもないから結局輪廻っていうのもないんだみたいな。
おー。
っていう感じで、苦しみとかカルマとか輪廻とかって自体を否定しちゃうみたいな人もいたりします。
それはそれに苦しみとどう向き合うかっていうテーマには合致してるよね。そもそもそんなものはない。
そうだね、そもそもにアクセスしちゃってるから、ちょっと怖いけど。
ちょっと強すぎるみたいな話もあったりとか、あとはマフィミラとかのジャイナ教でいうと、ここは不摂生、殺さずみたいなのがすごく厳しいところだったりするんだけど、
そういう修行とか苦行っていうのをめちゃめちゃ重視します。苦行っていうのは断食とか、腹道、日光で薬とかそういうやつなんだけど、そういう肉体を制御する、要は人間というのは肉体と精神っていうのでできた時に、
肉体を整えると精神も整って解放されるみたいな、そういうロジックを立てるんだよね。
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なので、これが結構僕らがイメージする苦行とか、ブッダがもともとやってた修行とかに近いイメージ?
はいはい、この前の雑談で言った、瞑想とかヨガとか、座禅みたいなものの、かなりハードコアなものがガチで身体をいじめて精神を解放します。
そこが繋がるんだね。座禅とかも、あれも苦行っちゃ苦行なのか?
苦行ではないんだけど、いつも修行では心を鎮めるとか、身体を鎮めて心を鎮めるっていうのは似てるよね。
はいはい、そうか。目的と同じのがこういうグラデーションがあるってわけなんだよね。
そうそうそうそう。それも結局は、もともとあったバラモン教の神々とか儀式優先みたいなところを排除して、自分たちがどう苦しむ乗り越えるかっていうところが共通していて。
あとは、三者屋さんっていう人は今で言うと会議論者みたいな感じで、何であれ特定の見解を持つっていうのを否定しますと。
あらゆる説っていうのは間違っているっていう、自分の説も間違っているかもねみたいな感じで、ある種なんでも疑いみたいなデカルトっぽい感じ。
とか空っぽい感じもするし。
そうそうそうそう。みたいな感じで、この六師下道っていう6人いる中でもすごいグラデーションとかバリエーションがあるんですよね。
うんうん、面白いね。
このぐらいいろんな人たちがいる中で、ブッダっていう人も出てきて、また石門室っていうような話もあったように、ある種出家というか、属性を捨てて森に入って苦行をやって。
苦行をやったんだけど悟れないからって言って、自分の中でいわゆる菩提寺の下で瞑想をして、その悟りを開いたっていうのがブッダのストーリー。
なるほど、そうか。苦行したって当時は流行ってたっていうのは、こういういろんな人がいたから、その中でもこういう良さそうなやつを試したけどダメだったから、自分の思想を磨いて、作っちゃったよっていうのがブッダだった。
その一人がブッダだったと。
まさにその通り。だから僕らのイメージで言うと天上天下有害と苦そうにつって、バーンってブッダが生まれたみたいなイメージあるじゃないですか。
その時代からしてもすごい傾出した人みたいな、それは間違いないんだけど、当時いうとそういう活動をしている、自分探ししてる人たちみたいな人がいっぱいいて、その中で王道の苦行っていうのをやるっていうところまでは別に普通の人なんだよね。
そこまで結構、むしろトレンドだった、流行ってたぐらいの話か。
そこを突き抜けた結果、めちゃめちゃすごい発想に行き着いちゃったみたいな。
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まあそうだもんね。苦行もあらゆる苦行をちゃんとやってるんだもんね。
そうそう、ちゃんとやってる。真意はやっぱり徹底してやってるから。
面白いんだからね。そこはブッダの時面白かったけど、そういう流れがあったんだね。
ブッダだけがバラモン教とかそういう古い時代を乗り越えとしたんじゃなくて、やっぱり社会とか時代が変わっていく中で、支配階層とか有力者が変わっていく中で思想家というのが生まれていくから、それがやっぱりいろんな人がいた中でも優れたものとか、その時代時代で受け取られたものが次に残っていって、っていうのがやっぱり歴史の流れで、
それがインドの紀元前6世紀にも起きてましたよっていう話なんだよね。
はいはい、すごく大きな転換点だったんだね。
うん。
その仏教とか、さっきのジャイナ教みたいなものが一気にポンと生まれたわけじゃなくて、そういったような哲学を乗り越えるとして、それを完全にそもそもないみたいな否定した人もいれば、それをうまく家で伝承するみたいな概念は残しながらとか、
うん。
食うみたいなものをさらに作っていったり、磨きながらっていう、どんどんやっていったんだね、それを。
そうそうそうそう。やっぱり西洋哲学でもお伝えしたとは思うんですけど、やっぱり哲学ってポッと生まれることはなくて、
はいはいはい。
やっぱりソクラテスにも手前のタレースみたいな人たちがいたとか、人を追求する人たちがいた中でのソクラテスだったりとかもするし、
はいはいはい。
やっぱりプラトンもアリサテレスもそうだし、やっぱりデカールトでもそれまでの西洋哲学とか、ギリシャの哲学って受け継いでやってるっていうのがあったりするから、かなり歴史的なというか、
うんうんうん。
そういう受け継いでいく学問としての哲学っていうのがあると思うんだよね。
面白いね。そうか。そう言われると、ギリシャの方も全然知らないけど、ギリシャ神話とかもあるもんね。
うんうん、もちろんもちろん。
長い時にはもちろんソクラテスとかの哲学よりも古いんだもんね、多分その神話の方が。
圧倒的に古いね。
あー圧倒的に古い。
そもそもやっぱりソクラテス自体がアポロの神殿でソクラテスより優れた人はいないとか、やったじゃん、そんなエピソード。
あー、あったね。あったね。そうだ、こう、信託受けてたよね。そうだ。
そうそう、勝手にさ、知り合いがなんかやっちゃって、嘘?みたいになったところから始まるみたいなのがあるけど、やっぱりその狙い、そもそも信託とか神様っていうのがやっぱり強かったんだよね。
そっかー、あったよね、ソクラテス自身もね、その信託をちゃんと真面目に考えて本当にそうかみたいな。
そうそうそう。
本当を試したのが、なんか問答法的なのが始まりみたいなね。
まさにまさに。
面白かったもんね。なるほど。
はいはい、そういう大きな流れは、そっか、哲学とか物音思想っていうのは結構似てるんだね。
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そうだね、そう。哲学もあくまでも思考としてはやっぱりロジカルにとか、体系だっていうのもあるけれども、やっぱり前提としては人間のある種的欲求というか精神的欲求に応えるっていうところに近いから。
なるほど、あくまでも後付けみたいな話ね、自分たちが世界に接した時に感じたものだったりとか、もしくは社会が作られていってその中で生きる時の苦しみだったりとか喜びみたいな、そういったものの後から説明するみたいな話なのかな。
そうだね、そこに基礎付けるっていう感じかな。
今回もね、インド哲学の最初の神話のところもあったけど、やっぱりそこの説明がないと人間むしろ悩みながらね、なんで我々は存在するのかとか、なんで雨が降るのかとかね、
そう、そう、そう。
そういうのを思いながら生き続けることって難しいもんね。
そうなんだよね、そう。
人間一人として非効率というかね。
やっぱりいろんなことにね、ある種思考の理想像も裂かれちゃうから、それを雨が降ったっていうに対して、やっぱりそれは天皇、神様の涙でとかっていうのが神話だし、理性を超えている。
それは確かめようがないから。
雲がいわゆる水蒸気でそれが限界を超えると落ちてきてっていうのは科学的な話で、一応理性でも捉えられるし納得感もある。
けど、ただやっぱりそれを信じられればどうかっていうのは時代だったりとか、時々の人たちのやっぱり思考によるよねっていう感じですね。
なるほど、それが時代の転換点みたいな話なのかもね。
神様の涙で生きてきた時代がちょっと違うぞって思い始めた人たちが増えてきたみたいな時代ってことか、今回の紀元前600年くらいもってことだね。
やっぱり満足できたくなったとかもそうだし、だからね、ちょっと全然話脱線しちゃうんだけど、まさに地動説と天動説みたいなコプルニクス的展開で地球が止まってるのか、地球が動いてるのかっていうところもまさにそうだよね。
やっぱりそれも観測技術とか計算の速度が、計算の複雑さが増していった時に、もしかしてこれ地球が動いてるんじゃねって思った人がやっぱりいて、そこが変わっていくとかもあるし、
やっぱり兄ちゃんもそうだよね。神は死んだって言ったのも、神っていうロジックでこれまで過ごせていた時代が全然変わってきて、それがもう終わってしまったっていうことをちゃんと言うとか、気づくとか。
(岡田)はいはい。今の二つの例もそうだけど、やっぱり技術とか、ソニーの知見だけじゃない、もっとキリスト教の経緯的なものとかも組み合わさって、
27:00
やっぱり普通に観測したら、いやこれ空が動いてるでしょみたいな。あ、違う逆だ逆。普通に観測したら月が動いてるでしょっていう風な技術レベルとかに達してるんだけど、
なかなかそれを言えない、ガリオ的な話とか。今回のバラモンのやつとかも意外とそうなのかもしれないですね。そういうののバランスがちょうどいいところに行けると、
転換期が訪れるみたいな感じなんだよね。バラモンを育てた時はなんで裕福なの?みたいな、そういうのもあるだろうしね。
一方で商業が発達してめっちゃ裕福な人も出てきて、俺たち全然もうバラモンとかどうでもいいんですけどみたいな人たちも出てきちゃうみたいなね。
そうそうそう。面白いね。やっぱり思想と社会とかそういう流れっていうのはすごく密接に関わってるなって思うんですけど、
長い意味で言うと、紀元前6世紀だから2600年ぐらい、この時代にも残っているとか続いている仏教っていうのは、いわゆる大成功した思想というか、
その時々時代時代を生き抜いて、商城から大城に何とか大城からいろんなものが生まれてきて、広まっているっていうのはやっぱりすごいこと。
そういう中で、フラッシュアップというかアップデートしながらもずっと続いているってね。確かに確かに。仏教とかは確かにした気がするね。
逆に言うと、じゃあ向こう100年とか500年さらに残る宗教というか思想になれるかみたいなところもね、今すごく変換期だと思うから、
これねグローバルみたいな時代になって、やっぱり人種とかも超えて、ちゃんと信じられるとか、そういった世界の中でちゃんと精神的欲求を満たす思想ってなんだみたいな話っていうのが今すごい大事になっているから。
なるほど、確かにそういった意味での抽象度みたいなのはね、上がってるかもね。
っていうのはね、結構やっぱりすごく現代にも通じるというか、紀元前6世紀の人たちの悩みとかそういった活動っていうのは別に全然現代も当てはまるよねっていうのはやっぱり思ったりするんですよね。
なるほど、いやー面白いね、そっかそっか。ちょっとこの繋がり見えてくると思うね、また。仏教とインド鉄道それぞれもやっぱりもうちょっと身近になるというか、自分の感覚に接続される気がしたね。
よかったよかった、この話は結構面白いというかね、昔の話というよりは今にも生きる話なのでできてよかったですね。
あとなんか聞かせたらもうだいぶ喋ってるけど、あともう一個用意してきた「無」についてちょっと話しますわ。
これもちょっと気軽に聞いていただきたいというか、あんまり詳しくやっちゃうとこれだけで多分2回分ぐらいになってしまうので、ほんとさらっと聞いていただければと思うんですけど。
そもそも「無い」ってことを考えるときにはその対立外緣として「ある」っていうのがあると思うんですけど、「うむ」とか「ある」「無い」みたいな感じになるじゃないですか。
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そもそも「ある」ってなんだみたいな話をすると、すごいざっくりなんですけど、2つの考え方があって、それが有名論と実在論っていう話なんですよね。
多分あんま聞き慣れないと思うんですけど、有名論っていうのはいわゆる普遍的な概念、その「もの」はもちろんあるんですよ、ペンはペンとしてあるんだけど、
目の前のペンはあったときにいわゆるペンそのものとかペンの本質ってありますか?みたいなことを考えたときに、
それは「無いよ」と。それは名付けたもので、別に目の前のペンって呼ぼうが鉛筆って呼ぼうが、それって名付けの問題で、
そういったペンそのものって無いですっていうのがいわゆる有名論。すごいざっくり言うとね。
実在論はペンそのものもありますっていう、ペンの本質があって、それがここのペン、ペン、ペンっていうのに乗っかってくるんですみたいな、ちょっとイデアっぽい感じね。
なんかその感じがした。
そうそうそう。それが実在論っていう感じなんですよね。
なので、この間に「ある」っていう目の前のものがあるっていうのは、ある種見たとか触ったらわかるとかってあるんですけど、それも疑えるよねとかってあるんだけど、
「ある」っていう概念自体とっても、すごい哲学とか思想っていうのは、こうやって区別していくのがすごくややこしいんですよ。
きついね。だって今「無」にいろんな種類があるって驚いてるけど、「ある」にもいろんな種類があるにも確かになって言われると。
こういうのをとことん考えて、じゃあ夢の中で見たものあるのかとかって考えていくとすごいややこしくなってくるんですけど、
一旦ちょっとそこは置いといて、じゃあ「無」についてインドではどう捉えるかっていうと、この「無」、「無い」っていうことを実在論の学部で捉えるんですよ。
これが面白くて、無いものを「ある」として捉えるのね。
へー、そうなんだ。
どういうことかっていうと、例えば目の前にペンがないとかって状況があるとするじゃないですか。
ペンがないね。
目の前にペンがない。ペンがどこにも言い渡してもないってなったときに、ないものはないんだけど、インド的な考え方ではペンが存在しないということがある。
ペンの「無」があるっていうふうに考えるのね。
わー、はいはい。なるほど。
そうも言えるっちゃ言えるじゃん。
うん、そうだね。ない状況が存在するって話ね。
そうそうそうそう。これが西洋哲学にはないというか、いわゆる抽象的な「無」。
「無」とは何かとかじゃなくて、いわゆる「不在」っていう意味での「無」を「ある」と捉えたときに、こういう言い方とか考え方ができるよねっていうふうになります。
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はいはい、ここまで大丈夫な気がする。
大丈夫?その上で、インドの歴史的には「無」が5つあるって言われてますと。
この上でね。
この上で。
はいはい。
その「無」が実在論の中で語られるときに5つのことに分かれるって言われていて、ちょっと説明していくと、
1つは「絶対無」って言われる。過去、未来、現在をたって絶対に生じないもの。そして、絶対無って言われて、例えば「とにかく」って言われる言語である「うさぎの角」。
「うさぎの角」ってないじゃない?
まあ、そうだね。ないね。
ないものとして、「とにかく」とか「うさぎの角」っていう話は仏教とかそういうので言われたりするんですけど、
ただ、「絶対に生じないものとして、うさぎには角がある」とは言える。
ちょっと待って、ちょっとね。
「絶対に生じないんだけど、うさぎの角っていうのはないものとしてあるよね」って言葉として言えるじゃないですか。
言葉としては言える。「想像はできるよね」って話だよね。「角の生えたうさぎを想像することができるよね」みたいなイメージでいい?
そうそう、大丈夫。とか、「一生存在しないものとして、うさぎの角というものはないものとしてある」っていうことが言える。
さっきのペンの不在とはちょっと違うんだけどね、レイヤーが。
うーん、なんかもう一個追加されてる感じはあるよね。
想像した上でそれは、「ないものがあると言えるよね」っていう意味でちょっとなんかぐちゃっとしてるけどっていう話ね。
だからこういう意味では、絶対に存在しないものも一応説明というか言葉として言うことができますよね。
というのがこの「絶対無」。
もっと言うと、いわゆる無そのものとか何もないことっていう抽象的に考えることじゃないんだよね、ここで言う無っていうのは。
あー、もうあるとして捉えてるから。
そう、あるとして捉えてるから。無があるっていう中の話だから。
ある無の中で何があるのっていうのも5つがまず1つ目は絶対無で、2つ目が関係無っていうのがあって、
関係、リレーションで関係するのは関係の無なんだけど、
それはあるものが別のあるものと関係を持たないっていうことで、
例えば風、吹く風ね、色、赤とか青とかっていうのはそれぞれちゃんと存在しているんだけれども、
風に色がつくことはないじゃないですか、普通に考えたらね。
まあ目で見てね。
なので風と色っていうのは関係無の状態にある。関係がないんだけどそういう関係があるっていう風に言えますと。
36:05
なるほど、わかるわかる。関係がないがあるってことだね。
さっき実際の時に言うとね。
次は先行無で、これはいわゆる因果みたいな話で、あるものが生じる前にあるものがないっていう話なんだけど、
例えば雷がピカッて光った時に、基本その後に音がゴロゴロゴロってなるじゃないですか。
だから雷が光る前に雷の音が鳴らないんですよね。
という意味で先行無、先行するものがないっていう無があるっていう風に言いますと。
なるほど、なるほど。
次が破壊無で、これは後だね。因果の「が」の方で、何かが壊れるとか消滅した後にはもうないみたいな感じで、
例えばお皿ってのがあった時に、それが割れちゃったらお皿じゃなくなる。
お皿の本質とか本性があったとしたら、それが割れちゃうみたいなイメージかな。
はいはい、お皿として使えないしね、みたいなね。
そうそうそう。
で破壊無っていうのがあって、後は後後無っていうのがあって、これは後後、互い。
順番にみたいな話ね。
順番にの後後って話。これはイメージしやすいと思う。
あるものは別のものじゃないっていう意味で、例えば馬は牛じゃないとか、牛は豚じゃないみたいな感じで、
牛には馬ではないっていう後後無があるみたいなことが言えるんだよね。
はいはい、これとさっきの風と色?風は色ではない。
ちょっと違うのか。
そう、関係無は属性みたいな話なんだよね。あるものが属性を持つ、例えば赤い皿とか白い皿っていくつかあるけど、
赤い皿は白い皿ではないっていうのは後後無なんだよね。
うんうん。
例えば皿が、なんだろうな、わからないけど、例えば勝手に熱を持つことがないみたいなことは関係無。
熱っていう属性を皿は勝手には獲得しないっていうイメージだね。
あ~。
やっぱり難しいね、こういう話になってくるとね。
そうだよね。ちょっと今日はね、あんまり深掘りしなくていいかなと思うので。
はいはいはい。
一応こういう、なんだ、そもそも無があるっていう実在論的な中で考えた時に、じゃあある無っていうのはなんだっていう風にするとこの5つがあって、
かつさらにここから進んでいくんだけど、
さらにね。
今日はそこまでは言わないんですけど、リーダー・テスター的には、じゃあこの無っていうのは認識対象になりますかとか。
39:04
え~、なってんじゃん。
試行することはできるじゃない、例えばじゃあそうやって見ることができるのかとか、どこまで人間の本質として捉えられるのかみたいな議論が生まれたりするんだよね。
この認識ってあれ、でもこれインド哲学の話かな、これは。
インド哲学。
仏教じゃなくて。認識ってなんだ、インド哲学における認識ってなんだ、みたいな話になってくるってことだね。
そうそうそうそう。
人が無を認識するとは何か、だってないものなんだから、みたいな話が出てきて、それをどう秩序立てるかとか、ロジック立てるかとかっていう議論をしていくんだよね。
なるほど、だってこの認識対象になるかみたいな話をされちゃうと、そもそもだよね、今回その実在論的に理解した上で話をしようねって言ってた、そこが覆されちゃうってことだよね。
その可能性もあるってこと。
理論もあるよってことか。
そうそうそうそう。
なので、無みたいな、一言で言ったら、もうなんかない、だからもうないもんはないんだみたいなふうに言いたくなるようなものでも、こういうふうに議論するって意味では、
インドって言ったら、進んでいるというか、いろんな思考を積み重ねてきたとも言えるし、それがある種、抽象的なね、その無とは何かみたいな、いわゆる形状学的なものじゃなくて、
さっき言った牛と馬は違うよねとか、お皿が壊れたらもうお皿じゃないよねみたいな、そういう現実的なレベルでも取り扱ってるっていう意味ではすごい特徴的だなと思います。
そっか、いやーここも面白いね。なんか無とかってどうしても仏教の空の話聞いてるから、そこと繋げたくなるんだけれども、
やっぱこの無が実在論的に扱ってる時点で、仏教における空とはもう全然概念が違いそうな感じがするよね。
まさに、さらに、仏教とか空はまさに有為迷路なんだよね。本質がない。全部名付けだ。
名付けすら空だからないみたいなことが極地なので、有為迷路の。
なるほど。
インドはブラフマンだから、あるもの、ブラフマンという実体から全てのものが出てくるって話だから、無が入り込む隙間がないんだよね。
そこからスタートして、アートマンっていう個別があって、でも結局そのアートマンというものを規定すると、ブラフマンですらアートマンだよね。
本が一二を入ってもあるみたいな、でもそれは全部あるみたいな感じなんだよね。
そう、ある。
だから、存在しないものもブラフマンとかアートマンに還元できるって意味では、あるっていう世界観の中で語らなきゃいけないみたいな。
42:00
そういう思考の根っこがどこにあるかによって、やっぱり全然議論が違ってくる。
面白いね。でもそのインド鉄箱の中でも、どういう無というのは認識対象になるんですかね、みたいな議論もされてるっていう。
常に自分を疑うようなベクトルをはたいてるんだね、その内部でね。
今までさらっと5つだけど、当然5つになるまでにはいろんな議論があって。
本当に関係無と交互無って本当に違うのか一緒なのかみたいな議論とかももちろんあっただろうし、
違うって誰が決めたんだみたいな話とか、みたいな感じでね。
いろんな人たちがいろんなことを本当に難しく考えた結果、僕らは学ばせいただいてるっていう、そういう感じですね。
たしかにそれ鉄裸情だとさ、いろんな鉄箱を今んとこ行ったり来たりしてるけど、これ確かにインド鉄箱だけやって、本当に一生かかっても終わんないね。
終わんない、終わんない。
深みを感じるよ、これ。深みなのか怖さなのか、もう分かんないけど。
もちろん今日僕がお話ししてるのも本当に上辺の上辺だけだし、それを本気でやろうとしたら一生かかるもの。
一生かかっても終わんないものだよね、本当に。
そうよね、未来未来と何千年もかけてみたいな話だろうしね。
そうなんですよ。
あくまで無が5つあるんだってよっていう話ね、あくまでね、今回はね。
今のところはね。
もしかしてソルティスラジオも10年目とかやったらそういう話もしてるかもしれないけど、じゃあ今日は関係無いについてお話しますみたいな。
そのあたりだったらもう、さすがに専門家呼ぼう。専門家の方に話してもらおう。
みたいな感じで、今日はインドっていただく恒例話みたいな感じで、仏教というか、シャモンみたいな人たちの活躍した時代の話と、無っていう話をちょっとしました。
どっちもね、あんまりこう、やっぱり本来で取り上げなかったこともあるし、それだけ話すとあんまり面白くないっていうか、
繋がりが弱かったりとか、別にこういう際にはすごいドラマティックなことはなかったりするんだけど、やっぱりこうやって普段考えないとかスポットライトが当たらないところだからこそ面白いみたいなこともあるのかなと思ってまして。
はいはい、なるほどね。今回の流れを中でこれ言っちゃうと、あまりにも脱線じゃないけど、前提条件としての話が長くなっちゃうみたいな感じで。
そうなんだよね。
まあ私そうだよね、今回このインド鉄博終わった後の仏教との接続の話だもんね、前半の話としてもね。今回のインド鉄博とはちょっと後の話になっちゃうもんね、しかもね。
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そうそうそう、だからさ、途中で19世紀のインド、インドワーク社とかって飛んだけど、その間に政党の流れとしてはこういう社盟の人たちがいて、ジャイナ教があって、ジャイナ教のことを理解しないと仏教が理解できないからとかってなっちゃうと、さすがにね、僕もなんだ、しんどくなるし、聞いてる方もしんどくなると思うので。
みたいな感じで、でもこういう話でもね、時々なんかできるような面白いなと僕自身も話しながら思ってたんですけど。
そうね、確かにこれ第1回でされたらもう嫌になっちゃうかも。
そうそうそう、というような感じで今日は話しましたと。
冒頭でもね、さっきとおり次回からね、また改めてサルトルしっかりやっていこうと思うんですけど、サルトルの話のタイトルにある存在と無っていうタイトルがあるんですけど、この無も全然違う無なんですよね。
あ、そうなんだ。
僕らが思っている無とも全然違うし、サルトルがサルトルの思想をやっぱり展開していくときにある種作り上げた無だから。
そうなんだね、なんかさらに脱線しちゃうかもしれないけどさ、さっきさらっと有為名論と実在論っていうのをさらっと言ったけどさ、その言葉自体はどっちの感覚なの?東洋・西洋。
そうそう、有為名論とか実在論っていうのは別に東洋・西洋関係ない概念なの。
西洋っぽい概念これは。
あ、そうなんだ。
だから空は有為名論だよねっていうのは西洋的な感覚から見た言い方。
はいはいはいはい。
うん、です。
サルトルはどっちなの?
サルトルはね、実在論に近いのかな。でもね、結構面白いんですよ。サルトル自体もやっぱりそれ前の哲学とか思想を乗り越えるっていう感覚、もっと言うとデカルトを乗り越えるっていう感覚でやってるから。
あ、そうなんだ。
そう。それはね、ぜひまた次回以降しっかりとお伝えしていきたいなって思ってますので。
そうはね、ほんといろんなムとかアルを話していくって感じだね。
そうね。ちょっとね、アカランジョンもそういうテーマになったので、ちょっと面白いかなと思って。
分かりました。
はい。
じゃあそうだね、次回またのびのびね、行く行くって言ってね、西洋に行ってないけども、ついにちゃんと西洋行きますんで、じゃあ次回もお楽しみにしてくださいと言って、こういう出来続きよろしくお願いします。
はい、お願いいたします。ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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