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始まりました、志賀十五の壺。
皆さん、風邪をひかず健康でいらっしゃるでしょうか。志賀十五です。
まあ、風邪ひいちゃってる方はね、お大事になさってください。
で、今回もお便りにお答えするっていうことで、2つお答えできるかなと思います。
まず最初のお便りは、マシュマロでいただきました。
マシュマロっていうサービスがあって、そちらも一応質問の受付で使ってるんですよね。
ラジオトークのアプリでも質問を送れますけど、マシュマロでもどちらでも構いませんのでね。
こちらは匿名の方です。質問失礼します。
大阪弁は同じ音を発音しても標準語に比べ濁っているように聞こえるのですが、
発音に違いとかがあるのでしょうかというご質問をいただきました。
匿名さんどうもありがとうございます。
これはどうですかね。濁ってるっていうのが何を指してるのかっていうのがちょっと難しいところですけど、
なんかしゃがれ声とかそういうことなのか、あるいは声音濁音みたいに、つまりか聞く血行に対してガギグゲ語みたいな、
そういう意味で濁ってるっていうことなのかちょっとわからないですが、
しゃがれ声みたいなのはこれ方言に関係ないですからね。個人差によるものですから、
別個に考えるとして、そうですね。濁ってるように聞こえる。
ま、しって言うとしたら母音の無声化っていうのが関西方言、近畿方言と言ってもいいですけど、
関西方言では起こりづらいんですよね。
なのでたぶんそのことが関係してるんじゃないかなと思うので、
今日は母音の無声化についてお話ししようと思います。
これはね、過去のトークでも話しているので、なんか滑舌がどうとかっていうトークタイトルだったと思うので、
ちょっとそちら探してリンクも貼っておくので、こちら聞き終わった後、さらに興味のある方は聞いていただけたらと思います。
母音の無声化っていうのは何かというと、まず日本語には無声音と有声音っていうのがあって、
これは声帯が震えるか震えないかの区別なんですね。
アルファベットで書くと、kとかsとかtとかいったものが無声音にあたって、
有声音っていうのはgとかzとかdとか、あるいは母音とかも有声音になります。
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分かりやすいのは、静かにしてっていうときのしーっていうときは、
これご自身で喉に手を当てていただくと分かるんですが、声帯が震えてないので無声音なんですよね。
これに声帯の震えが伴うと、しーっていう音になって、こちら有声音ということになります。
いわゆる共通語、標準的な日本語においては、この無声音で挟まれた母音っていうのが無声化あるいは脱落することがあります。
オセロみたいな感じで、無声音を無声音で挟んじゃったら、間に挟まれた母音も無声音になっちゃう、吊られちゃうみたいな感じなんですけど、
例えば、草とかね。草のうの母音をこうやって有声音で言わずに、草といったり、靴とかね。
靴に対して母音が無声化したもの、靴といったり、あるいは服といったり、服に対して服といったりね。こういう無声化が起こるんですよね。
あるいは、無声音に挟まれているわけではないですが、ですとかますのこのすっていうのは普通、母音を伴わずです、ますと共通語では言うんですよね。
関西方言はこういった母音の無声化が起こらない方言だと言われているので、今で言った例で言うと、アクセントも多分変わるんですよね。間違ってたらすみませんね。
草とか服とか靴っていう風に母音をきちんと発音します。このしますとかいうのも発音しますみたいにうっていうのをきちんと言ったり、
何たらかんたらですっていう風にうっていうのをね、すの後の母音をきちんと発音する方言なんですよね。
ひょっとするとね、こういうことが原因で濁っているように聞こえるのかもしれません。濁っているというか、有声音が共通語に比べて多いっていうのが、濁っているという印象を与えているのかもしれません。
ちょっとお答えになってないかもしれませんが、この話が参考になればと思います。
続きましてのお便りは、ちかてつじゅうごうせんさんからいただきました。
しがさん、こんにちは。シャープ149で日本語の動詞にはV手の形が多いとおっしゃっていましたが、そもそもどうしてこんなにV手の形が多いのでしょうか。トークで取り上げていただけると嬉しいです。ということです。
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ちかてつじゅうごうせんさん、どうもお便りありがとうございます。シャープ149は、なんだろう、日本語教育の話かなと思いますね。
連用形と言われているものに二つ、日本語教育では名称を与えていて、例えば、書くという動詞に対し、連用形は書きで我々は思っていますが、日本語教育だとます形というのが書きで、ますというのが後に続くからですが、て形というのが書いてとなります。
音が音便で変わっちゃうから、こういう区別を設けているんですよね。
日本語教育においてこの書いてみたいなて形と言われるものは非常に重要だという話をおそらくしたんだと思うんですよ。
で、なんで大事かというと、このてっていうのが非常にいろんなところで使われているからということで、今回のお便りはなんでそういう形が多いかということですね。
一言で言うと、〜しての後の動詞がかなり文法的な役割を担うからなんですよ。
例えば、食べてみるといったときに、この見るっていうのは実際に視覚として捉えるっていう語彙的な意味での見るではないですよね。
まあトライしてみるみたいな意味になってます。
で、ある意味でそのての後の動詞が、まあ抽象的な文法的な役割を担っていることを示すためにこのてっていうのが使われているんだと思うんですよ。
全然今のは説明になってなかった気がしますが、他にも食べているといった場合も、いるっていうのはもともと存在するっていうことですが、この例ではそういった意味ではなく、信仰みたいな意味になってますよね。
まあ探せばこういうのは山ほどあります。
食べてもらうといった場合は、物理的に何かをもらうというよりは、その恩恵をこむるみたいな抽象度の高い文法的な意味を表しています。
なので日本語でこのてが多いのは、そういった様々な意味を表すのに動詞を使うんですが、その補助的な動詞であるということを示すために手でつないでるみたいな感じなんですよね。
例えばね、複合動詞って言って単に動詞をつなげただけだと、覗き見るとか殴り倒すとかいった場合は、後ろの見るとか倒すっていうのは全然抽象度が高い文法的だっていうことではないですよね。
語彙的な意味をちゃんと残しています。
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それに対して、覗き見るに対して覗いてみるの方は、もう見るが文法化してしまってるっていうのが比べてみるとよくわかると思うんですよね。
でね、これは時代としては鎌倉室町あたりの日本語でどんどん出てきたらしいんですよね。
これは助動詞をだんだん使わなくなるのに従って、この手プラス動詞っていうのが増えてきたらしいです。
今残ってる助動詞で言うと、食べられるとか食べさせるみたいな、られるさせるみたいなのは残ってますが、おそらく他にもあったんでしょう。
そういうのが消滅していく中で、それを補う形で何々してみるとか、何々しているっていう手を使った新しい表現が出てきたということです。
なので繰り返しになりますが、この手っていう形を使うと後ろの動詞は補助的な、抽象的な、文法的な機能になっている。
そういった動詞が現れるというかね、そういうことなんですよね。
世界の様々な言語でこの手形にあたるようなものはあったりするんですが、今回は時間の都合上日本語の話だけということにしたいと思います。
というわけで今回は2通のお便り、全く違うテーマでしたけどお答えいたしました。
それではまた次回お会いしましょう。風邪ひきませんように。ではごきげんよう。