正義の概念と定義
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の菅野京介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
はい、お願いします。自信持ってあれだね、身近なテーマをきっかけにと言えるようになってきました。
そうですね、今年から。
今回は正義とは何かと、いいの?とは何かって言っちゃっていいのかな?正義についての方がいいのかな?
正義についてかな。正義についてテーマとして扱っていきましょうという感じかな。
前回は他者という、もともとは存在というのから始まって、他者、他人というのから始まってという感じなんですけど、
他人とか他者というものを考えると、結局その間で、いわゆるお互い何を正しいとしているかとか、何を大事にしているかという話が結構出てくるじゃないですか。
価値観だったり、ルールだったり、どう表現していくか。
倫理とか道徳とかいろいろあると思うんですけど、やっぱり共通しているのは、結局何かの価値基準として正しさとか間違っているみたいな話が出てくるよね。
人が2人いれば、何が正しいとか、その場でどういう振る舞いをすれば正しいのかみたいなことって、ある種、つきまとわざるを得ないという感じがあると思うんですよね。
たった2人でね。
たった2人でもね。
なので、ある種、他者という抽象的な存在というのは、やっぱり他者と生きるみたいな。
そういうことを考えたときに、社会的なこととか倫理的なことというのが出てきますよね。
今回、あえて正義というちょっと重めの言葉にしたんだけれども、ちょっとこれは僕自身のテーマというか考えていることでもあって、
やっぱり一つは、今この現実の2020年の世の中を見てても、戦争とは言わないかもしれないけど紛争とか、やっぱり人と人が争う、国と国が争うということは起きているし、
やっぱりその中でね、正義とか正しさみたいなことについてちゃんと考えるみたいなのって、
いわゆる結構これもそもそも論的な話だけど、どっちの国が良い悪いとかっていうよりはそもそも正しさってなんだっけねみたいなことって、やっぱり考えていそうもないんじゃないかっていうのは結構思ってるんですよね。
もう一つには哲学的な流れでいうと、正義論っていうね、ジョン・ロールズっていう人が書いた本があるんですけど、これが1971年に出てるんだよね。
はいはい、比較的新しい。
今日もちょっと話していくんですけど、正義自体はまさにスクラテス・プロトンとかそういう古代のギリシャから一応論じられてはいるんだけれども、
ある種現代的な意味での正義とか社会的な意味での正義みたいな話っていうのは、このロールズさんのところから結構盛り上がっているテーマなんですよね。
そうなんだ。
そうそうそう。なので、結構そういうかなり現代的なテーマでもあるんで、僕らのある種、あ、それってこんなところから話が出てたんだねみたいなこととか、
あ、それって考えてなかったけど言われてみたら確かに結構問題があるかもねみたいなこととして話しやすいのかなと思ったんで、
なんかちょっとテーマとしても良かろうかというので持ってきたという感じですね。
やっぱりその流れで言うとさ、これから正義の話をしようっていうさ、ちょっと前に流行ったサンデル教授っていう人がいたじゃないですか。
うんうんうん。
ハーバードの教授だよみたいなのがあったと思うんですけど、この人もそういうロールズとかの流れのうちの一人なんだよね。
えー、そうなんだ。
あるいはそのサンデルさんのことを知るっていうだけじゃなくて、そもそも正義ってみたいな話からやっていったほうが結構負に落ちるというか、
なんでそんなことを言ってたんだっけっていうこともわかりやすいんじゃないかなと思うので。
なるほど、確かにそっか。サンデル教授も倫理とか専門だったんですか、の一部というか。
あとやっぱりね、現代的には結構正義って政治とか法律とかの文脈でやっぱり言われることが多いので、
まず抽象的に正義とか何かというよりも、例えばこういう社会においてどういう風な政治形態っていうのが正しいのかとか。
はいはいはい。
そもそもそういう、なんだろうな、社会的な正しさと何かみたいな。
うん。
そういうのが中心になるっていう話もあるし。
なるほど。
ただ単純に日常的にも、やっぱりそれって正しいの?とか、お前にやってること間違ってるみたいな話ってあるじゃないですか。
信号無視すんなよとかね、例えば。
そうね、例えばね。
でもさ、例えばアジアで子供が怪我をして、今にも息を引き取ろうと思って。
まだ言わないといけないけど、車に引かれてさ、今にも死にそうだって時に目の前に病院があってさ、信号が赤でする時に、
じゃあ守ることが正しいのかみたいな、母親としてとか父親としてみたいな。
みたいなことってすぐ言えたりするじゃない。
上天設定がね。
上天設定としてね。
だから単純にやっぱり信号を守ることが善っていうだけだとやっぱり漏れちゃう問題もあるよね。
そういう信号を守らなきゃいけないんだけど。
やっぱりその守らなきゃいけないって誰のどこから来る感覚なんだっけみたいな話とかっていうことは使えるので。
そういう合理的な話があれば、ある種心情的感情的な部分も含めて、
正義とか最差ってなんだろうねみたいなことをいろいろ話してみるのは面白いんじゃないかというようなことを思ってるって感じですね。
なるほど、興味深いね。
こんな哲学的にというかさ、ちゃんと考えたことないからね。
さっきのようにさ、この場合はみたいなレベルでは考えることはあるかもしれないけどね。
結局言いたい放題じゃんとか、人それぞれとか状況状況で正しさが違うってなったらそもそも正しさとかって必要あるんかいみたいないろんなことが出てくるので、
そういうことをゆっくり見ていきましょうって話なんですけど、
最初はあんまり正義とはみたいなことよりは、一般的にそもそも僕と兄貴が正しさとか正義ってどんなふうに思ってるのかっていうところから話してみたくて、
前回他社とかでもさ、結構ね僕と兄貴でも他社との関わり方とかさ、
違かったね。
捉え方が違うっていうのはあったと思うんだけど、
兄貴の中でさ、正義とか正しさとかって言われると、どんなものが思い浮かんだりするかね。
正しさと正義でまたちょっと違うかもしれないけど、今回のテーマが正義なので、
最近というか、早藤前から言ってたけどさ、正義と悪じゃなくてさ、正義の反対もう一つの正義みたいな話で、
それぞれが譲れない主張というか信念、信念だったり、信じるものかな、もしくは信じらされてるもの、
みたいなものな感じかな、その行動原理、その状況状況での行動原理となるものみたいな、
中傷的な言い方をすると、そういうイメージがあるかな。
最近、呪術回戦の第2期を見たんだけど、ちょっと遅れて。
見た人はちょっとあれかもしれないけど、五条先生と、
フィクションと日常の正義の違い
僕もあんまり知らないんだよね、実は、呪術回戦。
主人公の先生たちで、その先生世代で、一人五条先生っていうこっち側というか、
主人公側の最強の先生と、
その先生の同級生の呪術師で、その悪の方に行っちゃった。
そっちもめっちゃ強い動機がいたんだけど、
そこはどうしてそもそも他元を分かってしまったのかっていうのが前半スタートなんだけど、
そもそも呪いみたいなものをどうしたらなくせるのか、
こうやって呪いを払い続ける生活ってどうなの、みたいな。
見えない人は見えないから、見える人だけが命をかけて背負って、
でも助けられる方がモンキーなもんで、みたいな。
時に、そんなか弱い人間たち、見えない側の人間たちを、
いっそ皆殺しした方がいいんじゃないか。
もしくは、こうした方がいいんじゃないか、みたいな。
それぞれの正義があるわけで。
だけど、やっぱり人間を皆殺ししてもいいやって言っちゃった人間は、
やっぱり人間にとっては悪であるわけで。
すごいちょっとどうでもいいというかね。
かなりずれたけれども。
そういう対立軸が結構多いんじゃないかな。
多いというか。
最近のストーリーとかでもね。
分かる分かる。
やっぱりね、僕も正義っていう時、どっちかというと正義の味方みたいな。
フィクションとか物語の世界のイメージは強いんだよね。
アンパンマンとかってさ、バイキンマンがある種悪者で、
アンパンマンが正義なんだけど、
子供と見てると意外と、確かにバイキンマンめちゃめちゃ悪いんだよ。
すごい知理主欲で人の物とか取るし、
普通に穴とか開ける建物とかぶっ壊すし、
マジやべえなこいつって思うんだけれども、
アンパンマンはアンパンマンで、やっぱりアンパンチ一発でやっちゃうわけよね。
子供からすると、なんかちょっとアンパンマン暴力的だねみたいな。
これいいの?みたいなことを言ってて、確かにみたいな。
アンパンマンも正義の味方だけど、
めちゃめちゃバイキンマンのこと吹っ飛ばしてるよねみたいなことを思った時に、
正義ってこれでいいんだっけってことを思ったりするのよね。
そうです。確かに。
意外と上層教育に悪いんじゃないかしらみたいな。
まあ難しいよね、結局力感みたいなね。
もちろんそうじゃないお話もあるんだけれども、
だからまあっていうことを思ったりとか、
あと最近のアニメとかもそうだけれども、
やっぱり単純に悪が悪、純粋な悪みたいなもの、
2週ぐらい回ってまた増えてきたかもしれないけど、
やっぱり悪の方にも事情があるよとかさ、
ある種、悪の方もなんかこういう、
まさに愛嬌っていうような信念とか、
理想を持ってやってただけみたいな話っていうのがある時に、
やっぱり単純な正義、悪みたいな二分っていうものが、
やりづらくなっている世の中なんだなと思いますと。
だからやっぱり何かが正しいとか何かが正義っていう時に、
まさにその背後にあるものとか、
その人が寄って立つものっていうのがめちゃめちゃ重要だなと思うんだけど、
やっぱりそれを日々の日常で考えた時に、
でもそんなにずれることないじゃん。
例えば僕と兄貴の中でさ、
何が正しいっていうのはずれることってそんなにないと思ってて。
正義と信念・理想の関係
まあそうはね、確かに。
同じ日本で生まれて、同じ家族で生まれつくめると。
だからそういうことを思った時に、
やっぱりそういうフィクションとしての分かりやすい正義と悪みたいな話と、
日常における、
正しいっちゃ正しいんだけど、
もうちょっと配慮してほしかったよねみたいな、
そういう感覚。
確かに兄貴の正義と正しさってちょっと違うと思うんだけど、
そこってどういう風に結びつけるんだろうなとか、
逆にそもそも違う概念なのかなとか、
結構そういうことは考えるというか、
ちょっと正義みたいなものについて思う時に、
感覚的に思ったりするんですよね。
まあそうはね。
正義っていうのはある意味信念と置き換えても通ずる部分が今だとあるかもしれないもんね。
まあそうだね、確かに。
正って言うとやっぱり正しさイコール良いみたいになっちゃうけど、
信念って言われたらまあそれはみんなそれいろんな信念持ってるよねみたいな感じだと思うんですけど、
多分ね、皆さんもその辺の感覚でそんなにずれないんじゃないかというか、
もちろんね、自分の絶対的な正義を持っているって方もいらっしゃれば、
そもそも正義なんてないみたいなことはもちろんグラデーションはあると思うんですけど、
何が良い悪いっていうよりは、やっぱりそのぐらい正義とか正しさっていうものも、
常識的に浸透してるけど、いつか考えてみると結局なんだろうねみたいなことってやっぱりなりがちかなと思いますと。
うんうんうん。
で、せっかく今回は第1回なので、
せっかくってこれまでに起きてはあるんだけれども、
いつもね、とりあえず岩並みの哲学思想辞典がありますって結構言われてると思うんですけど、
大活躍。
あれですね、正義っていうものを引いてみましたというところから、
第1回で話をしていこうと思うんですけど、
一応ね、正義ってすごく長く書いてて、
もともと正義っていうのは、いわゆる因果応報の応報?
やられたらやり返すっていうことだっていうふうに考えられてましたっていうところから始まってるんだよね。
へー、そうなんだ。政党防衛的な。
そうそうそう、そういうこと。
これはその、いわゆるピタゴラスっていうじゃないですか、三兵法の定義とかで有名なピタゴラスって人いると思うんですけど、
彼はね、ソイテッドラジオでは取り上げてないんですけど、いわゆるギリシャ紀の哲学者というか数学者なんだよね。
彼がピタゴラス教団みたいな、そういう集団を作ってたんだけれども、
その中で、いわゆるピタゴラスが正義っていうのはまさに政党防衛とか因果応報的な、
やられたらやり返すことだっていうふうなことを主張したらしいんだよね。
でも確かに言われてみれば正義ってさ、
俺の正義はこれだって言ってさ、押し付けるみたいなのってむしろちょっと悪っぽいというか、
行き過ぎで、どっちかっていうと悪いことが起きたときにそれを打ち破るとか、
なんか良くないことが起きたときにそれを正すみたいな、
そういうふうな力だよねっていうふうにも言えそうだなと思うんだよね。
確かにそうだね。
さっきの柔術改正もちょっと読んでないけど、いわゆる歪みとか呪い?
呪いだね。
呪いがあるからそれを正すための正義としての柔術師というのが生まれてくるのであって、
そもそも呪いというのはなければ別にそんな人たちも必要ないみたいなさ。
そういう意味でいくと、やっぱりこの悪いことが起きたから正しいっていうものが生まれるんだっていうような順番っていうのは、
まあまあなんかありそうだなっていうのも思うんだよね。
確かに極論で言うとヒットラーみたいな人もさ、
ある意味、他の国からどう自分たちを国を守ろうかというか、打ち立てていこうかっていう、
正当化は絶対できないけれどもね、カウンターであるもんね、そういう周りに対するね。
だから、いわゆる正道の引き続きの中で、やっぱり政権ができたっていうのは、
やっぱり正しい正しくないだけじゃ割り切れないよねみたいな話あると思うんだよね。
そんなふうなことをピタゴラスは言ってるんですけれども、
その次に出てくるのがソクラテスなんですよ、その辞書の中でね。
あー、待ってました。
ソクラテスは逆に結構わかりやすくて、正義とは国法に従うことだっていうふうに明言してるらしいですと。
危ないぞ、なんかいきなり危なくなってる。
危ないでしょ。
そう言われちゃうと結構大人を思うと思うんですけど、
だからこそ彼は、いわゆる悪法も法ないって言って、毒を飲んで死んでいくわけなんですよね。
それが彼の正義だから。
だからそれは、なんだろうな、やっぱりちょっと行き過ぎじゃね?とか、本当?みたいなことを思うんだけど、
ある種、それがですね、もう正義とは国法に従うことだから、
それに従って死んでいくこともまた正しい行いであるっていうぐらい話になっちゃうんだよね。
まあそうね、上天設定次第では上手くいくんだなっていうね。
当時のアテネって国のあり方とかもそうだし、社会的なものもそうだと思うんだけど、
これはすごく狭い定義の定義だよね、と思いますと。
当時の民主主義というかね、本当の意味でもね、住民一人一人がみたいなことを考えると、
それに従うっていうのは、確かにみんながそれやればね、平和一流が良い方向に進むだろうっていう希望は持てるよね。
まあ、というような感じです。
アリストテレスの概念
その次にプラトンの話も出てくるんだけれども、やっぱり後のように決定的な影響を与えたという間は何といってもアリストテレスですと。
アリストテレスの話も出てくるんだけど、
すごいね、ここでもやっぱり出てくる。
アリストテレスは何でもある。
スプラトゥーン、スプラトゥーン、アリストテレスは本当に何でもあるのよ。
結局アリストテレスみたいなことはね、やっぱり皆さんというかね、結局多くの方がおっしゃるんですけれども。
何がそんなに影響を与えたんですかって話でいくと、
アリストテレスはちゃんと物事をロジカルにというか、ちゃんと定義づけて考えていくんだよね。
何が革新的だったかっていうと、
アリストテレスは正義っていうものを、ある人の個人の能力とか良さっていうのがそれぞれ人には備わっていると。
それが現れたときに、他者に関係するときに生じるものが正義なんだっていうふうに言うんだよね。
どういうことかっていうと、例えば足が速いとかっていうのは良さじゃない。
良さというか能力だと思うんだよね。
遅い人よりは速い人の方が走る能力が高いでしょうと。
例えばそれはただ、いわゆる都共創的に走ってるだけだったら別に正義とかってないんだけど、
例えば他の人を助けるために物を運ぶとか、
例えば何だろうな、あっちからこっちまで人を連れて行ってあげるっていう時に、
その足が速いっていうことは、ようなくて的な正しさとか優れた行いになっていくんだよね。
足が速い人っていうのは人を助ける正義っていうものを持っているみたいな、
そういうふうに人の良さっていうものが社会的な正義っていうものに発展していくっていうことを言ったんだよね。
なるほど。
ここにソクラテスは正義っていうのは国法に従うことだっていう、
法律に従うっていうだけの関係だったんだけども、
アリス・エリスはその個人の能力と社会的な良さっていうものを結びつけるっていう発想をここで初めてしたんだよね。
なるほど。文脈みたいなものを想定し始めたんだね。
文脈とか、あとはこと全体の関係っていうことをやっぱり結びつけますと。
まさに十字回戦もそうだけど、呪いを例えばそれが叱るんだったらやっぱり強い人の方が正義だと思うんだよね。
その世界においてはある程度。
一級とか特級とかあるからね。
序列があって。
そうそう。やっぱり強い方の方が。
逆に言うと弱いやつはやっぱりダメだみたいな世界観も出てきてしまうじゃないですか。
そうね。足でまといだって言われちゃってね。
そうなんだ。
でもそれってある意味僕らの一般的な感覚とそんなにずれてないと思うんだよね。
まあそうだよね。
優れてるものは良いっていう時にその根っこっていうのがこのアリス・デルスの発想にありますと。
へー。
要は2500年前に個人の能力というものと社会的良さというものが結びついた時に正義になるんだみたいなことをアリス・デルスがバーンと言ってるんだよね。
全部最初に言っちゃってるんだもんな。
本当に言っちゃってる。しかもだよ。それで終わんないのがすごいところで。
正義っていうのはいわゆる広い意味と狭い意味があるんだと。
広い意味で言うとさっき言ったみたいな共同体とか社会における良さなんだけど。
狭い意味で言うと正義っていうのは平等とまで繋がるんだっていう風に言うんだよね。
おー。はいはいはい。
公平さと矯正的平等
さらに平等っていうのは2つに分けられるって言うんだけど。
1つ目はこれを覇の矯正とかさ、いわゆる物事を正しくするみたいな意味の矯正するってあるじゃないですか。
うんうんうん。
意味の矯正的平等って話があって、これはいわゆる罪と罰の等しさみたいな観点で言われますと。
ふーん。
それしかでもそうなんだけれども、例えば物を盗んだ人を死刑にするのはちょっと厳しすぎるとかってあるじゃないですか。
うんうんうん。
っていう時に、じゃあ物を盗むみたいな罰に対してどんな罪か、物を盗むっていう罪に対してどんな罰を与えるのが公平ですか平等ですか社会的な正義ですかっていう風な問いが出てくるんだよね。
ほうほうほうほう。
はい。
なので、そういう風に、いわゆる社会的な正義というのを考えた時に、いわゆる公平さとか平等さっていうものが出てきますと。
はいはいはいはい。
っていうのがこの矯正的平等という話なんだよね、1つは。
うわーすごいね。
で、もう1つ平等にはあって、それがいわゆる配分的平等って言われるもので、こっちはどっちかっていうと優れたものにはその分優れた報酬を与えるべきっていう考え方ですと。
なるほど。ほうほうほうほう。
はい。つまり能力とか価値とか、いわゆるその人の発揮した貢献とか、そういうものが高い人には高いものを与えて、低いものには低いものだけを与えれば良いと。これも平等だっていう風に言ってるんだよね。
まあ確かにそうだね。不平等だと、自分の方が功績出したのに不平等だってやっぱ思っちゃうもんね。
平等さと配分的平等
思っちゃう、そうそうそう。
でも同じ平等でも全然違いは、そういう何か等しくしなきゃいけない公平性ってのもあるし、でもその公平性もみんなが同じものを得るっていう公平性とか平等性もあれば、
むしろそれが違うっていうことが正しいっていう平等性とか公平性っていうのがあるっていうことをアレルギー先生は言っています。
うわー。先生だね。すげー。
先生だね。本当にすごいと思う。
で、ちょっと話を現代に引きつけると、やっぱり配分的病っていうのが優れた人に優れた報酬っていうのは資本主義的だし、
強制的というのは、社会主義とは言わないまでも、やっぱり社会的な地位とか個人の優劣というものを超えた平等っていうのは、いわゆる指し示すると思うんだよね。
だからこんな風に、やっぱり正義とか平等っては近しい関係性にあるんだけど、平等っていうものをどう捉えるかによって、正義のあり方にも違いが出るよねみたいな。
そういう広がりっていうものをアリストテレスっていうのは、ある種含んだことをやっぱり展開性というか書き残しているわけなんだよね。
はいはい、まあそうだね。全然このアリストテレスの概念で説明できそうというかね。
できちゃう。
っていうので、アリストテレスすげえって話聞くんですけど。
だから、ここにある種正義っていうのをテーマにするだけでも、平等とか公平性とか法律とかっていろんなものが周りにくっついてくるっていうのは、ちょっと反省いただけたんじゃないかと思うんですけど。
すでにいろんな変数あるじゃんって、単純には収まらない話になってきてるよ、すでに。
そうなんですよね。やっぱりそういう意味で、それを解きほぐしていきましょうっていう感じなんだけど。
古代ギリシアから中世のキリスト教
でもここで一回、また時点の話に戻ると、ここから流れは中世のキリスト教の方に入っていくんですよ。
前取り上げた暗黒時代に入っていくと。
本当は暗黒じゃないけどねみたいな話がありつつも、やっぱりちょっと暗黒的な部分、暗黒というかね。
やっぱり発想がだいぶ神に前提になっていくので、いろいろ変わっていくんですけど。
このアリストテレスみたいな正義がどうなっていくかっていうと、これもスライドディスラジオで取り上げましたトマス・アクイナスっていう人がいたと思います。
この人はやっぱり中世のいわゆる哲学というか、そういうところではすごく重要というか有名な人なんですけど、
このトマス・アクイナスっていう人はですね、ほぼアリストテレスの議論を受け継いでいるんだけれども、
やっぱり神の前における正義というか、神と人の関係における正義っていう観点を持ち込んでいくんだよね。
これはいわゆる神の法、これは永遠法とかって言ったりするらしいんだけれども、
神様が定めた法律とか世界の法則に従う正義っていうものを考えて、それを一般的正義っていうふうに言いましたと。
一般的っていうのは要はもうそれがある種前提というか、その本体にあるみたいな話だね。
どうなるか絶対的正義ぐらいの。
絶対的正義に近いかな。
そこに対してアリストテレスっていうのは要は、いわゆる人と人の間の正義っていうものを立てたんだっていうふうな感じで、
トマス・アクイナスは要は神に対する正義と人に対する、人の間における正義という二つの観点というのを分けちゃったんだよね。
なるほどね。複雑になってきたね、どんどんね。
そうなってきた。なのでやっぱりどうしても神というものを置くと、神と人と人ってやっぱり違うレイヤーで書かなきゃいけないと。
しかも神と人のほうが絶対的な関係、まさに兄貴が言った通り究極的な方だから、そっちは大前提であるというふうな時代が続いていきますと。
さっきのソクラテスじゃないけれども、神様は絶対的なね、そこに従うのが正義だみたいな観点が出てくるって話だね。
そうですそうです。やっぱりそっちのほうが上になっていくんだけれども、そこがさらに近代とかになっていくと、やっぱり神、要はもう中世だと神イコール正義って感じするんだけど、やっぱり神と正義って別々だよねっていうふうにプレイされて始めるんだよね。
たとえばリヴァイアさんっていうもので有名なホップズって人がいると思うんですけど、彼は人間が真っさらな状態だとすると、いわゆる番人の番人に対する暴走って言われるような、自分の権利を守るために相手を傷つけたりとか、ある種暴力的になってもしょうがないみたいな、無秩序だみたいなことを言ったりするんだよね。
まさにそういう人が一人一人の人、人間個人で考えたときに殺せ殺されるみたいなものがぐちゃぐちゃになるとやばい状態になるでしょっていう話だよね。
そうなると結局そうならないようにお互いに傷つけないということを約束しましょうとか、お互いに自分の財産をここまではちゃんと守りましょうとか、それを守ってくれるならあなたの財産を守りますよみたいな、
まさにそういう相互の契約とか暗黙の了解が出てきて、それを守るということが正義だよねみたいな、そういうふうなある種ものとしての権力とか社会とか公的なもの、個人を超えた公的なものとして社会というのが出てくるんだみたいな、
そういうふうなことがいわゆる社会契約説とかと言われたりするものだけれども、そういう考え方というのが近代になって出てくるんだよね。
わー面白いね。ここに来てちょっとソクラテス感が出てくるんだね。
そうね。そこに従ってまた改めて共同体の話がやっぱり出てくる。
まあみんなで決めたんだからね。これ守んないとまた万人の逃走状態に戻ってきたでしょ。どっちがいいのあなたたちはみたいな話になってくる。
そうですそうです。まさに。
近代の正義の考え方
そうなるとアレス・デレスが言ったように、いわゆる個人の良さとか優れている足が速いとかっていうのは正義とかじゃなくて、まさにソクラテス的なやっぱり法に従うとかお互いの権利とかっていうものを犯さないみたいな、
そういういわゆる生きるために必要な手段としての正義みたいな考え方が生まれてくるんだよね。
みんなで決めたでしょっていうところ。そこを守ろうねと。
守らないんだったら何されても文句言わないよねみたいな。
そうだね。範疇外に出ちゃうからねみたいなね。恐ろしい話になるね。
やっぱりまさに権力みたいな話もまたここに出てくるんだけれども。
今ホップズみたいな話をしたけれども、同じような時代、ちょっとずれてるかもしれないけど、いわゆる近代という中では、
例えばロックとかルソーっていう人も有名人だと思うんですけど、この人たちの名前も辞書の辞典の中に出てくるんですよね。
ロックはまさにそういういわゆる生きる手段としての権利みたいなところ、正義か。
発展させて、正義っていうものと所有権とか財産の所有権とか、あるいは法律だよね。
それを結びつけて、いわゆる正義っていうものがやっぱり法律っていうものとかなり近いんだと。
まさに法の番人イコール正義の象徴みたいな感じだよね。
なるほど。
そういうものは結構ロックから出てくるし、逆にルソーっていうものは、所有するっていうことが不平等のきっかけなんだと。
人っていうものを自分で持つから、持つものと持たずあるものが出てきて不平等な世の中に出てくるので、
知理私欲っていうものから離れたところで正義っていうものは考えられればならないみたいな、そういうことを言ってるのがルソーなんですよね。
この時点で正義って言っても全然グラデーションというかさ、言ってたものとか承知のものがさまざまありますよと。
神様を除いた時の正義の作り方がだいぶ違ったんだね。
そうなんです。
話も出てくるし、これまではどっちかっていうと、正義っていうのは社会とか合理的な、いわゆる個人の契約みたいなものから生まれるよみたいな発想があったんですけど、
そういうものじゃなくて、いやいや、むしろ感情的なものから正義が生まれてくるんだっていう考え方も出てきて。
それがね、聞いたことあるかな。いわゆる公理主義っていうものでベンサムとか見るっていう人がいるんですけど、
聞いたことあるかな。いわゆる社会っていうのは構成員全体の快感とか快楽っていうのが最大化するのがいいんだみたいな発想があるんですけど。
ちょっと今と思ったらやばいやつだよね。
まあね。
と言われてるやつ。
もちろんね、いわゆる食欲とか性欲とか三大欲求だけじゃないって話もあるはするんだけど、
でもそういうのが合理的なものってよりは感情的なもので、正義っていうものを捉えましょうっていう話もあるし。
個人の最大公約する的な考え方だよね。
そうね。
国最大の幸福を追求する。
ずっと個人が置いてかれちゃって、それはそれで危ないみたいな話になってったやつ。
そうですそうです。
その話とかもちろんあるし、まさにアイキーが言ってくれたこともあるんだけども、
そのふうにやっぱり法物みたいな、お互いが闘争状態になるから契約によって正義が生まれるんだっていうことは全然違う。
個人とか社会全体の快楽みたいなもので、何だっけみたいな話から生まれてくる正義もあるので、
いずれにしても正義っていうのが、いろんなグラデーションあるんだけれども、
とはいえやっぱり、いわゆる共同体とか、まさに今回では他者だよね。
現代における正義の論点
他者とどう生きるかっていう中で、その振る舞いをある種定めるとか、
そういうものをある種みんなに対して常識として埋め付けるような、
そういう発想というものと正義というのはかなり近い働きがある。
それがある種自然に発揮される。
人間が生まれ持ったものであれ、神から与えられたものであれ、
あるいは契約をお互いに作っていくものであれ、感情的なものであるといろんな差はあるんだけれども、
結局その正義の働き方っていうのはそんなに変わらないよねっていうところが、
ある種この辞典に書かれていることというか、そこから読み取れることかなっていうふうに思うんですよね。
なるほど、はいはいはいはい。
なのでこんな歴史的な流れっていうのは踏まえてなんだけれども、
ちょっと冒頭に少し名前を挙げたロールズですね。
おかげの正義論っていうものではどんなふうな議論が展開されるのかとか、
そこに対してサンデルさんとか他の学者さんというのがどんなふうに反論をしたりとか、
議論を深めていっているのかみたいな話を経て、
これまでは結構昔の話をたどることが多かったんだけれども、
この正義というのに関してはやっぱり現在の話として見た方が面白いかなと思うので、
現代において正義という言葉がどんな論点を持っているのかとか、
どういうふうな発想から生まれているのかみたいな話をお伝えしていきながら、
一緒に理解を深めていけたらいいんじゃないかなと思っているというような感じですね。
はいはい、わー面白そうだね。だし、やっぱりこの哲学思想辞典すごいね。
はいはい、すごいでしょこれ。
買ってよかったなと思ったんだけど、めちゃめちゃ分厚い本質ですけど、すごいのよ。
なるほどね。いや、確かにその正義がピタゴラスから始まって、
バーッと来ているけれども、確かに今の感覚で、
いやでもそうだね、ソクラテスっぽいなみたいなのがさっきのホップスの時、
ちょっとマズローっぽいなというのも思ったんだけど、
ある意味ホップスが考えたのはすごく原理的なというか、
殺すと殺されるという、本当に無法地帯に人々が世に放たれた時にどうなるのだろうかということを
多分シミュレーションしていると思うんだけれども、
そうした時の在り方だよね、やっぱり生きるために、さっき入ってくれた自己保存だよね、
そのために必要な正義って何だろう、仕組みって何だろうねっていう時と、
あとその後のロックル層という時、特にロックルの時は財産だよね、
生きるのはいいとして、じゃあ財産どうしてくれるのと、
俺たち金持ち、いろいろ財産どうしてくれるのと、
そこの部分が決まっていないと盗まれちゃったりするんだけどみたいな、
それが王様に盗まれるのか、社会的に盗まれるのか、
で、ちゃんと法というもの、王様とかじゃなくて、
王様にちょうだいって言われるんじゃなくて、
ちゃんと法でみんなの財産守りましょうよとか、
ペルソは人権的なところまで、人とは何かみたいな、尊厳みたいなところまで踏み込んでるみたいな、
で、ベン様とかで感情的だね、よりよく生きるという、
幸せとは何かみたいな話がどんどんなってくるみたいな、
それぞれが正義っていう切り口で、それぞれが切られて、
お互いがどこで自分の幸せ、生きるとは何か、所有とは何か、
それぞれがどのくらい獲得しようかねっていうところのルール作りみたいな意味で、
正義というふうに、最低限のだったりとか、それより良くしていくために、
自分がね、もしくは社会がね、
そこをうまく調整するための機能としての正義みたいなね、
分配だとか、いろんな機能があるっていう話でしたけども、
そこは今までこうなってたんだな、これからロールズがどう話してくれてるんだろうな、
そこの正義の取り扱いっていうものが確かに今回で、
あんまりふわふわしたものじゃなくて、
どんぐらいふわふわしてるものなのかとか、
正義のイメージ
どんなイメージで正義っていうものが語られてきたのかっていうところが、
少しイメージできた感じがするし、
今偉そうにホップスワとかルソワとかクロックワって言ってるんだけど、
これは全部あれです、最近コテンラジオで民主主義の歴史をやってくれてて、
まさにこの辺りの話してくれてるんだよね、
なんでホップスが出てきたとか、
なのでそれをただなぞっただけなんで、
いつも話してるけど、そっちで聞いていただくと、
最近のテーマなんだよね、こっちの理解も深まるかなと思った。
まさに民主主義みたいなものと、
法律とか正義とか政治っていうものは切っても切れないし、
逆に言うと正義っていう概念自体がすごく西洋的だなとは思うんだよね。
前回も東洋的なところからいくと根拠がないみたいな話、
超越がないとかって話を雑談でしたと思うんですけど、
そういうのがなかったら正義っていうものもそもそも存在しないというか、
ある特定の集団内で良し悪しとかはあるかもしれないけれども、
人種とか国を超えた正義っていうものを考え出すっていうのはすごく西洋的というか、
やっぱり普遍的な正義というものがあるみたいな感覚が根底にあるなと思うんですよね。
だからある種、今回は正義というテーマにはするんだけど、
その前提には正義というものが良いとか、
いわゆる人類一般の正義があるとかっていうものが隠れているというか、
忍び込んでるよねっていうことはすごく気をつかなきゃいけないと思っていて、
ちょっとそういう西洋的な正義の話もするんだけれども、やっぱりそれだけじゃない。
強い正義と弱い正義
それだったら結局やっぱり、より強い正義がより弱い正義を潰すっていうしかならないから、
そういう怖さとかも含めながら感じていただけると、
あるいはそういうふうなことを感じながら話していけると、
より深まるんじゃないかなと思っている感じですね。
はいはい、いいですね。どういう話になっていくのか楽しみだね。
僕も楽しみ。まだ台本作ってないからさ。
頑張って作って。
はい、頑張って作ります。
では次回ですね、ロールズの正義論ということで深めていきたいと思いますので、
引き続き楽しんでいきたいと思います。では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。