努力の重要性
こんにちは、モロトメ ジョーです。今日もチャレンジしてますか?
今朝も散歩をしながら収録をしていますと言いたいところなんですが、
今朝の横浜は、めちゃめちゃ風が強い上に雨も降っていまして、
散歩をしながらというか、傘をさしながら話をするのはちょっと難しい状況ですので、
それでも散歩には出てきたという、若干、何と言いますか、
キチガイ児みたいな感じもないでもありませんが、とりあえず外に出てみまして、
公園の中にある、何て言うんですかね、あずま屋というか、屋根のある場所でお送りをしているという感じです。
しかし寒いということでして、少し前の暖かい春の日はどこへ行ってしまったのかと、
まあそれでも雪はそれほど降らなかったみたいですかね。
うっすら積もっている場所もありますが、横浜はほぼ雪はないというような状況です。
ちなみに時間は5時57分になりました。空はだいぶ明るくなってきましたがね。
では寒さに負けずに今日の話をしていきたいと思います。
今日は、努力を否定してはいけないという話です。
努力を否定してはいけない。
これ自体は何となく当たり前というようなことかもしれません。
ちなみにこの話をしようと思ったのは、最近Xですかね、SNSを見ていて、
努力が足りないよねというような投稿を目にしました。
これは他人に対して努力が足りないぞというようなメッセージだったわけですけれども、
そのメッセージに対して、逆にカウンターとして他人の努力を否定するなというような投稿も見られました。
あなたはどうでしょうかね、努力が足りない人に向かって、
人に向かって努力が足りないというような考え方をする人か、
それとも他人の努力を否定してはいけないと考える人なのか、
ということなんですけれども、
ちなみに他人の努力を否定するなというような意見の中には、
人間誰だってダメな時もあるよねと疲れてしまったり、心が傷ついてしまったりだとすると、
努力を休む時だってあっていいよねと、
そんな折に努力が足りないとか言うなよというような話もありました。
どうでしょうか、最もらしいというか、納得できる話でもあるかと思います。
ではということで、僕個人の意見を言うのだとすれば、
そうですね、他人の努力を否定するのは僕もやめた方がいいとは思いますが、
ただしということで、自分の努力に対してはもう少し厳しくあった方がいいんじゃないのとは思っています。
もう一度言いますけれども、他人の努力に対しては特に言うこともないかなと思いますけれども、
自分の努力についてはもう少し厳しい目で見てみるということです。
さらに言うと、先ほど言った人間ダメな時だってあるよねと、疲れている時だってあるよねということなんですが、
確かにそうなんですけれども、そういった見方を慢性的に続けているのはダメだと、それこそダメだと僕は思っているわけです。
僕だってもちろんダメな時はあります。疲れている時もあるでしょう。
ですがそれを慢性的に、いつもそれを許してしまっているということが良くないよねという話をしています。
毎日何か生きていればというか過ごしていればうまくいかないことだってあるし、何かに挑戦しても失敗することだってありますよねと、
そんな時に人は傷ついてしまったりするわけですけれども、だからといってダメということはないじゃないですか。
挑戦をしている自分、努力をしている自分は素晴らしいという見方だってありますよね。
自分の努力の見直し
自分は幸せなんだと僕はそう思いたい、そのように考えています。
もう一回言いますけれども、挑戦をしている自分、努力をしている自分の素晴らしい、うまくいかなくたって失敗したっていいじゃないかと、
挑戦している、努力をしている、その過程にある自分は幸せなんだという見方もあるでしょう。
その上で僕は少しでも努力をしている方がいいに決まっていると考えています。
努力をするかしないかという、二者卓一みたいな話にはなってしまうんですけれども、
努力をするかしないかでいえば、少しでも努力をしている方がいいに決まっています。
にもかかわらず、それを適当な理由をつけてごまかしてはいないかということなんですよね。
先ほど言った、人間なんだからダメな時だってあるよねと、努力を休んでいいよねと、そういう時もあるよねという話、
これはとてももっともらしいんですけれども、適当な理由として自分をごまかしてはいないのかということです。
ややもするとということなんですが、最近では僕が思うに、努力をしなくてもいいという風潮が強いように思います。
努力をしなくてもいいよねというような考え方が認められるようになってきていると、そんな気がするわけです。
努力は生きづらい、努力をしすぎるのも生き苦しいよねというような見方もあるでしょう。
そしてさらに言えば、間違った努力は無意味だというような考え方もあります。
間違った努力というのは、間違った方向に対する努力ということなんですけれども、
努力をするんだったら、その前に自分がやろうとしていることが、努力をしようとしていることが正しいことなのかどうかをきちんと考えてから、
それから努力、行動をしようというような話です。
なんですけれども、それを間に受けて考えているだけで、行動をしないというのであれば、それは努力と言えるのか、努力につながるのかということも思うわけです。
だからということですけれども、僕は一歩でも半歩でもいいから、足を動かす方が価値があると思っています。
繰り返しですけれども、人間、疲れている時もあるしダメな時だってあるでしょう。
それでもあと一歩、あと半歩前に足を動かすと、つまり行動をするということですよね。
一歩とか半歩とかそういうのは抽象的なので、もう少し身近なことに置き換えれば、
1分でも3分でも5分でもいいから、やるべきことを言いやるというようなこと。
そんなように僕は思っているんですよということです。
自分の努力ですよね。努力をするという自分の姿を否定する前に、
自分のまず努力の後、努力の軌跡を確認してみるのはどうでしょうかと、
本当に一歩でも半歩でも足を動かしているのか、その上で考えてみませんかという話ですよね。
僕はそう思っているんですけれども、自分に容赦をしないというふうにも考えているということです。
自分に容赦をしないというのは、先ほど言った一歩でも半歩でも足を動かしている自分なのかどうか、
それもできていないのに否定している、努力をしないことを許しているのであれば、
そんな自分を容赦しない方がいいよねと、そんなふうに考えているんですけれども、どうでしょうかね。
他人の努力を尊重
そういう生き方が息苦しいというか、生きづらいということもあるかもしれません。
それでも僕は、たった一度の人生の中でできる限り前に進みたいなということを思っているわけです。
その前がどこに向かっているのかというのはわからない。
それを考えすぎると先ほども言った、行動しないというか努力をしない理由になってしまうので、
それよりも今目の前にあることを一生懸命やるんだと、一歩でも半歩でも足を動かすんだという方を僕は重視をしたいというふうに考えています。
この辺りはそうですね、人によって考え方が分かれるのかなと思いますけれども、
それでも最初の話に戻って、そうじて言えることとしては、他人の努力は否定しないということですかね。
僕が今話をしたのはあくまで僕自身の努力の話であって、他人の努力に対してどうこういうつもりはないですよと。
なぜなら他人の努力は自分には見えないからですよね。
でも自分の努力なら見えるじゃないですか。
自分が自分に目をつぶらない限りは自分の努力はわかるはずです。
なのでその上で自分はどうするかということ。
僕は努力が足りないということを自分に問い続けるでしょうし、
そういう意味では自分の努力を否定することもあると、
努力が足りないぞということもあるということですかね。
そんなわけで、今日は努力を否定してはいけないという話をしてみました。
今日も何かしらいろいろ起きると思いますし、
僕に関して言えば朝から散歩出てきたわけですけれども、ちょっと寒すぎます。
若干途中意識が遠のいた感じもありましたけれども、
そこまでして話す意味があるのかというようなことも思いつつ、
でもこれもまた一つ僕自身の努力でもあります。
それを他人から見ればその努力は必要なのかと思われるかもしれませんが、
これもまた他人からとやかく言われることではないし、
自分がどう受け止めるか、自分がどう考えるかということかと思います。
なのであなたも自分の努力について他人から何かを言われたとしても、
自分自身の評価軸で自分の努力を捉えることができるといいのではないかなと思ったりしています。
とかく人間というのは人の努力に対しては文句を言うとか言いたいことを言うものですが、
意外と自分の努力については目をつぶるということが多いような気もしますので、
そのあたりも気をつけていけるといいかなとそんなことも思った次第です。
ではでは本当に寒くて指もかじかんできましたし、
しゃべりづらくもなってきましたので今日はこの辺にしたいと思います。
それではこの後も良いチャレンジを。また明日。