1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #271 業(カルマ)から解放さ..
2024-12-01 44:39

#271 業(カルマ)から解放されよ!ウパニシャッド的な輪廻転生と解脱への道

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回ヤージア・バルティアということで、ウパニシャッドでも最大の哲学者みたいな人というところでやってきたんですけれども、
あれでもね、ブラフワンとアート漫画一つだみたいなところから、
全部アート漫画みたいなことを言い出したっていう話だったよね。
そうですね、はい。
すべてがアート漫画だって言って、
それを理解すると意識っていうものの働きすらなくなって、
すべては一つになるみたいな、
言葉はわかるけど意味がわからんみたいな感じだと思うんですけど。
うん、そうだね。
でもね、ある種ベイダーの神話的なものを乗り越えて、
ある種哲学的な世界観というものを作った人だというのは、
全くお伝えできたんじゃないかなというふうに思っておりましたよ。
確かに、全部空想の話じゃなくて、
ちゃんと目に見える、現実側からスタートしたのに、
結局こっちに行っちゃったよねみたいな、そんな感じだったもんね。
そうですね、はい。
今回はそういう世界観というか、
すべてはアート漫画だっていうところで、
結構前回いろんな問題が出てきちゃうんだよねって話をしたと思うんですよね。
うん。
例えば死んだ後ってどうなるのみたいなときに、
これまでは死者の国に行って楽しく面白く過ごすんだって話をしたんだけど、
なんかそれって本当?みたいなことになっちゃって、
そこから仏教とかでもある種、皆さん聞いたことあると思うんですけど、
カルマ豪、豪が深いとかの豪みたいな話とか、
またリンネとか下脱とかね、
そういうふうな発想がウパリンシャットの時から出てるんですよね。
ふんふんふんふん。
なので、こういう発想がなんで生まれたのかっていうところを、
今回お伝えしていきたいなというふうに思っておりますよ。
はいはいはい。
これがベイダーでなんとなくあったかもしれないけれども、
ちゃんと出てきたのがウパリンシャットの人たちみたいな、そんな感じなのかな。
ウパリンシャットって広げると、下脱に関してはいろんな説というか、
ものがあるらしいんですけど、
全てはアートマンだって言った上で、
人間観を語る中で、下脱っていうものが必要だとか、
むしろそれが大事なんだっていうふうに強調したのが、
このヤージャーヴァルキアさんなんですよね。
そっか、輪廻みたいな概念があったとしても、
03:02
下脱っていうのはなかったのか、ゴーとかカルマの提案とか。
そうなかったりとか、それがちゃんと結びついて与えるってことは、
例えば、人は下脱を目指すんだとかっていうのは分かりあったとしても、
それなんでなのとか、
それってどういうふうにアートマンとかブラフマンという概念と結びついてるの?
ちゃんと言ったのが、このヤージャーヴァルキアさんであろうみたいな。
なるほど、そっかそっか。
そういう感じなんだよね。
夜に爪切るなとかさ。
おばあちゃんの知恵袋って。
朝の蜘蛛をアップロードしちゃいけないみたいな。
あと会ったときに、そういういろいろあるんだけど、
それを全部つなげたみたいなね。
一つの思想体系に全部つなげたみたいな感じだね。
そうですそうです。しかもなぜならっていうのを、
ちゃんとつなげてあげたっていう感じかな。
なんかあるんだろうけど、大元はわからなかったりするじゃん。
その方を今日伝えていくんですけれども、
分かりやすく言うと、さっき言った通り人間感で、
もっと言うと、人って死ぬとどうなるの?っていう話なんだよね。
で、ある種そういうのを考えるときに、
例えば、生まれ変わりみたいなもの自体を、
インドの世界観としてはあるから、
死んだらこうなるんだったら、
生きてる間にこうしなきゃねとか、
こういうふうに生きるのが正解だよねみたいな、
そういうことが結構セットで出てくるんですよね。
で、例えば前にお伝えしたシャンデリアさんっていたと思うんですけど、
結構初期の方で、ブラッフマンを重視しましょうっていうふうな人?
と思うんですけど、
シャンデリアさんの時代って、
イアージア・バルキアさんからすると、
100年とか200年前くらいで、結構前ではあるんですけど、
その時代って、
思いとか願いみたいな、
これを意向、意欲の意に向かう、
意向って言葉があると思うんですけど、
それをすごく重視してたんですよね。
要は、
当時ってまだベイドの神話的な世界観も残ってるんで、
例えば神様に願えばそれが叶うとか、
別に何か強く思えば叶うっていう世界観なので、
例えば死ぬ時にも、
死んだ後に楽しく過ごしたいんですとか、
いい国に生まれ変わらせてくださいって、
本気でその瞬間だけ願えば、
それでOKっていうふうなのが、
当時の常識っていうか、
知観だったらしいんですよね。
ある意味、一つの呪文だったり儀式みたいな、
死の瞬間にそういうことをすれば叶うみたいな、
一つの形式だったってことだよね。
そうです、そうです。
06:01
そうなると、逆に言うと、
生きてる間はどうなんだと、
別に生きてる間にいいことをしようが、
悪いことをしようが、
死ぬ瞬間だけ願えばOKってなると、
倫理の何もないじゃないですか、
そうなっちゃうと。
ある意味不平等というかね、ある意味ね。
そうそうそう。
なので、やっぱりそういうのに対して、
本当にそうなのとか、
それでいいんだっけって思うような流れっていうのは、
ある中で、
当時のペアジナ・ヴァルキアさんは、
全然新しいことを言い出すんですよね。
どういうことかっていうと、
アートマンってあるじゃないですか、
人間の奥底に。
アートマン。
これは、いわゆる全ての属性とかも超えちゃってるんで、
アートマンが良いとか悪いとかじゃないんですけど、
人間の行為、
そろそろ良い行いとか悪い行いとかってあったときに、
アートマンになんとなく、
善性、良い感じとか、
あるいは悪い感じ、悪性みたいなものが、
なんとなく付きまとうんだってことを考えだすんだよね。
アートマンが良くなったり悪くなったりはしないのよ。
なぜなら、もうそういう概念を超えてるから。
アートマン自体はね。
アートマン自体は。
でもそこに良さみたいなのがまとわりついてきて、
そういうふうに良い行為をすると、
その人はより善人になっていくし、
悪い行為をすると悪人になっていくんだって、
そういうことを考えだすんだよね。
はいはいはい、なるほど。
これは何かっていうと、
さっきシャンデリアさんは、
願いとか思いっていう意向を大事にしたって言ったじゃないですか。
でもアージアブルキアさんは、
先にある行為だよね。
そういうふうに願って、
熱心にお願いをするとか、
言葉に唱えて出すとか、
お祈りをするとかね。
あるいは、
逆に自分だけが良ければいいと思って、
誰かを傷つけるとかってしたときに、
そういう行為自体が、
自分を結局良くしたり悪くしたりするんだって、
そういうふうな関係っていうものを考えだすんだよね。
なるほど。
これがピントが来てる方もいるかもなんですけれども、
後のようになると、いわゆるカルマとか業っていうふうに、
要は因果応報じゃないけど、
自分のしたことの結果を、
自分が引き受けるっていうふうな考え方になるんですよ。
はいはい、なるほどね。
そのパラメータはどんどん変わっていくよということだね。
09:01
そうそうそうそう。
これ面白いのが、行為だけだったらさ、
いわゆるやらない善よりやる偽善か。
要は思ってもやらないからやったら、
別に有名な人とかでもいいから寄付するのがいいよねとか、
っていう言葉もあるじゃないですか。
っていうふうに、
行為が大事ってもちろんそうなんだけれども、
ヤウジナバルキアさんが面白いのは、
さっき言った意向、願いとか思うとかっていう、
その根本は、実は欲望とか欲求ってものがあるんだってことも考えるんだよね。
つまり、大元に欲求って種みたいなものがあって、
それが芽が出ると、
行こうっていう願いとか思いみたいなものが出てきて、
それが必ず咲くと行為とか構造になるみたいな、
それ三段階を考えますと。
イメージわかるの?この三段階。
さっきの偽善の話で言うと、
何かの欲望があって、
有名になりたいでもいいし、埋められたいでもいいけど、
そのときの具体的な策として、
寄付すっか、みたいな。
それが意向で、
最終的な行為として、
実際にそれを行うっていう、
その三段階があるってことを持ってやる。
そうです。
そういうときに、
リアルジア・バイオキュアさんは、
その欲望っていうものもめちゃめちゃ大事にするんだよね。
行為だけじゃなくて、
その行為がどういう欲求とか欲望から行われますかっていうことも重視する。
それまでの行こうっていう世界、
行こうが大事だっていう世界から、
ちょっと三段階になって、
それぞれに価値というか、
意味付けが出てきたっていうのが進んだことなんですよ。
ここでは構造的な話なんだけど、
ここからは前提の人間観というか、
世界観の中でリアルジア・バイオキュアさんが何を考えるかっていうと、
人が死ぬときって、
肉体とかはある種滅びるんだけど、
アートマンは残るみたいな話ちょっと前回したと思うんですよ。
それがある種、
来世に行くときの主体だって話なんだけど、
そこにこの善悪のパラメーターが引き継がれるんですってことを考えだすんですよね。
へー、そっか、それは滅びないというか、戻らない。
そう、滅びない。
だからアートマンは純粋無垢に残るんじゃなくて、
良い行いをしたら良いというものがまとわりついて引き継がれていって、
12:04
それによって生まれ変わるときに善人か悪人かが決まるみたいな、
そういうことが考えられて、
それがつまり後の世のリンネというか、
この世界に生まれ直すんですっていうことになっていきます。
この引き継がれるパラメーター、これのことをざっくりカルマって呼ぶんだよね。
へー、わかりやすいね。
そうそうそうそう。
すごいシンプルに言うと、
今の世の中で良いことをしとくと来世で良い結果になるし、
悪いことをすると悪い結果になるよっていうふうな本当にシンプルな話を、
このアートマンとか、
そういう欲望、意向、行為みたいなところと下付けて考え出すんだよね。
なるほど。
そうするとさっき言ったような、
生きてる間はどうでもいいのかみたいな話ではなくなってきて、
ちゃんと死ぬときにそういうふうなことが起こるんだったら、
我々どんなふうに生きてればいいんだっけっていうことが、
またさらに問題になっていくみたいな感じなんだよね。
あー、そうだね。
なんでだろうね、
豪雨みたいな概念がある前は、
死ぬときに願えばいいみたいだと、
やっぱりモラル崩壊するのかな。
そうなんだろうね。
悪いことしたもん勝ちみたいなね。
そうそうそうそう。
なんかやっぱり不平等、まさにアイキー言ってるけど不平等だみたいな。
ちゃんとしてる人からするとね。
そうそう、ちゃんとしてる人からするとね。
ある種、死ぬときに願えばみんな救えるって意味では平等かもしれないけど、
でもやっぱりね、生きてる間にそんな、
あんなひどいことしたやつがみたいな気持ちはあったんじゃないかな。
なんかこのヤージニアバルキアさんは、
語法っていうのも、なんで作ったみたいなのって残ってんのかな。
なんでっていう意図みたいのはないんだよね。
そもそもそういうもんだっていう話になっちゃった。
ただやっぱりこの考え方っていうのは、
アートマンでも捉えたときに、
現実世界を見ると、
それこそバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュドラ、
あるいは人間が動物とかってのがあったときに、
なんで同じアートマンなのに違いがあるんだろう、
っていうようなことが問題になるわけなんだよね。
なるほど。
誰かに聞かれるかもしれないね。
そうそうそう。
なんでですか、先生と。
全てがアートマンで同じ、区別がないとするなら、
15:00
なんでこの世にはこんな区別があるんですか。
なるじゃないですか。
あの意思と私は同じなんですか。
なんでですかみたいな話が答えようとすると、
確かに出てきてもおかしくない感じがするね。
そういうふうな中で、
実際当時のインド人たちとかは、
リンネとかについて考えたときに、
いわゆるいいことをした人っていうのが、
バラモン、クシャトリアかヴァイシャのいずれかに生まれ変わって、
そうじゃない人は動物とか、
回収が低い人に生まれるんだみたいな、
結構そういうことを考えたらしいんですよね。
どっちが先なんだろうね。
今回のゴーの話と。
結構そこは、そういうふうな考えがあったから、
多分それを説明するためのゴーとか、
いわゆる良いことをすると良い人に生まれるみたいな、
そういう説明が求められててもあったんじゃないかと思うんだよね。
もしかすると、ベイダーか知らないけど、
おばあちゃんの知恵袋的な感じで、
あんたそんな悪いことをしてると、
突に動物になっちゃうよみたいな、
そういうのがあったかもしれない。
そこにちゃんと理論的であれだけれども、
思想的な説明がつくようなことを考えてる。
面白いというか、ちょっと説明が必要なのが、
いわゆるゴーとかカルマって、
それだけでちょっと悪いものみたいなイメージってない?
パラメータって言われると、
どっちに触れるかわからないから、
割とフラットについてたけど。
なるほどね。
結構ゴーが深いみたいな言葉で、
日常的には使えるから、
悪いイメージもあるかなと。
そういう意味ではそうだね。
今、兄貴が話してくれた通りで、
ゴーとかカルマしたやつに、
良いとか悪いっていうのはないんですよね。
もともとはそうなんだ。
純粋にパラメータだから、
善と悪。
数直線上で-100まであったときに、
あれはどこに当たりますかっていうのはだけなので、
ゴー自体が悪いわけじゃないですよ。
もっと言うと、別にこれって運命みたいに、
ゴーを背負うとかっていうと、
運命的なものっぽく感じるんだけど、
あくまでも自分の行為の結果が、
頭にくっつくっていう。
自分って言っても、前世の自分なんで、
そんな言われても困りますって感じではあるんだけど、
逆に言うと、
これはね、来世信じてる人、信じない人、
別にどちらでもいいんだけれども、
18:01
そういう世界があったときに、
そこに対しては、自分の努力とか頑張りで変えれるよっていう話でもあるんだよね。
うん。
これっていわゆる、
仏教的な修行をするとか、
苦行をするとか、
出家をして、より良い世界を目指すっていうところの、
根拠になってる話なんだよね。
なるほど。
自分の手で変えれますよと。
なので、そういうふうに、
よく生まれたいとか、
来世ではバラモンに生まれたいですって思う人がいたら、
それだけの行いを今やればいいじゃないかと。
そういうふうな感じで、
そこに対する説得力って出てくるんだよね。
そう、なので、
そういうふうなことを考えると、
さっき欲望、意向、行為っていう3つの話をしたと思うんだけれども、
やっぱりその行為を変えたいと思えば、
欲望を変えて、
例えば良いことをしたいとか、
良いことをすることは自分が好きだっていうふうに変われば、
じゃあ何か良いことを行おう。
一日一然だって言って、
実際にゴミ拾いするとか、
誰かを助けるとかでいいんだけど、
そういうことを繰り返していくと、
どんどんどんどん善になっていきますみたいな。
そこには運命とかが入り込む余地っていうのがなくて、
基本的には自分の選択とか、
自分がこうするんだみたいな、
そういう考え方なんだよね。
なるほどね。確率論じゃなくて偶然じゃなくて、
必然だって話になってるんだね。
そうそうそう。
後も変えられるよっていうね。
よくも悪くも言い訳できないよねっていうか、
やっぱり仏教って結構厳しい、
インドの修行とかって厳しいイメージあると思うんですけど、
それはこういうふうな発想から来てるんだよね。
はいはいはい。
で、こっからがね、
今トレマーとか豪語の話をしたんですけど、
次に下達の問題を取り上げたいですと。
なぜかって言うと、
さっきさ、欲望、意向、行為みたいな
3段階で話をしたと思うんですけど、
欲望にも善とか悪があるって話をしたと思うんですけど、
善・悪みたいなのも逃げてるし、
そういう時に、
全てはアートマンだって言ってるのに、
善とか悪があるって分かれてるってちょっとおかしいよねって話があるんだよね。
すごいね。
ちゃんとそこは自己批判じゃないけど、
分かって話してるんだね、それは。
そうそうそうそう。
あくまでもこれまでのは結構方便的なというか、
この世のさらきを説明するための話なんだよね。
はいはいはい。
21:02
偽脱っていうのは、あるいはこの世を超えるみたいな話をやってくるから、
またちょっと違う、僕が頑張っていきますよって話なんだけど、
そもそも、
さっき言った欲望ね、
これが人間からなくなったらどうなるんでしたっけってことを、
アジアヴァルキアさんは考えだすんですよ。
うんうんうん。
欲望があるからね、
意向とか行為が生まれるんだけど、
そもそもその欲望がなくなったらどうなるのかっていうと、
実際こんな風に書いてるらしいんだけど、
欲望を持たずに、
アートマンのみを欲している。
アートマンを欲すっていうのは欲かどうかっていうのはあれなんだけど、
アートマンだけを見ているというか、
意識している人っていうのは、
その時点でブラフマンそのものになってるんだと。
なんでブラフマン出てきたんだよ。
全部アートマンって言ってんのに。
アートマンイコールブラフマンだからね。
現実世界のものはアートマンなんですよね。
ブラフマンっていうのは、
究極のこの世を越えたものっていうのはあるし、
想定する時にブラフマンそのものにその人もなるんで、
そうなると今度は、
仮に死んだとしても、
人間で生まれ変わるんじゃなくて、
ブラフマンに帰っていくんだと。
これがいわゆる幻滅なんだよね。
なるほど。
そっか。
なんか寂しい気もするけどね。
自分が幸せなんだね、でも確かにね。
現世でいろんな欲望にわずらわされることなく、
あるがままの方に帰っていくと。
これはね、
まだ仏教的なところまで行ってないんで、
そっちの方が、よりバラモンとして、
真実だよねっていう風な言い方をするんだよね。
バラモンとして真実?
要は真のバラモンなら、
欲望とかに囚われて倫理を繰り返すんじゃなくて、
それを乗り越えて、ブラフマンに
同一化しなさいと。
意識とかを否定するって話だと思うんですけど、
それが現世のことに関わっていないで、
ブラフマンそのものになるっていうことが、
真のバラモンの到達ポイントなんだよってことを言うんだよね。
誰もがそうすべきとかってことは言ってなくて、
やっぱりエアジャバウキアさんもバラモンなので、
バラモンの心得としてそういうことを言ってるって感じなんだよね。
なるほど。
これが時代がまさに下って、
ブッドとかになると、
誰でも油断できるとか、
誰でもそうした方が良い、
でもそうした方が良いっていうことまで言い出すっていうのが、
24:01
ちょっと違う発想なんだよね。
なるほど。
どうして言ったかは本当に想像するしかないけれども、
なんとなくこの輪廻で徳を積んでいくと、
例えば動物からシュウドラになって、
そこからクシャトリアになって、
クシャトリアからバラモンにどんどん輪廻していったときに、
バラモンもさらに上ってどこだろうねっていうときの
最終到達点みたいな感覚なのかな。
そういう感じだよね、確かにね。
あとはバラモンがちゃんとその仕事を全うする、
ちゃんとその仕事を全うする、
ちゃんとやるって考えたときの
バラモンの倫理観とかバラモンのモーラルっていうのは、
そういうのがあるとバラモンの腐敗じゃないけどね、
その防げるみたいな、
そういうのもあったのかもしれないねっていうのは、
勝手に想像刺さるね。
刺さるって方言だけど。
今でもね、そう。
バウスしてしまうっていう感じだね。
本当にその通りで、やっぱりこう、
仮に言うとバラモンって得を積んでる人とか、
周りにチヤホヤされてる人がいたとしても、
良いとか悪いとか、そういうふうな世界観で生きてる時点で、
それは次の、
ビンネの原因になってるんです。
要はアートマンとくっついちゃうと、
次、善人か悪人かわからないけど、
とりあえず生まれ直しちゃうっていうふうな
結果を生んじゃうじゃないですか。
なので、
やっぱり流れを断ち切るというか、
越えるっていうところが、
このエアージャーバルキュアの考え方からすると、
より高い生き方になっていくんだよね。
そういう意味で言うと、
そもそも欲望をなくしていきましょうとか、
欲望というものにとらわれない生き方をしていきましょう、
というふうになっていくんだけど、
当然、現実を考えた時に、
ゼロにはできないじゃないですか。
そもそも生きるっていう欲望がなかったら、
それこそそのまま死んじゃうって感じになっちゃうんで。
現実的にはできる限り静かに過ごして、
心身を整えたりとか、
あとは願い事とかを少なくして、
とにかく淡々と生きる。
そういうことが、
バラモンとしての理想の姿なんだよ、
そういうことを言い出すんだよね。
ここまで来ると、
仏教的な欲望を抑えましょうとか、
欲望っていうのは執着ですよ、
そういう発想に近づいてくるんだけどね。
ここまで来ると、
人生観とか人間観がガラッと変わってるっていうのも、
なんとなくイメージ湧くと思うんですけど、
それまでは素朴に生きて、
27:02
面白おかしく楽しく生きて、
また生まれなおして死者の国でも楽しく生きよう、
っていうような生き方だったわけなんだよね。
楽観的だったものが、
下達こと最高っていう、
今度はゲームが始まっちゃいますと。
いやー、一気に仏教っぽくなったね。
人生は苦であるみたいな。
そうそうそうそう。
これが遠征観というか、
この世は儚いみたいな感じになってくるんだけど、
これもあるし、
そもそも当時からそういうふうな発想だったり、
観覚があって、
定価されてる世界だから、
自分は、
低い生まれとしたら、
一生低いままだみたいな、
ものがあったときに、
やっぱりそれって何やってもダメだとか、
変わらないみたいな、
そういう諦めにも繋がっちゃってると思うんですよね。
たとえば戦国時代みたいな感じでさ、
戦いに明け暮れてとか、
もし感じだったとしたら、
余計そうだよね。
何のために生きてるの?みたいなのが、
思っちゃうよね。
そういうときに、逆に言うとこの、
ラージナブル教の思想って、
それを来世では変えられるかもしれないっていう思想にもなっていくんだよね。
まあそうだね。確かに遠征観だけじゃなくて、
チャレンジはできるっていうね。
これがね、来世に希望を持つのはいいかどうかってのがあるんだけれども、
そういう人はもうやっぱり、
苦しい、現世嫌だとか、
楽観的って言われても楽観的だから慣れねえよ、
みたいな話をする人たちからすると、
それはある種の救いだと思うんだよね。
そういうときに、下脱こそが、
最高ゲームとか始まったときに、
そこに参加しようと思うと、
そこから、いわゆる行為としての、
出家とか修行とか、
属性権を捨てて、そういう放浪の旅に出るみたいな、
そういうものが生まれてくるんだよね。
これは、さっきハヤト言ってたけど、まだ、
バラモンの人たちがメインなのかな、この段階だと。
今さ、シュドラの話とかも。
行為としてはバラモンの人たちというか、
ヤーシのバレキアが出家したっていう話が残ってるんだけど、
奥さんとかに行って、
出家してくるわみたいな話をしたっていう対話が残ってるんだけど、
出家してくるわって言って、
出家自体は当時そんなメジャーではないというか、
30:00
修行をするとかってことは当時あったみたいなんだけど、
世間から離れるっていう発想は、
ヤーシのバレキアは独特な考え方らしいんだよね。
オリジナルだからね。
そこまで落ち着いてるよっていう。
それはなぜかっていうと、
かなり仏教っぽいんだけど、
子どもへの愛情とか、家族との繋がりとかっていうのも欲望だと。
そういうのを超えるためには、
世間とかから離れなきゃいけない。
だからこそ、下達をしたいとか、
アートマンのことをもっと知りたいっていう風なことなんだけど、
それをやるためには、
原生の繋がりを知らなきゃいけない。
っていう風な発想にどんどん繋がっていくみたいなんだよね。
やばい奴だな。
やばい奴だよね、当時。
下達とかっていう発想も、
そこってない中でさ、
俺は自分の辿り着いた真理に基づいて、
妻を捨てますとかって言ってるわけ、やってるわけだからさ。
そうしないとより深く理解できないみたいなことを、
単純に考えてやっちゃったんだよね。
そう、そう。
だから結構ね、
ファンキーだなと思う、やっぱりこういう人たちは。
こういう何らかの思想の源流の人って、
やっぱりロックだよね。
はいはい。
実際、ちょっとこれ余談なんだけど、
マイトレイだったかなっていう奥さんがいて、
マイトレイだったかなっていう奥さんがいて、
マイトレイだったかなっていう奥さんがいて、
その人との対話の場面ってのもかなり詳細に残ってるんだけど、
その人との対話の場面ってのもかなり詳細に残ってるんだけど、
その人との対話の場面ってのもかなり詳細に残ってるんだけど、
その中で、
当時の犬の人って、
不死になるとか、死なないっていうこと?
要は生まれ変わって楽しく生きていくっていうのが当然、
中流な考え方なんだけど、
ちょっとごめんなさい、違ってたら申し訳ないんだけど、
ヤーシャ・ヴェルキアさんの方は奥さんに対して、
不死とかもないんだ、人間にとっては。
不死とかもないんだ、人間にとっては。
アートマンは滅べないかもしれないけど、
人間そのもの個々っていうのは、
そもそも存在もしてないし、
死なないってこともないんだよって言っちゃうらしいよね。
そういう時に奥さんがゼックして、
そういう時に奥さんがゼックして、
もうちょっと考えられない、追いつけないみたいな、
信じられないみたいなことを言って、
振り乱すみたいな場面があるらしくて。
振り乱すみたいな場面があるらしくて。
でもそのぐらい、当時の常識がずれていることに
ヤーシャ・ヴェルキアは言うんだけど、
そこになんとか食らいつこうとしている奥さんみたいな。
33:02
ああ、そうなんだ。
この人わからんわじゃなくて、
ちゃんと理解しようとはしてる。
なんでそんなことをするのかっていうのを、
ちゃんと話してみたいなことをやってる場面があるんだよね。
なんでそんなことをするのかっていうのを、
ちゃんと話してみたいなことをやってる場面があるんだよね。
ある種その夫婦の対話じゃないけれども、
人類最古では言わないけどね。
残ってんのそれが。
ヤーシャ・ヴェルキアさんっていうのは、
その後は哲学的に考えたっていうだけじゃなくて、
実践を通じて、
自分が問い付いたアートマン、
全てはアートマンだっていうことを、
本当の意味で理解する、証明するっていうことをやろうとした
実践家でもあるんだよね。
それを経て、
彼が実際に下脱しましたかっていうのは、
実はわからんっていうのがあって、
ほうほうほうほう。
すごく細かくみたいなの書いてるのかもしれないんだけれども、
多分ね、当時のインド人たちからすると、
それってあんま興味がないというか、
別にヤーシャ・ヴェルキアさん個人がどうなったかって、
別に彼女どうでもいいわけなんですよね。
はいはいはいはい。
やっぱり全てはアートマンで、
その境地に至ることがブラッグマンだって、
それがある種、
じゃあなんでそうなのかとか、
どうやったらできるのかとか、
あるいはそうやってベイドの体とどう結びつくのか、
あるいは違うのか、乗り越えてるのかっていうことを、
ある種解き尽くそうとする。
それっていうのが、
ヤーシャ・ヴェルキア以降に起こった、
インドの哲学の発展っていう感じなんだよね。
まあその出家しても、
どうなったか誰も知らんみたいな感じなんじゃないの?
知らんけん。
まあ出現から離れちゃったからね。
っていう風な感じで、
ヤーシャ・ヴェルキアさんが全てはアートマンだっていうところから、
パレマ、ゴーとかゲナッツとか、
そこまで一気に、
前回言った通り、
ヤーシャ・ヴェルキアさん3人いたんじゃないかっていう説もあるぐらいだから、
本当に1人の人が一生ここまで行ったのかわからないんだけれども、
スライドフォームやパリシャットでは、
そういうことを全部、
ヤーシャ・ヴェルキアさんが考えて語ってるという風に言われてます。
っていう風な感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
ヤーシャ・ヴェルキアの直属の弟子たちみたいなのって、
いたりするのかね?
いない。
明確に言うのはなさそうなんだよな。
あればブッダみたいになってそうだもんね。
36:01
そうそう、教祖様みたいなのね。
ヤーシャ・ヴェルキア教みたいな話は多分なくて、
ただやっぱり議論した相手が、
ヤーシャ・ヴェルキアの教えをもとに、
いろんな宗派というか、
そういう考え方の、
派閥が生まれましたっていうのはあるっていう感じかな。
どういった形でかは、
この思想みたいなものはちゃんと引き継がれて、
今いるんだけれどもって話なんだね。
そこで弟子が生まれるとか、
それは分からんって話なんだよね。
分からん。
多分あんまりいないんじゃないかな。
だから、弟子を取るっていうよりは、
いろんな知識人とそれこそ、
王様の前で哲学対話会、
あ、討論会のやつ?
討論会をするよって言ったと思うんだけど、
そういうところでお互いに影響を与え合って、
どんどん発想が広がっていくみたいな。
そんな感じだったみたいなんだよね。
そっかそっか。
哲学対話みたいなのをしてたけれどもって感じか。
交流はあったけどって。
なので、やっぱりここまで来ると、
ベイダーの神様にお願いをするとか、
神様とお祭りごとをして、
繋がっていくということは、
全然違う世界観に、
インドっていう、
ベイダーからルパリシャットへという流れの中で、
やっぱりたどり着いたんだなっていうことは、
分かっていただけたんじゃないかなって思うんだよね。
なんかそうだね、ベイダー、神話の話をしてたのに、
気づいたら変わってるみたいな、世界観が。
そうそうそうそう。
それがちゃんと、
さっき弟子が云々みたいなのがあったけれども、
それもそうだし、より一般の人たち、
どこまでかわからないけどね、
バラモンの人たちにまず広がったのかもしれないけれども、
それが広まっていったってことなんだね。
そうだね、クシャトリアぐらいまで明確に広がってて、
王族とかね、
一般人に、
どうなってたかわからないんだけれども、
やっぱり時間をかけて、
そういう発想が浸透していったっていうのは間違いない。
だからこそそういう仏教とかも、
生まれて浸透していったという感じなんだよね。
そうですか、だから時代的には、
ヤージュニア・バルキアさんと
ブッダがそんなに離れてないかもみたいな話もしてたけれども、
そうですそうです。
もし一世紀ぐらい離れているとしたら、
バラモン、クシャトリアみたいなところに
ヤージュニア・バルキアが広まって、
で、なんとなくそこからじわじわと下に広がってきたところの
ブッダみたいな可能性もあるっていうのが、
39:02
実際にするとブッダというかゴータマ、
知ってあると思う、王族出身じゃないですか。
そうだね、確かにね。
やっぱり発想的にはそういうものは、
もともとというか、
馴染んでたんだと思うんだよね、やっぱり。
というところでね、
いわゆる人間の根本原理としてのアートマンというところから、
死んだらどうするか、
どう生きるべきかを踏まえて、
カルマンとかリーネとかゲザツという概念まで
ある種一気につながりましたみたいな。
そこまでは今回は教えてきたと思うんですけれども、
次回ね、とはいえいろんな話をバラバラとしちゃったし、
前も言った通り、
ブラカマンとかアートマンに関しても、
ウッダ・アラカ・アーリンさんのブラカマンとか、
ヤージュニア・バルキアとか、
アートマンが全てだみたいな考え方があるという話をしたと思うんで、
あとも含めて、
どんな風にそれが発展したり落ち着いたりするのかとか、
そもそも、
現代というわけではないんだけれども、
ウッダ・アラカ・アーリンさんとしてのブラカマンとかアートマンというものを、
どんな風に結局とらえたらいいんだっけというところの
まとめをしていきたいと思うんですけれども、
やっぱり、
どんな風に結局とらえたらいいんだっけというところの
まとめ、仕上げ的な話を
次回お伝えしていくことで、
このうっぱりんシャット会、
ブッダ・エリジンの手伝っていく会の終わりに
していこうかなと思ってますという感じですね。
はいはい、わかりました。
ちなみに、
下達とかカルマっていう感じになって、
で 苦行とか修行っていう話も出てきたっていう話があったけれども
今回その修行論みたいな 苦行の作法みたいなもの
そういうのはこのイアージアヴァルキア自身が作ってたりとか 体系化してるとかってあるのかな
体系化は多分しないんじゃないかなぁ
そうなんだ じゃあこの本人もだけど そこ出家した方がいいんじゃないかとかって
本人も多分試行錯誤でいろいろやってると思うんだけど
この概念を聞いた それこそバラモンとか頭いい人たちとかが
じゃあこのカルマポイントを上げて ないし下脱をする
ちょっとそのカルマと下脱のさ ポイント上げれば下脱できるのかみたいところも分かんないから
たぶん経験でカルマポイントが上限に達したら 下脱できるようなシステムじゃないんじゃないかなとも思うんだけれども
そうねそうね むしろカルマをゼロにするって感じかな
カルマが100仮にあったときに それをどんどんどんどん減らしていってゼロにするみたいな そっちが近いね
自分のアート版からカルマっていうパラメーターそのものを 引き離す行為みたいなのがするもんね
42:08
その苦行とか修行はたぶんそれぞれがオリジナルだったりとか こうしたいんじゃないかっていうのをそれぞれでディノーンしたりとか
いやこっちの苦行よかったぜみたいな話をしながらっていう感じで それはそれで発展していったみたいな感じだろうかな
ブッダのときも苦行仲間とかいたじゃん 当時からたぶん全然流行ってるというかさ
あったんだろう?
あったあった 苦行自体はね結構その前からやったりとか
いわゆる今でいうヨガ 当時でヨガって言われるような 呼吸法とかそういう体を整えるとかもそうだし
そういうものを含めては修行ってのがあって まぁただやっぱり当時で言うと苦行で言うとそれこそ絶食するとかさ
前といってもブッダ会なんでもう何年前もだけど 日の光に体を浴びさせて体を焼くみたいなさ
やっぱそういうことをやることでその欲望を沈めるみたいな そういうものが結構当時からあったみたいだね
それはこのヤージャーバルキアの前年の後ってことだよね
前から
あったんだ なんで苦行してた?
それがね 分かればまた調べてみたいなとは思うんですけど
バラモンのMPを上げる修行なのかもしれないし マジックポイント
そうね なんでそれが流行ったのかとか広がったのか確かに
パニシャットの話だけでは分からなかったんで
ぜひこういう話として苦行の歴史があったら教えてください
脱残戒とかじゃないからね 見つかったらまたお伝えしようかなと思います
ごめんごめん 最後このヤージャーバルキアの魅力が伝わってきたから質問してしまった
ありがとうございます
そんな感じで 次回はパニシャット総仕上げまとめ編ということで
お伝えしていこうと思ってますので ぜひ楽しみにしていただけたら嬉しいなと思っております
分かりました では次回も引き続きよろしくお願いします
お願いします 今回もありがとうございました
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