1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #192 サンデル教授が指摘した..
2024-02-28 1:03:41

#192 サンデル教授が指摘した、ロールズ正義論の盲点

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回までロールズの正義論やそれに対する批判などを見てきたというところだったんですけれども、
今回は、あれか、サンデル教授ですかね。
そうですね。
名前は知ってる。
そうですね。名前自体はね、たぶん、なんで有名かっていうと、
2010年にこれから正義の話をしようっていう本が結構ベストセラーになって、
同じくらいのタイミングでNHKのワングに出てたんですよね。
今からすると14年前とかなので、だいぶ当時からより印象を薄れてる感じもあるかと思うんですけど、
でもね、そういうサンデルって人と正義って話があったらしいぞみたいなところは、
なんとなく覚えてるとか記憶にある人もいるんじゃないかなと思っています。
いきなりなんでサンデルさんがみたいな話なんですけど、
実はこの人自体がですね、いわゆるロールズの正義論っていうものをある種土台にしてというか、
それを徹底的に批判をして、自分の主張っていうのを結構組み立てていったというか、発信してた人なんですよね。
ある種ロールズがリベラルというか、みんなで平等に、
ある種格差というのを減らしていって平等に暮らしていこうぜみたいな、ある種正義論というのがあったのに対して、
前回はね、いわゆるリバタリアン、自由市場主義者とかって言ったりしますけど、
格差っていうのは別にあっていいんだと、要は個人の能力に対して地位とかね、
そういうお金みたいなものも全然バラつきがあっていいんだみたいな、
人たちもいたよっていう話をちょっとしたと思うんですけど、
サンデルさんはですね、これらとはまた違って、
コミュニタリアン、いわゆる共同体主義者みたいに位置づけられてるんですよね。
へー、そうなのね、はいはい。
この辺で何たらリズムとか何イズムとか何たらリアンみたいな話っていっぱいあるんですけど、
そういう結構リベラル対コミュニタリアンとかコミュニタニズムか、
そういう社会っていうのは大事なのか、共同体では大事なのかとか、
個人主義だとか、いろんなものがある中で、それぞれの立場から議論をしていく中での、
サンデルさんはその共同体というのは大事にしようみたいな人ですよと。
はいはいはい。
結構立場が大きく違うんだよね。
サンデルさんの名前ぐらいが知ってるけど、後知らないよっていう方も、
もしかしたらトロッコ問題っていうのは記憶に残ってる人もいるんじゃないかと思いますと。
03:05
これ前何かでしょって言ってたよね。
兄貴もそう言ってた。
そうだね、これを引用しただけっていうか。
これも結構、もともとはオリジナルの話はサンデルさんが作ったんじゃなくて、
フィリッパ・フットさんっていう哲学者の人がいて、
この人が1967年に論文に書いてるんだって。
そうなんだ、さらに出典みたいなのがあるわけなんだね。
そう出典とか大元があって、それをある日引いてサンデルさんも話をしてますよと。
せっかくなのでこの話からしたいなと思ってるんですけど、
トロッコ問題何かっていうと、これ前に兄貴も言ってくれたんだけど、
要は自分がトロッコに乗ってますと。
それが暴走しちゃうんだよね。
このまま行くと5人を引き殺してしまうんだけれども、
レバーを切り替えて別のレーンに行くと1人を引き殺すことになると。
道が2つに分かれてて、まっすぐ行ったら5人引き殺してしまうけど、
左や右でもいいんだけど、別のとこに行ったら1人を引き殺すことになりますよっていう話で。
この時何を選択しますかって話なんだよね。
はいはいはい。
兄貴これ考えたことある?何がいいんだみたいな。
難しいよね。
難しい。
無理ですよ。
無理?選べない?
6つって無理ですよ。
なるほどね。
この前の話もあったけどね、3人のお医者さんとうぬんみたいな。
お医者さんと2人の病気の人がいてみたいな話もあったと思うんですけどね。
意外とそういうのは起きるよと。
あ、そうそうそう。
こういうのって前提条件を覆すようなことになっちゃうことが多いと思う。
自分なりにその状況を想像すると、1人の方に切り替えつつ、何とか逃げろって。
1人だったら行けるかもしれないと。
5人でも逃げろって言われるかもしれないけど、
1人の方に切り替えて何とか逃げてもらうっていう。
これ何回も見たことがあるのは、
画像で縛られた5人が横たわってるぐらいの即興さ。
逃げられないやつね。
そうそうそう。
どっちか絶対死ねみたいなやつ。画像があった気がする。
そう思ってくると、なんだその状況って。
どんな罰ゲームだよみたいな。
趣味の悪い映画というかね。
確かにね。スプラッター焼きときになっちゃうけど。
そういう状況を操作したかなと思うし、
06:02
トロコーナーが解決したとかって言って、
前輪が真っすぐ行った瞬間にレバーを切り替えて後輪を微調整にやって、
無理やり止めるみたいな。
それで全員助かったみたいな、救われたみたいな話を投稿したのがバズったみたいな話も聞くこともあるんですけど。
あるね。
やっぱりそういうことを考えるってなると、
多分そういう状況とか前提とかを考えて何とかしようって思うと思うんだよね。
そうだね。
逆に言えばそれって問題設定から逃げてるというか、
あなたはこの状況に対して引くか引かないかどっちを選択しますかって2択しかないってなった時に、
やっぱりある種その重みというか、
突きつけられた問いっていうのはやっぱり答えにくいっていう話だと思うんだよね。
これまでの話の流れでいくと、
いわゆる5人を助けるのがいいよねみたいな話っていうのは、
効率主義的な発想に近い。
いわば兄貴みたいにその結果とかその後のことを考えたらまた別なんだけど、
単純に1人よりも5人の方が命としては重たかろうと、
いわば1人1人の命っていうのは全く同じだから、
1より5の方が多いっていうのは、
すごく純粋なというか、ちょっと極端すぎるけれども効率主義的な発想ですと。
逆に何もすべきじゃない、いわばレバーを引くべきではない。
だから5人あるし引っ殺してしまうのがしょうがないっていうのが、
それこそロールズとか、あとロールズ自体はカントに結構アイデアをもらってるらしいんだけれども、
そういう他人っていうものを他の目的のために使っちゃいけないみたいな、
他人を道具として扱うなみたいな、そういう道徳とか義務みたいな話があって。
つまり5人を助けるためにこの1人の本来なら死ななくてよかった人を殺してしまうっていうのは、
その人の命を自分の手段として使うこと、自分の目的の手段として使うってことだから、
それは道徳的な義務に反するんだみたいな。
ところからそれはレバーを引いちゃいけないよっていうふうに考える。
という意味ではこれロールズ的だよねみたいな。
そんなふうに分類されるらしいんですよね。
結局はこれってどっちの思想にもある種は限界があるというか、
レバーを引くのは効率的で、引かないのはロールズ的だとしたときに、
どっちものが別に最適じゃないよねみたいなことの例としてもともとは載ってるらしいんですよね。
09:03
これ派生系もあって実は。
これ聞いたことあるかもしれないんですけど、橋の上に立ってて、
ここから太った男性を突き落とすかどうかっていうシチュエーションがあるんですよ。
これ聞いたことあるかな?
これはあるね。
逆に今度は自分が列車の外にいて、
列車が暴走して5人を引いてしまいそうになってますと。
隣にいる太った男性を突き落とすと、
すごい酷い話なんだけど、
突き落とすと1人の犠牲で5人が絶対助かりますと。
そのぐらい太ってますと。
そういう時に、突き落としますか突き落としませんかっていう話の派生系があるんだよね。
これ状況というか結果としては一緒なんだよ。
5人を助けるか1人を助けるかみたいな。
助けるというか、まるで5人が亡くなることを選ぶか、
1人が亡くなることを選ぶかなんだけど、
最初の方で仮にレバーを引いた方がいいって思えた人でも、
2つ目の男性を突き落とすべきだって選べる人ってそんなに多くないんですよね。
殺人でもね。明らかなね。
でもさ、1個目も明らかな殺人じゃん。
レバーを引いて1人を殺せるっていう意味ではね。
選択するっていうね。
なんだけど、やっぱり確かにちょっと違うよね。
なんか手触り感というかね。
そうだね。感触が違う。
これがなんかそういう話があって、
実際その最初の状況はレバーを切り替えるっていう状況は、
しかもでも実際の行動っていうのはレバーの分岐を切り替えるっていう話で、
結果として1人亡くなるとしてもそれっていうのは結構副次的というか、
やってることと結果っていうのはちょっと離れてるんだけど、
2つ目は兄貴というか1人を突き落とすわけだから、
その行為といわゆる人が死ぬっていう結果が直結してるよね。
やっぱりいわゆる人間の行動の背景とか意図みたいなものが、
この辺りのいわゆる何が正しいかとか、
どのぐらい実際に行動に伴わせられるかみたいなことって全然違うよね。
もっと言うと結果だけ見たら5人を救うか1人を救うかっていう風に、
ある種抽象化できるんだけど、
そんな風に抽象化したりとかある種合理的に数字だけで、
やっぱり判断できる可能性なんてないんじゃねみたいな。
そういうのがサンデルさんが言おうとしたことというか、
この例を通じて問いかけようとしたことではあるっていう感じなんですよね。
12:04
なるほど、そうだよね。確かに構造、抽象化すると一緒だもんね。
あなたは5人の命と1人の命どっちを選びますか?
そうそうそうそう。
もし本当に人間合理的に選ぶんだったら、
例えば必ず5人を救う方が正しくて1人を亡くなることは犠牲はしょうがないとか、
逆にもともと死ぬ運命だった5人が亡くなる方が正しいっていう風に常に、
意思決定は変わらないはずなんだけど。
どっちかによるはずだよね。
そうそう、どっちかによるはず。
でも人間そんなことないよねっていう風な話なんですよね。
これになると神秘学とかの実験みたいな話になってくるのかな?
近くなってくると思う。実験はできないから、ある種は思考実験という感じだし。
でもなんかあれだよね。
侵略を実験で、別室にいる?
このボタンを押してくださいっていう。
押すと隣から悲鳴が聞こえるみたいな。
はいはい、あるね。あるある。
知ってる。それも似たような話だよね。
そうだね。
こうやってどんどん押してくださいって押すと、
悲鳴がどんどん隣から大きくなっていって、
どこまで押すことができるかみたいな。
鉄鋼の人は悲鳴が聞こえなくなるまで、
つまり死んだと思われるまで鉄鋼の人が押してしまったみたいなね。
そうそうそうそう。
このレバーを引くと直接落とすの違いの、
心理的な違い?
そうだね。
いつも似てるなって思い出したね。
うんうんうん。
だからやっぱ結局、嫌いなんだろうな、
言われてとか、やっぱり人から言われてて、
あれは自分の意思ではなかった?みたいな話?
の時に、まさに人は結構なんだろうな、
行動が歪みがちというか、
言い訳ができる時はやっぱりそういう行動しちゃいがちだよね。
ほうほうほう。
みたいな感じで、やっぱり人のいわゆる気持ちとか、
心みたいなものって、
正義とかっていうものと切り離すよねっていうところが、
まさにサンデルさんが主張しようとしたことで、
もうちょっとサンデルさんに寄り添って言うと、
もちろん主張しようとしたことは、
これですか?って一言言えるわけではないんだけれども、
その発想の根幹には、
いわゆる正義っていうものを考えた時に、
絶対に中立的なものとか、
いわゆるいろんな人の好感とか気持ち、
みたいなものから独立してある正義ってやっぱりなくて、
そしたら正義よりも先に、
善、良さだよね。
善悪の善、
っていうような感覚があるんじゃないかっていう発想がありますよと。
15:04
ちょっとここから実際に、
ロールズに対してどんな批判をしてたのかみたいなところから見ていきたいと思うんですけど、
これまでもお伝えしてきた通り、
ロールズさんっていう人は正義論っていう本を出しましたよ。
その中で無知のベールっていう状態を想像して、
ある種、自分がどんな人間地位かとか、
ある種、男性女性とか、
マイノリティーかそういう多数化とか全部そういうのが分からない状態で、
社会を作り上げていく。
そういう議論をする時に、
どんな結論ならお互いに承認できますかと。
そういうふうな手続きをもとに、
世の中の、例えば、
どんな契約が起こる、いわゆる法律だよね。
どんな国家だったらいいのかみたいなことを考えていって、
それこそがある種、正義であるみたいなことを話していきましょうっていうのがあったと思うんですよね。
それが前回の自由みたいな話だったりとか、
機械の平等とか、結果の平等みたいな、そういう話につながっていった。
そうです、そうです、そうです。
つまり、ロールズさんにとっては、
ある種、一人一人の人間っていうものを一旦、
白紙の状態っていうか、
ある種の個人特性とかを全部取り払って、
その最大限中立的な存在を、
どこにも所属していない、
本当に裸の人間みたいな感じで捉えた上で、
ある種、その時に誰にでも適用できる定義で、
それを作らなきゃいけないよと。
でもある種、人間の理性とか自我、心みたいなものが、
いろんな欲求とか環境からの影響とかって、
そういうのは本当にあるんだけれども、
そういうのから全部逃れて、
かつては純粋に思考できますよね、みたいな、
そういうところの思考実験から始まってるんだよね。
なるほどね、相当純粋だね。
そうそうそうそう。
いろいろな前提条件を落とした話だね。
うん、そうですそうです。
ロールズさんの時には結構それをさらっとしたんだけれども、
今言ったみたいによくよく考えると、
結構不自然だよねというか、
無知のレールっていう状態自体が、
やっぱり普通の人間じゃないよねっていうところを、
サンデルさんすごくついて、
要はこれすごく無理矢理な想定で、
現実的にはそんな風に理性とか自我だけしか持ちません、
みたいなこととか、
純粋な理性だけで議論ができる人間というのは存在しませんよね。
うんうんうん。
ということは存在しないような人間観とか、
世界観から組み上げていくことっていかがなものかね、
18:02
というところからいろんな批判をしてくるんだよね。
なるほど、はいはい。
哲学と倫理の違いって何だったんだって、
倫理学においてそういう話をすることにそもそも意味があるのか、
結構その前提を突き崩すような疑問を持ったかもしれないね、サンデル。
そうだね、そうそうそうそう。
倫理とか正義という話って、
本来ならもっと現実世界の中でどう機能するかというか、
どうなるべきかという話をするべきだし、
そうなると結局僕らが普通に物事を考えるときって、
やっぱりなんだかんだ自分が所属するコミュニティだったりとか、
あるいは社会だよね、
日本なら日本とかアメリカならアメリカでいいんだけど、
アメリカの中にもいろんなコミュニティがあるしってなったときに、
そういうもののアイデンティティであったりとか、
あとは思考の幅だよね、
っていうところの中で物事を考えるし、
あるいは何が良いとし何が悪いとするかみたいな、
やっぱりそういう善悪の判断や基準とかそういう影響があって、
それ自体がある種自我とか理性っていうのを形で作っていますよね。
そもそも自我とか理性っていうものは、
なんかそんな純粋無垢な裸みたいなものじゃなくて、
やっぱりいろんな影響とかも受けて、
切っても切り離さないものだから、
そういう環境とか、
さっき共同体主義って話しましたけど、
コミュニティとか共同体っていうものからの影響を無視して、
なんかその純粋に考えようみたいなっていうのは、
やっぱりすごく非現実的だし、
そこから出発してもいい結論には至らないよねっていうことを、
すごい細かく言っていくわけなんですよね。
なるほど、なるほど。
ロールズも大変だね、ロールズもね。
そうね、やっぱりいろんな批判をされてしまうからね。
ただ倫理という学問として捉えるには、
そこまでも抽象化が必要だったんだろうねっていうのも、
前の話を聞くとわかるよね、ロールズも。
そうだね、一方でね。
ただね、確かに倫理の現実に即してというか、
そっちに適応していくんだ。
もしくは現実を持っていることに。
考えた時にはどうしても無理が生じるって話なんだろうね。
そうだね、そうそうそう。
そこはお互いわかるって話だよね。
やっぱりどっちの人もわかるし、
あと非現実的なだけというか、学問的に例えばなんだろうな、
要は現実に適応できないよねみたいな話だけなら、
まだいいんだよって話なんだけど。
まだある。
まだある、まだある。
21:00
ハンデルさんに言わせると、
ロールズさんは無意識的に結構大きな間違いを犯してるんだ、
みたいな話を言うんだよね。
無意識的に。
無意識的に、そうそうそう。
気づいてるかと。
どういうことかっていうと、
さっきロールズの正義とか、
あるいはそこから出てくる社会とか国家、
あるいは法律みたいな大きなものがあった時に、
いわゆる純粋な人間存在が出てるから、
それも純粋な正義であって、
いわゆる中立的、
要はいろんなものから独立して、
これはもう絶対に正義だみたいな話をしますと。
だからある種誰かをエコヒーキーして、
この人はいいけどこの人は悪いみたいな、
要は多数派はいいけど少数派は悪いみたいな、
そういうふうなことはないよっていうふうな、
ある前提のもとにロールズさんは話をしてるんだよね。
本当にこれはね、
もともとロールズさんがいわゆる公立主義的な、
多数派っていうのは優遇されて、
少数派があるいは礼遇されるみたいな、
そういうことはちょっと置きかねない世の中において、
ちゃんと平等とかそういうものを大事にして、
この正義というものを作っていったっていう話ではあるんだけど、
ただね、今の言葉にもちょっと既に含んでしまってる通り、
ロールズさんの発想にはもう、
いわゆる平等こそが善だみたいな。
要は多数派が優遇されて、
少数派が礼遇されては悪いことで、
平等であるということの方が良いっていう、
そういう価値基準とか、
そういう善の意識みたいなものが入り込んじゃってるんだよね。
おー、なるほどね。
そこまで中小化したんだったら、
その平等あたりもやっとけやって。
そうそうそうそう。
だから平等っていうものの価値とか、
それが本当に良いことかっていうことも、
本当は問わなきゃいけないのに、
やっぱりその平等っていうもの、
まずそもそも全員裸の状態にして、
ある種差が全くない均一な状態にするっていうこと自体が、
一つの価値観だし、
すごく特徴的なというか、
ある種一つの立場なんだよね、それも。
確かにそうだね。
これこそが誰でも承認可能な正義だみたいに、
ロルさんは言ってるんだけど、
そんなことはない。
やっぱり平等っていうすごく強い価値観とか、
主張っていうものを前提にされてる主張だから、
それって全然中立的じゃないよねと。
非中立的で、
やっぱり一つの価値観に立脚してるだけじゃねえか、
っていうふうな話をサンデルさんはするんだよね。
こう言われちゃうときつそうだね。
なるほど。
そうそうそう。
24:00
だからこの2つを組み合わせると、
そもそも発想の起点が非現実的だし、
出てきた結論も全然中立的じゃないし、
お前の正義論はダメだ、みたいな。
それこそあなたの感想ですねっていうのを論破されたと。
感想でじゃなくて論破されたんだね、そこについて。
論破というか、そういう主張を受けることになっちゃったって話なんだよね。
もちろん後でロルさんのそこに対するさらに反論というか、
エアもまた伝えてくるんですけど。
そこはもうお互い生きてる方同士でのレートがある?
そうそうそうそう、生きてる同士だから。
ロルさんも生きてるんだってこと?
ロルさんも当時生きてる。
1980とか90年代ぐらいの話だから。
今は亡くなってる?
そうですね。ロルさんは1921年に生まれて2002年に亡くなられてますね。
なるほど。
サンデル教授は1953年生まれなのでまだご存命です。
30歳ぐらいは違うのかな、それでも。
あー、はいはいはい。
だからある種若いサンデルさんがロルさんを、ある種権威というか、
そういう人を反論して乗り越えようとしたみたいな感じの図式になると思うんだけどね。
これまでの話からするとかなりリアルタイムな感じがするね。
ロルが作ったものを次の世代に安定な感じなのね。
そうそうそう、そうなんですよね。
今みたいなことを言ってサンデルさんはどんなことを考えるかっていうと、
ちょっと繰り返しになっちゃうんですけど、
具体的な生活の現場とか、
何を目的に我々自身とか一人一人の人間が生きてるのかみたいな、
そういうことから考えないと結局正義っていうものって分からないというか、
どんなものが正義として求められるかっていうことから見えてこないよねっていう話をするんだよね。
めちゃくちゃ大変そうな問いになってきたね。
一人一人がどう生きようと思ってるか。
そうなんだよね。
かなり難しいというか、そんな簡単に抽象化したらダメっていう話なんだけど、
やっぱりその共通の正義とかなんだろうな、
これだみたいなものの前にやっぱり善とか良いことみたいなのがあるし。
ここは違うんだね、さっきもあったけど。正義と良い。
ロルの話でいくと、一人一人が何を良いとしてるかとかって関係ないというか、
無知のベルが見えないんだよね。
例えば僕が、
仮に毎朝神社に拝みに行くのが良いと思っているとしましょう。
27:08
宗教的なこととかそういう信仰を持っているとしましょう。
それをサンデルさんで言えば、そういう中間とか信仰の善があるから、
そんなことは無利益、非効率的だからやめろみたいなことが人が別に言ったときに、
結局その2人がどんなことを考えていて、
その2人がある種社会を成り立てるためにはどうするかっていうようなことを語っていきましょうってなるんだよね。
なるほどね。あることを前提にする。
ロルさんは一旦それを無しにして、
そもそも社会というのは平等で、機会の平等とか格差の平等というものが必要で、
その前提において認められるものは認めてあげましょうと。
その中で別に僕が神社に行こうが何をしようが全然いいんだけど、
それが平等とかを既存するんだったら、
それは例えば国家とか社会の側から制限がかかりますよ、みたいな感じなんだよね。
なるほど。
経済学とかでもある、人間は合理的な行動をするはずだっていう、
存在主体、人間の想定主体、そういう感じに近いのか。
そんな感じじゃないよ。
そう。あらゆる人が平等な情報を持って合理的に判断するとしたらみたいなモデルってあるとは思うし、
それによってもちろんいろんなことがすっきり考えられるとかってあると思うんですけど、
現実はそんなことないよって言って、行動経済学とかそういうものが生まれてるみたいな流れに近いかもしれないね。
そう。なのでやっぱり正義と善っていうものをロール図あるし分けていて、
正義の方が先だというか重要だみたいな話をしているんだけど、
サンゼルスはやっぱりそうじゃないと。
むしろ正義よりも先に善とか良さっていうものがあるし、
そもそも人間が生きる目的を切り離して正義っていうのを考えちゃダメだよねと。
さっきはトロッコ問題もいろいろ兄貴も考えてくれたけど、
やっぱりこれで実は5人を助けるために1人を犠牲にすることは正義か正しいかどうかっていう問題じゃなくて、
そもそも僕らは何を良いとか悪いっていうふうに考える共同体とかコミュニティに所属してるんだっけっていう風な問題としても立ち上がられてくると思うんだよね。
はいはいはい。
僕と兄貴だから言えばいいけど、
例えば兄貴が初めて会う人とトロッコ問題について議論しなきゃいけないってなった時に、
相手はどんな価値観を持っている人なのかっていうのを絶対に探りたいくなるはずなんだよ。
なるほど。
そうじゃないと自分と違う意見を持っていると知らずに言ってしまったら、
30:02
あなたはそんなひどいことを考えちゃったんですね。
本当信じられませんとかってなったら大変なわけじゃない。
まあそうだね。確かにいきなり初対面の人と話題になった時は気をつけるかもしれないね。
そうそうそうそう。ちょっとセンシティブじゃない?
そうそうそうそう。
だからそれも現実的には結構あって、
もちろんね、いきなりセンシティブなことに話をしないというか、
でもそれがそもそも日本人的というか、
いきなりセンシティブな話をする前にもうちょっと日常的な会話とか、
雑談とかをする中で相手のことを知っていくみたいな話も、
結構コミュニティ的というか、
そういうことをする方が良いっていう価値観が前提にあるはずなんだよね。
海外とか、どこもそうじゃないかな。
まあね。
だからあれ程度、
そもそもどういう初対面の人と話をするのが良いかとか、
それがリソードされているかっていうことに僕らはすごく影響されているよねっていう話がありますよ。
で、もちろんね、実はここにも時代の流れっていうのがあって、
さっきね、ローズさんの方がサンデルさんよりも30歳くらい上だよっていう話をしたと思うんですけど、
正義論がアメリカで発表された1971年という段階だと、
まだまだ国家全体で富をどう再分配するかとか、
経済的な権利をどんなふうに個人が持つべきかみたいな、
そういうのが結構テーマでしたよと。
ちょっとざっくりした話をしてるけどね。
そこから例えば80年代、90年代とかってなると、
兄貴とか僕らが生まれた時代だと思うんですけど、
例えばそれこそ家族とか教会とか、
いわゆるグローバル化が進んで、個人主義がどんどん広がっていくよみたいな。
で、各家族化してどんどん個人が分断されていくよみたいな意味において、
地域の繋がりとか、ローカルな価値が見直されてきたみたいなのが、
今でも流れとしてあると思うんですけど、
そういうふうな時代の背景というか流れというものと、
何を正しいとするかとか、
どういうことがその正義とかっていうテーマの中ではピックアップされるかというのは、
結構変わってくるんですよね。
なるほど、確かにそうだね。
だからやっぱり国家がそもそも再分配がうまくいってないとかっていうときは、
やっぱりその再分配が大事だっていうふうになるだろうし、
いったいそれが行き渡ってそれなりにうまく回ってきたときには、
逆に今度は国家とかっていうものじゃなくて、
もっと地域とか労働体みたいな、
33:00
そういうちっちゃい体のほうが大事なんじゃないかっていうふうなものが出てくるみたいな。
確かにそうだよね。みんなご飯食べれてねえよとかさ、
まだまだきちいんですけどっていうときは、
そういうときはあらゆる国の主体となって再分配するとね。
そこであらゆる生活ができるようになってきたら、
じゃあお前らがんばれよ、個人個人でがんばれよみたいな、
そういう影響があるかもしれない。
そうそうそう、そうなんです。
だからやっぱりそういうつながったり離れたり、
つながるっていうのはコミュニティ的なつながりだし、
離れるっていうのは個人主義的に一つの正義のもとで独立する個人が生きているみたいな、
やっぱりそういうようなモデル的な発想って、
やっぱり現実とリンクしているというか、
そういうことは結構切っても切り離さないかなというふうに思うんですよね。
だから日本では最近、ちょっと前からなのかな、
いわゆる地域コミュニティとかさ、
地方移住をして地域で生きていくみたいな流れっていうのもあるとは思うんですけど、
やっぱりこういうものも発想したら1980年代とかの、
アメリカで広く議論されていたもの、
いわゆるリベラルかリバタニアリズムか、
フルメンタリズムかみたいなところで議論されてきたものが、
ある種現実的な世の中に浸透しているみたいな。
そういうふうにも、そういうふうなことを主張していたらいっぱいいるんだけど、
改めてそういう印象をね、本を読んでいると思うなっていう感じだったんですよね。
はいはいはい。
なのでやっぱこの正義みたいなもので、もともとソクラテスぐらいから始まって、
そもそも正義とは良さであるとか、
法律に従うことだみたいなソクラテスから始まり、
リサテレスとか中世とかで読み入れてきたんだけれども、
やっぱりこう、社会とかやっぱり国、もっと言うと前回言うと他社だよね。
他社と生きるという時にやっぱり正義っていうものは、
ある種切っても切り離さないんだけれども、
それがね、ある種法律とか国みたいな権威からね、上から落とされるものなのか、
やっぱり人間共通の良さとか善みたいなものから、
ある種ボトムアップ的に作っていくのかみたいな、
やっぱりそういうふうな流れっていうものはやっぱりどっちも存在するし、
その時々によって、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、
議論がされているみたいな感じですよと。
というのがここまでのまとめ的な話ですという感じなんだよね。
うーん、なるほど。結構フワッとした話になったな。
フワッとしちゃったかな。
フワッとというか、やっぱりロールズとか、この鉄化の平等ですとか、
機械の平等ですみたいな、それが正義ですっていうのと、
やっぱり今の話もサンデルが話してるって話でしょ?
ごめんね、今のような話っていうのは、最後のところは僕の感想だけど、
36:03
いわゆる共同体的な善というものから正義を考えなきゃいけないというところが、
サンデルさんが言っていることだね。
その辺りは今回あるのかもしれないし、詳細は聞いてみたい感じがするね。
どういう話なのか、それが正義って、まだ繋がらないかな。
ある意味相対主義っぽいじゃん、それって。
それってある意味個人主義っぽくもあるし、自由主義っぽくもあるし、
捉えようによっては結構難しいというか、そのまま空中分解しか出ない話じゃん、そういうのって。
そういう意味ではある意味では、これが正義だって言ってもらった方が、
やっぱり現実問題使いやすいじゃん、っていう意味では、
ロールズが使えないってことは分かったけれども、
じゃあこのサンデル教授が話してるコミュニティって使えるんですか?
みたいなところはまだ分からないっていう意味でフワフワしてる。
そういうことね。
それだと、たぶん本をもう一回ちゃんと読んだらありそうかなと思いつつ、
でもそもそも正義っていうものを一個に捉えちゃダメっていう話をしてるから、サンデルさんは。
なるほど、一旦そこってことね。
ロールズのアンラーニングまでみたいな話ね。
これが正義だって言った瞬間に、結局そういった非中立的な正義っていうものを言わざるを得ないから、
やっぱりそもそも議論の仕方とか土台が違うっていう話ではあるんだよね。
正義の作り方、考え方みたいな話をしてるってことはね、正義とはこれじゃなくて、
ちょっと哲学っぽくなってくるね、そうなると。
そうだね。
それはどう言説を落とし込むかっていうところは、それぞれの課題ではね。
話はちょっとなっちゃってる部分もあると思うし。
さっき言った通り、ロールズさんもそういう批判、
もちろんサンデルさんの批判っていうのはもっと詳細にというか、具体的なところまでやってるんだけれども、
一旦それを飛ばしてロールズさんの話に戻ると、
それで批判の一部っていうのは当然受け入れながらも、
自分の正義論を拡張するとか修正するような形で、
再反論というか、いろいろな提案っていうのはまたやってくるんですよね。
はいはい、どうなんだろう。
やっぱり学者たるものを自分の説を簡単に取り下げるわけにはいかないじゃないですか。
そうなの?
そうだよ。
だって、間違ってましたとか、自分のちょっとこれやめますみたいな話っていうのは、
学者さんからすると敗北宣言というか、自分のやってきたことを。
そこは自信っていうか、ちゃんと根拠があるからって話だもんね。
根拠があるし。
根拠に突っ込んでるわけじゃないって話だよね。
だからちゃんと根っこの部分とか、確かに修正するときとかもやるけれども、
39:02
個性というか大筋というところは、これが正しいって思って主張してるわけなので。
全然それで反論できませんって。
そうですそうです。
その中でロールさんがあらためて考えるっていうのが、
言葉としてはフワッとしてるんだけど、
重なり合う合意っていう状態を言ってるんですよね。
重なり合う合意。
これ、どういうことかっていうと、
日本ももちろんそうなんですけど、
アメリカって民族的にやっぱり宗教的にもいろんな人たちが寄り添ってるじゃないですか。
特に宗教って分かりやすいと思うんですけど、
いろんな主義主張を持ってる人が同じ国家の中に存在をしていますよ。
これはもう現実にそうだよね。
その教えの中には、やっぱり自らの主義主張っていうのが絶対唯一の真理だみたいな。
そういう主張をする人たちもいるでしょう。
そこで倫理はぶつかるだろうね。
倫理はぶつかるんだけれども、
それでもアメリカという国、例えばその国以上は、
大原則としての個人の信教の自由とか、
あるいは政教分離、やっぱり政治と宗教というのは分離しましょうとか、
そういうふうなことは受け入れないといけないし、
逆に言うと、アメリカという国家の中で、
自らの教えが唯一絶対だっていう主義主張を持ってる人がどうなるかっていうと、
そういう価値も含めて自分たちの宗教とか考えにおいては、
全部許されてるんだみたいな。
そういうアメリカとかの価値観というものを内部に取り組む形で、
そういった宗教とかも発展していくよねっていうふうにロルさんは考えるんだよね。
だから本当はアメリカという国の中に宗教ってあるんだけど、
その宗教の人たちは、
いや実は僕らの宗教の中にアメリカという国の必然性っていうのもあるんだ、
みたいなことを主張し出すでしょうと。
そこってイメージできるかな。
それぞれの例えば自分の宗教こそが絶対であるみたいなものがあったとして、
どっちの人たちが、
このアメリカ、僕が所属する国家というか、
そういった考えを受け入れていくっていう意味?
受け入れつつ変容していくっていう意味かな?
そうだね、受け入れつつもそうだし、
例えば個人の宗教なんだろうな、
それは自由ですみたいなことがあったときに、
今回ならその宗教の人からすると、
唯一絶対の真理だからそれを信じるべきだっていうふうに思ってるはずなんだよね。
どの個人も。
42:00
でもアメリカという国に個人の宗教の自由があるから、
そういうふうな単容さを我々も持っているっていうふうに、
多分、教義とか主義主張が変わっていくであろうと。
なるほど。そういう意味で。
例えばね。
ある意味では受け入れてはいるんだけど、
別に自分たちの主義主張が変わっているわけではないというか。
そういうふうに現実的に適応するような形に変化していくよね。
というふうな話を考えるんだよね。
仮に生きもっと殺するしみたいなのがあったとして、
それは削除して、
自分たちは最高だけれども、
他にもそういうふうに最高と主張している人がいるよね。
それはしょうがないよねというふうに聞き換えられるぐらいのイメージかな。
そうそう。現実的には違うけど、
例え話として。
そういう人たちも結局は自分たちの教えにいつかはたどり着くだろうみたいなことに、
多分その主張が少しずつ変わっていくよね。
ある種だから滑らかになっていくというか、
少し角が取れていくんだと思うんだよね。
仮にそんなふうな主張を持った宗教の集団がたくさんあったとしても、
それぞれが国家というものの原則に基づいて少しずつ変わっていくから、
結局はある種、
これもある種無知の辺に近いんだけど、
そういう対立関係というよりも、
そういう全く違う主義思っていたとしても、
ロールズが言う正義、国家の中での正義とか、
原則というものをある種軸にして、
お互いに必要な議論を重ねたりとか、
より良い正義、
よりみんなにとって正しい正義というものに対して、
アップデートし続けることができるよね。
そのために各宗教の中に必要なのは、
自分たちの主義主張をねじ曲げるとか、
あるいはそれを変えていくことじゃなくて、
ある種正義という土台の下で主張をしていくこと。
例えば、神が人類を作ったということを、
主義主張として発信していくだけじゃなくて、
いわゆるDNAとか遺伝というものの中にも、
神の働きがあるみたいに言った方が、
議論の土台に乗るわけじゃない。
これはロールズが言っていることじゃなくて、
今僕が想像して言っていることです。
そういうふうに共通の議論の土台を、
正義をある種提供して、
共通言語の中で正義を組み立てていけるよね。
そうするとロールズが言うように、
各宗教団体って本来は違うコミュニティじゃない。
このコミュニティは違って、
何を善、良いとするかというのは違うんだけど、
45:02
お互いの正義とか、
お互いに良いものをちゃんと打ち立てていけるよね、
そういうような道が開けるよね、
というふうにロールズは逆に言うんだよね。
兄貴がさっき言ったように、
コミュニティになると結局は相対主義というか、
それぞれの良さがあるじゃん、になっちゃうから、
やっぱり共通の正義というものは必要で、
それを立てるために、
ある種、ちゃんとお互いに合意できる領域というものを
広げるための正義というものを作っておきましょう、
みたいな、そういうふうなことを
ある種ロールズは改めて主張してきます、
というふうな感じなんだよね。
それが可能であるという主張だね。
それは可能であるし、
それをすべきであるという主張かな、ロールズからすると。
なるほど。質問していいかな。
ぜひぜひ。
仮に、
うどんしか認めないという人たちと、
ラーメンしか認めないという人たちがいたとして、
どうなる、その話でいうと。
そうだね。
その時に必要な正義ってなんだろうな。
例えば、アメリカ的な国で、
それぞれの主張は許されている。
それぞれが自分最高というのが許されている状態。
だけど、お互いを殺し合うとかそういうのはダメですよ、と。
はいはい、ラーメン最高と言って、
うどんなんか無くなればいいのに、
ラーメンなんて滅びればいいのにって思っているわけだね、それぞれが。
競技としてはある、そういう状態。
それはそれで言うと、
例えば、うどんを無くすという言葉は、
うどんしか食べれない人たちをおかしいさせることになるよね、と。
そうだね、だし、アマチューであったら殺すことになるよね。
そうだね、そうそうそう。
というような状況に対して、
それっていうのはある種正義ではない、という風になるよね。
その状況がね、殺し合う状況がね、お互いに。
殺し合う状況とか、配慮するというのは。
そうなると、要は、
ラーメンこそが正義なのだが、
人を殺すとか、配慮するというのは悪い。
正義ではないという風な状態になっていくよね。
例えば法律とかね。
法律とか、そうそう。
そうすると、宗教集団というか、
ラーメン居合の人たちも、
その中で活動しざるを得ないよね。
そうなると、
ラーメンの良さというものを、
もっと説得できるような方向に行こう。
要は、配慮するんじゃなくて、
もっと自分たちの良さを発信して、
自分たちの方に来てもらおうという活動が増えていくとか。
あるいは、
もしかしたら、ロビー活動とかを通じて、
48:00
うどん用の小麦を、
栽培する土地を減らしていくとかするかもしれないけど。
そういうのもありなんだね。
そういうのもありかもしれない。
それは共通の議論の中でやってるからね。
それで、
さっきの正義の話と一緒で、
直接的に殺すのはダメだけど、
間接的にうどんが取れなくなって、
彼らがアメリカ以外の国に行くことは、
勉強した人からしたら知ったことじゃないみたいな。
そういう風になっていくんじゃないかな。
そういうことか。
みんなが手を取り合ってっていうところまでではないのか。
そこまではうまくいかないと思う。
なるほど。
というのが、
ロールズの想定する話。
それを調整する機能が、
共通の土台を作るのが正義っていう感じかな。
土台を作るのが正義。
だから重なり合うっていう。
お互いの主義主張は絶対に違うんだけど、
正義っていう土台の上においては重なり合う。
合意っていうものが生まれるみたいな感じだと思うんだよね。
ロールズは多分理想的に、
それがあればお互いに共通理解をしたりとか、
いわゆる争いとか、
変な格差っていうのがなく生きていけるよっていう話だとは思うんだけど、
現実的には今みたいに、
ロビー活動とか、
あるいはこの街、
例えばアメリカの中でも、
このAっていう街はラーメンのお店しかありませんってなったら、
当然うどんの人たちは別のとこに引っ越さなきゃいけないみたいな。
そういうことが現実には起きちゃうんだよね。
それはやっぱこのロールズの、
反論みたいなものだよね。
聞いたとしても、
ファイト的にはそのぐらいには行くんじゃないかっていう話も含めて。
そういうことそういうこと。
過激にいくとしたらね。
ロールズ的に言うとどうなるの?
ロールズ的に言うと、
おそらくその、
平等格差っていうのは良くない。
特定の人間がやっぱり、
ウェールとか貸してるのは良くないから、
ちゃんとラーメンと小麦両方が食べられる環境を整備していきましょうっていう話に落ち着く。
それこそ殺し合いダメですよみたいな。
そのところで、
ちゃんとラーメンもうどんも、
生き残れるような環境は整えていくと。
そうそう共存できるようにしていきましょうっていう風になるんじゃないかな。
なるほどね。
ただ平等はそうは思わないよって言う。
現実無理でしょって。
表向きは共存って言うけど、
裏ではそういう風な生命下の活動とか争いっていうのは多分無くならないだろうなとは思う。
ちょっとイメージはできた気がするかな。
51:00
ロールズは国を想定してるのかな。
コミュニティとかっていうよりは。
国だね。
国が、
ある意味、
利害調整機能みたいなものを
ちゃんと発揮できるでしょ。
みたいな話だろうかな。
そうだね。
ロールズにお入れ気に捉えると、
共通的な正義みたいなものがないと、
そもそも主義主張が違う人が
議論をするテーブルもないし、
何に基づいて議論するかって、
共通言語がない。
ラーメンがいい、うどんがいいって人って絶対交わらないじゃん。
そこに、
菓子は良くないよねとか、
飢えて死ぬ人がいない社会にしようってことが
正義だっていうテーブルがあって初めて、
じゃあ菓子しないためにどうするかって議論ができる。
共通言語ができるよね。
そういう間を開いてあげるというか、
共通の議論のテーブルを用意してあげる。
あくまで現象状態的なところから
どうなっていくかっていうような考え方ではあるんだね。
そうだね。
そういうポイントを
味付けすれば、
平等というかロールズ的な世界ができるかと。
ちょっとでもなかなか難しい話だな。
言葉としては
民主主義みたいな
議論を熟す
っていうこともあるらしくて、
やっぱりそういう風に
民主主義ってそもそも議論をしていくものなんだけど
単純に多数決で決めるとかじゃなくて
ちゃんと理性的にっていうのが入っちゃうんだよね。
そういう意味で
対話をして議論をして
理由とか根拠があるから
正しいっていうものを
最終的な承認しようみたいな。
国家の正しさとして定義しようみたいな。
そういう方向性にはいくんだよね。
ラーメン居は人が
ラーメンこそ志向だ、そこには何の根拠もない。
民主主義の意味で
神には根拠だからだけど
俺たちがそう思うからそうなんだってのは
やっぱり認めちゃダメだと。
国家の中で
発動するにおいてはね。
ちゃんとそこには根拠を示すとか
根拠を示せるようになったら
お互いに共存できるだけの
妥協というか
修正というのをしてください。
国の側からすると。
54:02
ちょっと過激すぎますよっていう。
そっかの階級が入るよっていうね。
そうだね。
そこも難しいんだけど
どこまで過激かっていうのは当然
時々変わるだろうから
ある種そういう
経済の場でも
ホリエモンさんの話とか
テレビ局を買収しようとした時に
それが不当だと逮捕されたみたいな話があった時に
あれは権力できすぎだ
みたいな議論も当時あったと思うし
ホリエモンさんはそういうのを主張したと思うんだけど
ライブドア事件っていうのかな
あれも結局は
国からするとやりすぎだとか
見過ごせんっていう話って
基準があるわけではないというか
何らかのその時
その場にいた人たちが考えた結果だったと思うんだよね
それを逆側から見ると
やりすぎだとか国家の不当介入だみたいに思う人もいて
そこのバランスっていうのは
すごく難しいみたいな感じだと思うんだよね
いっぱい法律作ってるような国でも
そういうイレギュラーは起こり得るって話だよね
そうそう
感情的にとか
その時の空気感とかで
これは取り潰せとか見過ごそうとか
そう見えるとかね
そうそう
っていう風なことはあるので
ロールズさんの正義論っていうのはすごく役立つと思うし
説得力もあるかなとは思うんだけれども
やっぱりこの
正義編の第1回でもお伝えした通り
正義の反対はもう一つの正義みたいな
現実においても
対話っていうのは成り立たないから相手を殲滅しよう
みたいなことって実際に
イスラエルとかで起きてるわけじゃない
本当の意味で
現実に影響を及ぼせる正義とは何かとか
それって平等なのか自由なのか共同体なのか
みたいな
結論はなかなか出ないし
何気ないと言うとフワッとした話になっちゃうんだけど
個人の中で自分にとっての正義が
この辺りにあるんじゃないかとか
そういうことを考えるとか
自分らに向き合ってみるっていうのは
結構面白いものなんじゃないかなと思ったりするんですよね
まあそうだね
あとは立派的に正義と言われているものが
どういうふうに成り立っているのかっていうものを
まずは理解するって意味でもこういうのはすごい大事かもしれない
じゃないと本当に自分の感想になっちゃうからね
そうなんだよね
57:02
それってやっぱり平等に基づく正義ですよね
それって自由の方がちょっと多いですよね
共同体の観点無視してませんかとか
言えるだけでも全然変わってくるじゃないですか
今は自分たちはどういった正義の元に成り立っているのか
生きているのかっていうのをまず理解しないと
意外とそれって理解しづらいというか
教えてもらえてないなって
こういう哲学の話にしてもさ
今回リリーの話を聞いても思うけど
そんなの教えてもらったことない気がする
ないしね
だからやっぱりこういうことを知ることで
言葉が増えたりとか議論がしやすくなっているのは
絶対あるよね
あとちょっと話戻るけど
さっきロールズようわからんみたいな話したんだけど
ラーメンとうどんの話を何とか理解しようと
みたいな話で質問したんだけど
確かにそうだね
一貫してるなと思ったのは
ラーメンうどんみたいなものが自分がね
自分が国の法律とかを作る立場で
そういういがみ合いみたいなものがあった時の
どうするかっていうのは
確かにそこの2つ
それが2つならまだいいけれども
そういったところへの機械の均等みたいな
そういうのを適応していく中で
うまく回していくみたいな
それはやっぱりロールズが
そこは一貫してるのかなっていうのを今
遅れて思った
それをさっきちょっと利害調整みたいに
表現しちゃったんだけど
違うよねそれはロールズがもともと言ってた
平等的なところの話だね
やっぱり平等というものが大事である
そこからじゃないと社会は成り立たせることができない
っていうのはやっぱりロールズの根幹にはあって
そこをやった後ね
ハヤトが自分の感想だけど
そこでの
例えば機械の平等みたいなものをラーメンとかうどんに
与えたとしても
お互いの党歌みたいなものは
伝われるだろうしみたいな意味合いで話してたんだね
そういうことです
そういうのをちゃんとリアルタイムで理解してなかった
前提としてそういうのが確かにあるし
やっぱり当然政治の側も
今まさに問題だと言うけど
企業献金みたいな話とかさ
議員へのロビー活動とか
声の大きいとか資金を持っているところが
通しやすいみたいなのが世の中にもなっているから
そうだね、それも一つのルールだったり
ルールの抜き穴になるかもしれないしね
やっぱりロールズはあくまでもモデルとしての
1:00:02
すごく綺麗な正義とか社会というものを考えているし
ある種そういうものをちゃんと見るからこそ
現実はどうなんだっけという風に
モデルに照らして今どうなっているのが分かるみたいな
そういう機能というか
第一句も言った通りロールズの正義論が正しいというよりは
これを基にしていろんな議論ができるようになったとか
まさに議論の土台ができた
というのを感じていただけたんじゃないかな
という風なことを皆さんと一緒に見ていきましょう
という感じですね
正義というテーマについては今回で一旦終わりかなと思ってまして
また次別のテーマを今考えているんですけど
それがちょっと今
本当に一週間ぐらい興味が湧いてきた
偶然とか確率
いわゆるサイコロ振って1が出る確率みたいなときの確率なんだけど
これをテーマに取り上げてみたいんですよ
正義とのつながりで言うと
いわゆる絶対の正義みたいなものがあれば
それに従っていれば人間はハッピーになれるはずだし
社会も万事オッケーになるじゃないですか
でもやっぱり個人のこととか
いわゆる無知のベールじゃない普通の個人のことを考えると
人生って結構偶然の連続で
やっぱり正しいことをしても不運に見舞われる人もいれば
要は正義に反対な悪いことばっかりしているのに
全くお互いなしで逃げ続けられない人はいるわけじゃないですか
そういうふうに思います
そういうふうに思います
そういうふうに思います
やっぱりロールズが言うように
平等ってのはもちろん美しいんだけれども
現実世界を見ると全然平等とか公平じゃないじゃん
みたいな思いってあると思うんですよ
親ガチャとかいう言葉も思われるぐらいですからね
最近ねガチャとかもね僕もよくやりますけど
最近あんまりやらないけど
いうふうにまさにガチャって確率とか偶然
たまたまみたいな話じゃない
じゃあそれって何なのかと
でも偶然って何確率って何ということも
実は結構哲学的に問われている人がいたりするんですよね
実は結構哲学的に問われている人がいたりするんですよね
むしろ数学じゃないとかってなるし
数学の話ももちろんちょっと出てくるんだけど
それを哲学的な観点から見てみましょうというのを
次のテーマにしたいなと思っております
なるほどそうかいやすっかりさ
倫理の頭になってたけど
これ哲学のラジオだったねそういえばね
そうそうそれ倫じゃなくてそれ哲学
このまま倫理の話に突っ込んでいくのかと思っちゃってた
いやいやいや
哲学なんです
テーマとしてやっぱり物事を捉えるとか
自分の人生を生きていこうという時に
いろんな発想があるといいよねみたいな話なので
1:03:01
それは今回の確率とか偶然みたいな
そういうところから僕自身も興味が湧いてきたので
皆さんと一緒に考えていきたいというような感じで
考えております
わかりました
一旦ここで整理の話は終わりということで
次回も楽しんでいきたいと思います
では引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました
01:03:41

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