1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #316 わかりやすい表現のため..
2021-06-04 10:35

#316 わかりやすい表現のための言語学 from Radiotalk

『悪文 伝わる文章の作法』 (岩淵悦太郎、角川ソフィア文庫)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:02
始まりました。志賀十五の壺。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今日も志賀十五の壺ね、やっていこうと思います。
いつもトークにリアクションをしてくださるみなさま、
そして、ギフトをね、送ってくださるみなさま、どうもありがとうございます。
なかなかね、お礼を言う機会がないので、
こういうふうにね、ちょっと思い出したときに言おうと思います。
ラジオトークだとね、そういうことができるんですけど、
各種ポッドキャストで聞いてくださっているみなさまも、いつもどうもありがとうございます。
今日のトークはですね、
わかりやすい文章っていうのは、
どういうことかっていうかね、文章というか文って言った方がいいですかね。
わかりやすい表現というか、そういったものはどういうものかっていうのを、
ちょっと考えてみようと思います。
思いますけど、
これはどちらかというと、
言語学のやることではないかなっていう感じがなんとなくしますね。
というのが、言語学っていうのは、
規範の学問ではないので、
こういう表現を使えとか、こういった表現の方が美しい正しいって言ったことをね、
そういったことを追い求めるとか、主張する学問ではないので、
話者の口から出たもの、あるいは書いたものが全てなのであって、
それに判断を下すものではないんですよね。
ただ、実際そのわかりやすい表現をしようって考えている人にとっては、
それが口頭にしよう、書いたものにしろね、
言語学が役に立つ可能性はあるといえばあるんではないかなということで、
できるだけ言語学の視点から、
わかりやすい表現っていうのはどういうことかっていうのを考えていこうと思います。
逆にわかりづらい表現っていうのは、
曖昧な表現っていう言い方になるかもしれませんね。
特に今回考えようと思うのは、
就職語っていうのが何にかかっているかっていうのが、
曖昧になりうるっていう話ですね。
日本語においてですけど、
岩渕哲太郎先生っていう先生の悪文っていう本があって、
これ、ものを書く人だったらみんな読んでる本だと思うんですけど、
その中にもですね、悪文の一例として、
就職語っていうのがどこにかかるかわかんないっていうね、
そういった例が出ています。
03:01
その岩渕先生が挙げていらっしゃる例で、
難しい子の教育っていうのがあって、
これはどういうことかというと、
難しいっていうのが子にかかって、難しい子の教育なのか、
あるいは子の教育にかかっていて、難しい子の教育となっているのか、
つまり難しいっていうのがかかっているのが、
子、子供だけなのか、
子の教育っていうその全体にかかっているのか、
曖昧になっているっていうことですね。
日本語だとそういうことが起こりうると。
他にも、その就職関係でいうと、
先生でもあった彼の父といった場合、
先生でもあったのは、彼なのか彼の父なのかわからないんですね。
これは先生でもあったっていう、専門的には連体説と言われるものですけど、
それが彼だけにかかって、先生でもあった彼の父なのか、
あるいは彼の父全体にかかって、先生でもあった彼の父なのか、
口頭で言った場合はこういうふうにポーズをとったりして、
なんとなくね意味の切れ目を表すことができますけど、
文面で見たときはちょっと曖昧性が生じうるかなといったところですね。
他にも連体説で曖昧性が生じる例として、
太郎が好きな女の子はたくさんいるといった場合、
これも2通りの解釈がありうるんですね。
太郎が好きな女の子。
これはどっちがどっちのことを好きなのか曖昧なんですね。
これは理由がはっきりしていて、
好きっていう、これは好きだだから形容動詞ですね。
これは目的語をとるんですけど、
主語も目的語もがっていうので表されるので、
太郎が好きな女の子といった場合、
この太郎が主語か目的語かわからないんですね。
こういった曖昧性を避ける手段としては、
太郎のことが好きな女の子とか、
太郎を好きな女の子といえば、
太郎が目的語っていうことがはっきりしますね。
今挙げた例は全部連体説っていうか、
体言を修飾するものだったんですけど、
同じような曖昧性っていうのは連用説、
つまり用言にかかる動詞とか形容詞ですね。
そういったものでも見られます。
例えば、太郎はスマホを見ながらパスタを食べている花子に話しかけた。
06:01
これは2通り解釈があるんですね。
スマホを見ているのは果たして太郎なのか花子なのかということです。
もう一回言うと、太郎はスマホを見ながらパスタを食べている花子に話しかけた。
さっきも言ったように口頭だとポーズを置けば何となく意味が切れたりするんですが、
文面だとちょっときついですよね。
このスマホを見ながらっていうのが、
どっちにかかっているかっていうのが曖昧なので、
こういった場合は文を2つに切るとか、
あるいはスマホを見ながらっていうのを前に持ってきて、
スマホを見ながら太郎はパスタを食べている花子に話しかけたといえば、
スマホを見ているのは太郎という解釈になるので、
そういうふうに語順を変えるとかね、いろいろ曖昧性を回避する方法はあります。
似たような例はさっきの岩渕先生の悪文の中でも出てきてて、
彼女は目を輝かせて話し続ける彼を見つめていた。
これは目を輝かせているのは彼女なのか彼なのか曖昧ですね。
こういった曖昧性を解消する方法は、さっき言ったように文を区切ったりとか、
語順を変えてみたりとか、そういったことで対応するといった感じですね。
日本語の特徴として、こういうふうに文を途中で中止するような表現がいっぱいあるんですよね。
さっきのスマホを見ながらとか目を輝かせてとか、
あるいはいわゆる連用形っていうのを使って朝起き歯を磨いたみたいにね。
そういう動詞の、動詞というか述語の中止形っていうのがいっぱいあるので、
文が長くなりがちなんですよね。
そうなってくると就職関係が曖昧になったり、文がねじれてきたりしますね。
なのでわかりやすい表現を目指すんだったら、そのあたりは注意する必要があるかなと思います。
冒頭申し上げました通り、言語学はあんまりそういう、
わかりやすいとかいい表現とか、そういったことには関心はないんですよね。
もちろん実用的な意味で言えば、わかりやすい表現をした方がいいし、
僕自身も、例えばこうやってラジオトークで話している時も、いわゆるわかりやすい表現をしようとしているんですけど、
僕はむしろね、そういう曖昧性というか、解釈の幅みたいなのが言語とか引いては人間の本質だと思うんですよね。
まあ一種の表現の幅みたいなものですよね。
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例えばね、三月記っていう中島敦の短編がありますよね。
みなさん多分高校でやったと思うんですけど、その最後の一文が、これも長い一文になってて、
虎は既に白く光を失った月を仰いで、二世三世咆哮したかと思うと、また元の草むらに踊り入って再びその姿を見なかった。
とまあこうなっているんですが、これは文がちょっとねじれてるんですね。
虎はで始まって、月を仰いでとか咆哮したとかこう主語として文が展開していくんですけど、最後はなぜかその姿を見なかったとなっているんですね。
その姿を見せなかったなら、まあなんていうかな、ねじれてないんですけど、姿を見なかったとなると、まあいわゆるおかしな表現ということになっています。
実際謝りではないか、誤字ではないかっていう説もあるんですけど、
でもそういった表現が許されるっていうか、そういった表現があるということがある意味日本語の特徴なんではないかなと思います。
というわけで今回のトークは、わかりやすい表現とは何かっていうのをちょっと考えてみました。最後まで聞いてくださってありがとうございました。
ではまた次回のトークでお会いいたしましょう。ごきげんよう。
10:35

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