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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今回のトークもですね、お便りをいただいておりますので、それに回答するという形でやっていこうと思います。
こちら、DAIGOさんからいただきました。
志賀さん、はじめまして。ワンパク放送局という番組をやっております。DAIGOと申します。
興味深く配当させていただいております。いつもありがとうございます。
早速なのですが、言語に関する疑問についてお尋ねさせてください。
先日見ていた英語の動画で、インタビュアーの
What do you think happens when we die? 僕たちは死んだらどうなると思う?という問いかけに対して、
回答者が、I know that the ones who love us will miss us.
僕たちのことを愛している人たちが悲しむということはわかるよ。と、起点を聞かせて答えていました。
このように、異言語にもかかわらず、そのユーモアや話の飛躍の仕方が理解できてしまうということは少なくないと思いますが、
それはどうしてなのでしょうか。
雑白とした質問で大変恐縮なのですが、よろしくお願いします。ということで、
どうもDAIGOさんお便りありがとうございます。
これ、キアヌリーブスじゃなかったかな。確か、なんか僕も見たような記憶がありますが、
まあこれはユーモアがあるっていうことですよね。書いてくださっているように。
忘れんうちに言っておくと、そういうユーモアとかお笑いっていうのが、
なぜ起こるのかみたいな話をしているトークが過去にあって、
シャープ261とシャープ276がそういったことを話しているトークとなっております。
詳細欄にリンクは貼っておこうと思うんですけど、
そこで言ったのは、話し手が意図していることを聞き手がうまく解釈できないときに、
何かおかしさが出てくるっていうことを言ったんですよね。
なのでお笑いでもユーモアでも根本はそういうところにあると思います。
特に言語を用いたコミュニケーションの場合、言語以外でもかな、
意思疎通がうまくできないというところにおかしさが出ているということですね。
特にそういうことをお話ししたのはシャープ261のほうだったかなと思います。
そのシャープ261でメインで話したのは、
比喩表現を文字通りに受け取ってしまったときに、
人間はおかしさを感じるみたいな話をしたんですよね。
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これは言語にかかわらず割と普遍的な原理なんじゃないかみたいなことを確か言ってて、
例えば、どこで油売ってたんだっていうセリフを石油王に向かって言っちゃうみたいなね。
で、これは寛容的な意味での油を売るっていうのが文字通りの意味にも解釈できるので、
そこにおかしさがあるということです。
先ほど申し上げました通り、話し手の意図がうまく聞き手に伝わらないときに、
人間というのはユーモアやおかしさを感じます。
これはね、あえて聞き手が話し手の意図をうまく解釈しない、きちんと解釈しないという場合もあると思います。
DAIGOさんが送ってきてくださった例も、
どちらかというと、回答者が話し手の意図をあえて無視するというか、気づかないことによってユーモアな発言になっているわけですよね。
ここだと僕たちは死んだらどうなると思うっていうのは、
その死んだ人がどうなるかっていう前提があるのに対して、そこをあえて気づかないことによって、
つまり、死んだ周りの状況がどうなるかっていうふうに解釈することによって、
コミュニケーションがうまくいってないということになるんですね。
そこに面白さがあるということです。
こういうふうに言語を使ったコミュニケーションっていうのは、
発話されているその単語の足し算だけではないということですね。
よく言われるのは、言外の意味とか言われることがあります。
例えば、車来てるよって言われた時に、
当然場合によっては車が来ているっていうことを伝えているわけですけど、
言外の意味としては危ないよっていう意味だったりするし、
暑くないって言った時に冷房つけてよっていう意味になることもあります。
あるいはペン持ってるって友達に聞いた時に、はいとだけ答えられたら、
これはちょっとおかしさが出るんですよね。
話し手の意図としては、ペン貸してちょうだいっていう意味なんですけど、
それを文字通り受け取ってしまうことに、
コミュニケーションの行き違いが起こって、おかしさが出るということです。
こういう単語の足し算以上の意味を研究する言語学の分野を語用論と言います。
これはどう言ったらいいかな。
僕もあまり得意ではないんですけど、
文脈に埋め込まれた形でその発話がどういう意味を表しているかということです。
例えばさっきの暑くないっていう発話も、
外歩いてるんだったら暑くないっていうその同意を求めてるっていう意味になりますけど、
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家庭内で家の中で家族に暑くないといった場合は、
冷房をつけてもいいんじゃないという意味になるということですね。
こういうふうに文脈によって話し手の意図というか、
それが表している意味が変わるっていうことは非常によくあることです。
これはね、さっきの比喩表現とか漢用句にも多分ちょっと連続しているところはあると思うんですけど、
その特定の文脈を離れて解釈してしまうと、
ユーモアだったりおかしさが出てくるということになると思います。
語用論というのはさっき言ったように、
埋め込まれた文脈内でその発話がどういった意味を表すかということを研究する分野なんですよね。
つまり文脈がないと何を意味しているか正確にはつかめないということなんですけど、
そういった言語の現象というのはもうちょっと違ったレベルでもあって、
例えばここといった場合、
僕が言うここというのと皆さんが言うここというのは全く違う場所を指していますよね。
僕が言う僕というのと皆さんが言う僕というのは違う人物を指していると。
こういうのはダイクシスと言って、
その発話がなされた時や場所にしばられているような意味を表す言葉のことを言うんですね。
さっき言ったこことかそことかあそこというのは場所を表すものだし、
私あなたというのは認証を表すものですよね。
これも話す人によってコロコロ指す対象が変わっていくものです。
あるいは明日とか昨日というのもそうで、
例えば明日にとっての昨日は今日にとっての今日だけど、
昨日にとっての明日だみたいなこういうわけの分からないことが言えるわけですけど、
これも文脈というかその場その時にしばられているということになります。
というわけで今日のトークはですね、
言語っていうのは単語の足し算以上のことを表すことがよくあるということをお話しいたしました。
そのために表す意味に幅があって、
そういったとこがユーモアやおかしさということにつながっているんだと思います。
というわけで今回のトークはここまでということで、最後まで聞いてくださってありがとうございました。
また次回お会いいたしましょう。ごきげんよう。